町に「看取りの家」を作ること
最近、こんなニュースを目にしました。
余命短い患者の「看取りの家」 計画に住民反対「死を日常的に見たくない」 神戸(神戸新聞)
地元の新聞で、私が仕事で活動する神戸のニュースでした。このニュースを最初に読んだときは、自分の暮らす町内に、保育園を作らせない話と同じような、いわゆる「NIMBY(Not In My Back Yard)(ニンビー)」のニュースで、不寛容な住民の反対が問題なのかなと最初は感じました。
※NIMBY 公共のために必要な事業であることは理解しているが、自分の居住地域内で行なわれることは反対という住民の姿勢を揶揄していわれる概念。
最近では、南青山の児童相談所を、周辺の住民が「土地の価値を下げないで」と反対しているニュースが記憶に新しく、反対する理由は施設が何であれ似通っています。
今回の「看取りの家」も、住民は「亡くなった人が出ていくのを見たくない」「落ち着いて生活できない」という理由で反対していると報道されていました。
私も問題となっている町に実際に行ってみました。閑静な住宅地で、「看取りの家はいらない」「看取りの家断固反対」と書かれたプラカードだけが物々しい雰囲気でした。
住民の方に事情を伺うと、「昨年の秋から年末くらいに看取りの家をしたいと突然話があった。自治会には、開設者から話があったのもしれないが、地域住民には特に話はなかった」と言います。
ホームホスピス「神戸なごみの家」
私は、在宅医療と、緩和ケアを専門として、この町で働いています。毎週のように、患者の暮らす自宅ともう一つの勤務先である病院で日常的に「看取り」を見守り続けています。
私は、早速私信とSNSでこのニュースの背景について、何がこのニュースの本質なのか、探り始めました。しかし、私と同じように「看取りが日常の仕事」である神戸で働く同僚もこの話は知らないか、知っていても詳細を知らないとのことでした。
かつてこの神戸で「看取りの家」計画を同じように住民の反対を受けながらも、地域に根ざすよう活動を続け、今年2月1日に開設10年の節目を迎えた、「神戸なごみの家」の創始者である松本京子さん(66)に早速連絡を取り、話を伺ってきました。
私も人として、医師として、松本さんの志に賛同し、ここ6年間この神戸なごみの家に暮らす方を診察し続けています。そして、「看取り」を繰り返してきました。なごみの家も、やはりそういう意味では「看取りの家」なのです。
松本さんと神戸なごみの家はどう地域住民の理解を得たのか、さらに、大切な視点は何であるのか話し合い、ともに考えました。そのことを皆さんにも伝えたいと思います。
まず、このニュースについて松本さんに聞くと、まず「たとえ余命宣告を受けた人でも、自分から『看取りの家』と名の付いた所に来ることはない」と語り始めました。
ドイツのエイズホスピスでの経験から
松本さんは、病院、訪問看護さらにはホスピスで勤務していました。そして、ドイツに研修旅行に出掛け、運命的な気づきを得ました。
「ハウス・マリアフリーデン」というエイズホスピスでは、患者ではなく住人として暮らし、スタッフは、個人的で家庭的な雰囲気を大切にしながら暮らしを支えている光景を目にしたのです。
松本さんは日本に戻り、患者一人一人が、人生の主人公として暮らし、スタッフが管理的に全面にでない「家」を作ろうと決心したのです。「とにかく家があれば直ぐに私の思いは形になると思っていた」と今から10年前の当時のことを語りました。
しかし、ある町の二階建ての家を買い取り改装することを決め、その町の住民会で「看取りの家を作りたいと考えています」と話した途端、猛反対にあいました。「死んだ人を見たくない」「不特定多数の人が出入りするのは困る」といった平穏な暮らしを求める住民と衝突したのです。
改築計画は延期され、家の前のフェンスには、「看取りの家反対」と書かれたプラカードが付けられたそうです。今回のニュースとまるで同じ状況でした。
しかし、改築計画を進め、実際に家が完成したときには、「看取りの家」とは名付けず、以前に松本さんが見学した、良質なケアと介護を実践している鳥取の「和みの郷」という施設の名前にあやかり、「神戸なごみの家」と名付け、活動をスタートしたのです。
なごみの家では、住民の理解を得るために、地域の清掃活動にも積極的に参加し、なごみの家で夏祭りやクリスマス会のイベントをするときは、住民にもビラを配り歩き参加を求めていきました。「なごみの家に猛反対する人もいたけど、『頑張って』と声をかけて応援してくれる人もいたのよ」と住民の思いも様々だったそうです。
看板犬だった(残念なことに天国に逝ってしまいました)ボーダーコリーの「姫」と散歩する時も、住民には積極的に松本さんから挨拶をしていたと当時を語ります。
なごみの家の奇跡
同じ町内で、なごみの家の計画に猛反対していた高齢の男性が、とある病院に入院し、余命1週間と医者から診断されました。高齢の妻は、自宅に帰らせたいと切望し、そしてなごみの家に相談に来たのです。
「私だけではとても今の状態では看病できない。家から近所の松本さんのなごみの家に、夫を入れてもらえないか」
そう松本さんは頼まれました。
松本さんは、既に7年以上なごみの家の活動をし、開設当時におきた反対運動のわだかまりはすっかり心から消え去っていました。入院している病院に駆けつけると、手足を拘束されたまま点滴を受けている男性を目にしました。「すぐになごみの家に移り、看護ケアしましょう」と引き受け、そして男性は転居しました。
なごみの家では、看護師、介護士(ヘルパー)が常時住人のケアに当たっています。部屋の雰囲気は落ち着いており、特に食事が素晴らしく味も良く、家庭の温かさを感じることができます。その男性は驚くべきことに、なごみの家に来てから1週間もしないうちに食事ができるようになり、徐々に回復し自分で歩けるようにもなりました。
私も、何度もこの「なごみの家の奇跡」を目の当たりにしてきました。10年間ホスピスで働き、何千人もの患者の看取りに関わり、多くの人たちを看取り続けました。人の余命もある程度分かる「つもり」でいました。
しかし、開業し、在宅医療を中心に患者を診察するようになり、考えが変わってきました。実際に、私も加わった国内の研究では、自宅で療養するがんの患者は、ホスピスや病院で過ごしたかたよりも、数日の差ですが余命が長いことが分かっています。
もう余命1週間と長年の経験と、研究のエビデンスに基づいた知識から判断した人も、自宅や「なごみの家の」で適切な治療とケアを受ければ、たとえわずかな時間であっても回復するのを、何度も見てきました。
病院で長く働いていた私は、なぜこんな奇跡が起こるのか、何が違うのか考えてみました。
まず、食事です。ホスピスでも病院食に手を付けない患者のために、多くの家族は、それぞれの好きなもの、食べられるものを差し入れていました。なごみの家では、毎日スタッフが一人一人のことを考えて食事の献立を作っています。私も診察の時には、必ず一緒に昼食に加わり皆さんと食事をともにします。皆さんが食べているものを見るとそれぞれ少しずつ違うのです。食べやすいように調理法を変えているのです。
そして、全て個室だったホスピスと違い、なごみの家では、毎日住人同士が同じ部屋で過ごす時間も多く、なにより人の声が身近に聞こえます。スタッフは普段着で働き、庭からは四季を感じる匂いが入って来ます。ああ、ここには風と匂いがあるなと、私は病院との違いを感じます。
さらに、時間の流れ方が違うのです。ホスピスは病院よりましでしたが、絶えず医療者が慌ただしく活動しています。そういう慌ただしさは、病室の雰囲気を変えてしまいます。知らず知らずのうちに、医療者と患者の間にも、時間にせき立てられ、業務に管理された無機質な時間が流れていくのです。
食事、人の声と気配そして人との関わり、静かな時間が、患者を癒やして、ケアして、そしてその結果奇跡が起こるのだと気がつきました。
共暮らしの家、日々の暮らしを大切にする
「看取りの家」ではなく、「なごみの家」になり、住民に受け容れられるには、どのようなことが必要なのかと松本さんに尋ねると、こんな答えが返ってきました。
「看取りの家はなく、共暮らし(ともぐらし)の家にならなくては」と。
さらに、「余命宣告された人が、看取りの家に自分から来るという考え方自体が、まずその人にも、そして周囲の住民にも配慮がなさすぎる」と。
松本さんの著書にはこう書かれています。ホームホスピス(なごみの家)は単に死を看取るところしてあるのではなく、そこで営まれる日々の暮らしが何より重要であること、その暮らしを充実したものにするためには、ライフパートナーとして最後まで伴走する決意が必要であると。
医療者やまわりの人たちの知識と協力が必要
松本さんと話をするうちに、なごみの家のような場を作るには、人脈と知識が十分必要なことが分かりました。
まず人脈とは、中で働くスタッフだけではありません。創始者の熱意に賛同する私のような医師、看護師、薬剤師といった医療の専門職の協力者が絶対必要です。運営する家の創始者の熱意だけでは、質の高いケアはできません。
そして知識です。病人の治療やケアの確立した方法を学ぶことが必要なのです。学んだ知識は実践の経験を繰り返し、やっと、その人ごとに合ったやり方で支える、確かな方法に成熟していきます。私も長く緩和ケアに関わっていますが、今でも一人一人個別に治療を組み立てる難しさに悩む毎日です。
知識は、治療やケアだけでなく、医療保険、介護保険の知識も十分必要です。どのような保障が受けられるか知らずして、家に入居者を迎えると、多大な費用で大きな負担をかけてしまいます。家に暮らしながらも、私のような医者が医療保険で診療にあたる仕組みを構築しなくてはなりません。
報道によると「介護保険制度の制約から理想的なみとりが難しい現状を痛感した」と事業者は語りますが、介護保険の仕組みと制約を熟知し、その狭間をさらに病人のケアのために有利にするには、どうしたらよいのか知恵を絞らなくてはなりません。
今回のニュースになった事業者側の人は、松本さんのところに一度相談に来たという話でした。松本さんは今までの自分の苦労と経験から、あらゆる助言をしたそうです。地域住民との向き合い方、ケアの大切さ、そして医療の人たちとの人脈が必須である事を。
しかし、残念ながら人脈を作るための行動は、現時点で積極的ではなかったようです。
いくら事業者の志が高くとも、住民の反対に耳を傾け、先駆者の助言を聞き入れ、自分の思いを形にできるまでは、未熟なケア技術で病人を扱ってはならないと思います。私は、このニュースで報道された、「看取りの家」を作ってはならないと、住民とは違う視点で感じました。
看取りや死のためではなく、苦しまないよう生きるための緩和ケア
私は日夜、たとえ治らない病気になっても、せめて痛みをはじめとする病気の苦しみだけはきちんと治療しなくてはならない、そしてたとえ弱くとも生きる力を支えたいと考えています。
そして私が専門として、一生を捧げる緩和ケアは、「看取りや死」のためだけにあるのではなく、「苦しまないように生きる」ためにあるのです。
看取りの場所があれば、人は自然に苦痛なく亡くなるのではありません。多くの医療と介護の専門職の人たちが、確かな技術と知恵で、弱った病人を支え続けて、日々の暮らしを援助したその先に、平穏な看取りがあるのです。
看取りだけを目的にした家はこの町には必要ありません。生活を支える家が必要なのです。
神戸なごみの家のようなホームホスピスは、全国ホームホスピス協会に加盟し、研修会、相互交流を通じて、ケアと介護の質の維持と向上に努めています。今回ニュースとなった、「看取りの家」はこの全国ホームホスピス協会には加入していないことが確認されてます。
【参考文献】
『ホームホスピス「神戸なごみの家」の7年』(松本京子、木星舎、2015年)
全国ホームホスピス協会のホームページ
【新城拓也(しんじょう・たくや)】 しんじょう医院院長
1971年、広島市生まれ。名古屋市育ち。1996年、名古屋市大医学部卒。社会保険神戸中央病院(現・JCHO神戸中央病院)緩和ケア病棟(ホスピス)で10年間勤務した後、2012年8月、緩和ケア専門の在宅診療クリニック「しんじょう医院」を開業。著書 『「がんと命の道しるべ」 余命宣告の向こう側 』(日本評論社)『超・開業力』(金原出版)など多数。
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