第一章 妹属性の殺人鬼(その2)

「駄目かあー」

「ごほっ……駄目に、決まってる、だろっ……」


 また普通に死にかけて普通に蘇生させられた。

 心臓マッサージと人工呼吸の必要のためか、今まで縛られていた椅子からは解放されている。その自由と淡い唇の感触が唐突な絞殺未遂に対する対価だった。


 ……事態の解決策として、『きっかけとなった行為をもう一回』というのはまぁわかる。僕も可能性を考えなかったわけではない。だが失敗してしまえば取り返しのつかなくなることなのは確かで、やるにしても最後の手段だと思っていたのだ。

 それをとりあえずの一番手に持ってくるとは。怖ろしい女。

 というかさっきのワイヤーはどっから出したんだ。仕事人か? 今はもう部屋の中には見当たらない。

 人を殺しかけておきながら、ソシャゲのガチャ当たんなかったなー、程度のがっかり顔で殺子は椅子に腰を下ろす。


「決まってはいなかったわ。正当な試みよ。文句があるなら対案を出して」


 発言自体はもっともだ。僕は少し考えてから、


「ここは……きみたちの家?」

「ええ。私たちのマンション。そしてお兄ちゃんの部屋。私はずっと一緒の同じ部屋でよかったけど、ある程度は顔の見えない時間もあったほうが逆にいつも新鮮で盛り上がれるからって。実際、壁越しに喘ぎ声を聞かせるっていうのもわびさびがあっていいものだったわ」

「そんなことは聞いてないが、住所は××市の周囲だよな?」

「そうね。どうしてわかるの」

「僕の〝隣死体験〟には範囲があるからだ。経験則からそう判断してるってだけだけど。ある程度の範囲から離れた場所の被害者に入ったことはない。日本中のどこかでしょっちゅう殺人事件は起こっているわけだから、そうじゃなきゃ僕は寝るたびにフレッシュな体験をすることになってるだろうな」


 さらに殺子に具体的な住所を聞く。プライバシー的な防犯意識が低いのか、殺人鬼はそんなことを気にしないのか、兄の身体だからか。あっさりと教えてくれた。


「遠いけど、歩いて帰れなくはないな……」

「帰る気? その身体で?」


 殺子の声に剣呑なものが混じったので、また新しい凶器が準備される前に僕は彼女に向けて掌を広げてその動きを制した。腕の長さと重さが僕のものとは違うという新鮮な違和感。


「きみから逃げようってわけじゃない。この状態で家に帰っても僕だって困る。そうじゃなくて、事態の打開策として……当たり前だけど、僕の家には僕の身体があるはずだ、ってこと」


 ぎらりと殺子の目が光ったように思えた。


「逆に、お兄ちゃんがそのあなたの身体に入ってる?」

「……さあね。正直、全然わからない。でも確かめる必要はあるだろ」

「ええ、そうね、そのとおり。どうして早く気付かなかったのかな。待っててお兄ちゃん、すぐ迎えに行くわ!」


 椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がる殺子。机の引き出しを引っ掻き回し、何かをポケットに入れていた。財布か鍵か、とにかく出かける準備だろう。

 ただ、僕は冷静に考えていた。


 確かに可能性としてはある。

 だが、それが高いものか低いものか?


 推測はできた。今まで僕が殺人被害者の中に入ったその間、逆に僕の中に誰かが入っていたようなことはあったか。

 そんな痕跡は、皆無だった。一度たりとも、ない。

 おそらく僕のこれは、元の意識が死んで、所有権を手放したあとの身体に入っただけのことで。精神が入れ替わる保障なんてない。根拠もない。

 今、僕がここにいるのは確かだとしても。その身体の本来の持ち主の意識が、僕の身体の中に入っているなんて、そんな都合のいいことは果たしてあるか―――


「わかってるわ。私は馬鹿じゃない。今まであなたが話したことで、理屈はわかっているつもりよ」


 僕の心を読んだかのように殺子は言った。


「理論的には期待のできる話ではないんでしょうね。でも私はあると信じるわ。お兄ちゃんは消えていない。そんな可能性は存在しない。だって、私が感じているもの。お兄ちゃんはまだどこかに『いる』って」


 僕は何も言わなかった。彼女も別に答えを求めてのことではないようだった。

 机を引っ掻き回すのを止めて、向き直ってくる。


「さて。少なくとも、お兄ちゃんを見つけるまではあなたと一緒に行動しなくちゃいけないみたいだけど……」

「逃げないから手錠とかは勘弁してほしいな。僕の目的も一緒だ」

「そう。よく考えたら目的地に着くまでの間に職務質問とかされたら面倒なことになるわね。目立つことは止めておきましょう」


 彼女はポケットから取り出した手錠をベッドの上に投げた。使うつもりだったのかよ。


「となると、外での私たちの態度も考えておくべきかしら」

「普通に名前で呼んで友達ってことでいいんじゃないか。さっき教えたろ」

「何か言っていたわね。忘れたけど。思い出す気もないけど。お兄ちゃんの顔をした誰かをお兄ちゃん以外の名前で呼ぶなんて冒涜だわ」

「じゃあどうするんだよ」

「仕方ないわね。演技ということで割り切って、仮お兄ちゃんということにするわ」

「仮って」

「偽お兄ちゃんのほうがよかった?」


         †


 初めて部屋を出た。何の変哲もない、殺風景とも言える廊下。

 犠牲者から切り取った耳のネックレスとか乳房のぶら下がったベストとか、そういうものは幸運にも飾られていない。別の部屋かリビングに通じるドアがいくつか見えたが、下手な動きをして殺子に睨まれるのも面倒なので余計なことはしなかった。


 ただ――最低限の現状把握はしておきたかった。


「顔を洗ってもいいかな。外出前には身だしなみが大事だろ」

「許可するわ」


 妙に薬品臭い洗面所に案内され、その鏡で自分の顔を確認する。

 本来の僕より少し年上な、二十代半ばに見える男がそこにいた。どちらかというと垂れ気味で、人当たりの良さを醸し出している目。全体的には、特に特徴のない優男ふうの顔立ちだ。細い髪質の髪がやや長めに流れている。痩せても太ってもおらず、背は推測するしかないが、170センチ代前半ほどだろう。着ているのは無地のシャツとスラックス……だったが、ちらりと確認してみると、そのシャツの下にはアニメ系の絵が描かれたTシャツを着ていた。本当に好きなんだな。


「……」


 鏡の中の僕。僕ではない僕。胸中で何かがうごめいている。

 寄生虫のような不快な鼓動。他人行儀な生命活動。僕という規格の不適合。

 内部と外部の不一致でどうにかなってしまいそうだ。


 ああ、違う。これは違う。何かが間違っている。

 嫌だ。逃げたい。この状況から、逃れたい。


 理解した。僕が僕ではないというストレスは、容易く僕を壊すだろう。

 他人の身体が自分の意志のままに動いていいわけがない。生まれてから僕だった僕が、急に僕ではないハードウェアを動かしていいわけがない。


 なんとかしなくては。

 一刻も早く、なんとかして、自分の身体に戻らねば――


「もういい?」

「……ああ」


 鏡から視線を逸らして、心を閉じて、自分を守る。

 そうしなくては耐えられなかった。

 さあ、身だしなみを整えたのなら、行くべき場所へ行くとしよう。


 殺子と共に玄関を出て、エレベーターに乗って一階へ。それほど築浅ではないが、よく手入れのされた小綺麗なマンションという印象を受けた。

 エントランスに向かう途中で、入居者用の郵便受けが並んでいる一角の前を通る。僕は出がけにさりげなく記憶していた、殺子の部屋の番号に相当する郵便受けをちらりと見た――上の部屋と同じように、表札に名前などは書いていない。リテラシーが高いというか宅配業者に優しくないというか。しかしその郵便受けは他とは明らかに異質で、手紙か何かがぎゅうぎゅうに詰まってはみ出しているのがわかった。

 その視線に気付かれたので、


「ずいぶん溜まってるね」

「気にしないでいいわ。たいした用件のものじゃないもの」


 だったら余計に処分したほうがいいと思うけど。

 そんなとき、夜勤帰りだろう、外から帰ってきた住人らしき初老の男とすれ違う。

 歩き出しつつ、殺子が率先して頭を下げて言った。


「おはようございます」

「はい、おはよう」

「……どうも」


 僕も会釈をしてすれ違ってから、外に出たところでまじまじと彼女の顔を見た。


「まともに挨拶が……できる……?」

「馬鹿にしてるのかしら。お兄ちゃんはちゃんと挨拶ができる子が好きなの」


 左様ですか。どちらかと言えば僕もそういうタイプが好きだけど。

 何回かリアルに死にかけたせいで時間感覚が曖昧だったが、空を見ると随分と白み始めていた。まさか他人の身体に入ったまま朝を迎えることになろうとは。


 周囲の景色に見覚えはなかった。地名から頭の中の地図を引っ張り出してみる……僕の家までは小一時間ほど歩く必要がありそうだ。何の問題なく辿り着ければいいが。


 生理的な問題がすぐに発生した。


「自称・山田殺子さんに一つお知らせがあります」

「何、仮称お兄ちゃん」

「どうもそのお兄ちゃんの身体が栄養を欲してるみたいだ。……あ、腹が鳴った」

「奇遇ね。私も鳴ってる」


 そこで道の脇にオレンジ色に光る看板が見えた。殺子は一つ頷いて、


「あの牛丼屋さんに入りましょう。腹が減っては何とやら、よ」


 どうやらセーラー服の美少女殺人鬼妹と一緒に朝ごはんという希有な体験ができそうだった。さっき財布らしきものをポケットに突っ込むのが見えてはいたから、代金に関しては甘えてもいい……だろう、多分。お兄ちゃんのエサ代くらいはまかなってくれ。


 早朝ではあったが、この時間に空いている店があまりないからか、カウンター席しかない店内にはそれなりに客がいた。誰からも離れた席に二人して座る。

 君はどれにするウフフ私は……などという腹の立つ恋人ムーブをすることもなく、二人してメニューをチラ見し、共にスタンダードな牛丼を頼んだ。殺人鬼でも牛丼屋の経験値はあるらしい。

 メニューを元あった位置に戻しながら、ふと殺子が口を開いた。そのメニューに描かれていた店のマスコットが議題のようだった。


「こういうマスコットってだいたい笑っているわよね」


 怪しまれないように少しは話して仲のよい兄妹を演じようというのか、はたまた何も考えていないのか。


「客商売だからな。睨むわけにもいかないだろ」

「で、だいたい牛を食べさせる場所なら牛、魚なら魚なわけでしょう」

「牛丼屋で魚をマスコットにする意味がないからね」

「自分の同類の死体が喰われている場所で、それを促進するために笑顔で捕食者に媚を売っている気持ちっていうのはどういうものなのかしら?」

「さあ。考えたこともない」


 考える必要性が生じた場面もない。今はその数少ない機会なのか? せっかくだから真面目に取り組もうかと思ったところで、殺子は立てかけたメニューから視線を逸らさないまま、静かな表情で言った。


「多分ね、幸せなのよ」

「へえ?」

「笑顔ってことは、もう壊れてしまってるってことだもの。自分がどんな立場にあるか、冷静に理解しているほうがまずいという状況だってあるでしょう。だから逆に幸せしか感じていないと思うわ」


 壊れていることが幸せなことだってある、と彼女は言う。

 では、そんなことを主張する殺人鬼は。

 壊れてしまっているのか。

 幸福なのか。

 そしてそれを、どう自覚しているのか?


「お待たせいたしました。牛丼並ですー」


 どうでもいい話だった。企業努力とマニュアル化の結果として凄まじいスピードで商品が提供され、僕たちの前に二つの丼が置かれる。


「ありがとうございます。いただきます」


 殺子は店員に向けてそう言った。

 笑顔で。



 内面はともかく、美少女というのは食べる姿も絵になるものだ。

 それは一杯500円以下の牛丼であろうが何の問題も生じさせない。軽く髪を掻き上げる仕草は妙に艶めかしく。むぐむぐと動く頬は小動物の給餌風景を見ているような保護欲をそそる。白い指先で操られる箸のエロティックさはどうだ……。

 横で見ていて気付いたが、まず姿勢がいい。背筋が伸びている。

 当然ながら食事中にスマホを見ることもなく、丼もきちんと持って食べる。お兄様の教育の賜物だろうか。

 いかなる瑕疵かしもないセーラー服がその完全性を補強していた。左右対称に整ったスカーフ、凛とした固定性を見せる襟、襞の一つ一つに聖典のような神秘が潜む紺のスカート。

 早朝の牛丼屋に差し込む朝日が、彼女という作品を斜めに照らし出している。非常に即物的で生活感溢れる姿のはずなのに、どうしてか、彼女が彼女であるという理由だけで、それは侵しがたい荘厳な宗教画イコンであるように思えた。


「……なに?」


 視線に気付いたか、殺子が見返してくる。もちろん咀嚼そしゃくをきちんと終えた後だ。

 僕は正直に言う。


「食べ方、ちゃんとしてるなって」

「お兄ちゃんが以下略、よ」


 そこで殺子は何かに気付いたように丼を置き、片手を僕のほうに伸ばしてきた。可愛らしい絆創膏が指の付け根に貼られているのが見える。それは彫刻の価値を損なわせるのではなく、むしろ親近感を付与していた。

 そうして彼女は、僕の口元についていたらしき米粒をちょんと摘まんで、自分の口に持っていって食べた。

 微笑寸前の気配だった彼女の目が、ぱちくり。


「しまった。お兄ちゃんじゃないのに、つい反射でお兄ちゃんにすべきことをしちゃったわ。妹ラブリーチャンスを逃さないように身体に覚え込ませてたのがあだに……」

「その貪欲さには頭が下がる。つーか僕、今までの人生で米粒を顔につけたことなんてほとんどないんだけどな。他人の身体だから、やっぱ少し操縦感覚が違うのか」

「お兄ちゃんをロボ扱いしないで」

「事実だから許してくれ」


 そのとき店に新しい客が入ってきた。

 髪を金髪に染めたヤンチャそうな若者だ。僕たちが座っているカウンター席の向かいのレーンに座ったので、チラリと視線を上げて殺子を見たのがなんとなくわかった。まあセーラー服美少女がこんな時間にいること自体珍しくはあるだろう。

 気にしないことにして、食事を再開。


「……しかし、違う舌でも同じ味がするってのに安心してるよ。僕は牛丼はそこそこ好きだから、不味く感じるようなことがなくてよかった」

「お兄ちゃんだって好きだったわ。そうじゃなきゃ来ない」

「だろうとは思ったけど。……二人でよく来てたのか?」


 少しセンシティブな質問か。いや許された。


「それほどでもないわ。たまに、というところね。私はお兄ちゃんと一緒ならどこに行ってもなんでも美味しく食べられるから、選択肢は多かったわよ」

「へえ」

「逆に、私は一人では絶対に外食しない。どうしても一人で食べないといけないときは、カロリーメイト系かゼリー飲料ね。人の手が加わったものをお兄ちゃんのいないところで食べるなんて、浮気と一緒じゃない? ……今はお兄ちゃんの身体が目の前にあるからギリ浮気じゃない認定よ」

「そうかー。僕には理解できないが、そういうこともあるよなー」


 乾いた声で相槌を打ちながら箸を動かした。もうそろそろ食べ終わる。


 そこでさっきの向かいの若者の前に注文品の大盛り牛丼が提供されてきた。

 直後、意識せずとも聞こえてくる異音――くっちゃくっちゃクチャア。

 おいおいマジか。クチャラーだ。向かいのレーンにいる僕たちはおろか店中に聞こえるようなデカさ。きっと今店内にいる全員の意識をこいつが独り占めしてしまっているに違いない。親御さんはどんな教育を――いや、複雑な家庭事情かもしれないし、そこに理由を求めてはいけないな。だが僕も片親だけどそういうのはちゃんとしてるぞ。普段だらしない叔母さんもあれはあれで食事マナーには厳しい。


「ところで、暫定お兄ちゃん」


 お腹がいっぱいになったのか、まだ少し牛丼の残った丼をカウンターに置きつつ、殺子が口を開いた。


「常々思っていることがあるの。この世は信頼で成り立ってるんだって」

「どういう意味?」

「私たちは、道端ですれ違う人がどんな人か、基本的に知らないわけじゃない。どんな性格で、どんな嗜好で、どんな主義を持ってるか。太陽の光に興奮する変態かもしれないし、バスを見るとその前に誰かを突き飛ばしたくなる異常者かもしれない。それを普通に生きているだけで毎日何百回か繰り返しているの。誰に何をされるのか、そのルールの条件すらわからないの、怖くない?」

「怖いなあ」

「だったら、少なくともその誰かのルールに抵触する可能性を下げる努力はすべきだと思うの。それが教育というものよ」


 そうして殺子は、平然とした調子で僕に話しかけつつ。

 腰を浮かせ、眼前のカウンターに膝を乗せるように飛び乗って、身を前に傾けて。


 向かいにいたクチャラーの若者の目を、今まで食事に使っていたその箸でえぐった。


「うぎあああああっ!?」


 丼を放り出し、席から床に転げ落ちる若者。

 けたたましい音が店内に響き、耳障りな咀嚼音を永遠に掻き消した。

 牛丼成分と彼女の唾液と赤いものに塗れた箸が転がる。自分の丼をまたぐようにカウンターに両膝をつき、雌豹のポーズで向こうのレーンに腕を伸ばしていた殺子が、黒髪を滑らせながら悠然と身を起こして言った。

 興奮も高揚もない、ひどく冷たい目で。


「――天誅」


 嘘だろおいおい嘘だろ。


「何やってんだよっっ!?」

「これは天が誅するという意味で、人の事情ではなくもっと大きな超自然的正当性がその人間に危害を加えるのだという――」

「そういうこと言ってるんじゃない!」


 まずいにも程がある。勿論店内は大騒ぎだ。

 腰を浮かせているもの、動きを止めているもの。携帯を取り出すのは止めてくれ。店員が駆け寄ってくるのは当たり前。何がありました!? 僕のほうが聞きたい。考えなくとも遠からず警察が呼ばれるであろう案件なのは確実で――


「っ、来い、行くぞ!」


 殺子の腕を掴んでカウンターから引き下ろし、店を出ることにする。


「行くのはいいけど少し待って」


 殺子は店を出る間際、ポケットの財布から千円札を取り出し、それを手近なカウンターの上に置きながら軽く頭を下げて言った。やはり笑顔で。


「ごちそうさまでした。お釣りは結構です」


 牛丼を完食した覚えはなかったが無論惜しくはなかった。

 とにかくひたすらに距離を取るべく、彼女を引っ張りながら足を動かす。

 今さら言っても仕方ないことだとは思うが、言わざるをえなかった。


「なんであんなことしたんだよ!」

「高齢者は顎の衰えから咀嚼音が仕方ないこともあるわよね。私もそこまで狭量じゃないわ。でもあいつは違ったもの。息をしている不愉快という概念。そういう生き物だったでしょ?」

「気持ちはわかる。気持ちしかわからない。だとしてもやりすぎだろ……!」

「自分で走るから、手、離して」


 手を引いて走るのも人目を惹く。言われるがまま離した。本当に走るのか見ていると、彼女は軽く明後日の方向に視線を逸らすようにして、ぽつりと言った。


「……さっき、あなた。少しだけ嫌な顔したでしょう」

「え?」

「あの男が食べ始めたとき」


 そう――だっただろうか。

 不愉快に思ったのは事実だから、していないとは言えない。


「たとえ別人でも、お兄ちゃんの顔にそんな表情を浮かべさせた人間を許すわけにはいかない。だから身体が勝手に動いただけだし、ああして当たり前だと思っているし、私は似たようなことがあったら何度だって同じことをするわ」


 ああ、と僕は頭の奥に氷河の冷たさを覚えた。

 彼女は現実に、ごく自然に、社会の規範や倫理を無視する。

 行動の評価軸がそこにないのが当たり前になっている。

 全ては『お兄ちゃん』のためなのだ。ああして人を傷つけるのも。


 あるいは――誰かを殺すのも。


 理解はしていたつもりだったが、こいつは心の底から頭のおかしい殺人鬼だと改めて実感する。

 呆れのような、恐怖のような感情。


 なあ僕よ。

 こんな奴と一緒に行動して、本当に大丈夫なのか……?

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