20230412

 呪いというのはある。それが決定的な出来事なのか、ある時期に埋め込まれた価値観なのかはともかく、何かしらの価値判断に現れる。

 

 一番良く見る例としては、成人する過程で学力による序列を意識させられた人たちが、それを基準に物事を測ろうとする様子は、多分自分だけではなく多くの人が身の回りでよく見ると思う。特に自分の環境では多いかもしれない。大学を卒業するまでの間に知的な能力(それがテストの能力なのか、それともある種の器用さなのかは別として)によって上下がつき、そこで優れている人間は尊敬され、成功が約束されているというタイプの信仰が植え付けられるように感じる。

 

 価値や序列の内面化というのは誰かの仲間になるために必ず必要なものだし、仲間だからこそその序列の中で自分がどこに位置づけられるかというのが共感や理解の対象になる。自分はそういったそういった価値観に混ざれなかった部外者だが、処世術としてそのような人間だと振る舞う機会が多い。上辺だけの振る舞いだが、割と好意的に受け入れられる。マナーやコードというのはただ守れば大体は上手くいく。

 

 序列の中にいることは、仮に相対的に上位であれ、負けていることを意味するらしい。彼らがよく言うのは、真に上位であることは、そういった共同体の中にいながら、そういった価値観に束縛されないことだという。自分は外側の人間だが、彼らのそれはずいぶんひねくれた見解だと思う。金や名誉の社会的な成功であれ、異性関係であれ、そういったものの序列の中にいる人間は、そういった共同体の価値判断の重圧の中で生きながら、そういったものから開放されたいという話をしがちなのかもしれない。軽薄な自分にはこういった実存的な話はよく理解できない。

 

 一方でそういった共同体の外側にいる人達も、アウトサイダーの性質を並べ、自分を規定する言葉として受け入れている。落伍者の中にも秩序はある。序列や規範に対して批判をする彼らの言葉を聞きながら、彼らが依拠している世界の認識の方法もまた、医療であれ言論であれ、誰かから与えられた言葉を利用しているし、それをマナーやコードとして受け入れるか否かの判断をしているように見えた。

 

 自由であることは難しい。言葉というのは概念を規定し、概念によって世界を捉える。そしてそれは自己をも含んでいる。それらから自由であることは難しい。自分は別に自由であろうとしていないが、そういった規範に嫌気が差しがちであり、言葉からは遠ざけられている。心の底まで逆張りの精神が根付いているのだろう。

別に自由であることが何か良いというわけでもない。ただ腰が座らない人間というだけなんだろう。人間は集団に属する必要があるし、その集団を最後まで選べなかった人間を表現する美しい言葉でしかない。人生の経緯として掴んでいたのなら、それは純粋にいいことだと思う。

 

 言葉がどのように人間の認識を変えるかというのは、自分が子供のころからよく興味があって試していた。個別の人間は局所的な知識しかないし、世の中のほとんどのことは検証不可能な内容である。何によって人間が意思決定をしているのかというのは、自分の中ではわからない。昔から人の行動を変えるための嘘を興味本位でついてきた。その場でもっともらしい思いつきの解釈を披露し、不安を一個増やしてやれば少なくない人が選べなくなるようなものは、いったい何なんだ?

 

 嫌味と嘘をついてきた。人前ではそいつの共同体の成員かのように振る舞っているし、何なら途中で飽きて茶々を入れるが、自分はそういった価値観を持っている人間の中でも、とりわけそれらが見えている人のように扱われることがある。愛が人よりある人間だと、死んだ女と、死んでない女から言われた。自分の中での呪いとして、それがある。