第二章 眠れる僕の行方(その2)

 友人二人が帰ったあとも、誰かしら僕の病室には人がいた。

 叔母さん。看護師。白衣の医者。最初の二人以外の、大学の友人。てまりが広めているのか? あまり大事おおごとにはしてほしくない。


 ようやくの機会が訪れたのは、その日の夜になってからのことだ。叔母の姿が病室から消える。今日は家に帰って寝るのか、それとも着替えか何かのために一時帰宅しただけかは定かではないが、チャンスには違いない。

 リネン室を出て病室に向かっていたところで、ふと殺子が僕の袖を引いた。


「ちょっと待って。さすがに少しくらいはエネルギーを補給しておくべきだと思うの。あそこの自販機コーナーで何か買ってくるから、誰か来ないか見ていて」

「一理ある。手早くよろしく」


 奥まった給湯室的な場所の近くにある自販機コーナーに殺子が向かい、僕は周囲を警戒。見舞客がうろうろしていい時間帯はとうに過ぎている。殺子はすぐにコーンスープの缶を持って戻ってきた。プルタブの開いたそれを甲斐甲斐かいがいしく両手で差し出してくる。


「はいお兄ちゃん、あーん」

「難易度が高い」


 殺子は口を尖らせ、普通に僕に缶を渡した。


「せっかくその顔なんだから懐かしさに浸らせてくれてもいいじゃない。……まあいいわ、最後のとんとんで勘弁してあげる」

「何ソレ」

「やればわかるわよ」

「君は?」

「普通にリンゴジュースを買ってきたわ」


 僕もそっち系でよかったんだけど。

 しかし甘い匂いに誘われて僕がそのスープを最後まで飲み干すと、缶をセットしたまま待て、と殺子の指示。僕が無意味に缶を天井に向けて傾けていると、彼女は人指し指をその缶の後ろに伸ばし、幼児の遊びのようなリズムで「とーんとーん」と言いながら軽く叩いた。

 ああ、うん、底のコーンが。むぐむぐ。


「お兄ちゃんが缶のコーンスープを飲むときには、私が飲ませてあげて、最後にこうやってとんとんして……で、こう聞くのがお約束なの。それが一番お兄ちゃんが喜ぶパターンだったわ」


 殺子が嬉しそうに僕の顔を覗くようにして言った。

 どんな台詞だったかはあえて記憶に留めないでおく。びっくりするくらい下品でくだらない台詞だったとだけ言っておこう。


 数分後。

 病室のベッドで眠っている僕の顔を、僕は横から見下ろしている。


「それで、何かアイデアは思いついた?」

「正直に言えば、思いついた」


 これだけ時間があったのだ。ただ自分の身体を観察しただけでは終われない。

 重要なのは、僕がこうなってしまった原因である体質――〝隣死体験〟の根本が、どこにあるのかということだ。

 精神か、肉体か。どちらに起因している?

 僕はおそらく精神だと感じている。実際に殺されかけの被害者に移動するのは僕の意識だからだ。ならばその性質は、きっと今は『この僕』が持っている。これまで何回か眠ったときにそれが起きなかったのは偶然。

 逆に言えば、今の状況でも〝隣死体験〟は起こりうるかもしれない。

 とすると、未来に可能性が見えてくる。


 今度は全てを逆に行うのだ。


 つまりこの『お兄ちゃんの身体に入った僕』が寝ている間に、誰かに『僕の身体』を殺しかけてもらって、そこに〝隣死体験〟を起こす。あとは意識が移動した瞬間に殺害を一時停止してキャンセル、あとは蘇生させてもらえれば元に戻って一件落着、と。

 わかっている。問題だらけだ。理論的には正しそうでもリスクが高すぎる。

 うまく僕の身体に飛べるかどうかわからないし(そもそも狙って誰かの身体に飛んだことなどない)、殺害が止められないかもしれないし、蘇生が間に合わずそのまま死んでしまうかもしれない。

 殺子にすぐ説明しなかったのは、それらのマイナス面が理由だ。

 しかし僕がもったいぶった意味はなかったらしい。


「奇遇ね。実は私も思いついたの。逆をやればいいんじゃない?」

「なんだ。僕の考えと一緒みたいだな。だったら――」


 言葉を止める。嫌な予感。彼女も同じ解決策を思いついたということは、つまりどういうことか。僕がもったいぶったような理由を、この女は気にするだろうか。

 ――するわけがない。であれば、次の行動は?


「ところで、さっきのコーンスープのくだり、不自然だと思わなかった? さっきのスープにはこんなこともあろうかと家から持ってきてた睡眠薬を入れておいたの」

「は?」


 言われてみれば頭がふわふわとしてきた気がする。彼女が用法と用量を守ったわけがない。速効性が出るくらいの量……味が濃いコーンスープというセレクション……最後のとんとんも、底に沈んだ薬成分を余さず摂取させるために……


「ちなみに、とんとんとか飲み方とかは本当にお兄ちゃんとやっていたことよ」


 あ、そう。

 駄目だ。身体に力が入らない。気持ちも悪くなってきた。まぶたが重い。

 僕は病室の床に崩れ落ちた。最後の気力を振り絞って、口だけを動かす。


「待て……危ない。準備も、してない、のに。死んだら、取り返しが……」


 それ以上に、本当にわかってるのか。

 僕の予測は、あくまで僕の精神がどうなるかの話であって。

 上手くいったところで、君のお兄ちゃんがこの身体に帰ってくる保証はないんだぞ。


「大丈夫。なせばなるわ」


 返答は、力強い無根拠な精神論。

 僕が最後に見たのは、ベッドの上に馬乗りになり、僕の首を絞めるべく手をわきわきさせている殺子の姿だった。

 駄目だ。殺される。

 頼む、逃げてくれ、僕の身体――


 暗転。


         †


 うえおぽぽっ。


 覚醒はそんな異音と、喉奥から何かが引っこ抜かれる感覚と共に。

 つまり寝ゲロと共に起きた。

 酸っぱい異臭が鼻先にある。最悪だ。胃液混じりの呼吸で酸素を求めた。

 指、動く。手、動く。腕……順繰りに身体の操縦権を獲得。横向きになっていた首を懸命に回し、天井と思しき方向に顔を向ける。


 視界の端にベッド。その上にいる女がこちらを見ているのがわかる。身体の下にある何かの首を、両手でギリギリと締め付けながら――


「待……やめ、ろ。それは、ぼくの……」


 返答は舌打ちと溜め息だった。

 医療用ベッドがぎしりと軋み、病人衣を着た僕の身体が扼殺やくさつから解放される。

 殺子は膝を支点に馬乗り体勢からさらにあちらの僕をまたぎ越え、そのままベッドの端に腰掛けるようにした。足を組んで、セーラー服のスカートから伸びる白い脚をぶらぶらと揺らす。上下に組み合わされた太股。

 まさに失望した女王、暴君のように、その瞳は冷ややかだった。


「駄目だったわね」

「そう、みたい、だな……」


 頭が痛いし重い。が、次第に五感がはっきりしてきた。用量・用法無視の睡眠薬の副作用が寝ゲロ程度で幸運だったと思っておくべきだろうか。


「うーん。殺し方が足りなかったのかしら? 無意識に手加減しちゃったというか……やっぱりお兄ちゃんの意識が入っていると考えると、なかなか難しいわね」

「最初は手加減なく首締めてただろ」

「あのときはお兄ちゃんが起きてたからよ。お兄ちゃんが寝ている状態で殺しちゃったりしたら、お兄ちゃんに萌えてもらえないじゃない」


 ふう、ともう一度溜め息。


「お兄ちゃんの意識は出てきてくれないし、この貧相な顔も身体もお兄ちゃんじゃないし。お兄ちゃん要素のあまりの低さに私のテンションは最悪よ」

「貧相で申し訳ないね……」


 僕は懸命に上半身を起こした。

 ベッドの上、未だ眠り姫たる僕の身体を見やる。


 なぜ〝隣死体験〟が起きなかったのか。殺子の殺しっぷりが足りなかったのか。薬物で強制的に眠っているときには駄目なのか。

 あるいは、やはりこの身体では〝隣死体験〟は発生しないのか?


 わからない。情報が手探りすぎる。

 殺子の短絡的な行為を肯定はできないものの、実際やってみる以外に手がなかったのも確かではあった。誰も僕たちの状況を教えてはくれないし、僕の体質に関わる理屈をレポートにまとめてくれたりもしない。


 こんな場当たり的で危険な思いつきを、機を見て行い続ける――元に戻るまで。あるいは取り返しのつかないことが起こって、全てがおしまいになるまで。

 それだけが、僕たちに行える事態解決のアクションだというのか。


 視界に黒い緞帳どんちょうが下りているような気がした。見えているはずの僕の顔がよく見えない。僕。誰か。僕のはずだ。手を触れれば弾けてしまいそうな作り物の存在感。

 ああ、僕は、僕は、どこにいる――?


「……今日はこのあたりにしておきましょうか。あまりお兄ちゃんの身体に負担をかけるのもよくないわ。あなたの叔母さんがいつ帰ってくるかもわからないし」


 殺子は足を組んだまま、じっと僕を見ていた。


「入院してる以上、こちらの身体はそう簡単には動かないでしょう。焦ることはないわ」


 声は静かで、目は揺れない。それはひょっとしたら、様子のおかしくなった僕を気遣って発された言葉なのかもしれなかったが。

 僕は本当に、ただひたすらに、目を閉じて眠りたいとだけ思っていた。


 ――数時間後、僕は望んだ眠りの中にいる。

 今だけは答えなんて億劫なものはいらない。ただ思考の空白さえあればいい。

 薬の余韻と拘束の不自由とお手軽な殺意に取り囲まれた、安寧の一時。

 けれど。

 全てを放り出したときに限って、新しい展開は降ってくるものだ。


〝隣死体験〟が起こったのだ。


         †


(……!)


 穏やかな眠りは。眠りはどこにいった?

 意識の目覚めと同時に混乱する。いつもそうだが今回は特に。

 猿ぐつわを噛まされているようで息苦しい、叫べない、涎臭い。息苦しいのはそのせいばかりでもなさそうだ。首自体を強烈に取り巻いている何かがある。それが気管と頸椎けいついを圧迫している。直接の死因はこれらしい。そして直接ではない死因も異様に多かった。


 なんだこれ、と僕は殺されながらの一瞬の中に思う。それほどまでに奇妙な状態だった。


 簡単に言えば、僕は強制的に立たせられた状態で、大きな機械的装置……磔台はりつけだいのようなものに組み込まれている。僕の身体の中で動くのは両手の僅かな部分だけで、それ以外は強く固定されていたが、目だけでなんとか装置の全体像は把握できた。被害者じぶんが下着姿の女性であることも。


 まず下半身に注目しよう。人生で初めて体験するような複雑な痛みが間断なくそこから発生している。軽く開いて立たせられた両足は、素足の太股ふとももの半ばほどの位置、そこから下が真っ赤に染まっていた。なぜか?

 林檎の自動皮むき器のような刃つきの機構が両脚それぞれを取り巻くように設置されており、それが脚を軸に螺旋回転しながら緩慢に下りていっているのだ。まさしくそれは皮むき器、『太股から下の脚の皮全部剥いちゃうぞ器』だ。回転系の異音がしている理由の一つ。

 ぞりぞりぞり。むりむりむり。麻酔もなしに皮が剥かれる痛みがこれだ。裂かれてえぐられて剥がされる痛みがこれだ。人体を守ってくれていた皮膚という防護膜が失われ、空気に触れる背徳。気が狂いそうだ。脚ががくがくと痙攣けいれんしているが固定されているため倒れることもできない。


 一方、上半身。メインディッシュは先程からも感じている首だ。首の周りにも回転機構があるが、太股のよりは回転直径が大きい。僕の頭を太陽とした真円の公転軌道を描くように、何かがゆったりと周囲を回転している。そこからは派手な色の布らしきものが伸び、僕の首と繋がっている。すなわち公転軌道を描くたびにその何かが僕の首に巻きつき、絞めていく。回転速度は違うもののリズムが合っており、脚の皮剥ぎ機構とこの首巻き機構は連動しているのではないかと思えた。既にその派手な布は幾重にも僕の首を取り巻き圧迫感を与えて頸椎を折って呼吸を困難にしていて、つまりこれが『この彼女』がどこかに旅立った直接の死因だろう。


 肉体が本当に死んでしまうまでの、魂の隙間が生まれた一瞬が、今。

 そこに僕がいる。

 何のためか。どういう理屈か。


 知ったことか。


 刺殺扼殺撲殺溺殺、いろいろ体験してきた僕であっても、こんな殺人装置にかけられたのは始めてだ。普段は一瞬で僕も死んでしまい元の身体に戻ることもあるが、今は比較的思考の猶予があるように思える。癖で、僕は周囲をさらに観察していた。


 周囲は薄暗い。おそらく部屋だ。雑然としていて、これと同じような怪しげな装置が多く並んでいる……気がする。

 脚が剥かれる痛み。空気に触れるだけで絶叫が涎まみれの猿ぐつわに吸い取られる。太股から上は普段通りの肌なのに、そこから下だけが赤いストッキングを穿いているように悲惨だ。


 いや――ニーソックス、か?


 下半身の仕掛けと上半身の仕掛けが、その単語で繋がった。

 頭がくらりとするほど馬鹿馬鹿しいが、そうらしい。


 


 頭の周囲を回転している機構の根元をよく見ると、それはニーソックスを穿かされたマネキンの脚であるとわかる。伸縮性のある布地が足の先端部からぐいんと伸ばされ、それが僕の首に巻き付き、留まることなく緩慢に僕を殺し続けているのだ。何。何なんだ。何だこれ。


 本能的に、僕は唯一動く手を自分の喉に持っていこうとする。だが途中で何かにぶつかった。首から下がアクリル板かガラス板か、とにかく透明の何かで仕切られている。では下半身は? 適当に腕を動かすと手にも鋭い痛みが走った。


 そこで僕ははりつけ機構の胴体部分にある凶器にも気付く。身体の両脇には、草刈り機じみた円形のノコギリが固定されて鋭く回転していた。手が触れて斬れるまで気付かなかったのは、それが僕の身体に届いていなかったからだ。歯医者さんが使う器具じみた曲がったアームのようなもので支えられていて、それを引き寄せれば容易に僕の肉にノコギリが食い込むだろうと推測できる。角度と長さ的にはそれも下半身目掛けてのもの、太股あたりに食い込みかねないものだ。今届いていないのは何かのミスか、善意か?


 でも適当に手を動かして触ってしまったため小指が斬れて飛んでしまった。見える位置の床にぽとりと落ちたのでわかった。もう色々苦しすぎてその痛みにも気付かなくていや遅れてやってきて痛い痛い指! 骨!

 両脇の回転ノコギリが間違っても進行を始めないように、そもそも届いていないアームを痙攣する手で押し止めるように握る。意味はないがそうせざるを得ない。距離を離せれば心の安心は増えようが、そちらの方向にはぴくりとも動かなかった。逆に身体に近付く方向には動きそうだが、さらに自分に痛みを与えてどうする。


 足の皮剥きと、連動した首締めニーソックス器の動きは止まらない。太股以下の激痛、喉の鈍痛。頭の神経が弾けて焼き切れそうだ。こんな情報量の多い死があるか。

 本当に死ねば終わるのに、緩慢に、まさに機械的にそれが積み重なるだけで、救いは遠い。なんて長い末期の一瞬。脳がバグってそう思えているだけかもしれないが関係はない。いつになく苦しい、逃げたい、もう止めてくれ。


 涙で滲む視界にが捉えられたのは奇跡だった。


 頭の横。

 今まで気付かなかったが、僕の頭と胴体を遮っている透明の板、透明晒し首台のようになっているその部分から、コードに繋がれたプレートのようなものが手の届く位置に垂れ下がっているのがわかった。それには何かが印字されている。文字の向きからして、この装置の主役である人間――つまり不運な彼女に読ませるためのものであるのは間違いない。その内容は。


』?


 どういう意味だ?

 というか萌えだなんて古臭い言葉にまた触れるなんて。最近はどうなっている。


 そんなことよりも。


 僕は本能的に手を動かしていた。腰横のノコギリから手を離すのは不安だが仕方がない。それはプレートではなく、きっと、リモコンだ。コードの先は、どうやら、この磔装置の根幹部分に繋がっているようだ。ならば――


 痙攣する肉を必死に制御し、小指のない手でリモコンに触れる。さっきの文字が見えていた面を裏返すと、そこには別の文字と、そして一つの大きなボタンがあった。書かれている文章は、


『ニーソックスを一気に脱ぐボタン(順番に注意!)』


 何? 順番? 何の話? ニーソックスを、脱ぐ、ああ、今も首をぐるぐると締め続けている、多分もう一回転か半回転でもしたら確実に首の骨が全破砕して死んでしまう苦しい苦しい首の装置のボタンなのかだって首を絞めているのはマネキンの足から伸びたニーソックスなのだ押せばこの苦しみが終わるのだとしたら僕が僕で彼女なのかもしれないけれど身体が生きることを求めているから――


 押した。


 考える僕の意識ではなく身体が押した。

 生を求めて。

 苦しみの終わりを求めて。


 下半身のほうで動作音のリズムが変わった。もう足首近くまで螺旋状に皮膚をいでいた足の皮剥き器の刃が肉から離れ、ああ助かっ――

 リセットされたかのように、その刃は太股ふともものあたりの初期位置に戻る。

 そして、皮膚どころではなく太股の中心部目掛けて手加減無くその刃を突き込んだ。

 今までとは別の動きのパターン、単純なる前後運動で、ぎこぎこぎこ。

 初期位置から太股を切断にかかる。


 あああああああああああああああああ!

 なんでなんでどうしてどうして違う話が違う!


 僕の目論見はまったくもって理不尽に崩されたが、求めていたものの少なくとも一つは手に入った。


 ごきり。


 巻きつけられたニーソックスの圧力に耐えきれず、首の奥底で異音が響き、僕という存在の中で致命的な繋がりが切断される。

 これで、苦しみからは――解放だ。


 最後の視界では。

 太股から完全に切り離された脚が二本、装置から解放されて床に倒れていた。


 真っ赤なニーソックスを脱ぎ捨てたように。


         †


「っ、ごほっ……!」


 せながら目覚める。

 反射的に喉を手でさすろうとして、手が動かないことにぞっとしたが、それは単に、寝る前に殺子がどこからか取り出した謎ワイヤーでまたベッドに縛りつけられていたからだった。


 昨晩の宿として選んだのは、ほとんど病院の正面に建っているような位置にあるシティホテルだ。これからも病院を中心として動くことになるだろうし、というのが理由である。とにかく眠りたい僕に異論はなかった。


「お兄ちゃん?」


 窓際に立ち、カーテンの隙間から外を見やっていた殺子が言ってくる。


「……残念ながら、僕だよ」

「それは本当に残念ね」


 殺子はすぐに視線を外に戻した。おそらくは、そこから見える病院のほうに。僕が眠っている病室は見えないはずだが、入り口付近の敷地は観察できるはずだった。

 その様子に僕は違和感を覚え、からからの喉で、


「何か……あったのか?」

「かも、しれないわ。病院のほうが少し騒がしい気がするの」


         †


 朝の病院は、確かに奇妙な空気が流れている感じがした。

 表立っての事件ではない。訪れた外来患者たちは何も気付いていない。

 しかし、どことなく病院内部の雰囲気がざわついている。医師や看護師たちの中にのみ気がかりな『何か』がある。そんな気がした。

 注意しながら二人で僕の病室に向かっていると、ばたばたと小走りに廊下を進む女の看護師と出会った。昨日、隠れ場所のリネン室で殺子が可愛がってあげた(婉曲表現)お団子頭の彼女だ。


「……ひっ?」

「丁度よかったわ」


 殺子はにこりと微笑み、彼女の手を掴んで人気のない階段のほうに連れていった。


「病院で何か普通じゃない出来事があった? だからドタバタしているのでしょう? 悪いようにはしないから言いなさい」

「え、いいえ、あの、でも……」

「小指って折れても仕事はできるものなのかしら」


 殺子が彼女の小指を優しく握り込むと、彼女は半泣きの声で言った。


「その、患者さんが、一人……病室からいなくなってしまったんです。最近入院された方で、ずっと眠ってたのに、昨晩いなくなって……さっきまで付き添いのお母様、じゃない、叔母様という方が、半狂乱みたいになって病院中を探し回ってて! 私たちも勿論探したんですけど、どこにもいなくて、まだ見つかってなくて――」


 言うまでもなく。

 聞き出したその患者の名は、僕がこの世の誰よりも長く付き合っているものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る