蒼波純は道重さゆみちゃんの後継者にはならない

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そろそろ現実を冷静に見ないといけない。蒼波純はアイドルにはならない。彼女はトップコート(ナベプロ)に入っているわけだが、もちろん容姿だけで所属が決まったわけがない。ナベプロで演技指導とか歌唱指導をして、資質を見ながら所属が決まったはずである。そしてトップコートに決まったと言うことは、おそらく演技では高評価を受けたはずである。そして歌唱力では、低評価かどうか知らないが、さほど高い評価は受けてないはずである。

こう考えると、アイドルをやることはないのである。本人の資質として、演技力が評価を受けているはずなので、あくまで女優である。性格的にはアイドル系ではあるのだが、たぶん歌唱力での評価が低いのでアイドルはやらない。女優をやりつつアイドル属性を持つことはあるだろうし、CDの数枚は出すかもしれないが、本当のアイドルにはならない。これは仕方がないことである。演技の方が評価されてるのに、アイドルを選択するのは意味不明である。AKBみたいに歌が下手なアイドルもいるけれど、女優になれるのに「歌が下手なアイドル」を目指すのはあり得ない。

そしてアイドルでなければ男性ファンとして応援することは無理なのである。いくら堀北真希や石原さとみが美人でも、男性ファンが応援するのはちょっと変な気がする。向こうとしても変な理想を求められて負担が増えるだけだから、必要としてないだろう。

蒼波純は性格的にアイドル向きなだけに、
歌唱力>演技力
なら望ましかったのだが、
どうやらこれが逆らしいので、女優になるしかないのであろう。
こう考えると、アイドルとして応援する対象から外すのが適切であろうと思われる。

蒼波純に理想のアイドル像を求めるべきではないのである。女優として自由に恋愛し、いろんな相手と付き合って経験を重ねていくのだから、理想のアイドルになってくれと要求するのは無理がある。蒼波純は性格がアイドル向きなだけに、極めて残念ではあるのだが、そろそろ現実を認め、あくまで女優なのであり、アイドルはやらないと判断しなければならない。声優志望からアイドル志望になり、今は女優志望に落ち着いたのだが、これは本人の資質を見極めて選択してきた結果であり、女優という最後の解答に落ち着いたのである。

そもそも道重さゆみちゃんの代わりがいるはずがない。考えてみると、わたしがやたらとアイドルに興味を持ち始めたのは道重さゆみちゃんが卒業発表したあたりからであり、道重さゆみちゃんの代役をやってくれる都合のいい存在を探しているだけである。根っこの部分ではわたしは道重さゆみちゃん以外の人類すべてが嫌いなのであり、その耐え難さの問題なのである。超越的な存在が死に絶えるというテーマに向き合わされており、わたしが蒼波純を応援するとしても、かつて三島由紀夫が大きな物語を回復するために天皇制にすがりついたような行為であり、その背景には、信仰の喪失と根深いニヒリズムがあるのだから、死ぬまで治らない長患いとなる。

三島由紀夫の「金閣寺」では第一章でヒロインが死ぬのである。
偶像の失墜である。
そこからの無意味な人生を金閣という超越性に結びつけようという愛憎の物語なのである。
最後に主人公が金閣に放火するとき、『臨済録』の有名な言葉を述べるわけである。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

当たり前だが、これは文字通り、仏を殺せとか父母を殺せという意味ではない。
愛着や崇拝の対象をすべて断ち切ってこそ解脱が得られるということなのである。
少なくとも三島由紀夫は解脱出来なかったので、ここから天皇崇拝に向かうのである。

第一章で道重さゆみちゃんが死んで、第二章で蒼波純が新ヒロインになってくれるという都合のいいことはないのである。道重さゆみちゃんがいなくなるのだから、回復不能な超越性の喪失に決まっているのである。地球人類から道重さゆみちゃん一人を取り除くだけで、この地球という土牢で畜群がはい回っている現実が露呈されるのだから、絶対者を失うことは致命的なのである。

わたしも出来ることなら道重さゆみちゃんの卒業にあわせて殉死したいわけである。
金閣寺の主人公も、金閣の最上階の究竟頂で死のうとするわけである。

私はその戸を叩いた。叩く音は激しかったろうが、
私の耳には入らない。
私は懸命にその戸を叩いた。
誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。
そのとき私が夢みていたのは、
確かに自分の死に場所であったが、
煙はすでに迫っていたから、
あたかも救済を求めるように、
性急にその戸を叩いていたものと思われる。
戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかない筈だった。
そして私はこのとき痛切に夢みたのだが、
今はあらかた剥落してこそおれ、
その小部屋には隈無く金箔が貼りつめられている筈だった。
戸を叩きながら、
私がどんなにその眩い小部屋に憧れていたかは、
説明することができない。
ともかくそこに達すればいいのだ、と私は思っていた。
その金色の小部屋にさえ達すればいい。


しかし、ここで扉は開かないのである。
それが人間の本質なのである。
金閣寺の最終行は「生きようと思った」と意図的に空々しい言葉で終わるのだが、当然ながら、超越性が失われた世界を生きていくニヒリズムが強く示唆されているのである。

蒼波純は俗世間を超越しているカリスマ性があり、聖者としての気質があるから、道重さゆみちゃんに並び立つ存在であったはずなのだが、残念なことに、男子が応援する対象にはならないのである。小林Pが男性ファン嫌いなので、あえて女優に専念させているということも考えたのだが、トップコートに配置されている段階で、歌唱力は低評価(演技力は高評価)なのだろうと判断するのが適切であろうし、アイドルをやることはないし、男子禁制のイベントに参加する件も、小林P皇帝の寵姫として仕方が無く、わたしが勝手に道重さゆみちゃんと重ね合わせていた少女はもう存在しないのである。
アイドルでなければ、男性ファンとして応援しづらいというのは石原さとみとか堀北真希の事例で述べたとおりである。蒼波純がアイドルとしての路線を捨ててないように見えるのは、万が一女優としての評価が得られなかった場合の保険でしかない。

道重さゆみちゃんがいなくなるというのは、こういう意味なのである。
誰かが引退したら次世代がカバーしてくれるという話ではなく、時空を超えた超越性への結節点を失ったということであり、修復不能な断絶なのである。
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