第二章 眠れる僕の行方(その1)
僕がいない。
今朝まで確かにこの部屋で眠っていたはずの僕の身体が、どこにもない。
殺子がグワッと僕を睨んできた。
「お兄ちゃんの身体をどこにやったの!?」
「知るわけない! あと『僕の』身体だからな、間違いなく!」
何にしても調べなくては。二人して部屋に入る。率先して殺子が動いた。
特に整えられているわけでも、たった今抜け出したばかりというように乱れているわけでもない、ただ誰もいないだけのベッドにダイブ、そしてスーハー。
「くんくん……お兄ちゃんの匂い、しないわ……ぬくもりも……時間経ってる……?」
「そりゃそうだ。するとしたら僕の匂いと温もりだろ」
「何をのんびりと。あなたも探しなさい」
鼻を押しつけていた枕から顔を上げ、きっと殺子が睨んでくる。
僕だって探したい。ただ、少し頭がクラクラしているだけだ。いると思った自分がいないのは、唯一の拠り所にしていた自分の身体が見えなくなったというのは、なかなか精神にダメージが来るものだった。
実のところは、今に限った話ではない。
それはふとしたときに襲いかかってきていた。
自分が自分ではないという現実は僕の
今までだって、ふと指の形を見たときに、ふと自分の声を意識したときに、吐き気を伴う暗い霧がぼんやりと頭を包んできた。動悸を激しくさせてきた。なんとか鈍感力を発揮して無視してきただけだ。
ああ、だから、今もそうさせてくれ。
――深呼吸。すべきことをしろ。
何か僕の行方のヒントがないか、部屋を調べてみることにした。
ざっと見る限り、異常はない。増えたものも減っているものもない。いや――タンスを開けて中を見たときだけ、少し違和感があった。
「ちょっと。お兄ちゃんが鼻を突っ込んでいい下着は私のものだけよ」
「突っ込むわけないだろ……気になることがある。他の場所を探そう」
「どこかに隠れているかもしれないものね」
家の中は静まり返っていた。いるのだとしたら完全に息を殺していることになる。二階の他の部屋、物置部屋、書庫……押し入れを含めて一応調べてみたが、誰もいない。一階へ――と思ったが、ついでに階段をそのままもう一つ下り、先に地下のアトリエを見てみた。おかしな彫像やら大きなイーゼルやらが立ち並び、かくれんぼには最適な場所。しかしそこにも誰もいない。
「おかしい。絶対におかしいわ。お兄ちゃんが起きたなら、電話の一つくらいは私にかけてくれるはず。だってお兄ちゃんだもの」
「それには異論ない。そうじゃないってんなら別パターンなんだろ」
最後に一階を調べる。リビング。キッチン。叔母の部屋。応接室。トイレに風呂場――実のところ、そこに隣接する脱衣所が本命だった。
「やっぱり」
「何が?」
「昨日着てたパジャマがどこにも残ってない。洗濯機にも入ってない。で、タンスにあった僕の服が何種類か消えてるってことは……パジャマを着たまま着替えを持ってどこかに行ったか、あるいは行かされたか」
「どこかにって、どこよ」
僕は嘆息した。状況的には自明の理だ。
「多分、病院だろ。いつまでも起きない僕の身体の異常に叔母さんが気付いて、救急車を呼んだか病院に連れて行ったかしたんたと思う。……入院したのかな? ああ、ここに置いてあったお泊まり用の歯磨きセットもなくなってるし、ほぼ間違いない。診察を受けてから、一旦家に戻って服とか色々持っていったんだろう」
「私に断りなく!?」
「そりゃそうだろ、なんでビックリしてんだよ」
「お兄ちゃんがあの身体の中で寝ている可能性は高いんだから、実質お兄ちゃんで、つまり基本的に私のものでしょう」
本気で思っていそうなところが殺子の凄さである。ジャイアンぐらいしか正面から殴り合えまい。
ともあれ――彼女に電話が来ないのも当然。まだ目覚めていないというだけだ。目覚めていない身体だって、誰かの手が加われば動くことはある。
「まあいいわ。そうとわかったらさっさと追うわよ」
「どの病院に行ったのかわかればそうするけど」
「わからないの?」
「今のところはね」
「じゃあ、さっさとわかるようになって」
助けてくれジャイアン。
†
苦闘すること数時間。叔母の車をその病院の駐車場で見つけたのは、夜が明けてさらにしばらく経った頃合いだった。
家の電話から病院に連絡した、とかであれば履歴から辿れたかもしれなかったが、そうしたにしろ救急車を呼んだにしろ、叔母は自分の携帯を使ったらしい。
となると、足で探すしかなかった。
眠ったきり目を覚まさない誰かが入院できるような周辺の病院を殺子のスマホで調べてもらい、近いところから手当たり次第に捜索していった結果がこれだ。叔母の車が特徴的なアメ車であることをこんなに幸運に思ったことはない。駐車場をチェックすればそれで済む。
とはいえ調べたい病院同士が隣接しているわけもなく、移動時間などもあって思ったより時間がかかってしまった。スタートが深夜だったので足にしたいタクシーも捕まらなかったのである。前日にたっぷり12時間寝ていなければまた殺子は道端で寝落ちしていたかもしれない。
疲労感はあったが、同じように達成感もある。
街の中心地からほどよく離れた場所にある大型の総合病院だ。
ちょうど診療時間が始まったばかりらしく、朝一の診療を求める患者たちがぞろぞろと中に入っていく。それに混じって僕たちも自動ドアをくぐった。
入院患者がいそうな棟にあたりをつけ、そのナースステーションで、
「時波遥という子がここに入院してるはずなんですが」
「失礼ですが、ご関係は?」
「……親族です」
頭の中が本人というのも親族のうちだろう。嘘は言っていない。
叔母も来ていると思います、という駄目押しの一言で信頼を得て、首尾良く病室の場所を聞き出すことに成功した。プライバシー管理の厳しい病院ではこう簡単にはいかないだろうが、ラッキーだ。
そうして病室の前に辿り着き、
「ここね」
「待て待て」
ノータイムで突入しようとした殺子の手を慌てて掴み、そっとドアの隙間から病室を窺う。個室だ。お高いんでしょう? ありがとう叔母さん。
ベッドには――いた。僕だ。目を閉じて眠っている。
その脇には叔母さんもいるようだ。こちらに背を向けて椅子に座り、僕のベッドに額をつけるようにうつ伏せている。付き添っている間に彼女も眠ってしまったのだろう。
その光景に、僕は申し訳ないような、罪悪感のような、生温い居心地の悪さに包まれた距離を覚えた。
「どうするの」
「入れないだろ。いつ看護師とか来るかわからないし、場所を変えよう」
案内板で病院の間取りを調べる。僕の病室は中庭に面していた。ということは?
中庭を迂回するようにして向かいの棟に向かってみると、ちょうどいい場所にリネン室があった。そこに侵入し、折り畳まれたシーツやら何やらが積まれた狭い部屋の中、窓の下側から顔を出すようにして僕の病室を窺った。よし、見える。
「生命維持装置とかに繋がれてる感じはないし……生きてはいるみたいだな」
「そうじゃなきゃ困るわ。縁起でもないこと言わないで」
最初に兄貴を殺そうとしたのは君のはずだが?
「ああやって一般病室にいるんだから、今すぐ危険があるっていう判断もされてないだろう。精密検査は今からかもだけど……とにかく、時間の余裕はまだありそうだ」
「ないわよ。私は一刻も早くお兄ちゃんに会いたいの」
「僕も一刻も早く帰りたいよ」
そうしたいかどうかはともかく、長期戦になるかもという話だ。少なくとも病院にいるのなら不慮の死の危険性からは遠くなっただろう。接触はしにくくなったが仕方ない。となればあとは焦らず、じっくりと今後の方策を――
と思っていたら、速攻でこのリネン室のドアが開いた。
入ってきたのは、お団子のようなヘアースタイルをした若い看護師だ。
「わあ! ……あの、困ります。ここは一般の人は立ち入っちゃ駄目なところなので――」
しまった。面倒なことになるぞ。
と僕が思った瞬間、殺子が余計に事態を面倒にしてくれた。
「黙りなさい」
「ひっ――?」
彼女の首根っこを掴んで、どん、とドアの内側に叩きつけたのである。殺人鬼らしい動きの速さ、手加減のなさ、視線の鋭さ。
おい待て殺すなよ。騒ぎを起こしたら台無しだ。
辛うじてその意志だけは視線で伝えることに成功した。
それをどう受け取ったか、殺子は表情を柔らかくする。首の骨を折らんばかりの体勢は変えないまま。
「告白するわ。今はね、愛し合っている人と逢い引きをしているの」
「う……え……?」
「末期なの。もうすぐ死んでしまうの。人生最後のラブラブなの。ここしか病院内で触れ合える場所はないの。だから邪魔しないで。誰にも迷惑はかけない。あなたにも迷惑はかけない。そうでしょう? あなたが見て見ぬふりさえしてくれれば、私たちは心残りなく最期を迎えられるの。わかった? わかったなら頷きなさい」
苦しそうな涎を零しながら、お団子頭が上下に揺れる。
喉が解放され、へたり込むように彼女は床に尻をついた。
殺子は絶対強者の視線で、有無を言わせぬ捕食者の笑顔で、
「というわけで、私たちのことはいないものとして扱うこと。これからもここを使うかもしれないけれど、当然、ずっとよ」
「で、でも……」
殺子が彼女の手を踏んだ。踏みにじった。
「最期よ。死ぬのよ? 彼との最後の思い出作りをあなたは邪魔しようっていうの? 患者のケアをするのが看護師の仕事じゃなかった?」
「あああ、すみません、すみません……!」
新人っぽい気配のある看護師だった。さらに言えば元々気弱な性格なのだろう。かわいそうなほど肩を縮めて、殺子の圧力に首を上下させるだけの機械と化す。
「わかればいいのよ。謝る必要なんてないわ。さあ、ここに来た用事はきちんと済ませて。何事もなく戻って。お仕事、頑張ってね」
殺子が自分の靴底から彼女の手を優しく解放してやる。看護師は震えながら、シーツの載ったカートを押して外に出て行った。
どれだけ荒唐無稽でも、理由がありさえすれば……ああいう類の人間は、自分を騙すだろう。人のためとか自分は悪くないとか仕方がないとか自分に言い聞かせながら。
悪いとも弱いとも僕はけっして思わない。それが彼女たちの処世術。弱者の選べる生存法だ。特に、ありがたくその生き方の恩恵を受けるしかない立場であれば、見下しも軽蔑もする資格はない。
その代わりに、僕は再び窓下ポジションに戻った殺子に言った。
「逢い引きしてるなんて言っていいのか? 中身は僕だよ」
「誰があなたと逢い引きしてると言ったのかしら。勿論、対象はあっちの身体で眠っているに決まっているお兄ちゃんよ。触れたりキスしたりするだけが逢い引きじゃないの。こうして遠くで見つめていれば、いえ、こうして存在を感じていればそれはもう逢い引きよ。感じるってつまり感じるってことだもの。ああ、お兄ちゃん! 興奮するわ!」
上級者すぎて皮肉とかいろいろ無意味になった。できればスカートの下に手を入れたりとかしないでほしいな。
しかしそこでふと殺子は真顔になり、窓の向こうに向けて顎を動かした。
「そんなことより、新キャラが出ているわ。どうするのよ。責任取りなさい」
「新キャラ?」
見ると、僕の病室に二人の女性が入ってきたところだった。
僕も見覚えのある二人だった。
目元の黒子が印象的な、ふわふわした髪の子。ワイルドではないホットパンツにニーソックスを合わせている。名前は
もう一人、眼鏡をかけた子は
「まぁ……僕の知り合い、だな」
そうとだけ言うと、殺子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「お兄ちゃんの入っているボディに私以外の女の匂いを三人も嗅がせるとか。どうなってるのかしら? 貞操コンプライアンスがなってないわ」
「一人は叔母さんだって」
「だから? 血縁関係だからってラブ欲は生まれるわ」
説得力があるな。
とにかく二人とも顔見知りで友人ではあるが、君の心配するような関係性じゃないとはっきり伝えておく。
「救急車とか呼んだんなら、隣のてまりがそれに気付くことは普通にありうる。それで叔母さんに話を聞いて、って感じか……いや、そもそも一緒に付き添って病院に来て、一旦家に帰ってただけってパターンもあるな。それで、一番仲がよくて、僕と共通の友人でもある軛にも話して一緒にまた見舞いにきたとか」
言いながら、僕は中庭越しに病室の様子を見ていた。
不思議な気分だった。
見知った人たちが、神妙な表情で自分の寝顔を見つめているのを、第三者の視点から眺めている。てまりが僕の手を握り、それを見て鍵姫も別の手を握る。叔母さんは苦しそうに視線を逸らした。
気付けばてまりは泣いていた。長い付き合いでも初めて見るようなその顔。初めて見る表情なのは
そんな視界が存在すること自体が、空々しい。
さっき病室の前で叔母さんが寝ているのを覗いたときと同じような。
いや、それ以上の『遠さ』があった。
距離感だけではない。空気が繋がっていない。隔絶。違うモノだ、という空気。
郷愁にも近い――
僕は心の中で頭を振る。
「見舞いが来たんなら、いよいよしばらくは動きそうにないな」
「じゃあ今のうちに済ませましょう」
殺子が軽くリネン室から出ようとする動き。
「どこに?」
「トイレよ」
「……いってらっしゃい」
振り返った彼女は、当然のことを言わせるなとばかりに目を細めていた。
「何言ってるの? あなたも来るのよ」
『清掃中』の表示札とバケツで必要以上に人の侵入を拒む女子トイレの中である。
個室の一つで、僕は便器になっていた。別に
「前から気になってたけど、このワイヤーってどこから出した?」
「乙女の秘密よ。萌えキャラにはあるでしょう、そういうの」
二次元のお約束を三次元世界に展開しないでもらいたいな。
「さて、尋問をするわ。――あの女たちは何?」
「言ったろ。僕の知り合いだよ」
「それをお兄ちゃんの目で見て、いわくありげな視線を投げかけて、罪じゃないとでも思う? せめてキリキリと白状なさい」
「あっが!」
ぴしりと僕の手が僕の本体になった。全神経がそこに。見ると小さな裁縫用の針が手の甲に刺さっている。というか刺されている。これもどこから出した。
こいつは本気だ。尋問というか拷問する気だ。お兄ちゃんの身体であろうが僕はお兄ちゃんではない。
「っ――わかったわかった。言うよ」
手当たり次第に二人について伝えた。出会ったときのエピソード。高校時代の関係性。大学生になってからの関係性。それぞれの趣味嗜好。てまりは女の子らしい性格で、ファッションに興味があって、恋愛に関しては奥手で浮いた話は聞かない。恋愛小説は好きだが剣豪小説も好き。
鍵姫はとにかく真面目でクールに見えるものの、実は教師たちなど目上の人間たちに対してだけ。実は寂しがり屋なところがある。現実主義者で、見返りがあれば意外となんでも便宜を図ってくれる委員長。クラスではみんなが頼っていた。会ったことはないが、二つ下の弟がいるらしい――
「そんなところかな。わかるだろ? 別に特別な関係はない、誓って」
「色恋沙汰も?」
「ないない。僕、彼女たちと付き合えるようなレベルの人間に見えた?」
「そう言われればそうね」
失礼な納得の気配。まあいいんだけど。
あくまでも客観的な説明が功を奏し(真実なのだから当然だが)、殺子は落ち着いてくれたようだった。だったらいいわ、と拘束を解き始めてくれる。便器からの卒業は近い。
しかし。そもそも。
なんで僕の友人たちの話なんて聞くのか。
この肉体には関係がないことだ。関係があるのは僕の精神だけ。彼女が気にする理由があるとは思えない。この僕の目が見たから、などという理由は、彼女にしても『遠すぎる』気がするのだ。
もし、この行動の理由が嫉妬であるなら。
壊れた彼女の中で、僕とお兄ちゃんの区別がなくなってきているのではないのか?
それは。
それは、とても――
「あ。お兄ちゃんの聖なる血だわ。なんてもったいない」
殺子は僕の手に刺していた針を引き抜くと。
その手の甲に顔を寄せて、濡れた何かをぴちゃぴちゃと慈しむように這わせて、僕に人懐っこい犬との触れ合いを想起させた。
それは、とても。
怖ろしいことだなと思った。
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