道重さゆみちゃんの存在証明

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なぜか人間には、自らの存在を証明したいという欲求があるのである。この欲求がなんなのかというと正体はわからない。そもそもなんで生きてるのかわからないわけである。どうせ死ぬのになんで生きてるのか、という謎は解かれない。それでも人間は存在を証明したいと願うのである。その証明しようとする自分とは何なのか、それすら判然としないのであろうが、なぜか証明したがるのである。道重さゆみちゃんが証明しようとしていたものが何だったのか、それは本人も曖昧であったであろう。具体的に証明するべきものがはっきりしていたわけではなかろうし、それは正体不明の欲求なのである。無から生まれて無に帰る根無し草だからこそ、この世界の中で、何かを証明したがるのかもしれないし、飢えた人間が、いずれどうせ死ぬのに食べ物を手に入れて生き延びようとすることと同じなのだろうが、しかし、どうやっても最後は無に帰るとしても、その前に存在を証明しておきたいという渇望は根源的なものであり、なかなかこれは断念しがたいのである。もちろん道重さゆみちゃんが目指していたのは理想のアイドル像であると要約するのは簡単だが、たぶんそれ以前に、どんな形でもいいから自分の存在を証明したいという欲求があるのである。たとえば女優としての適性があれば、容姿は並外れているのだし、いろいろラブシーンを演じて、かなりの人気女優となったであろうし、あれこれ浮き名も流したであろう。女優が出来るのにやらなかったのではなく、向いてないからやらなかったのであり、何が何でもアイドルというわけではあるまい。そもそも道重さゆみちゃんという人間は、やたらと聡明なわりには何も出来ないのであり、人の上に立つわかりやすい王笏を手にした存在ではなかったはずである。歌もダンスも出来ず、演技も出来ず、ただ容姿が美しいというだけなのだから、(その容姿の美しさは証明するまでもないから)、いったい何を証明したかったのか、その核心すらわからないのである。そしてわかりやすい特技がないからこそ、理想的な賢者になるというポジションに収斂したのであろうし、そこで自らを証明することにしたのである。道重さゆみちゃんの容姿レベルなら、何の取り柄がなくても楽しく生きられるであろうに、それでも存在を証明したかったのである。どうせ死んで無になると考えると、見た目を武器にして遊んで暮らしても結果は同じなのだが、おそらく本人も名状しがたい欲求に従って、その存在を世界に刻みつけようとしたのである。美少女が自分の存在を証明しようとして人間的に苦悩する姿が、共感を呼んだのであり、たぶんこの達成したポイントから、過去に遡って物語が塗り替えられ、すべての出来事は、その到達点のためにあったと証明が完結するのである。
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