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更新日:2022年4月1日

浜松城公園(本丸南広場)解説看板について

解説看板の公開のお知らせ

浜松城公園の本丸南広場が開設されました。

来園者の方に浜松城の歴史に触れていただきたく、解説看板を設置しました。

つきましては、本ページにて、解説看板の内容を公開します。ぜひご利用ください。

本丸南広場解説看板(外国語版まとめ)

浜松城公園園内マップ

浜松城公園園内マップ

(1)天守閣

1958年(昭和33年)4月に再建。

3重3階(地下1階)建てであり、1、2階は展示室、3階は展望室、地下は籠城時の井戸を展示。

(2)天守門

2014年(平成26年)3月に復元。

木造瓦葺の櫓門であり、櫓内部は発掘調査で見つかった瓦や土器の一部を展示。

(3)石垣

400年以上前の築城時のものとされる石垣。

自然石を利用して積み上げた「野面積」といわれる石積み手法が用いられている。

(4)家康公の像

浜松の初代城主である徳川家康公の像。

右手には家康公の兜の象徴である羊歯印を持つ。

(5)中央芝生広場

公園中央部に位置する園内で一番大きな広場。

様々なイベント会場としても利用され、休日を中心に賑わいをみせる。

(6)日本庭園

公園西側に位置する庭園。

山門や四阿のほか、滝や竹林を備えてあり、公園内での紅葉の名所となっている。

(7)浜松市美術館

1971年(昭和46年)7月に開館。

公立美術館としては、全国3番目、静岡県内では初となる歴史のある美術館。

(8)浜松城茶室「松韻亭」

1997年(平成9年)11月に開席。

敷地内に広間と立礼席のある主棟、離れ「萩庵」、日本庭園を備えた本格的な茶室。

<注意事項>

駐車場の利用時間は午前8時から午後9時30分までです。

天守閣、天守門、浜松市美術館は、別途入場料がかかります。

浜松市茶室での呈茶席は、別途呈茶料金がかかります。

園内は禁煙です。喫煙は指定された場所でお願いします。

自然の地形を利用して整備した公園のため、園内には高低差があります。

浜松城の歴史と遺構

浜松城の変遷1

今川氏支配下の曳馬城の図

(1)今川氏支配下による引間城の時代(16世紀前半)

浜松城の前身は、15世紀頃に築かれた引間城です。引間城は引間宿の西側に並ぶ丘陵地に築城されました。

築城時の城主は不明ですが、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。

この城は、4箇所の曲輪を複合した方形の構造をしており、現在も浜松城公園の北東部にある元城町東照宮境内にその名残を留めています。

徳川家康による浜松城築城期の図

(2)徳川家康による浜松城築城期の時代(1580年頃)

1570年(元亀元年)、今川氏の滅亡によって、徳川家康は三河の岡崎から浜松に移りました。

引間城は浜松城と改称され、甲斐の武田信玄の侵攻に備える前線基地として拡張、整備されました。

浜松城は、軍事施設としての実用的な城であったと想像されますが、家康在城期の城の具体的な記録や絵図は残されていません。

近年の発掘調査によりその姿が解明されつつあります。

浜松城の変遷2

堀尾吉晴による織豊系城郭化の図

(3)堀尾吉晴による織豊系城郭化の時代(1590年~1600年)

1590年(天正18年)の小田原合戦後、豊臣秀吉によって家康は関東に移封され、その後、秀吉の重臣である掘尾吉晴が城主となりました。

吉晴は豊臣氏の権威を示すため、当時の最新技術である高石垣や豪壮な天守を備えた織豊系城郭(織田信長、豊臣秀吉らにより築かれた「高石垣、瓦葺、礎石建物」が特徴的な城郭)に造り変えました。

現在、浜松城に残る石垣は、吉晴在城時に築かれたものと考えられています。

徳川譜代大名による近世浜松城の図

(4)徳川譜代による近世浜松城の時代(17世紀前半以降)

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで家康が西軍に勝利すると、浜松城は徳川譜代の大名が治める城となりました。

戦乱の時代が終わり、浜松城は行政施設としての体裁が整えられました。

豪壮な天守は17世紀前半に失われたとみられますが、三の丸の拡張や大手門の新設などが城下町の整備と一体となって行われました。

家康在城期の浜松城1

家康の浜松在城期のできごと

(1)近世都市「浜松」の出発点

武徳編年集成によると、1569年(永禄12年)5月7日に、家康が城の名を浜松に改称したと考えられます。

これにより近世都市「浜松」の名前が定着しました。

家康が正式に浜松城に移った時期は、文献によってずれがありますが、1570年(元亀元年)とされています。

その後、1577年~1582年(天正5年~10年)に浜松城の普請が行われています。

家康は、前身の引間城を徐々に拡張しながら、時間をかけて浜松城を整備したと考えられます。

家康在城期の浜松城2

遠江をめぐる武田氏との戦い

(2)武田氏との攻防

今川氏の滅亡によって、遠江は家康と甲斐の武田氏との戦場となります。

家康は浜松城を本拠地として、各地の城を補修、新築しながら、その勢力を急速に拡大していきました。

一方、武田軍は、駿河や東三河方面から遠江に侵攻し、各戦いにおいて勝利を重ねながら、浜松城に迫っていました。

1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは、城の北西側にある犀ヶ崖付近まで武田軍に攻め込まれ、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ったと伝えられています。

当時の浜松城は武田氏との戦いにおいての出撃拠点であり、防御の要となる重要な城であったと考えられています。

家康在城期の浜松城3

家康の在城時の浜松城のイメージ図

(3)家康の浜松城

家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺き建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられています。

イメージ図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と板葺き屋根の建物を表現しています。

これまでの発掘調査により、家康在城期とされる遺物が元城町東照宮、作左曲輪、清水曲輪から出土していますが、旧元城小学校内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、家康が瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も考えられます。

家康在城期の浜松城4

発見された堀跡の写真やイメージ図

(4)発見された堀跡

<堀の特徴>

堀の規模は、幅9.7メートル、深さ1.7メートルであり、近代以降に削り取られた地盤の高さを考慮すると、本来の深さは、3メートルほどであったと推定されます。

堀の斜面には石垣がないことから、いわゆる「土づくり」の構造であったことが分かっています。

<堀の地層断面>

堀の最下層では、水に浸かったような特徴がみられ、腐らずに残った植物片が多く含まれていました。

その上層には人為的に埋め戻したような地層があり、表面に近い部分では、地山と同じ精良な土を用いて整地されている状況が確認できました。

堀は当初、水が溜まるような状況であったものが、その後の城内の改変に伴い埋め戻されたと考えられます。

<堀の年代>

堀内部の人為堆積層やその上の整地層から土器、陶器が出土しました。

これらの出土品の示す時期は1560年代頃にあたり、堀は戦国時代のうちに廃絶した遺構である可能性が高いとみられます。

家康が築城を開始したのが1570年(元亀元年)であり、その後、1578年(天正6年)と翌年頃に城内において、大規模な改築を集中的に行っています。

新たに発見された石垣

新たに発見された石垣の写真

発掘調査により判明

(1)発見された当時の様子

この石垣は、2014年(平成26年)に行った発掘調査により発見されました。

翌年には石垣部分の全面検出を行っています。

発見された石垣には、天守台と同様に自然石を利用して積み上げた野面積であり、石を横長に配置し、横に目地(つなぎ目)が通るようにする布積みといわれる石積み技法がみられます。

この石垣の状況から、堀尾吉晴在城期(1590年代)と推定される遺構と考えられます。

(2)整備後の様子

遺構の保護をはかりながら、2018年(平成30年)に整備を行いました。

整備の主な手法は次のとおりです。

  • 石垣下段に盛土を行い、基礎部分の劣化を抑える
  • 石垣上部に同じ石材を貼り付け、風合いを整える

(3)裏込めの様子

石垣を上から見たところです。

石垣の裏側には、排水機能を高めるため、裏込石と呼ばれるこぶし大の石が隙間なく詰められています。

鉄門

鉄門の位置図

  • 左図:17世紀前半 浜松城の図(浜松博物館蔵)
  • 右図:安政年(1850年代)浜松城絵図(浜松北高校蔵)

浜松城の要となる門

鉄門は、文字通り、扉や柱などの門の一部に鉄製の部材を使っていた門であったと考えられます。

本丸への正面出入口として重要な門であり、天守門と同様に門の上部に櫓を有する櫓門でした。

江戸時代前半の絵図(左上)には、門の内側に桝形(四角形)の虎口(侵攻してきた敵を前後左右から攻撃できるようにした空間)が描かれ、高い防御機能を持っていたことがうかがえます。

1872年(明治5年)まで鉄門は存在していましたが、その後の払下げ等により失っています。

なお、鉄門の推定位置については、東側の歩道路面にあるプレートにより確認することができます。

本丸南の空堀

本丸南の空堀の位置図

  • 左図:17世紀前半 浜松城の図(浜松博物館蔵)
  • 右図:安政年(1850年代)浜松城絵図(浜松北高校蔵)

この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために設けられた空堀でした。

この堀の特徴は、空堀の中央部に土手(中土手)を設け、起伏(高低差)をつくり出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくしたつくりであったと考えられています。さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け、堀の奥まで侵攻した敵が塀沿いに移動してきたところを三方(前方、左右)から攻撃できるように工夫がされていたと考えられています。

なお、この堀は公園南側の道路の下にあると考えられていますが、その大きさ(範囲)については、明確になってはいません。

登り塀

登り塀の位置図と石塁の写真

  • 上左図:17世紀前半 浜松城の図(浜松博物館蔵)
  • 上右図:安政年(1850年代)浜松城絵図(浜松北高校蔵)

<発掘により本丸を囲っていた石塁が見つかる>

  • 下左図:西側の石垣
  • 下右図:塀の柱があったとされる柱穴(2箇所)

全国でも珍しい斜面地の石塁

登り塀は、天守曲輪と本丸との高低差を斜面に沿ってバリケードのように石塁を築き、その上に塀を設けたものです。

この塀の特徴は、天守曲輪のような平坦な場所のみを石垣で取り囲むのではなく、斜面までを含めていることであり、侵攻してきた敵が斜線で横移動することを遮る機能を持っていました。

近年の発掘調査により石塁両側の石垣や、塀の柱があったとされる柱穴が確認でき、石塁の幅が判明しました。

なお、登り塀の南端点の推定位置については、南側の歩道路面にあるプレートにより確認することができます。

家康公お手植えみかん

家康公のお手植えみかん

このみかんの木は、徳川家康公が職を退いて駿府城に隠居された際、紀州(和歌山県)より献上の鉢植えのみかんを本丸天守閣下の「紅葉山庭園」に家康公自ら移植したものと伝えられており、その苗木を静岡市より寄贈していただきました。

このみかんは、鎌倉時代に中国から入ったみかん(紀州みかんまたは、こみかん)の一種で、香りが強く、種のある小型の実を結ぶのが特徴です。


 

お問い合わせ

浜松市役所都市整備部公園課

〒430-0923 浜松市中区北寺島町617-6

電話番号:053-457-2353

ファクス番号:053-457-2164

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