第一章 妹属性の殺人鬼(その1)

 次に目覚めると。

 僕は夢の中で見た少女に唇を奪われていた。


 顔が近すぎてわからないが多分そうだと思う。小さなついばみの形をした温もり。

 ただの肌とは一線を画した繊細な粘膜寄りの部位、すなわち唇が、僕の唇に遠慮も手加減もなく押しつけられている。しかもただ触れているだけではない。


 ふーっ。


 いかなる経路的ロスもないゼロ距離から送り込まれる吐息が、僕の口腔を膨らませた。僕は今まで知るよしもなかった一つの真理を得る。

 美少女の吐息は甘い。本当だ。

 しかし僕という袋は無限に空気を容れられるようにはできておらず、当然のように体内でその甘い吐息は飽和した。せて、本能的に彼女の身体を強く押し退ける――


 違和感。


 仰向けに寝ていた状態でもわかる、自らの身体の重み。動かした腕のバランス。

 これは知らないが、知っている。

 夢の中、限界状態での僕が持っていたものだ。眠りという薄皮で包まれた僕の意識が借りていたもの。しかし今はその薄皮が剥ぎ取られ、リアルな現実感をもって、僕の五感の下に存在している――

 それこそが違和感の根幹。

 夢の続きがそのまま現実になってしまっているような、意識と身体が不一致のまま固定されてしまっているような、曝露感。

 ああ、嘘だろ?


「げほっ……」


 咳き込みながら、自分の手を見てみる。

 僕のものではない指の太さ。肌の質感。見慣れぬ手相。生理的な涙で滲む視界には、僕が突き飛ばしてしまった黒髪のセーラー服少女が床から身を起こす様子。

 間違いない。さっき夢で見たとおりだ。それなのに現実だ。


 起きているのに、〝隣死体験〟が続いている。

 生きているのに、僕は他人の身体の中にいる。


〝隣死体験〟をした上で死なないとこうなるのか? わからない。こんなのは初めての状況だ。ダブルヘッダーなんて初体験は可愛いものだった。


「あぅ……ごふ、なん、で……」


 混乱のままに喉から声が漏れる。声帯の震え、発された音の高低、勿論それらも僕のものではないのに僕のものであって違和感が凄い。


 僕は、どうなっている? 誰だ? 僕は誰だ? 今はどんな状況? どうすれば?


 助けを求めて僕が視線を向けたのは、当然、この場にいるもう一人の人間。

 セーラー服の少女だ。しかし彼女は既にそこにはいなかった。

 衝撃。

 起こしかけていた上半身に再び重みが加わり、本来の僕のよりも広い背中が床との再会を強制される。


「……」


 スカートが捲れ上がるのも構わず、少女が僕を体当たりするようにして押し倒し、また身体の上に馬乗りになっていたのだ。


「――っ、きみ、は――」


 睨むような目は僕の言葉には答えない。

 その代わりにシンプルなコミュニケーション手段を取ってきた。古来より人間という種族が活用してきたもの。問題解決にとても有用で、現在進行形でみんなの力で進歩させ続けているもの。


 その名は暴力という。


 彼女はマウントを取ったまま、ここが総合格闘技のリングであるかのように、僕の顔面に向けて拳をボコボコに繰り出してきたのだった。



 人を殴るのにまったく手加減がないというのは一つの才能だと思う。あるいは訓練でそうなれるのかもしれないが、心得のない僕にはまったく実感のわかないことだ。

 どうあれ暴力は彼女の体力が尽きるまで続いた。

 ふうふうはあはあ、と肩で息をしつつ、彼女はぐいとこちらの襟首を両手で掴んで引き寄せる。眼前に、再びその色白の顔と怖ろしいほど剣呑な瞳が迫った。

 そしてまた、彼女は言うのだ。


「お兄ちゃんはどこ? あなたは誰?」

「誰って……僕は……」


 酸素不足の後遺症で掠れた喉が、困惑のあまり勝手に言葉を紡ぐ。

 思考は後からついてきた。僕は僕で、しかし明らかにこの身体は僕の身体ではなく、つまり彼女の問いにはどう答えれば。自分でも理解できない状況だからこそそのまま伝えるべきなのか、理解できない者の人数を増やしても仕方ないので演技のようなことをするべきなのか――

 その迷いすらも彼女は冷たい視線で斬り殺してくれる。


「つまらない嘘や演技は聞きたくないわ。中身が違うことなんて丸わかりよ」


 その確信的な口調と態度に、今後こそ本当に驚いた。

 今まで、どんな殺人者も途中でその犯行の手を止めることなんてなかった。

 僕の意識が入るタイミングは本当に『事後』、被害者が九割九分九厘死んでしまったその瞬間だと分析している。つまり殺人者の視点からすれば、それはもう『やってしまった後』なのだ。迷いがあったかどうかはともかく、少なくとも一度はゴーだと自らに許可を出し、欲望を気持ちよく迸らせた結論。言い換えれば一番気持ちいいはずの瞬間。そこで省みるわけがない。

 なのに、彼女はその手を止めた。

 あまつさえ、ほとんど死んでいた(実際呼吸は止まっていたと思う)ボディの中に別の意識があると看破してみせた。

 至極当然の疑問がさらに口から零れる。


「――どう、して?」

「それはね。私がお兄ちゃんを愛しているからよ」


 なにそれ。

 困惑していると、続けざまにまた頬を殴られた。痛い。


「待て待て殴るな。とりあえず説明させてくれ。あとパンツが見えてる」

「それが? 何か困るの?」

「どちらかと言えば」


 その答えに、ほら見たことか、と言わんばかりのドヤ顔で少女は鼻を鳴らした。


「お兄ちゃんなら喜んでくれるはずよ。やっぱりあなたはお兄ちゃんじゃないわね」


 どういう判断基準だ。


         †


 なんとか馬乗り体勢を解除してもらうところまではこぎ着けた。

 代わりに電気コードで椅子に縛りつけられることになったが。


「まるでこれから拷問されるみたいだな」

「まるで?」


 机の引き出しをまさぐり、黄色いカッターナイフを取り出しながら少女は軽く首を傾げた。その自然な仕草には一点の引っかかりもなく、言動ともに逆に彼女のヤバさが際立つ。


 わかった。降参だ。


 とりあえず自分のほうから全ての情報を開示することにした。

 寝ると特殊な夢を見る体質であること。それは殺人者の犯行現場、被害者の中に精神が入ってしまうもので、おそらく被害者の精神が死を受け入れてしまったあと、肉体だけが最後の生命活動をしている一瞬の空白のタイミングだろうということ――

 少女は胡乱うろんな眼差しになり、ちきちきと伸ばしたカッターの刃を僕の首筋にセットし続けていた。だから最後まで話しきるしかない。


「今までは意識が移った相手が数秒後に死んで、そしたら元の身体で目覚めてた。今回はそうじゃなかった。無理矢理にキャンセルされて、生き返らされた。だから僕の意識はまだここにある……ってことだと思う」

「……」

「こんな状況は初めてだ。実に困ってる」


 向こうの反応はなかった。無限の可能性を持つ冷たい刃の感触、興味のないニュース番組を眺めているかのような瞳。

 忘れてはいけない。状況的に100%確かだ。

 彼女はこの身体の持ち主を殺そうとしていた。いや、ギリギリで蘇生したとはいえ、僕の精神が入った以上、ほぼほぼ殺していたと言っても過言ではない。

 つまり殺人者なのだ。この状況で刺激できるわけもなく、今までの説明の際にもなるべく相手を興奮させないような単語を選んで使っていた。

 怖くはあったが、あまりの動きのなさに、恐る恐る訊いてみる。


「で、君は……?」

「何かしら、お兄ちゃんじゃない人。質問は明確にしなさい」


 やれやれ。こうも態度が変わらないのなら少しはリスクも取らねばならないだろう。野生動物と出会ったときと一緒で、怖がってばかりだと逆に襲われるということもありそうだし。


「あのね。今言ったとおり、これは望んでこうなったんじゃない。不慮の事故ってやつだよ。で、事態の解決には二人で協力することが必要だって僕は思うわけだ。僕の望みは自分の身体に帰りたい、ただそれだけだし。今までの態度からすると、君だってこの身体の持ち主に返ってきてもらいたいと思ってる……そうだろ?」

「――――」


 チャンス。微妙だが彼女の中で何かが動いた気がする。前に出た。


「とりあえず自己紹介をしよう。僕の名前は時波遥ときなみはるか。君は?」


 数呼吸の後、返ってきた答えは。


山田殺子やまださつこ

「……本名?」

「どうでもいいでしょう」


 殺人鬼を刺激したくないのは変わらない。それ以上の追及は止めておく。

 イメージで殺子と思い浮かべてしまっただけで、本当は札子とか薩子なのかもしれないが、まあどうでもいいだろう。

 名前の真実性はどうあれ、名乗り合いは異文化交流の起点として素晴らしい効果を発揮した。カッターナイフが首から引かれ、僕は息を吐く。


 少し余裕ができたので辺りの様子を窺ってみた。


 六畳間ほどの部屋だ。どこかのマンションの一室だろうか。まず目についたのは壁にベタベタと貼られたポスター。アニメ絵、漫画、ゲーム、乳が放り出されているのは成年コミックの販促ポスターだろう……とにかくそういう二次元嗜好が満載だ。大きめのテレビ台付近には多量のゲームが几帳面に詰め込まれている。壁一面を塞いでいる本棚も印象としては似たようなものだ。それと比べれば小さめの衣装タンスがあり、パソコンの載った机があり、ベッドがある。そこには予想通り抱き枕が配備されていた。

 典型的なオタ部屋である。僕も嫌いではないので好感は持てるが、違和感は甚だしい。

 こんな部屋の中に(外見だけは)楚々とした、茶道部の似合う黒髪セーラー服の美少女が存在していいとは思えない。ベッドの端にちょこんと腰を下ろしていいとは思えない。

 落ち着いたのなら、核心に触れるタイミングは今だ。

 その自称・山田殺子に向けて、僕は訊く。

 訊きたくはないが訊かなければ始まらない。


「で……君はどうして、お兄ちゃんを殺そうと?」


 彼女は何の迷いもなく言った。

 至極当たり前の、世界の真理を愚民たちに告げるように。1足す1は2で、重力加速度は9.8m/s2で、モンティホール問題は扉を変えたほうが有利なのだと教えるような当然さで――

 先程と同じ言葉を、先程とは違う問いへの答えとして返してきたのだった。


「決まってるでしょ? 愛し合ってるからよ」


         †


「うーん、意味がわからない。僕の頭が悪いからかな」

「そうよ。……待ちなさい、今、お兄ちゃんの口でお兄ちゃんの脳味噌をディスった?」

「そういうのを考えるとキリがないから今はおいといてくれ。いちいち捕捉や注釈はつけられない。で、愛し合ってるというのは?」

「本当に頭が悪いのね、お兄ちゃんの中に入っている誰か。そのままの意味よ。ラブよ。ラブラブよ。私とお兄ちゃんは愛し合っているの」

「えー、それは……どういうレベルで?」

「下世話な質問に答える義理はないけれど、私たちの愛はこの世の法律とか倫理とか全部に勝るもので、だから何にも遠慮することはなくて、当然の帰結として私たちは心も体も繋がっているということだけは言っておくわ」

「すごい。純愛だな」

「でしょう」


 僕は棒読みと半眼で言ったつもりだったのだが、殺子は逆にどこか自慢げな様子でむふんと胸を反らした。


「ちなみに実の兄よ。義兄と義妹なんて生温い繋がりじゃないから」


 世の倫理というものに対して追撃。言わなきゃシュレディンガー的な解釈の逃げ場もあったのに。

 思うに、他人にそういう告白をする機会はあまりなく、しかも(棒読みとはいえ)否定されないというのは珍しいことだったのだろう。

 一人で愛でるばかりだったコレクションをついに他人に披露できるときが来たオタクのテンション、とでも言おうか。殺子は機嫌よさそうに頬を緩めて続けた。


「本当に、お兄ちゃんは私のことが大好きでね」

「はいはい」

「特に私が人を殺すところを見るのが好きみたい」


 ……ん?


「一番喜んでくれたのは、私たちを虐待していた父親を殺したときかな」


 関わり合いになりたくない気配がぷんぷんとしてきた。さっきからそうだけど。


「いえ、好きなんて簡単な単語ではくくれないわね。私はそこが一番可愛くて、保護欲をそそって、ずっと見ていたくなる場面なんですって。そう、お兄ちゃんが言うには『萌え』らしいわ」

「萌え」

「そういう言葉、昔流行ったんでしょ? 今は死語っぽいけど、お兄ちゃんは照れも何もなく使ってたわ。そんな時代性に媚びないお兄ちゃんもラブよね」

「へえー」


 魂のない相槌コンテストがあったら今の僕は日本代表候補だろう。対戦相手がどこにいるかは知らないが。表情の動かなさ、自然な抑揚、無味乾燥な存在感がコツだ。

 僕がそんな代表級の相槌を繰り返しているうちに、彼女はさらに興に乗った様子で言う。

 初めての殺人、つまり父親を殺したのは四年前。それからなんやかや繰り返して今の記録は六人。相手は男も女もいる……

 細部は省かれていたものの、それでもその話にはリアリティがあった。出来上がりかけの死体に何度も入り込んだ僕だからこそわかる真実味。無論、妄想だという可能性が否定されるわけではないが、少なくとも全てを妄想だと片付けられるような嘘くささはなかった。

 実際、僕の首を絞めていたときの彼女の目には興奮と高揚と慣れが満ちていた。その行為に対する初々しさのようなものは、一切見られなかった。それが一つの実証となる。

 つまり。

 彼女は本当に、何人もの人間を殺してきた殺人鬼の可能性があった。

 ……で、その殺人鬼の妹に萌える兄。そういうのもいるのか。世界は広いなあ。


「聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。萌えってことなら、猫耳とかつけたらよりレベルが上がるのかなって思ってた」

「毎週木曜日は猫耳の日よ。あなたごときの浅はかなアイデアなんて既にお見通し」


 冗談だったのに。僕の予想以上のギャグ兄妹か、もっとおぞましい何かの二択のようだ。


「何の話だったかしら? そう、今の状況ね。とにかくそういうわけで、妹萌えの理解者たるお兄ちゃんは開眼したの。やっぱり最高に興奮するのは兄殺しをする妹だって」

「何だって?」

「兄殺し、よ。『わかった、血の繋がった兄を殺す妹がやっぱり一番萌えるよ!』ってニコニコ顔で力説してたわ。お兄ちゃんが言うならそれは真実。だけど、さすがに実践はハードル高いじゃない?」

「だろうね」

「だから保留してたんだけど、ついにお兄ちゃんの誕生日が来ちゃって。プレゼントとして求められたら拒否はできないわ。お兄ちゃんが本当に欲しいものなら、私はなんでもあげるし用意するって決めてたもの」


 そんなわけで。

 望み通りに。


「首を絞めて殺してあげることにしたの。そのときの私の格好は裸がいいかとも思ったんだけど、お兄ちゃんはセーラー服がもっと好きだったからこっちになったわ。深いわよね」


 そっちは理解できなくもないが主題のほうが全然理解できない。

 椅子に縛りつけられたままの僕は、唾を飲み込んで、抱き枕と共にベッドに腰掛けている彼女に問うた。


「愛し合っていて、お兄さんの頼みで彼を殺して。それで、その後……君は、どうするつもりだった? 殺したらもうお兄さんとは愛し合えないだろ」


「え? 後を追うわよ、当然でしょ?」


 何の迷いもなく。

 彼女はきょとんと首を傾げて言った。


「お兄ちゃんに、お兄ちゃんが喜ぶ最高の萌えを与えてあげられたのなら悔いはないもの。二人で天国に行くわ。神も閻魔も私たちを引き剥がせるわけがないわ。それでハッピーエンドよ」


 そうして彼女は微笑む。

 自然だった。公的機関のCMに採用されてもいいような、インモラルも狂気もない、ただ穏やかで安定的な表情。だからわかる。


 ――彼女は本気でそう思っている。


 心の底から。一切の疑義なく。

 背筋を震わせた僕は、それを彼女に悟られないように、ゆっくりと目を閉じた。

 駄目だ、この兄妹。終わってる。マジで終わってる。

 理解は止めろ。飲まれるな。ペースを守れ。考えるのは自分のことだけでいい。この状況をどう切り抜けるか、それだけでいい……


「と、いうわけでね」


 声が切り替わった。目を開ける。そうでなければ二度と開けられない可能性もあった。

 おそらく眼前にいるのは、本物の――イカレた、殺人鬼だ。


「私としては、せっかくラブラブの絶頂としてお兄ちゃんを殺してあげるところだったのに、その大事なところで突然お兄ちゃんの中身が別人に取って代わられたってことよ。台無しも台無しでしょう。中身がお兄ちゃんじゃないなら殺しても意味ない……ううん、一回きりのチャンスが無駄になるってことだし。死んだお兄ちゃんをもう一回殺すなんてできないもの。だから、私の要求は一つ」


 視線が合っている。

 言動とは裏腹に、とても綺麗な。

 殉教者のように澄んだ意志を湛えた、目だ。


「お兄ちゃんを返して」

「状況も、君の気持ちも充分にわかった。僕もまったくの同感だ。返してあげたい。だけど……正直、こういう状況は僕にとっても初体験だから、全然勝手がわからないんだ」

「じゃあ、どうしたらいいの?」

「どうしたらいいんだろうね」


 軽く眉根を寄せた殺子と、さらに見つめ合う。

 そこで一つ、気付いたことがあった。

 このままではらちが明かない。一か八か提案してみる。


「とりあえず、今できることからやっておくことにしないか。わかりやすいものが見えてるからさ」

「どういうこと?」

「君、手を怪我してる」

「……あ、ほんと」


 おそらく僕が最初に彼女を突き飛ばしたとき、机の角かどこかにぶつけてしまったのだろう。そのたおやかな小指の付け根あたりが裂け、微かに血を流しているのが見えていた。

 彼女本人も今気付いたらしい。まったく、ひどいやつもいるものだ。少し絞殺されそうになったくらいでこんな可愛い女の子の身体を傷つけるなんて。


「どうせ治療するなら今やっても同じだろ。先にやっときなよ」


 そうね、とばかりに軽く頭を動かし、殺子はベッドから腰を上げる。絆創膏ばんそうこうでも取りに行こうとしたのか、一歩を踏み出して――だがそこで動きを止め、代わりにまた僕の顔を見た。


「あなた、優しいのね」

「自慢じゃないがよく言われる」

「でもお兄ちゃんはもっと優しいから何も言わなくても私の傷は全部舐めてくれたわ、だからお兄ちゃんの顔をしたあなたも舐める義務があると思うの舐めて?」


 それはどうやら絆創膏よりももっと素敵な処理法を思いついたからだったらしい。ずいとその手を差し出してくる。


「……」


 愛想笑いで誤魔化せないか無言でいたら、向こうも愛想笑いで無言のままその手で僕の首筋をチョップしてきた。それから底冷えのする瞳になって、


「あなたはお兄ちゃんじゃないけど、お兄ちゃんとの差異を殊更に広げる真似はしないで、私に見せないで。というか傷口が広がってまた血が出たわ。これって誰のせい?」

「どうやら僕のせいらしい」

「正解よ。お兄ちゃんの口だから我慢してあげるっていう話。早く舐めて」


 はいはい、わかりましたよ。

 どうせ椅子に縛りつけられている身だ。選択肢は少ない。ヤケクソ気味に、僕は改めて眼前に差し出された殺子の手に舌を伸ばした。

 舐める。這わせる。

 僅かな引っかかりもない肌に唾液が付着する。

 白磁ですらなく、計算し尽くされたデザインの工業製品じみた滑らかさ、曲線感。粘膜で感じる肉の温度。味蕾に伝わる生臭さ。血だ。触感食感とは裏腹に、そこだけが奇妙に生々しい。


「ん……ふ……」


 ぴちゃり、と舌が鳴る。その中に殺子の含み笑いのような、別の何かのような小さな声が混じる。背筋を小さく震わせたようにも思えた。表情は見えない。

 舌先にあるのは、傷だ。それを失念してしまうところだった。強く触れすぎないように、微かに、つつくように。舌という体内の器官で、体内と体外の境目となった部分を慰撫する。


 今、自分は呼吸しているのだろうか。定かではない。今、自分は粘膜から染み出る唾液以外の何かなのだろうか。定かではない。


 いつのまにか、首の後ろに彼女のもう片方の手が回されていた。そして彼女の胸元に引き寄せられていた。鼻孔と口腔内の感覚が入り混じって、いい匂いのする血だな、と思った。


「とりあえず今できることからやっておく。同意してみるわ」


 ん?


「つまり……どうせもう一回同じことをするつもりだったんだから、今やってみてもいいってことよね?」


 ――今、自分は呼吸しているのだろうか。定かではない。

 というか多分、していない。


「大丈夫。ギリギリを目指すから」


 そんなことを言いつつ、殺子は僕の首に冷たく細いワイヤーのようなものを回し、それを力一杯引っ張っていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る