進化論はゲームのルールを説明してるだけなので

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進化論で生命のすべてが説明されたという誤解があるのだが、進化論が説明しているのはゲームのルールだけである。なんでこのゲームをやってるのか説明してないし、そもそもゲームの元となる最初の細胞が作られた経緯についてはまったく説明出来ないのである。この地球上に生命は一種類しかない。すべてDNAの遺伝情報で作られている。つまり、DNAとは別の手法で記述されて存在している生命はないのである。地球上に生命は一度しか誕生しなかったか、もしくは、その一度以外は、誕生しても痕跡すら残さずに死んだか、そういうことである。遺伝情報をもっていて繁殖していくという、ずいぶん都合のいい最初の細胞がどうやって出来たのかというのが根源的な疑問であり、いくら単細胞とはいえ、実はかなり高度であるし、これだけは自然淘汰理論ではまったく説明できない。ドーキンスが「利己的な遺伝子」という言葉を使うのも、最初の細胞についてまったく説明出来ないことの誤魔化しである。

また突然変異が伝わるというのも、なんか怪しい。たとえば一人の男が突然変異で超人的な力を身につけたとする。それが遺伝するとして、その突然変異が一回のみなら、新しい人類は、すべてがその男の子孫ということになるわけである。既存の人類が淘汰されるのかチンパンジーのように生き残るのか知らないが、ともかく変な話であり、理解しがたいのである。わたしだけが突然変異した超人として、道重さゆみちゃんとか道重さゆみちゃんとかいろんな女を好きなだけ抱けるならいいのだが、なんか実は同時多発的に突然変異が起こるような力学が働いているのが実際のところかもしれないわけである。これは今のところ誰も証明していないし、アインシュタインが理論的な裏付けを持って「重力で光は曲がる」と予言したような科学的な論証はまったくない。だが、20万年前のミトコンドリア・イヴの後からもいろいろと進化しているであろうし、実際のところ人類が文字を使い始めたのは5000年くらい前であるから、どうも釈然としないのだが、バイオテクノロジーの発達を考えれば、いずれ答えは出されるであろう。

最初の細胞を神が創造していようとも、われわれが繁殖し続けている有象無象だということに変わりはない。人間とて、出来映えの善し悪しで淘汰されているだけで、要は同じなのである。たとえば浩宮と秋篠宮の容姿の格差を考えて貰いたい。同じ両親でもあれだけ違うのである。精子というのは、対になっている染色体のどちらか片方で作られるため840万通りある。卵子も同様で840万通りあるのである。つまり両親の遺伝子を全部混ぜているのではなくて、簡単に言えば、精子と卵子を作るときに、遺伝子の半分がカットされているのである。だから兄弟で容姿レベルが全然違うことも起こりうる。たまたま、そういう偶然でいろいろ格差が出来て、選ばれたり選ばれなかったりして次から次へと繁殖が続き、それぞれの個体が主体性を持つのである。ひとつひとつの個体が中枢神経を持った主人公であるという愚にも付かない在り方をしており、その微妙なスペックの差によって選別され血にまみれたドラマが生まれていくのである。男性であれば、一日に1億個近くの精子を作り続けている。そして運悪く卵子と結びつき受胎してしまえば、また人類に、仲の悪い兄弟が一人加わるのである。あなた方の心は魂などと呼べない中枢神経という怪物であるから、妊婦が赤子をひねり出すたびに、主体性の悲劇がひとつ増えるのである。あと50億年くらいで太陽が膨張して地球は滅亡するので、病臥によって根を張った褥瘡の痛みも、積み重ねた罪障も、すべて無に消えてくれるのであろうが、そこに至るまで、われわれと似たような、しかし別人である生命体が、その生まれた時代の狂気に感染し苦しみ続けていくのである。
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