第一章 妹属性の殺人鬼(その3)

 しばらく走り続けた後、目立たない細道に入って、少し息を整える。

 胸が苦しい。僕の身体は少なくともスポーツマンタイプではないようだ。

 その妹も同じように喘いでいる。たとえ殺人鬼としての運動神経がよくとも、持久走が得意かどうかはまた別の話なのだろう。額に貼りつく髪がどこか艶めかしい。


「こんなに、頑張って逃げる必要、あった?」

「はぁ……ないと思ってたんなら本当に尊敬する。さすがに警察は呼ばれたと思うぞ。ぶっちゃけ君はただでさえ目立つのに。僕の家に行くまでの間に捕まって連行されたりしたらどうするんだ?」


 殺子は僕のほうを見ないまま口を尖らせた。


「あんなの、日常的なちょっとしたトラブルじゃない。警察にはもっと重要な事件を追ってほしいわ」


 自分の非を誤魔化すためにそう言っているだけかもしれなかったが、兄妹には本当にああいうのが日常的だった可能性もある。よく今まで捕まらなかったな。

 いや、彼女が真実の殺人鬼であったのならば――日本の警察は優秀だ。時間の問題だとは思うが。

 僕の視線をどう解釈したか、殺子は軽く頭を振って、


「……仕方ないわね。少し寄り道しましょう。お兄ちゃんとの再会を邪魔されたくないし、丁度いいと言えば丁度いいし」


 見知った場所なのか、殺子は元の道に戻ることなく、細道をそのまま進み始めた。とりあえず僕も後を追うしかない。


 ほどなくして辿り着いたのは一軒の小さな店舗だった。

 看板には『本・DVD 諌山書店』とある。24時間営業らしく、この朝でもシャッターは開いている。店構えは怪しげだった。少なくとも絵本を捜す家族連れなら絶対に入らないタイプの書店だ。入り口のガラス戸からは、店内の奥の壁にベタベタと貼られているアダルトビデオのポスターが見える。つまりはそういう……特定の肌色の多いものをよく売っていますよ、系の店らしかった。

 こんな店に何の用事があるのか。殺子は物怖じせず店に入っていった。

 黒髪セーラー服美少女を迎える、黒髪セーラー服女優が演じている作品のポスター。犯罪的で教育に悪い。しかし殺人鬼ほど犯罪的で教育に悪いものもないだろうからおあいこだろう。


「いらっしゃ……なんだ、君たちか。こんな時間に珍しいね」


 狭いカウンターの向こうでスマホを弄っていた店員が、殺子を見て言った。こんな店の人間とは思えないほどにイケメンの、爽やかな印象の男だ。顔見知りなのか。


「おはよう、店長」

「こないだの口枷の調子はどう? オススメした手前、満足度も調べとかないとだからね。呼吸しやすかったでしょ」

「ええ、グッドよ。よだれの出方もちょうどよかったって」


 それどころか常連客のようだった。一緒にいる僕に対しても店長は当然の受け入れ気配だから、兄妹セットでお世話になっているということか。二人の話の内容、そして店内を軽く見る限り、本や映像作品だけでなく、ここではヌルヌルするヤツとかシリコン製のブツとか電池で動くオモチャとかのグッズも取り扱っているらしい。


「で、今日は何か探してる?」

「そうね。衣装をいくつか」

「お。あるよ、いろいろあるよ。どれにする?」

「とりあえず色々選びたいわね。……奥の試着室を使わせてもらっても?」

「いいとも」


 店内の一角には、コスプレ用の衣装らしきものが並んでいた。近くの壁には様々な小道具もある。殺子はそこから適当に選んだものをどっさりとカゴに放り込み、店の奥に歩を進めた。そこにあったのは、カーテンで仕切られた、まさしく衣料品店のような試着室。鏡があり、ハンガーがあり、隅には小さな屑籠がある。その屑籠のほうを見ながら、必要経費ね、などと殺子は溜め息交じりに呟いていた。コスプレ衣装もけっこう値が張るんだなと僕も値札を診て思っていたところだ。それより、


「こういう店に試着室まであるなんて珍しいな」

「店長の趣味。自分でも使ってる」

「あの店長が……自分で……?」

「いろいろあるからこその趣味でしょう」

「世界は広いな。ところで――現在の流れを説明してもらえるか。なんでここに?」

「言う必要あるかしら? 見ていればわかるわ……この時間、他に空いてるお店を知らないもの。いいから少し待っていなさい」


 シャッとカーテンが閉められ、殺子の姿が消えた。数分後、またシャッとカーテンが開く。

 そこには巫女さんがいた。黒髪と白衣のコントラスト、緋袴が目に鮮やかだ。清純で楚々とした印象のまま、山田殺子は微笑んで言った。


「どう?」

「大凶って言葉が頭に浮かぶな。……舐めてる?」

「そうね。さすがにこの色合いは目立つわね」


 またカーテンが閉まり、次。ナースが現れた。病院にいらっしゃる本当の医療従事者の方々より遥かにスカートが短く、ガーターストッキングが扇情的に太股を際立たせている。


「どう?」

「今から病院に行くっていう手もあるなって思い出したよ」

「それは困るわね。お兄ちゃんは健康体だもの」


 次に猫耳猫手のケモノ人間が現れ、タイトスカートのOLが現れ、陸上の短距離選手が現れ、浴衣が現れた。そのあたりでさすがに突っ込んだ。


「君たちが普段そうしているから意識しないで君もやってしまっているんだろうけど、僕は何を出されてもきっと合格点は出せない。というかそんな眼福な姿を見せてくれても、僕は君のお兄さんじゃないけど、いいの?」

「そう言えばそうね。どうしてあなたに私のレアな姿を見せなくちゃいけなかったのかしら。償いなさい」


 こちらの顔に手を伸ばしてきたので慌てて掴んで止めた。おい、こいつノータイムで僕の目玉を抉り出そうとしてきた?


「……でも、この目は君のお兄さんの目だけど、いいの?」

「そう言えばそうね」


 手が引っ込んだ。


「仕方ないから見るのは許すけどあなたの記憶域には入れないように。保存したら殺すわ」

「無茶言うな」


 結局彼女は自らファッションショーの答えを出すことにしたようだった。最終的に選ばれたのは、セーラー服と対極を為す、しかし同類の不変性を持つブレザーの制服。


「今日はこれで行きましょう」

「なるほど。これなら警察の目もある程度は誤魔化せるかもしれないな。特徴としてセーラー服の女を捜すはずだから」

「そう言えばそれもあったわね」


 本当に思い出したように殺子はそう言ったので、僕は口をへの字にした。


「それ以外に着替える意味が?」

「出かけるときは、偶数日はセーラー服、奇数日はそれ以外の服もしくはセーラー服っていうルールよ。セーラー服はお兄ちゃんが究極的に大好きな無敵の戦闘服で、基本的には毎日それでいいのだけれど、そうじゃない日も用意しておかないと飽きが発生しちゃって困るから。そして今日は奇数日、セーラー以外の格好をしていいデー。ちょうどいいから、セーラー服妹の新鮮さを保つために口直しをするという意味のほうが大きいわ」

「……そうですか」


 まあ実際にカムフラージュ効果もあるだろうから気にしないことにしよう。

 ブレザーを着たままカウンターに向かった殺子は、適当に万札を店長の前に置いた。いや十万くらいあるぞ、適当にも程がある。


「これをちょうだい。あと、今まで着てたセーラー服が入るようなバッグかリュックも。あなたの私物でもいいわ」


 瞬きしたあと、イケメン店長はふっと笑った。


「下取りに出してくれてもいいのに」

「冗談。今あるもので満足しなさい」

「はいはい。バッグなら……やっぱり、その格好に合うこれかな」


 なぜか新品の、まさしく女学生が持つような学生鞄が出てきた。殺子は今まで着ていたセーラー服をきちんと畳んで、その中に仕舞う。

 店長が僕に対し、軽く首を傾げるようにした。


「今日はなんだか無口だね?」

「兄さんは少し朝に弱いのよ」


 準備完了。おつりを求めることもなく、殺子が店の外に歩き出した。僕も追う。

 毎度あり、と店長はホストの見送りのようにヒラヒラと笑顔で手を振っていた。

 僕はブレザー女学生と化した殺子の横を歩きながら、その顔をちらりと見やる。


「気前がいいな」

「実はお金持ちなのよ、私たち」

「そんな気はしてた」


 兄妹二人だけで暮らすというのはそれほど楽なことではない。この兄もまともな職についているようには思えない。となると、どう金を工面しているかという問題が出てくるが――


「別に誰かを殺してお金を獲っていたりはしないわよ。そんなのただの強盗じゃない。普通に、私たちの親族がお金を持っていたというだけ」


 なるほど。二人の父親は殺子が殺したという。なぜ捕まっていないのかと不思議に思っていたが、そうか。その親族たちが金と権力を持っている存在であれば、あるいは身内の不祥事くらいはもみ消せるのかもしれない。

 金だけはある一族。クズな父親。崩壊した家庭。狂った兄と妹。もみ消される真実。腫れ物扱いで放置される二人――


「先に言っておくけど、私に聞かれてもよくわからないわよ。親戚の話とか。そのあたりはお兄ちゃんが全部やってくれていたから」

「ひょっとして、牛丼屋の件も問題にならなかったりする可能性が?」

「……ないとは言えないわね。私がやったと誰かが知って、その誰かが問題にしたくなかったら。ちなみに私はさっきも言ったけどそもそも問題じゃない派閥よ」


 いろんな意味で反吐へどが出る話だ。まったく。


「そんなことより。時間を使ってしまったぶん、さっさと――」


 殺子はふと言葉と足を止めた。視線の先にあったのは道端のバス停、その運行表だ。ちらと確認を促すように僕の顔を見て、


「目的地に行ける?」

「……まあ、近くまでは」


 そのとき丁度、まさにそのバスが道路の向こうから現れ、速度を落として僕たちの目の前に停まった。ラッシュには早いが、朝練のある生徒なら登校していてもおかしくはない時間帯だ。ブレザーに鞄を持った女子がバス停の前にいればそうなるだろう。

 丁度いいわね、と殺子は相談もせずバスに乗り込んだ。走って疲れたことでもあるし、従っておく。

 バスには他に数人の乗客しかいなかった。もちろん映画じみた手配書が回っていることはなく、僕たちは目立たない席に並んで座る。行き先をアナウンスが告げ、緩慢に車体が発進。

 目的地まで何事もなければいいが。クチャラーであるというだけで目をり抜こうとする女だ。息が臭いという理由で後ろの席の誰かの歯を折ったりする可能性は充分にある。


「あ」


 何かを思いついたように、殺子が小さくそんな声を漏らした。

 嫌な予感しかしない。


「何だよ」

「思いついたことがあるの」


 隣にいた僕の腕を両手を使って持ち上げ、うーん、と眺める。


「だから何なんだ……?」

「この手を太股に載せようかどうか考えていたわ。痴漢ごっこよ。その慣れた刺激でお兄ちゃんの意識が戻ってくる可能性がある気がするの。追体験が記憶を呼び起こす……感動的ね」

「痴漢ごっこと感動的っていう言葉の親和性について少し考えてみようか」


 本当に載せたらどうしようとスカートから覗く膝の白さにドキドキしていたが、幸いにも「手はお兄ちゃんだけど、うーん……」と何かが合格ラインには達しなかったらしい。その作戦はお蔵入りとなった。


(まったく……)


 窓の外を眺める。その視点の高さすら元々の僕のものとは違う。不鮮明ながら、窓に自分の顔が反射していた。洗面所で確かめた顔。今までにも牛丼屋やアダルト書店のガラスで見る機会があった顔。実のところ、そのたびに違和感が精神を不安定にさせたため、努めて意識しないようにしていたのだ。毎朝鏡に向けて「お前は誰だ?」と言い続けると確実に気が狂う、みたいな都市伝説を聞いたことがある……おそらくそのような類の話。自分と認識できない自分というのは凄まじく気持ち悪いものなのだ。他の人にはなかなか理解はされないだろうが。

 だから今回も、僕は焦点を外の景色に合わせ続ける。

 早いところ元に戻りたい。家に近いバス停までの所要時間は十分か十五分くらいだろうか。何事もなければいい――


「……」


 そこで窓とは逆側の肩に、とん、と軽い感触が生まれた。

 見ると黒髪の頭がそこに載っている。

 どうやらバスの心地好い揺れに耐えきれなかったらしい。

 綺麗な睫毛まつげを上下に寄せて、小動物のような寝息。

 僕に全てを預けきった顔。

 無垢。


 胸の中に生まれかけた、頭のおかしい殺人鬼に対する保護欲は。

 それを育てまいと、視線を窓の外に逸らした自制心は。

 僕の証明だと思っても、よかったのだろうか。


         †


 ああ、懐かしの我が家よ。住んでるだけで僕の家ではないけど。


「ここ?」

「そうだよ」


 さてどうするか。いきなりチャイムを押して事情を叔母さんに説明するわけにもいくまい。

 家の前で軽く様子を窺ってみると、叔母さんの車が駐車スペースにないのに気付いた。朝一でどこかに行っているらしい。クライアントとの打ち合わせとか、別の場所に借りている倉庫に必要なものを取りに行くとか、そういうことで時間不定の外出をすることはよくあった。ラッキーだ。


「家族は外出してるみたいだ。入るなら今のうちだな」

「鍵は?」

「あるわけない。でも考えがある」


 実は普段から、二階の廊下にある窓は換気でよく開け閉めするため、面倒がって鍵をかけていないことが多い。そこからなら入れるかもしれない。

 僕は家の裏手に回った。小さな庭に突き出したひさしがあり、その下はちょっとしたテラスのようになっている。この家に無数に存在する叔母の喫煙スポットの一つだ。その下にあった木製のテーブルを軽く動かして、その上に載れば……よし、なんとか庇の上に登れそうだ。

 隣家の人たちに見られませんように。周囲を気にしながら、庇に手をかけて一気に身を持ち上げた。もちろんこんなところを掃除してはいないので、指が汚れるのは避けられない。いつか大掃除を提言しないとな。

 僕は下の庭に向けて、小声で、


「入って玄関を開けてくる。君は表に――」

「なに?」


 言うまでもなく、殺子も僕なんかより遥かに身軽な動きで同じ庇に上がってきていた。翻るブレザーのスカート、しなやかに曲がる膝。鞄まで持ったままなのはどういうわけだ。なんで片手でいけるんだ。


「……なんでもない」

「ならさっさと入りましょう」


 ひさしの耐荷重も周囲の目も気になる。目当ての窓を開けて、そっと中に侵入。靴跡をつけて回りたくはないので、脱いで窓の下に置いておくことにした。殺子も従ってくれる。いよいよ泥棒じみてきたな……いや、冷静に考えればこれは見知らぬ兄妹が何の接点もない大学生の家に忍び込んでいるわけで、実際のところ不法侵入者が二人いる以外の何者でもない。目的が金品か自分の肉体か兄貴の意識かというだけだ。


「何か嗅いだことのある匂いがするわね、この家」

「多分、美術室の匂いだな。僕は慣れてるからわかんないけど、地下にアトリエみたいな部屋がある」

「アトリエ?」

「家族は芸術家……みたいなものなんだ。だいたいそのアトリエか外の仕事場のどっちかでいろいろ作ってる。油絵とか彫刻とか」

「ふうん」


 そんなことより本題だ。目的地は目の前だ。二階にあるので丁度いい。そのまま廊下を歩き、一つごくりと唾を飲み込んでから、僕は自分の部屋を他人の手で開けた。

 おお。僕の部屋だ。記憶にあるものと何も変わらない。家具の配置も、匂いも、そして――ベッドに寝ている、誰かの存在も。


 僕だ。


 なんとリアルな幽体離脱感。自分の寝顔を第三者の目から眺めるというのは、なんというかこう……気恥ずかしく、気持ち悪く、しかし実際にここに存在していることに少なからずの安堵も覚えた。

 胸が小さく上下していることからわかるように、呼吸もしている。つまり生きている。布団の中、パジャマを着て目を閉じている僕の寝顔を見て、殺子がまず首を傾げた。


「予想とちょっと違うわね。とっても弱そう」

「いきなり人を強弱で判断しないでくれるかな」

「まがりなりにもお兄ちゃんの中に入れたんだから、お兄ちゃんのビッグさ、器の広さにふさわしい人間だと思ってたのに。正反対のタイプだわ。なんかちっちゃいし」

「まあ、背はいつもクラスで一番低かったよ」

「みんなが前ならえをしているのに一人だけ常にならわないタイプだと言えるわね。合法的に先生の命令を無視できる特権的立場に快楽を覚えていたんでしょう。歪んでるわ」

「背の低さを伝えただけなのに勝手なプロファイリングまで」


 殺子は気にせず、腰を曲げて少しベッドの僕に顔を近付けた。


「マイナス面ばかり言ってるのが気になるのかしら。プラスがあるとすれば、そうね……とりあえず、意外と可愛い顔をしてるのは確かね」

「やめてくれ。僕の外見に対する評価はもういいだろ。本題に入ろう」

「ええ。起こしてみましょう。中にお兄ちゃんの意識が入れ替わりで入ってるかもしれない」


 僕の身体なので僕が率先して働く。声をかけ、肩を揺らしてみた。起きろ。ねえ。

 起きない。強めに身体を揺らし、さらに耳元で言葉をかけても同じだ。触った肩の体温から、やはり生命活動は感じるものの――まるで死んでいるかのように、起きない。


「おい。……頼むよ、おい」


 ずっと悪夢の中にいるような感覚ではあったが。

 現実的な焦燥感が、徐々に這い上がってきた。今まで考えないようにしていたものが、僕自身の身体という確固たる証拠品を前にして、それを鏡に映すように僕の中で確固たる形を持ち始めていた。

 困る。起きないと、困る。どうするんだ? 僕はこの他人の身体で、いつまで? 考えたくない。だから早く起きてくれ。都合のいい一番簡単なパターンで問題を解決してくれ。


「眠り姫を起こす方法と言えば、キスよね。見たくないけど。したら殺すけど」

「僕だって嫌だよ!」


 自分の身体だ。それ以外なら僕が許可する。頭を掴んでがくがくと乱暴に揺さぶった。起きない。叩く。起きない。何にでも縋る。漫画のような展開? あるかもな。脳波が近くで干渉し合って何やかやだ。わらにも縋る気持ちで、抱きつくように額を近付けて向こうの頭にぶつけた。頭突きだ。水が詰まった肉厚の花瓶のような手応えが返ってきただけだった。


「ちょっと。お兄ちゃんの身体でそんなセンシティブなハグはしないで。私以外の人間がそんな距離感にいるのは許さないわ。対抗してこうするわよ」


 殺子が抱きついてきて僕の身体から引き剥がされた。妙にいい匂いがする、ブレザーの身体。見た目以上に柔らかな反発力を持つ若い肉が、僕の身体のそこかしこに落ち着きを与えた。落ち着けるものではなかったが。


「あなたのターンは終わり。次は私に任せなさい」


 言って、殺子は鞄に手を突っ込んで何かをごそごそとやり始めた。取り出されたのは――薄暗い部屋ではその存在も見にくい、細い金属製のワイヤーのようなものだった。

 寝ている僕の寝込みを襲うかのように、殺子は股を開いて僕ボディの上に乗った。それからそのワイヤーを手慣れた様子で僕の首に巻きつけて、ふっという軽い吐息を合図にして。


 引っ張る。


 ……ん? これは……ひょっとして。もしかして。一般的に言うと。

 僕が殺されかけている、という状況ではないか?


 あまりのことに混線していた脳の電気信号が奇跡的に繋がると、冷や汗が瞬時に流れ出た。慌てて殺子の身体を押し退ける。体重差のおかげか、わりと素直に彼女はベッドに転がった。


「待て待て待て!」

「どうして? 死にかけたら多分起きるでしょう」


 迷惑そうな顔の殺子。起きないから言ってる。実際起きていない。

 幸運にも目玉や舌を飛び出させたりもしていなかったが、首に赤い跡がついていた。可哀想かわいそうな僕よ。


「そういうのはもう少し考えて、いろいろ準備してからやれ! 思いつきみたいにやることじゃないだろ。最低限、何が起こってどうなるのかを想定してから――」


 そこで僕は口を噤んだ。

 殺子も動きを止めた。

 家の外から、車のエンジンが止まる音が聞こえたのだ。聞き覚えがある。


「まずい。叔母さんが帰ってきた」

「どうまずいの。対応策はあるでしょう」


 殺人用のワイヤーを手に、殺人鬼がそんなことを言った。


 ――ない。それだけは、させるわけにはいかない。たとえ僕が死んでも。


 だから僕は、殺子の目を見ながら。

 機会はまだまだある、ここはひとまず逃げて様子を窺おう、と提案した。

 僕の手に武器は一つしかない。それを使うしかなかった。少しでも従ってくれる確率を上げるための、彼女の感情的な内面に訴えかけるための。


 言葉と微笑。

 できるだけ彼女のお兄ちゃんらしく見えるように。


 殺人鬼の妹に萌える頭のおかしな兄らしさなんて、想像するしかなかったけど。

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