竜征戦記

雅彩ラヰカ

第1話

ACT1:黒狼団



1 少年と少女


 黒衣の少年が外套の裾を翻し、疾駆する。

 駆け抜けた軌道に風が躍り、砂埃が舞う。おおよそ人とは思えぬ疾風の如き動きに村人たちは暫時呼吸を忘れた。

 紫紺の雷撃を放つ外反りに湾曲した異国の剣――闇を凝縮したかのような黒い刀が振るわれるたび、赤い血が宙を舞う。

 深緑色の歩くワニとしか形容できない怪物が一体また一体と斬り倒されていく様は、演武でも見ているかのような心地にさせられるが、今行われているのは軍が国威高揚のために見せる武芸大会とは一線を画す荒々しさ、そして生命の放つ輝きを孕んでいた。

 踏み込みと同時に歩くワニの足の腱を断ち切り、姿勢を崩したところに脳天を一突き。振り返りざま下段から擦り上げるような軌道で振るわれた一閃が怪物の下顎から脳天を斬り上げて斬撃の勢いのまま後方に吹き飛ばす。

 いずれも一撃必殺で、打ち漏らしはない。

 歩くワニが鋭い咆哮を上げながら少年に飛び掛かる。

 少年は数歩下がり、鋭い前足の爪の攻撃を避けると、一呼吸の間に五度もの斬撃を叩き込み怪物を倒した。その向こうから駆けてくる歩くワニに踏み込み、刺突を連打。悲鳴を上げて歩くワニがたたらを踏み、たまらず倒れ込んだ。

「大丈夫ですから、下がってください」

 少年の付き人だろうか、白い少女が少年の動きに魅せられる村人たちを、危険な戦場から遠ざける。

 村長は、その様子を固唾を飲んで見守った。先ほど村の若い衆が束になって挑みかかっても敵わず、子供が一人犠牲になった。人の命を奪った憎き赤目の怪物が死んでいく様を、――いや、一方的に蹂躙されていく様を目の当たりにし、村長はやはり違うのだ、と悟った。

 一般人と、『傭兵』は違う。

「ぉおおあああっ!」

 喉を痛めかねない砲号を迸らせ、黒衣の少年が刀を振るう。上段から半円を描いた一閃は歩くワニのような怪物の頭部を一太刀で叩き割り、昏倒させる。

 死骸を蹴って後ろに跳ぶという曲芸じみた動きを平然とやってのけ、背後に迫っていた歩くワニを斬り伏せる。包囲網を築いていた歩くワニの怪物は、少年の動きが一瞬止まったのを見て、それを好機と判断したのか一斉に飛び掛かった。

 村長は息を飲んだ。あろうことか、少年は逆手に握り直した刀を鞘に納めている。

 あれが武術の構えであることは、歩くワニを含め、誰も気づけなかった。

 計四体の歩くワニが宙を舞い、少年を押し倒して食らいつく。誰もが最悪の光景を脳裏に浮かべたそのとき、腰を落とし、背中側に回していた鞘から伸びる柄を握りこんだ少年が抜刀と同時にぐるりと旋転した。

 一瞬、なにが起きたかわからなかった。ただ、黒い閃きとそれに遅れて走る紫の雷撃が尾を引いたのが目に焼き付いただけだ。

 刹那の間に繰り出されたその技が、『神薙かんなぎ一刀いっとうりゅう抜刀術ばっとうじゅつ飛天龍閃転ひてんりゅうせんてん』であることを彼らが知ったのは、後のことだった。

 抜刀回転に巻き込まれた四体の歩くワニの胴が、ずる、と滑り落ちる。

 怪物が全て倒れ伏したとき、そこにあったのは血振りを済ませ納刀した少年だった。

 感情がないのかと思うほど落ち着き払った悠揚迫らざる態度で、少年は一言「行くぞ」とだけ言って、森林の方に歩き出した。白い少女はなにも言わず、静かについていく。

「お、俺たちも!」

 血の気の盛んな若者たちが前に出るのを、村長は「待て!」と一喝して止めた。

「我らなんぞ、なんの助けにもならん。足手まといになるだけだ」

「ですが……」

「信じておれ。今見たであろう。あの傭兵は、並ではない」


     ◆


 遠い未来。剣と槍の時代が終焉を迎え、銃と大砲が台頭した時代。

 ある傭兵は語る。

「今の傭兵はつまんねえよ。剣も腕っ節もねえ。やれ銃だ、戦車だ。いつからこうなったのかねぇ」

 また別の傭兵も語る。

「数百年前の方が、俺たちに合ってたんじゃないかな。あの時代の荒々しさは、所謂、傭兵の原点だと思うよ」

 彼の時代を生きた勇者は言う。

「人々の命が守られるようになったことには感謝しなきゃいけない。けど、俺たち傭兵の生き方は、きっとあの時代に取り残されているのかもな」

 後世を生きる者は、皆一様に語る。

 数世紀前の、荒々しくも命が煌めいていた時代を生きたかった、と。

 遥か昔、世界は単純だった。

 強い者が生き、弱い者が死ぬ。

 鋭い牙と爪を持ち、狡猾で獰猛な怪物や人の道を外れた悪漢を相手取る存在を、人々は傭兵と呼び、生活の希望としていた。

 現代では失われた命のやり取りを行い、自然に感謝し、その日の糧を得る傭兵たち。

 勝てば生き、負ければ死ぬ。

 単純なロジックで生きる彼らの、荒く、眩しく、精悍な生き方は人々の憧れであり、人のあるべき姿でもあった。

 数世紀前の世界は、単純だった。

 人が、動物が、怪物が、ありとあらゆる生き物が生きる意思と活気に満ち溢れていた。

 これはそんな時代で、己の生き方を貫こうと奮闘する傭兵の戦いの記録である。


     ◆


 ――時代は戻り、話は始まる。

 クレセント帝三七四年、二月下旬。

 アルヴンウォーク大陸北西部沿岸に接する環クレセント海連合帝国の北東――三日月形をした国土の、大きな湾内に面する北東エリア、『ガルディック領』。全部で八つある領の中央寄りに位置するこの土地は、森林に覆われていて山岳や湖など自然の多い風光明媚な領として名を馳せ、観光目的で人が訪れることも多い。そのまま定住してしまう者もいるほどであり、帝国でも一、二を争うほど居心地のいい場所とされている。ちなみに双璧を成すもう一つの領は『帝都ルナス』を擁する『ルミナス領』である。

 しかし、どんなに住みよい土地でも必ずある問題が存在する。

 帝暦前二千年――つまり今から約二千四百年前、異端の魔女ラルヴェスが開いた異界への門から世界同時多発的に現れた怪物、通称『エニグマ』。その名の通りで、意味のわからないもの、正体不明のものという理由からつけられた呼称だ。一体どこから来たのかわからない、そしてどこへ行くかもわからない、なんの為に存在するのかわからない。わからないことだらけの怪物。エニグマ。ただわかっていることは彼らはこの世界の脅威である、ということだ。

 そういうわけで、この世界――この大陸には、傭兵ギルドというものが存在した。大陸全土に存在し、蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットワークが形成され、エニグマ狩りを生業とする傭兵を派遣する組織。

 けれど、そうした組織に所属せず、独立した私立傭兵として活躍する者もいる。その大半がより良い報酬を求めて発足されたものだが、中には崇高な理由を持って設立された部隊も存在する。

『黒狼団』。団員の大半を獣人族に類する種族、人狼族・ライカンスロープで構成されたこの私立傭兵は、百年前に組織された長らく続く私立傭兵だ。

 困っている人に手を差し伸べる。そんな当たり前だが、けれど仕事内容によっては誰にもできないような危険な仕事を受け処理する私立傭兵部隊。

 黒衣の少年――レン・クローゼルは、そんな黒狼団に所属する若手エースだった。

 齢は今年で十七。十五で成人とされる帝国においては立派な大人だが、しかしこの少年はまだ若いといえた。平均年齢が二十代後半から三十半ばの傭兵に囲まれれば子供扱いは当然であり、しかし傭兵としてはもう古株だ。その傭兵暦は十年にもなる。エニグマ狩りの仕事を受けるようになったのは五年前からだが、それでも経験豊富なベテランだ。

 そんな少年の服装は、しかし戦いに赴くには軽装だった。

 黒い布鎧に、黒いハードレザーの革鎧、黒い硬い革のロングブーツ。左腕にはこれもやはり黒いいかめしい金属製の篭手をはめており、右腕には金属ではないがハードレザーの篭手をはめている。一番上から極め付きに黒いフード付きの外套を身に纏っていた。斜めがけの背嚢リュックもまた、当然のように黒い。腰には湾曲した黒い剣を提げて、鞘も当然のように黒だった。

 髪も黒く、しかし瞳だけが海のように蒼い。

「アンゼリカ、見てみろ」

 レンは隣について来ていた白い少女に声をかけた。

「え、なんですか?」

 アンゼリカと呼ばれた少女は長いストレートの白髪を揺らし、紫の瞳をしばたたかせた。

 彼女もまた戦闘に適したとは言い難い恰好だった。白いドレス染みた装束に身を纏い、実戦向けというよりかは観賞用といった方がいい装飾の施された銀色の胸甲、篭手、腰鎧、脚甲を装備している。だがそれらは魔術道具『魔具まぐ』の一種で、希少価値の高いエニグマ金属――『メタルゴーレム』を構成する金属が用いられている。使用者の魔力を吸い上げて鎧の表面に薄い膜を形成し、防御力を増す効果を持っていた。腰にメイスを、背中にはクロスボウを背負っている。

 ここは森林だ。天を覆う草木に陽光が遮られ、周囲は昼間なのに少し薄暗い。足元には青々とした草と腐葉土が折り重なっている。少年が指で刺す先には、転がった石ころ。人の拳ほどもあるそれが、ひっくり返っていた。

 そう、“ひっくり返って”いる。

「あの石だ。裏が湿ってる」

「えっと……だから、つまり?」

 少女は要領を得ないという顔をした。レンは呆れたようにため息をつく。

「裏が湿ってるってことは、さっきまであの石は濡れた土の上にあったということだ」

「あ、なるほど。つまりあの石をひっくり返したやつがこの近くにいるってわけですね、そういうことですよね、レン」

「そうだ」

 石がひっくり返っていて、濡れている面が乾いていない。つまりひっくり返ってさほど時間が経っていないということだ。それは、敵が――エニグマが付近にいることを意味している。

 注意して周囲を見渡していると、足跡を見つけた。

「……奥に続いているな。アンゼリカ、見えるか?」

「えっと……足跡が続く方を見ればいいんですよね」

 アンゼリカが目を眇め、遠くを眺める。レンには木々や草花が生い茂る様子しか見えないのだが、彼女にはより遠くが見えているようだった。

「ランダイナスが見えます。二体いますね……つがいかな」

「心底どうでもいい」

 エニグマは有性生殖する種類もいれば、無性生殖で数を増やす種類もいる。研究者の地道な探求によりランダイナスは交尾をして個体数を増やす種類だと判明しているので、つがいがいても不思議ではない。だがレンは研究者じゃないし、生物の生体に興味を持つような少年心ももうとっくに失っている。傭兵として必要な知識なら、まあ取得しようという気にもなるわけだが、必要がないなら気に留めるつもりにもならない。

「今回の依頼はランダイナスの殲滅……村の若い衆が果敢に戦って数を減らしたが、何体か逃がしたって話だったな」

「そうですね……さっきので全てとは限らないはずです。それにこうして足跡もあるわけですし。村人の方にも犠牲者が出たようですし、ここで倒してしまいましょう」

 依頼が来たのは十日前。ガルディック領の領都りょうとに居を置く黒狼団に、近隣の村から一通の便りが来た。

 曰く、エニグマが現れるようになり、人や家畜を襲うようになった。そしてつい先日しびれを切らした若い集団が攻撃を仕掛け、幾許かを倒しはしたものの手痛い反撃を受け犠牲者が出たこと。衛兵はその戦果とも言い難い悲惨な有様に「警備する」と言うだけでエニグマ殲滅に手を貸さないこと。

 要するに、傭兵に仕事を依頼したいという手紙が来たのだ。

 報酬は――充分とは言えない。普通の私立傭兵や現実主義者の集まりである傭兵ギルドなら真っ先に蹴るような報酬額だ。だがそれが金も人脈もない村が出せる精一杯の報酬であると黒狼団が知ると、団長は意欲のあるやつはいないかと隊員に訊いて回った。

 レンはその話に飛びついた。

 強くありたい。強くなりたい。強くならなければならない。

 そんな思いをこの十年間抱えてきた。そんなレンにとって、そんなレンの思いを知るアンゼリカにとって、この仕事は腕試しにもってこいだった。

 馬車で二日揺られて村に到着したとき、運悪くランダイナスの襲撃に遭遇した。

 村人の、しかも子供が犠牲になった。レンたちはすぐさま駆けつけ先ほどランダイナスの何体かを討伐したが、生き残った個体か、あるいは戦いに参加しなかった個体が近隣の森へ逃げてしまったのだ。

 その村の村長は出来るだけ速やかにこの事態の収拾を図りたいということだったので、レンは村でランダイナスを蹴散らした後、気を緩めずここへ来たというわけだ。

「で、見えたランダイナスはどんな様子だったんだ」

「はい、この先にある泉で水を飲んでいるようです。周囲にそれ以外の敵影は確認できませんが……警戒はしておくべきですね」

「そうだな。エニグマ相手じゃなにが起きるかわからん」

 湾曲した剣の柄に手をかけ、レンは思案する。

 考えは、十数秒ほどでまとまった。

「俺が右から回り込んで強襲する。お前は左側から回り込んで援護だ」

「一人でやるつもりですか?」

「相手はランダイナス……数あるエニグマの中でも雑魚と総称される種だ。この程度一人で片づけられなきゃ、“あいつ”には届かない」

「そうですか……じゃあ、一大事にならないように祈ってますよ」

「俺はヴァリアント教信者じゃない。神さまは信者でもない俺を助けちゃくれないさ」

「またそういう捻くれたことを言う……だからろくに友だちもできないんですよ、レンは」

「うるさいな……。さ、行くぞ」

 アンゼリカの肩を叩き、レンは草木が立ちはだかる獣道に足を踏み入れ、白髪の少女と別れた。

 レンが軽装なのは、戦い方にその理由があった。

 彼が持つ武器は太刀という、東方の島国『大和やまとこく』伝来の刀だ。その刀身は外に反っていて、切れ味を増している。その切断力はすさまじく、片手で振るえる大きさと重さでありながら鎧ごと敵を斬り裂くほどだという。重量や勢いに任せて相手を鎧ごと叩き斬ることに特化した剣が多いこの辺りではめったに見ない武器だ。

 この切れ味鋭い武器で、レンは回避を中心に立ち回る戦闘を得意としていた。なので、装備は重装ではなく軽装の方が合っていた。

 加えて、対エニグマ戦では重装よりも軽装の方が生存率が高いという記録がある。

 人間相手の戦いでは、確かに重装鎧を纏った兵士は脅威である。だがエニグマ相手ではそうではない。エニグマの攻撃力は文字通り人智を超えている。どんな頑強な重装鎧でも一撃で破損させられることがあるのだ。そうなっては、防御力が高くても鈍重な装備では役に立たないのである。結果、防御力は低くても回避力の高い軽装の方が生存率が高いのが現実だった。無論、エニグマ素材の重装鎧なら話は別だろうが、敵から攻撃を受けず、回避を中心に立ち回り相手を翻弄し、攻撃を加える。最低減攻撃が掠ったときに急所が守られていれば問題ない。それが対エニグマ戦における――レンの定石だった。

「さて……」

 歩いていくと、アンゼリカが言った通り泉が見えた。ランダイナスが二体、水面に顔を突っ込んでいる。

 一見した印象としては、歩くワニ、といったところか。

 深い緑色のごつごつした外皮を身に纏い、強靭な二本の後足で地を踏みしめている。前足は後足に比して萎びているが指先には鋭い鉤爪が左右合わせて六本生えていて、長く伸びた口には鋸のように歯がびっしりと生え揃っている。そしてなにより目を引くのは尻尾。通常のワニなら細くなっていって終わるはずなのに、ランダイナスの尾は先端が棘まみれの鉄球のようになっているのだ。傭兵たちはこの尾を、その通りに棘鉄球と呼称する。

 そして、全てのエニグマに共通する赤い目が、爛々と輝く。

 鉤爪や歯にやられたら、人間の肉など容易くごっそり持っていかれるだろう。棘鉄球にも油断できない。クロスボウのボルトを易々受け止めるエニグマ製――炎を操る狼のようなエニグマ・グロムガロウの外皮と筋繊維から作られた装備としては高位のハードレザーアーマーと外套とはいえ、油断はならない。

 レンは腰の鞘から太刀を抜く。銘はない。『無銘』。刃渡りは大和国の単位で三尺。こちらの単位で約九十センチ。柄を含めればもう少し長くなる。刀身の先端から三分の一―つまり一尺――が両刃になっており刺突の威力を増す加工がなされている。

 これはきっさき両刃もろはづくりというのだそうだ。

 刀身は黒い。この刀を持っていた『師匠』の話では、大和国の『鬼』の骨から鍛造されたことが色の由来だとか。

 刀身が長くしかし長すぎないのは、大きなエニグマとやり合うためであるのと、対人戦を視野に入れているからだ。レンが生まれ故郷で師匠から学んだ剣術は、暴漢――山賊や盗賊から身を守るための、或いは村に襲い来るエニグマを撃退するためのものだった。当時は勉学のついでにつけてもらっていた稽古、という程度の認識しかなかった。同年代の少年少女と遊んでいるような感覚の延長線上での出来事でしかなかった。

 まさかあのとき学んだことを実戦で使うようになるとは、あの頃は露ほども思いもしなかっただろう。無論、傭兵になりたい、という思いは抱いていた。だがそれは貴族でもない少年少女が騎士になりたいとかお姫様になりたいとかいう妄想じみた夢とそう変わらぬ願望に近かった。今振り返ると、当時の思いが現実になっていることに不思議な感慨を抱く。

 レンはランダイナスがこちらに気付く前に、木陰から飛び出した。

 地を擦るような軌道から斬り上げ。無銘が逆半円を描き、一体目のランダイナスの尾の棘鉄球を確かな手応えと同時に斬り飛ばした。

 宙を舞う棘鉄球にランダイナスの悲鳴とも思える咆哮がかぶさる。ズシ、と棘鉄球が地面にめり込むのと、二体のランダイナスがこちらに気付くのは同時だっ

 尾を斬られたランダイナスが怒号と共に飛び掛かってくる。

 レンはその場から飛び退き、紙一重で食らいついてきた顎を避ける。だが、紙一重だったのはギリギリで回避が間に合った、という理由ではない。わざと、ギリギリになるように調整して躱したのだ。隙を埋め、間一髪で躱すことが出来ればそれだけ反撃に用いる時間も短くて済む。

 眼前のワニ面に、レンは黒い篭手に覆われた左拳でアッパーを見舞った。ゴキリ、と鈍い音がしてランダイナスの顔が真上に反る。歯が砕け、根元から折れた。並の人間族ではありえない怪力。

 しかし、レンは正真正銘、人間族である。体のどこにも獣を模した耳や尾はない。エルフ族のように耳が長いわけでも、エルフ族の中で異端扱いされているオークのように角があるわけでもない。無論、『闇の眷属』であるわけでもない。

 ただ十年前、“混じった”だけだ。

 がら空きになったランダイナスの腹に、レンは無銘の切っ先を突き入れた。両刃の切っ先がランダイナスの白い腹を抉り、深々と刀身を潜り込ませる。刀身の八割が肉に埋まったところで、一気に振り下ろした。

 裂けた皮膚からどっと血が溢れ、内臓が零れ落ちる。赤い目が光を失い、一体目がどうと倒れこんだ。

「まずは一匹……」

 続く二体目が全速力で駆けてきた。レンは後ろに下がりつつ、泉から離れた木々の合間に移動する。

 唸りを上げてランダイナスが一息に距離を詰め、レンに尻尾の棘鉄球を振るう。黒衣の少年は大木に回り込んで一撃を逃れた。棘鉄球を食らった幹が大きく潰れ、耳障りな音を立てる。梢と空気が揺れた。

 沈み込んだ尾を抜こうともがくランダイナスの首に、レンは無銘を斬りこんだ。硬い外皮に刃が逸らされ、表面を削っただけで空を切る。

「チッ……使うか」

 レンは刀身に、篭手に覆われた左手をかざす。

「『汝、暴風の加護あれ』」

 呪文、というよりは祈りといった方がいいかもしれない囁きをきっかけに、奇跡とも呼ぶべき現象が起きる。

 大小の差はあれどその全ては森羅万象。あらゆる生命は、人も、動物も、エニグマも、その身に奇跡――『魔術』を起こすための源『魔力』を有する。

 レンが発動した魔術は、『付与魔術エンチャント』。数ある魔術系統の中で最も得意とする魔術であり、長らく付き合ってきた技だ。十年前の混じったその日まで、レンは魔術の才能などなかった。だが十年前のあの日をきっかけに、低俗なレベルの低級ランクの『破壊魔術』と、この付与魔術を扱えるようになった。

 暴風の加護を受けた刀身が、風の刃を纏う『魔剣』と化す。

 魔剣――いわゆる『魔武器』と総称されるこれらの武器は、魔術的効果を持った武器のことを指す。

 まずは小手調べ。真に切断力を増すなら炎で焼き斬る『焦熱』か先ほど村で使った、雷撃の超振動で一振りの間に微細に切削していく『迅雷』の力を借りるのが良いが、群れているならともかく単一のランダイナス程度に使うものではない。

 木から尾を抜いたランダイナスがこちらを向く。口を薄らと開き、唸る。レンに向かって牙を剥き、爪を閃かせた。

 ワンステップでそれを避け、横に回る。するとこの動きを読んでいたように、ランダイナスが尾を振るった。人の頭ほどある棘鉄球がレンの頭目掛け飛んでくる。

 屈んでそれを避け、棘鉄球が頭上を過ぎ去ったのを見計らい、下段から無銘を振るう。先ほどエンチャント無しで斬れた尾である。風の力も相まって、ほぼ無抵抗で尾を斬り飛ばした。

 悲鳴を上げるランダイナスに肉薄。その頭部に、刃を突き込む。暴風の加護を纏う無銘の切っ先が硬質な皮を貫き、頭蓋骨を砕いて脳組織を破壊する。

 ランダイナスの体がビクッと震えたかと思うと、それきり動かなくなった。

「ふぅ……」

 無銘を引き抜くと、魂を失ったランダイナスがどう、と倒れた。

 レンは太刀を、刀身と同じく鬼の骨から鍛造された黒い鞘に納めると、腰の後ろからずんぐりとした鉈を掴み取った。切っ先があり片刃。しかしこれは武器ではない。藪を切り払ったりしたり、動物をさばくため、或いはエニグマを解体するために用いるものである。

 刃先をランダイナスの甲殻の隙間に入れ、ごつごつした外皮を剥ぎ取る。爪を根元から抉り左右合わせ六本をすべて回収する。その工程を二体分行った。皮が二枚に爪が十二本、装飾や薬になるという牙を集める。

 そして最後に切断した棘鉄球を拾った。聞いた話では、この棘鉄球は珍味らしい。貴族や金持ちの間で食されていて、意外と高く売れる。ランダイナスの部位の中では、多分一番高い値がつくのではないだろうか。

 しかしこれだけ集めると、担いで持って帰るのに苦労する。

 そこで活躍するのが、レンが背負っている斜めがけの背嚢だ。

 拾い集めた素材を地面に置き、背嚢を下ろす。背嚢の口を開くと、その中には真っ暗な闇が覗いた。この背嚢――異次元回路背嚢『インフィニウム』に、物を入れられる限度、限界というものはない。レンは真っ暗闇の中に次々素材を突っ込んでいく。

 このインフィニウムにも、もちろん制限はある。入れられるものは死んだもの、命のないもの――すなわち魂のないものと決まっている。とはいっても生きたものが一切入らないというわけではない。そんなことでは荷物を取り出す際、レンの腕が入らないということになる。つまりは生きたものの全身が入らないというだけで、一部分だけを入れることはできるのだ。一度全身を入れようと試したことがあったが、首までは入るものの頭を入れようとすると見えない力で阻まれ、無理矢理突っ込もうとするとそれに倍する力で跳ね返された。

 この背嚢をくれた人物の話では、異次元回路――つまりこの袋の異空間は、召喚エニグマを封じているような『生きたものでも入れる空間』ではないらしい。なんでも『時間が止まっている空間』らしく、実際に食べ物を入れていたところひと月ふた月経っても腐らなかった。全身が入らないのはそういう制限が掛かる魔術が施されているからとのことだった。

 つまりこの物品は、魔具なのだ。

 無制限にものが入るというのは、この家業では重宝する。売って金にできる素材を際限なく持ち帰れるおかげで、レンたちの懐はだいぶ暖まっていた。

「相変わらず便利だな……今度ギルベルトに会ったら一杯くらい奢ってやらなきゃな」

 数少ない友――隣国の友人の名を知らず知らず口に出し、レンは独り言を漏らした自分に苦笑した。敵を討ったことで、少し気が緩んでいる。

 そう、少し気が緩んでいた。

「グアアアアアアッ!」

 木陰から、捕捉していなかった一体のランダイナスが飛び出してきた。レンの背後を取ったそいつは大口を開け、涎の滴る顎でレンを噛み砕こうとする。

 咄嗟に左腕を掲げた。この頑丈な篭手が砕かれるとは到底思えないが、万が一篭手ごと噛み砕かれても、こっちの腕なら骨を折られたって“なんでもないように”回復する。

 痛みを覚悟した瞬間だった。

 ひょう、と空を切り、一筋のボルトが飛来する。風よりも速く放たれたそれはランダイナスの硬い外皮を貫き、深々と突き刺さった。アンゼリカのクロスボウだ。

 クロスボウのボルトが鋼鉄の鎧をも貫くことを考えれば、ランダイナスの皮がいかに硬いかわかるだろう。あれを適切に加工すれば、大斧を叩きつけられても耐えられる鎧を作れる。

 ランダイナスがぐらついた。ボルトを一発、主要な内臓を貫通したわけでもないのに、ランダイナスは酔っ払いのように千鳥足になり、倒れこんだ。

 びくびくと痙攣するランダイナスは、泡を吹いていた。

「アンゼリカ、なにをした?」

 泉の向こうからやってきたアンゼリカはクロスボウ『ステイル』を背に戻し、メイス『ユドス』を手にしていた。どちらもエニグマの素材から作られた物品で、鉱物などから作られるものより数段上の威力を誇る。そんなクロスボウ・ステイルで撃たれて半ばほどしかボルトが埋まらないというのは、ランダイナスがいかに硬いことか。

 そんなランダイナスが、なぜ痙攣しているのか。

「グレースからもらった麻痺毒を塗ってみたんですよ。ただ、強すぎましたね」

 強力な麻痺毒で呼吸と心臓の動きを阻害されたランダイナスは、しばらくしないうちに死んだ。もうピクリとも動かない。

「お前、その毒に触っちゃいないだろうな」

「そんなそそっかしい真似するわけないじゃないですか……ん、ひょっとして心配してくれているんですか?」

「誰が。間違えて俺に毒を付けないか……」

「いやー、殿方にこれだけ思っていただけるっていうのはりゅ――女冥利に尽きますねえ」

「そうじゃない」

 くねくねと腰を躍らせるアンゼリカの頭を軽く叩き、レンは死んだランダイナスから素材を剥ごうとして、


 辺りを襲った塊のような風に、吹き飛ばされた。


 腐葉土だらけの地面を転がり、勢いのまま立ち上がって無銘を抜く。尻もちをついたアンゼリカが慌てて立ち上がり、メイスを構えてそいつを見上げる。

「おい……ふざけるな」

 グリフィン。

 鷲の上半身と翼、獅子の下半身を持った巨大なエニグマ。翼がバチバチと鳴り、紫紺の雷撃が迸る。傭兵ギルドでも高ランクの戦士でしか渡り合えない難敵。レンも初見の相手ではないとはいえ、以前は四人で挑んだ相手だ。たった二人でやり合うことなど考えたこともない。だが世界は広いもので、こんな怪物をたった一人で撃退、討伐してしまう猛者もいる。

 レンはここに至って、馬鹿な考えを巡らせていた。

「アンゼリカ、手を出すなよ」

「え……?」

 黒い篭手に覆われた左手を無銘にかざし、刀身をなぞる。

「『汝、焦熱の加護あれ』――こいつは、俺一人でやる」

 グリフィンが咆哮する。鷲のくちばしから唾液が飛び、生温かい息がレンをなぶる。

「本当にいいんですか? レン……私の『力』を使えば、楽に……」

「いや、いい。こいつに立ち止まってちゃ、あいつは討てねえんだ」

 焦熱の加護を受けて赤熱化した黒い刀身が、木漏れ日を受けてぎらりと煌めいた。


2 団長へ報告


「着いたよ、あんちゃん」

「着きましたよ、レン」

 あの依頼を送ってきた村に駐留していた隊商キャラバンが領都に向かうというので、狩ったランダイナスの素材をタダで譲るのを条件に同道させてもらっていたレンは、御者台と隣のアンゼリカからかけられた声にゆっくりと目を開けた。明るい。まだ昼を少し過ぎたくらいか。

「ん、ああ……もう『ガルド』か」

 この帝国を構成する八つある領――『ローゼス』、『ルミナス』、『トリストルド』、『アスティリア』、『マグノリア』、『ガルディック』、『ヴェルサス』、『セイレス』には、首都とも言うべき、それ自体が小国規模といっていいほど巨大な中心都市が存在する。それらは領の中心の都市という意味を込めて『領都りょうと』と呼ばれていた。なお国の中枢、帝城を擁するルミナス領では領都ではなく『帝都ていと』と別の名で呼ばれる。

 ガルディック領の領都ガルドは人口百万人の大都市である。東西南北中央の全五区にわけ隔てられている。なおこの区分はガルドだけのものではなく、全ての領都に課せられている。これは初代皇帝が海運による交易を効率化するために行った政策だとされている。

 今でこそ海に面していない内陸部の領も存在するが、元々環クレセント海連合帝国は全ての領が海に面していた。海運によって物流を促し生活の水準を上げるという初代皇帝の考えはいまだに根強く残っている。そのため海に面している領の領都は、全て海と接触し大きな港を有していた。

 元々この国は、八つの小国だった。三百八十年前に起きた竜大戦で疲弊した六つの国々を初代皇帝ウィリアム・ゲルムスがまとめ上げ、一つの国にした。その後、今から約二百年前ほどに宗教――ヴァリアント教に恭順したヴェルサス王国が併合され七つ目の領となり、トリストルド王国が戦争を経て八つ目の帝国領、トリストルド領になった。

 そういう意味では、ガルディック領は古参の領である。

「さて、本部に帰るのはグリフィンの素材を売ってからだ」

「はーい」

 隊商と別れ、レンは商業区が立ち並ぶガルド領中央区へ向かう。あの隊商にグリフィン素材を売るのもいいかと思ったが、あの隊商はエニグマ素材を扱うタイプではなかったから、ランダイナス素材ですら少し持て余している様子があった。薬になる牙や珍味としてもてはやされる棘鉄球があったから取引に応じてくれたのだ。そういうわけで、ランダイナスよりも高価な素材であるグリフィン素材は、適切に取引してくれる店に持ち込むことにした。

 辻馬車に乗り、商業区に向かう。店は正直どこでもいい。エニグマ素材に適正な価格を付けてくれる店であれば、なんだってよかった。レンは商魂溢れる商売人というわけではない。最低限、適正価格で取引できればそれでいい。

『エニグマ素材ならここで!』と帝国語で書かれた店を見つけ、レンは辻馬車をそこで止まらせた。アンゼリカと御者にここで待つよう言い、一人、斜めがけの異次元回路背嚢インフィニウムを背負って店内に入る。

「おっ、兄ちゃん傭兵かい? 良い素材が揃ってるよ!」

 ひげを蓄えた壮年の男が威勢のいい声をあげる。レンの恰好からそう判断したのだろう。正しい。レンは傭兵だ。

「いや、買い物じゃない、売りに来た」

「売り? まあ、一応買い取りもしてるけど……なにを売るんだい」

「こいつを」

 背嚢の口を開いてカウンターの上で逆さまにして、中身をぶちまける。

 出てきたのは、大量の羽根。茶色く根元が白い羽根だ。しかし白い部分は僅かに紫を帯びていて、不思議な色合いだ。そんな色合いの羽根は、世界に一つしかない。そして最後にごろごろと巨大な鉤爪が出てくる。それ自体がククリナイフのような佇まいで、これもまた不思議なことに紫色を帯びていた。

「うお! ひょっとしてグリフィンの羽根、グリフィンの爪か!?」

「ああそうだ。雷魔術を帯びたものだ」

 エニグマの中には、魔術を帯びたものもいる。グリフィンや、レンが身に纏っているグロムガロウがその例だ。グロムガロウは炎を操る黒い狼型の巨大なエニグマで、その素材はただ頑丈なだけでなく難燃性と耐火性に富む。中級破壊魔術『エクスプロージョン』の直撃を受けても穴一つ開かない。

「こいつはすげえ……しっかしその背嚢もすげえな。そっちも買い取っていいんだぜ」

「この背嚢は譲れないな。だが素材の方は買い取ってもいい」

 グリフィンの素材は適切に売れば一般家庭が半年は食っていけるほどの額になる。壮年の店主はちょうどそのくらいの額を示してきた。

「これでどうだ」

「わかった、それで取引しよう」

 コインの詰まった重い巾着袋を受け取り、レンは辻馬車に戻った。

「次は黒狼団本部まで頼む」

 追加の料金に色を付けて渡すと、御者は頷いて馬を走らせた。

 私立傭兵黒狼団本部は、ガルドの東区に居を構える。本来辻馬車は区内しか走らない。それをわかっていたから、レンは色を付けて料金を前払いしたのである。クレセント帝国人は金にがめついといわれる国民性で知られる。海運という『商売』が生活の核である帝国人にとっては金と商売はライフラインであり、人生なのである。

 よって、あちこちで露天商を見かけた。人が集まる大通りや架け橋の上でござを広げ、自作の工芸品や集めてきたエニグマ素材、食べ物を売っている。

 レンが辻馬車からフルーツを売っている露店にコインを投げると、リンゴが投げ返されてきた。空中で掴み、皮を手で拭ってから齧りつく。甘みを際立たせる酸味とシャクシャクした食感に、空いていた小腹が満たされる。

「私にも少しください」

「ほらよ」

 レンが半分ほど食べたリンゴを受け取り、反対側から食べればいいのに、アンゼリカはわざわざレンが食べた方に口をつける。

「これって間接キスになるんですかね」

「知るか」

 結局アンゼリカは残り半分のリンゴを全て食べ、芯までごりごりと噛み砕いた。

「竜みたいだな」

「竜ですから」

 御者がなにを言っているんだこいつらみたいな顔でこちらを振り返った。同時に口を開く。

「お客さん、到着しましたよ」

 礼を言って辻馬車から降りる。辻馬車はレンたちが降りたのを確認すると、来た道を戻っていった。

 石塀に囲まれた屋敷。商館かなにかに見えるほどの威容。屋敷だけでなく小さいながらも畑を持っていて、キャベツを作っている。秋頃植えたものだから、そろそろ収穫時期だ。

 そして鶏小屋。コッコ、コッコ、と大量の鶏が鳴いている。

 ここらで取れるキャベツと卵は、私立傭兵の宣伝を兼ねて領内の市で販売される。キャベツと鶏の世話、売り子をするのはもっぱら入ったばかりの新人だ。レンもここに来たばかりのときはそんなことをしていた。

 エニグマや山賊との血沸き肉躍る戦いと武勇伝を夢見て入ってきた新人が、地味な畑仕事と商売に嫌気がさして出ていった様子を、レンは何度か見たことがあった。

 だがこれも、重要なことなのだ。

 黒狼団の理念は『人に手を差し伸べること』。

 戦場に身を置く私立傭兵であると同時に、我々も人。戦いだけでなく、人と人との繋がりを持って、誰かのために戦う。それを重んじる組織なのだ。

「レン殿にアンゼリカ殿、依頼はどうなりましたかな?」

 石塀に取りつけられた木製の柵のような門の前に立つ二人のオーク族の守衛に問われ、レンはすぐに返す。黒狼団の大半はライカンスロープ――人狼族の獣人だが、中には少数ではあるもののオークや人間などもいる。

「無事終わったよ。団長に報告したい。通してくれ」

「わかりました」

 門を開くと、館の前で立っていた茶色の髪と緑の目をした少女と目が合った。

「あ……レン! アンゼリカ!」

「ようジゼル」

 ジゼル・グロウリィ。当年で十五歳になる少女だが、十三歳の頃から戦っている黒狼団の戦士にして、レンが率いる部隊に所属している前衛。頭頂部に茶色の狼耳を生やし、腰からは同色の長くて太い尻尾を垂らしている。戦場に出る前から一緒に育ってきたレンにとっては妹のような存在だ。

 背の高いレンより頭一つ半は小柄な彼女は背中に刀身だけで身長ほどもある大剣を背負っていた。特殊な形の段平で、僅かに内反り。刃は通常の刀剣のものとは違い、獣の牙のような刃が鋸のようにずらりと並んでいる。斬る、というよりは引き裂くという風に使うような剣だ。

 銘を、『ギガヘッジ』。エニグマの堅牢な骨を削り出した刃を備える大剣である。そんな大剣の縮小版とも言うべき片手剣『ミニヘッジ』を腰に提げていた。大剣を振り回せない閉所でも戦えるようにというための措置だ。

 そして防具は深緑色のもので固められていた。いずれも見覚えのある――ランダイナス素材から作られているものだ。ギャンベゾンの上から鎖帷子チェインメイルを纏い、その上から深緑色のランダイナス鎧を身に着けている。胴、篭手、腰、脚甲、どれもがランダイナス素材から作られている。軽量で動きやすく、最前線で大剣を振るうのに障害にならず、かつ高い防御力を期待できる装備だ。

「おかえり。どうだった?」

「少しイレギュラーがあったが問題ない。そっちはどうだった」

 レンは、四人からなる『クローゼル部隊』の隊長を務めている。メンバーは軽戦士レン、近中距離戦士アンゼリカ、前衛戦士ジゼル、後衛魔術師グレース。今回、仕事内容が軽かったためレンは部隊を二つに分けていた。即ちレンとアンゼリカ、ジゼルとグレースに。

「イレギュラーって……なにがあったの?」

「ランダイナス狩りだと思ってたらグリフィンが出てきやがった」

「それでレンが無茶をして一人で戦ったんですよ……んー、もふもふ」

 アンゼリカがジゼルの尻尾に近づいて頬ずりする。ジゼルが握り拳を作り、篭手に覆われた右手でアンゼリカの頭部を殴った。

「一人でって……グリフィンを? 大丈夫なの? いくらあんたがりゅ――」

「大丈夫だ。実際こうしてここにいるだろ?」

「そうだけどさ……無茶しなかった?」

「平気だ。なにごともない」

「平気って……グレースの薬と私の回復魔術がなかったらどうなってたことか。最後は血まみれになってたじゃないですか」

「ほらみなよ! 無茶してるじゃない!」

「大げさなんだよお前らは。少し吹っ飛ばされて、跳んできた羽根で額を切っただけだ」

 やれやれ、とレンはため息をつく。この稼業をしていれば怪我など当たり前。少し流血したくらいで騒いでいては日が暮れてしまう。

「お前らは家に帰ってろ。俺は団長に報告がある」

「わかった。先に帰ってるね。いこ、アンゼリカ」

「うん」

 黒狼団のメンバーはこの館で食う寝るを行うものが多いが、レンのように家を持っていて通っている者もいる。

 館に入ると、武装した戦士たちがあちこちにいた。依頼の書きこまれた羊皮紙を手にしている者、依頼書が張り出された掲示板ボードの前で仕事を吟味している者、仲間と談笑している者、実に様々である。共通しているのは皆防具や武器を身に着けているのだ。一目で傭兵だとわかる。

 一階は集会場だ。仕事を選び、受けるか受けないかを隊内で語る場。生活の場は新人や下っ端が地下で、戦士として一人前と選ばれた者が二階、そして幹部や団長などが三階である。

 レンは一階にも二階にも用がないので早足で三階まで上がった。

 三階の奥、赤い絨毯が敷かれた終端に、両開きの大きなドアがある。三回ノックすると、奥から「入っていいぞ」と声がした。

「失礼します」

 室内は、広々とした空間だった。本棚や長持、調度が並び、高価なガラスを用いた窓を背に大きな机が置かれていて、陽光を背に一人の男性がどっかりとソファに座っている。歳は四十代半ばほど。茶色い髪に緑の目をしている。頭頂部からは狼を思わせる耳。陰になっていて見えないが腰からは尾が生えている。

「まあ座れ」

 男――団長が促すのを待ってから、レンは団長の対面にあるソファに腰掛けた。すると団長の隣に控えていた茶髪碧眼の女性が銀のゴブレットに蜂蜜酒ミードを注ぎ、団長とレンに差し出す。

 彼女は副団長にして、団長の妻である。彼女もライカンスロープであり、その特徴を色濃く反映していた。

 団長――ロイ・グロウリィは蜂蜜酒を一口飲み、レンがゴブレットに口をつけるのを待ってから口を開いた。彼はその姓からもわかる通り、ジゼルの実の父である。つまりジゼルの両親がこの団を牛耳っているのだ。

「どうだった」

「問題なく対処できました。村に着いたときには襲撃が始まっていましたが、結局その後森林に逃げ込んだランダイナスを狩って……」

「狩って?」

「グリフィンが現れました」

「随分な大物だな。どうした、逃げたのか?」

「いえ、倒しました」

「二人で? 無茶をしたわねえ」

 茶髪碧眼の女性――エレナ・グロウリィがくすくす笑う。上品な仕草だが、その実彼女がこの黒狼団で一番血の気が多く気性が荒いことをレンは知っていた。なんせ十年前、村を失い放浪していたレンとアンゼリカを拾ったのはロイとエレナだからだ。道中でエニグマに襲われた際、今はジゼルの手に渡っているギガヘッジでエニグマを皆殺しにした返り血まみれのエレナを見たときは失神しそうになった。村で暮らしていたときは平凡そのもので、ランダイナスを一体倒したことが武勇伝になるくらいだったのだから、あまりにも日常離れした光景に目を疑った。

「ああ、いや……アンゼリカには待機させてました」

「じゃあお前一人でやったのか?」

「はい」

「無茶するやつだな……」

「すみません。けど、一人でやれると思ったので」

 ロイは残りの蜂蜜酒をぐいっと煽る。

「お前に課せられた使命――いや、呪いというべきか。とにかく、お前の為すべきことは理解している。そのために強くなりたい、という意思もわかる。だがお前には仲間がいるだろ。かつての英雄王ヴァリアント……初代皇帝も一人で戦ったわけじゃないんだぞ」

「はい……闘神ヴァルク・アドムス、美神エレノア・スカーレット、魔術神ゴードン・マルカス、そして協力した竜族の筆頭竜神アルス……その他の名も知られなかった戦士たちと戦ったと……」

「そうだ。強くなることは悪いとは言わない。だが仲間がいることを忘れるな」

「……そうですね」

「でだ。お前に一つ確認したいことがある。正直に答えろ」

「……なんでしょう」

 いつになく真剣な表情になるロイに、自然とレンの体が強張る。

「アンゼリカとは、済ませたのか?」

「………………は?」

「いや、二人で長いこと一緒にいたんだろ? 誰の邪魔も入らなかったはずだ。で、どこまで進んだんだ?」

「ちょっとロイ、失礼よ。レンにはレンのペースがあるの」

「なんにもなってませんよ、そんなことにはなってません」

「なんだ……ん、ひょっとしてグレースか? あいつがいいのか?」

「違います」

「おい、ひょっとしてジゼルを狙ってるのか? 駄目だぞ、お前を信頼しているから家に一緒に行きたいって意見も聞いてるんだ。それを裏切るなら……」

「いい加減にしなさいロイ。レンはそんなふしだらな真似はしないし、それにジゼルがいいっていうならいいじゃない。あの子だってそろそろ好きな人を連れてきてもおかしくないわ」

「俺は認めんぞ! ジゼルにはしっかりした男とくっついてもらう! 傭兵なんていう仕事をしているような安定しない男なんかとは認めない! たとえレンでもだ!」

「それをあなたが言うの?」

 ロイは傭兵として成功を収めた人種だが、同時に傭兵として失敗してきた人種も数多く見てきた。エレナの口添えがあったのと本人の意思だったからジゼルも傭兵をやっているが、ロイは娘が傭兵になることにいい感情を抱いてはいなかった。

「うるさくなったロイの処理は私に任せなさい。レンは帰ってもいいわよ。ゆっくり休みなさい」

「はい……」

 部屋を出た後、ドスッというなにかを殴る音が聞こえてきたのは、きっと気のせいだ。


     ◆


 その日の夜。

 東区の数ある噴水広場の一つ、噴水を囲うように敷設された石畳の道に面するように建てられた背の高い二階建ての家、そこがレンたちクローゼル部隊の住処だった。

「グリフィンを一人でねえ……」

 尖った長い耳に青白い肌、濃紺の髪を持つダークエルフ族の女性グレース・オルフェスはジョッキに注がれた葡萄酒ワインをちびちび舐めながら、避難がましい目をレンに向けた。

「あんまり無茶はしないでね。あなたの使命のことを言ってるんじゃないわ。一人の友人としての忠告よ」

「ああ、悪かったよ。これからはこんな真似しないと約束する」

 グレースは今年で二十四歳になる、クローゼル部隊の最年長のメンバーだ。ロイに比べればまだまだだが、年長者の言葉は重みがある。

「腕と目の調子はどうだ?」

 グレースに腕と目、と言われて、レンは篭手に覆われた左手をさすった。なんともない。続いて、左目をまぶたの上からそっと触る。

「大丈夫だ」

「ならいい」

 この女魔術師は、得意とする魔術は破壊魔術で、もっぱら後衛のアタッカーとして戦場では活躍する。だがアンゼリカの麻痺毒やレンたちが愛用する回復薬のように、彼女は薬師くすしとしての側面を持つ。家の一階にも彼女のための調合室がある。かまどと鉄鍋が設置された薬とその素材だらけの空間で、まさに『魔女の家』といった佇まいである。

 余談だが、魔具師でもある。アンゼリカの魔具や、自身の装備を魔具化したのは彼女だ。

 そんな彼女が心配しているのは、レンが戦闘用装備を外してチュニックとズボンという恰好なのに常に装着している篭手の“中身”であった。

 この篭手の中には、十年前に混じった際に変貌を遂げた、『異形』が眠っている。そして左目も……。その異形と左目は、ときおりレンを苛むように痛みを発する。お前に課せられた使命を忘れるな、お前は呪われているんだ、お前は選ばれたのだ。そんな風に、ときどき左腕と左目が痛む。

 ここ最近はないが、以前は一週間ほど痛みが続いたことがあって、そのときはグレースに痛み止めを作ってもらって服用していた。

「ああそうだ、レン、断りもなく仕事を受けて悪かったな」

「ん……ああ、気にするな。お前が山賊を憎む理由は知ってる」

 家に帰って来たとき、グレースは黒狼団から新たな依頼を受けてきていた。それは山賊退治という、傭兵にとっては至極ありふれた依頼だった。

 戦略価値を失って放置された砦を乗っ取った山賊が近隣の村を度々襲い、略奪しているのでそれを止めるため山賊を狩ってほしい、という内容の仕事だ。依頼主は砦付近に点在する村々で、それぞれの村で金を出し合い、報酬金を用意して黒狼団に仕事を出してきたのだ。

 グレースは今でこそ黒狼団の一員だが、元々はエルフの隠れ里出身の、純潔のダークエルフだ。だが差別と偏見に凝り固まった里の在り方に耐えきれず出奔。六年の放浪を経て、二年前黒狼団に入った。

 その放浪中、グレースは山賊に捕まり、慰み者にされたことがあった。期間は半年ほど。その間来る日も来る日も家畜のように扱われ、性欲をぶつけるための道具として恥辱に耐えてきた。

 結局その山賊は傭兵に退治されるのだが、元をたどるとこのときグレースを捕らえていた山賊を倒した傭兵というのが、黒狼団なのだ。

 彼女はどういう風かは知らないが、誰が自分を救ってくれたのかを調べ、恩義に報いるために黒狼団に入隊した。

 そしてレンたちと出会い、今に至る……というわけだ。

 そういう経緯から、グレースは山賊に対し強い怒りと憎しみを抱いている。エニグマ狩りにも貢献しているが、彼女が本心から受けたい仕事は山賊によって苦しんでいる人々を救いたいというものだ。

「明日、朝早くにこの街を出る。翌日の昼には目的地に着くはずだ」

 依頼内容がまとめられた羊皮紙に目を通しながら、グレースは言った。

「了解……これじゃどっちが隊長かわからねえな」

「レンはグレースには素直だもんね」

 そう言って、ジゼルがチーズを齧って、麦酒ビールを豪快に飲み干す。その隣ではアンゼリカがジゼルのもふもふした尻尾を触ろうと手を伸ばしている。アンゼリカの不穏な気配に気づいたジゼルが犬のように威嚇した。

「一応年上だし、俺より人生経験豊富だからな」

「レンは少し年上で胸が大きければ誰にだって素直なんですよ!」

 アンゼリカが刺々しい口調になる。彼女はなにをあんなに怒っているのか。

「もう触んないで!」

「いいじゃないですかちょっとくらい!」

 ジゼルとアンゼリカのやり取りはいつものことだ。みんな慣れきっていて、止めもしない。

 レンは瓶ごと蜂蜜酒を呷り、空っぽになっていたことに気付く。

「……そろそろ寝るか」

 酔いも回っていて、程よく体が温まっている。春とはいえ、クレセント帝国は北国だ。短い夏の間まではまだまだ寒い日が続く。

 暖炉の火を消し、部屋に灯したロウソクを吹き消していく。真っ暗闇になった中二階への階段を上がる。

 この家はもともとは倉庫として使われていたもので、利用者がいなくなり放置されていたところを安いうちにレンが買い叩いた物件だ。一階にはキッチンとリビングとグレースの調合室しかない。二階には寝室と装備品保管室がある。装備品を二階に置くという発想は、万が一泥棒が入ってきても物音で気づくまでの時間を稼ぐためという目的があった。もっともこの辺りで手に入るもののなかでは最上級の錠前を玄関に備えているし、そもそもガルドは治安も安定しているので泥棒自体がいないのだが。仮にいたとしても、傭兵の家に入る自殺志願者はいないだろうし、ここは人の目が多い広場に面している。そもそも狙おうという発想にも至らないだろう。

 ちなみに寝室は四人で共用だ。大きなベッドが二つあって、それぞれ二人ずつ寝るようになっている。このベッドは倉庫時代に残されていたもので、まだ使えるという理由でそのまま接収した。

 藁の上にシーツを被せ、毛布を掛けただけの簡素なつくりだが、寝る分には申し分ない。仕事柄野宿も当たり前なレンたちにとっては、雨風凌げるだけで充分なのだ。

「さあ寝ましょう!」

 そう言うなりアンゼリカは服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった。レンと同年代。身体も成熟して、膨らんだ胸には張りがあり、腰の括れは美神エレノア・スカーレットの彫像にも引けを取らない。

 全裸で寝るのは、帝国的には非常識ではないにしろ、そんなことをするのは温かくなってきた夏場にするものであって、こんな寒い時期にすることじゃない。

 だがなにをどう言ってもアンゼリカは家で寝るときは全裸なのだ。ちなみに北国のさらに北部で暮らしてきたレンと――アンゼリカもその北部育ちなのだが――、エルフの隠れ里育ちのグレースは着て寝る派。夏場でも衣服は脱がない。一方でジゼルは温かい時期は裸で寝る。だがさすがにこの時期には裸にならない。

「お前、恥じらいを持てよな」

「いいじゃないですか、家族と寝るときくらい裸でも。あれ……ひょっとして私の裸に興奮してるんですか?」

「とっくに見飽きた」

 嘘ではない。レンとアンゼリカの付き合いは物心つく前から始まっている。裸を見たのも初めてではない。

「おやすみ」

 ベッドの脇のタンスに置いたロウソク台の灯りを吹き消すと、辺りは闇に包まれた。

 レンはベッドに潜り込み、毛布を肩までかける。後からアンゼリカが抱きすくめるように覆いかぶさってきた。これもいつものことだ。

 明日明後日も忙しくなる。

 レンは目を閉ざし、まどろみの世界へ旅立った。


3 山賊狩り


 馬車で一日半揺られ、レンたち四人は山賊が根城にしている砦の最寄りの村に辿り着いた。

 畑と家畜小屋、粉挽きに使う風車がぐるぐる回っていて、一見しただけではのどかな村に思えた。

 だがそう思っていられるのも、今のうちだけだった。

「みんな、暗い顔してますね……」

 村の入り口のアーチを抜けると、駄弁っていた村民たちがこちらに視線を向けた。いずれも沈んだ表情をしていて、生気が抜け落ちている。畑を耕す者からも活力をまるで感じない。錆び付いた歯車で動く機巧人形からくりにんぎょうのように、その動作には生きた者の滑らかさに欠けている。

「相当酷い目に遭っているようだな」

 グレースが身長ほどもある、先端に濃紺の魔石を埋め込んだ木製の大杖『ソフィア』を握りながら、村人たちに一瞥をくれる。彼女は魔女らしく、濃紺のローブに身を包んでいた。正面から切った張ったをするわけではないので、鎧ですらない。だがこれも魔具で、使用者の魔力を防御力に変換する能力を持っている。並の鎧よりは価値ある逸品だ。

「酒場に行けばいいんだっけか」

 レンが確認すると、大剣ギガヘッジを背負ったジゼルが答えた。

「そうね。そこに村長や主だった住民が集まってるみたい」

 村は農地を除けばさほど広くはない。住民が暮らす家々が集まる町はガルドの一区画にも及ばない。人口百そこそこの小さな村なのだ。耕作地を回り、羊の太り具合を確かめ、一日の終わりの酒を楽しみに暮らしている素朴な人々の集まりである。

 なんとなく、レンは故郷の寒村を思い出した。毎日畑作業をし、空いた時間に師匠の下で読み書き計算と剣術の稽古をしていた。

 陰気な大人たちに混じって、子供の嬌声が聞こえてくる。真っ暗な雰囲気に包まれた村の中で、それだけが救いだった。

 この辺りでは一番大きい、二階建ての宿屋を兼ねた酒場に到着した。

 ドアを開いて中に入ると、エニグマの牙を用いたキャンドルとシャンデリアに橙に照らされた空間の中に数人の男がいて、一斉にレンたちに視線を注いだ。その中の一人、一番歳を食った老人が椅子から立ち上がった。

「ようこそおいでくださいました、話は伺っております。ああ、私がこの村の村長を任されている者です」

「はじめまして、黒狼団からやってきた。クローゼル部隊だ」

 村長を含め、男たちの目は希望の輝きを失っていた。せっかく来てやったのに、と思わないでもないが、この村の惨状を鑑みれば彼らの気持ちもわかる。レンは早く仕事に取り掛かろうと口を開く。

「早速始めよう。状況は?」

「はい、昨日の夜……村の娘が一人、また攫われました」

「また……ですか?」

 アンゼリカが聞き返すと、男たちの一人が俯きながら、呻くように声を漏らした。

「山賊たちは……我々に危害を加えない代わりに若い娘を寄越せといってきたのです。以前にもありました。もちろんそのときも抵抗はしたんです。ですが衛兵隊は潰走……村人たちも歯が立たず……結局は血を流した挙句、子供を……!」

 男の拳は白くなるまで強く握りしめられ、その上にぽたぽたと雫がこぼれた。連れ去られた娘、というのは彼の子供なのかもしれない。しかし今は感傷に囚われている場合ではない。レンは心を鬼にして、会話を進める。

「衛兵隊が潰走……相手はそんなに強いのか?」

「山賊たちの数はある程度数は削りました。ですので現在の数は三十ほどなのですが、中に一人、召喚魔術を扱う輩がいるのです」

「なにを召喚するんだ」

「『サイクロプス』です」

 サイクロプスとは、大人の五、六倍の巨体を誇るエニグマの一種だ。グリフィンやグロムガロウに比べれば敏捷性という点で劣るが、耐久性と攻撃力には目を瞠るものがある。戦い慣れた傭兵なら充分渡り合えるが、酔っ払いの喧嘩や窃盗の現場で腕を鳴らす程度の衛兵では荷が重い。

 加えて相手は山賊である。殺し慣れたならず者。勝利のためなら手段を選ばない悪漢だ。それまで人殺しなど非日常だった村民がまともに相手できるものではない。

「なんせ、こんな寂れた村です。衛兵は衛兵長を含め十五人。山賊の半数です。周辺の村々から集めても百人にも満たないでしょう。それ以前に山賊は衛兵が集まるような兆候があれば即座に攻撃を仕掛けてきます。そして昨日の夜、この村の衛兵が見せしめに四人、殺されてしまいました。衛兵隊も尻込みしてしまって……もう、傭兵を頼るしかなかったのです」

 彼らは藁にも縋る思いで仕事を依頼したのだろう。

「しかし……失礼ですがあなた方はたった四人なのですか?」

「傭兵は基本、四人一組フォーマンセルだ。五人以上になると指揮の難度が上がるし、三人以下だと戦力として機能しない。なにより四人ならいざというときに二人一組ツーマンセルに分割して柔軟に仕事に対応できる……だからクローゼル部隊は全部で四人。本部も俺たちだけで事足りると判断した」

「そう……ですか」

 村長を始めとする男たちの顔には、ありありと不安が浮かんでいた。

 ――まあ、そうだよな。

 レンは顔に出さず、苦笑した。村々の百人近い衛兵隊が歯も立たず潰走した相手に、たった四人で挑むというのは非常識この上ない。だが悲しいことに、この手の不満げな態度には慣れきっていた。過去にも何度か、たった四人でとかたった二人でなにができるとか、そんな目で見られてきた。

「状況はわかった。山賊三十にサイクロプス一体。じゃあ、早速砦に向かう。あんたたちは俺たちが戻ってくるまでここで大人しくしていろ。戦場で素人の面倒を見れるような自信はないんでな」

「はあ……」

 村長は所詮徒労に終わるのか、という顔で頷いた。

「あのっ、娘を……アイナという娘を連れ返ってきてくれませんか! せめて遺品だけでも……」

 男が懇願する。やはり、連れ去られた娘というのはあの男の子供だったのだ。

「わかった……連れて帰るよ」



 丘の上から、件の砦を見下ろす。高い金を出して買った望遠鏡を覗く。

 石造りの塔を中心にサイクロプスほどもあろう外壁がその周囲を取り囲んでいる。木造の物見櫓ものみやぐらがいくつか立ち並び、歩哨と思しき山賊が突っ立っている。裸の上から非エニグマ製の通常の革鎧を纏っている。いずれも男で、筋骨逞しい体つきをしていた。武器はロングボウに短剣。あんな恵まれた体格をしているのなら、山賊なんてやらず傭兵にでもなればいいのに。

「そんなものに頼らなくても私の目があれば充分ですのに」

 望遠鏡を覗くレンにぶちぶちと文句を垂れるアンゼリカを無視し、レンは木製のバリケードが組まれた入り口を睨む。バリケードの両脇には二人の山賊がいた。幅広のショートソードを身に着けている。

「まずグレースの『エクスプロージョン』でバリケードごとあいつらを吹っ飛ばす」

 グレースに望遠鏡を渡し、レンはバリケード付近の二人を指さした。

「そのあと俺とジゼルで突入。アンゼリカ、お前はここからクロスボウで援護だ。物見櫓の上にいるやつらを倒したら俺たちに合流しろ」

「サイクロプスはどうしますか?」

「サイクロプスは奴らの切り札だろうから、いきなり放ってくることはないと思う。ある程度山賊を殲滅したら出てくるだろうな」

「乱戦になるのかな」

 ジゼルに顔を覗きこまれる。レンは首を横に振った。

「いや、それはないと思う。サイクロプスの巨体を考えれば同士討ちを恐れて山賊は退いていくはずだ。多分、サイクロプスを出さざるをえないほどの状況に陥ったら向こうは籠城するだろうしな」

「籠城か……砦の中じゃ私、あんまり活躍できないかも」

「なんのためのミニヘッジだよ」

 レンはジゼルの腰に下げたロングソードに目を向けた。ロングソード、といってもやはり通常の刃物ではない。ギガヘッジと同じく僅かに内反りで、刃は獣の牙のようなものがずらりと並んだ、叩き潰して引き裂くことに特化した剣である。

「そうだけど……狭い場所や対人戦闘ならレンやアンゼリカの専売特許じゃない。私の役目は対人戦じゃなくて基本的には開けた場所でエニグマに対抗することだし。そのためにお母さんからギガヘッジを譲ってもらったんだもん」

「ならなんで片手剣なんて持ってんだよ」

「心配性のお父さんが色々言って私にミニヘッジを押し付けてきただけ。ま……必要とあらば使うけどね」

「ならいい。……アンゼリカ、グレース、なにか質問は?」

「私からは特に」

「私もだ。異議はない」

「よし、行くぞ」

 丘を駆け下り、砦の正面から近づく。

「お、なんだお前らは」

 見張りの一人が異変に気付き、声をかけてきた。

「やれ、グレース」

 レンは一言、情けを一切かけない残酷な命令を下す。

 大杖・ソフィアの半ばほどを掴み、グレースは魔石が埋め込まれた先端をバリケードに向けた。魔力が循環し、魔石が青く輝く。

「『エクスプロージョン』!」

 グレースが魔術の名――呪文を叫ぶと、直後、人の頭ほどある紅蓮の炎が放たれた。

「おい、おま――」

 矢のように飛翔した火炎の玉はバリケードに直撃。同時に火炎の玉が破裂。爆炎が周囲に撒き散らされ、見張りの山賊が吹き飛んだ。爆風で一人の腕が千切れ、空高く舞った後頭から地面に落ちた。首がありえない方向に曲がり、二度と起き上がることはなかった。

「クソッたれが!」

 爆風に煽られ、しかし無傷だった見張りの一人が剣を抜いて襲い掛かってくる。レンは抜刀と同時に斬り上げを見舞う。ショートソードの斬撃軌道が逸れ、無銘の刃が革鎧を裂いて皮膚を斬り刻む。だが浅手だ。血の玉が舞い山賊が苦鳴くめいを漏らす。その中でレンは無言のまま刀身を腰まで引いて、突きを繰り出す。刃先の三分の一が両刃の無銘は抵抗なく山賊の左胸を貫き、背中まで貫通した。肉が固まる前にすぐに抜く。

「敵襲! 敵襲だ!」

 物見櫓の上で大声をあげる。備え付けの警鐘をガンガン鳴らすが、レンにとってはどうでもいいことだった。どのみち最初の爆発音で異常事態だと気付かれている。

 山賊が砦の扉を蹴り開けるように転がり出て来た。その数八人。全員革鎧という出で立ちで武器はばらばら。皆近接武器だが、ショートソードだったり大剣だったり戦鎚だったりと種類は異なる。それぞれが得意な武器を持ってきたという感じだ。

一塊ひとかたまりになってくれていると楽だ――『フレイムピラー』!」

 ソフィアの尻を地面に突き刺してグレースが詠唱すると、わらわらと固まっていた山賊の足元が橙色に染まる。

「な……なん……」

 橙に染まった大地から、火炎が噴き出した。凄まじい勢いで噴出した炎は柱のように渦を巻き範囲内にいた者たちを焼き払う。目を焼く火が収まると、重度の火傷を負い、皮膚がべろりと垂れ下がり骨まで丸出しにした死体が地面に転がっていた。八人もいた山賊が一撃でほぼ全滅してしまっていた。

 魔術は、戦いに変革をもたらす。

 古来――鉄文明がそうでない文明を圧倒し蹂躙したように、騎馬が歩兵を蹴散らし陸上戦の革命となったように、魔術は戦場を流動させる大きな力だった。

 魔術は全てで七系統ある。しかし現在世界最大魔術管理組織『魔術師協会』が認知しているのは僅か四系統。

 対象を攻撃する破壊魔術。対象に魔術効果を与える付与魔術。対象に幻覚を見せたり幻聴を聞かせたりして混乱を誘ったり認識を欺いたり自身の感知力を高める幻惑魔術。契約したエニグマをあらかじめ封印していた異界から呼び出す召喚魔術。

 それ以外にも、魔術は存在する。太古の昔に失われた魔術、倫理的問題を孕むとして禁忌とされた魔術。回復魔術、錬金変性魔術がその例だ。この二つは大昔に失われ、現代では存在しない。レンとアンゼリカという例外を除いて。

「仲間の仇だ!」

 物見櫓の上から声。弓をつがえた男がグレースに矢を放とうとし、レンは咄嗟にグレースを自分の背後に回し、前に出る。直後、男が矢を放った。同時に男の背後からボルトが飛んできて、背中を刺し貫く。アンゼリカの狙撃だ。グレース手製の麻痺毒が塗られているため、山賊は十数える間もなく絶命した。

 男が放った矢は僅かに狙いを逸らされていたもののレンの右頬を深く傷つけた。染料をぶちまけたように真っ赤な血が顔を伝い顎から垂れる。

 背中に衝撃。振り返ると、足元に矢が落ちる。もう一つの櫓からレンの背中目掛け矢を射かけられたのだ。だがグロムガロウの皮をなめして重ね、固めたハードレザーの鎧を貫くことはなかった。それどころか、外套すら傷ついていない。さすがは上位のエニグマ製素材の装備だけある。

「下りて来い」

 レンは櫓に手をつき、

「『リライト』」

 詠唱。

 直後、黒い雷撃が迸った。それは“反応”を起こす証。バリバリと黒い電流が櫓を流れ、頑丈な木材で組まれた櫓がバラバラに砕け散った。

 失われた古代魔術、錬金変性魔術だ。物質の構成や形を書き換え、別の物質に変える強大な魔術。櫓を構成する木材に働きかけ、脆い物質に書き換えたのだ。それこそ、人の体重どころか自重で崩れてしまうほどの脆さに。

「ぐっ、あぁぁああああ!」

 城壁よりも高い位置から地面に叩きつけられた山賊の足は折れていた。地面にうずくまり苦悶の声を漏らす。

「遺言はあるか?」

 首筋に無銘の刀身を擬する。山賊は憎々しげにこちらを見上げ、一言。

「くたばれ」

「そうか」

 容赦はしない。殺す。そう決めた。殺すと決めたのだから殺す。レンもアンゼリカもジゼルもグレースも聖人君子ではない。清濁飲み込み酸いも甘いも噛み分けてきた。崇高な目的のため――などと酔いしれたことは言わない。将来神界に召されいい思いをするとは思わない。むしろ冥界に落ちて苦しみを背負わされるだろう。

 それでかまわない。黒狼団は、自分が地獄に堕ちてでも人に手を差し伸べる組織なのだ。

 戦いに誇りを。民に幸福を。敵には死を。そして己には屍山血河を渡る底なしの罰を。

 無銘を振るった。

 山賊の首がごとり、と落ちる。

 これで十二人。

「私の出番はなし……か」

 ジゼルは大剣を手に、つまらなさそうに呟いた。

「レン! 大丈夫ですか!」

 メイスのユドスを手にアンゼリカが駆け寄ってくる。

「ごめんなさい、私がもっと早く倒してれば……」

「いや、お前はよくやってくれた。毒矢じゃなくてよかったよ」

「動かないでください、今治しますから」

 治す、といってもこの場で消毒して包帯を巻くわけではない。

 ユドスを握っていない方の左手をレンの右頬にかざす。明るい緑色の輝きを帯びたアンゼリカの手がレンの傷を包む。温かさが傷を覆う。皮膚の表面がくすぐられているような感触がして、こそばゆく思えたがレンは我慢した。傷を放置し続ける激痛に比べればなんてことない。

 これが過去に失われた魔術の一つ、回復魔術。太古の昔この地から身を引いた『神族』と帝暦前千年――今から約千四百年前、この地上を去った『天使族』のみが扱えた秘術。

 鼓動が三十ほど刻まれる頃には、レンの傷は再生していた。薄らと痕が残ったが、半月もすれば消えるだろう。仮に消えなくても、美貌を武器にする男娼でも貴族でもないから、あまり気にするようなこともない。むしろ傷痕は傭兵にとっては勲章のようなものだ。

「ありがとう」

 乾いた血を拭い去り、レンはアンゼリカに礼を言う。

「どういたしまして」

 アンゼリカが微笑む。

「侵入者め! 好き勝手暴れるのもそこまでだ!」

 そのとき、大喝が周囲に響き渡った。

 擦り切れたボロボロのローブを身に纏った壮年が、砦の入り口で経っていた。手には枯れ木のような大杖。

「お前が召喚魔術師か……魔術師大学から放校された落ちこぼれか」

「黙れ!」

 あてずっぽうで言ってみたが、あながち間違いではなかったようだ。態度とこめかみに浮かんだ青筋が、それを雄弁に物語る。

「クソガキどもが! 吠え面かかせてやる! 出でよ、サイクロプス!」

 杖の先端の魔石が輝き、魔法陣が空中に広がる。そこから節くれだった指が現れ、手が姿を現し、腕が伸びて顔がのぞく。緑色の表皮と赤い単眼。黄ばんだ牙。股の間にぶら下がる黒々とした陰茎。

「グゥオオオオオオオッ!」

 棍棒を手にしたサイクロプスが雄叫びをあげた。


4 激闘、サイクロプス


「散開しろ!」

 叫ぶなり、レンとアンゼリカは後ろに跳んだ。ジゼルとグレースは左と右に避ける。それまで四人がいた場所に棍棒が振り下ろされ、硬い土が深く抉れた。砂埃が舞う。

 砦の入り口を盗み見ると、召喚魔術師が扉の向こうに逃げ込んでいた。術師が死んでしまっても召喚魔術は解けない。だが召喚魔術師はエニグマを呼び出したらもうすることがない。自身も戦えるのならまだしも、大抵は魔術頼みなため自分でも戦えるほど強い使い手は滅多にいない。

 ではどうするか。簡単だ、逃げればいいのである。

 あの召喚魔術師を始末するのは後だ、とレンは自分に言い聞かせ、目の前のサイクロプスを見上げる。赤い単眼と目が合った。

「オオオオオオオッ!」

 ぐわん、と棍棒を薙いだ。櫓がその一撃に巻き込まれ、一発で粉々に吹き飛んだ。木っ端が降りかかってくる。鋭利な木の破片を無銘の柄頭で弾き飛ばす。

 棍棒を振るい切った隙だらけのサイクロプスに、ジゼルが突っ込む。大剣ギガヘッジを体の右側に切っ先を天に向けるように握る。フォム・ダッハ――レンが師匠の下で習った剣術で言えば八相に近い構えで握る。

「はぁっ!」

 気合と共にギガヘッジを袈裟懸けに振るう。ギガヘッジの竜のあぎとのような刃がサイクロプスの左足に食い込む。あの剣の真価は、ここからだ。

「てぇやっ!」

 ジゼルがギガヘッジを思い切り引く。牙のように生え揃った刃が堅牢な皮膚を抉り、引き裂き、深々とえぐい傷を与えた。

「グオオオオオオ!」

 血が噴き出す。だが致命傷には程遠い。サイクロプスの咆哮も、痛みというよりは目障りな行いに対する怒りに満ちていた。

 まとわりつく小蝿こばえを振り払うように、サイクロプスは拳と棍棒を縦横に振るう。

「下がれ、ジゼル!」

 グレースは怒鳴ると、ジゼルが退くのを見計らって腰だめにソフィアを構える。

「『エクスプロージョン』――『エクスプロージョン』、『エクスプロージョン』『エクスプロージョン』『エクスプロージョン』!」

 中級破壊魔術『エクスプロージョン』の五連射。爆風が連続して巻き起こり、サイクロプスを包み込む。炎の帳が吹き散らされると、爆炎の弾幕の直撃を受けたサイクロプスの皮膚は焼け爛れていたが、先ほどの山賊のように骨まで剥き出しと言うことにはなっていなかった。さすがに頑丈だ。

「レン、エンチャントして」

 ジゼルがレンの傍に駆け寄って、そう言うなり足を指さした。

「任せろ――『汝、暴風の加護あれ』」

 風属性の付与魔術がジゼルの足を包む。続けざま、もう一つの付与魔術を大剣にかける。

「『汝、迅雷の加護あれ』」

 紫色の電光がギガヘッジを駆け巡る。

 そのとき、サイクロプスが目の前に迫っていた。

「『アイスウォール』!」

 グレースの詠唱が間に合う。レンとジゼルの目の前に氷属性の壁が現れる。水色の凍てつく壁に棍棒が直撃し、腹の底に響く音を立てた。氷が半ばほどまで砕けるが、棍棒はレンの頭上ギリギリで止まっていた。

「『サンダージャベリン』!」

 大杖ソフィアに紫紺の雷撃が収束し、雷鳴音と共に一直線に放たれる。サイクロプスが首を傾けて攻撃を避けようとするが、首筋を裂いた。雷撃魔術の速度は全ての魔術の中で随一。躱すのは至難だ。

 炎、氷、雷、そして風。魔術が全七系統あるように、魔術の属性も全てで七種類ある。基本五属性――炎、氷、雷、土、風。そして現代では失われた特殊属性――光と闇。

 通常、魔術の才能に見出された人は一種類の魔術属性を宿して生まれる。珍しいと二属性適性を持ち、さらに稀なケースだと三属性適性を持つ。グレースがこの三属性適性だ。彼女は炎と氷と雷の適性を持つ。だがそれ以上の数の魔術に適性して生まれた例は、ない。

 だがレンは、そのことわりから外れていた。

 レンが扱える低級破壊魔術と付与魔術は五属性適性。全ての基本五属性を扱える。

 しかし元々レンは魔術の才能などなかった。

 十年前、あいつと混ざったその日に魔術適性に目覚めた。黒狼団に入ってから地道に研鑽を重ね、四つの魔術系統の中でもっとも才能のあった付与魔術を極めた。付与魔術を極めた理由はそれだけではない。太刀を扱う戦いにぴったりだったから、というのもある。

 首筋をざっくり裂かれ、血を垂らすサイクロプスが不快げに呻く。

 氷の壁がぶわっと粒子になって散る。魔術が解けたのだ。強く棍棒を振り下ろそうとしていたのだろう、サイクロプスは氷の壁が消えた途端つんのめるように体勢を崩した。その隙にレンとジゼルは走り出す。

「『汝、焦熱の加護あれ』――閃光玉せんこうだま、いくぞ!」

 黒い刀身が赤熱する。同時に、腰のポーチから石ころのような掌に収まる丸い玉を取り出した。それを、頭から伸びている紐を引き抜いてからサイクロプスの鼻先に向け放り投げる。レンは左腕で目を覆う。

 ボンっという破裂音と同時に、凄まじい光が爆裂した。

「グギャアアアアアオオオオオオ!」

 光に目を直にやられたサイクロプスが悲鳴を上げ、棍棒を捨てて両手で目を覆った。

 先ほど投げたあれは閃光玉。炎魔術の光だけを詰め込み、紐を抜いた数呼吸後にそれを放つという仕組みの魔具だ。用途は先ほどの通り、対象の目を眩ませ視界を奪うことだ。

 サイクロプスの目が眩んでいる隙に、レンはジゼルが加えた足の傷に無銘の切っ先を突き入れた。灼熱の刀身に血が触れ、赤い蒸気が傷口から噴き出す。

「っらあ!」

 太刀を押し込み、深く刺す。骨まで達した確かな手応え。

 裂く。

 柄を握る手に力を込め、刃を走らせる。

「オオオオオオッ!」

 激痛に歪む悲鳴。骨を両断した刀身が足を斬り裂き、サイクロプスの膝をつかせた。

 風のエンチャントを足に受けたジゼルが獣人族であることを差し引いても凄まじい速度でサイクロプスに肉薄する。だが敵もさるもの。視界がいつの間にか回復していたのか、足を骨ごと断たれるという重傷を負いながらも自身に牙を剥くジゼルに拳を振るった。

「無駄です」

 後方に控えていたアンゼリカが狙撃。麻痺毒が塗られたボルトがグレースのつけた『サンダージャベリン』の傷に深々と刺さった。

「グッ……オォ!」

 振り上げた拳を地につけ、サイクロプスが痙攣する。心肺が止まるほどでもないが、動きは止まった。

「やぁああああああああああっ!」

 跳躍したジゼルが、大上段から雷の加護を受けたギガヘッジを振り下ろした。迅雷の加護を受けた武器は、目に見えないほど細かく振動して斬りつけた対象をまばたき一回にも満たない間に少しずつ切削し、どんな硬いものでも斬り裂く。

 ギガヘッジはサイクロプスの頭頂部に峰まで深く叩き込まれた。骨が砕け、脳は刻まれていることだろう。サイクロプスの頭ががくんと垂れ、ジゼルが着地する。地に足をついて腰に力を込め、ジゼルはギガヘッジを引き抜いた。牙のように生え揃った刃がサイクロプスの頭部を深く裂き、それでとどめだった。

 どずん、と地響きを立て、サイクロプスは完全に死んだ。

 皮膚は……駄目だ、切り傷が多いし、焼け爛れていて素材にも商品にもならない。レンは皮を剥ぎ取ることは諦めて、牙を取ることにした。

 鉈を掴み、歯茎に刃先を入れ根元から牙を抜く。上下合わせ四本の牙を取ると、それを異次元回路背嚢インフィニウムに入れた。

「よし……内部に入るぞ」

 砦――大きな塔に入ろうと扉を開けようとしたが、開かない。向こう側からかんぬきがはめられているのだろう。

「グレース、頼む」

「ああ、任せろ……下がれ」

 扉から充分に距離を取ると、グレースがソフィアの先端を扉に向けた。

「『エクスプロージョン』」

 火球が放たれ、扉に命中。同時に爆発し、木製の扉を粉々にした。

「今ので侵入したってことは確実に気付かれたな……警戒しろ」

 先頭を耳と鼻の良い感覚能力に優れたジゼルにし、その後ろにレン、アンゼリカ、グレースと続く。

 ジゼルはギガヘッジを背中に戻し、腰からミニヘッジを抜いている。ミニとはいってもその刀身は解体用の鉈より長く、ロングソード並みにある。立派な片手剣だ。僅かに内反りに湾曲した刀身に牙のように刃が並んでいる。ギガヘッジの縮小版と言っていい装備だ。あの大剣と比較すれば、確かにミニヘッジという名前はぴったりと言えた。

 砦に入る前に、レンはインフィニウムに手を突っ込んだ。インフィニウムの中は異次元空間で、そんな中に物が際限なく入る。そんな有象無象の中から特定のものを取り出す際どうするのかといえば、念じるのだ。その物体がどんなものなのか、念じるだけ。それだけで魔術的作用が働き、使用者の手に望むものをもたらすのだ。

 レンは革の水袋を掴み取った。栓を抜いて、一口二口と水を嚥下していく。

「私にもちょうだい」

 ジゼルが手を伸ばしてきたので水袋を渡そうとしたら、横からアンゼリカが取り上げた。

「間接キスは許しません」

「そんなつもりじゃないわよ!」

「いいから早く飲め。私も欲しいんだ」

 結局アンゼリカが二番目に飲んだ。続いてジゼルとグレースが飲む。

「さ、行くぞ」

 水袋をインフィニウムにしまうと、レンは隊列を組んで砦の中に入った。

 入ってすぐに、レンは唸った。

「地下……か」

 外から見たときこの砦は塔という形をしていたから、てっきり上方向に移動するものばかりだと思っていたのだが、塔は半ばほどから天井が崩落していて上には行けなかった。代わりに地下に続く階段が口を開けている。

 酷く静かだ。敵もこちらが侵入してくるとわかっていて、息を潜めているのだろう。山賊は既に十二人、半数近くを倒している。だが油断はならない。村長の見立てが正しいと言うことはないのだ。もしかしたら総数は五十を超えているかもしれないし、逆にもう生き残りはあの召喚魔術師というだけということもある。

 階段を下りながら、レンは後者の考えを否定した。まだ山賊の頭を見ていない。ということは、この猿山のボスは仲間を引き連れてい奥で待ち構えているる可能性がある。

「死ね!」

 曲がり角から、ショートソードを抜いた男が飛び掛かってきた。レンは即座に左手をそいつに伸ばす。

「『ファイアボール』!」

 拳ほどの低級破壊魔術の火炎がレンの左掌から放たれた。通常、魔術は媒体となる『魔術媒体』という道具――杖や本といったものなど――がないと扱うことができない。人間の体は魔力を奔流させるにはあまりにも繊細であり、無理に魔術媒体無しに発動しようものなら重要な臓器を傷つけることもあり得る。なので魔術師は基本的に魔術媒体を持つのだ。

 だがレンは、違った。レンの左腕は、それ自体が魔術媒体なのだ。

「ぎゃあぁあっ!」

 発射された火の玉が山賊の顔面にぶち当たり、髪が燃えて嫌な臭気が立ち上る。

「よくも!」

 焼かれた男の背後にいた男が飛び出す。ショートソードを振るうが、ジゼルはそれを容易く弾いた。人間と獣人ではまず基礎的な身体能力が違う。線の細い獣人――ライカンスロープの少女の筋力は、人間族の筋骨隆々の大男とタメを張れるほどと言われているのだ。

 ましてやジゼルは生まれてこの方ずっと傭兵たちに囲まれて育った。育ち方の根元が違う。

 上方に大きく弾かれた剣に目もくれず、ジゼルはミニヘッジの鋸状の刃を男の首筋に当てて引いた。

「ぐっ……ごぼ、……ぉえ」

 深く刻まれた喉から致死量と分かる血が流れ出て、もがきながら倒れた。炎に焼かれた男は燃え移った髪を掻き毟っていたが、レンが情けをかけずに首を落とした。

 今回の仕事は山賊の殲滅。捕縛ではない。生かしておく必要はないのだ。

 曲がり角を行くと、居住空間に出た。食堂かなにかだろう。長いテーブルが並び、長椅子が備え付けられている。テーブルの上には食べかけの料理がちらほらとあり、床には酒瓶が無造作に転がっていた。壁に立てかけられた松明とキャンドル、天井からぶら下がる獣の牙でできた粗末なシャンデリア、それらが光の届かない砦内の光源だ。

「動くな!」

 奥へと続く通路から、五人の男が現れる。いずれもクロスボウを持ち、既にボルトをつがえて引き金に指を引っ掻けている。狙いは頭で、撃たれたらさすがに致命傷になる。

「お前ら、何者だ。なんの用事があってここに来た」

「俺たちは黒狼団。小さな王国気取りの馬鹿猿とそれに追従するお前らを殲滅しに来た」

「黒狼団……ちっ、私立傭兵か。あの村の連中、大人しく従っていりゃいいもんを……」

「名前くらいは知ってるんだな……ちょうどいい、少し聞きたいことがある」

「なんだ?」

「アイナという村の娘がここにいるはずだ。どこにいる」

「それを知ってどうする? お前らは……いや、お前はここで死ぬんだ。そこの女どもは俺たちが“味見”した後ボスに引き渡すとしようか」

 男たちが下卑た笑みを浮かべる。

 レンはあふれ出す怒りを滲ませ、もう一度問う。

「アイナはどこだ」

 少年の放つ怒気に気圧されたのか、男の一人が口を開いた。

「あ、ああ……そんなガキもいたな。今頃ボスのペットだ。『スレイヴズ』をキメて楽しくやってるよ」

「そうか……ならお前らは用済みだ」

「……なに?」

「グレース!」

「『アイスウォール』!」

 レンが命令すると同時に、グレースが魔術を発動する。レンたちの目の前に天井まで達する氷の壁が形成された。男たちは慌ててクロスボウのボルトを放ったが、氷の壁の表面にひっかき傷を与える程度で砕くことすら叶わない。

 続けざま、グレースは杖の先端の魔石を氷の壁に押し当てた。

「『フロストアロウ』」

 魔力の波動が氷の壁に伝わり、表面が隆起する。詠唱の通り、隆起した氷は矢となって伸びた。五つの氷の矢は男たちの胴を易々貫き、向こう側の壁に縫い付けるように叩きつけた。

 しゃりん、と澄んだ音がして、氷が砕けて細かい粒子になる。漂う冷気が魔術の余韻として風に溶ける。

「ぐぅう、ううううおおおおおおお!」

 胸を貫かれた男が、腰の短刀を抜いて襲い掛かってきた。急所がそれていたのか、まだ息がある。狙いはアンゼリカ。

「無駄ですよ」

 アンゼリカは突き出された短刀をメイス・ユドスの柄頭で弾き、頭部をエニグマ金属――メタルゴーレムを構成する金属の肉体から削り出されたユドスで叩き潰した。男はそのまま昏倒し、二度と起き上がることはなかった。

 これで十九人。レンは頭の中で計算する。村長の見立てが正しければ、あと十人ほどだ。

 奥に進みながら、レンは唸った。

「しかし……スレイヴズか」

「厄介ですね……どこから仕入れてきたんでしょう」

 スレイヴズとは、依存性のある薬物の一種だ。使用者に興奮と攻撃性の高さ、痛みを忘れさせるなどの効果を与えるが、効果が切れると苛立ち気分を害するなどの症状に見舞われる。さらに重度になると幻覚や幻聴を聞くようになる危険な薬物だ。帝国ではかつて戦争に使用していた過去があったが、二百年前のトリストルド戦争を機に廃止され、現在は所持すら認められていない。持っているだけで重い刑罰を課せられる。だが裏社会では多く出回っているのが現状だ。

 使用者を依存性で狂わせ、奴隷のようにしてしまうことから奴隷達スレイヴズと名付けられたと言われている。

「おい! いたぞ!」

 通路の奥から男たちの蛮声。

「こっちだ! くたばりやがれ!」

 クロスボウを持った男が三人と、短剣使いが二人。

「俺が行く」

 ボルトを放たれるよりも前に、レンは疾走した。

「撃て! 撃て!」

 間隔を置いて、ボルトが三射。レンはその全てを無銘で斬り払い、弾き飛ばした。

「な、バケモンかよ……早く装填――」

 浮き足立つ集団に切り込む。

 ショートソードを抜いた二人の男、うち一人を袈裟懸けに斬り飛ばす。頭蓋、つまり脳天を狙った一撃は骨で刀身が滑ることがあるから、一撃で仕留めるには肩から狙うというのが定石だ。師匠がそう言っていた。

 肩口から脇腹にかけて深く斬り裂かれた男は力なく崩れ落ちる。もう片方――短剣を振りかぶる男に左手を向け、

「『アイスパイル』!」

 詠唱。氷の杭が掌から発生し、クロスボウのボルトと遜色ない速度で放たれる。

 低級とはいえ破壊魔術である。その威力は矢をも上回り、『アイスパイル』は男の顔面を深々と抉って死に至らしめた。

 クロスボウ使いの三人は戦意を喪失していた。

 だがレンは止まらない。

 悪魔だの鬼畜だのと蔑みたければ蔑むがいい。俺は、この手で為さなければならないことがある。そのためには手段など選ばない。女子供でも、邪魔をするなら殺してやる。

 クロスボウを取り落とした男の首を裂き、心臓を突き、胴を切り離す。その間、一呼吸にも満たない。

 計五人の男がなすすべなく、一人の少年に切り刻まれた。

「二十四人……あと少しだな」

 血振りし、刀身についた血を振り飛ばす。

 そして、四人は最奥に辿り着く。

 これまでにはなかった大きな両開きの扉を開くと、胸糞の悪くなる光景が広がっていた。

 四人の男が、三人がかりで少女の手足を押さえつけ、一人の男が瓶に入った液体を無理矢理少女の口に近づけていた。いずれも性行為に及ぶつもりなのか上半身は裸で、下はパンツ一枚だった。その股間はいずれも膨らんでいて、吐き気がした。

 その様子を、緩み切った笑みを浮かべた召喚魔術師が見ている。だがレンに気付くと、その表情は恐怖に歪んだ。

「な、ば……馬鹿な! サイクロプスはどうした!」

「とっくに始末した。次はお前らの番だ」

「ほう、サイクロプスを始末した? 嘘にしても肝が据わってやがるな、小僧」

 薬瓶を手にしていた男が、無造作に伸ばされたヒゲを弄び、あろうことか薬を――スレイヴズを一息に飲み干した。

「お前がこの猿山のボスか」

「そうだ。しかし……こんなガキどもに俺の部下がやられたのか?」

「疑問に思うなら自分で試してみろ」

 背負った戦鎚に手を伸ばした山賊のボスが一歩、踏み出す。取り巻きの三人も少女を離してショートソードを抜いた。少女は部屋の隅まで逃げガタガタ震える。彼女にしてみれば、レンたちも山賊となんら変わらないように見えているのだろう。

「おらぁ!」

 ボスが戦鎚を振るった。半歩退き、レンはその一撃を紙一重で躱す。石材でできた床が砕ける。隙だらけだ。

 レンは伸ばされたボスの右腕を切断する。

「その程度かよ。ランダイナスの方がよほど上だ」

「ぬぅおおおお!」

 右腕を失くしたボスは、片手で戦鎚を振るった。虚を突かれ、レンは咄嗟に左腕を跳ね上げてその横なぎを受け止めた。衝撃に負け、体が吹っ飛ぶ。――忘れていた、あの男はたった今スレイヴズを飲んだではないか。あの薬が戦争に使われていたことを考えれば、重傷を負ってもなお戦い続けることが可能だと思い巡らせるべきだった。

「ひゃっはぁああ!」

 床に転がったレンに、取り巻きの一人が飛び掛かる。しかし、バシュッという射出音が男の奇声を上書きした。アンゼリカのステイルによる援護射撃だ。ボルトは男の側頭部に突き刺さり、即死だった。

「大丈夫ですか?」

「ああ、助かった」

 残る取り巻きの二人は、ジゼルとグレースが処分していた。

 ジゼルはミニヘッジでショートソードを受け流すと、脇腹から肩にかけて一閃。取り巻きは臓物を撒き散らし、倒れる。

 所詮は魔術師だから、懐に入れば勝機はある。そんな安直な考えに囚われた取り巻きはグレースの『サンダージャベリン』を纏ったソフィアに貫かれ、全身を雷撃によって内側から焼かれて煙を吐いて死んだ。

「『汝、迅雷の加護あれ』」

 雷を纏わせた無銘で、ボスの戦鎚の鎚頭を切り飛ばし、余った左腕を切断。そこでようやく敗北を悟ったのか、あるいは薬の効果が吹き飛んだのか、恐怖に顔を歪めた。

「ま、待っ……」

「命乞いならもっと早くにするんだったな」

 もっとも、そんなことをしても見逃しはしないが。

「ひっ、ひひひ……ひっ、ひぃ……」

 部屋の奥に隠れていた召喚魔術師は恐怖のあまり腰を抜かし、小便を漏らしていた。ごろりと転がった山賊のボスの頭を見て、とめどなく涙を零す。

「遺言くらいなら聞いてやる」

「まっ、まま……待て、なあ、スレイヴズの入手経路を教えてやる。ああ、あれはな、『ドラゴンシーク』とか名乗る連中が、前金代わりに送ってきたんだ! りゅ、『竜の埋葬地』を占拠しろと言って……」

「竜の埋葬地? 竜大戦で“自ら望んで”人間を襲った七体の『邪竜』の墓地のことか?」

「そそ、そうだ。なんでそんな場所を占拠しろと言ったのかは知らん。だが――」

「わかった。もう死んでいい」

「そんなっ、待って――」

 一閃。ずる、と召喚魔術師の首がずれ、大量の血を零しながら頭が落ちた。

 レンは血振りをすると太刀を鞘に納め、部屋の隅で縮こまる少女に近づく。少女は奴隷が身に纏うようなボロボロの最低限の衣服しか身に着けていなかった。

「大丈夫か?」

「嫌っ、来ないで!」

 差し伸べた手が払い落とされた。先ほど男に乱暴されていたため、異性に対して過敏になっているのだろう。

「……アンゼリカ、頼む」

「はい……、大丈夫ですか? アイナさん」

「なによ、あんたたち。なんで……私の名前……」

 同性相手だけあって、少しは警戒を緩めたようだ。

「村であなたのお父さんから無事を確かめるよう頼まれたんです」

「お父さん……あんたたちは、山賊じゃないの?」

「違います。私たちは私立傭兵黒狼団の者です。山賊狩りと、被害者の救出を任されました……ほかに、捕らわれている方はいませんか?」

「地下の牢獄に……まだ何人か……」

 まだ下に続いているのか、とレンは思った。もしかしたらまだ山賊の生き残りがいるかもしれない。そこで、レンは転がったボスの遺体の腰に紙切れが挟まっているのが見えた。それを取り出し、広げる。

「そうですか。では帰りましょう、お父さんが待ってます」

「お父さん……お父さぁん……!」

 少女が泣き出した。アンゼリカが受けとめ、抱きしめて背中をさする。

 その様子を見、この場は安心だと判断したレンは紙に目を通した。帝国語でなにやら書かれている。

『前金代わりにそちらが欲したものを届けさせた。スレイヴズと魔術師だ。うまく活用して竜の埋葬地を押さえろ。我らドラゴンシークを裏切るな』

 なるほど、あの召喚魔術師はこのドラゴンシークとやらからやってきたのか。あいつが死に際に漏らした言葉は嘘ではないらしい。

 しかし……ドラゴンシーク。“竜を探す者”とは一体なんなんだ……。竜の埋葬地でなにをしたいというのだ。竜の骨を闇ルートで売りさばこうとでもいうのか。そもそも、竜の埋葬地は一般には知られていない。

 まあどうせドラゴンシークと気取った名前を語ってはいるが、こいつらも山賊のようなものだろう。スレイヴズを用意できるとなると組織力は大きそうだが、所詮はチンピラの集まりかなにかだろう。

 レンは紙を握り潰し、放り捨てた。

「俺は地下を見てくる。グレース、ついてきてくれ。ジゼルとアンゼリカはここで安全の確保だ」

「わかりました」



 その後、レンたちは被害者女性たちを救い出し、村への帰還を果たした。アイナは父と再会し、村長は山賊殲滅の報告を受け歳を忘れたかのように歓声を上げた。事後処理と残党狩りを担当するのは各村の衛兵隊と決まり、レンたちは宴もそこそこにガルドへ帰投する。

 このとき、レンはこんな日常がずっと続くものだと思っていた。

 いつかはあいつと決着を付けなければならない。それはわかっていたが、帝国はこのまま安定した状態を保つものだろうと思っていた。


 全てが激変したのは、その後。

 黒狼団にもたらされたある依頼が、帝国を二分する。



ACT2:帝都動乱



1 帝都上陸


 大きな帆が風を受け、膨らんでいる。海を渡る潮風は磯の匂いがして、それを嗅いでいると自分はまさに帝国人なんだなという気にさせられる。

 環クレセント海連合帝国に住む人間にとって、海は身近な存在だ。内陸部に暮らしている人間はそうでもないかもしれないが、レンはこの十年を海に面した領都ガルドで暮らしてきたので潮風の香りには慣れ親しんでいた。

「うぇっぷ……」

 だが、だからといって船が大丈夫かといえば、そうではない。

 レンが甲板に出て手すりに手をついているのは、景色を楽しみたいからではなく、いつ吐くかわからないからこうしているのである。舳先が海を割る様子を横目に、早く着かないかとレンは思っていた。

「大丈夫ですか?」

 背中を撫でてくれているアンゼリカが顔を覗きこんでくる。

「……だい、じょうぶそうに……見えるか……?」

「あの、その……もうすぐ着きますから……」

 さっきから十回はそんな話を聞いているが、港は見えない。だが今日目的地に着くのは確かだったので、あながち嘘ではない。

「レンの船嫌いは相変わらず、か。今回の依頼、送り主を考えると陸路でのんびり……というわけにもいかないからな」

 グレースは本に目を落としながらそう言った。こんな揺れる場所で本を読んでいて何故酔わないのか不思議で仕方ない。

 本の表紙にはなにも書かれていないが、なにを読んでいるかはわかる。

『古代竜戦争記録』だろう。

 十年前この地で復活した虚竜デミウルゴスは、この世界に幾度となく現れ、破壊と混沌をもたらした。

 帝暦前二千年、帝暦前千五百年、帝暦前千年、帝暦元年の前――三百八十年前。そして、帝暦三七四年現在。虚竜は都合五度、この大陸に牙を剥いた。記録にあるだけで五回。だが虚竜はそれ以前にもこの世界に現れていたらしい。しかしあまりにも歴史が古すぎるため、市井に流れる過去を記した蔵書全四巻にはその記録はない。ちなみに五巻はない。あるとしたら、未来の世界だろう。未来の人間が、この時代に起きている出来事の顛末を記すのだろう。レンが使命に打ち勝てば、だが。

 ヴァリアント教教団本部か魔術師協会の蔵書になら記録があるかもしれないが、残念なことに黒狼団にはその二つの勢力への太いコネクションはない。

「今回の依頼……一体なんなんでしょうね」

 アンゼリカが首をかしげる。

 無理もない。

 今回の依頼は、内容がまだ明かされていないのだ。

 依頼主はヴァリアント教教団帝城付き司祭。仕事については現地で伝えると言われ、不透明なまま仕事を受けることになった。

 仕事が不透明と言うことは、黒狼団が禁じている『内政干渉』にあたる場合もあり得るということだ。黒狼団は飽くまで市井のための組織。政治には肩入れしない。それが大原則だ。

 本来ならこんな依頼蹴るところであるが、報酬が破格だった。

 黒狼団は基本、低い金額で仕事を受ける。だが、私立傭兵運営資金は湧いて出るものではない。低報酬の仕事ばかりでは私立傭兵そのものを解散しなくてはならなくなる。なので、ときどきは高報酬の仕事を受けるのだ。

「うぉっぷ……どうせ、遺跡を探索して来いとか、あるはずもない伝承を探ってこいとか、おぁっぷ……そんなことだろ」

「無理して話さないでください。ていうか私の方を向かないでください」

 アンゼリカは誰がどう見てもレンに好意を抱いている。それはレン自身も気づいている。だがさすがにいくら好きとはいえ吐瀉物をかけられるのは嫌らしい。そりゃそうだ。

「おっぷ……そう言えばジゼルは?」

「寝てましたよ」

 能天気な奴め。

 ジゼルは五感と第六感が優れた戦士であると同時に、どこででも平然と寝てしまう順応性の高さを垣間見せることがある。野宿になっても素直に従うのは彼女で、大体難色を示すのはグレースだ。

 順応性の高さは、この船旅でも発揮されている。もっとも船に乗ったのは初めてではないから、彼女の順応性の高さは今に始まったことではないが。そして同時に、レンの船酔いも今回に始まった話ではない。アンゼリカから「もうすぐ着く」という常套句が出るのも毎回のことだった。

「あ、見えましたよ」

 薄らと港が見えた。桟橋と並んだ大小さまざまな船が群れを成しているのが見える。

 この帝国の中枢部を擁するルミナス領。その玄関口、帝都ルナス。ヴァリアント教における聖地でもある。

 その広大な港の八割は『クレセント海運公社』が管理運営しており、その実態は公社が完全に牛耳っているようなものだ。残り二割の民間船舶用の港も停泊料と仲介料を取られる。公社は初代皇帝が海運を効率的に行うために設立した国家運営の会社で、元々は格安で交易を行う会社だった。だが運営組織に貴族や成金商人が入り込んでくると、そんな純粋な理念は忘れられてしまい、利益を求める集団と化してしまった。金にがめつい帝国人のすることだから、そうなる定めだったのだろう。

 船が帆を畳み、減速する。ようやくこの地獄が終わる。レンはため息をついた。

「グレース、ジゼルを起こして来い。……ぅぐ。下りて、ホテルに向かうぞ」

「わかった」

 ダークエルフの魔女が船室に戻っていく。レンは重い頭を振って、装備を確かめる。太刀にクロスアーマー、レザーアーマーにフード付きの外套、ブーツに左腕の篭手。黒塗りの装備に問題はない。旅路に必要な荷物は全てインフィニウムの中にあるので大丈夫だ。

 隣のアンゼリカを見ると、彼女も自身の装備を確認していた。魔具の白いドレスに魔術的装飾が施された胸甲、篭手、腰鎧、脚甲を見、背負ったクロスボウのステイルとメイスのユドスを点検。腰の革ホルダーに詰め込んだボルトの数を数える。彼女が普段持つボルトの数は三十ほど。予備はインフィニウムの内部にしこたま詰め込んである。

 船が完全に停泊した。桟橋にオーク族が乗っても軋みそうにない頑丈な板を渡し、通路を確保する。

「ふぁーあ……あふ」

 大剣ギガヘッジと片手剣ミニヘッジ、ランダイナス鎧を装備したジゼルが大あくびをかましながら船室から顔を出した。

「お前よく寝れるな」

「逆にレンはなんで寝れないわけ? こんな揺れ大したことないでしょ」

「お前と違って繊細なんだよ、俺は」

 船から降りて桟橋を渡り、検問に向かう。

 一応、渡航の手続きは済んでいる。全て依頼主が済ませたのだ。その証の指輪をレンは中指にはめていた。

「良い旅を」

 指輪を見るなり、検問官はそう言ってレンたちを送り出した。胸の前で十字架を切る。この国では――この国の国教ヴァリアント教において、十字架は聖なるものとされている。その理由は英雄王ウィリアム・ゲルムスが聖別された十字剣を手に戦ったからだとされている。戦場に赴く兵士の武運を祈るとき、旅人の行く先を案じるとき、教会で祈りを捧げるとき、死者を葬るとき、ヴァリアント教信者は十字架を切る。墓石が十字架なのも、十字架が聖なるものという理由からだ。敬虔な信者ではないレンたちにはわからないが、市井の中にはお守りとして十字架のアクセサリーを持ち歩く者もいる。

 レンたちもおざなりに十字架を切り返し、その場を去ろうとした。だが、

「何者だ、貴様ら」

 検問所の隅に彫像のように佇んでいた、重々しい甲冑にハルバートを背負った大男がそう問うてきた。兜のフェイスガードを上げているおかげで緑色の肌に、額に角が生えているのが見え、オーク族だとわかった。髪はない。剃り上げているのだろう。

「傭兵だ。証の指輪もある」

 レンが手を差し出し、中指にはめた指輪を見せる。宝石類はないが凝った意匠をしていてそれが傭兵が渡航する際の証となっていた。

「傭兵ギルドの仕事か?」

「私立傭兵だ。依頼を受けてここに来た」

「内容は?」

 根掘り葉掘り聞いてくる態度に、ジゼルが腹を立てた。

「ちょっとあんた、いくらなんでもずけずけ訊きすぎじゃない? だいたいなんなの? あんたはなんの権限があって私たちに突っかかってくるの?」

「俺様はこの検問所の監督を任されている者だ。ドナルド・ホーダイだ」

「その身分を示してみろ」

 今度はグレースだ。エルフ族――ハイエルフ、ダークエルフ、オークは種族間の仲が悪いことで知られる人種だ。白い肌を持つハイエルフは褐色だったり青白い肌を持つダークエルフを蔑み、この両者は魔術適性がなく身体能力に秀でたオークを野蛮人と虐げる。

 さすがにグレースに差別意識はないだろう。だからこそエルフの隠れ里を抜けてきたのだから。だが横柄な態度の男――ドナルドに、一人の人として不快感を抱いているようだった。

 ドナルドは首元を漁り、鎧の中に入れていたネックレスを取り出す。

「この銀細工を見ろ。これは海運公社幹部職員に下賜される銀細工だ。これが俺様の証だ」

「確かに……本物のようだな」

 レンの目では真贋を見極めることはできなかったが、博識なグレースが言うのだから、間違いはないのだろう。

「ふん、ダークエルフの分際で、なかなか見る目があるじゃないか」

「そちらこそ、オークでありながらよく公社の幹部職員になれたものだ」

 ドナルドとグレースの間で火花が散る。この二人の相性は最悪だ。喧嘩腰のドナルドが悪いのだが、グレースは基本売られた喧嘩は買い叩く性分なため、この組み合わせはレンからしてみると非常によろしくない。

「で、通っていいんですか?」

「待て、それで貴様らは皇帝陛下のお膝元でなにをしでかそうというのだ」

「まだ聞かされちゃいねえよ。依頼人が仕事内容は現地で話すって一点張りするから来てやっただけだ」

「そんな不確かな仕事を受ける傭兵がこの世にいるのか?」

「現にいるだろ、ここに」

「信じられん……スレイヴズの密売を企んでいるのではないだろうな。ここ最近、山賊どもの間であれが使用されていると聞くが」

「高報酬だから受けたんだ」

 いい加減イライラしてくる。だが騒ぎを起こすのもまずい。こいつがただ正義感に駆られただけの市民ならまだしも、公社の幹部職員となると逃げだすわけにもいかない。

「依頼主は? 商人か?」

「そんなに疑うんならこいつを見てみろよ」

 レンはそう言って、インフィニウムに手を突っ込んで畳まれた封筒を取り出した。蝋封が既に剥がされている。

 ドナルドはレンからその封筒を受け取ると、中身に目を通す。

「……帝城付き司祭だと?」

「そうだよ。依頼人は教団だ。内容はわからない。まあどうせ遺跡探索の護衛とかそんなものだ。この辺りに遺跡があるかどうかは知らないけど」

 遺跡探索ならこの街の傭兵にでもやらせればいいのに、という懸念があったがレンは黙っていた。会話が長引くのは避けたい。船酔いで気分が悪いのにこれ以上不快感を煽られるような事態はごめんだった。

 ドナルドはしばらく思案した後、封筒をレンに返した。

「ふむ……まあいいだろう。通れ」

 去り際、レンは後ろを振り返った。最後までドナルドはこちらを睨んでいた。余程職務に真面目なのか、ドナルドは訝しむような目をレンたちに向けている。

「なんなんですかね、あの方」

「さあな……軍の出身者かも知れないな。軍人は傭兵を自分たちの職場を荒らす害虫だと思ってるやつが多いって話だし」

 だがその軍が官僚的な働きしかしないから、傭兵たちへの民間からの依頼が後を絶たないのである。それを考えると、ありがたいことだ。――人の不幸を食い物にしている、という点では目を覆いたくもなるが。

 港を出ると、先ほどから聞こえてきていた喧騒が勢いを増した。この付近には新鮮な魚介類をふんだんに使った料理を提供する店や、そうした店で一服着いた旅人たちをもてなす宿で溢れかえっている。

 中には蠱惑的な衣装に身を包んだ娼婦がいて、たまたま目のあったレンに投げキッスを送ってくる。目には見えないそれを、アンゼリカが手で払って叩き落とした。

「ムキになるな。本気にしてるわけじゃない」

「ならなんで頬が緩んでるんですか」

 レンだって年頃の男子だ。ああいう恰好をした異性に好意を振りまかれれば、たとえそれが商売であったとしても、少しは期待を抱いてしまうものである。

 レストランを見回していたジゼルが口を開いた。

「ねえ、ちょっと腹ごしらえしない? お腹空いたんだけど」

「お前寝てただけじゃねえか」

「寝ててもお腹は空くの! 大体、船でろくなもの食べられなかったじゃない。堅焼きパンばっかで肉があったのは初日だけ。しかも塩辛い干し肉だったし……麦酒もない」

「なら酒場に行こう。洒落たレストランは性に合わない」

 酒場を目指し、歩き出したときだった。

 ガシャン、ガシャン、と重い足音が後ろから響いてくる。

「『魔巧まこう』か。あれは『アラン・リザード』だな」

 四人を追い越して真っ直ぐに歩いていく機械を目に、レンは呟く。

 二足歩行をする大きな機巧人形、というのが、それを見た第一印象だった。ランダイナスのような形状で、トカゲ、という名前を付けたのも頷ける。ちなみにアランというのは設計者の名前である。

 魔巧。

 それは、機巧人形技術を発展させ作られた戦闘機械である。

 五年前に開発された『魔動機まどうき』という、魔力を動力に変換する機構を搭載したもので、魔力を流せば自動で動く機巧人形とは違い搭乗者自身の手で細かい操縦を行う。魔動機は魔力を流すだけで動くので魔術適性がない者でも手軽に扱えるという利便性を誇る。

 もっとも魔巧ほど巨大なものを操るとなると膨大な魔力が必要なわけで、そんな魔力を持つのなら魔巧ではなく魔術師として運用した方がはるかに効率的だ。だから魔巧には動力源として魔力を含有する鉱石である魔石を詰め込んでいる。

 さっきレンたちを追い越していったのは哨戒や対歩兵戦闘用のけい魔巧だろう。魔力を純粋な破壊力に転換して撃ち出す『魔力砲まりょくほう』を二門搭載していた。

 魔力砲とはその名の通りで魔術適性がなくとも魔力を充填するだけで放てる簡便性がうりの魔術技術の一つだ。破壊魔術のように属性ごとの特性には恵まれないものの、破壊力と汎用性は充分。先述の通り属性は持たないが、魔力砲の攻撃方法自体は多岐に渡る。砲弾のように放つものや魔力のエネルギーを雨のように降らせたりすることも可能だ。

 軽魔巧に搭載されている小型魔力砲『ノーマルカノン』――と言っても人力では満足に運べない――は、バリケードや重装鎧兵を一撃で戦闘不能にする威力を秘める。恐らく中級破壊魔術並み……いや、大型のものになれば出力次第でそれ以上の攻撃力を誇るのだ。城壁を吹き飛ばすことも夢ではない。

 そして魔動機は、実に多くの可能性を秘めている。船の動力にすれば風頼りの航行に変革が訪れるだろう。陸に専用の道を敷設し、鉄の巨大馬車列を走らせるという計画もあるという。

「帝都じゃあんなものが市中を見回ってんのか」

 一応、各領都の軍は魔巧を軍備に入れてはいるものの、市中で見ることはまずない。そもそも魔巧はここ数年で発展した技術だ、まだまだ新しく、運用実績にも乏しい。

「そろそろ魔術師もお役御免かな」

 グレースがいじけたように苦笑する。

「どうだろうな。魔巧には弱点が多い。魔力砲が機動力を得たのは脅威だが、まず対人戦じゃ小回りが利かないし、一機の製作費用が高い。ある程度数を揃えるとなると正規軍くらいの財力がなきゃ厳しい。なにより搭載してる武装が魔術に比べるとちゃちだ。まだまだ魔術師は現役だろうよ」

 言いながら歩いていると、ちょうどいい雰囲気の大衆酒場を見つけた。

「らっしゃい! いいところにきたねえお客さん、新鮮なサーモンのステーキがあるよ!」

 木製のスイングドアを抜け、店内に入ると酔客たちの大声の波と店主の威勢のいい声が出迎えてくれた。

「じゃあそれと蜂蜜酒を二つと……」

「葡萄酒はあるかな」

「麦酒!」

 空いた席に座り、料理が来るのを待つ。

 このときレンたちは、依頼などどうせ遺跡探索だと決めつけ、気楽に構えていた。

 まさかこの後、国家を揺るがす事態に遭遇するとは、夢にも思っていなかったのである。


2 密会


 昼。

 ――魔巧がやたら多いな。

 ホテルに仲間たちを置いてきて、指定のレストランに向かう道すがら、レンは多くの魔巧とすれ違った。二足歩行の機巧仕掛けの制御系を人に任せた機械人形。これからの時代、重装歩兵が戦場の脅威となったように、魔巧が騎士の代わりになるのではと言われている。

 四年前、帝国中部のマグノリア領領都付き技術研究所が最初の機体を開発した。当時の運用目的は機動力に難のあった魔力砲をいかに速やかに展開し、攻城戦で活躍させるかといったものだったらしい。そのため機体は見上げるほど巨大で、今で言うじゅう魔巧とカテゴライズされるものだった。

 初陣は、城塞跡を占拠していた大規模山賊との戦闘。

 老朽化していたというのもあるが、城壁は初期型重魔巧の砲撃一発で瓦礫の山と化した。だがこの程度、魔力砲の前では当たり前のことである。恐ろしかったのは、その魔力砲が移動砲台と化したことだ。それまで固定砲台としてしか運用できなかった大出力兵器があちこちで火を噴くようになったことは脅威以外の何物でもなかった。

 その後魔力砲が威力を保ったまま小型化され――と言っているが実際は威力は中級破壊魔術並みに下がった――それをより高機動に運用するための軽魔巧が開発された。

 といってもそれはここ最近の話。大きな戦争がない帝国では魔巧の運用実績がまだまだ乏しく、運用におけるフィードバックが少ない。

 しかし、ここ十年、帝国の南に位置する大国『ぺルマナント神聖国』との間で緊張が高まってきている。永久神『ぺルマナント』を唯一神とするこの国は、教義の違う周辺諸国を侵略して巨大化した。つまるところ、ここ数百年で現れた新興宗教に過ぎないヴァリアント教を目の上のたん瘤かなにかだと思っている。

 神聖国と帝国との間で戦争が起きるかもしれないという話は、まだ現実味を帯びているほどではないが、帝国議会が警戒を高めつつあるという噂は訊いたことがあった。現に、魔巧が開発され各領に製造工場が建てられ、軍拡が進んでいる。表向きには大型エニグマへの対抗手段だと言っているが、実際は戦争を念頭に置いている可能性もある。

 まあ、レンにはあまり関係のない話だ。戦争自体はさして関係ない。黒狼団は政治には干渉しない組織だ。戦争で生まれるであろう山賊や盗賊への対処は増えるだろうが、騎士たちの配下に入って戦場を走り回ることはない。それこそこの国が滅んで、その名を変えようと。

「しっかし……なんなんだ一体」

 指定のレストランは、酷く入り組んだ小路にあるようだった。指定のレストランを示す地図に目を落とし、日々の戦いで培った方向感覚を頼りに自分の居場所を確かめる。

 一瞬、どこだここと思ったが、意外と近くに目的の店があるのを見つけた。

 その佇まいはレストランというより、民家だ。周囲に並ぶ背の高い――敷地面積が限られる都市部では背の高い建物が多い――家々と比べてもさほど違いがない。ただ入り口の扉に店名と思しき名が躍っているだけである。

 一応店である。ノックの必要はないだろう。

 レンは扉を押し開け、店内に入った。

「いらっしゃいませ。レン・クローゼル様ですね?」

「あ……ああ」

 仕立ての良い燕尾服に身を包んだ男に出迎えられ、レンは僅かに気圧される。こちらは戦闘服のままだ。ドレスコードがあったら完全にアウトな恰好である。うかつだった。相手は帝城付き司祭。衣服にも気を遣うべきだったか。

「お待ちしておりました。こちらへ」

 しかし男はレンの見てくれには興味がないようで、服装に困る少年を店の奥に案内する。

「ゴドー様はこちらでお待ちです」

 ゴドーとは、レンを呼び出した張本人。つまりヴァリアント教教団帝城付き司祭のことだ。

 ドアを開けると、高級そうな絨毯を敷いた室内に、下品にならない程度の調度が整えられた部屋に出迎えられる。中央にテーブルクロスのかかったテーブルがあり、二つの椅子。一つには既に人が座っていた。

「では」

 燕尾服の男が去り、ドアを閉める。

 どうすべきかわからず、言葉を探すレンに、

「君がレン・クローゼルくんだね?」

 ゴドーが声をかけた。

 濃紺を基調とした司祭服に身を包む好々爺とした老人だ。頭頂部は薄く、横と後ろに残った髪が雪のような色をしている。

「はい。俺――私がレン・クローゼルで間違いありません」

「こっちへ来なさい。なに、取って食おうというつもりはない。酒でも飲みながら、少し話そう。ここの葡萄酒はなかなか美味だぞ」

 グレースを連れてくれば喜んだかもしれないな、と思ったがレン一人で来いと先方から指示があったため、そういうわけにもいかない。

 レンはゴドーの対面の席に座る。するとまるで監視していたのかとしか思えないタイミングで燕尾服の男がドアをノックし、入ってきた。

 燕尾服の男は無言でゴドーとレンのゴブレットに葡萄酒を注ぎ、皿に盛った質の良いチーズをテーブルに置き、一礼して去っていった。

「食べるといい。長旅で疲れているだろう」

「ええ……では」

 一応、こちらは敬虔なヴァリアント教信者ではないとはいえ相手は帝城付き司祭。一介の傭兵に過ぎないレンにしてみれば雲の上の存在である。自然、言葉も丁寧になる。

 チーズを齧り、咀嚼する。濃厚で風味の良いチーズだ。こんな品、食べたことない。もしかするとこの店は、知る人ぞ知る高級店なのではないか。

「あの……」

「なんだね。口に合わなかったかな」

「いや、そうじゃなくて……。今回の依頼、なぜ我々黒狼団に出したんですか? 帝都にも仕事を頼める私立傭兵はたくさんいるはずですが……」

「我々教団の目は節穴じゃない。君が……」

 ゴブレットの葡萄酒の表面を滑っていたゴドーの目がレンに向けられた。


「君が、竜征者であることは既に知っている」


 その言葉に、レンは咄嗟に立ち上がった。椅子が大きな音を立ててひっくり返る。

「……あんた、どこでそのことを知った」

 レンは自分が竜征者であることを他人にひけらかしたような真似はしていない。知っているのは団長と副団長、それからアンゼリカとジゼルとグレース。あと、ごく一部のものだけだ。

「人の口には戸が立てられないものだよ、クローゼルくん。どこかで君のことを見聞きしたものが教団に告げ口したのだろう……だがここに至って、私は君が竜征者であるという確信を得てはいない。……見せてくれないか」

「…………嫌だ、と言ったら」

「君たちが無事に帝都を出られることはないだろう」

「それは教団が敵対するという意味か?」

「どう受け取ってもらっても構わない」

 レンは観念し、左腕の篭手を外した。

 現れたのは、異形。

 指先から前腕部の半ばほどまでが、黒い、竜を思わせる甲殻で覆われていた。続いて左目に僅かな魔力を循環させる。

 ゴドーが目を瞠った。

 その瞬間、蒼いはずのレンの左目が金色こんじきに煌めいた。瞳孔は猫のように縦長のスリット状になり、まるで竜のような眼球に変貌する。

「竜征者……本物か。いつ選ばれた?」

「俺は十年前、虚竜に左腕と左目を奪われた。だがあいつは俺を殺さずに、去っていった。目が覚めると、俺の左腕はこうなってた。目に至ってもそうだ。力を発現しようとすると竜の目になる」

 竜征者。

 虚竜デミウルゴスが世界に牙を剥くその都度現れる半人半竜の勇者。どんな基準かは知らないが、虚竜が選ぶことによって、生まれる。竜征者は体のどこかを虚竜の肉体に置き換えられており、人智を超えた身体能力と魔術能力に目覚める。

 過去四度起きた竜大戦の原因は、虚竜にある。虚竜は魂をも“書き換える”力で竜族やエニグマを――ときには人をも無理矢理従わせ、人類に戦争を仕掛けてきた。

 虚竜が現れる理由は定かではない。神々が戦争を起こした際に作りだした生物兵器だとか旧神のなれの果てだとかいわれているがはっきりしたことはなに一つ分かっていない。ただ度々この世界に飛来し、混沌を振りまくのだ。

 そしてその虚竜は、三百八十年前の竜大戦で封印の眠りについていたそいつは、今から十年前に復活を果たした。その際、虚竜はローゼス領領都で暴れ回った。領軍が迎え撃ち、復活したばかりの虚竜を追い払ったが、追い払われたあいつはレンが暮らす村に飛来した。

 あいつは、レンから全てを奪っていった。

 親、友達、仲の良かった姉弟子、師匠――昨日までそこにいたはずの村民たち。

 あの村にいて生き残ったのはレンとアンゼリカだけだ。

 みんな死んだ――いや、殺された。レンが目を覚ましたときそこにあったのはアンゼリカの泣き顔だった。

「座りなさい。話はまだまだ終わっていない」

 倒してしまった椅子を直し、レンはどかりと座り直した。先ほどまで頭にあった礼節はどこかへ消えていた。この男が脅しをする輩であるとわかったからだ。そんなやつに礼を尽くす必要などどこにある。

「で……俺が竜征者だと、あんたの頼む依頼にどう関係するんだ」

「これから我々が対峙する相手の中にも竜征者がいることがわかっている。君も自分自身のことだからわかっていると思うが、竜征者を並みの人間で相手取るとなると群で特殊な訓練を受けた豪傑十人がかりでも厳しい。まして相手の竜征者が場数を踏んだ者なら精鋭の小隊をぶつけても対処は不可能だろう。召喚エニグマをけしかけたとて……」

「要するに俺にその竜征者を止めてほしいと?」

「万が一現れるようであれば、な」

 ゴドーは落ち着いた様子で葡萄酒を飲む。

「なお、これから話すことを聞いたら後には引けないと考えてくれ」

「……団長はそのことを知っているのか?」

「ああ。だいぶ難色を示されたがね。金を積んで、教団を敵に回すかと交渉したら最後には頷いてくれた」

「どのみち俺には拒否権なんてないんだろ。教団を敵に回すかどうかを言われて断れるやつなんていないだろ」

「賢明な判断だ」

 レンは葡萄酒も麦酒もさして好きではないが、喉が渇きを訴えていたのでゴブレットの葡萄酒を乱暴に飲み下した。

「それで、なにをさせる気だよ」

「君はヴァリアント教についてどれくらい知っているかな」

「ん……俺は信者ないからな……」

「ふっ、司祭の前でそんなことを言うかね、普通。私でなければ激怒してもおかしくないぞ」

「悪かったな。十年前に全部を失くした。神さまなんて信じる気にもなれないんだよ」

 しかしなぜヴァリアント教の話になるのだろう。

「ヴァリアント教は、一柱の最高神と四柱の神を信仰する宗教だ。初代皇帝ウィリアム・ゲルムスの竜征伐伝説を二代目皇帝が宗教という形に落とし込み、三百年以上前に帝国に布教された。最高神ウィリアム・ゲルムスと、その三人の仲間たち、闘神ヴァルク・アドムス、美神エレノア・スカーレット、魔術神ゴードン・マルカス、そして協力した竜族の筆頭竜神アルスを神として称えている」

「そこまでは知ってるよ。十字架が聖なるものの証だとされるのはウィリアムが聖別された十字剣を使ってたからだろ?」

「その通り。だがヴァリアント教の教義は神や十字架を崇めることじゃないんだ」

 ゴドーは一拍置いてから、続けた。

「ヴァリアント教の教義の一つにはこうある。『竜族たちは虚竜によって無理矢理従わされている、被害者である。竜は隣人であり、友であり、我らを守ってくださる存在である』と布教している。つまりそれは、人類の力と叡智を遥かに超えた存在である竜は友人であると同時に敬うべき存在であり、彼らに見守られながら平和に暮らすのがいいのだと主張しているのだ」

「竜神アルスを敬うやつらが多いのはそれが理由なんだな。……小さい子供は大抵闘神か竜神に憧れる。俺もガキの頃はそうだった」

「私からすれば今の君も充分に子供だがね」

「茶化すな。……続けてくれ」

「ああ、そうだな。――先ほど言ったのが教義の一つなのだが、これは現在『保守派』と呼ばれる勢力の理想論に過ぎないというのが現状なのだ」

「保守派……てことは、それに反発する勢力がいると?」

「そうだ。彼らは『竜はあくまで使役すべき存在であり、対等ではない、あくまで召喚エニグマと同じく武力である』と主張している。『革新派』だよ。旧態依然とした考えを否定し、国家増強を目論む勢力。君は神聖国との間で緊張が高まっているという話を聞いたことがないかね」

「公示人気取りがときどき騒いでるよ。戦争が起こりそうだとかって煽ってる。国民も噂程度ってくらいで聞いてるんじゃないか?」

「噂じゃないんだよ、クローゼルくん。戦争は起きようとしている。革新派は大陸の覇を本気で唱えている」

「アルヴンウォーク大陸を征服する? ……馬鹿げてる。無理だ」

「だが現に教団、公社、議会は保守派と革新派で二分されている。聞いた話では革新派は神聖国の支援を受けているという話だ。裏は取れていないからはっきりとはわからん。だが腹の探り合いがあるようだ。革新派は教義を捻じ曲げ永久神信仰の隙を作ろうと言って神聖国からの支援を受け入れ、しかしその実裏切るつもりでいる。神聖国側は革新派を扇動してこの国が疲弊した隙に攻めようという魂胆なのかもしれん」

「はぁ……俺たち黒狼団は政治に干渉しないことが絶対条件なんだ。だから団長を脅したんだな? 俺たちになにをしろってんだ? 密偵でもやれってか」

「いや……。……明日、夜明けとともに革新派が――叛乱軍が挙兵するという情報を掴んだ」

「なに?」

「第二皇子、エドワード・ゲルムスが革新派を率いて組織した叛乱軍が、明日に行動を起こすことが明らかとなった。エドワードは現皇帝と兄弟姉妹を殺害し、実権を握ろうとしている」

「それで街にやたらと魔巧が配備されてるのか……」

「そういうことだ。だが魔巧は飽くまで攻撃兵器。防衛においてどれほど役に立つかはわからん」

「内戦が……起きるってことなのか?」

「その通り。内戦になる……君たちには、その混乱に乗じて、第一皇女リーシア様をお連れしていただきたい。これは皇帝陛下からの願いでもある」

「なら今すぐ逃がせばいいじゃねえか」

「私もそう進言したのだが、リーシア様は最後まで戦うと仰られ、ゲイリー・ゲルムス皇帝陛下と共に城に残る意思を示されたのだ。国民の上に立つ人間がおめおめと尻尾を巻いて逃げるわけにはいかないと……」

「面倒くさいやつだな……リーシアは俺たちが逃がすといって素直に従うのか? つうか今日の夜にさらったらどうだ。その方が早いだろ」

「いえ、皇帝陛下の願いとしては、その方がいいでしょう。ですが保守派としてはリーシア様が最後まで叛乱軍に抵抗したという箔がついていた方がいいのだ。恐らく革新派は実権を握るだろう。止めることは難しい。保守派は今は敗北の泥を啜る決断をいたした。だが逆襲に備えると。そのために、最後まで叛乱軍に抗った皇女殿下が必要になるのだよ。最後まで悪に立ち向かったという風評があれば、民もついてくるだろうと……」

 つまり皇帝を見殺しにして、体勢を立て直そうということか。

 損得のためなら人の命を簡単に切り捨てる。これだから政治は嫌いなんだ。

竜征者おれを呼んだってことは、その叛乱軍に竜征者がいるってことなんだな?」

「恐らくは……君と同じで確信を得ているわけではないが……聞いた話では女なんだそうだ」

「なんで竜征者が叛乱軍なんかに手を貸すんだ?」

「それを言うなら君は何故竜征者になってまで傭兵なんてやっているんだ」

「そりゃ……俺を拾ってくれたのがたまたま傭兵だったから……」

「なら向こうもそうなのかもしれない。どこかで虚竜に襲われた者が、叛乱軍に価値を見出され、拾われたのかもしれない」

 確かに、そう考えることもできる。

 それに革新派は『竜はあくまで使役すべき存在であり、対等ではない、あくまで召喚エニグマと同じく武力である』という考えを標榜している。竜に繋がっているのだ。虚竜征伐を使命としている竜征者にとっては、都合のいい考えだ。虚竜を倒し、竜を統べる力の秘儀を知ることが出来れば“竜を使役する”ことも可能になるのかもしれない。

 もっとも、竜征者は既に竜を使役する術を持っているのだが。竜と絆を結ぶ、という方法で竜を従え、共に戦うことができる。ウィリアムがアルスを使役できたのも、その力があったからだ。とはいえこの力では同時に一体までしか使役できないから、頭数を揃えるにはやはり虚竜の持つ力を解明するべきなのかもしれない。

「では夜中に行動を開始してくれたまえ。帝城で待っている……ここに詳しい段取りが記されている。頭に入れておいてくれ」

 一切れの紙を渡され、レンは頷いた。行動は夜。叛乱が始まるギリギリ寸前のところで夜闇に紛れて皇女を逃がせということか。

「わかった……」

 これは完全な内政干渉である。しかし団長が許可し――脅されたが故の苦渋の決断だろう――、レンに回してきた依頼だ。これさえこなせばまた日常生活に戻れる。

 レンは自分にそう言い聞かせ、席を立った。


3 十年前の“あの日”


 ローゼス領は三日月形をした帝国の先端、北方にせり出した巨大な岬状の半島だ。地図上で見ればこの国の名の由来にもなった『クレセント海』を抱く“左腕”のような感じだ。北国のさらに北に位置するローゼスはごく短い夏以外常に雪に閉ざされた銀世界だ。

 十年前――。

 レンは、ローゼス領中部に連なるフロストホワイト山脈のふもとにある村『ホットスプリングス』で暮らしていた。

 鉄鉱石と魔石を産出するフロストホワイト山脈の山麓には村や集落が点在していて、ホットスプリングスもそんな村々の一つだった。

 名前の由来は村の中央に設けられた温泉。湧き出る温かい湯がその名のもとになった。温泉は無料で開放されていて、湯治客が度々やって来る以外は、村人が日々の疲れを癒すために使っていた。

「ねえレン、ちょっと隣村のネイトさんのところに行ってお父さんの剣を取ってきてくれないかしら」

 薪割りを終え、暖炉に使う木材を台車に入れて家に帰ってきたレンに、母親は開口一番そう言った。

「えー。なんで俺が行かなきゃいけないんだよー」

「いいでしょう、あなたいつも遊んでばかりなんだから」

「遊んでなんかいねーよ。修行と勉強だよ」

「たまには家の手伝いをしなさい。それも修行と勉強よ。あーあ、誰かさんが頼まれてくれるなら晩御飯をシチューにしてあげてもいいんだけどなぁ」

「わかった、やるよ」

 シチューはレンの好物だ。

「相変わらず食い意地張ってますねえ」

 台車を後ろから押していた人物――十六、七くらいの外見の少女アンゼリカが笑う。彼女とは物心ついた頃からの付き合いだが、まるで歳を取らない。母が言うには、母が子供の頃から外見はなんら変わっていないという。アンゼリカは師匠の付き人で、こうしてときどきレンの世話を焼いてくれる。理由はわからない。

「うるさいなー。こんな退屈なところじゃ飯くらいしか楽しみがないんだよ」

「そうですか。なら早く済ませてしまいましょう。今から急げば夜には間に合いますよ」

 空には相変わらず重苦しい灰色の雲が広がっている。朝から降っている雪は勢いこそ穏やかだが、いつ吹雪に変わってもおかしくない空模様だ。

 隣村まではかなり近いとはいえ、下手をしたら向こうで立ち往生と言うことになるかもしれない。それに、道中エニグマが現れるという可能性もある。

「母さん、俺一人で大丈夫?」

 一応、武器はある。短剣だ。しかし所詮こちらは子供。山賊やエニグマに出くわしたらどうなることか。

「そうねえ……」

「安心してください、お義母さん、レン。私もついていきますから」

 今、おかあさんという言葉のイントネーションがおかしかった気がする。

「そう? 助かるわ。シズナ様の付き人なら安心だわ」

 シズナ様、というのはレンを始めとする子供たちに勉強や剣術を教えているこの村の村長で鉱山の権利書を持つ、端的に言えば一番偉い女性である。

 しかし彼女はその一生安泰といっていい立場に甘んずることなく、子供たちに読み書き計算を教え、身を守る術の手ほどきをしている。

 必要な荷物を馬に持たせて、レンはその馬のタンデムシートの後ろ――アンゼリカの後ろに跨った。

「もっとくっついていいんですよ」

「いいよ……」

 馬を常歩なみあしで進め、村の出入り口となっているアーチまで向かう。その最中、

「あれ、レンにアンゼリカ……どこに行くの?」

 金の髪に緑の目をした少女が声をかけてきた。

 ルシア・ジノヴィエフ、九歳。レンの幼馴染みにして、シズナの下で剣術を学ぶ姉弟子。

「母さんの頼みでネイトさんのところに行くんだ。父さんの剣を取ってこいって」

 レンの父は、既に他界していた。数年前、この村を襲ったエニグマと果敢に戦って死んだのだ。物心つく前の話だからレンにはあまり悲しみを伴わないが、村人たちは口々に惜しい人を亡くしたというから、生前は立派な人間だったのだろう。

 父が死んで以来、レンは母の手で育てられた。母は腕のいい工芸品職人で、機巧人形を作って生計を立てている。

 将来、レンは傭兵になるつもりだった。ギルドに登録するか、どこかの私立傭兵に入るかして金を稼ぎ、母を楽させてやりたかった。

「ルシアも来る?」

「私? 私はいいよ。今日はこれから師匠と一緒に稽古があるし」

「へぇ。いいな。けど頼みごとがあるから……じゃあ行くよ」

 とんとん、とアンゼリカの背中を叩くと、彼女は馬を歩かせた。

 村を出てしばし、雪道を歩いていくとホットスプリングスよりも小さい集落が現れる。辺りを流れる川の力を利用した鍛冶工房が多く並び、周囲の村々に武器を売って暮らしている鍛冶師の町だ。

 集落の入り口にある馬屋に馬を預け、レンとアンゼリカはネイトが待つ工房に向かう。

「おう、レンじゃねえか。父さんの剣、砥ぎ終わってるぞ」

 工房に入ると、三十代半ばほどの男が出迎えてくれる。

「ありがとう。それを取りに来たんだ。これ、母さんから」

 礼金の入った袋を渡すと、ネイトはそれを受け取り、鞘に収まったロングソードを手渡してきた。

「ほらよ。母さんによろしくな」

「うん。また遊びに来てね」

 よくは知らないが、ネイトは昔レンの母を巡って父と色々と競い合った仲らしい。父亡き後彼はレンたちを心配し、ときどき顔を見せることがあった。レンにとっては、父親に最も近い存在だ。

「じゃあ、帰りましょうか」

「そうだね……なんか荒れそうだし」

 空模様を見て、レンは言った。村にいる間に荒れるならまだいい。ネイトの家に泊まるという手段を取れる。最悪なのは、道中で吹雪に出くわすことだ。そんなことになれば遭難、最悪凍死だ。

 来た道を戻る。

 その間、アンゼリカと他愛もない会話をしていた。

「私、好きな人がいるんですよ」

「へえ。誰? ジョン? マイク?」

 ジョンとマイクはレンよりも十ほど年上の少年だ。アンゼリカと同年代で、師匠の下で学ぶ年の離れた友人である。二人ともアンゼリカに好意を抱いているようで、ときどきアプローチする様子を見る。

「いえ、違います」

 アンゼリカはぴしゃりと否定した。ジョンとマイクにはちょっと悪いことをしたかな、とレンは思った。このことは黙っておこうと心に決める。

「じゃあ誰?」

「誰でしょうねぇ。案外近くにいる人かもしれませんよ?」

「ふぅん。誰だろ」

「うふふ……すぐにわかりますよ」

 よくわからない。レンはまだ子供である。まだまだ色気より食い気。色恋沙汰より食事のメニューの方が大事だ。特に今晩の食事は大切である。

 そのとき。

 ……ズズ、ズン、ドズン。

「なんでしょう……」

「なんの音?」

 轟音、といっても差し障りない音。呼応するように、天候が荒れ始め、風が強くなって雪が横殴りに舞い始める。

「ゴォォオオオオオアアアアアアアアッ!」

 突如響いた咆哮に、レンは馬の上でびくりと肩を震わせた。

「アンゼリカ!」

「ホットスプリングスからです! 急ぎましょう!」

 馬を走らせ、道を急ぐ。

 その間、ずっと轟音が響いていた。村に近づくにつれ怒号や悲鳴が聞こえてきて、さらにはなにかが焼けるにおいも漂ってくる。

 薄暗くなった空に朱色が躍る。村が燃えているのだ。

 山賊の襲撃か……いや、違う。聞こえてきたあの咆哮は、明らかに人が出せるようなものではない。エニグマの襲撃というのが可能性として一番高そうだが、この辺りに火を噴くようなエニグマはいない。村が焼ける理由がわからない。

 まさか、召喚魔術師か。それならこの惨状も理解できる。召喚魔術師は契約したエニグマを使役する召喚魔術を駆使する魔術師だ。どこかで火を噴くエニグマを調達してきたのかもしれない。

 だが、事態はレンの想像を遥かに超えていた。

「な……ん……。なんだよ……これっ!」

「あ、レン!」

 村の入り口のアーチが倒れている。それを馬を飛び降りて乗り越え、しかし父の剣は放さずに一直線に家に向かった。

「母さん!」

 家屋は、どれも破壊され、火に包まれている。不快なにおいが鼻腔に不躾に飛び込んできてレンは顔をしかめた。

 レンの家は、倒れて潰れていた。母は、潰された家の下敷きになっていた。

「母さん! 今助けるから――」

「駄目よ、今すぐ逃げなさい!」

「なんでだよ! すぐに引っ張り出すから……」

「もういいのよ、レン。足が折れてて……私、もう歩けない。下半身の感覚がないの。私を連れてちゃ逃げられないわ」

 母は、レンの体を強く押した。想像もつかない力で押され、レンは降り積もった雪に尻もちをつく。

 慌てて起き上がると、炎がレンの家を飲み込んだ。

 母が、生きたまま焼かれている。

「母さんっ!」

「逃げ……て……!」

「レン!」

 馬に乗ったアンゼリカが怒鳴る。

「逃げましょう、早く」

「師匠は!? ルシアはどうするんだよ!」

「ちょっと、レン!」

 レンはアンゼリカを無視して走り出した。涙を拭い、前を見る。父の剣を鞘から抜き放ち右手に構える。あたりの家々は、いずれも無残に破壊され炎の海の中に埋もれていた。雪を赤く染める死体の数々。焼かれた者、食い千切られた様に上半身が欠損した者、押し潰されて干物のようになった者。生きている者は、もういない。怒号も悲鳴も遥か彼方。

 母が死んだ。

 師匠は……ルシアは……。

 これ以上誰も、大切な人を失いたくない。

 そういえばルシアは師匠と稽古するといっていた。ということは道場にいるのか。死体が転がる広場を駆け抜けて道場へ。

「ゴォォォオオオオオオオアアアアアアアアアッ!」

 咆哮。レンはそちらに向かって走る。すると、道場が――その成れの果てが見えた。半壊していて屋根がない。

 そこに、そいつは佇んでいた。

 竜。

 金色の目がレンを射る。

 山のように巨大な黒い体。四本の足で地を踏み、背中には三対の巨大な翼。

 一般に竜と呼ばれる存在は、二本の足に一対の翼を持つものだ。帝国人に崇められる竜神アルスもそういった姿で知られる。その竜の常識を覆した異形の存在が目の前にいる。あれを何故竜と認識できたかはわからない。けれどあれは間違いなく竜だ。

 竜の足元に人が折り重なっている。ジョンとマイクだ。剣を握ったまま、膨大な量の血を流して死んでいた。ルシアの姿はない。食われたのか。見ると、竜の口は赤く汚れていた。

「お前が……やったのか」

 剣を握る手が震える。恐怖からではない。身を焼くような怒りが、レンの腕に万力のような力をこめさせていた。

 竜はなにも言わない。ただ静かにこちらを見下ろす。値踏みするように。

「答えろっ!」

 叫ぶ。だが、答えられる以前にわかっていた。こいつ意外に、やったやつなどいない。

 レンは剣を手に駆け出した。瓦礫を踏み越え、竜に向かって突っ込む。

「うぅうおおおおおおっ!」

 竜の前足の甲殻に剣を突き出す。切っ先が鱗に阻まれ、直後根を張った大木のように微動だにしなかった足が唸り、風を逆巻かせながらレンに振るわれた。咄嗟に剣を盾にしたが、剣はあっけなく折れた。

「がふ……っ」

 道場の外まで吹っ飛ばされ、高く積もった雪に頭から突っ込む。激痛に息が詰まって呼吸ができなくなり、空気を求めて喘ぐ。

 はっと目を開けると、黒い竜が音もなく目の前に迫っていた。

 前足を振り上げる。剣よりもよっぽど鋭い輝きを帯びた爪の先端が、レンの左目を穿った。

「ぐぅぅぁぁああああああっ! ああぁぁあああ!」

 激痛にのたうち、しかしあまりの痛みのせいで意識が霞み、体の感覚が遠い。

 死ぬのか。

 ぶつん、という感覚がして、左腕の存在感が消えた。残った右目で左腕を見ると、肩から先が欠損し、夥しい鮮血が零れて雪を真っ赤に染め上げていた。

 黒い竜が口を開き、黒い霧を放つのが見える。

 その霧がレンを包み込み、痛みは嘘のように去っていった。

「レンからどきなさい!」

 聞き慣れた少女の声が響く。風を打つ音がして、空から真っ白な竜――二本の足に一対の翼という姿のごく一般的なもの――が黒竜にブレスを放った。天使のように舞う竜の口から白熱した熱線が飛び、黒竜の背中で爆ぜて鱗が飛ぶ。

 声は、明らかにあの白い竜から放たれていた。

 まさか、アンゼリカ……。

 レンの意識は、そこで途切れた。



「目が覚めましたか?」

 視界が広い。――目を奪われたはず。試しに右目を閉ざしてみるが、視界は塞がらず、それが左目が健在であることを物語る。

 アンゼリカの顔は涙に濡れていて、声が震えている。

「俺……どうしたんだ?」

「竜に……虚竜デミウルゴスに襲われました」

 辺りを見渡す。ホットスプリングスではなかった。恐らく村から離れた街道だ。ローゼス領領都『ロード』に続く道だろう。

 レンの体には毛布がくるまれていて、アンゼリカが少しでも冷気がやってこないようにレンの体を抱きすくめていた。

「虚竜……そう言えば、俺……左腕を奪われて」

 毛布から左腕を引っ張り出し――息を飲んだ。

「なんだ……これ……」

 指先から前腕の半ばまで、黒い甲殻で覆われている。異形の手。あの黒竜と同じ。

「レンは……竜征者に選ばれたんです」

「竜征者って……なに?」

 涙を拭い、アンゼリカが続ける。

「度々この世界に現れる虚竜デミウルゴスを征伐する半人半竜の勇者のことです。身近な例で言えば、初代皇帝がそうですね」

「ヴァリアント教の?」

「そうです」

「俺が……“そう”なったってのか?」

「そうです……すみません。私がもっと早く……」

 アンゼリカが俯く。言葉に詰まっているようだった。

「最後のあの竜……あの白い竜は、なんだったんだ?」

「あれは――」

「おいっ! 大丈夫か!」

 アンゼリカの言葉を遮って、男の声が響いた。レンがそちらに顔を向けると、人狼族・ライカンスロープの男女が四人いた。いずれも戦闘に適した恰好で、武器を持っている。山賊には見えない。恐らく、傭兵だ。

「君たち、どこから来た? こんなところでなにをしている?」

 レンたちは、素直に自分たちがホットスプリングスから来たこと、虚竜に襲われたことを話した。

 彼らは黒狼団という私立傭兵で、行き場の失くしたレンたちを受け入れると言ってくれた。

 身の上話に同情した……というのも少しはあるだろう。だが一番の理由は、レンが竜征者となったからだった。竜征者は言ってみれば人民にとっての英雄の代名詞だ。後から聞いた話では、黒狼団はレンを広告塔として利用しようと考えていたらしい。結局レンが竜征者である事実を隠す決断をしたため、その計画は頓挫したわけだが。

「俺たちはこれからロードに向かって、そのあとガルドに帰る。君たちもついて来い」

 六人で連れ立って歩く。その最中、アンゼリカが一振りの太刀をレンに差し出した。

「あの後……シズナとルシアを探したんです。ですが遺品はなにも見つからず……ただこの太刀だけがあったので。私が持つより、レンが持っていた方がいいでしょう」

 結局師匠とルシアは死んだのか。

 レンはアンゼリカから無銘の太刀を受け取り、自分がなにもかもをなくしたことを思い知った。

 そして、なくしたものを埋めるような復讐心を胸に宿し、――竜を征する者としての一歩を踏み出した。


 これが十年前の出来事。

 レンの原風景となる出来事である。


4 革新派、挙兵


「…………?」

 目を覚ますと、辺りを不気味な静けさが支配していた。場所はホテルの食堂。広々として空間にテーブルと椅子が並び、カウンターには料理人がいる――はずなのに、今は席をはずしているのか影も形もない。

 高価なガラスがふんだんに使われた窓からは焼けるような西日が差している。

 料理人はおろか、それどころか客も、忙しく動き回っている給仕さえいない。どういうことだ……。

 そもそも自分は何故眠っていたのだろう。ゴドーから話を聞いて、帰ってきて、仲間たちにその話をして、明日に備えるために蜂蜜酒を飲んでいて……。そうだ、それで眠ってしまったのか。

 突っ伏していたテーブルから顔を上げ、周囲を見渡す。有事の際に備えレンは戦闘衣だが武器は部屋に置いてある。さすがに一般客がいる場で物騒な恰好をしていては、客は落ち着いていられないだろう。それに黒狼団はマナーにもとると思われてしまう。風評が悪くなれば、仕事を回してもらえなくなってしまうこともあり得るのだ。

 しかし、なんだこの静寂は。

 静かすぎる――と思っていると、ズズン……と腹の底に響くような音が遠雷のように響いてきた。

 恐らく、魔力砲の砲声だ。

「なにごとだ……?」

「レン! ここにいたんですか!」

 食堂の扉が吹き飛ばされるのではないかというほどの勢いで開けられ、アンゼリカが飛び出してきた。相変わらず十年前から変わらない容姿。歳を取らないという母の言葉は嘘ではなかった。アンゼリカ自身の言葉が真実なら、歳を取らないという話もあながち頷ける。

「おいここはホテルだぞ。もう少し静かに……」

「静かにする必要がどこにあるんですか! もうお客さんも従業員もとっくに逃げ出してますよ!」

「逃げ出す? なにから?」

 あとからジゼルとグレースが続いてきた。

 グレースがレンの太刀を投げ渡してくる。

「叛乱軍だ。挙兵してきた。数はわからん。だが攻城用の重魔巧や召喚エニグマまで放っている。今帝国軍が必死の抵抗をしているが、外と内部の両方から攻められ潰走寸前だ」

「叛乱軍が動くのは明日って話だろ……なんで今」

 ジゼルの狼耳がピクッと動いた。同時に、なにかが崩れ落ちるような微かな音がレンの鼓膜を震わせた。

「重魔巧が帝城の第一防壁を破ったみたい」

 帝城は全部で三つの防壁を持つ。帝都区を囲む第一防壁、帝城付近の庁舎などを囲う第二防壁、そして城そのものを囲む第三防壁。敵軍は既に帝都区に進撃しているのだろう。

「帝城の防壁は魔具だぞ……」

 魔巧が開発され、魔力砲の運用性が格段に良くなってからというもの、帝都や領都――未だ戦略価値を持つ砦の防壁には魔術的に防衛力を上げる措置が施されている。防壁そのものを巨大な魔具にし、魔力の膜……否、魔力の『結界』を張るほどになっているのだ。

 それを崩す破壊力――魔巧の秘められた力が、この戦いで発揮されたということだ。

「第一防壁が破られたならあまり時間がないな。……行くぞ、皇女を連れてここから出る」

「「「了解」」」

 ホテルから飛び出し、レンたちは走り出す。

 戦争の混乱の中、住民は家に閉じこもるか、さらなる戦禍の拡大を恐れて逃げ出す者と様々だった。都市の中心部――帝都区に近づくにつれ、砲声や怒号、悲鳴のようなものが耳に届き始めていた。

 戦闘が始まっている。

 昨日、ゴドーから叛乱軍の話を聞いたとき、正味の話冗談かなにかだろうと思っていた。この国が最後に行った戦争はちょうど二百年前。帝暦一七二年から一七四年の間に行われたトリストルド戦争が最後の戦いである。

 それからの間、帝国は他国から侵攻を受けたことも、しかけたこともなかった。

 虚竜という脅威に見舞われこそしたものの、政治的な脅威に迫られることは――ぺルマナント神聖国との間で緊張が高まっていたことは事実だったようだが――なかったのだ。もう一つの隣国『ローゼントライム王国』と『ブレスク共和国』との交友関係は概ね良好だし、その三国が形成する『三連合』が抑止力となって神聖国を牽制していた。

 この内戦で、革新派はぺルマナント神聖国を味方につけた。とすれば当然の成り行きとしてローゼントライム王国かもう一つの友好国ブレスク共和国が保守派につくのだろうか。

 そうなれば、最悪の展開だ。神聖国と王国、共和国は実質敵対関係にある。神聖国は神を絶対視するが、王国は神ではなく王族に忠誠を誓う国柄で、共和国も宗教ではなく国民の総意が政治に反映される。そこに神が入り込む余地はない。自身が信じる神の絶対性を示したい神聖国からすれば人が頂点に立つ王国と共和国は異端である。

 神聖国と王国、共和国の対立が、帝国の内乱にかこつけて代理戦争という形に発展する可能性もゼロではない。

 これは、この帝都動乱はほんのきっかけに過ぎない。これから予想もできないような大乱に発展する。

 レンは半ば確信に近い予感を覚えた。

「そこの! 何者だ、止まれ!」

 鋭い声が響いてきて、レンたちは足を止めた。

 目の前には赤いローブに身を包み杖を手にした四人組。ぎらついた目をした男たちだ。

「お前らは?」

 無銘の柄に手をかけ、レンは問う。

「先に訊いたのは我々だ! 貴様らから素性を明かせ!」

「黒狼団だ。皇女殿下の身柄を確保するために動いている。お前らは……どっちだ?」

「ふっ……くく、ならば貴様らは我らの敵だ。これから誕生するエドワード・ゲルムス皇帝陛下の敵だ」

「革新派か……!」

「そうとも、いやぁ、しかし歯向かってくる馬鹿者がいるとはな。何人か、家で引きこもっているのを殺してやっていたが……こう活きが良いのが引っかかるとはな。この仕事の役得だ」

 抜刀する。敵対する以上、刃を交えることになる。おまけに相手は人殺しを是とする極悪人だ。恐らく雇われ。言動からして倫理的に問題があって魔術師というネットワークから外れたあぶれ者たちだろう。

 一人の魔術師の懐に入り込むと、レンは袈裟懸けに一閃。黒い刀身が血を吸った。深い切り傷を負った魔術師は痛みに意識を手放し、昏倒する。放っておいてもあの出血量だ。いずれ死ぬだろう。

「きっ、貴様――」

 魔術師たちが色めき立つ。

 傭兵は仕事となれば手を抜かない。今回の依頼、完全に内政干渉に当たるが、引き受けた以上は完遂しなくてはならない。そのためならば、手段は問わない。正々堂々と戦うことを信条とする騎士様ではないのだ。傭兵に騎士道精神はない。必要ない。勝つ為なら手段を選ばないことこそがこの仕事を続ける秘訣だ。不意打ち、騙し討ち、からめ手、なんでも使う。

 おまけに相手は言っていることが嘘でなければ罪のない人間を殺した最低のクズだ。真摯に革命を信じる兵士ならば殺さず、気絶にとどめておくつもりにもなれたが、こんな連中を生かしておく気には到底なれなかった。

 魔術師の一人が杖をこちらに向けた。

「『ファイアボール』!」

 魔力消費量の少ない低級破壊魔術で小手調べといったところか。

 ――初めから本気でしかければいいものを。

「『ファイアボール』」

 レンも同様の魔術で対抗する。拳ほどの火の玉が空中で衝突し、辺りに熱風を撒き散らす。

 空中で花を咲かせる炎ごと、魔術を放った男の頸部を深く斬った。

「ごぇ……ごぶ」

「クソ! エドワード陛下に仇なす逆賊め!」

 そういうお前らは現皇帝に仇なしているじゃないか、とレンは思ったが、口には出さずそれを行動で示す。

 残ったのは二人。残る一人は杖を掲げ、

「『ミスト』」

 幻惑魔術を詠唱した。目と耳を閉ざす寸前、杖の魔石が放つ光を見てしまった。

 視界が突如白い霧に覆われた。だがこれは実際に霧が起きたわけではなく、対象を惑わせる魔術を浴びてしまったが故に見えるようになった幻覚だ。

 幻惑魔術は、光や音を見たり聞いたりすることをきっかけに術を受けたものに変化をもたらす。目や耳から入った光や音が魔術を受けたものの認識を欺き幻覚や幻聴を引き起こすのである。それが幻惑魔術だ。逆に、自らに術をかけ感覚を強化するという使い方もできる。

 幻惑魔術は持続時間が過ぎるか、術者を倒すまで効果は解けない。破壊魔術や付与魔術、召喚魔術のように物理的な破壊力を秘めているわけではないが、脅威に違いはない。

 見えない、というのは致命的だ。暗がりならまだ夜目が利くからいいが、霧となるとそうもいかない。

 耳を澄ませ、音で敵の位置を探る。足音。霧がかった視界の合間に人影が見え、レンは踏み込む。

 下段から振り上げた無銘が敵を裂いた。しかし、浅い。霧の隙間から見える魔術師は痛みに呻いたようだが、倒れてはいない。

 と、軽やかな疾走音が耳に届く。

 直後、レンの視界は晴れた。目の前で『ミスト』の魔術を唱えた男の体が、ギガヘッジに食い破られるように脳天から股の辺りまで裂けていた。

「一人で無茶しすぎ。少しは私を頼ってよ」

 ジゼルが口を尖らせる。

「ああ……悪い。先走った」

 これは素直に謝るしかない。

「ええいクソ、なんなんだ貴様らは! ――こうなれば……あぐっ」

 バシュン、と音がして、生き残った最後の一人の腹部にボルトが突き刺さる。

「なんだこれ……は、から、だ、が……」

「麻痺毒です。あなたはもうじき死にます」

 どこを狙っても死ぬ毒。だからアンゼリカは的の広い腹を狙ったのだ。

「く、……っ、道連れ……だっ、出でよ、サイ……ク、ロプス!」

 男は今際の際に気力と魔力を振り絞り、詠唱した。杖から光が漏れ、魔法陣を描きそれが異界とこの世界を繋ぐゲートと化す。

 詠唱の通り、現れたのはサイクロプス。陰茎はない。恐らくメスの個体だ。性別関係なく既に何度も倒しているとはいえ、ランダイナスを捻り潰すように楽に倒せるわけではない。

「ふっ、く、くく……」

 男は嫌らしく笑いながら、倒れた。

「グゥウオオ!」

 今は時間がない。こんなのに構ってはいられない。

「レン、アンゼリカ、先に行け。ここは私たちが引き受ける」

「ええ、私たちに任せて。先にって、レン、アンゼリカ」

 グレースとジゼルが得物を構え、サイクロプスと対峙する。

「……わかった。任せるぞ」

 楽勝とまではいかないが、この二人ならサイクロプスに負けるということはないだろう。

 レンとアンゼリカは頷いて、走り出す。サイクロプスが棍棒を持った腕を持ち上げたが、

「『エクスプロージョン』!」

 突然巻き起こった爆風に煽られ、棍棒はサイクロプスの脇を走り抜けたレンたちを穿つことなく石畳の地面を叩き砕いた。サイクロプスは逃げていったレンたちを諦め、自分に牙を剥く女たちに向き直った。

「グォォオオオオオオオオオオオッ!」

 咆哮を背に、レンとアンゼリカは走る。

 帝都区が見えた。区を覆う外壁が無残に破壊され、瓦礫が辺りに散っている。遠くに見える第二防壁も破壊され、現在第三防壁が魔力の結界を纏い、重魔巧の砲撃に耐えている。

 そう、重魔巧は、ここからでも見えた。

 外見は蜘蛛。それも、見上げるほどに巨大な蜘蛛だ。機体名は『ロン・スパイダー』。アラン・リザードと同様、ロンというのは設計者の名前だ。

 頭部に攻城用大口径魔力砲『バトリングカノン』を三門と、腹部の背に対人用広範囲攻撃用魔力砲『レインレイ』を五門搭載。レインレイは一度上空に打ち上げた魔力を拡散し、高エネルギーと化した魔力を雨のように降らせる対人戦最強の魔力砲の一つだ。バトリングカノン同様の巨大砲台なので今までは固定砲台としてしか使えなかったが、魔巧の登場で移動しながら使えるようになった。

 さすがにあれは相手にできない。

 帝国軍側から重魔巧が出てこないところを見ると、あの今暴れているロン・スパイダー自体が帝国軍のものだった可能性がある。叛乱軍は帝国軍と分裂した際にロン・スパイダーを押さえたものと思われる。

 と、目の前から三人の男たちがやって来る。

「そこのお前たち、止まれ」

 またか、とレンはうんざりした。だがよく見ると、彼らは帝国軍が身に着ける濃紺を基調とした軍服と鎧に身を包んでいた。先ほどの様子から察するに革新派は赤を基調としているようだから、彼らは保守派側の兵士ということになる。

「俺たちは黒狼団だ。リーシア様をお連れするために行動している。そこをどいてくれ」

「は……黒狼団の方々でしたか。失礼ですが、照明になるものは?」

 レンは指輪を見せた。ゴドーが用意したものだ。

「はっ、失礼いたしました!」

 男たちは握り拳にした右手を左胸に当て、敬礼する。

 その右手が、肩口からずるりと落ちた。

 右腕を切り落とされた男は、自分の腕を失ってもなお、冷静に左手で剣を抜いた。背後に振り返りざま後ろの敵に剣を見舞う。しかし背後にいた敵は、血を吸った右のナックルガード付きのサーベルを振るって剣を弾く。次いで左の、やはりナックルガード付きのサーベルで喉を貫いた。

 二刀流。それもただのサーベルではない。ミスリルの魔具だ。切断力を増すような魔術効果を施されているのだろう。

 帝国軍兵士を襲ったそいつは、全身をミスリルの魔具鎧に包んで、左半身を隠すような赤いマントを身に纏っていた。頭を首まですっぽり覆う兜で隠していて、鉄仮面の向こうの顔はわからない。だが鎧の胸部に豊満な胸の意匠が施されているのと、腰の括れから女であろうと想像できる。

 異変に気付いた残り二人の帝国兵も剣を抜くが、民家の屋上から飛び降りてきた二刀流魔具鎧の女戦士たちの強襲に遭い、あっという間に全滅した。

 剣が交錯する、その一瞬で片方の空いたサーベルが閃き、確実に急所を抉る。

 突如現れた手練れの二刀流女戦士の三人に、レンはじり、と半歩下がる。

 相手は間違いなく戦闘慣れしている。おまけに魔具だ。あれは、恐らく防御力を上げるというよりは身体能力を補助する類の魔術効果があるのだろう。でなければ、三階建て四階建ての民家の上から鎧を着たまま飛び降りるなんて真似はできないはずだ。

「貴様、竜征者か」

 女戦士の一人が口を開いた。兜越しの響いた声だが、女だとはっきりわかる。

「だったらなんなんだ」

「僥倖だ」

「……どうしたの、私の可愛い乙女たち」

「ああ、隊長」

 女戦士の後ろから、兜を付けていない女戦士が一人現れる。鎧も、女戦士とは違った。女戦士たちが銀色の魔具鎧を身に纏うのに対し、隊長と呼ばれた女は乳白色のなにかの骨から削り出したかのような無骨な鎧に身を包んでいた。胴、篭手、腰鎧、脚甲。そして腰に差した二振りのサーベル。女戦士たちと同様、ナックルガード付きだ。一番違うのが、マントだ。女戦士たちが左半身を隠すようにマントを纏っているのに対し、隊長と呼ばれた女は赤い裾の長い外套ロングコートに袖を通していた。レンが身に着けている者の赤色版といった感じだ。

 金の髪に金の目。目は人間ではありえない形だった。黒目が猫のように縦長のスリット状でまるで竜眼りゅうがんした際の自分のような……。

「お前が……竜征者か」

 ゴドーから聞いていた、もう一人の竜征者。

「そうよ。あなたが私以外の竜征者ね……初めて見るわ」

 どこか面影のある顔に、レンとアンゼリカは互いの顔を見合わせる。

「隊長、と呼ばれていたな……」

「ええ、私がこの『鋼女隊こうじょたい』を率いている。ルシアよ」

「黒狼団クローゼル部隊隊長、レン・クローゼルだ……ん? ルシア?」

「え……レン?」

 あの、面影は。

「死んだはずだ……ルシア、お前はあの日死んだはずだ! 大体目の色が違う! 嘘をかたるな!」

「それはこっちの台詞よ。私の目がこうなってるのは竜の侵食が進んでるからよ。じゃあ聞くけど、こうなる前の私の目の色は? あなたが本当にレンなら答えられるはずよ」

「緑だ」

 即答だった。忘れるわけがない。

「私たちが暮らしていた村の名前は?」

「ホットスプリングス」

「私たちに読み書き計算、剣術を指導していた人の名前は?」

「シズナ・カンナギ」

「私の両親のうち一人は外国人だった。どちらの親が、どこの国の人だった?」

「父親がブレスク共和国の人間だった。姓はジノヴィエフ。お前の名前は、ルシア・ジノヴィエフだ」

 淀みなく答えるレンに、ルシアは「ふぅ」と息をつき、負けを認めたように肩をすくめた。

 だがレンはまだ納得がいかなかった。そんな様子を見透かしたようにルシアが口を開く。

「レン・クローゼル……今年で十七歳、男性。幼少期からアンゼリカの好意を受けて母親の女手一つで育ってきた。小さい頃から傭兵ギルドに入るんだって言って剣術の稽古には前向きだったけど読み書き計算は身が入らなかった。だから私がよく勉強を見てあげてたわね。ちなみに剣の稽古で私に勝ったことは一度もない」

 当たっている。

「お前は……本当にルシアなのか?」

「そうよ。ルシア・ジノヴィエフ本人。十年前、虚竜の襲来で全てを失った。あなたもでしょう? あいつは飛来した瞬間火を噴いて家々を焼き尽くして無抵抗の人々を殺して回った。師匠が剣を交える頃にはもう生き残りは私以外にいなかった。……そして私も」

 ルシアが右手の篭手を外す。

 そこから現れたのは、レンと同じ黒い異形だった。

「ルシアも、混じったんですか?」

「ええ、アンゼリカ。相変わらずあなたは歳を取らないのね……伝説の通りだわ」

 レンは抜きかけた無銘を鞘に戻し、問う。

「お前が革新派についているのはなんでだ?」

「簡単よ、革新派の目的は竜族の従属化による武力の増強。つまり、虚竜が持つ魂を書き換える力の解明にある。そしてその目的を虚竜を倒すことで果たそうとしている。竜征伐が目的の私と利害関係が一致したのよ」

「そのためだけにこの国を……この大陸を混乱に陥れる気か?」

「虚竜を放っておけばいずれはこの大陸は混乱の渦に放り込まれる。それに、私にはこの国がどうなろうと興味はないわ。あなたもそうでしょう? 政治に興味があるのならなんで傭兵なんてケチな仕事をしてるのかしら。竜征者という肩書があれば内政に食い込むことも難しくないのに」

 確かに、レンも政治に興味はない。この国がどうなろうと知ったことじゃない。だが、喜々として国民を混乱の渦に叩き込むことを良しと認めることはどうしてもできなかった。

 いや、違う。レンが許せないのは、ルシアが非道な判断を是としていることだ。村にいた頃の彼女は曲がったことを許さない正直で真っ直ぐな少女だった。

 彼女が変わってしまった。それにやるせなさを感じる。自分ではどうすることもできなかった。彼女を守れなかった。知らないところで彼女が彼女ではなくなった。それに怒りを覚え回り回ってどうすることもできなかった自分に呆れる。

「お前、変わったな」

「お互い様よ、レン。あなたも変わった。すっかり人殺しの目をしてる」

「それこそお互い様だ」

「そうね。私も随分と沢山の人を殺してきたわ。死んだら神界へは行けないわね」

 自嘲気味に嗤うルシアの表情は大人びていて、レンは少し居心地が悪くなる。

「ねえ、レン。私たちと来ない?」

「隊長! 命令はこの者の捕縛です! 説得では――」

「あなたは黙ってなさい。……レン、悪い話じゃないと思う。私たちといればいずれ虚竜と遭遇できる。私と一緒に、来ない?」

「……罠かも知れません、レン」

「冷たいわね、アンゼリカ」

「私はレンが竜征者になったときに――いえ、それ以前から彼にに全てを捧げることを誓いました。私は平気で人を殺められるあなたたちより、レンを信じます」

「同感だ。ルシア、俺はお前たちとは行けない」

「どうして?」

 ルシアが悲しげな顔を浮かべる。

「俺は、……俺が傭兵をやっているのは、俺が所属している黒狼団が『困っている人に手を差し伸べる』ということを標榜しているからだ。俺はそんな人々の盾であり、剣であるという理念に賛同している。殺しをするのも悪人だけ。俺の剣は、斬奸ざんかんの剣だ。俺の手にしている盾は、弱者の盾だ。罪もない人間を平然と斬り捨てるお前たちのやり方には賛同できない」

「そんなガキみたいな理想論で虚竜を倒せるとでも?」

「ガキみたいな理想論でも夢を語れなくなったらおしまいだ。俺は斬奸の剣であることを、弱者の盾であることをこれからも続ける。そしてその行いに誇りを持つ。神様から見たら立派な人殺しだ。俺も将来は天には昇れないだろうよ。だけどそれでいい。弱者を一人でも多く救えるなら、俺は地の底で永遠の責め苦を与えられても構わない」

「それは、自分が全てを失ったことの反動トラウマから来ているの?」

「かもな。俺は――俺たち三人は、あの日全てを失くした。その苦しみは、今でも思い出せるし、忘れられない。あんな思いを誰かにさせるような真似はしたくない」

「子供ね……でも、なんていうか芯は変わってないみたいで、少し嬉しい」

 彼女の微笑みは、記憶の彼方にある幼いルシアと重なった。

「いいわ。見逃してあげる。あなたたちの目的は知らないけど、帝城に用があるんでしょう」

「隊長っ!」

 鋼女隊の一人が前に出てサーベルを抜き、切っ先をレンに向ける。こちらも抜刀しようと、

「黙りなさい、私の可愛い乙女」

 レンが抜くよりも早く、ルシアがサーベルを抜いていた。鋼女隊の他の面々と違い、ミスリルの刀身ではなく乳白色の骨から削り出したかのような刀身だった。刀身が鋼女隊の首に擬せられ、サーベルを抜いた鋼女隊の兵士は「申し訳ありません!」と叫ぶと即座に剣を収めた。

「なんのつもりだ、ルシア」

「言ったでしょう? 私はこの国がどうなろうとどうだっていい。昔なじみのあなたが生きているとわかっただけでも儲けものだったわ。今日はその幼馴染みの顔に免じて見逃してあげるってことよ」

「……革新派での立場が危うくなるんじゃないか?」

「どうかしらね。彼らにとって私は唯一虚竜に対抗できうる存在。少しくらい大目に見てくれるわ」

「そうか……なら俺たちは先に行くぞ」

「どうぞ、お好きに……行くわよ、乙女たち」

 ルシアが一足で民家の屋根の上に飛び乗る。骨から削り出したような防具は魔具だったようだ。竜征者とはいえ、あんな高さまで一息で飛び上がれるなんてありえない。それとも、竜の侵食が進んでいるからあんな真似が可能になったのか。

「急いだ方がいいかもね」

 最後に一言吐き捨てたルシアに続き、鋼女隊の女たちも民家の屋根に飛び乗り、カエルのように跳躍して去っていく。

 まさかこんなところで、敵として――同じ竜征者としてかつての幼馴染みと再会するとは思わなかった。

 そして今後――、

 今後、敵として相対したとき、自分は彼女と刃を交えることができるだろうか。

 帝城に向かって走りながら、暗澹あんたんたる思いに顔をしかめた。


5 これは序章に過ぎない


 サイクロプスの肩口にギガヘッジを食いこませ、袈裟懸けに引く。硬い皮膚が裂かれ、真っ赤な血が飛び散る。数滴の血がジゼルのランダイナス鎧を濡らした。

 深く裂いた、という手応えはあったが、サイクロプスは平然と動く。

「グゥオオオオオオオッ!」

 唸りを上げ、棍棒が石畳を滑る。ジゼルはそれを跳んで回避し、直後空中のジゼルを狙ってサイクロプスの左拳が振るわれる。ギガヘッジの腹を盾に使い、直撃を避ける。しかし衝撃で吹き飛ばされ、民家の壁に背中からぶつかった。

「ぐふ……っ、ぁう……」

 肺の中の空気が絞り出され、息に詰まる。

 ずるりと地面に落ち、大剣を杖代わりにどうにか立ち上がった。溜まった涙を手の甲で拭おうとし、思いとどまった。ランダイナスの篭手には鋭い甲殻の棘がついている。こんなもので目元を拭おうものなら失明待ったなしだ。手を返して掌で涙を拭う。恐怖で泣いているのでは断じてない。

 サイクロプスがこちらにずんずん近づいてくる。見上げるほどの巨体は圧迫感があり、近寄られるだけで呼吸が苦しくなる。

「『フレイムピラー』!」

 ジゼルの眼前に、つまりサイクロプスの足下から炎の柱が出現した。竜巻のように渦を巻く炎がサイクロプスを飲み込む。

「オオオオオオッ!」

 ぶんぶんと両腕を振るい、サイクロプスは鬱陶しげに炎をかき分ける。ジゼルが斬った傷口が焼け血が渇き、肉が焼き塞がる。いびつな傷口から肉の焼ける匂いが漂ってくる。それは生肉を焼いた際の匂いとそう変わらなかった。

 生物を焼いた際、おぞましい臭いになるのは身に着けている衣服や髪の毛が発する臭気が一緒くたになっているからだ。生の肉を適切に熱すれば、大抵の生きものは香ばしい香りを発する。人もだ。

 だからといって、食欲がそそられたわけじゃない。こんな状況では腹が減ったなどと間の抜けたことを思えもしない。

 炎の渦が止むと、サイクロプスは怒号を上げてグレースの方に駆けて行った。ズンズンと地をどよもす足音を立て、鬱陶しい攻撃を仕掛けてくる魔術師を潰しにかかる。

 グレースは即座に踵を返し、逃げ出した。彼女のローブは防御力を上げる魔具だが、主な用途は対人戦だ。対エニグマ戦においてはほとんど役に立たない。一撃でも直撃を受けたら終わりだ。

 だから彼女は、ブーツも魔術道具にしていた。

 効果は、疾走速度上昇。雷魔術を帯びたブーツで、足のツボを微弱な雷撃で刺激することで脚力を上げているのだ。

 目にも止まらぬ速さでグレースは路地に消え、サイクロプスは魔女の姿を見失う。

 あちらをきょろきょろ、こちらをきょろきょろ。単眼を巡らせるサイクロプスの背後からジゼルはギガヘッジを振るった。狙いは右足。アキレス腱を断つ。牙のように生え揃った刃が肉を引き裂き、骨身にまで届く斬撃を見舞う。

「ォォォオオオオッ!」

 受傷したサイクロプスが足で自重を支えられなくなり、転倒した。

「ジゼル、下がれ!」

 民家の屋根の上に上っていたグレースが叫ぶ。同時に目を閉ざし、意識を集中する。

 魔力の奔流が杖から溢れ出し、グレースの長い濃紺の髪を多頭蛇ハイドラの首の如く不気味に揺らめかせる。

「『ファイアストーム』!」

 上級破壊魔術を詠唱し、杖の先端から炎が噴き出す。猛烈な勢いで噴流する火炎がサイクロプスを飲み込み、皮膚を食い破るように焼き吹き飛ばし、骨まで溶かしていく。

 ただの火炎ではない。上級破壊魔術『ファイアストーム』は炎の嵐の名の通り、エクスプロージョンを遥かに超える爆風速度の火炎噴流を巻き起こす大技だ。その勢いは大型エニグマに穴を穿つほど。サイクロプスは流れる爆風に焼かれ、ついには内臓まで焼き尽くされ、それどころか火炎噴流は石畳の石材まで抉る。

 胸を食い破られ、胴体と頭が分断されたサイクロプスは目を見開いて死んだ。

 屋根から飛び降りたグレースが杖を振るい、残留した魔力の残滓を払う。青白い燐光が裏路地に踊った。

「行こう、ジゼル」

「うん」

 インフィニウムがないので素材を回収してもしまう所がないので、惜しいところだがサイクロプスの遺体は放置する。もっともこんな状況で悠長に素材回収などするべきではないのかもしれないが。大剣を背負い、ジゼルとグレースは走り出した。

 グレースは雷撃で刺激を受けた足で、ジゼルはライカンスロープの優れた敏捷性を発揮して石畳を踏み抜くように駆け抜ける。

 所々に、戦闘の跡が散見された。

 濃紺の衣装と鎧を身に纏った帝国軍兵士の遺体や、破壊された軽魔巧アラン・リザードの残骸。召喚されたものの殺されたエニグマの死体。

 エニグマに関してはわからないが、倒れている兵士や魔巧はいずれも濃紺を基調とした帝国軍側の所属であるようだった。革新派は殺しや戦闘、荒事に慣れた傭兵や山賊、流れ者を雇っている――もしくは仲間に引き入れているらしい。

 帝国は、二百年前のトリストルド戦争以来、大きな戦をしていない。長年平和が続いてきたといえば聞こえはいいが、その分兵士たちが戦う機会が奪われ、ろくに精練されることがなかった。ここに来てそれが裏目に出ている。

 疾走をしばらく続けていると、ズズン、と重いものが崩れる音がジゼルの耳に届いた。

「第三防壁が破られた……」

「ロン・スパイダーだな……あれとはやり合いたくないが。帝城に急ごう」

「ひぃいいやぁああああっ!」

 そのとき、路地からなにかが放り出された。民間人女性だ。腹を食い破られ、石畳に叩きつけられると同時に動かなくなる。それの遺体を追うように、ランダイナスが三体現れた。女性の肉に食らいつき、残されたわずかな尊厳をも食い散らかしていく。

 ジゼルは背中のギガヘッジの柄を握り、フックから愛剣を抜いた。ランダイナスの背中に刀身を叩きつけ、石畳に叩き伏せて剣を思い切り引く。両断されたランダイナスを即座に視界から追いやり、異変に気づきこちらに牙を剥く二体に目を向ける。

 横薙ぎに一閃。

 大質量の大剣は鈍器としても有用だ。頭部をまとめて殴り飛ばされた二体は石畳を滑っていく。アイコンタクトでグレースに後処理を任せると告げると、彼女は頷き、

「『フレイムウォール』!」

 中級破壊魔術を詠唱。『フレイムピラー』よりも広範囲を焼き尽くす火炎の壁を巻き起こす魔術で、女性の遺体から遠く吹き飛ばされたランダイナス二体をまとめて焼く。

 ランダイナスが苦しみにもがき、身をよじるが炎熱に耐えきれず痙攣して生を手放した。

 こんなところになぜランダイナスが、と一瞬思ったが、直後に召喚されたものだろうという考えに行きついた。そして恐らく、使役していたのは革新派だろうとも思った。

 帝国軍は街中で召喚エニグマを使ったりしない。周辺に及ぼす被害が大きくなると理解しているからだ。とすると、道中見たエニグマも、やはり革新派が呼び出したものか。

 女性は、既にこと切れていた。胸と腹を食い千切られ、恐怖と絶望に目を見開いて固まっている。

 ジゼルは女性の瞼をそっと閉ざす。

「……行こう」

 ただ一言、絞り出すようにグレースが口にした。ジゼルは小さく頷き、女性に背を向けて疾走する。

 帝城は、目前だった。

 レンがゴドーという帝城付き司祭から受け取った計画書によれば、皇女リーシアを確保した後裏に止めてある荷馬車に隠し、帝都を出ろとあった。その後渡りをつけた密航船でガルドに向かうとされている。

 現在帝国は、東西で二分されているという。

 帝国西部のローゼス領、ルミナス領、アスティリア領、トリストルド領が革新派を標榜しており、東側のガルディック領、ヴェルサス領、セイレス領が保守派を掲げている。帝国中央のマグノリア領はどちらにもつかず、中立という立場を守っているらしい。

 この国は、ヴァリアント教の教義の認識の違いで、マグノリア領を境に真っ二つに分裂しているとのことだった。

 帝城の水堀には、死体が浮かんでいた。鎧の重さで沈んでいる者もいるだろうから、数は正確にはわからない。だが水が赤く染まり、それが死体が身に纏う濃紺の衣装を強調していた。

 中には革新派と思われる赤い衣装の兵士の死体もあったが、帝国軍と比べその数は圧倒的に少ない。

 跳ね橋は、既に下ろされていた。帝城内部からも剣戟の音が聞こえてくる。

 ロン・スパイダーはそんな惨状を睥睨へいげいするかのように停止し、動かない。城壁を破ったのだからもう仕事は終わったのだろう。革新派もさすがに城そのものを破壊するつもりはないらしい。

 ジゼルとグレースは跳ね橋を渡り、帝城内部に入った。

 むごい有様だ。

 明らかに非戦闘員と見受けられる者まで殺されている。エプロンドレスに身を包んだメイドが胸を突かれ息絶え、燕尾服の執事が喉を裂かれこと切れていた。騎士も皆殺し。頸部や胸部をやられ、完全に命を失っている。革新派は楯突くものならば貴族であろうとお構いなしのようだ。

 帝城は防衛拠点としてというより、皇族の生活の快適さと、権威の威光を物語るための造りだった。籠城は下策だろう。だが、皇帝はここに残る決断をした。

 無辜むこの血が流されないためにだ。即座に停戦協定を結び、交渉による和解の道を探るために残る英断をした。

 しかし、相手が悪かった。

「レン! アンゼリカ! リーシア様はどこ!?」

 ジゼルとグレースが謁見の間に入ると、そこには既にレンとアンゼリカがいた。

「ここにいる!」

 レンが肩に担ぐように抱きかかえた女性は、高貴な気品溢れる美しい顔立ちをしていた。きりっとした目元に通った鼻梁、薄い唇。豪奢な鎧を身に纏い、今にも飛び出そうともがくがレンがそれを許さない。

「黒狼団の諸君、リーシアを……娘を頼む……っ。生きろ、……生き延びよ、リーシア!」

 ゲイリー・ゲルムス皇帝陛下は、胸に短剣が突き刺さったまま、しかしくずおれることなく叫んだ。

 交渉による和解の道は、断たれた。

「父上、これからの時代、あなたや兄上のように保守派に日和ったやり方ではこの国の未来はありません。これからは俺がこの国の舵取りをします。安心してお眠りください。……この帝国は、俺の支配下で大陸を制覇し、千年続く大帝国に生まれ変わるでしょう」

「馬鹿……むす、こ……め」

 皇帝がどうと倒れる。絨毯が血を吸い、黒々と染まる。

「父上っ! 父上ぇええええええっ!」

 リーシアが喉が裂けるのも構わないとばかりに叫ぶ。

「君たち、その子を置いて行ってくれないかな。そうすれば、命だけは見逃してあげるよ」

「断る」

 レンの即答に、皇帝を殺害した男――第二皇子エドワード・ゲルムスは嘆息した。

「簡単な損得勘定もできないのかな、君は」

 エドワードが腕を振るうと、どこに隠れていたのか革新派の兵士たちが現れた。その数は十人ほど。種族はばらばらで人間もいれば獣人もいて、オークもいる。いずれも人相の悪い荒くれ者といった風采だ。

「そいつらを殺せ。リーシアもだ」

 こともなげに、エドワードは命令した。実の妹を平然と手にかけるなど、まともな神経の持ち主とは思えない。

「『エクスプロージョン』!」

 だから、こちらも容赦はしなかった。

 天井にぶら下がる高価なガラス細工の巨大なシャンデリアの付け根を爆撃し、天井とシャンデリアを繋いでいた金具を破壊する。

 シャンデリアの真下にいた兵士たちはガラスの破砕音と共に潰れて消えた。砕け散ったガラス片の合間から赤いものが垂れてくる。

「今だ、行くぞ!」

 レンたち四人は帝城の奥に進み、裏へと続く通路を走る。ゴドーから手渡された計画書には帝城の詳細な地図も記されていた。クローゼル部隊の面々はそれを頭に入れ、完全に暗記していた。

「エドワード……っ! 許さない……許さない……!」

 リーシアが憎々しげに、怨嗟混じりの声を吐き出す。

 兵士の邪魔立てもなく、レンたち五人は帝城の裏へたどり着いた。荷馬車に扮した逃走用の馬車も既に待機しており、商人に身を変装させた騎士が手綱を握っている。

 馬車に乗せるため、リーシアを降ろすと、彼女はあろうことか帝城に向かって走り出そうとした。慌ててレンが腕を捕まえ、止める。

「リーシア様!」

「離して! わたくしは逆賊を……裏切り者を倒す!」

 興奮するリーシアに、レンは両手で顔をこちらに向け、言う。

「今行っても無駄だ! リーシア様にできることはなにもありません! 今は逃げ延びて再起を図るべきです!」

「離しなさい! わたくしは……わたくしは! あんな連中に負けはしない!」

「――いい加減にしろ!」

 ぱしん、とレンがリーシアの頬を張った。御者に変装した騎士が見てはいけないものを見たかのように泡を食った顔をする。当然だ、皇族を――平手とはいえ――殴るなど、言語道断。

「いいか、お前の父さんは娘に生き延びてほしくて俺たちみたいなのを雇ってまでお前を連れだしたんだ! わかるか? お前の命はお前だけのものじゃない! 国民の代表だからとかそういう意味じゃない! お前は一人の子供として、親の愛情を託されているんだ! それを平然と捨てるなんて真似は俺が許さない! たとえ皇族であってもだ!」

「なら、わたくしはどうするべきなの……?」

「生きろ。皇帝陛下は――お前の父さんは、そう言った。ならそうするべきだ。命を投げ捨てるな。父を思うなら、父の遺志を尊重しろ。それからどうするかは、自分で考えればいい」

 レンが諭すと、リーシアは鎮火したように大人しくなった。

「さ、リーシア様」

 御者の騎士がリーシアを促すと、彼女はおとなしく指示に従い、荷馬車に収まった。

「俺たちは徒歩かちで行く」

「わかりました」

 御者の騎士が頷き、馬車を動かした。

 環クレセント海連合帝国第一皇女リーシア・ゲルムスは、黒狼団の協力の下、無事帝都を脱したのであった。


 帝暦三七四年、春。

 帝国に激震が走った。

 環クレセント海連合帝国皇帝ゲイリー・ゲルムスが第二皇子エドワード・ゲルムスに殺害され、政権がヴァリアント教革新派が掌握するに至った。

 これを受け旧来の教義を保持せんとする保守派は断固として抵抗する意思を見せ、帝国は東西に二分された。

 革新派と、保守派。

 実力行使で政権を掌握したエドワード・ゲルムスと、政権奪還を掲げるリーシア・ゲルムスの対立はここから始まった。

 そして、この内戦はぺルマナント神聖国と、環クレセント海連合帝国、ローゼントライム王国、ブレスク共和国の計四国を巻き込む大乱に発展する。

 虚竜デミウルゴス、環クレセント海連合帝国、革新派、保守派、ぺルマナント神聖国、ローゼントライム王国、ブレスク共和国――解きほぐしようもない思惑が交錯する混沌の時代。二人の勇者と、仲間たちが帝国を奔走した。

 虚竜に見出された二人の竜征者は、大乱の時代に虚竜に戦いを挑み、世界を飲み込む惨劇の渦中に身を投じることとなる。

 帝都動乱は、その序章に過ぎない――。

 戦いが激化するのは、これからのことだった。



ACT3:竜を探す者



1 調査依頼


 帝都動乱から一ヶ月。僭帝せんていエドワードが実権を掌握し、議会の首を自分の息のかかった者たちに挿げ替え、名実ともに権力をほしいままにした、春の半ばに差し掛かった頃。

 あれから、帝国は激動の渦に飲み込まれ、様々な変化に見舞われた。目まぐるしく渦巻く混乱に、国民は半ば流されるように状況を受け止めるしかなかった。

 帝都――マグノリア領の向こう、西側は竜を武力として使役するという新教義とそれに追従するかのように国力増強を謳い、保守派の可及的速やかな排除を掲げた。表立ってはいないもののぺルマナント神聖国と繋がりを持つ革新派は彼の国で扱いきれなくなったごろつきを積極的に軍に招き入れ、軍備増強を図った。推測の域を出ないが革新派側はぺルマナント神聖国に魔巧技術を渡しているらしい。

 しかし大陸の覇を唱える革新派は、いずれぺルマナント神聖国をも軍門に下らせるつもりでいるようで、魔巧の技術情報の全てを開示しているわけではないだろう。その証に、神聖国も正規軍を援軍に送るような真似はしていない。

 ローゼス領、ルミナス領、アスティリア領、トリストルド領の計四領と無数の荒くれ者、そして新型を含む魔巧を備えた革新派の軍勢は計り知れない。

 だが一方で保守派はローゼントライム王国とブレスク共和国に働きかけ、劣った数を補填するかのように軍備を増強していた。

 革新派と保守派の軍事力に、明確な優劣はなかった。

 それ故に革新派も様子を見ているのか即座に仕掛けるということはなく、静かに機会を窺っているようだった。

 この睨み合いは帝国中央のマグノリア領を緩衝地帯にここ一ヶ月続いていて、両者に明確な動きはない。

 海運公社、教団、帝国議会――この国の中核を担う組織まで保守派と革新派に分裂してしまい、帝国は対外的にも商業的にも宗教的にも政治的にも見事に東西の二つに分断されていた。

 そしてこの対立に、己が神の絶対性を謳うぺルマナント神聖国と、大陸で環クレセント海連合帝国と三連合を形成するローゼントライム王国とブレスク共和国の思惑が絡んできている。

 三連合とは、帝国、王国、共和国が結ぶ同盟関係だ。この三ヶ国が強靭でしなやかな連携体制を築いているから、神聖国も易々と帝国に手が出せなかったのだ。だが現在内乱という国家破綻の危機に瀕した帝国に、各国が己の欲望を剥き出しにした魔の手を張り巡らせている。

 ローゼントライム王国はこれを機に目の上のたん瘤であるぺルマナント神聖国を叩き潰そうと躍起になっているし、環クレセント海連合帝国、ローゼントライム王国に比べて弱小のブレスク共和国はこの混乱に際し少しでも国力増強を図ろうとしている。

 帝国は、今や革新派、保守派、ぺルマナント神聖国、ローゼントライム王国、ブレスク共和国の五つの勢力がひしめく戦場だった。

 いや、正確には、六つ目がある。

 ドラゴンシーク。

 初春、山賊が口走った謎の組織。なんらかの符丁かも知れないと思っていた名前。

 竜を探す者、それは帝国を奔走する、端的に言えばレンたちの『敵』だった。


     ◆


 昼過ぎ。太陽が僅かに西に傾き始めた頃。

「うーん……」

 黒狼団本部一階のボードの前で、依頼の受注書を前にレンは唸っていた。

 現在、クローゼル部隊は一時解散という状態になっている。別になにか喧嘩があって別れているとかそういうわけでなく、休暇を取っているというだけだ。クローゼル部隊は働きづめで隊員は誰も休みを取っていなかった。

 団長がたまには休みを取れ、というのでそうしたのだが、家でじっとしているのに耐えられなかったレンは同じくこれといった趣味を持たないアンゼリカと共に黒狼団本部に来ていた。

 主に一回きりの隊を組織して依頼を受ける仕事を探し、吟味しているのだ。

 だがどれも微妙な仕事ばかりだった。

 木の実を取ってこいだのキノコを採取して来いだの、安全が確保されている街道沿いの移動の一応の護衛になってくれだの、そんなものばかりだ。依頼主にとっては切実な願いなのかもしれないが、こんな依頼、傭兵ギルドの新米がやるようなものばかりだ。

 黒狼団の中には一人で巨獣を屠る者がいるのに――自分もその一人だが――、なぜこんなしけた依頼ばかりなのか。しかしもっと不思議なのは、こんな依頼でも受けるものがいるということだ。

 レンにはよくわからないが、長らく戦ってきたからこそ安楽感を得られる軽い仕事が心地いいという猛者もいるのだ。初心を忘れないことが、傭兵を長く続ける秘訣なのだという。

 と、鎧を身に着け、物々しい戦鎚を背負った大男がボードに貼ってあった受注書を恐ろしく太い腕でもぎ取った。

 狩猟民族の末裔である北部人のレンはすらりと背が高くしなやかな狩人の体つきをしているが、その男は狩猟民族の血をあざ笑うかのような筋骨隆々とした体格の持ち主だった。ライカンスロープの壮年だ。顔に刀傷が走っていて、厳つい。だが笑みを浮かべるとどこか愛嬌がある。

「ようレン、アンゼリカ。お前らもどうだ、キノコ狩り。帰りの村で一杯ひっかけねえか」

 男の後ろには、レンより背の低い青年が一人。彼が大男と依頼を受ける相棒らしい。

 傭兵の仕事は、基本四人一組で行うのが通例だ。五人だと指揮の難度が跳ねあがり、しかし三人では戦力に不足が出る。だから四人というのが最も合理的でやりやすいといわれている。

 つまりあの隊は、あと二人入っても問題ないということだ。

「遠慮しとくよ」

 レンは誘いを断った。村で一杯、というのは魅力的な提案だったが、仕事がキノコ狩りではやる気が出ない。大男もしつこく食い下がることはなかった。

「そうか、そりゃ残念」

「つうかそんな仕事、よくやる気になるよな。傭兵じゃなくてもできるだろ」

「こいつは俺が最初に受注したわけじゃない。こいつの付き添いさ」

 言って、大男が青年を指さす。

「付き添いって……師匠がたまには落ち着いた仕事をしたいって言ったのがそもそもの始まりじゃないですか。俺はエニグマ狩りでもよかったのに……」

「そうだっけか? まあいいか。で、お前ら、ジゼルとグレースはどうした?」

 質問にはアンゼリカの方が応じた。

「休みを取ってます。ジゼルはお家で爆睡、グレースは多分図書館にでもこもってるんでしょうね。私たちが起きたときにはもう家にいなかったので実際になにをしているかは知りませんが……」

「休みねえ。ならなんでお前らはここに?」

「家にいてもすることないし、なんかエニグマ狩りでもないかと思ってさ」

「なるほどねえ。残念だがエニグマ狩りの依頼は午前中に売り切れてたぜ」

「なんだよ……じゃあ傭兵ギルドにでも顔出すかな……」

 私立傭兵の中にも、ギルドに顔を出して仕事を受ける者はいる。レンも過去何度かエニグマ狩りと山賊退治に限って仕事を受けたことがある。ただし報酬は全額レンのもの……というわけにはいかない。私立傭兵運営資金としてある程度天引きされる決まりだ。まあ村にいた頃は金稼ぎの手段として傭兵になりたいと思っていたわけだが、今は金儲けがしたくて傭兵になったわけではないので、多少の儲けがあるだけで充分なのだが。

「じゃあ俺ら行くわ」

「レンさん、アンゼリカさん、それでは失礼します」

 いかにも傭兵といった風貌の大男と、傭兵らしからぬ柔らかい物腰の青年が連れ立ってカウンターに向かった。あそこで受注書を提出し、依頼を正式に受注するのだ。

 依頼を受注した二人は会話を交わしながら本部から出ていった。青年の方が大男を師匠と呼んでいたから、師弟関係にあるのかもしれない。珍しいことではなかった。傭兵という立場には上下関係はない。みな同等の立場だ。だが仕事柄、戦い方を習ったり、矜持や傭兵としての在り方に憧れを持って誰かの下に付くということはよくある話だ。

 あの青年も、大男のどこかに憧れを見出したのだろう。

 さてどうしたもんかな、とレンは頭を掻いた。傭兵ギルドに顔を出してみるか。

「どうする、アンゼリカ」

「好きにしてもらって構いませんよ。ただまあ、傭兵ギルドは乗り気にはなりませんが。あそこにいる人たち、下品ですから。私の体をそういう目で見るんですよね」

 傭兵は基本、荒くれ者の集まりだ。黒狼団は指標となる目的と規律を掲げた私立傭兵だから穏やかな気風だが、傭兵ギルドにそんなものはない。山賊一歩手前の気性の荒い連中の集まりだ。基本、傭兵になるのは大半が男だ。中には女もいるが、大抵は男勝りである。女気のない仕事なのだ、傭兵は。だから物腰の柔らかいアンゼリカのことを下心丸出しで口説き落とそうとする輩も少なくない。男のレンにはわからない悩みだ。

 アンゼリカが乗り気じゃないというなら、無理に傭兵ギルドに行くつもりもないが……。

「レン! レンはいる?」

 聞き慣れた女性の声がして振り返る。

「あ、エレナさん」

「アンゼリカもいるのね。ちょうどよかったわ」

 なにが、と問う間もなく、エレナが続けた。

「団長室に来て。仕事よ」

「仕事? ジゼルとグレースは休みを取ってるけど……」

「あなたたち二人もいれば充分よ。さ、早く」

 促されるまま、レンとアンゼリカはせかせかと先に行くエレナを追って、三階にある団長室に向かった。

「仕事ってなんなんですか?」

「ロイから聞いて。ここで話すと誰かに聞かれるかもしれない」

 つまり、誰かに聞かれてはまずい仕事ということだ。

 こういう依頼は、必ず団長室で直に受けるというのが決まりだ。あの部屋には魔具装飾が仕込まれていて、外部に音が漏れない防音室になっている。秘匿事項がある仕事の際には、必ずあの部屋が使われた。

 団長室の前まで行くと、エレナがノックもなしに扉を開けた。

「連れてきたわよ、ロイ」

「ああ、ありがとう、エレナ」

 ロイは読んでいた本を閉じ、机の上に置いた。タイトルには『エニグマは一体どこからきたのか』とある。考察書かなにかの類だろう。

 エニグマは今から二千四百年前に異端の魔女が開いた異界への門から現れたとされている。

 だが異端の魔女がなにを思って異界への門を開いたのかはわかっていない。一説には異端の魔女は魔術師協会の幹部だったといわれ、なにかの計画で門を開いたのではと考える学者もいるが、結論は出ていない。

 エレナが扉を閉じると、ロイが口を開いた。

「今回の仕事は領政府からの依頼だ」

「領政府? また内政干渉ですか?」

 レンの言葉には僅かに棘があった。一ヶ月前、必要に迫られたとはいえ団が決めている方針に逆らう仕事をさせられた。教団を敵に回すのかと脅されては受けるしかなかっただろうと思うが、理屈では理解できても心では納得できていない。

「いや、今回の仕事は内政干渉には当たらないと思われる。もし内政干渉に当たると判断したら放棄しても構わない。その場合でも報酬は払う」

「内政干渉に当たらないんなら、なんでこんな場所で仕事を回すんです? ボードに乗せればいいじゃないですか」

 アンゼリカの疑問にエレナが答える。

「今回の仕事はね、歴史的価値のあるものに関わることなのよ。その歴史的価値あるもの、っていうのがどうも邪竜に関わるものみたいでね」

 レンが唸る。

「邪竜……というと、初代皇帝時代の竜大戦で自ら虚竜に従った七体の竜ですか?」

「そう。その邪竜よ。政府が言うには、歴史的価値あるものは、その邪竜の埋葬地を書き記したものらしいの」

 邪竜が埋葬されている地域は、ルミナス領以外の各領に点在しているとされる。だが一般人はその詳しい場所を知らない。墓守の一族にのみ伝わっているとされる。理由は明確だ。つまり、墓荒らしの手から遠ざけるためだろうと考えられている。

「書物かなにかを取ってこいと?」

「いや、紙なのかどうかはわからん。それに今回の仕事は遺跡探索じゃないんだ」

 ロイが地図を机の上に広げた。ガルディック領を詳細に記した地図だ。その中央にある山を指さす。

「ギガざん。このガルディックで最大の山だ。南側と繋ぐ交通の要衝。お前らも知ってるだろ」

「はい。なんどか隊商の護衛で通ったことがあります」

 レンは続ける。

「噂じゃ竜が住んでるとか言われてますね」

「そう、そのギガ山だ。ここに最近、不審な輩が出入りしているらしい。ギガ山を通ってきた隊商が口を揃えてそんなことを言っているらしい。付近の村でも余所者が食い物をどっさり買い込んでいく、という話がある」

 歴史的価値あるものが存在する山で不審な動きを見せる余所者。レンは一つの可能性を口に出した。

「盗掘者……ですか」

「政府はそう考えている。だから俺たちに歴史的価値があるものが眠る、という情報まで開陳してきた。どうも竜の埋葬地ってのは知られるとまずいみたいだな」

「『屍霊しりょう魔術まじゅつ』ですか……」

 アンゼリカが口にすると、ロイは渋面になった。

「そうだな。竜は一体で千人二千人の軍人と真っ向からぶつかれるほどに強い。そんなものが屍霊魔術で呼び起こされたら……ただ事じゃ済まん」

 屍霊魔術。

 それは、大陸全域で禁術指定されている禁断の魔術だ。

 死んだものを蘇らせ、使役する魔術。

 倫理的な問題があるというのも理由だが、それは問題の側面でしかない。

 死者を使役する。それは、ある意味では最高の労働力を得られることを意味する。死んでいるから文句は言わないし、給金もいらない。どんなに過酷に扱っても不要になれば廃棄して次の死体を持ってくればいい。

 こんな魔術が横行した場合、生者が意味もなく大量虐殺される恐れがあるとして、魔術師協会を始め大多数の集団が利用を禁じている。

 だがどこの世界にも闇というものがあるのだ。教えを破って、好奇心の赴くままに屍霊魔術を扱うものは確かに存在する。

 もしそんな者に竜の埋葬地が知られたらどうなるか。

 虚竜が復活し、ただでさえ各国の思惑が入り組んでいるこの帝国に、これ以上の脅威が生まれてはもう対処のしようがない。竜征者がこの国に二人もいる以上、どこかに姿を消している虚竜がこの国にいずれ舞い戻ってくることは火を見るよりも明らかだ。

 どこかの王国気取りの山賊が竜を連れだしでもしたら、目も当てられない。竜と絆を結び使役するのは竜征者だけの特権だが、屍霊魔術はその限りではない。つまり竜の死体は、それなりの実力を持った屍霊魔術師ならば容易に使役することが出来てしまうのだ。

 もしも盗掘者の目的が竜の使役にあるのなら、どうあっても止めなくてはならない。

「明日の朝、ここを発つ隊商の馬車がある。ギガ山付近の村で商品を捌くそうだ。話は付けたから、その馬車でギガ山付近まで移動してくれ。帰りもその馬車を使えばいい」

「内容は盗掘者の掃討ですか?」

 レンの質問に、ロイは首を横に振った。

「いや、偵察でいい。どの程度発掘作業が進んでいるのかを見極めて、引き揚げてくれとのことだ。竜の埋葬地についての詳細は俺たちにも知られたくないらしい。盗掘者の処分は領都軍が自分でやるそうだ。俺たちは斥候だな」

「そんなこと、盗掘者の討伐を請け負うくらいなら領都軍が自分でやればいいのに……」

「こんな時代だからな、できる限り軍を動かしたくないんだろう。保守派は王国や共和国に援軍を派兵してもらっているが、できる限り戦闘を避けようと考えている。この内乱にかこつけて王国や共和国が神聖国とぶつかろうとしているからな」

 ロイはため息をつく。

「余所の土地で暴れてくれるんならいいが、この国で暴れられたらたまったもんじゃないってのが保守派の考えだ。彼らは帝国が今のまま平和を守っていくのが最良だと考えている」

 ローゼントライム王国はぺルマナント神聖国と国境を接していない。必然的に戦場となるのは神聖国と接している国――つまり帝国か、共和国が戦場になる。誰だって自国で好き勝手暴れてほしくない。難民が行く先を失って山賊や盗賊に身をやつすることになればそれだけ治安が悪くなる。戦争が終わっても残ったものが廃墟と難民では、たとえ勝利したとしても喜びはできない。どれだけ国土を広くしようと、どれだけ皇族の威光を示そうと、どれだけヴァリアント教を広めようと、ついてくる国民がいなければ意味がないのだ。

 保守派は第一に古い教義に基づく思想と、第二にこの国の安定を考えている。争いごとがなく平穏無事に要られればそれに越したことはないのだ。ただでさえ、十年前に虚竜が復活したのである。平和と安定とを是とする保守派にとっては、それだけでも胃痛の種なのだ。正確には、虚竜を倒した後だろうか。

 虚竜と戦争をし、疲弊したところにぺルマナント神聖国が攻めてくる――と考える者は少なくなかった。

 もっとも、現状はそれよりも酷い有様だが。

「今回の仕事はお前ら二人だけでもいいだろう……というより偵察じゃ四人は多すぎる。お前ら二人ってのはちょうどよかったかもな」

「偵察なら感覚の鋭いジゼルに任せるのが一番なんですけどね……」

 レンがぼやくと、ロイは苦笑した。

「あいつは一旦休むと決めると動かなくなるからな……」

 悪く言えば頑固、良く言えば意思が固い。それがジゼルだ。一方でグレースも休みに仕事を入れると怒る。薬品調合と魔具の開発、研究、それからなにより読書。グレースの楽しみはそこにある。それを邪魔すると、さすがに心の広い彼女も気分を害するのだ。

 それに比べレンとアンゼリカは休みの間でもじっとしていられないタチなので、仕事を任せるにはもってこいの人材だ。

 仮に盗掘者が牙を剥いても、並の荒くれ者程度なら簡単に打ち倒せる。

「じゃあ、頼むぞ」

 レンとアンゼリカは団長の期待に応えるように、同時に頷いた。


2 ギガ山へ


 翌朝、レンとアンゼリカはガルドをぐるりと囲む城壁に設けられた関所付近にいた。この城壁は第一城壁といって、都市全体を囲むように立っている。魔具装飾が施され、魔力結界を張ることもできる。ちなみに第二城壁は中央区を囲んでおり、第三城壁が城を囲っている。

 城壁にはいくつも門が設けられている。人員や物資を効率的に流通させるために設けたものだ。領都軍の衛兵が詰めていて、人の出入りを監視している。さすがにいちいち通る人に声をかけて足を止めたりはしないが、明らかに堅気には見えないものにはひと声かける。

「黒狼団だ。依頼でここを発つことになっている」

 こんな時代である。帯剣している人間は珍しくない。しかし鎧まで身に着けているとなると少し事情が変わってくる。出るにしろ入るにしろ、衛兵に目を付けられる。

 なのでレンは詰め所に控える衛兵に受注書を見せた。書類には直筆で団長の名と黒狼団の証である狼の赤い封蝋印シーリングスタンプされている。

「確かに」

 書類の内容を確認した衛兵はレンに受注書を返す。それを折り畳んでインフィニウムにしまうと、レンは既に出発準備に取り掛かっていた隊商に近づいた。全部で五台の馬車が一列に並んでいる。先頭の一台に近づくと、御者が言った。

「道中、よろしく頼むよ」

「わかってる」

 同道する以上、道中で問題が起きた場合はレンたちがその問題に対処することになる。つまり護衛を請け負うということだ。それが彼らを足として利用する際の契約だった。隊商はレンたちをギガ山まで運ぶ、レンたちは隊商をその間護る。そういうことだ。

 樽や木箱が乱雑に詰め込まれた馬車に乗り込むと、ゆっくりと動き出した。

 インフィニウムを持っている身からすると、これだけの大荷物を正攻法で運んでいる彼らに悪い気がしてしまう。その気になれば、この異次元回路背嚢で馬車五台を丸ごと飲み込んでしまえる。背嚢の生地と口の紐は不思議な素材で作られていて、どこまででも伸びる。何人かで口を強引に開けば、馬車を入れてしまうことも不可能ではない。

 だがそんな無茶なことをすると破損につながる可能性があるので、やらない。好奇心はしきりに「やってみようぜ」と囁くわけだが。その度にレンは理性を働かせ、「黙れ」と好奇心に言い聞かせている。

 御者の背中に、レンはふと湧いた疑問をぶつけてみる。

「なあ、この隊商の頭はどこにいるんだ?」

「二台目に乗ってますよ。面識ないんですか?」

「ああ。交渉は団長がしたから俺は面識がない」

「そうなんですか。まあ普通な方ですよ。商魂溢れる帝国人というか……まあ、お父上からこの仕事を任されて十年になる方です」

「そうか……」

 さして興味もなかった。この隊商に同道しているのは行き先が同じだからであって、商売のためではない。最低限マナーは守るが、胡麻を摺る必要はない。

 がたがたと揺れる馬車で、レンは馬車のくりぬかれた窓から景色を眺めた。

 帝国をして一、二を争うほど風光明媚とされる土地と言わしめるだけあって、見ているだけでも飽きない。石畳の街道。街道沿いの木々や風に揺れる色とりどりの花。草花の合間を走る狐や兎。

 こうしていると、虚竜の襲来や内乱というのが遠い海の向こうの出来事であるかのように思える。

「どうしたんですか?」

「いや……。もし……十年前あんなことがなかったら、俺たちどうなってたのかなって」

「ロードが滅んでますよ」

「だからってホットスプリングスが滅んだことに意義を見出せってのか?」

 あのとき。

 虚竜が復活したあのとき、目が覚めたばかりのデミウルゴスはローゼス領の領都ロードを襲撃した。しかし復活したばかりで力が十全ではなかったのか、領都軍に撃退され逃亡した。その逃亡先がホットスプリングスだった。

 確かに、ホットスプリングスに来ることがなかったら、もしロードで領都軍が敗北していればレンたちが平和を失うことはなかったかもしれない。だがそれと引きかえになるのは、領都に暮らす罪のない人々だ。

 人の命は足し算引き算するものではない。秤にかけていいものではない。

 だから、ホットスプリングスの数十人とロードに暮らす数十万人を比べることはできない。

 だからこそ、考えてしまうのだ。ロードがホットスプリングスの代わりだったらなと。

 そうであれば、自分たちはこんな過酷な運命に巻き込まれなくて済んだだろう。ロードが虚竜の手に落ちていれば、自分以外の誰かが竜征者だったに違いない。

 レンはかぶりを振った。

 こんな妄想、やめよう。もうどうにもならないのだから。

「詮無いことだ」

「彼女が気になるんですか?」

「彼女?」

「ルシアです」

 ルシア。ルシア・ジノヴィエフ。

 レンの二つ上で、今年で十九になる女性。

 あの日、死んだとばかり思っていた。

 だが彼女はなんの因果か生きていて、レンの前に立ちはだかった。仕事上の敵として。そして、竜征者として。

 彼女は今後どういう風に自分と関わってくるのだろう。

 同じ竜征者という立場である以上、無関係というわけにはいかないだろう。必ずどこかで出くわすことになる。

 そのとき、もしも彼女が敵だったら、自分はルシアを斬奸の対象だと斬り捨てることができるだろうか。

 彼女はなんの罪もない一般人を巻き込む革新派に所属し、平気で帝国兵を手にかけた鋼女隊を率いていた。この目で見たわけではないが、ルシア自身も帝国兵を殺しただろう。

 現に、自分で言っていた。沢山の人を殺してきた、と。

「俺は……どうするべきなんだろうな」

「どういうことです?」

「あのときルシアの誘いに乗るべきだったのかな……いや、きっとそうするべきだったんだろうな、竜征者としては。革新派は虚竜を狩ることを目的としてる。野望はどうあれ、あいつらはデミウルゴスを殺そうと考えているんだ。つまりそれは組織的に大きなバックアップを受けられることを意味してる。竜を征伐することを使命とする竜征者にとっては、あいつらといるべきだったのかもしれない」

「だからって! だからってなんの罪のない人を平然と殺すような組織が正しいとでもいうんですか! 彼らは、明らかに間違っています。そりゃあ、大局的に見れば国を思う意思は大切だと思います。自国の土地を、国民に栄華をもたらそうと考えるその意思はわかります。だからって無辜の国民の命を犠牲にしていいわけではありませんよ。彼らは……革新派は、革新派におめおめついていったルシアは、間違ってます」

「斬奸の剣、弱者の盾……俺はどうあるべきなんだ?」

「正しくあるべきです。少なくとも、……少なくとも、自分が奉じる道にたがわぬ生き方をするべきです。安心してください、私はレンが選ぶ道なら、たとえ悪鬼羅刹が跳梁跋扈する地獄に続いていようとついていきます」

 自分が奉じる道に違わぬ生き方、か。

 それこそ、斬奸の剣、弱者の盾だ。自分はそうありたい。黒狼団が掲げる、困っている人に手を差し伸べる、そんな存在でありたい。竜征伐だの虚竜に対抗する勇者だのそんな伝承にしかない戯言より、子供じみていると言われようがこの理想論を理想で終わらせない傭兵でありたい。

「お前はどうなんだ?」

「私の……なにがです?」

「お前の生き方はどうなんだ。お前にとっては……アンゼリカにとっては、なにが自分の奉じる道に違わぬ生き方なんだ?」

「私が歩く道は、レンが歩いた道です。いえ、正確には……レンが歩きたいと思っている道でしょうか」

 景色が窓を流れる。狐が野鼠を咥え、走っていった。

「どういうことだ?」

「レンが歩いている道をただ盲目的に追いかけるんじゃなくて、レンが見ている真っ直ぐな道を見て、後ろからついていきたいんです。ときには隣に立って、肩を並べたりしながら。そうやってレンの歩く道をついていきます」

「俺が道を誤ったら?」

「そのときは私とジゼルとグレースとで止めます。場合によっては殴ってでも。それが仲間というものじゃありませんか?」

「……かもな」

 しばらくして、馬車が止まった。軍が野営地として利用していたのか、澄んだ川の脇に開けた空間がある。そこに馬車が停止した。

「少し休憩しましょうか。食事を摂りましょう」

 御者が言うと、レンとアンゼリカは頷いて外に出た。

 男たちがわらわらと馬車から降りて、布を敷いて座る。隊商のリーダーだけは折り畳み式の椅子を使っていて、少し高い位置から使用人の働きを見ている。リーダーは三十代半ばほどの男だった。これといって特徴のない、記憶にとどめておくのが一苦労という程度のありふれた帝国人だ。仕立てのいい服を着ていなければ使用人とそう変わらない風に思えた。

 食事は隊商が用意してくれるようだったが、ただ施しを受けるのは嫌だったので、レンも食材を提供することにした。インフィニウムの特性上、死んだもの――魂のないもの限定となるが、時間経過のない異次元にものを入れるので食べ物は腐らない。

 レンはインフィニウムから骨付きの大きな生肉を取り出すと、木の台座を取り出して取っ手を付けて焚き火で焙った。この肉は草食性エニグマの肉だ。牛や豚の肉ではない。大きさがまず違う。

 エニグマという化け物を食べる、というのは少しおかしなことや気味の悪いことに感じられるかもしれないが、変なことではない。実際金持ち連中も珍味としてランダイナスの尻尾の棘鉄球を食べている。そして、食べてみるとこれがまた意外と美味いのだ。中には毒を持っているものもいるので注意しなくてはならないが。まあそれは自然の動物にも当てはまるのだが。

 表面が狐色に変わり、パリッと焦げ目がついたところでレンは肉を焚き火から離した。アンゼリカに頼んで川で洗ってきてもらった鉈を掴む。

「パンを貸してくれ」

 食事の支度をしていた男に言い、大きな堅焼きパンを受け取る。鉈で切り分け、分けたパンに切れ込みを入れてそこにスライスした肉を挟んだ。堅いパンが肉汁を吸って少し柔らかくなる。そこにさらにインフィニウムから取り出したチーズを刻んだものを挟む。肉の熱でチーズがとろけた。

「おお、美味そうじゃねえか」

 それを男たちに配ると、レンは全員に肉とチーズのサンドが行き渡ったのを確認してから自分の肉とチーズのサンドにかぶりついた。

 肉の旨味を吸った堅めのパンに、チーズの芳醇な香りが混ざり、なんとも言えない美味な風味が鼻から抜ける。

「レン、これから旅の料理人として売り出してみたらどうですか?」

「なんだよそれ。炊事係でもやれってか」

 遠回しに褒められているのか、婉曲的に馬鹿にされているのかわからないが、アンゼリカは真剣な表情になって続ける。

「いいですか、食事はいつの時代でも戦場の士気を高めるんですよ。食糧兵站は戦いの最重要課題です。どんなに強い人でも食べ物がなければ飢えて死にます。レンは街のレストランで働くにはまだまだかも知れませんが、戦場や旅の道中で食べ物を調達する技能に関しては黒狼団でも随一です。戦士であり、狩人であり、調理人。護衛もできて狩りもできてご飯も作れる……こんな傭兵世界初じゃないですか?」

「あんまり嬉しくねえな。それって裏を返せば器用貧乏ってことだろ?」

「さらに裏を返せば大器晩成とも言えますね」

「そうかな……ていうか料理の腕うんぬんを言うならグレースの方がずっと上だろ」

 グレースは薬品の調合師であり、魔術道具を作りだす魔具師でもある。手先は器用でレンよりも料理に向いている。料理人、といえるほどではないが。飽くまで旅の道中で食べるものを用意する技能に長けているという程度の話だ。

 旅で食べ物を作る技能と、街で食事を用意する技能はまた別だ。食材も設備も全然違うから求められる腕も変わってくる。レンたち傭兵は、少なからず旅の道中で食べ物を得る能力を求められる。新人傭兵が真っ先に覚えることはまさにそれで、草食性エニグマの肉の取り方と調理の方法をまず覚えなくてはならない。それ以外にも、食べられるキノコと毒キノコの見分け方、魚の捕り方とさばき方を学ぶ。食べることが出来なければ戦うことができないからだ。

 それにアンゼリカの言う通り、食事は士気に関わる。誰だって不味いものより美味いものを食いたいに決まっている。

 食事を終え、一服すると、隊商はまた走り出した。

 その日の夕刻、一行はギガ山を抜け麓の村に辿り着いた。

 宿で軽い夕食を摂り、部屋を借りて一休みした。

 相変わらずアンゼリカは全裸になって寝るのだが、もう慣れてしまったレンはなにも言わなかった。


3 盗掘者


 宿で少しだけ仮眠を取って、夜。月が雲間から光を降り注がせる中、レンとアンゼリカは宿を出た。

 この村はもともと旅人のために建てられた小さな宿が歴史の始まりらしい。その小さな宿を中心に地域に根付く傭兵や旅人ができ、自然と村が出来たというものだった。今では人口百そこそこの村に発展している。旅人や商人を招き、道の駅のように機能していた。

 ギガ山までは目と鼻の先。午後、ギガ山内部を通ったとき遺跡探しをする盗掘者と思しき集団は見なかった。人の目を警戒して、夜に活動している可能性がある。

 今回の仕事は盗掘者の活動状況を調べるだけでいいとのことだが、裏を返せば作業風景を見なければならないということだ。盗掘者が動いている様子を目に収めなければならない。どこで、どの程度の数で、どんな武装で、それくらいの規模で動いているのか。

「警戒していきましょう」

「わかってる」

 レンは暗闇に紛れるような外套のフードを被る。アンゼリカも鎧の上から黒い外套を纏っていて、レンと同じようにフードを頭にかぶせた。レンの外套はグロムガロウ製の堅牢なものだが、アンゼリカの外套はガルドで適当に見繕った普通の布地で出来たものだ。昼間では黒は目立つが、闇夜の中ともなればこれほど迷彩効果の高いものはない。

 幻惑魔術が使えれば偵察はぐっと楽になるのだが、幻惑魔術を扱うものは魔術師の中でも少数派だ。魔術師の大半を占めるのは破壊魔術、召喚魔術使いだ。幻惑魔術、付与魔術を扱うものは少ない。

 直接の破壊力に使われない幻惑魔術は軽視されがちだが、上手く使えば大軍を混乱に陥れることも不可能ではない。だがそれでも、直接攻撃した方が早いということで、破壊魔術や召喚魔術が重宝される傾向にある。

 基本的に“大規模戦闘ウォー”では破壊魔術、召喚魔術が用いられる。そして“小規模戦闘バトル”では幻惑魔術や付与魔術が用いられる。大軍を幻惑魔術で混乱させてもどのみち大きな集団を殲滅するには大きな火力がいる。結果的に混乱させようがさせまいが人手がいるのだ。幻惑魔術をかけては二度手間になるので、最初から大火力で圧倒した方が早いと考えるのは当然の成り行きだ。

 さて。

 大口を開けるギガ山洞窟の入り口から内部に入る。当然だが、暗い。だが狩人の血を持つレンの目はすぐに闇に慣れる。アンゼリカも同様に闇に慣れた目で、耳と鼻で周囲を警戒する。

 ガルディック領南北を貫く太い洞窟には、脇道のあちこちに隘路が張り巡らせている。そのどれかが、遺跡に繋がっている……かも知れなかった。だがどれがどのようにどこに通じているかは全くわからない。

 なぜか、この洞窟の詳細な地図は出回っていないのだ。

 少し調べたところによれば、三百年以上前に竜の埋葬地を記したなにかを地下に安置し、土属性魔術で蓋をした、とのことだった。つまり調べた内容が正しければこの山には地下に空間が広がっているということになる。

「ちょっと待ってください」

 洞窟を歩いていると、アンゼリカがレンの腕を掴んだ。

「どうした?」

「この先から話し声がします」

 レンには全く聞こえないが、アンゼリカの鼓膜はなにかを拾ったらしい。どんなに耳を澄ませても聞こえてくるのは川のせせらぎだけだ。

 アンゼリカは洞窟の脇に空いた狭い隘路を指さし、暗にこの先を進もうと言っている。どの道手がかりもない。彼女の意見を取り入れるとしよう。

 いつ盗掘者と出くわすかわからない。こんな狭い場所では得物を振り回すよりも己の肉体を武器とする方が有利である。レンは歩きながら肩を回し、体を駆動させる準備を整える。

 アンゼリカの勘は当たった。

 目の前に、男の背中。革鎧を身に纏った男だ。こちらに背を向け、突っ立っている。腰には短剣。

 足音を消し、気配を絶ち、背後に回って脇から腕を突っ込み首に絡める。

「なん……っ、貴様……っ」

 声を上げさせる前に首を絞め、酸素の供給を断つ。意識を失った男の体がだらんと垂れ、レンは地面に落とした。喉を絞めるのと、頸動脈を絞めるのとではわけが違う。いたずらに首を絞めたって人間は意識を失わない。相応の技量がいるのだ。

 死んではいない。呼吸はある。だがしばらくは目を覚まさないだろう。

 さすがに素性のわからない相手を殺せるほどレンは外道ではない。この男が残虐非道な山賊なら喉笛を斬り裂いてやったが、盗掘と知らずただ単に雇われただけの一般人ならそんなことをするわけにはいかない。

 だが作業員がいるということは、このルートで正しいようだ。

 少し進むと、闇が晴れた。

 松明や篝火が焚かれたそこは、大きく広がった空間だった。そこに、五、六人――いや、計七人の男たちがいて地面を見下ろしながら隅から隅まで歩き回っている。まるでなにかを探しているようだったが、なにを探しているのかはわからない。

 盗掘というくらいだから、ピッケルでも持って岩でも削っているのかと思ったが。

 全員硬いハードレザーの鎧を身に着け、狭い場所で戦うことを想定しているのか短剣を腰に帯びている。

 これくらいの数なら制圧できる。

「行くぞ、アンゼリカ」

「あ、ちょっと……」

 小声で彼女に告げると、レンは岩陰から飛び出した。

「ん?」

 レンの気配に気づいた男が振り返る。その下顎に、レンの跳び膝蹴りが決まった。一撃で男は昏倒する。

 まずは一人。

「なんだお前は!」

 騒動に気付いた男たちが色めき立つ。即座に傍にいた男の顔面に掌底を見舞った。頬を穿った手を即座に引き、拳を握って防御が緩くなった脇腹を殴る。竜征者の筋力は並の人間の比ではない。革鎧越しに衝撃が伝播し、男が腰を折る。それと同時に鼻面に膝を叩きこむと、二人目も倒れた。

「うぉおおおおっ!」

 三人目。男が怒号を発しながら短剣を振るう。その一閃を左手の篭手で受け流す。火花が散り、その向こうで攻撃を防がれた男の顔に驚愕が張り付いた。

「はっ!」

 鋭く叫ぶ。レンが学んだ剣術において、発声は重要なものとされていた。特殊な方法で声を発することで横隔膜を刺激し、肉体を意のままに操るという技術的な理由はもちろんのことだが、声とはそれだけの手段ではない。戦場に響き渡る喇叭らっぱが、打ち鳴らされる太鼓が士気を向上させるように、声とは己を鼓舞し、相手を圧する形無き武器でもあるのだ。

 男の顔面に拳がめり込む。鼻が折れ、鼻血を垂らしながら男がもんどりうって倒れる。

 残り四人。

 男たちは武器を抜いてじりじりとレンとの距離を詰める。一瞬で三人の男がのされた。しかも武器を抜いてもいない相手に。警戒すべき相手だと認識したのだろう。

「武器を捨てて降参しろ。命まで奪う気はない」

「黙れ! どの道衛兵に捕まりゃろくなことにならねえんだ!」

「やれやれだな……お前ら、さては山賊だな? ここで盗掘していることも知っている……違うか」

「だったらなんなんだ! 俺らは泣く子も黙る山賊団だ! へっ、ガキ一人に怯える必要はねえ! かかれ!」

 山賊、とわかれば手加減する必要はない。

「聞いたか、アンゼリカ」

 四人が一斉に飛び掛かってくる。そのうちの一人が横から飛来したボルトに脇腹を貫かれて前のめりに倒れこんだ。そして傷口ではなく左胸を掻き毟り、目を見開いた。見るまでもなくわかる。アンゼリカのクロスボウ・ステイルが放つ麻痺毒ボルトによる援護射撃だ。

 最接近してきた相手に、居合。抜刀の一閃で短剣を弾き、返す刀で頸部を深く斬る。

「『ロックスラッグ』!」

 倒れた男の向こうで腰に短剣を溜めていた男に土属性低級破壊魔術を見舞う。頑強な土の塊が左手から放たれ、レンガをも穿つ土くれが男の胸を強打した。『ロックスラッグ』の直撃を食らった男は壁に叩きつけられてそのまま倒れ伏す。

「クソッたれ!」

 山賊のリーダー格と思しき男がやけっぱちに短剣をこちらに投擲する。だが空中で光芒が迸った。一筋の光によって弾かれた短剣の刀身は、赤熱化していた。熱線である。

「な……ななな、なん、っ、なんだお前はぁ!」

 見ていたのだろう。リーダー格の男は腰を抜かし、アンゼリカを呆然と見つめた。

 今の熱線は、彼女の口から放たれたのである。

 魔術ではない。今のは間違いなくブレスだ。竜やエニグマが発する超常の攻撃手段。

「今回の仕事は盗掘者の偵察及び調査……盗掘者の殲滅じゃない。お前を軍に突き出して終わりにする」

「じゃ、じゃあ命は……」

「今は見逃してやる。まあ、死刑になるかもしれないが」

 無銘の柄頭で、リーダー格の側頭部をぶん殴った。意識を失い、ぱたりと倒れる。

「これでよし……」

 この男を担いで帰ることを考えると頭が痛いが、まあやってしまった以上仕方ない。放っておいてガルドに帰り、軍を派遣したら逃げていたでは笑い話もいいところだ。

「この人たち、なにをしてたんですかね」

「さあな……なにかを探していたようだが、なにを探してたのか……」

 男たちが穴が開くように見つめていた地面を見下ろしてみるが、なんら変わりない岩肌でおかしな点はない。一体、なにを探していたというのだろうか。

 案外、土属性の魔術で蓋をしたという話は事実なのかもしれない。だとしたらあの男たちは魔術の痕跡を探していたのだろうか。だがそのわりに魔術師がいなかった。誰も攻撃魔術を行使してこなかった。まあ、魔術師イコール破壊魔術師とは限らないし、例えば召喚魔術師がいたとして、こんな場所で大型エニグマを召喚するわけにはいかない。それに魔術師でなくとも魔術の知識を持っていたという可能性もある。

 今手持ちに縄がないものだから仕方ないが、麓の村に戻ったらリーダー格を拘束するための縄を手に入れなくてはならない。さすがに敗北を認めたのでたった一人で逆襲してくることはないと思うが、隙をついて逃げ出そうと考えることは充分にあり得る。盗掘に山賊行為。軍に捕まれば見せしめの縛り首は免れない。どうにか逃げようと思い巡らせても不思議ではないだろう。確実に死ぬとわかっているなら、雀の涙ほどでも生き残る可能性に賭けたくもなる。

「まあ遺跡探索が仕事ってわけじゃねえ。こいつをつれてさっさと帰ろう」

「……ですね」

 問題は、この男を運ぶことを隊商が認めてくれるかどうかということだ。いざとなれば多少の金を握らせるが、拘束されているからといって喜んで山賊のリーダー格を荷台に詰め込むやつはそういない。

 握らせる金が、報酬と釣り合う程度の額であればいいのだが。

 リーダー格を担ごうと腕を伸ばしたとき、視界の隅で銀色の光が瞬いた。動物的な本能に従い咄嗟に腕を引くと、銀色の湾曲した刀身がさっきまで腕を伸ばしていた空間を滑った。一瞬見えた刀身には装飾が施されていて魔力を纏っていた。魔具だ。

 ほんの僅かでも反応遅れていれば、腕を斬り落とされていたかもしれない。

 後ずさると、周辺に三人の女戦士がいた。頭からつま先までミスリルの魔具鎧で完全防備しており、二振りのサーベルを装備している。

「鋼女隊? 革新派がなんでここにいるんですか?」

 アンゼリカがメイスのユドスを抜き、構える。

「隊長、来ました」

 ――来ました、だと。

 まるでレンたちが来ることを予見していたような口ぶり。

「早かったわね」

 闇の向こうから、聞き覚えのある声。

「ルシア……」

 金髪金目……竜の目をした女戦士。なにかの骨から削り出したかのような魔具鎧を身に着けており、腰にはサーベルが二本。革新派の一部隊、鋼女隊の隊長にして、レンの幼馴染み。

「革新派のお前がどうしてここにいる?」

「今日は……というより、今は革新派という肩書きは少し間違っているわね。正確には一ヶ月前のあのときも革新派という立場は私たちの肩書きには相応しくなかったんだけど」

「なに……?」

 ルシアが微笑む。

「私たちは、竜を探す者……ドラゴンシーク」

 どこかで聞いたことのある名に、レンは僅かに思案し、過去のある一幕に思い至った。

『前金代わりにそちらが欲したものを届けさせた。スレイヴズと魔術師だ。うまく活用して竜の埋葬地を押さえろ。我らドラゴンシークを裏切るな』

 初春、山賊狩りを請け負った際に遭遇した連中が、そんなことが記された紙を持っていた気がする。

 あのときはドラゴンシークなどどこかの気取った山賊が名乗ったもの程度にしか思っていなかったが、革新派が絡んでいるとは夢にも思わなかった。

「ドラゴンシークってのはなんなんだ」

「その名の通りよ。竜を探す者。新皇帝エドワード・ゲルムス陛下に竜を献上するために組織された存在。私たちは竜の中でも最強にほど近い邪竜を呼び起こし、軍備に加える。いずれ来る大陸の制覇を成す為にね」

「そんなことが本当に可能だとでも思っているのか?」

「さあね。私に革新派がなにを考えているかなんてどうでもいいの。エドワードが今後帝国をどうするかなんて興味もない。虚竜を殺すことさえできればそれでいい」

「興味もない? なんのとがもない沢山の人が死んだんですよ!?」

 アンゼリカが一歩前に出る。――と、

「なんだ……!」

 突然、ギガ山が震え出した。突き上げられるような垂直方向の揺れに、足下の岩肌が亀裂を生み崩落を始める。――まずい。

 足下が崩れ出した。奈落に吸い込まれぬようレンとアンゼリカは岩場を飛び移り、退避しようとする。この際山賊などどうでもよかった。

「お……っ!」

 地面を踏み抜いた。足が宙を泳ぎ、どっと嫌な汗を鎧の下でかく。

 どうにか手を伸ばし、岩を掴む。

「レン!」

 アンゼリカがレンの腕を掴み、引っ張り上げようとした。が、

「あっ」

 アンゼリカのいた場所までもが崩れ去り、レン共々底の見えない地下空間に飲み込まれた。


4 地の底で


「……きて。――て。おき……、起きて!」

 ぱしぱしと頬を叩かれる衝撃と、上からぽたぽたと垂れてくる水滴、焦り混じりの声にレンは目を覚ました。

「アンゼリカ……? ここは……」

 川の流れる音がしていて、そばでぱちぱちと薪の爆ぜる音が聞こえる。炎のすぐ傍にはレンの布鎧と革鎧などが吊るされていて、乾かしているのだとすぐにわかった。革は水を吸うと臭くなる。濡れた布鎧を着ては風邪に繋がる。グロムガロウの血と皮と繊維から作られたものは難燃性、耐火性には富むが撥水性はほぼない。水に浸かれば普通に濡れ、放っておくと悪臭を放つようになる。

 視線を自分の体に落とすと毛布が掛けられていて、それをめくると股間を隠すトランクスが一枚のみ。左腕には篭手。拭いたのか、水気はない。少し寒いが、仕方ない。

「インフィニウムに焚き火の準備を入れておいてよかったです……」

 万が一どこかで野営しなければならなくなった際のことを考え、レンは常にインフィニウムに野宿に必要な道具を詰め込んでいた。薪も、毛布も、その備えだ。着火は恐らく熱線で行ったのだろう。

「俺はどうしたんだ?」

「ルシアと……ドラゴンシークと名乗る集団と対峙して、なにかが起きて地面が崩れて……落ちました。幸いレンは川に落ちたので水が緩衝材になったんでしょうね。ざっと見たところ怪我はありませんでした」

「アンゼリカ、お前は怪我はしてないか?」

「大丈夫です。魔具鎧のおかげですね。メタルゴーレムの外皮をふんだんに使っただけあります。凹みもしませんでした」

 エニグマ、メタルゴーレム。ゴーレム種の一体で、土や岩で体を作るゴーレム、粘土で体を作るクレイゴーレムの上位種で、外皮を頑強な鉄鋼で覆う怪物。倒すのは骨が折れるが、採取できる鉄鋼は頑健で魔力の伝導性に優れ、魔具鎧の素材に使うにはもってこいの物質だ。

 ゴーレムは体内にコアを持ち、そこから伝導される魔力を各部のサブコアが動力に変えるという性質を持つ、生物と呼ぶよりかは魔巧に近い生体のエニグマだ。倒し方はサブコアを破壊し動きを止め、体内のコアを安全に破壊するのが一番だ。実際レンたちもメタルゴーレムと戦った際はそうした。

「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」

「いや……あいつらは……ドラゴンシークはどうなったんだ?」

「わかりません……ここに落ちてからしばらく経ちますがなんの音沙汰もありません。崩落に巻き込まれなかったのか……あるいは、その……」

 岩石に埋もれて死んだか、ということか。

 相手が見ず知らずの人間だったらアンゼリカもずばりと死んだと口にするだろうが、ドラゴンシークを名乗った鋼女隊の一人はレンの幼馴染みであり、アンゼリカとも仲の良かった女性なのである。言葉がつっかえて出なくなるのも無理はない。

「そろそろ乾きましたかね」

 アンゼリカが装備を確認する。その間にレンはインフィニウムに手を突っ込んで、回復薬を取り出した。痛みはないが、どこかに損傷を負っていても不思議ではない。一応飲んでおく。

 麦酒よりも苦く、そして青臭い味の液体が口の中に広がり、顔をしかめた。良薬は口に苦しというがこれは大概だ。

「なあ」

 装備の水気が飛んでいるかどうかを確認するアンゼリカに、少し疑問に思うことがあって問いかける。

「俺は川に落ちたんだろ?」

「そうですよ」

「水を飲んでなかったのか?」

「飲んでましたよ」

 装備は乾いているようだ。アンゼリカは吊るしていた鎧を下ろし、ついた土埃を払ってレンの元まで持ってくる。

「自分で吐いたのか……?」

「あ……その」

 布鎧を着、ズボン靴下と身に着けブーツを履く。革鎧を身に着け、右腕には革の篭手。腰に剣帯を巻き、錆びないよう手入れされた無銘を差す。最後に外套に袖を通した。

「なんだ、どうしたんだ?」

 顔を赤らめるアンゼリカ。

「その、飽くまでも人命救助ですから! いいですか、人命救助です! 決して変な気持ちがあったわけじゃないんです……いや、その、少しはあったわけなんですが……」

「…………口づけしたのか」

「……はい」

 二人して黙り込む。レンもアンゼリカも、今のがファーストキスだ。

「無かったことにしましょう……人命救助ですから」

「そうだな……」

 それが互いのためだ。

「で、今俺たちはどのあたりにいるんだ?」

「全くわかりません……でも川が流れているくらいだからどこかに続いていると思いますが」

「下流に行くべきか……上流に行くべきか」

「どちらも外に繋がっていると思いますが……村に向かうなら上流に向かうべきですかね」

「そうするか……上流から出られないんなら下流に向かえばいいし、……それでも無理なら俺が『リライト』で道を作ればいい」

「始めから『リライト』を使えばいいんじゃないですか?」

「『リライト』は飽くまで書き換えだ。新しく物質を作るわけじゃない。既にある物質を書き換える力だ。足場を作ろうとしたらかなりの量の物質を使う。つまりそれだけ土台になる地面が抉れていって……最終的に脆くなる」

「ああ、また崩落を起こすかもしれないってことですね」

「そうだ。この地下にさらに空間が広がっていないとも限らないしな」

 別にレンも、魔術に頼るなと汗臭い精神論を説いているのではないのだ。余計な危険性を減らすためという充分に裏打ちされた理由がある。

 己の腕と武器のみで戦う傭兵や兵士の中には、旧態依然とした「魔術は外道だ」と考える者もいる。まあ、そう言いたくなる気持ちもわからないではない。魔術は肉体を武器にする戦士を容易く蹂躙してしまう。それが気に入らない、あるいは卑怯と考えてしまう者もいるのだ。

 しかし現代、魔術無しでやっていくのは困難だ。

 それに傭兵という仕事はなにが起こるかわからない。常に状況が流動する戦場が職場なのである。柔軟な思考を持たなければやっていけない。それでもなお旧態依然としたやり方が良いというならばそれでも構わないが、レンは違う。それだけのことだ。事実、今まで様々な相手と戦ってきたがグレースの破壊魔術や自分自身の付与魔術、アンゼリカの回復魔術がなければ危うかった場面も、多数あった。

 レンにも“道”はある。目指すべき、歩くべき道が。だがそれは大昔に戦場を席巻していた古き良き騎士道精神とはまた違う。正々堂々と真正面から――といった考えを標榜しているわけではないレンにとって、魔術は外道でも卑怯でもない。

 今回魔術――『リライト』による脱出を最後の手段と定めたのは、単純にリスクとリターンを考えただけのことだ。

 傭兵は生きて帰らねば意味がない。この仕事は命あっての物種だ。戦場で華々しく散ることを美学とする騎士にはわからないだろうが、退くこと、逃げることは決して恥ではない。

 インフィニウムから松明を取り出す。松脂に浸した布を巻き付けただけの木の棒だが照明としては有用で、レンは焚き火から松明に火を移した。それから焚き火を消し、アンゼリカと共に上流を目指す。

 隠密行動が必要ではなくなったので、無理に夜目に頼ることはない。灯りがあった方が便利だ。燃焼音、そして隠しようのない光を振りまく松明はさっきまでの隠密行動では決して使えないものだった。

 しかしこの地下空間は、松明がなくても多少は大丈夫、というほどの光に包まれている。

「ここ、発光魔石の資源が豊富ですね……」

 そう、アンゼリカが言う通り、壁面から発光する鉱物が顔を出していた。それが篝火の役割を果たしていて、周囲をぼんやりと照らしている。

 魔石だ。

 魔石――つまり魔力を含有した鉱物は、この大陸……この惑星『テラリス』のあちこちに存在する。

 魔術を帯びたもの、魔力の循環を助け魔術媒体に用いられるものと様々な性質を持った魔石が存在するが、ギガ山地下にあるのは発光する魔石だった。

 あれらは魔力が尽きるまで光を放ち続ける。魔力を失っても、魔力を供給すれば光を放つため、松明代わりの照明として持ち歩く旅人も少なくはない。魔術の才がないものにとって、魔力とは無用の長物である。だから、魔力の消費をさして気にしない非魔術師は発光魔石を使うことにためらいがない。

 しかしレンとアンゼリカは魔術を扱えるので、いざというときのために魔力は温存しておきたかった。そういう者にとっては、魔力を必要としない松明はありがたい。

 政府は発光魔石を魔巧に用いられる魔力導線で接続し、街中に光を供給するシステムを考案中とのことだが、革新派エドワードが実権を握った現在その計画がどうなっているかはわからない。

「あれは……」

 松明の光が届かない先、ぼんやりと輝く魔石に照らされている場所に、レンは生き物を発見した。

「『オニキスアロウ』ですね」

 アンゼリカが言う通り、レンの視線の先にいたのはエニグマ・オニキスアロウだった。外見を一言でいうならば、巨大蜘蛛というところだろうか。八本の足に大きく膨らんだ腹部、八つの赤い単眼がぞろりと並び鋏角しょうかくを備えた口が恐ろしげな頭部。背中からは喇叭のような管が二本伸びている。

 名前の通り、体は白と黒の縦縞模様で縞瑪瑙オニキスのようだ。

 松明を足元に置き、レンは抜刀。アンゼリカもユドスを手に取り下肢をたわめ走り出した。

 先手必勝で攻撃を仕掛ける。相手の数は三。いけないことはない。

 天井から垂れる水滴で足元は湿っていて、一歩間違えれば滑りそうだったが、それに気を付けてオニキスアロウに接近する。近づくにつれ、その大きさがはっきりと分かる。腹部の最も膨らんだ部分は大の大人の身長を上回るほどで、体の全長は馬にも劣らないほど。重量はいかほどか想像もつかない。槍のように鋭い脚に突かれれば、人間の皮膚などバターのように容易く貫かれるだろう。

 巨大蜘蛛が体を動かし、こちらに頭部を向ける。遅い。

 レンは無銘の刀身を己の視線と水平に持ってくる。霞の構え――帝国剣技では雄牛の構えとも呼ばれる――その姿勢から、刺突を繰り出す。

「かぁぁああっ!」

 刀身の三分の一が両刃になった無銘の刺突力はレイピアにも劣らない。

 裂帛の気合いと共に一条の矢の如く伸びた一閃はオニキスアロウの目の一つを潰し、深く抉った。そのまま横に薙ぎ、顔面を潰す。太刀を構え直し、下段から振り上げた。逆風さかかぜと呼ばれる剣技。対人戦においては股下から敵を斬り上げる技である。

 下顎から脳天に至るまで斬り上げられたオニキスアロウは、そのままぐるんとひっくり返って、背中から倒れた。びくびくと足を痙攣させ、ぐっとの伸ばすとそれきり動かなくなる。

 背後で気配が蠢く。だがレンは振り返らなかった。

 レンの後ろから襲いかからんとするオニキスアロウは、前足を槍の如く伸ばして少年を串刺しにしようとした――が、突如横合いから飛び出した白熱した光の玉に足を消し炭にされた。

 白熱玉……熱線ブレスを放ったアンゼリカは足を失いバランスを崩したオニキスアロウの正面に回り、メイスを振り下ろした。

 ぐしゃ、と音がして、オニキスアロウの頭が潰れる。武器があるとはいえ、人間の少女ではありえない腕力に、オニキスアロウの頭部は完全にひしゃげた。頭を圧潰させただけでは飽き足らず、地面に叩き落とされたメイスは頑強な岩肌を砕いて止まった。

 距離を置いていた三体目のオニキスアロウが口を開き、白いやじりを放出した。

「『ファイアボール』!」

 レンの左掌から火球が放たれ、白い鏃を空中で焼き尽くす。

 今のあれは、糸の矢である。

 通常の蜘蛛は、出糸突起しゅっしとっきという腹部の先端にある器官から糸を吐き出すのだが、オニキスアロウは口からも糸を吐けるのだ。そしてその糸は空気に触れることで硬化する性質を持つ。

 オニキスアロウは管で取り込んだ空気を口の中に入れ、糸を矢に形成し、空気の圧力で放つ特徴的な攻撃法を有しているエニグマだった。

 故に、特徴的な体色と合わせ、縞瑪瑙弓矢オニキスアロウと呼ばれるのである。

「『汝、暴風の加護あれ』」

 黒い刀身が荒れ狂う風を纏う。

 湿った岩肌の地面を踏みしめ、――蹴る。

 オニキスアロウが口を開け、管から空気を取り込んで糸の矢を連射する。

 そのことごとくを、レンは風を纏った無銘で斬り捨てるようにいなした。刀身を走る風が矢の直線軌道を反らし、あちらへこちらへと散らしていく。

「ぉぉおおっ!」

 そうして距離を詰め、袈裟懸けに刃を打ち下ろす。が、オニキスアロウはバネのように足を曲げ、総数八本の脚力を総動員して後方に下がった。単眼の一つが斬り裂かれたが、浅手だ。

 レンは半歩踏み込み――距離が詰まっていないことは重々承知で――無銘を横薙ぎに振るった。こんな離れていては斬撃など届くまい。普通はそう思うはずだ。

 しかし魔術は、不可能を可能にする。

 暴風のエンチャントを施された無銘は、ただの刀ではない。それは一種の魔剣となる。

 エンチャントを受けた太刀はその間魔術媒体と化す。刀身に魔力を流し込み、迸る風の勢いを増した。

 斬撃の波が、高速でオニキスアロウの顔面を斬り裂いた。

 飛翔したのは、風の刃。風の遠距離斬撃である。

 レンの付与魔術は、炎、氷、雷、土、風の基本五属性全てをカバーしている。

 炎属性のエンチャントは対象の皮膚や肉をを焼き斬ることに特化し、氷属性のエンチャントは極低温で対象を凍結させ動きを鈍らせる。雷属性のエンチャントはどんなに硬い対象でも切削し人間相手なら痺れさせて生かしたまま捕らえることを可能にし、土属性のエンチャントは重量を増し斬撃の破壊力を底上げし対象を叩き潰す。

 そして風属性のエンチャントは、切断力を増し、風の刃を放って遠く離れた対象を斬り裂くことができる。

「これでとどめです」

 風の刃で目を斬り裂かれ右往左往するオニキスアロウに、アンゼリカがユドスの鎚頭を振り落とした。

「オニキスアロウの素材はあんまりいい値段で売れない……このまま行くか」

 素材回収はせず、オニキスアロウの死体を通り抜けて歩き出そうとしたレンの頬に、ぽたりとなにかが落ちた。

 水滴がたまたま降りかかったのかと思った刹那、水滴が触れた皮膚がちりちりと焼けるように痛み出した。

 これは、水ではない。

 レンは外套の袖で液体を拭って、天井を見上げた。

「クソッたれ」

 白いぶよぶよした体表を持つ、胴回りが極太の奇妙な蛇が天井に張り付いている。

「『ワーム』!」

 アンゼリカの驚愕の声が洞窟に響き渡る。

 そいつは、全長がサイクロプスの身長以上の体長を誇る巨大な大蛇型エニグマだった。


5 アンゼリカの正体


 ワームがずるんと身をひるがえして、ぼとんと地面に落ちる。

 そいつは全身をだぶついた皮で覆っていて、さらにその表面にねばねばした粘液を纏っていた。その粘膜が厄介なのだ。ワームは決して硬い相手ではないが、粘液が斬撃や打撃の勢いを殺してしまい思うように傷を負わせられない。気色の悪い怪物だ。

 しかしワームの一番の気味悪さは、その外見――主に頭部――にある。

 その頭は、男性の陰茎のようにも女性の陰唇のようにも見えるのだ。蛇のように牙や歯ががなく、ぬるりとした頭部に切れ込みが入っているだけに見える口は下品で気色悪い。獲物を丸呑みにして胃液でじっくりとかすという捕食方法も気味の悪さを助長している。

 そんな外見をしているものだから、色恋にうつつを抜かす娘に「いつかお前はワームの餌になるぞ」と脅す父親は少なくない。娘の方も大抵はその脅し文句を嫌い、あんな下品な生き物にけしかけられることに寒気を覚える少女も多いのだ。

 実際、アンゼリカも恥辱に耐えているかのように顔を赤くし、目尻には涙が浮かんでいる。

 ヴァリアント教は生殖行為を気持ち悪いもの、罪深いものとしているわけではない。むしろ性交は楽しんでもよいとされている。だがワームは性交に寛容な国民性をしてなお生理的嫌悪を湧き出させた。

「き、きき……気持ち悪い……臭いし……もう嫌ぁ」

「出てきたんだから仕方ないだろ! 倒すしかない!」

 下品で気の荒い気質な連中が多い傭兵に揉まれて育ったジゼルは下ネタを意に介さない豪胆さを持つが、アンゼリカとグレースは違う。この二人が殊更ことさらに下品なものを嫌う傾向にあるものだから――アンゼリカは全裸になって寝るくせに下ネタには弱い――、クローゼル部隊はワームとの交戦経験を持たなかった。

 とはいえ知識が全くないというわけではない。

 ワームは先述の通り、硬い鱗や表皮を持つわけではない。その弱点を、衝撃を吸収しやすい粘液で補っている。そしてその粘液は接着性を持ち、ワームは壁を這いずり回ったり天井に張り付いて獲物を待ったりする。

 ワームをワームたらしめるその粘液は、炎に弱い。

「『汝、焦熱の加護あれ』――、アンゼリカ、ユドスを出せ」

 エンチャントを風属性から炎属性に切り替える。アンゼリカの武器にも炎のエンチャントを施す。中には『混合魔術』といって、異なる二つの属性を組み合わせた魔術を行うことも可能らしいが、レンにはまだその技能はなかった。風と炎の両属性を合わせて炎の刃を放つことが出来ればワーム相手にはかなり効果的な武器になり得るだろうが……しかたない。できないことを悩んだってできないものはできないのだ。

「来るぞ!」

 ワームが地を滑った。流水のようにずるずるうねり、アンゼリカを狙う。

「こっち来ないで!」

 アンゼリカが口から熱線――単発のブレスを放った。ワームはにゅるりと身を捻じ曲げて直撃を避ける。皮膚の表面に掠り、粘液が蒸発したがその下の皮膚には傷が入らなかった。

「あっ」

 と思ったときにはもう遅い。ワームは粘液の粘度を自在に変えられるのか、まるで粘液を潤滑油のように用いてアンゼリカの体にぬるっと巻き付く。

「ひぃぃいい……」

 気持ち悪いのか、恐怖か……恐らく両方だろう。意識を集中できないのかブレスを吐くこともしない。

「アンゼリカ!」

 駆けだすが、ワームは亀頭のような陰唇のような口から先割れした長い舌を出し、アンゼリカの顔面をべろんと舐める。

「助けてください! レンっ! 早く! 助けてぇぇええ!」

 ワームの口が開き、言いようもない……どうにか例えるなら魚が腐ったような生臭さを振り撒きながら、アンゼリカの頭を飲み込もうとする。頭頂部がずぶ、と飲み込まれていく。迷っている場合ではなかった。

「『ファイアボール』!」

 アンゼリカに当たるかもしれなかったが、喰われるよりもましだと判断し、レンは魔術を行使した。

 火球はアンゼリカのすぐ隣、ワームの横面に当たって弾けた。

「シィィイイイ!」

 炎を嫌がったのか、ワームは悲鳴を上げながらアンゼリカを離すと、今度はレンに飛び掛かる。一気に丸呑みにしようという魂胆なのか、口がばっくり開いて、腐臭を撒き散らす。

 追い払うために無銘を振るった。当たりはしなかったが熱波が吹き荒れ、炎属性を忌避するワームは悔しげに身を捻った。そこに、

「喰らえ!」

 アンゼリカのブレス。白熱した玉がワームの胴体に命中し、皮膚を抉った。

 さらに続けてブレスを放つ。今度は単発ではなく照射。切れ間なく放たれ続ける熱線がワームの後を追う。壁に張り付いて逃げ回るワームを追い立てた。尻尾――体がひと繋がりだからどこからどこまでが頭で胴で尻尾なのか全くわからないが――、体の終端部を熱線が裂いた。

 大太りの大人の腹ほどもある太さの尾がぼとんと落ち、痛みからかワーム自身も壁から剥がれ落ちる。

 そこにレンが回り込む。

「ぉぉおあああっ!」

 喉を痛めかねないような砲号ほうごうを放ち、ワームの胴を深く断つ。炎熱を灯す刀身に触れた粘液が、皮膚が、筋肉が、じゅうじゅう焼けていく。血は出ない。炎が傷を焼き塞いでしまうからだ。

「シュゥゥゥゥウウウ……ッ!」

 ワームが下半身を振るう。反応が遅れる――レンは無銘のしのぎで太い鞭のような一撃を防いだが、勢いに負け押し飛ばされる。

 地面を二転三転し、勢いを生かして起き上がったときには、目の前にワームの頭。口を開いてなにかを吐き出そうとしている。

「レン!」

 まずい。ブレスだ。

 エニグマや竜が持つ攻撃法、ブレスは、魔術とはまた違う攻撃形態だ。魔力を攻撃に変換するのではない。生まれ持った特異な器官を用いて攻撃するのだ。例えば炎のブレスは可燃性の液体を霧状に噴射し、魔術もしくは火を噴く器官で着火することにより広範囲に火炎を放射する。水のブレスなら圧力を加えて一直線に発射する。

 ワームのブレスは、酸のブレスだ。食らえば人間の皮膚などたちまち溶け落ちる。

 万事休す。

 左手の篭手で顔を覆い、レンは急所さえ避ければ痛みは覚えるがアンゼリカの回復魔術で再生できると腹を括り、苦痛に備えた。

「『フレイムピラー』!」

 火炎。

 ワームの下から円柱状の炎が噴き出し、レンの視界を橙に染め上げた。

 グレースか……。いや違う。まず声が別人だ。しかし……危急を前に意識が動転していて声から人物を割り出すことを忘れていた。

「シーッ! シィィィィイイイイイッ!」

 のたうつワームの顔が炎の柱を破り、レンの目の前に現れる。が、その頭をアンゼリカがユドスで潰した。粘液は『フレイムピラー』で乾ききっていて、衝撃は余すことなくワームを襲った。目が裏返って、口から毒々しい色の舌がだらんと垂れる。

「もう……っ。気持ち悪い!」

 粘液はすぐに乾くようで、魔具鎧や体に付着した水分は既に飛んでいたが、唾液はその限りではないようだ。アンゼリカの顔は濡れていて、ワームの悪臭を放っている。

「顔洗って来い」

 インフィニウムから石鹸を取り出し、アンゼリカに放り投げる。彼女はそれを受け取ると川まで走って行き、顔を洗いだした。

「相変わらず元気ね……こんな状況なのに」

「お前は……」

 サーベルを納刀した女性が、魔石の灯りに照らされている。煌びやかな金の髪、目立つ竜のような金色の目。

「ルシア、無事だったのか」

「まあね……部下が一人死んだけど」

「残りの二人は」

「たぶん地上。こっちでは見てないから」

 争う気はないようで、ルシアはアンゼリカの方をちらりと見る。

「どうしたの?」

「ワームに舐められたのが気持ち悪いんだと」

 アンゼリカは泡立てた手で顔を擦りながら「目にみる!」と一人で怒っている。

「気持ち悪い? こんなに可愛いのに」

 ワームの亡骸を見下ろしながら、ルシアは呟く。

「お前、本気か?」

「……? なにが?」

 自覚がないのか……。

「百歩譲ってワームが可愛いとして……だとしたらなんでワームを殺した?」

「あなたが死にかけていたからでしょう」

「……そりゃどうも」

「生意気なのは十年前から変わらないわね」

 捨て置いた松明はまだ燃えていた。それを拾い、灯りを確保する。

「ルシア……ご無事で良かった……というべきですかね」

 顔を洗い終えたアンゼリカは苦々しい顔でそう告げた。

「あなたも十年前から変わらないわね……今でもまだレンに恋慕してるの?」

「悪いですか」

「いいえ。別に。ただあれから十年でしょう? レンももう十七歳だし、ほかの国じゃどうかは知らないけどこの国では立派に成人してる。子供作ったの?」

「まだです! 悪いですか!」

 アンゼリカが耳まで赤くして叫んだ。彼女は人前――主にレンの前――で平気で全裸になり抱き付いてきて眠るような開放感があるかと思えば、その手の話題になると途端に顔を赤くする極端な一面を持つ。

「別に悪くはないけど……なにをムキになってるの?」

「アンゼリカをからかうのはやめろ。……ルシア、出口に心当たりは?」

「ある……といえなくもない、と言ったところかしら」

「歯切れが悪いですよ」

「ここは三百年前には存在した空間よ。竜の埋葬地を記したなにかを封印したくらいなんだから。そして少しでも人目を逃れるために、洞窟内には蓋をするように魔術まで用いた。けれど竜の埋葬地の情報を封印するためにはどうにか中に入らなくてはならない。つまりどこかに出入り口に使っていたものがある。ま、最悪『リライト』を使えば出れるわ」

「お前らも知ってるんだな、ここに竜の埋葬地を記したなにかがあるってことを」

「ええ。エドワードは教団本部の深部にまで協力者を得てる。当然そのエドワードの組織したドラゴンシークにも情報は来る」

 レンはルシアを睨む。

「まるで俺たちが来ることをわかっているような振る舞いだったな」

「そうよ。私たちが呼んだんだから当然。ここの封印を解くためには、天使族の力が必要だもの」

 レンは閉口した。

「隠そうとしなくていいわ。私たちはもう知ってる……アンゼリカが、」

 ルシアがふっと微笑み、続けた。


「アンゼリカが千四百年前に、竜族と天使族の間に生まれた存在であることを」


 千四百年前。帝暦前でいえば千年前。第三次竜大戦の時代。天使族がこの地上を去った時代でもある。

「変わらない容姿、ブレス、回復魔術……証拠は揃ってる。知ってる? ヴァリアント教教団はなにもヴァリアント教だけを調べているわけではないの。少なくともエニグマが現れた時代のこと――第一次竜大戦の頃の歴史までは網羅しているわ」

「確かに……私は千四百年前に生まれた存在です。ですが……ですがなぜ天使族の力が必要なんですか? ここに竜の埋葬地の情報が持ち込まれたのは三百年前。その頃にはもう天使族はこの世にいなかったはずです。それなのになぜ昔の人たちは天使族の力が必要だなんていうような封印を施したんですか?」

「予言よ。いつ誰によって行われたものかは記録にない。けれど、教団には予言が伝わっているの」

「予言だと? どんな?」

「『五度目の竜大戦の時代に天使族の生き残りが姿を現す』……要約すればこんな感じの予言よ。私はこの予言を聞いたとき真っ先にアンゼリカの存在に思い当たった。十年前に村にいたときは、大人が嘘をついているんだとか、なにかの呪いで歳を取らなくなったくらいにしか思ってなかった」

 レンもそうだ。本人の口から竜と天使の混血児であること、その証拠であるブレスと回復魔術を見せてもらうまでは、大人たちが嘘を言っているか呪いかなにかだと思っていた。

「けど実際は、思った通り。天使族の生き残りだった。本人から言質も取れた」

「それで……天使族にしか封印を解くことができなかったから俺たちを呼んだ、か。じゃあさっきの山賊はなんだ? 俺たちが封印を解けるのならあんな連中いらないだろう」

 上流に向かって歩きながら、足と同時に会話も進める。

「何事も演出は大事だわ。私たちは金を握らせた商人を使って盗掘者がいるという情報をガルドに流した。けど実際にあなたたちが来るという確証はなかったの。賭けがったのよ。結果的に賭けには勝ったとはいえ軍が派遣されてきたかもしれないし、あなたたちじゃない別の傭兵が来たかもしれない……けど、まぁその商人に暗に黒狼団に頼るよう含みのある言い方をしろとは言ったわ」

「それだけか? それでなんで俺たちが来るとわかったんだ?」

「あなたたちは一ヶ月前に帝都で大仕事を成功させてる。政府からの依頼となれば実績のあるあなたたちが来ると踏んだの……。これは……こっちに行ってみましょう」

 そう言って、ルシアは壁を叩いた。その顔にはなにかを確信したかのような色に染まっていた。


6 埋葬地を記したもの


 途中で壁を叩き、ルシアが言った。

「壁だ。道なんてないぞ」

「これをみて」

 ルシアが指差す先に松明を近づける。炎に照らされて浮かび上がったのは、なにやら図案化された意匠だった。よく見るとわかる。精巧に彫られたそれは帝国の国旗と同じ図案だった。

 三日月と、三日月を弓に見立て矢の代わりに初代皇帝の十字剣をつがえたマーク。

 本来布地は広大な恵みの海洋を思わせる濃紺色で、三日月と剣は国民の清らかな心の表れとして白に染め抜かれている。しかし現在、エドワード率いる革新派は国旗の布地の濃紺色を鮮血の如き赤に染め上げていた。変革に流れる血、戦場に流れる血、自らが流す血――国力増強の赤だ。

「………………」

 前しか見ていなかったというのもあるが、こんな薄ぼんやりとしたところでよくもまあこんなものを見つけられるものだ。レンが腹の底で唸っていると、ルシアが口を開いた。

「上にもこれと同じものがあったのよ。山賊にはそれを探させていた。アンゼリカ、このマークに触れてみて」

「嫌です」

「いいのかしら。出られなくても」

「また崩落が起きて潰されるよりかはマシです……どこか別の場所を……」

 出られない、というのはさすがに困る。レンはアンゼリカに命じた。

「ルシアの言う通りにしろ」

「え……でも」

「いいから」

「わかり……ました」

 ルシアが「ふふっ」と笑った。

「千四百年も生きてきた人が、たった十七年しか生きていない子に使われるの?」

「年長者だから偉いというわけではありません……まぁ、私が渡り歩いた国にはそういう考えの地域もありましたが。ですが少なくとも帝国はそうではありませんから」

 アンゼリカはこの世界のどこかで竜族と天使族の間で生を受けた。だがそれからの足取りは判然としていない。

 本人が言うには、生まれたその瞬間から肉体は成熟していて自我もはっきりとしていた。そして両親に当たる竜と天使はいなかった。着の身着のまま旅に出た、ということだった。

 野を越え山を越え、川と海を渡り世界中を歩き回り、極東にある島国大和国でシズナの一族と出会い――今から三十年前にホットスプリングスに辿り着いたのだという。

 三十年前のホットスプリングスは悪徳な衛兵隊が恐怖政治を敷く一種の国のようなものだったらしい。悪徳衛兵長は鉱山の権利をいいことに威張り散らし放題で、シズナの一族は住民を味方につけその悪徳衛兵隊を追放した……らしい。

 そうして村の長という立場に収まると、シズナの一族は子供たちの将来のことを考え、読み書き計算や剣術を教えることにしたのだという。

「本当にそれだけかしら。単にレンに嫌われたくないだけじゃないの?」

「うるさいですよ」

 アンゼリカが壁のマークに触れる。その様子を、周囲に崩落の気配がないか緊張しながら見守っていたレンの腕に、突然ルシアが絡みついた。

 なにかの攻撃のつもりかと慌て、しかしルシアは攻撃など全くせず慌てるレンの耳にふっと吐息を吹き付ける。

「なにやってんですかルシア! レンから離れなさい! 今すぐに!」

 今にもメイスで殴りかからんとするアンゼリカの激昂した様子を見てルシアは笑いながらレンと距離を置く。

「ごめんなさい。あんまり必死だからからかいたくなったの」

「お遊びもほどほどにしないとエレノアに呪われますよ」

 ヴァリアント教の一柱、美神エレノア・スカーレットは初代皇帝の妻だ。美容と縁結びの女神として知られるが、その一方で嫉妬深い女性だったとも伝えられている。

 恋敵にオークをけしかけたとか、恋路の障害物となる女性の酒に毒を混ぜたとか、そんなおどろおどろしい伝説が語られている。そういった側面もあり、美神エレノアは恋人の中を邪魔するものを呪う、とまで言われていた。それをいいことに恋敵を呪い殺そうとエレノアに祈りを捧げる女性もいるという。

 ガリガリ、ゴリゴリ、ゴゴ、ゴゴゴ。

 何十個ものすり鉢を用いているかのような、石と石がこすれ合うような音が耳を蹂躙する。

「なんだ、また崩れるのか?」

 身構えるレンの目の前で、それは起こった。

 帝国のシンボルマークが施された壁がゴリゴリと音を立てながらゆっくりと地下に沈んでいく。その向こうには闇が一面に広がっていた。

「なんだ……?」

「どこかに続いていることは確かね……天使族の封印を施しているわけだからなにが待っているかなんてわかりきっているけど」

 臆することなくルシアが進む。レンとアンゼリカも彼女に続いた。

 ここには発光魔石がなく、一面が闇だ。松明の灯りをもってしても、いかなる超常の力か腕を伸ばしきった程度の距離までしか照らせない。

 しかし壁の両脇には篝火と思しきものが立っていた。石の囲いの中に青白い魔石が鎮座している。

「空気が流れてるな」

 炎が揺らめく。頬を、髪を風が撫でていく。

「どこかに外と続いてる道があるということね……まあどうせ封印付きなんでしょうけど」

 完全に密封されているわけではないが封印された壁がある、ということだろうか。実際問題どうであれ、どこかが外と繋がっているというのは確かだ。

 しばらく進むと、壁の両脇にある魔石が輝き出した。入り口から奥へ向かって次々と点灯していき、奥行きの果てには一つ、大きな壁画が待ち受ける。

「本か巻物かと思ってたんだけど……なるほど、昔の人は壁画にしたのね。これなら持ち出される心配もないし」

「壁画ではさすがに重すぎますからね。大きすぎて外に運び出すだけでも骨が折れますし」

「加えて天使族の封印だ。普通の探検家じゃ見つけることすらできないだろうしな」

 壁画に近づく。それは、環クレセント海連合帝国全域を描く巨大な地図だった。

「七体の邪竜は、討伐後、七つの地に封印された。ルミナス以外の領にね」

「けど三百年前って言えば……」

「そう、まだトリストルドもヴェルサスも領には加わっていなかった。けどこの二つの国は帝国に対して友好的だったのよ。ヴァリアント教を弾圧することもなかった。だから二百年前にはヴェルサスは平和的に併合された」

「トリストルドは? 確か戦争になったって……」

「そう、戦争になった。けどその発端はトリストルドの国政難にかこつけた反ヴァリアント派による武装蜂起だった。トリストルドの下地はヴァリアント教を受け入れてたのよ。だから二年続いた戦争で反ヴァリアント派が駆逐されると、トリストルド王家は三顧の礼で帝国との併合を受け入れた」

 壁画には三日月形の国土が広がっていた。見ると、線でわけ隔てられた各領それぞれのある地点にバツ印が刻まれている。恐らくあれが竜の埋葬地なのだろう。

「三百年前の時点で、トリストルドとヴェルサスは帝国と友好関係にあった。その友好の証として、帝国は併合前の二つの領に邪竜の骸を渡すと同時にヴァリアント教を広めていったの」

 バツ印はいずれも山岳部に集中していた。人が住み着かない過酷な場所を埋葬地と定めたのだろう。

「記憶できたから、ここにはもう用はないわね」

 壁画の向こう側の壁を見つめるルシアの視線を辿ると、帝国のシンボルマークが刻まれた壁面に行きついた。あそこが出口と繋がっているのだろう。秘密の通路から風が漏れていて、松明の火を揺らす。

「アンゼリカ、頼む」

 壁画に興味の欠片もないレンは、さっさとここから出ようという思考に気を取られていた。

「……アンゼリカ?」

「え、あ。あぁ、すみません。壁画を見てて……」

「邪竜といえど竜族……気になるか?」

「ええ、まあ……なにを思って虚竜なんかと手を組もうとしたのか……。まぁ竜族は基本中立ですから、どんな勢力にも手を貸さないんですがね」

 ルシアがレンとアンゼリカの会話に口を挟む。

「初代皇帝は虚竜という共通の敵を討とうと竜神アルスに持ち掛けて同盟を組んだ。竜族は基本傍観者だからなにかに手を貸すということはないけど、同族に手を出されると怒り狂う凶悪な一面もある。竜は昔から、どこの地域のものでも怒りっぽいのよ」

 実際、ヴァリアント教の一柱竜神アルスも、取引と公平と憤怒の神だと言われている。帝国人の商売や取引が公平に執り行われるのも、アルスが見守っているからだとされる。ずるい手を用いて金を巻き上げるような悪徳な商売人にはアルスの怒りの鉄槌が下ると昔から言われていた。

 商売人の神であると同時に、アルスは公平性が求められる裁判の神でもある。転じて、悪を許さぬ正義の神としても信仰されていた。アルスの怒りは正義の怒り。アルスの鉄槌は正義の鉄槌。

 最高神ウィリアム・ゲルムスと、その三人の仲間たち。闘神ヴァルク・アドムス、美神エレノア・スカーレット、魔術神ゴードン・マルカス、そして竜神アルス。

 人に過ぎないウィリアムとヴァルク、エレノア、ゴードンは既に死んでいるが、アルスはまだ生きていると言われている。

 どこでなにをしているのかは誰にもわからないが、密かに、かつて手を貸した英雄が興した帝国の行く末を眺めているらしい。

 竜は人類とは比べ物にならないほど長寿だ。アンゼリカが千四百年も生きていることからわかる通り、三百年やそこらでは老衰で死んだりはしない。もっともアンゼリカがこれだけ長生きなのは竜族であると同時に、天使族であるということもあるからなのだが。

 アンゼリカを促し、壁に触れさせる。先ほどと同じように石が噛み合う硬い音が響いて、頑丈うそうな岩肌がなにかの仕掛けに基づいて動き出した。その先には上り坂が続いていて、薄暗いものの先には光が見えた。外からしてみればここは先の浅い洞窟のようになっているのだろう。

 洞窟であれこれしているうちに朝日が昇るような時間になっていたようだ。

「今後、私たちは埋葬地を巡る」

 外に出て空気を吸い込んでいると、ルシアが淡々と語り出した。

「これから起きる大乱に備えて竜族を従える。そのために邪竜を呼び起こし、エドワードに捧げる。私の使命はあなたと同じ、虚竜を征伐すること。だけど“私たち”の目的は違う。きっと、今後あなたたちと敵対することもあると思う」

 出口は、山の中腹あたりにあった。木々が生い茂っていて、背の高い草が繁茂している。道らしき道もない。到底人の目で見つけることは叶わないであろう場所だった。仮に見つけられても、この程度の洞穴が秘密の壁画に続いているとは夢にも思わないだろう。

「レン、次会ったときは敵同士かも知れない」

「……かもな」

「だから、もう一度だけ聞くわ。……私たちと、来ない?」

 ルシアの表情から真意を読み取ることはできなかった。真剣そのものであることに変わりはないが、その奥の本心を滲ませてはいない。真摯にレンを勧誘している。その顔は組織の一部を担う幹部の顔であり、ルシア個人の顔ではない。

「俺は、革新派のやり方に納得できない。確かにこの世界に牙を剥く虚竜を征伐することを考えるなら、大きな後ろ盾を得られる革新派につくべきなんだろうと思う」

「なら……」

「けど、無理だ。俺は、斬奸の剣、弱者の盾でありたい。罪のない人たちの犠牲を目にすることなんて、俺には出来そうもない。ガキみたいだとは我ながら思うよ。俺一人が足掻いたって根本的な犠牲をなくすことはできないともわかってる。けど、だからって諦めたら終わりなんだ。理想論と言われようが、馬鹿と罵られようが、ガキと笑われようが……それでも俺は、俺の奉じる道を往きたい。自分が正しいと思える人でありたい」

 ルシアを真っ直ぐに見つめ、レンははっきりと、告げた。それはある意味ではドラゴンシークに対する宣戦布告だった。

「ルシア、お前たちは間違ってる。人の命は計算で計っていいものじゃないんだ。損得勘定で割り切っていいものじゃないんだ」

「……そうね。人の命は足し算引き算するものではないわ。けどあなたも他人のことは言えないのよ。相手がどんな悪人であろうと、命を奪ったのは事実なんだから」

「わかってる。俺は人殺しだ。多分これからもそれを続けるんだと思う」

 斬奸の剣であり続けるということは、つまり人殺しであり続けるということだ。

 どんなにいいことを口にして正義を掲げようと、相手がどんな外道であろうと、それが命であることに変わりはない。

 老若男女も善と悪も関係ない。命はただ一つの無二のもの。

 結局、レンも命を計算で秤にかけているも同然なのだ。

 師匠の祖国である大和国には『一殺多生』といって、一つの悪を切り、千の善を救うという考え方があるらしい。

 傲慢だ。神の身でもない人間が、数字で命を扱うなど。

 悪の基準、善の基準は人によって違う。百人の人間にレンの行いを見せ、全員がレンの行いが善であると口にすると言うことはありえないのだ。何割かの人は、非情な殺人鬼、と思うに違いない。

 それでいい。

 誰にどう思われようが、レンは自分が信じた道を往く。

 初代皇帝のように、英雄として祀ってほしいわけではない。

「俺は俺の正しさをお前にわかってもらおうとは思わない。所詮俺の一人よがりに過ぎないんだろうからな。けど、だからこそ間違いを認めたくないんだ。どう考えても、俺は革新派のやり方に首を縦に振ることはできない」

「そう……。じゃあ、仕方ないわね。私には私の、あなたにはあなたの正義がある……それだけのことだもんね」

 ルシアはくるりと背を向け、歩き出した。そして肩越しにこちらを振り返る。

「そのときは敵同士かも知れないけど、また会いましょう、レン」

「……ああ」

 彼女は小さく頷くと、魔具鎧の力を発揮し、高い木の枝に飛び乗る。そのまま何度も跳躍を繰り返して、あっという間にレンたちの視界から消え失せた。

「レン……」

 アンゼリカが不安そうな顔を浮かべている。なにを言いたいかは、すぐにわかった。

「俺の覚悟は決まってる。もしもルシアが敵として立ちはだかるときが来たら、……俺は容赦はしない。敵は斬る。……お前が嫌というなら、アンゼリカ、お前は傭兵をやめて――」

「……やめませんよ。私はレンとずっと一緒にいたいですから。なにがあっても、ずっと、一緒に……」

「ありがとう、アンゼリカ」

 ドラゴンシークと、ルシア・ジノヴィエフ。

 これからきっと、自分たちは彼女とぶつかることになるのだろう。

 そんな予感が、レンの胸の内にあった。



ACT4:闇の魔石



1 元商人の傭兵団長


 ギガ山で起きた一件から数日後。

 無事にガルドに帰還したレンたちに待っていたのは、領政府による取り調べだった。

 ギガ山に布陣していた敵の規模、様子、行動、目的、その他もろもろ。政府を敵に回すのはまずいので正直に答えたが、団長と副団長と事前に話し合ってアンゼリカが竜族と天使族の子供であるということは伏せておいた。

 知られてはまずい。天使族は千四百年前にこの地上を去った種族で、今や生き残りはいないとされている。

 残されたのは『レリクス』と呼ばれる超常の遺物だけ。

 これらのレリクスは天使族の技術の粋が詰まったもので、人類の叡智では到底理解できない仕組みのものも多いという。レリクスに盛り込まれた機械技術、魔術技術に首をかしげる研究者は枚挙にいとまがない。

 アンゼリカはレリクスについてはなにもわからないと言うが、研究者の中には「天使族ならレリクスの仕組みを解明できるかもしれない」と思う者がいるかもしれない。そんな連中にアンゼリカの正体がばれたら大変なことになる。

 おまけに、回復魔術だ。

 アンゼリカには天使族のみが扱えた魔術、回復魔術がある。傷を塞ぎ、折れた骨を繋ぎ直して病を和らげる秘術。この魔術を自在に扱えるようになれば医者も薬師もいらなくなる。

 さらに、竜族との混血である。

 千四百年前生きてきた長寿の秘密を解き明かそうと考える輩は絶対に出てくる。

 つまり、どう転んでもアンゼリカの正体は隠し通さなければならない。

 天使族だとばれたら、竜族との混血児であるとばれたら、調査という名目で一生を研究動物かなにかのように過ごさなければならなくなってしまう。

 なんせ天使族は、その優れた機械技術、魔術技術を兵器という形でこの世に残したからだ。

 空を行く戦列艦、大型エニグマを一撃で叩き斬る剛剣、山を吹き飛ばす大砲、見上げるほどに巨大な騎士鎧、空間を引き裂く剣、数十万人規模の大都市を一撃で灰燼かいじんに帰す火矢――伝説は様々だ。さすがに最後の空間を引き裂く剣や数十万人規模の大都市を一撃で灰燼に帰す火矢というのは天使族のレリクスの凄さを語るために吟遊詩人が脚色した創作だと思うが、それを差し引いても天使族の技術力が高かったのは事実だ。

 今やこの国は戦国乱世の真っただ中である。どの勢力も強力な兵器を手に入れようと開発競争に躍起になっている。天使族の生き残りがいる――とわかれば、血眼になってアンゼリカを捕まえようとしてくるかもしれない。

 それを考えると、不思議なのは革新派と保守派だ。

 ヴァリアント教教団本部には、天使族の生き残りが現れる、という予言が伝わっているという。つまり彼らはアンゼリカがこの大陸の――いや、この国にいるということを知っているのだ。だがアンゼリカを捕まえようとはしていない。少なくとも「天使族を探しています」という風な噂や布告は耳にしていない。

 彼らもアンゼリカの存在は秘密にしておきたいのだろうか。それとも単に、どこにいるかもわからないから変な警戒心を抱かせないよう振る舞っているだけなのか。

 レンは自分なりに色々な可能性を考えてみたが、結局これだといえるような答えは見つからなかった。

 まあ、そういう理由もありレンは領政府に天使族云々の話を隠した。

 語ったのは、盗掘をしていた山賊がいたこと、彼らを率いていたのがドラゴンシークという革新派エドワードが組織した集団であること、それを率いていたのがレンの幼馴染みの竜征者であること。そして地下で竜の埋葬地の壁画を見つけた、ということだった。

 レンとアンゼリカ、そして団長の三人で領城に赴き、摂政マイケルと王宮魔術師オーランドとヴァリアント教領城付き司祭ジョニー、領都軍『四将軍』筆頭将軍バーナードにその話をした。依頼主が領政府である以上、当然の成り行きとして摂政が出てきて、竜の伝承に詳しいアドバイザーである王宮魔術師も現れ、盗掘者討伐を任されるはずだった四将軍筆頭将軍も席につく。

 余談だが、各領の領都軍は四人の将軍によって兵が組織されている。規模は各領で様々であるが、ガルドでは傭兵徴用兵合わせて合計二万の兵がおり、将軍はそれぞれ各五千の兵を請け負うこととなっていた。常備兵に限ればその数は合計四千ほど。四将軍は何事もない平時においては各千の兵を指揮することとなっていた。

 その三人は、竜の埋葬地が記された壁画の話となると顔色を変えた。

 彼らも竜の埋葬地に関する情報とは巻物か持ち運べるサイズの石板、あるいは書物かなにかかと思っていたようで、壁画であるという話を聞いたとたん管理のために兵を送らねばと摂政マイケルが慌ててバーナードに詰め寄り、捲し立てる。バーナードはすぐさま五十の兵をギガ山の麓に送り、臨時の警備態勢を敷くと言い、部下に部隊の編成を言いつけた。

 政府の管理下に置かねばならない歴史ある文献の扱いとなると、口の軽い傭兵や徴用兵を使うわけにはいかない。忠義に篤い常備兵を用いるしかない。だがあまり大規模にしてしまうと革新派にいらぬ警戒を抱かせかねないし、もてなす側の麓の村も疲弊するだろう。無論こちら側から食料を持っていくつもりだが、レンのインフィニウムのように無限にものが入る袋などあるわけがないのでどうしても限界が出てくる。

 そうした諸々を考えた上で出てきた数字が五十なのだろう。

 用兵に詳しくない上、平民に過ぎないレンに口を出す権利はない。大人たちが繰り広げる会議に耳を傾けることが最大限できることだ。

 そんな最中、王宮魔術師のオーランドが「君たちが見た竜の埋葬地に関する情報を教えてくれないか」と口にした。生憎レンは覚えていなかったが、アンゼリカが詳しく壁画の情報を覚えていたようで、紙に壁画に記してあった地図と墓場の位置を書き写した。

 レンが呼ばれたのはその十数日後だった。



 城を囲う第三城壁の城門の前で騎士の一人に領王の封蝋印が押された書類を見せると、騎士はレンたちの通行を許可した。

 今日は珍しい組み合わせで領城に来ている。レンはアンゼリカではなく、団長のロイを連れてきて――いや、ロイに連れられてきていた。

「なんだ、ガラにもなく緊張してるのか?」

「いえ、ちょっと着慣れない服なので……」

 今レンとロイが着ているのは戦闘服の革鎧ではなく仕立ての良い、まるで舞踏会にでも出るかのような身なりのいい服だった。

 先日鎧姿に外套という恰好で来たら、摂政たちにあからさまに嫌な顔をされたのだ。ここはそんな場所じゃないぞ、とでも言いたげな顔を彼らは浮かべた。ここで鎧を着ていいのは常備兵と騎士と将軍だけで、一介の傭兵風情が景観を損ねる真似をするなというような態度を取られた。

 そのことをロイに話したら、「じゃあ俺が服を貸してやろう」と言ってレンに高級そうな服を着せ、自身も身なりの良い商人にしか見えない衣装に身を包んだのだった。襟に毛皮をふんだんに用い、見る者に豪奢な印象を与える服だ。

 第三城壁の門を潜り抜け、常備兵が見回っている中に足を踏み入れた。

「けど団長、なんでこんないい服があるんですか?」

「んん? それはな、俺が昔商人の坊ちゃまだったからだ」

「え……傭兵じゃなくてですか?」

 ロイが懐かしむように目を細める。

「俺はもともと商人の家のせがれだった。祖父さんの代から続くそれなりに大きな店だったんだが……この国を渡り歩いている最中にエニグマに襲われてな、結局俺の祖父さんと親父は死んじまって、生き残った奉公人が面白いように俺から商売を奪い去っていきやがった」

 今朝綺麗に髭を剃り落とした顎をさすりながら、ロイは続けた。

「エニグマに襲われたとき、俺は「ああ死ぬんだな」って思った。二十かそこらの頃かな……今のお前より年上だったが俺は喧嘩すらまともにしてこなかったから、エニグマにビビりまくりだった」

「それで、どうなったんですか?」

「助かったよ。護衛に雇ってた傭兵は死んじまったが、たまたま近くの狩場から戻ってくる最中の傭兵に出くわしてな、そいつらがエニグマを一掃してくれた。……ちなみにだがそのときの傭兵ってのがエレナだ」

「副団長が?」

「ああ。三つ下だから……あの頃はまだ十七、ってところかな……まあそれで黒狼団と出会って、思想に共感してこの仕事を始めたって感じかな。この上等な服は商人時代の頃の名残だ」

「そんな大事なものを俺なんかが着ていいんですか?」

「気にするな。服の方だってタンスで埃をかぶっているよりは着てもらっていた方が幸せだ」

 レンとロイの体格は近い。服は仕立て直さなくても普通に着れる。

 門衛に来訪を告げると、彼らは城の扉をゆっくりと開けた。

 この城は――というより帝城と領城は、防衛拠点というよりは普段の生活の快適さを重視した作りになっている。防衛拠点として城を作ろうとすれば壁は厚くなり日が差さず、場内は狭くなり水回りが非常に不便になるものだが、領城に限ってはそうではない。

 ステンドグラスを背にした謁見の間に、大きな食堂。会議室に四将軍や領王族の各私室。兵舎や畜舎もいちいち小奇麗だ。

「団長の傭兵時代ってどんな感じだったんですか?」

 城の中を歩きながらレンは興味があったのでロイに訊いてみる。

「んー、俺は基本的に斥候だったかな。偵察と小型エニグマの掃討、対人戦が俺の役目だったな。俺の武器は片手剣……ジゼルが今使ってるミニヘッジだったから、大きなエニグマと戦うときは道具を使って援護したり、前に出て挑発したりってのが主な役目だったな」

「意外ですね。副団長と一緒に暴れ回ってるものかと」

「ライカンスロープだからって誰もかれもが戦いに恵まれた才覚を持ってるわけじゃないさ……俺は仲間に恵まれた。団長になれたのも商人時代のノウハウを見込まれて団の運営に貢献できるから、って理由だしな」

 確かに、団長に求められる仕事は戦場や狩場における動きではなく、団という組織を導くある種の商売に関する能力だ。元商人、という立場はもってこいの素質だったのかもしれない。

「まあ本当のところ団長になるのはエレナだったんだけどな。俺の前任者はエレナの親父だったし……けど俺とエレナがくっついて、エレナが子育てもあるから団長は難しいって言って俺にこの仕事を任せたんだ」

「けど十年前は普通に仕事してましたよね」

 十年前、レンを救ったのはロイとエレナ、そしてその二人と隊を組んでいた残りの二人という四人組だった。ちなみにこのうち一人が現在黒狼団広報として活動している。傭兵ギルドに足を運んで仕事を回してもらおうと黒狼団の実績をアピールしたり、思想に共感できるという傭兵を引き抜いたりという仕事だ。

「あのときはロード政府からの依頼だった。レリクスが眠るであろうとされる遺跡近くに『イエティ』と『オーガ』の群れが出たっつってな」

「イエティ……というと北部地方にでる『トロール』の変種でしたっけ」

 レンはその北部地方出身なのでイエティのことは知っていた。実際に戦ったことはまだないが。

「そうだな。基本行動はトロールと変わらんから、独自に持った吹雪のようなブレスにさえ注意すれば怖い相手じゃない。ちなみに、レリクスの方は見つからなかったんだそうだ」

 見つからなかった、というのは方便で、本当はなにか見つけたのかもしれないけどなとロイが笑った。

 そこに、女性の声が差し込まれたのは突然のことだった。


2 埋葬地の在り処


 そうこうしているうちに、呼びつけられた魔術研究室近くに辿り着いた。――と、

「レン様! そこにいらっしゃるのはレン様でしょう!」

 女性の声に振り返ると、瀟洒な衣装に身を包んだ女性が小走りにこちらに近づいてきた。金髪碧眼の女性で、見覚えがある――というより、

「殿下……?」

 リーシア・ゲルムス。十九歳。環クレセント海連合帝国第一皇女にして、現在保守派の総司令を務める、僭帝エドワードを討ち取らんとする次期皇帝。そして皇帝が宗教の頂点であるが故、次期教皇でもある。

「ああ、こんなところで出会うなんて運命的ですわね。わたくしはとんだ幸運を持っていたようです」

 十字架を切り、レンの手を取る。己の胸元に持っていくリーシアに、レン自身もロイもただただ呆然とするしかない。

「お連れの方はお父様……というわけではなさそうですね」

 ライカンスロープの壮年と人間族の少年。親子、と見るには少し難しい。

「ええ、私は黒狼団団長、ロイ・グロウリィ。血の繋がりはありませんが、まあ団は家族のようなものですし、レンの父親みたいなものです」

「ご丁寧に。わたくしはリーシア・ゲルムス。気軽にリーシアとでもお呼びください」

「そんな……次期皇帝となるお方にそのようなことは……」

 もごもごと言葉を探すロイにはもう興味がないのか、リーシアはレンに目を向ける。

「レン様のおかげで、わたくしは生きる気力を得ることが出来ました。そのことには感謝してもしきれません」

 ぎゅう、と手が胸に埋まる。グレースほどではないがアンゼリカよりも大きい乳房の感触にレンは戸惑うが、手を無理矢理振り払うという真似もできない。以前平手ではたく、という暴挙に出てしまったが、さすがに平時に、しかも皇族相手にそんなことはしない。あんなことがばれれば極刑は免れないだろう。

「レン様の私立傭兵はまつりごとには関与なさらない組織だそうですね?」

「え、ああ……まぁ、そうですね」

「残念です。わたくしの傍にレン様を置いておきたいのですが……」

「俺より腕の立つ兵士はそれこそたくさんいます。殿下を守る役目なら、他にも適任がいるはずです」

「そうでしょうか……。わたくしはレン様に守っていただきたいのですが……」

「殿下! 殿下はいずこ!」

 遠くから大声がして、リーシアがびくりと肩を震わせる。

「うるさいのが来てしまいましたね……政務の間の休憩だというのに」

 要は仕事をさぼって抜け出してきたということか。

「お戻りになられた方がいいんじゃないですか。俺なんかと話しているより、政務に尽くされた方が国のためです」

「レン様がそうおっしゃるなら……」

「ああ! 殿下、こんなところに」

 摂政のマイケルだ。小太りの男性で、歳は五十前半ほど。禿げ上がった頭を汗もかいていないのに常に水晶玉のように布で拭っている。そのおかげで彼の禿頭は光を照り返すほどに輝いている。

「さ、お仕事に戻りますぞ。目を通してもらわねばならない書類が山ほどあるのです」

「わかりましたわよ。今行きます。――ではレン様、わたくしはこれにて。失礼いたします」

 再び十字架を切って会釈して踵を返したリーシアに、摂政マイケルが甲斐甲斐しく寄り添った。あの様子では次期皇帝と摂政というより、孫と祖父のようだ。

「お前、殿下の頬をひっぱたいたんだってな」

「なんで知ってるんですか」

 その話は部隊内の秘匿事項としていたはずだが。ロイにも、エレナにも話していない。

「酔っぱらったジゼルから聞いたとエレナが言っていてな」

 ――あの犬っころ。

 決して口には出さない悪罵を胸の内に吐き出し、レンは頭をかく。

「やっぱまずかったですか?」

「本人があの様子じゃ罰するってことにはならんだろうが……貴族の全員があの子みたいに真っ直ぐってわけじゃない。今後気を付けろ」

「……はい、すみません」

 気持ちを切り替え、レンは魔術研究室のドアを三回ノックした。奥から「どうぞ」と声がかかり、レンとロイはドアを開いて内部に入る。

 室内は散らかっていて、とても領城の一部とは思えなかったが、王宮魔術師の私室などだいたいこんなものだということを、レンは経験則で知っていた。他人から見たら散らかっているように見える部屋でも、魔術師本人にとっては理路整然と並べられた計画されてなるべくしてなった空間なのだと、レンのよく知る魔女グレースは言っていた。

 そんな散らかった……いや、計画された散らかり具合の部屋には、二人の男。

 王宮魔術師オーランドと、ヴァリアント教領城付き司祭ジョニー。

「ああ、よく来てくれた。ありがとう」

 堅く口を結んだジョニーに変わり、オーランドが朗らかな笑みを浮かべる。オーランドは三十半ばほどの男性で、小難しいことを考えて常に眉間にしわを寄せているような印象の魔術師にしては珍しく、人当たりのよさそうな笑顔を絶やさない人間族だ。

 元々はマグノリア領領都付き技術研究所に所属していた人物で、機械技術と魔術技術の融合科学の粋である魔動機を専門に学んでいた者である。人事異動があって三年前にこの城にやってきた。現在でも王宮魔術師として領王に魔術的アドバイスを施す傍ら、魔巧工場で魔動機の研究開発を行っているらしい。

「適当なところにかけてくれ」

 オーランドに促され、レンとロイは言われた通り適当に空いていた席に座った。オーランドが奥に引っ込んで、しばらくするとグラスと水差しを持ってきた。

「私が調合した茶だ。滋養強壮に効果がある。飲んでいくといい」

 水差しから濃い茶色の液体がグラスに注がれた。薬臭い香りが僅かにしたが、見れば、ジョニーも同じものを飲んでいる。飲んでも大丈夫なものなのだろう。

「では……」

 飲まないのも失礼だ。レンとロイは揃って茶に口をつける。

 苦い。

 苦いが、不思議と不味さは感じない。不思議な味わいで、鼻から抜けていく香りが僅かに薬っぽいことを除けば嫌というほどのものでもなかった。

 レンたちが一息ついたのを見計らい、オーランドはボードを引っ張ってきてそこに紙を張り付けた。

「さて、アンゼリカさんが記憶してきた竜の埋葬地に関する情報ですが、これはほぼ間違いなく実在の竜の埋葬地で間違いがないという結論が出ました」

「……知り合いがマグノリアの教団書庫と魔術師大学の蔵書を当たった。その双方に記されていた内容がつい昨日届けられ、この壁画の写しと照らし合わせた」

 ジョニーが続ける。四十半ばほどのこの男は、声が重く、喋ると場が息苦しくなる。

「結論は、オーランドが言った通りだ。ギガ山にあった壁画は竜の埋葬地を記したもので間違いない。そしてそれは嘘偽りのない真実のものである……と確信するに足るものだ」

「問題はドラゴンシークだね。彼らは竜を支配下に置こうと考えているようだけど……そう考えると近いうちに竜の埋葬地でなにか行動を起こすつもりだろう」

 オーランドがため息をついて、

「恐ろしいのは革新派に恭順しているローゼス、トリストルド、アスティリアにも竜の埋葬地があることだ。つまり実質、三体の竜がやつらの支配下にあると考えていい。私は今朝がた保守派の東クレセント各領と中立のマグノリアに注意を促す書簡を送ったが、どれほどの効果があるかはわからない」

「ガルディックの埋葬地はどういう状況ですか?」

 ロイが訊くと、ジョニーがぴしゃりと言い放つ。

「君たちは知らんでよろしい。精強な軍を派遣している。滅多なことはないだろう」

「そうですか」

 自分たちが強い、という自惚れはロイにはないだろう。実際問題軍と傭兵の強さを同列に語ることはできない。単一の強さでいえば傭兵に軍配が上がるだろうが、集団の強さとなると軍の方が上だ。それをロイもわかっている。だがジョニーの態度に嫌なものを感じているのは確かなようで、ロイはそっけない口ぶりになっていた。

「埋葬地はギガ山近くの『群島湖ぐんとうこ』だそうですね」

 レンが言うと、オーランドが頷いた。

「うん。周辺の村々とあのあたりを統治している城伯にも協力してもらって軍を受け入れてもらっている。警備は万全だよ。軍は二百の正規軍と四百の民兵で組織されてる。計六百だ。そう簡単に打ち破ることはできない。革新派――ドラゴンシークがこの軍勢を打ち破るために大部隊を送ってくる可能性もあるけど、そんな大人数で移動すれば斥候が察知する。城伯も無能じゃない。周囲を警戒する部隊も多数配置してる」

「なるほど……俺たちの出番はなさそうですね」

「いざとなれば働いてもらうよ。実際、君たち傭兵がいなければ世界は成り立たない。軍は確かに強いけど、エニグマとの戦いでは大きな集団という強さより個人の強さが重視されるからね。悔しいけど、対エニグマにおいて傭兵ほど強い集団はない」

 傭兵を管理するのは政府ではなく、大陸に広大なネットワークを持つ傭兵ギルドだ。傭兵は政府とは別系統で動く。だが政府に雇われて動く――ということもある。基本はエニグマ狩りや山賊退治だったりだが、依頼があり報酬金が用意されていれば戦場にも赴く。

 だが傭兵は個人の強さこそあるが、軍のように何百人、何千人という規模で動くことに慣れていない。軍というのは集団運用されてなんぼだ。どれだけ強い戦士がいようと、それが一人二人ではどうすることもできない。軍の運用は数だ。数に勝る要素はない。極端な話、千の軍勢には三千をぶつければ勝てるし、五千の軍勢には一万をぶつければ打ち砕ける。

 そんな大人数の運用の中に、どれだけ優れていようとたった一人の傭兵が入ったところで出来ることは限られるのだ。

 だが逆に、対エニグマ戦においては軍の集団運用は向かない。集団で動くに適した場所にエニグマが現れるケースはほとんどないからだ。入り組んだ森、布陣の難しい山岳、大人数で動くには困難な洞窟。エニグマが現れるのは大体少人数で動くことが適した場所なのだ。

 それに、軍の大部隊をエニグマのいる狩場に派遣しようとすれば金も時間もかかる。行軍距離が伸びれば伸びるほど補給線も長くなり、運用コストが跳ね上がるのだ。

 軍を使うコストと傭兵に払う報酬を吟味すると、後者の方が安く済むのである。

 帝国人は金にがめついとはいえ、安く済むならそうしたいと思うのは、この国の人間に限った話ではないだろう。

「では、話は以上です」

 オーランドが言うと、ジョニーはさっさと席を立ち、部屋を出ていった。

「不愛想なおっさん……」

 レンが小声で言うと、聞こえていたのかロイが頭を小突いてきた。ライカンスロープは耳も鼻もいい。小声だったとはいえ、ライカンスロープであるロイには当たり前のように聞こえたのだろう。

「馬鹿、あれでも教団の司祭だぞ。不敬を働けば処分される」

「あれ、という表現もどうかと思いますがね」

 聞こえていたのか、オーランドが苦笑した。そして、あの薬臭い茶をなんでもないように飲み干す。どういう味覚をしているのだろうか。

「じゃあ俺たちは帰りますか……行くぞ、レン」

「はい。じゃあ、ありがとうございました、オーランドさん」

 部屋を出て、扉を閉める。オーランドは最後まで朗らかな笑みを浮かべていた。


3 喧騒を破って


「お気をつけて」

 城門の衛兵に言われ、レンたち四人、クローゼル部隊は馬車の荷台に収まった。

 樽や木箱が乱雑に積まれた荷台は狭く、四人も入ると少し窮屈だったが延々と歩き回ることの疲れを考えれば、楽ができるというだけで御の字だった。

「隊商の護衛ねえ……張り合いないなぁ」

 突っかかる、という理由で背中のフックから外した大剣ギガヘッジを愛おしげに抱きしめたジゼルがつまらなさそうに口を尖らせた。

「そう言うな。ギガざんふもとは緊張状態にある。あの山の地下に壁画が見つかって、しかもいつドラゴンシークが来るかわからない。隊商が慎重になるのは無理もない」

 ソフィアの濃紺の魔石を布で拭いながらグレースが言った。

 先日の報告を受け数日後。黒狼団に依頼が来た。

 内容は隊商の護衛というありがちなもの。

 本音を言えばエニグマ狩りをしたかったのだが、グレースが「しばらく休みを取っていたから楽な仕事で肩慣らしをしたい」と言ったので、この仕事を受けることにした。ジゼルはやや不満げだったが、レンが「受けるぞ」と一言口にすると、結局――渋々ながらも――隊長の決定に従った。

 グレースの意見はもっともだ。十日以上休みを取っていて、いきなりエニグマ狩りでは少しハードだ。四人で動くのも久しぶりなのだし、呼吸を合わせる意味でも軽い依頼を受けるのが良いとレンも思った。

 ちなみに今回同道する隊商は、以前ギガ山に向かった隊と全く同じ隊だ。これは示し合わせたのではなく単純な偶然である。

「でもさぁ」

 ギガヘッジの腹を撫でながら、ジゼルが口を開く。

「竜を従えることなんて可能なの?」

 その疑問はもっともだ。竜は基本中立である。初代皇帝時代の第四次竜大戦で竜族が人と手を組んだのは、竜族を無理矢理従わせる虚竜を倒すため、という共通の目的があったからである。たまたま利害関係が一致し、竜神アルスは竜征者ウィリアムと絆を結んだ。

 博識なグレースがジゼルの問いを回答する。

「竜は竜征者とのみ絆を結べる。その行為は『魂の同調』だ。両者の魂の波長を合わせ、通常では考えられないような連携を可能にする。ジゼル、『念話水晶』を知っているか?」

「あれでしょ? あの、領王たちが議会を行うために使う、遠距離でもリアルタイムで話したり映像を見せたりすることができるっていう魔具……だっけ」

「そうだ。竜と竜征者は絆を結ぶことで、魔具なしでそんな行為を実行できる。正確には念話をしているのではなく、魂を結ぶことで互いの考えがシンクロする、というものらしいがな」

 ちらりとグレースがレンとアンゼリカを見た。

 それもそうだ。

 レンが絆を結んでいるあいては、アンゼリカなのだから。

「だからって四六時中考えが繋がってるわけじゃないぞ。魂を集中するというか……とにかくなにかを意識してなきゃ発動しない」

「私は常に送っているつもりなんですけどね。ただレンは頑固で私の意思を受け入れてくれないんですよね。なんでかな。こんなに可愛い子が恋慕してるっていうのに」

 それを自分で言うのか、とレンは呆れた。

「その竜との絆を結ぶ、っていう行為は、一人の竜征者につき何体の竜と可能なの?」

 ジゼルが訊ねる。その質問ももっともだ。アンゼリカが答えた。

「一体ですね。竜征者とはいえ複数の竜と魂をリンクするのは難しいです。無理に複数体と絆を結ぼうとすれば、最悪自身の魂を竜の魂に侵されて、自分をなくします」

「じゃあさ、ドラゴンシークが従えられる竜も一体のみってことじゃない?」

 確かにそうだろう。だが、今回のケースはそうはいかない。グレースが座った木箱の上で足を組み替える。

「そうは問屋が卸さないだろうな。やつらが呼び起こそうとしているのは既に死んだ存在。竜と絆を結ぶのではない。屍霊魔術で呼び起こすんだ。つまりは『アンデッド』とか『スケルトン』を使役するのと変わらない。術者の力量次第では自由に死体を、何体でも操れる」

「なるほどねえ」

「さすがに屍霊魔術にも限界はあるだろうから、邪竜とはいえ最盛期の力を取り戻させることは難しいだろうと私は思う。だが脅威には違いない。竜族はエニグマとは比べ物にならない存在だからな……竜征者でもない限り倒すのは相当骨が折れるだろう。……だがな、」

 グレースの口が重くなる。

「なんだよ」

 レンが促すと、魔女は「確信があるわけではないが」と前置きしてから言った。

「邪竜は虚竜から下賜された特別な魔石を宿している……という話がある」

「なんですか、それ」

「私も詳しくは知らん。だが様々な伝承にそれらしい記述があるんだ。色は真っ黒で、禍々しいものらしい」

「黒い魔石……聞いたことないですね」

 魔石には様々な色がある。赤や黄、青や緑、紫や橙。色の違いは属性効果を高める違いがあるらしい。赤は炎属性を、青は氷属性を、紫は雷属性を、橙や茶色は土属性を、緑色は風属性の効果を高める。グレースは三種適性のため複数の魔術を扱うので、汎用性のある濃紺色の魔石を使っている。

 魔石は基本的にくすんだ色のものよりも澄んだ色のものの方が魔術媒体としての価値が高いとされる。そのため、これまでほとんど使い道のないとされていたくすんだ色のものは主に魔巧の動力源に用いられるのが当たり前になった。

 そんな千差万別の魔石の中にも存在しない色がある。それが黒。そして白だ。

「所詮は伝承だ。黒いものも白いものも、存在すると言われているらしいが……どうせ吟遊詩人が話を盛り上げるために創作したデマだろう」

 グレースがそう話を切り上げた。同時に、馬車が止まる。

 荷台のくりぬかれた窓から外を見ると、以前休憩に使った広場が目の前に広がっていた。

 休憩だなと思い、レンはインフィニウムになんの食材があったかなと考えを巡らせた。



 ギガ山麓の村で数日取引するという隊商に従い、レンたちも宿屋を借りることにした。宿代は隊商が負担する決まりなので、レンたちに特にこれといった出費はない。

 二階建ての大きな宿屋の一階ホールの一角に席を取り、レンたち四人は丸いテーブルを囲んで食事を摂っていた。

「乾杯!」

 ジゼルがジョッキになみなみと注がれた麦酒を高々と掲げる。綿毛のような泡がテーブルに散ったが、誰も気にしない。レンとグレースは控えめにジョッキを持ち上げ、アンゼリカは豪快にジゼルとジョッキを打ち付けた。

 白い泡の下に広がる黄金色の液体を口の中に流し込む。

 苦い。

 甘口の蜂蜜酒が好きなレンにとってはあまり好みになれる味ではない。

 ジゼルは息もつかずに一気にジョッキの中身を呷ると、カウンターの向こうにいる主人に向かって「おかわり!」と声を上げた。

 その間にレンは料理に取り掛かった。

 草食エニグマ『レプタノス』の肉のステーキの、同じくエニグマ『マッシュ』のホワイトソースがけ。

 レプタノスは体は巨大で、全長はサイクロプスの身長ほどもある。大人五、六人分が並んだくらいの全長を誇るのだ。しかし気性は穏やかで、こちらから仕掛けない限り攻撃をしてくるということは滅多にない。長い首と丸太のような尻尾、背中に背負った硬い甲羅が特徴的であり、新人傭兵が最初に挑むエニグマでもある。

 そしてマッシュは、一言で言ってしまえば歩くキノコである。大男よりも大きな上背だが特別巨大というほどではなく、種別としては小型に分類されるエニグマだ。短い手足を持ち動きも鈍いのでこいつも新人が最初に挑む相手だ。だが短い腕とは裏腹に、体重の乗ったパンチは強烈で当たり所が悪いと骨が折れることもある。

 レプタノスの肉とマッシュは、道中でレンたちが狩ってきたものである。ギガ山に入る手前でこの二種のエニグマが通せんぼしていたため、狩ったのである。その際大量に採取した肉を宿屋に無料で渡し、その見返りとしてこれらの料理を提供してもらったのだ。

 分厚い肉にナイフを挿し込むと、まだ赤い身から肉汁が溢れ、鉄皿に流れるとホワイトソースと一緒にじゅうじゅうと音を立てた。切り取った肉に一口大に切り刻まれたマッシュの軸を添え、ホワイトソースをたっぷり絡めて口に運ぶ。

 美味い。

 レプタノスは草食だけあって肉に癖や臭みがなく、食べやすい。弾力もあり、噛み応えも抜群。まさに肉を食っている、という感じを楽しめる。加えてホワイトソースだ。塩を振っただけでも充分美味い肉に、手間暇かけて作り出したホワイトソースが絡まると、味わいはさらに増す。あの化けキノコのぷるぷるした軸も味わいの演出を担っていた。

 大きく切り分けた肉に豪快にかぶりつくレンとは裏腹に、グレースは丁寧に一口サイズに肉を切り分け優雅に食べている。幼い頃はエルフの里にいたという話だから、その頃にしみついた躾けがまだ生きているのかもしれない。

「おかわり!」

 その間に、ジゼルは何杯目になるかわからないほど麦酒を注文していた。給仕の女性に「チップよ」と言って銅貨を握らせ、上機嫌で酒を飲む。顔は赤く、既に出来上がっていた。アンゼリカもレンも麦酒は好みではないので一杯で満足だが、ジゼルは大量に、グレースも三杯目に突入している。

 二人とも顔が赤らんでいた。

「それで」

 料理を平らげ、酒の付け合わせにと運ばれてきたチーズを齧りながらグレースがレンに肩に腕を回す。豊満な胸がぐにゅ、と体に当たり、心臓がどきりと跳ね上がった。普段、グレースはこんな真似はしない。貞操観念が固い方ではないが、それでもみだりに他人に体をくっつけたりはしない。明らかに酔っている。

「レン、アンゼリカとどこまでいったんだ?」

 そのアンゼリカはジゼルが酔っぱらっていることをいいことに好き勝手尻尾を弄っている。

「なんだよ、急に……」

「ここしばらく休んでただろう? その間に、少しは進展があったのかと思ってな」

「なんにもねえよ」

「つまらん男だな。もう少し欲はないのか。それともほかに気になる女がいるのか……ん、ひょっとして私か?」

「そんなわけないだろ」

「そうはっきり言われると少し傷つくな。私はお前さえ良ければいつでも受け入れたんだが」

 その一言は冗談にしては心臓に悪かった。グレースは間違いなく美人の部類に入る。ダークエルフは青い肌や褐色の肌という、雪のように白い肌を持つハイエルフとは異なる色を持つからハイエルフからは迫害される。だがレンにそんな意思はないし、グレースは頼りになる仲間であり同じ隊の家族だ。

 青い肌だからといって、レンがグレースに悪い感情を抱くということはない。

 ただ、だからといって異性として見る、ということもない。魅力は感じるが、自分のものにしたいと思うほど強い感情はなかった。好意は確かにあるが、それは友情とか家族愛に近いもので、到底恋愛感情といえるものではなかった。

「私じゃないなら……じゃあ、ジゼルか?」

「論外だろ。あれは妹みたいなもんだ」

 ジゼルはテーブルに突っ伏して爆睡していた。ぐごー、といびきをかいている。尻尾が独立した意思を持つように揺れていた。可愛らしいとは思うが、やはりそれは恋愛感情とは程遠い感覚だ。

「ならやっぱりアンゼリカか? いや、まさかリーシア殿下とかいうんじゃないだろうな」

「俺が皇族と結びつくわけないだろ。それに仮にそんな機会があってもごめんだ。飯を食うだけでああだこうだと口出しされるなんてたまったもんじゃない」

「まあそうだな。……ということは、アンゼリカだな」

「どうだろうな」

 ちらり、とアンゼリカに目を向けると、チーズを頬張る彼女と視線が合った。なんとなく気まずくて、目線を逸らす。

「その態度はあからさまだな」

「なにがだよ」

「自覚がないならいい。そのうち自分で気づくさ」

 グレースが麦酒の残りを嚥下し、微笑んだ。その仕草は弟を見守る姉のようだった。

 レンは蜂蜜を混ぜたミルクを飲み、しばらく宿の喧騒を聞いていた。

 夜も遅いというのに、酔客たちは一向に眠る気配を見せない。小さな村なのに、この宿屋だけがまるで大都会の一部であるかのように錯覚させられる。

 喧騒が打ち破られたのは、突然だった。

「誰かっ! 誰かいないか! ここに傭兵が来ていると聞いた! 力を貸してくれ!」

 何事だ、と思い、レンは席を立つ。見ると、男は濃紺のギャンベゾンに鎧姿の、保守派の兵士だった。体のあちこちに傷を負い、頭からも出血している。ブーツは泥に汚れ、草花の残骸が纏わりついていた。道も選ばずひたすらに走ってきたのだろう。

「おい、なにがあった」

 レンが訊くと、男は早口で答える。

「ど、ドラゴンシークだ! 埋葬地にドラゴンシークが現れた!」

「数は?」

「そ、総数は五十程度だ」

「五十?」

 確か、埋葬地の守りについていた兵士は六百という話だ。十二倍の優劣がある。それなのになぜ優勢に立つ保守派がこんな状態で転がり込んできたというのだ。

「どういう状況なんだ」

「召喚エニグマや、召喚術で呼び出された魔巧に圧倒されている……おまけに」

 男が、衝撃の一言を発した。

「竜が、蘇った」


4 虚竜化


 酔い潰れたジゼルは戦力外として、レンは部隊を二手に分けることにした。一つはジゼルとグレース。彼女らには隊商の護衛という本来の仕事を任せた。そしてもう一つ、レンとアンゼリカは村で馬を借り、群島湖に急いだ。

 クレセント帝国の馬は速度こそあまり出ないものの、重いものを背負って長時間走り続けるという持久力に恵まれている。馬はレンとアンゼリカの二人をタンデムシートに乗せても平然と走る。ここから群島湖へは街道を行けばいい、と駆け込んできた兵士が言ったので、その通りにした。

「竜が蘇ったというのは事実なんでしょうか……」

「多分、事実だ。じゃなきゃたった五十の兵士に六百の軍団が押されるわけがない。魔巧や召喚エニグマのおかげもあるんだろうが……一番でかいのは竜だ」

「どうするんですか?」

「倒すさ。それが竜征者の使命だ」

 とは言ったものの、どうするべきかレンにはわからなかった。なんせ実物の竜と出会ったのは十年前。しかもあれは戦ったというより一方的に蹂躙されたようなものだ。立ち回りも有効な攻撃手段もわからない。

 だが、こちらには武器がある。虚竜に呪われた際に手に入れた力がある。

 どうにかなる――いや、する。

 いずれは虚竜と剣を交えることになるのだ。邪竜程度で尻込みしていては話にならない。

 遠くから剣戟の音が聞こえる。ときどき空に響き渡るのは、魔力砲の砲声だろうか。レンは馬から降りると傍の木に括り付け、走り出した。

 群島湖は、その名の通り湖に大小様々な島が連なる地域だ。橋が渡されていて、湖を泳ぐ必要はないようだ。

「『汝、迅雷の加護あれ』」

 レンは自身の無銘とアンゼリカのユドスに雷属性のエンチャントを施し、戦場と化した群島湖に飛び込んだ。赤を基調とした鎧姿の革新派の兵士が操る魔巧――アラン・リザードが搭載された二門のノーマルカノンに魔力を充填していた。

 踏み込み、背後からアラン・リザードの足を斬る。雷属性のエンチャントで超高振動超切削を行う刀身は抵抗なくアラン・リザードの金属製の足を断った。

「な、なんだ!」

 充填された魔力砲が放たれたが、それは保守派の軍勢には向かず、天に向かって吸い込まれた。足を斬り落とされたことでアラン・リザードは体勢を崩し、倒れていた。

「お前は――」

 倒れたアラン・リザードから放り出された操縦者がレンを見上げる。なにが起きたかわからない――という顔に柄で一撃。側頭部を打たれた兵士は昏倒し、その場に倒れ伏した。

 革新派の兵士全員が悪人とは限らない。純粋に、国の未来を思って従う者もいるだろう。さすがにそうした者を容赦なく悪と断じて斬り捨てることは、レンには出来なかった。

 小高い丘に登り、戦場を眺め、敵の様子を検める。

 数は、確かに五十といったところで、大半が山賊のような荒くれ者だった。ドラゴンシークもしくは革新派の兵士は十名前後といったところだ。うち五人が軽魔巧を、残る五人が召喚魔術師という編成だ。戦場のあちこちで巨人――サイクロプスが暴れ回っているが、その数は五体ほどで、逆算すると魔術師は五名いるだろう、という考えに至る。

 もっとも一人で一体を召喚しているとは限らない。一人で二体、三体と召喚する使い手もいると聞く。

 数の不利を召喚エニグマと軽魔巧で補うドラゴンシークは、六百の軍勢を前に果敢に戦っていた。荒事と殺しに慣れた山賊はそれまで畑の様子を見て家畜の太り具合を気にするだけだった民兵を圧倒し、平然と殺していく。だが、それだけの理由ではないだろう。山賊は身体能力が並ではない。あれはなんらかの魔具によってもたらされた恩恵だろう。

 ドラゴンシークは恐らく少人数で、隊商かなにかに扮してこちらに渡ってきた。そして現地や或いは道中で山賊を雇い入れ、商品ということで持ち運んできた魔具装備を与えた、といった感じか。

 陣形を組み、軽魔巧、召喚エニグマ、山賊に対応している保守派の頭上に影が落ちた。

「竜だ……」

 レンは我知らずぼんやりと呟いていた。青い表皮の、鱗らしい鱗を持たない若干変わった竜である。体の大きさは巨体を誇るレプタノスの二倍はある。そいつは眼下の兵士に向かってブレスを吐いた。

 それは水に見えた。しかしただの水ではない。体内で高圧縮されて放たれたそれは剣よりも鋭く、矢よりも速く流動していた。

 圧縮された水のブレスを食らった兵士たちの体は、冗談のように鎧ごと肉体を断たれ、下半身を失った胴体が宙に舞う。二十名はいた陣形が、その一撃で脆くも崩れ去った。

 空を舞う邪竜の背には、二人の影。そいつらと目が合った。

 邪竜はぐるりと身を翻すと、レンとアンゼリカがいる丘に降り立つ。はばたきで巻き起こる暴風が砂煙を上げ、レンは腕で目を庇った。

「ほう、帝都で見た顔だな」

 竜の背から飛び降りる二人。一人は鎧姿の大男で手にはハルバートを握っている。確か、

「ドナルド・ホーダイ……と言ったか」

「覚えていたようだな。いかにも、俺様はドナルド・ホーダイ。海運公社幹部にして、ドラゴンシーク基幹メンバーの一人だ。この隊を率いる者でもある。といっても所詮は寄せ集め。こちらはもう目的を果たしたようなものだし、好き勝手に暴れさせているがな」

「目的ってのは邪竜の復活か」

「そうだ。『水竜アクアヴィット』。三百八十年前、この地で暴虐の限りを尽くした邪竜だ」

 アクアヴィットが濁った目でレンを見る。口を開け、咆哮を上げた。竜は人間のように話すことが可能だというが、死んでいる間に発声器官がやられたのか、それとも元から話す気もないのかアクアヴィットはそれきり黙り込む。

 そのアクアヴィットの頭に触れ、まるでペットの猫を撫でるかのような手つきで竜の皮膚にぺたぺたと触る、ローブ姿の人物。

 胸の膨らみと腰の括れでわかる。女性だ。手には大杖。あいつが竜を蘇らせた屍霊魔術師だろうか。

 女魔術師はフードをするりと背中に滑り落とした。

 そして、レンは驚きに目を瞠る。

 その髪の色は赤色で、肌は透き通るように白く、耳が長い。

「師匠……?」

 レンの師匠、シズナ・カンナギも、赤髪に白い肌のハイエルフだった。あの女は、髪の色や肌の色だけではなく、顔立ちもシズナに似ていた。歳は四十に近いくらいかそこらだろう。

「誰のことを言っているのかしら。私はオリヴィエ。多分、あなたたちが想像している通りの存在よ」

「屍霊魔術師ですか……」

「そう構えないで。私は戦う気なんてない。もっともドナルドとこの子はわからないけど」

「そういうわけだ、黒狼団の諸君。俺様の相手はどっちがしてくれるんだ?」

 ドナルドがハルバートを振り回す。兜の向こうでは血に飢えた獣のような表情になっているのだろう。

「私が行きます。レンは、竜を……決して無茶はしないでください」

 アンゼリカがユドスを構えると、ドナルドは顎をしゃくってその方向に走り出した。ここで戦っては竜の攻撃に巻き込まれるからだろう。しかしオリヴィエと名乗った女魔術師は動こうとしなかった。

「巻き込まれても知らねえぞ」

「自分の身くらい自分で守れるわ。私は竜征者と竜がどう戦うか興味があるだけ。手は出さないわ」

 本当かどうかはわからないが、少なくとも今は攻撃を仕掛けてくる気配はない。

 アクアヴィットが一歩、地を踏みしめた。鱗や甲殻がないという特徴はあるものの、外見は通常の竜と変わらない。二足歩行で一対の翼を有する存在。

 レンはアクアヴィット目掛け、走り出した。

 青い水竜はレンの動きを見るや否や、後方に大きく跳躍した。翼を羽ばたかせ、後方に飛び退きながら口から水の玉を連射する。

 水の玉を回避しながらレンは前へ進んでいく。着弾した水の玉は草や土を大きく抉り吹き飛ばした。たかが水のくせして、その破壊力は間違いなく『エクスプロージョン』に匹敵していた。中級破壊魔術並みの威力を持つ水弾を、アクアヴィットはこれでもかと吐き出す。

 一撃でも喰らえばただでは済まないそれを、しかしレンは臆することなく前進しながら躱していった。次々降り注ぐ人の頭ほどある水の玉を姿勢を低くして回避していく。ほとんど滑るような疾走に、我ながらよく転ばないものだと思った。

 下段から掬い上げるような半円軌道で無銘の黒い刀身が滑る。紫紺の雷撃が魔力の供給を得て輝きを増す。雷の魔剣と化した一振りが、アクアヴィットの下顎を深く斬り裂く――かのように思われた。

 だが剣が触れた直後、アクアヴィットの体を黒いオーラのような膜が包み込んだ。刀身はそれに阻まれ、しかしレンは膂力をこめ振り上げる。長年の訓練による技の冴えと、竜征者の人並み外れた怪力が意地でも竜に傷を負わせる。

 表面を掠っただけだった。薄い皮を一枚裂いた程度で、血も玉が浮かぶ程度だ。

 今のはなんだ……。まるで魔具の結界のような力が働いたが。

 まさかあれが、移動中にグレースの言っていた『虚竜から下賜された特別な魔石』の力なのだろうか。

 考えているうちに、アクアヴィットが首をすぼめ、筋肉のバネを用いて一気に頭を前に突き出した。頭突きだ、と理解すると同時にレンは後ろに下がって距離を置く。邪竜の頭突きは空を切っただけで終わったが、攻撃はそれで終わりではなかった。

 ぐるん、と巨体が回り、巨木のような尾が唸りを上げる。

 咄嗟に地面に突っ伏して、振り回された尾の一撃を躱した。ぞっとするほどの風圧が頭上を掠める。あんなものをまともに食らえば背骨が圧し折れてもおかしくない。

 即座に起き上がり、レンは無防備な足に向かって斬り込んだ。が、しかしやはりあの黒い膜に攻撃を阻まれる。届いたのはごく僅か、爪の先程度の薄い傷を与えた程度だ。

 小さな傷でも積もれば大きな獣をも倒すことができる――とはいえそれは言葉のあやに過ぎない。この程度の傷ではどんなに積み重なっても倒すには至らないだろう。

 決定打となる一手を打たなければ、こいつを倒すことはできない。

 竜に届くほどの一手。ある。だがそれは、危険な賭けでもあった。

「悪い、アンゼリカ」

 一言、聞こえていないだろうが謝る。そしてレンは左腕に、左目に意識を集中した。

 黒い雷撃が迸り、篭手の内側で虚竜の腕が蠢いたのがわかった。そして異変が起きる。

 レンの体を、黒い甲殻が覆いだした。革鎧の内側の布鎧の中、生の肉体が黒い甲殻に覆われてその身を名実共に最強の竜デミウルゴスに近づける。

 甲殻の隆起は左腕に始まり、全身を覆い尽くす。革篭手の中の右腕の指先が、顔の隅々までが黒い竜の甲殻に覆われると、それはもう一目ではレンだとわからない“怪物”と化した。両目は金色に輝き、黒目がスリット状になる。

「ほう……」

 オリヴィエが感嘆を漏らした。本気になった竜征者を見ることができるのは滅多にない。もしかしたらルシアの本気を見たことがあるのかもしれないが、それにしたって珍しいことに変わりはない。

 なんせ、『虚竜化』は諸刃の剣だからだ。使い過ぎれば竜の侵食が進み、腕の黒い部分が増えたり目が常に竜の瞳のような状態になったりする。ルシアのように。

 額の左右から黒い角が伸び、腰のあたりからごつごつした尾が垂れ、外套の裾をめくり上げた。

 その姿は竜というより、大和国に住まうという『闇の眷属』鬼に近い。

 刀を握る竜の鬼は、真正面から突進を繰り出すアクアヴィットと激突した。

 レンがアクアヴィットの頭を抱え込むような体勢でそのまま地面を擦過する。並の人間なら容易く轢き潰されていただろう。だがレンは耐えた。ブーツの底で土が抉れ、邪竜の巨体から繰り出される進撃がたった一人の人間に阻まれる。

 動きが止まると、レンがアクアヴィットの下顎に膝蹴りを打ち込んだ。その肉と肉が打ち合う音は魔力砲の砲声にも匹敵し、アクアヴィットの頭部が大きく仰け反る。

 折れた牙が舞い、口の中を切ったのか血が舞う。

 だらん、と垂れさがったアクアヴィットの頭を、レンは無銘の柄頭をハンマーに見立て、思い切り叩きつけた。

 ドズン、と鈍い轟音が響き渡り、アクアヴィットの頭が地面に埋まる。衝撃で片目がひしゃげ、口からはとめどなく血が溢れだす。

 僅か二撃。

 実質それで決着がついた。

「グゴ……ゴッ……ォゴ」

 アクアヴィットが喉を震わす。なにかを言っているようだが、言葉にはならない。

 レンは意識を集中し、左手をアクアヴィットの額に当てる。

 ――貴様、私の中に……。

 竜の声が、耳からではなく体の中に直接響いた。

 魂の対話。竜に近しい存在である竜征者と竜のみが行える行為。魔術でも、科学でもない超常の力。

 ――お前ら邪竜は、なぜ虚竜に従う。無理矢理従わされたのか? それとも、なにか弱点でも握られているのか。本当は人間を襲いたくないと思っているのか?

 アクアヴィットが死力を尽くして飛び退く。そして、カッと口を開いて咆哮した。

 ――なにを馬鹿な! 我々は自らの意思でデミウルゴス様に仕えている。アルスの馬鹿は人の営みを見守ることが我らの使命だなどとほざくが……下らん。貴様ら下等生物の営みを見てなんになる。どうにもならんわ! 実に下らん!

 アクアヴィットの腹に力が込められているのがわかり、レンも空気を吸い込んで備える。

 ――つまり、お前らは自分の意思で人を傷つけ、殺し、蹂躙してきたんだな?

 水竜がブレスを放った。一直線に水の噴射が飛んでくる。

 ――そうだ。我らは自らの意思で貴様ら虫けらを踏み潰してきた。だがそれがなんだ? 地を這う羽虫を殺してなにが悪い? その程度の存在なのだ、貴様らは。我らがこの大陸の、この星の支配者になるべきなのだ。真に強い者が全てを束ね……。

 飛来するブレスに、レンもブレスを放った。

 レンのブレスは、アンゼリカのブレスと全く同じものだった。白熱の熱線。水の噴射と接触した瞬間、じゅわっと音を立てて水が蒸発し始めた。辺りが濃霧に覆われる。

 ――ならいい。お前を殺すことになんら躊躇う必要がないとわかった。お前は、これ以上の災厄を振り撒く前に、俺が殺す。

 ――やってみるがいい、人間風情が!

 レンの魂は、アンゼリカと繋がっている。それは絆を結んだ、という意味であるが、それだけではなかった。

 少年と少女の魂は、融合を果たしていた。

 魂の融合により、レンは竜に近づいたときアンゼリカの力を借り受けることができる。逆にアンゼリカも、レンの『リライト』の力を扱うことができた。

 そしてなによりも、魔力の『転移トランスファー』が可能になる。

 竜の魔力は、魔力に恵まれるエルフ族をあざ笑うかのような量を誇る。無尽蔵、といっても差し支えないだろう。

「『リライト』!」

 ブレスを吐いたまま、左手を地面に叩きつけた。霧の向こうに見える黒い影に隆起した土の腕が絡み合い、強引に押し倒す。

「『汝、暴風の加護あれ』」

 ブレスが途切れる。レンもブレスを止め、風を纏わせた刀を一閃。立ち込めた霧を風の刃で振う。

 一直線に裂けた霧の向こうに、暴れもがくアクアヴィットの姿を認めた。

 ――アンゼリカ。

 黒い刀身に手をかざし、アンゼリカに魂の対話を行う。返事はすぐに来た。

 ――使ったんですね。

 ――ああ、悪い。けど説教は後だ。お前の力を借りる。

 ――もう、勝手にしてください。

 ばちり、と紫紺の雷撃が迸る。

「『汝、雷霆らいていの加護あれ』」

 迅雷、ではなく、雷霆。

 その詠唱は、通常の付与魔術ではない。

 魔術は基本、四段階の等級で表される。付与魔術や召喚魔術、屍霊魔術、回復魔術、錬金変性魔術には存在しないが、魔術は『低級』『中級』『上級』そして『伝承級』に分けられている。

 低級とは魔術の才さえあれば気軽に扱える程度のもので、中級はある程度訓練を積んだものでないと扱いが難しい。上級は膨大な魔力を消費するが故基本は複数人で行うが、中には魔力に恵まれていると一人で扱う者もいる。

 それらと一線を画すのが、伝承級の魔術だ。

 伝承級とは、伝説や風説でのみ語られる、実在を疑われる魔術である。レリクスと似たようなものだ。

 だが伝承級は実在する。

 なぜなら、たった今レンが唱えた付与魔術は、伝承級付与魔術の一つだからだ。

 紫色の雷撃を纏った刀身から、雷が噴き出し、見上げるほど巨大な雷撃の刀を形作る。アンゼリカから流れ込む膨大な魔力で雷撃の勢いはいや増し、天を衝くほど巨大な刀身と化す。

 ――貴様……!

 アクアヴィットが驚愕する。まさかこの世に伝承級の魔術を行使するものがいるなど、予想もしなかっただろう。

 そもそも伝承級の魔術を行使するには人の魔力では少なすぎる。その問題点を、レンはアンゼリカとの魂の融合という方法で克服していた。

 これを使うのは、本当に危険なとき、本当に強い敵と相対したときのみだ。

「おおおおおぉぉぉおおおっ!」

 八相に構えた刀身をそのままに、レンは『リライト』で腕のような物体に書き換えられた土に押し付けられたアクアヴィットに肉薄し、そして、

 ――やめろぉぉおおおおおおおおっ! この私を……人間ごときがぁぁあああ!


 斬る。


 袈裟懸けに振り抜かれた雷霆の剣は、ただの一撃で、黒い膜を纏った竜の体を斬り裂いた。

 頭部から尾にかけて真っ二つにされた邪竜は夥しい量の血で草花を染め上げ、しかしそれでも残った目でレンを睨んだ。

 ――クソ……虫、ご……ときが……。

 最後の最後まで人に憎悪の言葉を吐くのは、ある意味で寒心に堪えないものがあった。

「あぐ……っ」

 全身に耐えがたい痛みが走り、レンは膝をついた。

 途端に虚竜化が解除される。全身の黒い甲殻が皮膚の内側に飲み込まれ、腰から垂れていた尻尾が縮む。角が額に収まり、アンゼリカとの魂のリンクが解除され、トランスファーが止まる。雷を纏っていた刀身が通常の黒い刀に戻った。

「はっ、はぁっ、はぁ……はぁっ」

 篭手に覆われた左腕が激痛を発し、眼窩に収まる左目が沸騰したかのような熱を帯びる。

「やるわね、竜征者レン・クローゼル。まさか本領の十分の一も出てないとはいえ、邪竜を倒すだなんて」

「……やっぱりあいつは、完全な状態じゃないんだな」

「ええ。蘇らせたばかりだもの。力も、勘も、魔石との連携も完全ではない」

「レン!」

 アンゼリカが泡を食ったように駆け寄ってきた。その後ろから、やれやれという顔のドナルドがついてくる。

「嬢ちゃん、戦ってる最中にいきなり背中を見せるのはどうかと思うがな」

「黙りなさい。私にとって大切なのはレンだけです。あなたとの勝敗なんてどうでもいい」

「それだけ思われて……坊主も幸せだろうよ」

 皮肉げな笑みを浮かべるドナルドだが、武器は背に引っかけ、もう戦う気はないようだ。

 耳をすませば、砲声やサイクロプスの唸りは止み、男たちの勝鬨かちどきが耳朶を震わせる。

「どっちが勝った?」

「保守派の勝利です。決して少なくない犠牲が出てしまいましたが……ドラゴンシーク軍は潰走です」

 レンはオリヴィエとドナルドを見、口を開く。

「お前らの負けだ。目的は挫いた。諦めて投降しろ」

 オリヴィエがくすりと笑った。

「なにを言っているのかしら。私たちの目的は、ここからよ」


5 闇を呼ぶ魔石


「なにを言ってる? 竜はもう倒した。お前らの目的は竜を支配下に置くことだろ」

「確かにそう。エドワードは竜を軍事力に数えている。だけどそれが全てではないのよ……始まったわ」

 オリヴィエが指差す先で、真っ二つに両断された邪竜アクアヴィットの体がぼろぼろと崩れ始めていた。

 表皮と肉が炭のようなぼろ屑と化し、骨が露になる。骨は崩れなかったが、だからといって油断はならない。屍霊魔術師がいる以上、骨も武器となる。屍霊魔術は骨を動かしスケルトンという怪物を生み出す。

 やつらの目的は竜のスケルトンを作ることか、とレンは考えたが、次の瞬間そうではないことに気付いた。

 レンは体の節々に残る痛みを噛み殺し、竜の骨に駆け寄って、“それ”を手にした。

「これは……」

 黒い石。魔力の波動を感じる。だが、通常の魔力とは明らかに違う波動だ。心を不安と焦燥で染め上げるような、触られたくない部分をかりかり引っ掻かれているような感触。

「『ダークブリンガー』」

 オリヴィエがその黒い魔石を見つめる。

「七体の邪竜が虚竜から下賜された特別な魔石。持っているだけであらゆる攻撃に対して防御効果を発揮する結界を生み出し、身体能力を強化し、あらゆる攻撃の破壊力を高める魔具でもあるわ」

「それだけじゃない。ダークブリンガーが含有する魔力は無尽蔵の魔力量を誇る竜とそう変わらんほどだ。もしこれを魔巧に詰め込めば、本気になった竜征者でなければ止められないような最強無敵の魔巧を生み出すことも夢じゃない」

 ドナルドの言うことが、彼らの目的なのだろうか。ドラゴンシークは、最強の魔巧を生み出す為に、その心臓部となるダークブリンガーを求めたのか。

「ダークブリンガーは使い方次第では竜をも凌ぐ力になるわ。竜を焼き払ったりせず、肉体ごとわざわざ埋葬して、墓守の一族を置いたのはそれが理由。人々はダークブリンガーを持て余したのよ」

 それはそうだ。竜一体だけで千二千の兵を突破できる力がある。そんなものを上回る力となれば、それを持て余してしまうのも至極当然といえた。

「革新派は……そんなものをどうするつもりなんですか? あなた方にダークブリンガーとやらを使いこなせるだけの技量があるとでも?」

「それはまだノーコメントよ、天使ちゃん」

 オリヴィエのそのおどけたような口ぶりから察するに、ドラゴンシーク――少なくとも基幹メンバークラス――は、アンゼリカが天使族の末裔であることを知っているようだ。

「あなたたちにこれは渡しません」

 アンゼリカが体力を消費したレンをかばうように前に出て、ユドスを構える。

「いいわよ。別に。まだダークブリンガーは六つある。うち三つは既に手に入れているようなものだし……今回はおとなしく退いてあげる」

「逃がすと思ってんのか?」

 太刀の切っ先をオリヴィエとドナルドに向け、凄むが、そんなレンをオリヴィエが鼻で嗤った。お前にできるわけがない、と暗に言われている気がし、レンはこめかみが熱くなるのを感じた。トラブルを避けるため感情を抑制することには慣れているが、だからといって小馬鹿にされるような態度を取られてなにも感じないというような不感症ではない。

「今のあなたたちじゃ私たちを止めることはできないわ――出でよ、グリフィン」

 オリヴィエが大杖を天にかざすと、空中に魔法陣が現れ、そこから鷲と獅子を合成したような巨大なエニグマが現れる。

「お前……召喚魔術も……」

「虚竜化を使った今のあなたに倒せるかしら」

「クソ」とレンは吐き捨てた。今の体力ではどうすることもできない。万全の状態ですらぎりぎりで勝利を掴んだ程度だ。虚竜化を使い、体力的にも気力的にも満身創痍に近い今の状態ではよくて引き分け、といったところだ。

 負けを認め、レンは無銘を鞘に納めた。それを見て、アンゼリカもユドスを腰に戻す。

「ふふ……それでいいのよ」

「……クソッたれ」

「今日のところは邪竜が蘇ること、ダークブリンガーの実在を確認できただけで大きな収穫だったわ。それじゃあね、レン・クローゼル。また縁があったら会いましょう」

 オリヴィエとドナルドがグリフィンの背に跨ると、グリフィンは巨大な翼を羽ばたかせ、空高く舞い上がった。砂埃が舞い、レンとアンゼリカは荒れ狂う風圧と舞い散る砂から目を守るため腕で両目を覆う。

 二人を乗せたグリフィンはあっという間に遥か彼方、西側へ飛んでいった。少なからず革新派の兵士もいたはずだが、それを容易く見限る彼らの精神は理解できない。もっともグリフィン一体で六百近い兵士をどうにかするのは無理があるし、見捨てるのも合理的な判断なのかもしれないと、一応の理解はできるが。

「レン、大丈夫ですか?」

「ん……ああ」

 全身が鉛のように重く、頭は泥が詰め込まれたかのように不快感でいっぱいだが、今のところ左腕と左目に異変はない。

「俺の目、どうなってる?」

 自分では確認のしようがないので、アンゼリカに訊く。インフィニウムから手鏡を取り出すのも億劫だった。

「なんともなってませんよ。いつもの綺麗な蒼色です」

「ならいい」

 虚竜化を使った以上、どこかに異変が起きることは確かだ。今は沈静化しているが、そのうち左腕や左目が痛みを発するようになるかもしれない。

 左腕の肘まである篭手を外し、検める。

 ――少し、侵食が進んだな。

 左腕前腕の半ばほどまでしかなかった黒い部分が、少し増えている。使い続ければ肘まで達するかもしれない。

 レンが篭手をしているのは、竜征者の証であるこの黒い腕を隠すためだ。外に出る際外套を常に身に着けているのもそういう理由だ。袖が捲れたりした際に左腕を隠せるように、篭手を身に着けているというわけである。

 無論袖が捲れるといってもたかが知れている。自ら腕まくりをしない限り、肘から向こうが見えることはない。だから、これ以上侵食が進んでも別にばれるようなことはないだろう。

 問題は目だ。目が竜と化したら、これは隠しようがない。眼帯でもするしかないが、片目で戦うことに慣れていないので戦場や狩場で命取りになる可能性がある。これは避けたい。最悪目が竜と化したら諦めて竜征者であることを認めるしかない。

 それに、少なからずレンが竜征者であるという話は、広まっているだろう。帝都動乱の際のゴドーが知っていたように、政府や軍、そしてドラゴンシークはレンが竜征者であることを知っていると考えていい。

「あの……」

 年若い男の声がかけられた。レンは慌てて左腕を外套の袖にひっこめるが、見られたかもしれない。振り返ると、保守派の鎧に身を包んだ二十代になったばかりくらいの若者がいた。若者、といってもレンたちよりは年上だろう。

「竜を倒したのはあなた方ですか?」

「……ああ、そうだ」

 否定をしなかったのは、若者の顔に、竜はこいつらが倒したんだという確信が浮かんでいたからだ。

 アンゼリカが前に出て、若者の視線を遮る。彼女の陰でレンはそそくさと篭手をはめた。

「ひょっとして……竜征者の方ですか?」

「あ、いや……」

「おい!」

 言葉に詰まっていると、若者の後ろから壮年の男が現れた。無精ひげに覆われた顔に生傷が走っている。男が骨だけになった竜と、レンとアンゼリカを交互に見る。

「君たちは……」

「ん……ああ、黒狼団の者だ。保守派の兵士から伝令を受けて応援に駆け付けた。これを至急ガルドの王宮魔術師オーランドに届けてほしい」

 そう言って、レンは男にダークブリンガーを手渡す。闇を呼ぶもの、と呼ばれるそれを受け取った男の顔が曇った。レンと同じように、不快感を掻き立てられているのだろう。

「なんだ……これは」

「そいつは伝説上の魔石、ダークブリンガー。敵の狙いはこれだった。詳しい話はオーランドやジョニーが知っていると思う」

「わかりました、至急届けさせます」

 上手いこと話が逸れた。若者も話の状況を察してしつこく追及してくる様子もない。

「あなた方はこれからどうなさるおつもりで」

「元の依頼があるからそっちに戻る。悪かったな、勝手に首を突っ込むような真似をして」

 口にしてから、これは立派な内政干渉に当たるのではないか、とレンは若干不安になった。

 相手はドラゴンシーク。一応、革新派である。この戦いは革新派と保守派の争いだ。竜が出てきたために竜征者である自分が戦わねば、という使命感を覚えて駆け付けたのだが、やはりまずかっただろうか。

 だが、考えるのは後回しにした。判断するのは団長だ。

「帰ろう、アンゼリカ」

「はい」

 馬を繋いでいた場所まで戻り、ギガ山麓の村まで戻ることにした。

 今日はとにかく疲れた。早く眠りたい。



 それから数日後。

 レンは箒を手に、黒狼団本部の床の埃を掃いていた。アンゼリカは受付で書類仕事に追われている。竜を倒し、隊商の取引が終わって帰還してから団長の指示をうた。

 一応、ドラゴンシークは革新派とはいえ特殊な立場にある組織であり、革新派の軍とは別系統で動いているため、群島湖で起きた戦いは保守派と革新派による戦争ではないとされた。よって、あの戦いに参加したこと自体は咎められなかった。竜征者としての使命を果たしたことを評価されたくらいだった。

 しかし依頼に背いたことに違いはなく、罰は受けるべきである、という結論に至った。

 その罰というのが団本部の掃除と、受注書の処理だった。

 地味だが面倒臭い仕事で、なんでこんな新人でもやらないような仕事をやらなきゃならないんだと愚痴の一つも漏らしたくなる。掃除は入団したばかりの初心者か、団に雇われている家政婦の仕事である。まあこうなったのは自業自得なのだが。

「なんだお前ら、なんかやらかしたのか?」

 以前キノコ狩りに行かないか、と誘ってきたライカンスロープの大男がにやにや笑いながらレンの肩をばしばし叩く。本人は軽くやっているようだが、意外と痛い。

「別に。竜が出たから狩りに行ったんだよ」

「ほぉ、竜ねえ……難儀なもんだな、竜征者ってのも」

 この大男は黒狼団でも古参で、名前を確かガース、といった気がする。黒狼団のメンバーは傭兵、受付、家政婦を合わせて百人近くもいるので全員の名前を覚えるのは困難だが、この大男のことは少し知っていた。

 古参メンバー、ということもあり、当然団長のロイからの信頼も厚い。レンが竜征者であることを知る数少ない者の一人でもある。

 ガースが声を潜めて、レンに耳打ちする。

「そういや最近各地で竜を見るとかいう話を聞くな」

「ドラゴンシークが動いたのか? あいつらは実質三体の邪竜を手に入れられるからな……もう蘇らせていて使役していてもおかしくないが……」

「いんや、そうじゃない。邪竜じゃなくて普通の竜なんだそうだ。そろそろ虚竜も本腰を入れて俺たち人類を滅ぼしにかかろうってことなのかね」

「どうだろうな……竜戦争は長いときには百年続いたって言うし、たった十年で何百年も封印されてた際に失われた力が元に戻るか? 虚竜はかなりのスロースタートだって聞くけど」

「んー、どうだかなぁ。けど肩慣らしに竜をけしかけてきている、という可能性もあるぞ。そして肩慣らしをしてるってことは、ある程度力が戻ってきてる証拠じゃないか?」

「でもまだ軍勢を率いて、ってほどではないんだろ?」

「まあな。まばらに竜を見る、って程度らしい」

 怪訝に思って、レンはその思いを隠さず口にした。

「待てよ、竜を見ただけだろ? ならその竜が虚竜の支配下にあるってなんでわかるんだ?」

「ああ、いや、見るっつうか、襲ってるらしいんだ。エニグマや家畜、ときには人をな」

 竜は基本傍観者だ。人の営みに首を突っ込むことは滅多にしない。餌のためにエニグマを狩るということはあり得る話だが、人間が飼育する家畜を襲うということはまずない。よほど腹が減っていて家畜を食べたいと思っても、竜ならまず取引を持ち掛けるはずだ。そういう性質があるから、竜神アルスも商売の神と崇められるのだ。

 そしてなにより、人を襲った。

 これは間違いなく、虚竜の支配下にあることを意味している。まあ人から喧嘩を売って竜の怒りを買ったなら話は別だが、そうでないならその竜は間違いなく虚竜デミウルゴスに魂を書き換えられ、支配下に置かれていると考えられる。

「まあどうあれ、そのうち俺たちのところにも竜狩りの依頼が来るかもな」

 ガースは肩をすくめ、「やれやれだ」とため息をついた。

「じゃあ俺は行くわ」

 ガースが依頼書が貼られたボードに歩み寄っていった。なにか依頼を受けるつもりなのだろう。またキノコ狩りだろうか。

「はぁ……めんどくせえな」

「どう考えたってあんたが悪いんだから同情の余地はどこにもないわね」

「そうだな、どう考えてもレンが悪い」

「お前らな……」

 いつの間にかやって来ていたジゼルとグレースに口々に好きなことを言われ、レンは呆れるやら腹が立つやら不可思議な気分にさせられた。

「お前らどこ行ってたんだよ」

「これをみてもわからないの?」

 ジゼルとグレースは、それぞれ大きな麻袋を担いでいた。一人につき二つずつ。ぱんぱんに膨らんだそれを、二人はテーブルの上に置いた。

「こんなことさせられたのはあんたのせいなんだから」

 ジゼルは怒った様子を隠しもせず、尻尾をぶん、と振った。

 彼女らがしていたのはおつかいだ。彼女らは依頼のため村に残った――とはいえ部隊の罰は連帯責任。隊員全員で行うのが決まりだ。ジゼルとグレースは黒狼団本部で暮らす者たちの食料を買いに行かされていたのだ。

「まさか使い走りをさせられるとはな……」

 グレースが非難の色がにじんだ目線をレンに送ってくる。

 だが、彼女らが怒っているのは顎で使われたことに対してではなく、レンが無断で虚竜化を使ったことに対してだった。

 虚竜化は一歩間違えれば寿命を縮めかねない危険な技だ。それを事前の同意なく使ったことを怒っていた。アンゼリカもそのことに腹を立てているようで、しかしレンは仕方がなかっただろうとしか言えなかった。

 あの力を使わなければ、ダークブリンガーの加護を得た邪竜を倒すことはできなかった。所詮は結果論だが、邪竜は倒せたし、こちらの体にも異常はなかったのだからいいではないか――とレンは思っているのだが、女性陣にはその態度を含めたもろもろが許せない、という様子だった。

 ならあのときどうすればよかったのだ、とレンは思うのだが、しかし彼女たちの思いも理解できた。

 もしジゼルが一人でエニグマ相手に無茶をしたら、もしグレースが一人で深く憎む山賊たちの群れに突っ込んでいったら、そしてもしアンゼリカがレンに無断で“本来の姿”に戻るような真似をしたら。

 そのとき自分は彼女らを笑って許すことはできないだろう。部隊長だから責任を負わなければならないという話ではない。対等な仲間として、命を軽視した行動に腹を立てるだろう。

「悪かったよ……けど、次また同じことが起きたら……俺はやっぱり同じことをすると思う」

「ちょっと……どういう意味? 私たちってそんなに頼りないの?」

「違う。そういう意味じゃない。けど、邪竜には普通にやるだけじゃどうやっても敵わないんだ。次元が違う。普通の竜相手なら俺も力は使わない。それは約束する。けど邪竜のときは許してくれ。……それが俺の使命なんだ」

「私は特になにも言わんさ。ただ気を付けろよ。虚竜に呑まれたら元も子もないんだからな」

「…………私は、無理。納得できない。けど理解はしてあげる。人と竜征者じゃ別物だし。レンの使命も、一応はわからないわけでもないし。でも、やっぱりレンだけが無茶をするのは……なんか間違ってる」

「じゃあお前も竜征者になるか?」

「なれるものならね」

 本気かよ、と思ったが、ジゼルの目には冗談ではない色が浮かんでいた。

 レンはため息をつく。

「あのな、俺は手柄が欲しいとか、名声が欲しいとか、金持ちになりたいとかって理由で邪竜と戦うわけじゃない。使命だから果たすんだ。俺の理念のために倒すんだ。そんな身勝手な戦いにお前らを巻き込むわけにはいかない」

「斬奸の剣、弱者の盾、でしょ? それってもう部隊の指針なんだし、私たちもあながち無関係じゃないでしょ?」

「まあ……そうなんだけどさ。けど邪竜とやり合うのはだめだ。やっぱりそれだけは認められない。みすみす仲間を死なせたくはない」

 ジゼルは唸ったが、その肩にグレースが手を置くと、やがてため息をついて諦めたように肩をすくめた。

「北部の人間ってみんなあんたみたいに頑固なの?」

「さあな」

 帝国北部の人間の意思は氷のように固い、とは帝国における北部人への定番の皮肉であり評判であり、そして動かしがたい現実だ。実際レンも頑固な部分があるということは自覚している。

「ああそうだ、レン」

 グレースが思い出したように口にする。

「暇が出来たら団長室まで来いと副団長が言ってたぞ」

「ふぅん……なんだろ。説教かな……」

「さあな……どうだ、今暇だし、顔を出さないか」

「そうだな」

 受付の方を見ると、アンゼリカの書類仕事も一段落着いたようだった。

「アンゼリカ、上に行くぞ」

 箒を壁に立てかけ、食材の詰まった麻袋をキッチンまで運び、四人はそろって階段を上って三階まで行く。

 ドアをノックし、ロイの「入っていいぞ」という一言を待ってから入室する。

「レン・クローゼル以下クローゼル部隊隊員四名、入ります」

「ああ、そう固くなるな」

 大きな執務机の前に横列で並び、椅子に深々と腰掛けるロイとその隣で微笑みを浮かべるエレナと対面する。

「依頼が来た。竜狩りの噂は思ったより早く広まっているようだな」

「セイレス領の領王から直々の依頼よ。詳しい話は現地で王宮魔術師のシモンさんから聞いてちょうだい」

「概要は? それすらもわからないんですか?」

 ロイが依頼書と思しき紙を広げ、レンに差し出す。文面の一部分に指を添えた。そこには闇の眷属、と書いてある。

「『竜のおとがい』山間部にある竜の埋葬地に魔族が出没するようになり、墓守一族と連絡が取れなくなったらしい。今回の依頼はその調査だろうな」

 竜の頤とは、この国の南から東にかけて走る国境代わりの岩肌剥き出しの山脈である。

「魔族というと……大和国の鬼や、こっちでいう悪魔や淫魔のことですか?」

 レンが問うと、ロイは頷いた。

「そうだ。その魔族だ。その魔族……闇の眷属が国境付近でなにをしているのか。それを調査してほしいんだろう。出発は明日。段取りはもうつけてある。交易船の一隻に乗り込めるよう手筈てはずを整えておいた。エウロス湾を海岸線沿いに北上していく。道中港町にも停まるようだから、まあ、レン……どこにも停泊しなかった帝都行きよりはお前の船酔いもそう酷くはならないだろう」

 ロイの口に微かな苦笑が浮かぶ。レンの船酔いの酷さについては彼らも知っている。

「そうですか……グレースに酔い止めでも作ってもらいますよ」

 船旅のことを考えると頭が痛いが、依頼は依頼。しかも領王たっての依頼である。この仕事を完遂しようと、レンは心に刻んだ。



ACT5:竜の頤



1 不安因子


 海に突き出たガルディック岬と半島状のセイレス領が形成するエウロス湾の波風は比較的穏やかで、船の揺れもさほど酷くはなかった。折を見て停泊した、というのもよかった。そのおかげで随分体力を温存できた。移動には三日かかったが、先方が指定してきた時間内には間に合ったので、問題はないだろう。

 帝国最西部の領、セイレスの領王は女性だった。珍しいことではなかった。人間の女性が神として信仰されている国であるし、事実ガルディック領の領王も女性だ。

 セイレスの王、コンスタンス・セイレス。歳はわからない。年齢不詳。三十代前半にも見えるが、瞳に湛える感情は海のように深く、老熟して見える。だがうっすらと浮かべる微笑みには若さがあり、とにかく不思議な女性だった。

 謁見の広間でレンたち四人は片膝をついて玉座に座する領王のかんばせをこっそりと盗み見た。

「遠い地より遥々と、ご苦労であった」

 悠揚迫らざる王に相応しい落ち着き払った口調。しかしその身から溢れる威厳は確かなもので、決して服飾品が立派だから威光を感じるというものではない。本物の王者だからこそ放つことのできる厳格な雰囲気は、私立傭兵で頭を張っているロイと対峙するより遥かに存在感がある。

「そなたらを呼んだのはほかでもない。この地に巣食う邪悪を打ち払ってもらいたいのだ。レン・クローゼル、真っ直ぐにこちらを見よ」

「は……」

 畏れ多くも領王陛下の眼前である。そう軽々しく傭兵ごときの顔など見せていいものではない。しかし命令されては仕方がない。レンは顔を上げ、領王コンスタンスと目を合わせる。

「そなたが動乱にある帝都から皇女殿下を救い出し、ガルディックの地で竜を討った竜征者であるな?」

「はい」

「虚竜デミウルゴスを狩る崇高な使命を持ったそなたに、このような些末に付き合わせる無礼をどうか詫びたい。大金貨百枚でどうか手を打ってはもらえぬか」

 四人の肩が一斉に跳ねた。大金貨百枚。平民では一生かかっても手にすることのできない大金である。

 この国の金銭は、小銅貨、大銅貨、小銀貨、大銀貨、小金貨、大金貨の六種類の硬貨であらわされる。今並べた通り、大金貨は全金貨の中で一番価値の高いものだ。大金貨一枚をちらつかせれば愛妻家でも平気で妻と子を売るとまで言われる。

 レンの中で欲望が渦巻いたが、堪えた。

「いえ、そんな……。そのような大金、お受け取りできません。俺――失礼、私は一介の傭兵にすぎぬ身です。領王陛下から直々に仕事を与えられるだけでこの上なく光栄であります」

「そうか……そう言ってくれるか。傭兵といえば荒事ばかりの不躾な輩が多い、と聞いていたが、その古い認識は捨てねばならぬようだな」

「ありがたきお言葉……」

 コンスタンスが指を曲げ、玉座の背後に控えていた男を呼びつけた。人間族だろう。手には大杖。歳は五十半ばか。深いしわに刻まれた険しい顔を長いひげで覆い、気難しそうな目をしている。ローブ姿だが領王陛下の手前、フードは被らず素顔をさらしている。

「シモンよ、この者たちに依頼の詳細を説明せよ」

 あの男が、この城の王宮魔術師であるようだ。

「わかりました」

「では、そなたらに武運があらんことを」

 領王はゆっくりと十字を切り、去っていった。

 緊張がほどける。レンは「ふぅ」を息をついた。

「黒狼団の諸君、こちらに来てくれ」

 シモンが歩き出す。レンたちは片膝をついた姿勢を戻し、立ち上がって彼の後を追った。

 領城はやはり、防御を重視した作りとは言い難く、平時の生活に重きを置いた作りだった。

 広々としていて、快適だ。

「こちらだ」

 吹き抜けの二階の脇にある部屋の扉を開く。そこは会議室のようで、広い空間だった。そこに四十名近い兵士が揃っていた。保守派の濃紺のギャンベゾンに鎧。四列横隊で並び、ぴしりと前を見ている。彼らが見つめる先にはボードがあって、そこには地図が張り出されている。

 ――……こいつら、本当に兵士か?

 レンは彼らの顔を見て、一抹の不安を感じた。兵士にあるまじき、どこか平和ボケした顔とも言うべきか、彼らの顔からは兵士としての覇気を感じない。

 そんなレンの不安を感じてか、シモンが笑みを浮かべる。

「心配するな、訓練を受けた精強な兵だ」

 確かに、最低限の訓練は受けていそうだ。決して精強とは呼べそうもないが。

「君たち黒狼団は私が率いる第一小隊――最前列だ。加わってくれ」

 言われてみれば、確かに最前列の兵士は後ろの兵士に比べ数が少ない。シモンとレンたちを加えたちょうど五人分の空きがある。レンたちはそこに加わった。統一された装備の兵士たちの間に武器も防具も揃わない傭兵が加わると少し奇妙に感じられる。

「では諸君、注目してくれ」

 シモンが大杖の先端で地図を叩いた。

「今回我々が赴くのは竜の頤、ローゼントライム王国方面である」

 竜の頤。南のぺルマナント神聖国、南東のブレスク共和国、東のローゼントライム王国と接する環クレセント海連合帝国の国境代わりの岩山である。地図上で見たときに竜の下顎のように見えるため、竜の頤などと呼ばれるようになった。

「目的は一つ、消息を絶った竜の埋葬地の墓守の現状を確認することである」

 その山脈の山間部に、竜の埋葬地の一つと、それを守護する墓守一族の集落があるとのことだった。アンゼリカの記憶を頼りにすると、現在地セイレス領領都セレーンから南に位置しているそうだ。

「墓守と連絡が途絶える少し前から、この地域で魔族を目撃したという話があった。事実周辺の村や集落が魔族と思しき存在から攻撃を受け、皆殺しの憂き目に遭ったそうだ。我々はこの魔族の偵察も行い、規模、装備、目的を確認し、討伐隊編成のための情報を持って帰還する」

 闇の眷属、と呼ばれる存在がいる。

 なんらかの要因で人という存在からかけ離れたモノに成り果てた者たち。その存在は、有史以来――四千年前、旧神が人類を支配していた時代から確認されていた。

 吸血鬼、鬼、魔族である悪魔、淫魔……彼らに総じて共通するのは目が赤い、ということ。

 目が赤い。つまり、エニグマを連想させる。

 そうした理由から彼らはいつしか闇の眷属と一緒くたにされ、迫害の対象にされた。しかしその迫害が表面化する以前から、彼らは人々から忌み嫌われていた。邪悪な存在、不幸をもたらす存在として。

 事実闇の眷属は人々に牙を剥いてきた。虚竜デミウルゴスほどではないが、巻き込まれる人々にとっては災厄と呼んで差し支えないだろう。

「なお、本作戦は選りすぐった少数精鋭で行う」

 ――選りすぐった、ねえ。

 隣に立つアンゼリカを見る。

 小さく肩をすくめた。

 彼女もここに集まっている人間が精鋭という言葉からかけ離れていることを察知しているようだ。シモンという男に対して、不信感を抱いている。

 だが、人は見かけによらないという。もしかしたらここにいる者たちは、そうしたものの筆頭であるのかもしれない。そうでも思わなければ、不安で仕方ない。

「我が国で革新派が大陸の制覇などとできもしない妄言を吐く始末……あまり大人数で移動しては王国に革新派が攻めてきたのではないかと不信感を抱かせてしまうだろう。それ故の少数精鋭だ。諸君らは選ばれた。そのことに誇りを持て」

 ――第一小隊の連中がそれなりの顔つきなのはわかった。だがほかの小隊は……。

 疑問が渦巻く。本当にこいつらは選ばれた者なのか。適当に寄せ集めただけの雑兵じゃないのか。黒狼団に仕事を丸投げして自分たちは楽をするつもりではないのか……。

 嫌な考えが浮かんでは消える。それを何度か繰り返しているうちに、シモンは「明日の早朝南門に集合せよ」と命令を下し、部隊に解散を言い渡した。

 ――この依頼、なにかあるぞ。

 レンはそう思えてならなかった。



「どう思う、レン」

 その夜、レンたちは領王が直々に手配したという良質な金持ち向けの高級ホテルの食堂で量に主眼を置いたというよりは質に目を向けたのだろうと思われる、こぢんまりとした料理に舌鼓を打っていた。

 オリーブオイルのかかった湯気を立てる白身魚の身にナイフを差し入れ、一口頬張る。周りにいる客たちはレンたちのことをちらちら盗み見ていた。仕方ない。なんせ四人は見るからに傭兵、という恰好をしている。現れた敵に即応するためというのと、盗まれては泣くに泣けないので装備はそのまま。ジゼルの大剣は座ると椅子につっかえるのでテーブルの下に寝かせてある。金持ちはギガヘッジが珍しいのか、テーブルの下もちらちら見ていた。

「第一小隊は大丈夫だと思う。精鋭と呼べるかどうかは微妙だが、マシな顔つきだった。けどそれ以外の連中は……」

 訊いてきたグレースにそう返すと、兎の煮込みにスプーンを突っ込んで、ジゼルが身を乗り出した。

「あの人たち、私たちに仕事を丸投げにする気なんじゃない? ローゼントライム王国を刺激するからって名目で少数精鋭だなんて言って運用コストを少しでも減らして、その実余った予算を懐に入れようとしてるんじゃない?」

 兎の肉をスプーンで掬い出し、それを口に入れてジゼルは続ける。

「あのシモンって人、明らかにずるしそうな顔してたしさ」

 確かに、腹に一物抱えていそうな人物だった。まあ魔術師などみんな大体あんな顔つきであり、オーランドやエルフ族のグレースでない限り基本は気難しげでなにを考えているかわからないような顔をしているものだ。腹に一物抱えていそうに見えるのも、魔術師は常に合理性を考える性格類型にあるが故のものだ。

「っていうかさ、私たち誰も魔族と戦ったことなんてないよね」

「私はありますよ。放浪中に何度か、吸血鬼と鬼と、悪魔と」

 意外な返答に、レンは訊ねた。

「どんな感じなんだ?」

「吸血鬼は身体能力の高い人、って認識でいいですよ。よく噛まれると吸血鬼になるって言いますがあれは嘘です。なにかの呪いや魔術的な施術を行うことで吸血鬼になるんでしょうね」

「太陽が弱点ってのは?」

「それも嘘ですね。演劇で使うと都合がいいからその話が広まってますが、デマです。事実私は真っ昼間の街道で吸血鬼に襲われたわけですし。彼ら、太陽光を気にしている様子は全くありませんでした」

 煮込まれたカブを口に運び、ジゼルが問う。

「じゃあ鬼は? なんか大和国にいるって話だけど。あとさー、肉ちょうだい」

「肉はあげません。駄目です。鬼……というか、あの地域では『屍鬼しき』と呼んでましたね。特殊な魔力というか……オーラのようなものを纏っていて通常の武器では倒せませんでした。だからあの国では屍鬼を殺せるという屍鬼を封じた特別な武器を使う討伐隊がもてはやされてましたね」

「尻尾触らせてあげるからちょうだいよ。じゃあ、悪魔ってのはどんな感じ?」

「それなら仕方ないですね……。悪魔というのは、角を生やして蝙蝠のような翼と蛇みたいな尻尾を持つ人ですね。身体能力はベースとなった種族にかたよるようですが魔術適性が高いようでして、肉弾戦よりも魔術に気を付けた方がいいです」

 魔術適性を持った相手か、とレンは唸った。魔術は脅威だ。破壊であれ、付与であれ、幻惑であれ召喚であれ、たった一つの魔術が勝負の趨勢を決めるといっても過言ではない。肉弾戦では大いに後れを取る魔術師だが、しかし魔術の使い方次第では近接戦闘をこなすことも不可能ではない。

「それに対してこちらは基本後衛の弓兵が十五に前衛の歩兵が二十三、魔術師二人か……魔術適性のある魔族相手にするには少し不安な編成じゃないか」

 各小隊は十名から編成される。第二、第三、第四小隊の五名ずつが弓兵で、残る五名ずつと黒狼団を含めた第一小隊の八名が前衛の歩兵だ。まあアンゼリカはクロスボウ使いでもあるので弓兵と数えてもいいかもしれないが、それにしたって一つ数字が変動する程度である。

 レンの苦言にグレースが苦笑する。

「お前は隊長か?」

「俺は隊長だろ」

「いや、クローゼル部隊の隊長かという意味ではなく、この隊の指揮者かという意味だ」

「そりゃ……違うけど」

「お前は傭兵、あちらは軍隊。同列に語るのは間違いだし、そもそも今回の仕事は魔族の討伐じゃなくて偵察だ。お前が以前のギガ山のときみたいにでしゃばらなければまず戦闘にはならない。観察するだけでいいんだ」

「道中に山賊や盗賊、エニグマが襲ってくる可能性もあるんだぞ」

「そのときはそのときさ。彼らの手腕を見せてもらおうじゃないか」

 グレースは楽しそうに笑うが、レンは気が気でなかった。しわ寄せを食らうのはこちらである。訓練もまともにしてないような、やる気のある新兵の方がまだマシなあんな連中、戦いとなったら役に立つのか。答えは断じてノーだ。役に立つわけがない。見ただろう、あの覇気の欠片も感じられない情けない顔を。使いものになるわけがない。

 レンはスープボウルの中身を胃の中にかきこむと、ゴブレットから蜂蜜酒を呷った。

 ――何事もなければいいんだがな。

 絶対になにかある。レンは確信していたが、そうは思わずにはいられなかった。


2 ランダイナスの襲来


 南の城門から出て四日、八台に連なる馬車ががたごとと車輪を揺らしながら、山岳部近くの集落跡に入った。こんな大所帯で、と思うが、同時に軍の行進は予想以上に金と手間のかかるものだと思い知らされる。この辺りは川があるので水は大丈夫だが、人間の糧食と、馬が好む草がないので馬自身の餌も運ばなければならない。往復十日の旅となるとその量はちょっとやそっとでは済まない。

 レンのようにインフィニウムがあれば話は別だが、世の中そううまくはいかないものだ。以前オーランドに頼まれたので数日間インフィニウムを貸したことがある。これを量産できれば軍事力の増強にもつながるし、行商の革命にもなると言って。

 しかしインフィニウムは相当高い魔術技術で作られているらしく、複製はほぼ不可能とのことだった。オーランドの見立てでは、一種のレリクスではないかとのことだった。

 それを思うと、これを礼だといって送ってきたある貴族のことが心配になる。

 ギルベルト・ストラッセ。

 隣国ローゼントライム王国の辺境を治める貴族の五男坊。二年前の夏、エニグマに襲われていたところを偶然助けたのだが、それが縁でインフィニウムを貰うに至った。

「これは我が家に代々伝わる逸品でね。使い方次第では君たちの助けになるだろう。僕らが埃を被せておくより、使ってもらった方がこいつも喜ぶだろう。はははは、僕のことなど気にするな。どうせ家督争いの邪魔者でね、誰も僕の動向なんて気にも留めちゃいないさ。家宝はたくさんあるし、一つなくなったくらいじゃばれないさ。平気平気」

 そう言って、隣国の友はレンにインフィニウムを押し付けた。辺境を統治しているだけあって、国境を接する隣国クレセントの言葉にも詳しく、帝国語も流暢だったのが印象的であった。当時あまり王国語に詳しくなかったレンには都合がよかった。

 あいつ、今はなにしているんだろう。

 夕闇が支配する空を馬車の荷台の窓から眺めながら、レンはそんなことを思っていた。

「どうしたんですか、レン。遠い目をして」

「ん……いや、ギルベルトのやつどうしてるかなって思ってさ」

「ああ、あの変人騎士ね」

 ジゼルが頷いた。

 グレースが笑う。

「愉快な男だったな。私を本気で口説き落とそうとしていた」

 ギルベルトは貴族らしからぬ、お気楽な気風の男だ。家督争いに興味もなく、自分なりの騎士道精神は持ち合わせているようだがどこか茶目っ気があり憎めない。騎士といえば国境の有無など関係なくお堅くかっちりした者ばかりだろうと思っていたレンの先入観を、ギルベルトは容易く踏み潰した。

 さすがに当時十三歳だったジゼルには恋愛感情を見せなかったが、グレースにははっきりと好意を見せ口説こうとしていた。あっさり拒否されると、特にがっかりした様子もなく副官の女性騎士に言い寄っていた。

 名前を聞きそびれたので副官の女性騎士についてはあまりよく知らないが、ギルベルトの口説き文句を易々と聞き流している様子からは扱いに手慣れている感があった。

 今頃はなにをしているのだろうか。帝国の混乱に対して警戒を高めて国境周辺の警備に駆り出されているのか、それとも意外とのんびり過ごしているのか。

 しばらくローゼントライム王国に行く予定はレンにはないから、会うことは難しいだろう。

 今度、長期休暇でも取って会いに行ってみるか。

 馬車が停止した。

「ここで野営します」

 手綱を握っていた兵士がそう言った。レンたちは外に出る。

 そこは、村落の跡だった。焼き払われたのか、木造の家々は焼け落ちていて、屋根はなく床が剥き出しで砂埃が積もっている。壁はぼろぼろで、小突けばそのまま倒れてしまいそうだった。恐らく魔族に襲われた跡だろう。

 川が近くにあるため井戸はないが、それなりに空間が開けた広場はあった。もともとは市場だったのかもしれない。焼け残った店の跡が寂しく竜の頤から吹き降ろされる風になぶられている。

「私たち、体洗ってきますね」

 インフィニウムから石鹸と布を取り出すと、アンゼリカとジゼルとグレースは川の方へ歩いて行った。

「覗いたらブレス食らわせますからねー!」

「しねえよ!」

 大体家では全裸で寝る癖に行水は見るなというのは変ではないか。まあジゼルとグレースがいるのだし、ほかの女の裸を見るな、ということなのかもしれないが。

 軍人たちが広場に慣れた手つきで馬を並べ、干し草を与えながら荷台を固定する。馬車という便利な道具があるので、わざわざテントを張ることはない。荷台を使えばいいだけだ。各荷台に五人ずつ、荷物も積んでいるので窮屈だがしかたがない。そもそも軍の任務に快適な安眠を求める方が間違っている。荷台でぼろい毛布にくるまって身を固めて寝る、というのがこの手の遠征任務のつきものだった。

 とはいえレンは傭兵。軍に同行している身とはいえ自分のやり方がある。レンは馬車から離れるとインフィニウムに手を突っ込み、温かみのある絨毯と簡素な木の骨組みを取り出す。それを石畳の上に敷き、組み立て、最後に布を被せた。一人では難しかったので、暇そうな兵士の手を借りた。

 テントの完成だ。内部に毛皮製の温かい寝袋を四枚敷く。帝国は北国だ。長い冬と、ごく短い春のような夏があるだけで、一年の大半が冷気を孕む気候である。旅道具も基本は防寒を主眼に置いたものになる。

 このアルヴンウォーク大陸では、一年が十二の月に分けられ、ひと月は四週から五週に分割され、一周が七日に細分化されている。この七つの分割法は旧神時代の名残だそうだ。旧神は七体いて、各日付に旧神の名を冠した名称がつけられるが、蛇足的な話なのでここでは触れない。とにかく帝国が温かくなるのはその十二ヶ月のうちの三分の一、四ヶ月程度だ。その短い間に、春夏秋――というより短い夏――が巡る。

 ――さて、あいつらが戻ってくる前に飯の用意をするか。

 レンは再びインフィニウムに手を突っ込んで、焚き火の用意を……と思った、そのときだった。

「敵襲! 敵襲! 東からエニグマの群れが接近しています!」

 野戦築城で組み立てた即席の櫓の上から、第二小隊の兵士が大声を張り上げる。

 この四日、旅路は穏やかで敵の襲撃は一切なかった。だから少し、レンも気を抜いていた。

 ――あいつらを呼び戻そう。

「黒狼団の諸君! ああ、レンくん、君一人なのかね」

「シモンさん、仲間は今席を外していますが、すぐに合流させます。それまでエニグマをよろしくお願いします」

「任された」

 急ぎ、仲間たちが向かった川沿いまで走る。川のせせらぎは既に聞こえていて、村の跡を出るとすぐに底の浅い川が見えた。流れも穏やかで、水は透き通っている。この時期である。水はまだ肌を刺すように冷たいことだろう。

「ちゃんと濡らさないと泡が落ちませんよ! それっ!」

「きゃぁ! ちょっとやめてよ!」

「こら暴れるな」

 が、少女たちのはしゃぎ声が響いていた。さすがは帝国人、寒さに耐性があるのだろう。グレースも帝国育ちではないが水の冷たさに堪えている様子はない。

 しかし、見事に全員全裸だ。白、白、青の肌に、ジゼルを除いて豊かな胸がぼよんぼよん踊るさまは見ていて目に毒だ。特にレンのような歳頃には。

 見惚れている自分に気付き、レンは首を振った。

「お前ら! 緊急事態だ!」

 声を張り上げると、アンゼリカが誰の声かも確認せずブレスを放った。白熱の熱線がレンの胸元で弾け、爆風で後ろにすっ飛んだ。



「あなたが悪いです」

「あんたが悪いのよ」

「まあお前が悪いな」

 三者三様に言葉が返ってきて、レンは閉口するしかなかった。

 石鹸の泡を洗い落とし、布で体を拭いて装備を身に着けた彼女らは平身低頭するレンを許しはしたものの、言いつけを破るなと言いたげにレンをなじった。ちなみにブレスは加減して放ったようで、レンの炎属性に強い革鎧には傷一つつかなかった。

「緊急事態なんだから仕方ないだろ……」

「魂の対話を使えばいいじゃないですか」

「あー、そうか。そこまで気は回らなかったな……」

 慌てていて魂の対話のことなどすっかり忘れていた。

「行くぞ」

 装備を整えたのを確認し、レンたち四人は村の跡を抜け東に向かう。広場には第三第四小隊が残り、積み荷の警護に当たっていた。つまり前線に出ているのは一応は兵士面だった第一小隊とほとんど新兵と変わらない第二小隊だろう。

 村跡の東側は森が広がっていた。その森と村跡の境界で、兵士たちが奮闘している。五人の弓兵が後方から矢を射かけ、その弓兵を率いるシモンが破壊魔術を繰り出し、エニグマ――ランダイナスを牽制する。しかし、

 ――あのおっさん、低級魔術しか使えないのか。

 シモンが放つのは『ファイアボール』が精々で、中級破壊魔術を用いている様子はない。

 まあ、王宮魔術師の仕事は戦場に出ることではないので、扱える魔術の質を問われることはまずない。必要なのは知識であって、使用可能な魔術の大小ではないのだ。

 ランダイナスの数は二十を超えている。中には弓矢が刺さっている個体もいるが致命傷になっていない。

 前進してくるランダイナスとの距離が詰まり、弓兵は弓を放り捨てると武具を大量に背負った兵士から剣と盾を受け取り、構える。

 軍の戦い方に興味がある。レンはしばらく手出しせず、傍観を決め込んだ。

 レンたちとシモンを除いた第一小隊五名の戦いは、そこそこ上手かった。一対一で対峙するのではなく、五対一を基本に数でランダイナス一体を確実に仕留め、次の一体に狙いをつけ各個撃破していく。

 その一方で、第二小隊の戦いは見るに堪えなかった。

 兵士たちは、雑魚と総称されるランダイナス相手に完全にビビっていた。必要以上に距離を取り、首を縮めて盾に隠れるようにして視界もろくに取っていない。あれでは兵士とはいえない。徴用されてきた民兵の方がまだ勇敢だ。

 ランダイナスの一体が、第二小隊の兵士の盾に噛みついた。あの走るワニの顎の力は雑魚とはいえ強靭だ。鉄の盾は見事にひしゃげ、ランダイナスがぐいっと引っ張ると兵士は負けじと足を踏ん張る。が、盾の取っ手が外れ、ランダイナスはひしゃげた盾の面を放り捨てた。

「ひぃいやぁあああ!」

 兵士が青ざめた顔で悲鳴を上げ尻もちをつく。ランダイナスの発する殺気――というよりは剥き出しの食欲とも言うべき本能――に圧倒され、兵士は剣を振ることも忘れて丸く縮こまった。

 見ていられない。

「『汝、焦熱の加護あれ』」

 走りながら左手の親指で鍔を押し上げ、右手で柄を握り鯉口を切る。即座に詠唱。黒い刀身に炎熱を纏わせ、魔剣と化した刀身に魔力を注ぐ。鍔からぶわりと炎が噴き出し、熱風がレンを煽る。

 兵士の頭を丸呑みにしようとしていたランダイナスの口に切っ先を突き入れ、刀身に注ぐ魔力をさらに加速。無銘から炎が噴射され、ランダイナスの体内を焼く。

「ギャァアアア!」

 口の中はおろか内臓まで焼かれたランダイナスは口から焦げ臭い息を噴き出すと、たたらを踏んで後退し、そこで足がもつれて転倒した。

「たす、かった……?」

「なにしてる! 早くとどめを刺せ!」

 レンが怒鳴ると、尻もちをついていた兵士がびくりと肩を震わせ、脇に落とした剣を慌てて拾い上げる。もたもたしていたら今度はレンに殺されると、そう思ったかも知れない。

 兵士は体内を焼かれてのたうつランダイナスの喉を剣で深く裂いた。ランダイナスはびくりと一旦跳ねると、それきり動かなくなった。

「や、やった……!」

「気を抜くな! まだ来るぞ!」

 ランダイナスはまだまだいる。

 レンは魔力をさらに開放し、炎の剣を大きく振るった。熱波が轟と唸り、前線に集中していたランダイナスが炎に焙られて数歩後ずさった。そこにすかさずグレースが、

「『フレイムウォール』!」

 爆炎が兵士の視界を焼いた。地面から噴き出す業火が一斉に下がり横一直線に一塊となったランダイナスの身を焼く。悲鳴がこだまし、炎が収束したのと同時にレンは叫ぶ。

「今だ! やつらを討伐しろ!」

 兵士たちが「うぉぉぉおおおお!」と声を上げ、武器を手に痛手を被ったランダイナスに飛び掛かる。もはや死に体のエニグマなど子供でも狩れる。

 第一第二小隊の兵士がランダイナスを始末し、森の静寂が戻る。

「おお、さすが竜征者殿……この程度のエニグマなど朝飯前ですな」

 シモンが深いしわに笑みを浮かべ、にこやかな表情を形作るが、目は笑っておらず妙にぎらついていた。

 公衆の面前で――というほどでもないが、こんなに人がいるところで竜征者の肩書きを出されレンは不快になったが、表情に出すことはしなかった。

「ありがとうございます。ですがすみません。勝手に兵士を扇動するような真似をして」

「いえ、見事な手腕でした。いっそのこと傭兵など辞めて、我が軍で指揮を振るってみてはいかがですかな」

 出番がなかったのか、それともレンが傭兵を辞めるという可能性が掠めたのか、ジゼルが不満げな顔を向けてきたのをレンは視界の端に見た。

「魅力的な話ですが、遠慮しておきます。俺のやり方や俺の理念は、傭兵でなければ貫き通すのが難しい」

「そうか……まあ気が変わったら相談してください」

「ありがとうございます」

 ――しかし、これでこの部隊の大半が使いものにならないことが明らかになったな。

 シモンはなにを思ってこんな連中を精鋭と呼び、部隊を編成したのだ。

 第一小隊はまだましだが、それでも精鋭というには難がある。本当に精鋭なら、ランダイナスくらい一人で片付けられるはずだ。五人がかりで一体、では新人傭兵程度の戦力にしかならない。集団運用が前提の軍人と少数行動が多い傭兵を同列に語ることはできないが、しかしそれにしたって優れた兵士ならランダイナス程度、一人でカタをつけられるだろう。

「グァアアアアアアッ!」

 そのとき、甲高いはずのランダイナスの声より低い咆哮が森林から鳴り響いた。


3 新兵だらけの偵察隊


「群れの長ってところかな」

 ジゼルが犬歯を剥き出し、背中のギガヘッジの柄を握る。

 ドスドスと重い足音を響かせながら森の闇から浮かんだのは、通常のランダイナスよりも二回り三回りほども巨大なランダイナスだった。周りには十体近いランダイナスを引き連れている。

「ぎ、『ギガダイナス』……」

 さっきまで勝利に浸っていた兵士たちが、一斉に顔面蒼白になった。

 ギガダイナス――それはランダイナスの中でも特別な個体。長い間生き延び、数多の獲物を食らい巨大化し、群れを率いるようになった個体。ギガダイナスから生まれた子供がギガダイナスになるというわけではなく、ごく一部の選ばれたランダイナスが長い年月をかけギガダイナスに変じる、ということだった。

 そういう意味では、『ゴア種』に近いかもしれない。

 ゴア種というのは突然変異を起こしたエニグマのことで、体表の色が特殊だったり体格が少し違ったり――異様に小さかったり異様に大きかったりする――備えている属性が通常種とは異なっていたりする。

 しかしギガダイナスはゴア種ではない。それっぽいというだけだ。ランダイナス、ギガダイナスのゴア種――『ゴアランダイナス』『ゴアギガダイナス』は体表が赤いというわかりやすい違いを持つ。

「ギガダイナスは竜征者殿にお任せしろ! お前たちは周りの雑魚を掃討するのだ!」

 ――いいように顎で使いやがって、あの爺さん……。

 内心面白くはないが、しかし妥当な判断だ。ランダイナスにすら苦戦するようではギガダイナスを倒すことは難しい。

「アンゼリカ、お前は毒矢でもメイスでもいいから近づくランダイナスを蹴散らしてくれ」

「わかりました」

 レンたちから一歩下がり、アンゼリカは後方に陣取ってクロスボウ・ステイルを構える。

「『フレイムピラー』!」

 先手はグレースが取る。固まっていた敵の足下で炎の柱を出現させ、散らす。直撃を食らったのはギガダイナスだけだったが、ランダイナスが散り散りになったのは大きい。最初の一発の衝撃が士気を高揚させたようで、兵士たちが剣を手に駆けだし、我先にとランダイナスに挑みかかる。

「やぁああああああっ!」

 疾駆するジゼルが声を張り上げ、大上段からギガヘッジを振り下ろす。炎の幕ごとギガダイナスの頭部を叩きつける。顔面が地面に沈み込み、赤い目がジゼルをめ上げる。さすがにランダイナスの上位種だけあってフレイムピラーのダメージも小さく、ギガヘッジの一撃を受けても甲殻に傷はない。

 が、ギガヘッジの真価はここからだ。

「ふぅっ!」

 ジゼルが大剣を思い切り引く。ずらりと牙状に並んだ刃が甲殻をぎゃりぎゃりと擦り、刃の一つが甲殻の隙間に噛みついて、べりべりと甲殻を剥いだ。深緑色の甲殻がはがれた皮膚からは出血し、赤い肉が露になる。が、致命傷ではない。

 引き斬りこそが、ギガヘッジの真の力が発揮される瞬間である。あの牙状の刃は純粋に斬るというよりは引き裂くという使い方に特化している。

 レンの太刀もそうであるが、引き斬りは剣の技としても存在する。斬鉄剣、と呼ばれる技法がそれだ。伸ばし切った刀身を引くことで強烈な摩擦力を生み、鉄をも両断する技術である。

「もう一発――」

 ジゼルが剣を振り上げる――が、それよりも一段早くギガダイナスが爪を閃かせる。

 彼女は攻撃姿勢に入っている。躱すことは難しい。咄嗟にレンはジゼルを突き飛ばし、無銘の鎬で爪を受け止めた。足を踏ん張り、重い一撃に耐える。峰を押さえ、耐える。炎熱が篭手を通じて虚竜の腕を蝕むが、普通の皮膚なら蒸し焼きにされるような熱でも虚竜の腕なら平然と耐えられる。並の人間なら押し倒されているところだったが、こういうとき悲しくも竜征者であってよかったと思う。

 上半身に重心が偏り、レンは今だと思った。

 腕を畳み、下肢をたわめて足を一歩、ギガダイナスの股に押し込んだ。

 途端に重心が相手に移り、ギガダイナスがよろめく。突然重心を押しかけられたギガダイナスは数歩後ずさり、苦し紛れか口を開いて威嚇する。

「ぁぁあああああっ!」

 レンの重心移しのうちに横に回り込んだジゼルが大剣を横薙ぎに振るった。

 ギガヘッジの牙が、ギガダイナスの足を噛み裂く。刃が食い込んだのを手応えで感じ取ったジゼルはそのまま柄を引き、刀身を滑らせる。

「ギャァァアアアッ!」

 足を深々と斬り裂かれたギガダイナスが悲鳴を上げ、倒れこむ。足の重要な腱を断ち斬ったようだ。自重を支えきれなくなり横倒しになったランダイナスは、もはや恰好の的である。

「とどめぇえ!」

 ジゼルが甲殻の引き剥がされた頭部にギガヘッジを叩きつけ、刀身を深くねじ込んだ。その一撃は傍目からも頭蓋骨を砕き、脳味噌に達しているものだとわかった。生粋の戦士であるライカンスロープの少女は容赦なく大剣を引き戻し、ギガダイナスの脳を斬り潰す。

 赤い目がぐるんと裏返る。死んだようだ。

「ガァアッ!」

 背後から甲高い鳴き声。レンは振り返りざま無銘の柄頭を振るった。その一撃は密かに接近していたランダイナスの下顎を打ち抜き、大きく仰け反らせた。そこに、ひょう、と一筋の銀光が飛来する。ステイルの毒ボルトだ。

 ボルトが表皮を深々と貫き、毒薬を体内に染み渡らせる。ランダイナスはびくびくと痙攣して、ひっくり返った。

 剣戟の音を耳が拾い、そちらを見る。村側の方でランダイナス三体が隊列を組んで盾を構える歩兵と対峙していた。縦の隙間、上方から矢が射かけられている。が、効果のほどは薄い。

 普通の木材と普通の弦、普通の矢を用いただけでは大した威力を見込めない。弓より威力が出るというクロスボウでさえランダイナスを多少傷つけることしかできないのである。アンゼリカのクロスボウ・ステイルがランダイナスの表皮を簡単に貫通できるのは、ひとえにエニグマ素材を用いたものだからである。その分矢をつがえる際に腕力が求められるが、そこは天使族と竜族の混血児。筋力は平均的な少女をあざ笑うかの如くだ。

「やれやれだな……『サンダーレイン』」

 グレースが詠唱すると、掲げた杖の先端の魔石から紫紺の雷撃が天に向かって走る。その一呼吸後、群れていたランダイナスの頭上から、雷撃の雨が降り注いだ。

 甲殻に阻まれ肉を焼くには至らなかったが、直撃を受けた部位の甲殻がはじけ飛び、肉が露になる。突然の襲撃にランダイナスは混乱したように狼狽うろたえる。

「今だ! 背中を狙え!」

 盾を構えていた兵士が一斉に前に出て、剣でランダイナスの足を斬りつけ転倒させる。その隙に矢をつがえた弓兵が狙いを定め、剥き出しになった肉に矢を射る。痛撃を貰ったランダイナスは立ち上がることもままならず、そこを歩兵の剣が襲う。首を掻き斬られ、血を流して次々ランダイナスが息絶えていく。

 散発的だった剣戟の音も小さくなり、最後には「やったぞ! 我々の勝利だ!」という怒号にも似た歓声が森と村の境目で湧いた。

「アンゼリカ、ジゼル、まだなにか気配を感じるか?」

「いいえ、特には」

「なにも感じないわ」

 感覚能力に優れた二人が揃ってそういうのだから、問題はないだろう。

 レンは一息つき、外套の内ポケットから懐紙を取り出すとエンチャントを解除した刀身を拭った。それから鞘に納める。次に鉈を抜き、仲間たちと倒れたランダイナスらの解体に当たった。

 珍味の棘鉄球が三十近くも集まったことを考えれば、それなりの儲けだ。武具素材になる甲殻と爪、薬になる牙を回収してインフィニウムにしまう。明日、万が一の場合があれば魔族と干戈かんかを交えることにもなる。小遣い稼ぎにもなったしいい運動にもなった、そして兵士の練度も割れた、と捉えておくか。

 やはりというか、兵士は精鋭とは程遠い。

 広場に戻り、レンは川で行水した後、テントの中で濡らした布で顔を拭いた。冷たい感触が心地いい。

「失礼。……いやいや、助かりました、竜征者殿」

 シモンが入ってきた。ちなみにアンゼリカとジゼルとグレースは外の焚き火で晩飯の準備をしている。焚き火に受け軸を付け、鋳鉄鍋をぶら下げて肉と野菜の煮込みスープを作るとのことらしい。グレースが乾燥薬味を作ってくれていたので、インフィニウムには塩や砂糖以外の調味料も揃っている。軍の不味い飯より、幾分もましだ。

「シモンさん、単刀直入に訊きます。あの兵士たちはなんなんです」

 若干声が刺々しくなってしまったが、この際『新兵を押し付けられてこちらも腹を立てている』とわからせるくらいがちょうどいいかもしれないとレンは考えた。

「選りすぐった精鋭、なんて嘘でしょう。さすがに俺もギガダイナスまでやれとは言いませんが、ランダイナス程度相手にあのざま……とても兵士じゃありません。新兵でしょう」

「は……申し訳ございません。仰る通りでございます」

「なんであんな兵を連れてきたんです」

「最後のトリストルド戦争からこっち、兵士が場数を踏む場面がなく、我々セイレス領の兵は弱体化が進んでおりました。この辺りには山賊もあまり出ません。出るとしても国境沿いで商人を狙う盗賊が精々。しかし軍を動かして国境に向かったのでは隣国を刺激してしまう」

「だから大人数で運用する軍人ではなく少人数で動ける傭兵を使い、結果さらに軍人を使う場面が減った、と」

「その通りでございます」

「今回あんな連中を使うのは、場数を踏ませるためですか?」

「はい……今後、革新派の連中とぶつかることがあるでしょう。その際我が領の兵が使いものにならないとあっては、新皇帝陛下の覚えが悪い。別系統の精強な軍に取って代わられるのではないか、最悪、領王様まで挿げ替えられるのではと……」

「なるほどな……俺たち黒狼団は、万が一の保険ですね?」

「…………」

 無言は肯定に違いなかった。

 レンは肺の中身が空っぽになるような大きなため息をついた。

「乗りかかった船ですし、最後まで付き合います。ですが相応の手当てはいただきます」

「はい……申し訳ありません」

「ちなみにこの村は、魔族にやられたものですか?」

「ええ、そうです」

「ということは魔族の偵察という目的自体は嘘偽りないと」

「はい、そうなります」

 新兵に魔族の偵察をさせるとは、気が触れているとしか考えられない。

「思い切ったことをしますね」

「はは……すみません。では、これにて」

 最後まで謝り、シモンはテントを去っていった。

 ――やれやれだ。

「できましたよー!」

 シモンが出て行って間もなく、アンゼリカの底抜けに明るい声がした。

 テントを出ると、焚き火に焙られている大鍋からスープをよそうグレースがいて、ジゼルがスープの盛られた椀と堅焼きパンを手に、尻尾を振りながら食事のときはまだかまだかと待っている。

 レンもスープと堅焼きパンを受け取り、四人で食事を摂った。



 五日目、遠征の折り返し。

 竜の頤に入り、峨々ががたる稜線が太陽に照らされ陽光を四方八方に散らす。道のあちこちに大小様々な石が転がり、車輪がそれを踏みつける度荷台が大きく跳ねる。この灰色の岩山が、帝国の南と東部を顎のような形でぐるりと覆っているのだ。

「そろそろですかね」

 魔族に滅ぼされた村を出たのが夜明け。空が白んでいた頃。今はもう太陽は中天に差し掛かり、昼を告げている。昼食は馬車の中で摂った。御者は堅いパンとチーズを、レンたちは昨日焼いておいた肉を挟んだパンを食べた。

「着きました」

 御者台の兵士がそう言い、馬車を止める。

 昨日泊まったあの村となんら変わらない惨状が目の前に広がっていた。焼き払われた家々と人気のなくなった空気感。こんな不便な山奥にも、なぜか人は住む。土地がある限り、人というものは必ずそこに根付く。村というよりは町ほどの規模もある。人口は百から二百、もしかしたら三百に近いかもしれない。かなりの規模の町といえたが、しかしここに息づいていた人々はもういない。魔族に殺されてしまったのだろう。

 馬車を止め、兵士たちが次々降りる。

「…………? アンゼリカ、なにか感じるか?」

「それなんですが……私たち以外の気配をまるで感じないんです。魔族は独特な魔力の波動をしているので付近にいればわかるんですが……」

「どういうことだ……?」

 兵士たちと町の中心部まで進む。井戸を中心に丸く広がる広場に出ても、異様な気配というものはまるで感じなかった。

 ――いや?

くさい……」

 鼻の良いジゼルが真っ先に気付く。続いて、レンも気づいた。

 ――臭い。これは……腐臭か?

「わぁあああっ!」

 兵士の一人が大声を上げ、レンは振り返った。

 そこにいたのは。

「『リビングデッド』だと?」

 グレースが腐臭に眉をしかめながら、その存在の名を口にした。

 リビングデッド。

 その名の通り、動く死体。屍霊魔術によって蘇らされた死者。肉を持った死体アンデッドや肉のない骨だけの死体スケルトン、魔力によって物理的干渉能力を持ったレイスなどがそれに属するもので、魔力によって体や物理的実体を持った魂が動く。蘇った竜ははっきりと自分の意思を持っていたが――恐らくダークブリンガーの影響だろう――、基本蘇った死者に意思はない。魔力によって与えられた紛いものの命で、術者の命令の意のままに動くだけの人形だ。

 弱点は頭脳。魔力が集中するのはアンデッドもスケルトンも頭脳で、首を斬り落とせば動かなくなる。その点は生きている人間と同じだ。アンデッドは動きが緩慢であること、スケルトンは動きがカクついていて直線的であるため、普通の人間を相手するよりは楽かもしれない。

 だが問題は死者であるということ。彼らは死を恐れない。

 そして。

「なんて数ですか……」

 押し寄せるアンデッドやスケルトン――リビングデッドの総数は、ざっと見ただけでも百以上。まだまだやってくる。四十名の、しかも新兵だらけの部隊で相手するのは困難だ。幸いなのはレイスがいないことだ。あいつらは飛び回るし、意思の弱い人間なら取りつかれて体の自由を奪われることがある。

「クソ、こいつら魔族の差し金か?」

 レンは抜刀し、「『汝、焦熱の加護あれ』」と唱える。リビングデッド系は炎属性に弱い。

 続けて仲間たちの武器にもエンチャントする。アンゼリカはメイスのユドスを構える。無理もない。相手は死者。毒ボルトは効果がない。ジゼルは愛剣ギガヘッジを構え、炎を宿した刀身を構える。

「恐れるな! 所詮相手は死体だ! 頭を斬り落とすか叩き潰すかしてしまえばなにもできなくなる! 逃げ回るより戦って活路を開く方が生き残れる!」

 レンの怒号に、兵士たちは「おっ、おおおお!」と声を張り上げ、恐怖を押し殺して武器を構える。

 どのみち逃げ場はないのだ。死者は四方八方から押し寄せてくる。限定された空間で逃げ回っても最後は擂り潰されるように殺されるだけである。ならばいっそ、戦って活路を開くのが最善策だ。

「『エクスプロージョン』!」

 グレースが爆炎球を放ち、死者の軍団の一部を吹き飛ばした。

 それが嚆矢こうしとなった。

「行け! 進め! 突撃ーーーーっ!」

 小隊長たちが命令を飛ばす。

 兵士たちに混じって、レンたちも己の得物を振るった。


4 本当の姿


 焦熱の加護を得た刀身で、死者の腐肉を斬り裂き、骨を断つ。首を落とされた腐った肉体がどうと倒れる。

 動いているのは粗悪なチュニックや麻のシャツやズボンといった恰好の、民間人と思しき死体だ。そして衣服を一切身に着けていないスケルトンがカタカタと顎を鳴らし、笑っているかのように迫ってくる。

 恐らくここのリビングデッドは、町の住民だろう。アンデッドの方は死んで――殺されて――間もない死者、スケルトンは埋葬されていたであろう死者だ。割合としてはアンデッドの方が多い。

 武器はまばらだ。すきくわ、草刈り鎌。中には剣を持っている者もいるが農具や素手という者の方が圧倒的に多い。

 装備ならこちらの方が上だ。一対一であれば、新兵ばかりとはいえこちらに分がある。しかしいかんせん数が多い。既に八名の兵士が死者に食い荒らされ、死傷していた。治療をすれば間に合う者もいたが、この状況ではのんきに回復している暇もない。死者は増すばかりだ。

 リビングデッドはごく原初的な本能に支配されている。それはすなわち、食欲だ。

 八名の死傷者も武器でやられたというよりは噛み殺されたといった方が適当だ。しかもその本能に加え、魔術的な命令が働いているのか負傷者は皆急所をやられている。喉だ。そこを食い千切られ、失血死している。

 アンデッドもスケルトンも動きに癖がある。気を付けてさえいれば、無傷で倒すこともできる。が、

「くっ……」

 左腕に衝撃。気配は感じていた。だが目の前の敵で精一杯で反応が出来なかった。ちらりと見ると、スケルトンがレンの左腕に噛みついている。

 まずは目の前だ。息が詰まりそうな腐臭を漂わせるアンデッドの首を一撃で落とし、振り抜いた刀身を構え直し柄頭を篭手に噛みつくスケルトンの側頭部を打つ。

 顎が外れ、がら空きになったスケルトンの顔面に左拳を叩き込む。エニグマをも吹き飛ばす砲弾の如き一撃が爆ぜ、スケルトンの鼻骨からひびが広がり頭部を粉砕した。

「オオオオオオオオ……」

 鍬を振り上げたアンデッドが背後に回り込んでいた。レンは横に跳び、振り返りざま、

「『ファイアボール』」

 火球を飛ばす。顔面を焼かれ、アンデッドが頭を掻き毟りながら後退していく。その後ろから草刈り鎌を持った女の死人が飛び出す。わけもわからず演劇の舞台に突き出されたような足取りで動きは遅い。

「……許せ」

 レンは無銘を一閃し、首を落とした。炎の力を収斂しゅうれんさせた魔剣は抵抗なく腐肉を斬り裂く。

 相手はこちらに仇なす既に死んだ器物に過ぎない――法的にも、現実的にもそうだ。だから罪のない市民とはいえリビングデッドは殺しても罪には問われない。

 だが心理的に「器物ですか、じゃあ壊してしまいましょう」と易々納得できるわけではないのだ。彼ら彼女らは生前はごく普通の人で、死んでからは天に昇った先の神界で神々と魂を共にするはずだった、安らかに眠るべき存在なのだ。既に意思も魂も持たない死者に許しを請うことはできないとはいえ、どこかで言葉に出し折り合いを付けなければやってられない。

 斬奸の剣の対象は、その名の通り悪人に対して振るわれるものだ。無論自衛のためにも振るうがよほどのことがなければ殺しという手段はとらない。

 相手が既に死んでいるから首を落とすこともできるが、元をただせば彼らは無辜の市民である。斬っていていい気分になるわけがない。

 一人斬る度、一人葬る度、一人一人死者に戻していくたび、もやもやした嫌な気分が鎌首をもたげる。リビングデッドと戦うのは初めてではないとはいえ、この感覚はきっとどれだけリビングデッドとの戦闘を繰り返しても慣れないだろう。いや、きっと慣れてはいけないのかもしれない。これに慣れたとき、自分は真の外道となってしまう。

 もし死人が、自分の近親者だったらと思うと、……そんな恐ろしい妄想に囚われ、レンは頭を振った。あの優しい母が牙を剥いてくる様子を想像し、舌打ちする。

 そうした悲劇を未然に防ぐため、ブレスク共和国では死者を埋葬する際にあらかじめ頭部を再生不可能なまでに潰してしまうという方法を取ることがあるらしい。一番確実なのは火葬だが、アルヴンウォーク大陸では火は生命の象徴とされていて、死者を焼くことに用いることは全くといっていいほどなかった。どの国も土葬が基本なのである。だからこそ死者の復活などという魔術が発展した。一時期は死者を労働力に用いるということもされはしたが、結局はあまりにも非人道的だとされ、倫理的問題という壁にぶち当たり、最後には魔術師協会によって禁術指定にされた。

「オオオオ……」

 苦悶の表情を浮かべる死者の女がレンの肩を後ろから掴んだ。大口を開け、首筋に歯を突き立てんとする。

 ――しまった。

 咄嗟に腰を落とし、背後に肘打ちを放つ。アンデッドの女の脇腹に肘がねじ込まれ衝撃でレンの肩を離す。人間なら激痛にのたうつところだが、死者に痛みを感じるという身体的機能などはない。

 と、四方八方から死者の群れ。

 無銘に魔力を注ぎ、炎を生む。右足を軸に回転し、ぐるりと周囲に火炎を振り撒いた。

 炎の勢いで仰け反った死者の首に刃を走らせ、背後から突進してくるスケルトンの頭部を左手で掴み握り潰す。頭蓋骨が軋みを上げて耐えるが、竜征者の強化された握力には勝てるわけもない。骨が圧潰あっかいし、スケルトンがボロボロに崩れ落ちる。頭脳からの魔力供給が絶えて連動していた骨と骨の繋がりが保持できずバラバラに砕け散った。

 鋤を突き込んできた一撃を腰を捻って回避。革鎧に掠ったが錆びた農具程度では傷など一つもつかない。エニグマの中でも強力な部類であるグロムガロウの皮はただでさえ頑強なのである。それを特別な薬品で煮込み硬くし重ねたのだ。剣で斬りつけられても弓矢に入られてもひっかき傷一つ、穴一つ開かない。

 突き込まれた鋤の柄を握り、引っ張る。

「ふっ!」

 死者がつんのめるように前に出て、隙を作ると無銘を振るって首を落とす。

 その後ろから、別の死体が飛び出す。両手を前に突き出し、もつれるような動きで足を動かしながらレンに向かってくる。緩慢な動作といわれるアンデッドの割りに動きが早い。しかも立派な甲冑を着こんでいる。もしかしたらこの町の衛兵隊長かなにかか。

 鉄をも切り裂く鬼の骨の刀である。甲冑ごとき、物の数ではない。しかし油断はできない。

 脳天唐竹割を狙うかと一瞬思ったが、頭には頑丈そうな兜。ただでさえ脳天への一撃は頭蓋骨で刃が滑って一撃必殺を逃す確率が存在するのだ。加えて兜である。一撃で仕留めきるには少し困難だ。

 レンは足を狙い、無銘を振り払う。超高熱の刃が脚甲を焼き切る。その下の肉と骨も断ち斬り、転倒させる。

「やぁっ!」

 そこに、ジゼルの一撃が叩き込まれた。首筋にギガヘッジが叩き込まれ、引き斬りと同時に首と胴を引き離す。

「カッ、カカカ……」

 直線的な動きで、錆びた剣を持つスケルトンが突きを見舞う。レンはそれを受け、弾く。

「せぇええい!」

 ユドスを握ったアンゼリカが跳躍し、頭上高く構えたメイスを振り下ろす。スケルトンの頭はその一撃で粉々に粉砕された。

 と、目の前に密集陣形を組み、槍の代わりに先端が割れた刃先をいくつも持つピッチフォークを構えた集団が現れた。この戦いの帰趨を見ていたであろう屍霊魔術が戦術を変えたのだろうが、レンたちには都合がよかった。

「『フレイムウォール』」

 グレースの詠唱と共に密集陣形を組んだアンデッドの足下から炎の壁が吹き上がり、死肉を焼いた。健在な肉体を持つ人間が喰らったとしても骨が見えるほどの重傷を負う中級破壊魔術である。腐乱した肉などではひとたまりもない。

 炎が止まる。

 炭化した下半身ではもう歩くこともままならない。ずるずると地を這うアンデッドに、生き残った兵士たちが剣を振るった。

 そうしてしばらくして敵の勢いが衰えてきた。しかし、こちらもかなりの痛手を被った。兵士は既に二十六名が死亡し、残りはレンたちを除いて十名。

「ねえ、シモンがいない」

 ジゼルが生き残った兵士を見回している。

 確かに、いない。

 ――まさか死んだのか?

 いや、だとしたら死体が残るはずだ。辺りには首のない死者の残骸と骨が散乱し、その中に鎧姿の兵士たちの亡骸が横たわる。その中に、ローブ姿の老人の遺体はない。

 逃げたのか、という可能性が湧いて出る。

 シモンの人柄を知らないレンには判断に困る状況だった。だがどちらにせよ、とにかく生き残った兵士の統率を取らなければならない。

 今のところ、リビングデッドの襲撃は止んでいる。この隙に行動すべきだ。

「お前ら、いなくなったシモンを探すぞ」

「は、はい」

 兵士たちの顔には疲労の色が浮かんでいる。肉体的にも、精神的にも疲弊している。

「その必要はないよ、諸君」

 上から声。

 同時に、ごわっと風が舞い、死者が空気に滲ませる腐臭を吹き払う。

 レンは我が目を疑った。

「……馬鹿な」

「あれ……まさか」

 アンゼリカが続ける。

「竜……?」

 赤い甲殻を持つ虚ろな目をした竜が降り立つ。その背から二人の人が降りてきた。

「はっはっは……いや、さすが動乱にある帝都から皇女を連れだしただけはある。黒狼団はやはり生き残ったか……竜を倒したというのもあながち嘘ではないようだな」

 一人はシモン。その目に狂気を湛え、口は大きく裂けたように見えるほど口角を持ち上げている。愉快で仕方がないとでもいうように。

 そして、もう一人。

「久しぶりね、レン」

 ルシア・ジノヴィエフ。

「どういうこと……?」

 ジゼルが大剣を手に、いつでもどこからでも敵が来てもいいように重心を低くして構える。

「見ての通りよ、狼ちゃん。彼――シモンは革新派に鞍替えした屍霊魔術師なの」

 ちっ、とグレースが舌を打つ。

「つまりたった今の襲撃はシモン、お前の手によるものか。なるほど、竜を蘇らせるほどの力量があれば大軍を呼ぶことも不可能ではない、と。魔族のせいにして部隊を運ぶという名目で堂々と埋葬地に行き、竜の力で目撃者を消すつもりか」

「その通り。魔族などどこにもおらんよ。でっち上げだ。山賊を雇い、ルシア殿の力を借りながら周辺の村々を潰し、この町をも破滅させた。そして死者を集め、軍勢を用意した。兵士を弱いうだつの上がらん連中にしたのも処理を手早く済ませるためだ。第一小隊だけを少し使える兵士にしたのは、道中私を少しでも守らせるためだな」

「領王への忠誠はないのか」

 グレースの声に怒りが滲むが、シモンはそれを嘲笑と共に一蹴した。

「は! 馬鹿馬鹿しい! あんな女に忠誠を誓ってなんになる。私はな、これから富と名声を手に入れ美味い酒を飲み女を抱き余生を過ごすのだ! 力を持つ者に恭順してなにが悪い。これからの時代、順応性がなければ生き残れんよ。旧態依然とした考えにしがみついていては歴史に取り残される。歴史の先頭に立つのは常に強いものだ。エドワード様はいずれ大陸の統一を果たすだろう。そして私は未来の歴史書に名を遺すのだ! 偉大なる竜を蘇らせ、陛下の力の一翼を担った功労者としてな!」

 グレースが杖をシモンに向ける。

「馬鹿馬鹿しいとはこちらの台詞だ。易々と主君を乗り換える貴様如き、利用されて捨てられるのがオチだ。分をわきまえて王宮魔術師を続けていればよかったものを……」

「黙れ血色の悪いダークエルフめ! 貴様のような売女に陛下の御心がわかるものか! 私の力を必要とし、選んでくださったその崇高な意思! それにお応えするのだ!」

「ふん、どうせ革新派の旗色が悪くなれば余所の勢力に乗り換えるんだろう? それでよく崇高だなどと言う言葉を使えるな」

「うるさい、小娘が!」

「その話はもういい。……俺たちを呼んだ理由はなんだ」

 レンが一歩前に出ると、ルシアが竜の頭を撫でながら口を開く。

「私よ。決着をつけるために呼んだの。この世界に二人も竜征者はいらない。虚竜を征伐するのは私一人で充分。それに、上から命令が下った。エドワードの覇道にあなたは邪魔になる」

 ルシアの目が金色の光を放ち、竜の目が濁りを捨て澄んだものに変わる。恐らく、たった今絆を結んだのだろう。

「邪竜を殺せるほどの力を持ったあなたを殺すには山賊や死者の軍団程度じゃ無理。だから私に仕事が下った。悲しいけど、前に言ったわね……『私には私の、あなたにはあなたの正義がある』って。今がそのときよ。互いの正義が食い違った。戦って、己の“意思”を貫き通すしかない」

「そうだな……そうかもしれない」

「この子も邪竜。名を、『火竜サングリアス』。三百八十年前の竜大戦で猛威を振るった存在よ。そして今、竜征者わたしと絆を結んだ。以前戦った水竜アクアヴィットとは比べ物にならないわよ」

 めりめりと音を立て、ルシアの体が黒い甲殻に覆われる。虚竜化だ。鎧の下でも変化が起きているのだろう。やがて首筋から黒いものが浮かぶと、間もなく頭頂部まで黒い甲殻が皮膚を覆った。レンと同じように額には二本の角、腰からは竜の尾。金の髪が恐ろしげにエニグマのハイドラの多頭のように揺らめき、金の目が輝きを放つ。

「行くわよ」

 ルシアはそう言うと、馬に跨るかのような動作で竜の首に乗った。そうして足で首筋を蹴ると、火竜サングリアスが飛び上がる。

「レン! 本気を出しなさい! アンゼリカの真の姿を見せてみなさい!」

 天高く飛び上がった竜を見、レンはアンゼリカを見やった。

「私は大丈夫です。レンの許しがあれば」

「俺も大丈夫だ。お前の許しさえあれば」

 互いに頷き、力を解放する。

 レンの肉体にめきめきと黒い甲殻が現れ、額に角が生え、腰から尾が生える。力が増す感覚が精神を満たす。昨日今日と消費した分の魔力がアンゼリカから流れ込み、消費した分が一瞬で回復する。

 そして、アンゼリカにも変化が訪れる。

 彼女の全身から白い光が漏れ出し、包み込む。光の人型はやがてその形を失い、巨大化。光はやがて竜の姿かたちを取った。

「アンゼリカの……本当の姿……」

 ジゼルが呆然と呟く。グレースは黙っていたが、その目は驚きの感情が浮かんでいた。

 彼女たちは初めて見るのだ。アンゼリカの真の姿――竜形態を。

 光が弾け、そこに白い甲殻の竜が現れる。

「行きましょう、レン」

「ああ」

 レンは跳び上がり、アンゼリカの首の付け根に跨った。

「ジゼル、グレース、その狸ジジイをとっ捕まえろ! 領王の前に引きずり出してやる」

「任せて!」

「わかった」

「行くぞ、アンゼリカ」

 こつん、と足でアンゼリカの首を叩く。白竜は強靭な脚力で飛び上がると翼を羽ばたかせて天高く空に向かって昇った。地上が一瞬で遠くなり、先に飛び上がったルシアとサングリアスの姿が目に入る。

 サングリアスが身を翻し、急降下を始めた。

 アンゼリカは垂直に姿勢を変え、迎え撃つ。

 ――ルシア……。

 戦うことに、悲しみを覚える。だが、いずれぶつかる運命にあったのだ。避けては通れない道なのだ。己の奉じる生き方の先で、たまたま彼女と衝突する。それだけのことだ。

 ――さあ、行くぞ。


5 竜征者VS竜征者


 交錯する瞬間、天から火竜サングリアスがブレスを放った。竜の口から放たれる火球は巨大で、人の身を飲み込むほどに大きい。それを、アンゼリカのブレスが迎撃する。人間形態時よりも遥かに威力の上がった熱線が火球と激突すると、大きな爆発が起きた。その爆炎に突っ込む。

 竜と竜が空中で背を掠める。甲殻がこすれ合い、赤と白の鱗が数枚宙を舞った。

 サーベルを抜いたルシアの一閃が襲ってくるのを、レンは無銘の鎬で受けた。火花が散って視界を彩る。

 相手は火竜。炎を操る竜だ。経験則から、炎を操る存在は氷に対する抵抗力が低い。実際に炎を扱うエニグマであるグロムガロウは氷属性に弱かった。

 レンは僅かな思考の後、上昇する竜の首の付け根で伝承級付与魔術を行使する。魔力の出どころは無限に近い魔力を持つ天使竜アンゼリカだ。

「『汝、降雹こうひょうの加護あれ』」

 氷結の加護よりも強い氷の力が刀身に宿る。それだけではない。水色の輝きはレンの全身を包み込む。

 一瞬、ルシアも伝承級魔術を行使するのでは、と思ったが、すぐにそれはないなと結論付けた。伝承級魔術は魔力に優れたエルフ族が百人揃ってようやく行使が可能になるほどの魔力量が必要になる。それを竜征者とはいえ人間族程度が捻出できるとは思えない。

 レンは足りない魔力をアンゼリカからのトランスファーで補っているが、これは魂の融合を行っているから可能な芸当である。そして魂の融合は、昨日今日会ったような関係ではまず行えない。竜と魂の絆を結び、長い年月をかけ、真の意味で絆を深めた者にしか扱えないものなのだ。

 勝機はそこにある。竜征者としての経験は、竜の目という外見的特徴からルシアの方に軍配が上がるだろうが、しかし伝承級魔術があれば、それを補って有り余るアドバンテージに違いないだろう。

 雲を突き抜けると、アンゼリカは地上と水平に飛行を開始する。背後からサングリアスが迫って来るのを風の音で感じた。

 レンは立ち上がり、アンゼリカの背に立つ。高速で飛行する竜の背に立つのは初めてだが竜征者としての力を解放し、さらに魂の融合まで行っている間柄である。互いの動きを無意識に理解し平衡感覚を取らせることくらい造作もない。

 サングリアスが口腔を開き、巨大な火球を放つ。アンゼリカがぐるんと回転し、一瞬天地逆さになる。レンは咄嗟に「『リライト』」と呟き天使竜の甲殻の構造を書き換え、足を引っ掻けるようにして転落を免れた。頭上すれすれを、火球が過ぎ去った。

 火竜がぐんと速度を上げ、天地逆さに飛行するアンゼリカと並ぶ。サングリアスの背にはルシア。二本のサーベルを抜き、振るう。

「諦めて、退きなさい!」

 縦横無尽に振るわれる剣戟をレンは一本の刀で弾き、いなし、受けとめ受け流す。

「『エクスプロージョン』!」

 アンゼリカと繋がりが強まっている間だけ、レンの破壊魔術は中級並みのものを扱えるようになる。左手から放たれた人の頭ほどもある炎の塊がルシアに直撃した。

 普通の人間なら肉を吹き飛ばされ、骨を砕かれ爆散する一撃である。しかしルシアには傷一つなかった。その身には、黒いオーラの膜。魂の絆を結んだことによって、邪竜が持つダークブリンガーの力を借り受けたのだろう。

「『ファイアストーム』!」

 ルシアが左のサーベルをレンに向け、そこから噴流する爆炎を放つ。上級破壊魔術。サイクロプスの肉を穿つほどの破壊力を持った火炎が指向性を持って解放される。

 瞬時の判断でレンは足の留め具と化した甲殻を外し、宙に身を躍らせ一回転。サングリアスの背中に降り立つ。

「きゃぁあ!」

『ファイアストーム』がアンゼリカの甲殻を焙り、彼女が悲鳴を上げた。レンがいないことを確認して強引に身を翻して攻撃範囲から逃れる。一瞬、背中が緑に輝いたのを見た。自分で自分に回復魔術をかけたのだ。

「どうしてあなたは戦うの?」

 構えを取ったまま、互いに言葉を紡ぐ。

「俺の奉じる生き方に背を向けないためだ。俺は斬奸の剣、弱者の盾であり続ける。竜征者としての使命をないがしろにするわけじゃない。虚竜はいずれこの世界の脅威になる。そのとき殺されるのは弱者だ。俺は斬奸の剣で虚竜を討ち、弱者の盾となる。邪魔をするなら……お前でも、斬るぞ」

「立派な考えね。傭兵というより騎士に向いてるんじゃない?」

「お前はどうなんだ。なんで弱者を巻き込むような真似をする革新派に肩入れする? 師匠から学んだことは、弱者を踏みつけてのし上がることだったか? 違うだろ!」

「その師匠は死んだわ。彼女の意思は、虚竜に飲み込まれた。私は悟ったのよ。あの人の剣じゃ世界を書き換える意思を持つ虚竜には届かないって。非情になるべきなのよ。力をつけ、虚竜を討つ為にはね。斬奸の剣? 弱者の盾? 嗤わせないで。そんなものではデミウルゴスには届かないのよ」

 雲に突っ込み、突き抜ける。ルシアが斬りかかってきた。

「今でこそ宗教として確立され、初代皇帝の偉業が称えられてるけど、彼だって非道な決断を下してきたわ。綺麗事だけでは虚竜を狩れないの」

「なら俺がその体現になってやる」

 剣を弾き、突きを見舞う。愚直なまでに真っ直ぐな、だが最速の一撃。避けられる。すぐさま八相に構え直した。降雹の加護を受けた刀身の峰から吹雪が舞い、振るわれる剣の速度を跳ね上げる。袈裟懸けに振るわれた一撃はルシアの骨の鎧に傷をつけた。

「さすが伝承級……竜の骨から削り出した鎧に傷を与えるなんてね」

「竜の骨だと?」

「そう、虚竜に従わされた竜を狩って、その骨で鎧を作った。このサーベルも竜の骨から削り出したものよ」

 そのとき、サングリアスが邪魔者を振り落とそうと身をよじった。ルシアが即座に「『リライト』」と詠唱する。さっきレンがやったように、甲殻を留め具にして足を固定したのだ。

 レンは体勢を崩し、振り落とされそうになる。咄嗟に無銘に魔力を注ぎ、先端に返しの付いた氷の刃を形成した。それをサングリアスの背に突き立てた。黒い膜と硬い甲殻を貫き肉の奥深くまで達する。

 直後、邪竜が身を裏返した。先ほどのアンゼリカのように上下逆さになる。

『リライト』を使えば足を固定できたのでは――と誰もが思うだろう。だが使わなかったのではない。使えなかったのだ。

『リライト』は基本、魂を持った存在――生きているものには作用しない。自分自身か、魂の融合を行っていて“自分”の概念が混ざり合っているアンゼリカにしか使えないのだ。それ以外の生物には『リライト』を使用することができない。

「く……」

 柄をしっかりと握り、重力の手引きに逆らう。宙ぶらりんになる肉体を右腕一本で支えて落下に耐える。

「『フレイム――」

 ルシアが詠唱を始める。レンは即座に剣に魔力を注いだ。刀身の付け根、鍔から笠状に氷の壁を張る。

「――ピラー』!」

 レンの剣が突き立てられた箇所が橙に輝き、炎が噴き出す。降雹の壁が炎に焼かれ、少し溶けかかるが魔力を注げば溶けた分はすぐに再生する。

 一瞬、このまま体内に突き刺した氷を内側から爆散させ、邪竜の肉を内側から食い破ろうと考え、そちらにも魔力を注ぐ――が、ダークブリンガーの抵抗力が勝り氷の爆散が発動しなかった。

 ダークブリンガーは体内にある。体表面より体内の方が魔術的な抵抗力が勝るのはそのためだろう。

 炎が止む。氷の笠は健在だった。ルシアが一歩距離を詰め、無防備なレンに斬りかかる。

 腕を畳み、姿勢を変え一撃を避けた。

 このままじゃじり貧だ。

 足に氷の刃を形成し、ルシアの斬撃を受けた。サーベルと降雹の刃が激突する度氷の欠片が舞い、レンが劣勢であることを知らしめる。

 両足を振るってルシアの攻撃をいなし、ときに反攻に転じるが決定打には程遠い軽い傷しか与えられない。

「『テンペスト』」

 痺れを切らしたルシアがまたも上級破壊魔術を行使する。

 こちらに向けられたサーベルから無数の大きな風の刃が竜巻のように渦を巻き、ごうごうと唸った。レンをなますのように斬り裂かんと牙を剥く。足の氷を盾のように展開するがさすがは上級魔術、表面をことごとくガリガリと削り取っていく。魔力を注ぎ、慌てて修復していく。

 相手は魂の融合を行っていない。魔力の総量という点ではレンに分がある。持久戦に持ち込まれればレンが勝つのが必定。相手もそれをわかっているから、『テンペスト』の勢いをさらに増した。総量ではなく瞬間的な出力で勝負を決めようというのだ。

 風属性破壊魔術の上級攻撃にさらされたレンは、たまらず剣の氷を解除し、空中に身を躍らせる。ルシアがサーベルをこちらに向け――しかし、諦めて即座にかがんだ。彼女の頭上を真っ白な熱線が通過する。

「レン!」

 落下していくレンの下に滑り込んで、アンゼリカは無事にレンを拾うと安心したように息をついた。

「ふぅ、危なかった」

「助かったよ」

 飛行するアンゼリカの隣にサングリアスが迫り、体当たり。人間を遥かに超える質量物体の体当たりである。衝撃は尋常ではない。ルシアがサーベルの切っ先を姿勢を崩したこちらに向ける。レンもすぐに左手を向けた。

「『エクス――」

「――プロ―ジョン』!」

 同時詠唱。

 両者から放たれた『エクスプロ―ジョン』は竜の間で爆ぜ、しかし高速で飛行する二体の竜の間の空間などあっという間に過ぎ去っていく。

「『ブレイズブロウ』」

 サーベルの切っ先から、風を渦巻かせる炎の塊を撃ち出す。聞いたことのない詠唱呪文だったが、単語から見当はついた。

 恐らく、『混合魔術』。

 二種類以上の属性を混合した魔術で、高位の魔術師しか行使できない。

 レンは剣の氷を膨張させ大剣サイズに変えるとその腹で『ブレイズブロウ』を受けた。『リライト』で足をアンゼリカの甲殻に固定し、衝撃に耐える。

『ブレイズブロウ』が氷の盾に直撃すると、ズン、と腹の底に響く感触が骨の髄まで届く。炎と風の混合魔術は、着弾と同時に熱風の刃を生むものらしい。着弾と同時に発生した炎の斬撃が氷の盾を抉る。

「ふっ」

 ルシアがアンゼリカの背に飛び乗る。先述の通り、ルシアの『リライト』はアンゼリカには作用しない。彼女は竜征者として培った平衡感覚だけを頼りに高速飛行する竜の背でバランスを取る。

 下方を滑る足狙いの一撃と首を落とさんとする上方の斬撃が同時に襲い来る。

 レンは足の固定を外し、サーベルとサーベルの間に身を躍らせ、攻撃を躱した。着地と同時に、レンは『リライト』で金属篭手を書き換え、肘を外気に晒す構造にする。そして左腕の肘部分を変形させた。

 バキバキと音を立てて黒い甲殻が形を変える。筒状の、魔力砲の発射口のようなものが三本せり出す。

 ほとんど勘に近い行いだった。

 筒状になった肘で魔力を圧縮し、爆発させる。

 魔力砲を撃つと、反動が起きる。ではその反動を攻撃に転用できないか。

 魔力の爆発。それが推進力となり、拳がもの凄い速度で飛び出す。

「おおおぉぉおおっ!」

 雄叫びと共に腰に引いていた拳が、ぐん、と突き出された。ルシアの竜の骨の胴鎧に激突する。ダークブリンガーの黒い幕を貫き、竜の骨の鎧にひびが入り、ルシアの体が吹き飛んだ。

「ぐぅっ」

 アンゼリカの背中から転げ落ちたルシアは宙に放り出され、しかしサングリアスが彼女を拾う。

「アンゼリカ、決めるぞ。上がれ!」

「わかりました!」

 ぐんっと上昇を始めるアンゼリカの背中で、レンは『リライト』を発動する。

 アンゼリカの甲殻を書き換え、無銘に纏わせていく。黒い刀身はそのときばかり、純白を宿す。さらに吹雪が吹き荒れ、極低温の氷属性の勢いを増す。

 刀身三尺だった剣は、その瞬間サイクロプスの上背をも上回る長大な刀と化す。

「『竜征りゅうせいとう』――さて、さっきの応用だ」

 首の付け根、鎧のないはだけた部分から黒い甲殻が成長しはじめ、背中側に伸びていく。それはやがて一対の翼と化し、レンの背中を覆う。

 飛び降りる。

 アンゼリカと“魂の共鳴”を行い、敵の位置を探索する。魂の融合を行ったからこそできる魂の共鳴は、融合のさらに一段上、互いの存在を一つにする行為だ。

 天使竜の感知能力を得たレンは、真下から迫る魔力の波動を感じた。一直線にこちらを追ってきているのだろう。それが手に取るようにわかる。好都合だ。

「ぉぉおおっ!」

 背中に伸びた翼に魔力をこめ、噴射する。魔力砲のように一発に限って撃つのではなく、継続して発射し続ける。青白い魔力の粒子が噴流し、レンの落下速度をぐんぐん上げていく。

 頭を真下にして竜征刀を大上段に掲げ、一直線に落下していった。

 視界の向こうに赤い点が見え、数呼吸もしないうちにぶつかることが感覚で理解できる。

 サングリアスがブレスを放つ。人間など一飲みにしてしまう火球が飛来し、レンは翼から放つ魔力の出力を上げ一回転。降雹の加護を炸裂させた刀身が水色に輝き吹雪を荒れ狂わせる。

 縦一文字にぐるんと回転したレンと竜征刀は火球を綺麗に両断した。二つに割れた火球が彼方に飛んでいき、爆発する。

 回転は止まらない。

「ぐっ、ぉぉおおお!」

 平衡感覚を失うほどの猛回転。だがそれでも翼から放つ魔力の噴射を抑えない。さらに出力を上げて高速回転する。

「ぉおぉおおおぁああああああっ!」

 猛威を振るう吹雪の竜巻と化したレンは、真下から迫るサングリアスを斬った。

 脳天から尾の先端にかけて、超長大な刀で竜を真っ二つに叩き割る。ダークブリンガーの防御膜と甲殻と筋肉と骨を、まとめて斬り伏せる。

 上下感覚さえわからなくなるほど目まぐるしく回る視界――その刹那、レンは見た。

 火竜サングリアスが、文字通り真っ二つになった様子を。

 そして、右腕を斬り落とされ、驚愕の表情を張り付けたルシアを。

 ばりん、とガラスを割ったような音がして竜征刀が砕け散った。白い刀身は鱗の欠片となって辺りに散らばり、黒い刀身が元の姿を取り戻す。

 翼の角度を変え魔力の噴射量を調節し、回転速度を落とす。しかし落下自体は止まらない。

 空を飛ぶのは初めてだ。上手くいく保証はないが、レンは体を地上と水平にし、魔力を噴射する翼を調整して飛行する。しばらくそうした後、翼の角度を変え滞空を始めた。

 二つに斬り裂かれた赤い竜と、点のような赤が落下していく。前者はサングリアスで、後者は赤い外套を身に纏ったルシアだ。

 今飛んで行けば、ルシアを救うことくらいはできるのではないか。

 そんな考えが脳裏をかすめた。

 ――いや、違う。あいつはもう敵だ。

 レンは首を振って、甘い考えを頭から放り出した。ルシアにはルシアの意思がある。彼女は恐らくレンが説得しても自分の歩みを止めることはないだろう。

「……さよならだ、ルシア」

 十年前のあのとき言えなかった別れを口にし、レンは無銘を鞘に納めた。

 そこにアンゼリカが戻ってくる。

「レン……大丈夫ですか?」

「どういう意味でだ」

「その……いろいろな意味でです。竜征者の力も使いましたし、魂の共鳴も使用しました。自我は大丈夫ですか? 私に侵されそうになっていませんか?」

 魂の共鳴は、魂の融合を用いた相手と行う、一種の魂の結合である。もともと独立して存在する魂を融合することは基本的に不可能だが、魂の書き換えという力を持つ虚竜に見出された竜征者にはそれが可能になる。

 自我を自我たらしめる魂の融合は、ときに意識の変容をもたらす。一歩間違えれば魂が混じりあい両者の自我の喪失に繋がるのだ。幸いアンゼリカは天使と竜の混血児で、魂は人間に比べ強靭である。問題なのはレンの方だった。

 竜征者とはいえもとはなんの変哲もなかったただの人間である。虚竜に見出されデミウルゴスの魂の書き換えに対する抵抗力こそあるが、根は人間なのだ。一歩間違えば、強大なアンゼリカの魂に飲み込まれ自我と意思を失うこともあり得るのだ。

「問題ない」

 レンを支配する意思に、今のところ変調はない。魂に不和も感じない。

「本当にですか? だって、ルシアを……」

「あいつはあいつの意思に従って戦うことを決断したんだ。俺に負けることも覚悟の内だろうよ。それに、俺もあいつと戦うのが嫌だったら説得なり逃げるなりした。あいつを倒したのは俺の意思でもあるんだ。俺にも覚悟くらいある」

「なら……いいんですが」

「お前こそ大丈夫か」

「私は問題ありませんよ。再会したときに、ルシアとはいずれこうなるとわかっていましたから……」

「わかっていた?」

「勘みたいなものですね。口には出せませんでしたが……」

「そうか」

 それはそうだ。幼馴染みとして過ごしてきた相手をいずれ殺すことになる。そんなこと、親しい間柄の人に伝えることなど難しい。言わなければ、という使命感と、思いやり。その二つの狭間でアンゼリカは揺れていたのだろう。

 アンゼリカの首の付け根に跨り、レンは翼を体に戻した。それから、天使竜の甲殻を優しく撫でる。

「降りよう。ジゼルとグレースもそろそろ決着をつけてる頃だろうしな」

「ですね。……戻りましょう」


6 裏切り者の末路


 腐肉を撒き散らしながら、農奴のアンデッドが倒れ伏した。

「はぁ……もう、どうなってんのよ」

 ギガヘッジを重く感じる。ここまで体力を使ったのは久しぶりのことだった。ジゼルは腰鎧を固定するベルトに吊った革袋からグレース手製の強壮効果のある回復薬の瓶を取り出し、コルクを抜いて一息で呷った。

 目の前から迫るスケルトンに向かって空瓶を投げ捨て、一瞬怯んだところに大剣の一撃を食らわせる。刀身を叩きつけられた頭蓋骨は一撃で粉々に砕け散り、魔力の供給が途絶えた体もバラバラに分解された。

「『ファイアボール』」

 後方で声が上がった。ちらりと見ると、グレースが大杖ソフィアから火球を放っている。炎の玉はアンデッドの顔面を焼き、ソフィアの尻の部分の鞘を抜いた。ソフィアはただの大杖ではなく仕込み杖だったのだ。彼女は大杖の先端を柄代わりに握ると、刀身を一閃させ悶えるアンデッドの頭部を斬り落とした。

 グレースも限界が近いと見えた。経験上、彼女が仕込み杖を使うときは二つの可能性が浮かぶ。一つは懐に敵の侵入を許し、剣での対処でしか対応が難しいとき。そしてもう一つは魔力が切れかかっているとき。

 今回の様子から察するに、高い可能性は明らかに後者だ。先ほどの立ち回りは、低級破壊魔術を行使して隙を作ったというよりは、低級破壊魔術しか使えないから仕方なくそうしたという風だった。

 死者の軍団は、まだいる。

「次から次へと……」

 ジゼルはぎり、と歯軋りした。

 しかしそれでも、敵の勢いは衰退の一途を辿っていた。ジゼルとグレースという並みの傭兵ではない強者に圧され、その数を大きく減らしていた。

 だが同時に、決して安くない代償を支払わされていた。

 こつん、と踵がなにかに当たり、ジゼルはそちらを一瞬だけ見た。

 目を見開いた偵察隊の兵士だ。頸部を深く食い千切られ失血死したのか血色が悪い。

 新兵同然の彼らは、死者の軍団を前に、ついに全滅したのだった。

 助けられるものなら助けたかった。だが状況がそれを許さない。

 シモンは死者の軍団を巧みに操り多対一の状況を上手く作り上げ新兵たちの士気を削ぎ、確実に殺していった。

 狙うべき的が二つに減った今、死者の軍団の全戦力がジゼルとグレースに集中している。シモンは朽ちた家屋の屋根の上から高みの見物としゃれこんでいたが、少し顔を窺い見てみると焦りが浮かんでいるのがわかった。

 それもそうだ。たった二人で、何百という敵をなぎ倒しているのである。軍隊と傭兵の強さは同列には語れないとはいえ、何事にも限度というものがある。ジゼルとグレースの強さは最早一個の軍隊といっていいほどだった。ここに本気を出したレンと真の姿に戻ったアンゼリカがいればこの均衡は容易く崩されていたかもしれない。

 黒狼団は帝国でも有数の、最強と名高い私立傭兵だ。だからこそ領を跨いで依頼が来るしときには国境の外からエニグマ狩りの仕事が舞い込むのである。二年前の夏、ローゼントライム王国に出向いたのも国境沿いに強力なゴア種が出現し、それを狩ってほしいという仕事が舞い込んできたからだ。

 事前に出向いていたギルベルトたち騎士団の一部隊を助けることになったものの、実際は黒狼団のみでそのゴア種エニグマを倒すことだった。

 レンと組んで、このパーティで活動して二年。その間、様々な依頼を受けた。ときにはギルドにも顔を出し、エニグマ狩りや山賊狩りを行った。

 竜征者に選ばれたあの少年は、決してぬるい仕事は受けない。傭兵を始めると父に告げたとき、彼は「この仕事は命がけだぞ」と言っていた。実際やってみてわかる。レンは仲間を信頼してその力量にあった仕事を持ってくる。ときには自分が選ぶこともあるが基本は毎回命がけだ。ときには骨休めに隊商の護衛やキノコ狩りなども受けるが、基本は斬った張ったの大立ち回りを演じる。

 この二年、クローゼル部隊は実績を上げたが故に、団長から直接依頼が入ることも多くなった。団長直々の依頼は基本的に高難易度である。普通の傭兵では完遂が困難な仕事を斡旋してくるのだ。レンはそれを断りもせず受けるので、ジゼルのこなす仕事は本当に危険なものばかりになってしまった。

 別にそれを恨んでいるわけではない。

 むしろ感謝している。

 幼い頃から傭兵と武器に囲まれ、両親も戦士だった。そしてライカンスロープは生粋の戦闘種族である。大昔から大陸各地でライカンスロープは戦ってきた。ロイとエレナの祖先も、元を辿ればそういう戦闘部族の一つに違いない。

 そんな血が流れているからか、ジゼルは将来はこの仕事に就く、と小さい頃から胸に抱くようになった。

 十年前、父と母の最後の仕事となったローゼス遠征でレンを拾ってきて、彼と出会った。最初は警戒していてあまり話さなかったが、彼が傭兵を目指していると知り、歳が近いのもあってライバル心を掻き立てられた。

 ジゼルは母からギガヘッジを譲ってもらうつもりだったため大剣の扱いを主に学び、レンは太刀の扱いを極めていた。お互い扱う武器に違いはあったが、よく稽古をしていた。剣術だけではなく、徒手格闘や荷運び用の駄馬を使った騎馬訓練などもした。

 そうこうしていくうちに兄妹のように接するようになり、レンの理念を聞かされるようになった。

 それが『斬奸の剣、弱者の盾』だった。

 黒狼団の困っている人に手を差し伸べるという思想と通じるものがあり、次第に共感していった。

 それには感謝している。

 自分はレンと出会うことなく傭兵を始めていたら、ただいたずらに命を奪うだけの戦闘狂と化していたかもしれない。そんなもの、殺人鬼と変わらないではないか。それだけは本当に嫌だった。自分が見てきた傭兵は、そんな下等なものではない。生き物を殺すという非情な手段に手を染められない弱者のために武器を振るう、市井のための暴力なのだ。

 意思も理念も思想もない暴力など、自然災害と変わらない。意味なく命を奪うことはしてはならないのだ。それは自然との関わりを重んじる傭兵たちなら全員が理解していることだ。もともとエニグマは外界から来た存在だが、今では自然の一部として組み込まれていて、生態系を築いて食物連鎖の一部を形成している。無闇に狩り尽くして滅ぼしてしまえば、その代償は人類がなんらかの形で支払わなければならない。

 レンとアンゼリカは五年前から実戦に出るようになり、ジゼルは二年前に初陣を迎えた。その直後にグレースが来て、四人は隊を組むことになった。

 様々な狩りがあり、様々な戦いがあった。

 ――これくらいで音を上げてちゃ、レンに届かない!

 ジゼルの目標とする傭兵は、ロイでもエレナでもない。レンだ。十年切磋琢磨してきた兄のような存在で、頼り甲斐のある隊長で、肩を並べる戦友で――ライバルだ。

「いい加減死ね!」

 シモンが大声を張り上げ、死者の軍団をけしかけてくる。

「『ファイアボール』! 『ファイアボール』! ああクソ! ……魔力が尽きた!」

 グレースが品位を投げ捨て舌を打った。杖を完全に剣として扱い、リビングデッドを斬りつけていく。しかし塊になって襲ってくる死者の波は収まらない。

「グレース、下がって」

 魔女を下がらせ、ジゼルは一歩前に出る。

 レンからもらったエンチャントはまだ生きている。魔力を流すと刀身が赤熱化し、炎の鼓動が脈打つ。

 ジゼルは魔術の才のはない。だが、魔力はある。こういう人にとって武器を疑似的に魔武器と化すエンチャントは偉大な魔術だった。

 それまで溜めに溜めた魔力を一気に開放し、ギガヘッジの渦巻く火炎を死者の軍団に向けて放った。

 巨大な火炎はたちまちの内にリビングデッドを飲み込み、皮膚を炭化させぼろ屑のように砕いていく。

「クソ! 畜生! なんてガキだ! 私の軍団が負けるなど……!」

 死者の軍団は、残り五十といったところだった。大火炎で飲み込まれ、大多数の死者が数を消したことになる。しかしこれでジゼルも魔力を失った。後は剣で地道に斬り伏せていくしかない。

 所詮は人間に劣る動きのリビングデッド――消耗した今でも、上手く立ち回れば勝てるのではないか。

「ぅ……ぐ」

 甘い考えだと気付いたのは、その瞬間だった。ジゼルは全身を襲う寒気と震えに負け、膝をついた。魔力の循環に、肉体の方が耐えられなかったのである。人の体は魔力を流すには繊細なのだ。だから魔術の行使には魔術媒体というものを用いるのである。

 ジゼルの火炎攻撃は、確かに大剣を媒介して行った。だが魔力は大剣に流れ込む前に肉体を循環していたのである。グレースのように体にかかる負担を考え魔力を使っていけばこうはならなかったかもしれない。

「万事休す……か」

 グレースが悔しげに呟く。

「はっ、はははっ! わははははは! 所詮は子供だな! 魔力が肉体に与える負担を顧みないとは……いやはや、若さとは羨ましい限りだな……ふっ、くくくくく……」

 勝利を確信し、シモンが腹を抱えて笑う。

 そのときだった。

 大剣を杖にどうにか立ち上がろうとするジゼルの眼前に剣を携えたアンデッドが迫る。剣を振り上げ、斬りつけようとして――、

 その剣を握った腕が、宙を舞った。

「え……」

 直後、アンデッドの体がいくつかに分割され、ずるずると細切れにされる。

「よく耐えたな、ジゼル」

 死者の向こうにいたのは、竜征者としての本気の姿ではない、本来の姿のレンだった。

 革篭手をした手で頭と耳を撫でられ、ジゼルは強張っていた全身が解きほぐされるのを感じた。

「これで決着がつくな」

 グレースの宣言通り、死者の軍団が一瞬で掻き消された。

 本来の姿になったアンゼリカによる熱線ブレスが、死者の軍団の上半身を消し炭に一変させる。

 上空から飛来したアンゼリカがズン、と地に降り立つと、あまりの重さに地震のような揺れが辺りを襲った。かろうじて屋根の上に立っていたシモンが転げ落ちる。

「さて……」

 レンが尻もちをつくシモンに歩み寄っていく。

「ひっ、ひぃ、くく、来るな化け物!」

 襟を掴み上げ、レンは右拳を振るい、鉄拳を一発シモンにぶち込んだ。

 重い拳をもらったシモンは折れた鼻から血を撒き散らし、もんどりうって転がっていき、板を吹き飛ばして昏倒した。

 レンはインフィニウムから麻縄を取り出すと、それを革袋に入っていた水で湿らせた。こうすることで縄はより頑丈になるのだという。

 以前ギガ山で盗掘者騒ぎがあった際の教訓として、レンは敵を捕縛するための縄を用意するようになっていた。まさかここにきてそれが役に立つようになるなど思いもしなかった。

「レン、この人たち……どうしますか?」

 こと切れた兵士たちを一瞥し、竜形態のアンゼリカが問う。

「死んでるから、インフィニウムに入ると思う。連れて帰ろう」

 インフィニウムは隊の共有財産である。レンの一存で決められることではない。それを本人もわかっているから、仲間たちの顔色を窺った。

 誰も反対はしなかった。

 衛生的な問題はない。インフィニウムの中で物が別の物に接触するということはない。だから死体が食べ物に触れてしまうということはないのだ。

 レンが気にしたのは精神的な方だろう。死体を普段使う荷物と一緒に入れるという精神的な負担を彼は気にしたのだ。

 だが誰も文句は言わない。新兵を押し付けられたことには業腹だが、彼らは本来死ぬ必要のない存在だったのだ。死んでしまった以上もうどうすることもできないが、せめて家族のもとに帰してやるくらいはできる。

 問題は馬車だ。八台もある。一人一台で持ち帰ることは可能だが、四台は放棄しなければならない。適切な馬具があれば二頭立てにして八頭の馬を全て持ち帰ることも可能だが、手持ちにそんな余裕はない。

 馬は生きているのでインフィニウムに入れることもできない。残念だが、捨てていくしかない。この辺りに草地はないが、山を下れば食べるに困るということはないだろう。そこまでは自力で行ってもらうしかない。

 荷台は捨てていくしかないが、これだけの損害が出たのだ。領王には仕方がなかったということで納得してもらうしかない。

 戦果と損害が釣り合うか……とお役所的な考えを浮かべるが、どうだろうか。兵士の全員が死に、一人が裏切った。それに対してこちらは邪竜と竜征者を倒しただけだ。

 そこまで考えてレンは首を振った。人の命は損得勘定をしていいものではない。

「じゃあ、そろそろ戻りますね」

 竜形態のアンゼリカの体が光に包まれる。巨大な竜の体は人間大に収まっていき、光が粒子となって散ると、見慣れた人間形態のアンゼリカが姿を現した。身に着けていた衣類はそのままで変化はない。

「空を飛べるのは楽しいんですけど、こっちの恰好の方が落ち着きますね。可愛いですし」

「その容姿って作り物なのか?」

 悪戯っぽく笑いながらレンが訊くと、アンゼリカが少し怒った。

「違いますよ! 自然のものです!」

 怒ったアンゼリカを宥め、それからしばらく心を落ち着かせ、四人は遺体を一人一人丁寧にインフィニウムに入れていった。

 遺品として、彼らが使っていた剣もしまう。

 生きて帰るに越したことはないが、遺体や遺品がないまま死を知らされるよりはいいだろうとレンは思った。

 そうこうして、四人は色々と考えた末馬車は一台だけを使うことにして、残りの七台は放棄した。馬を逃がし、荷台を捨て、来た道を戻る。

 五日かけて領都に戻ったレンたちは領王コンスタンスから迷惑料として、そして邪竜を討った褒美として大金貨百枚を受け取ることとなった。

 ちなみにシモンの方は事情聴取という名目の拷問を受けた後、内々に処刑されることとなった。王宮魔術師が裏切ったという醜聞は市井に知らせるわけにはいかなかったのだろう。

 結果はどうあれ、裏切り者はこの世から姿を消した。


     ◆


「う……ん……」

 目が覚めると、辺りは暗闇に支配されていた。

 ルシアは血の海の上にいた。すっかり乾いた血は黒く変色していたが、自分が流したものだということはすぐにわかる。

 鎧は粉々に砕けていた。残っていたのは赤い外套と下着だけ。

 あの高さから落ちたとき、ルシアは死なないことはわかっていた。

 竜征者は、ある一定以上の大怪我を負うと再生力が極端に跳ね上がる。足を砕かれても内臓を破裂させられても頭を潰されても、再生してしまう。極端に言えば、竜征者は不死の力を得るのだ。レンがそのことを知っているかは知らないが、ルシアはそのことを知っていた。過去の経験から。

 何年か前、エニグマに喰われかけたことがある。ハイドラという八本の頭を持つエニグマに下半身を喰われたのだ。

 そのときは素直に死を覚悟したが、その瞬間再生が始まったときは肝を冷やされて声も出なかった。死ぬことより怖かったのを覚えている。

 自分は人ではないのだ、という現実をしばらく受け入れられず、酒に溺れた。

 斬り落とされた腕も再生しているのを確認し、ルシアは立ち上がった。

 超再生については、ほとんど経験則から感じ取っていたものであるため必ず起こるという確証はなかったが、今回の件で疑いが確信に変わった。やはり、竜征者は不死身なのだ。

「どこかしらね、ここ」

 竜の頤であることに間違いはないだろう。だがどこなのかはまるでわからない。

 そのとき、上空から羽ばたきの音が聞こえてきた。

 空に点が浮かび、次第に大きくなる。それが竜だとわかるのにそれほど時間はかからなかった。

「オリヴィエ……」

 着地した竜に乗っていたのはドラゴンシーク基幹メンバーの一人、赤髪のハイエルフ、オリヴィエだった。

「その子は?」

「風竜ランドスパウト。トリストルド領で目覚めさせた邪竜よ。こいつに竜征者の魔力の波動を探らせてあなたを探したの。ついでにこれも」

 オリヴィエがローブから黒い石を取り出す。ダークブリンガーだ。サングリアスのものだろう。どこに落ちたかわからなかったが、オリヴィエが見つけたようだ。

「この子は戦争のストックとしてエドワードに献上するわ。帰るから、あなたも乗りなさい」

「わかったわ、ありがとう」

 口では感謝したが、ルシアは内心オリヴィエに心を許してはいなかった。

 師匠に似ている、というのが一つの理由だ。シズナに似ている。あまりにも。姉妹ではないかと思っているが、口には出していない。

 単に他人の空似という可能性の方が高い。

 もし仮に本当にシズナの姉妹なら、ルシアは“あのこと”を告げられるかどうかわからなかった。

 レンにも告げていない、あの秘密。

 今の虚竜。あれは、あの正体は――。

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竜征戦記 雅彩ラヰカ @RaikaRRRR89

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