(寝てる時の)夢は現実と大差ない

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時たま夢に道重さゆみちゃんが出てくるわけだが、それが悦楽極まりないことがある。道重さゆみちゃんの肌に触れる瞬間はまさに超越的な快楽なのである。もちろん夢であるから、すぐに場面が切り替わってしまうし、目が覚めれば、その遺髪のような快楽の余韻は残しつつも、それに浸れるのは僅かばかりであり、まるで毒が浸食していくように、神経の隅から隅まで、この肉体が置かれている穢土の世界に組み込まれていくのだが、なぜこの種の夢は楽しいのだろうかと考えると、現実も実は想像的に理解しているからである。われわれは自分の家族のことでさえたいして知らなかったりする。わたしと相手の脳をケーブルで繋いでいるわけではないから、直に相手に接しても、夢の登場人物と大差ないと言える。現実で道重さゆみちゃんに触れるのも、夢の中で触れるのも、認識の仕組みとしては同じなのである。人間の主観の性質からして、たとえ紛れもない現実であっても、それは夢や空想に似ているのである。現実に道重さゆみちゃんと素肌を触れ合わせる時があったとしても、それはわたしの主観から体験している出来事である。こう考えると、他人に立ち入るのは限界があるのである。どれだけ身体を重ね合わせても、わたしの主観と道重さゆみちゃんの主観が融合することはないのである。現実に体験したことでも、夢みたいと思うことはあるわけである。わたしの主観に対して現象世界が映じてくるだけだから、現象であるという意味において、現実で道重さゆみちゃんを抱くのも、夢で道重さゆみちゃんを抱くのも、大差ないのである。
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