吾輩のブログである。名前はまだ無い。

大手企業を退職しフリーランスで生きる人間の雑記。福岡にいるよ。

【今更】プロフ記事書けたので公表するよっ!

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本ブログ『九州の社窓から』を運営しておりますマエダユウタと申します。
 
○○ブロガー、という肩書が記事ごとに異なり、結局お前は何者なんだと、、w
ざっくりと言うとパラレルワーカーと呼ばれる種族です。
 
本業は会社員。通信業界で法人営業をしています。
また、個人投資家として、株式、仮想通貨、不動産、事業投資などを行いながら、
投資初心者向けに、セミナーの開催や、スクール・コミュニティの運営をしています。
ブロガーや、Webライターなどの「書く」活動も、細々とやっています。
作家とかもやってみたいですね。
 
そんな僕の生い立ちを、出生から現在に至るまで記事にしてみました。
ぜひともご一読ください。
 

 

【すでに異端であった幼少期】

 
広島の片田舎に生を受け、その後、広島、所沢を転々としたのち、人生の大半を過ごした、世田谷の実家へ。
 
2人兄弟で、父は優良企業のサラリーマン、母は専業主婦(当時)という、The 普通の家庭。
特別ブルジョワ階級とかではありませんが、何不自由ない恵まれた環境で育ててもらいました。
(当時は全く自覚はなかったですが)
 
そんな環境で育っていながら、最初の奇怪なエピソードは3歳の時。
 
あるデパートの英語教室で、「どんな子供でも手懐けられる」と豪語する自称カリスマ講師の
いうことを一切聞かず
ブチ切れられ追い出され、
あとで関係者が母に菓子折りを持って平謝りに。
自称カリスマ講師は失職
 
というロックさの片鱗を見せつけました。
 
7歳の頃、当時放送していた「おはスタ」開始前のニュースを眺めながら、
何もわかっていないながらに「為替差で儲ける」という発想に至るという
末恐ろしいクソガキでした。
今の状態にはなるべくしてなっているということですかねw
 
それから、恥ずかしすぎて公開するか迷ったエピソードなのですが、
幼稚園前後と記憶していますが、動物図鑑を開いて、
「豚さんや牛さんがお肉にされちゃうの可哀想・・・」と涙を流すような心優しい幼児でした。
 
こちらは残念ながら当時の片鱗すら残っていないですね。
 
 

【平凡に楽しみつつ、非凡さの片鱗が出ていた小学生時代】

 
要所要所にて奇行が目立ったものの、基本的には品行方正で、成績も良好。
太っていたため女子にはモテませんでしたが、友達も多く、楽しい小学生時代を送りました。
 
実は当時から机や道具箱を片付けられないという致命的な欠陥を抱えていたのですが、成績も対人関係も問題なかったため、親も教師も対して問題とはせず(僕の見えないとこでしてたのかな、、?w)最終学年の時を除いては「優等生」にカテゴライズされていたのではないかと思います。
 
体育は得意不得意がありましたが、それ以外の分野においてはお勉強の分野だけでなく、芸術、クリエイティブ分野においても色々と実績を出してまいりました。
 
とりわけ、当時から「書く」ことに対する能力の片鱗は見せていたように思います。
毎年「作文」と「詩」が一つずつ、区の文集に載るかどうか、という学校内選抜を受けるのですが、2×6=12回のチャンスのうち、3回ノミネート。1回は本選考で落ちましたが、作文と詩が1回ずつ採用されています。
 
5年生から、中学受験をそれとなーく意識していましたが、本格的に中学受験を意識したのは小学校6年生。当時、受験塾の入塾テストで、国語の文章題を丸々一個回答できないという低スぺぶりを発揮しましたが、どうにか受かった下位クラスから登り詰め、10か月の本格的な受験勉強にて御三家、麻布中学に合格しました。入試の傾向に対して、向き不向きがドンピシャで一致したようです。
塾の講師陣曰く、満場一致で「あれは麻布だ」と言われていたとのこと。
 
そんな周囲の期待を裏切らず、麻布中学校に合格しました。
 
一方で、「受験組」と括られたカテゴリーへの教師からの独特の目線とに受験のストレスとに耐え切れず「活発な優等生」の仮面は完全に崩壊。学校では幾度となく問題行動を起こし、職員室や校長室の常連でした。
当時は僕なりの正義にしたがって動いていたつもりだったのですが、今思えば何とも幼かったものw
 

【自由という名の不自由。そして「順当なる進学」】

 
麻布という環境は、よく言えば、自由、悪く言えば、放置。そんな感じでした。
色々なものに興味を持っては首を突っ込んでみる性格は当時からのもので、囲碁部、柔道部、スキー部と3つ兼部という異常行動に走ったものの、最終的に、きちんと引退したのは柔道部だけです。
こう見えて柔道の有段者です。
 僕に喧嘩を売るということが(ry
 
縛りの無い中高生活でしたが、誰も何も言わないのに甘え、「これ」と言えるようなことをしてこなかったな、というのが正直なところ。
部活動に、文化祭や運動会の実行委員に、進学校ということもあり大学受験のための勉強も行っていましたが、「これだけはやり切った!」というものもなく、進級、進学という時間切れとともに、6年間が終わったような気がしております。
ただ、何かやっておけばいいかなという想いはありつつも、現在のライティング能力や語彙力は、この6年間に積み上げてきた読書量がベースになっている側面もあると思いますので悔いているかといわれるとそうでもありません。また、最終的に自身がブログを始めるのにはそこから10年ほどかかりましたが、「ブロガー」という存在を認知し、憧れていたのも高校生の頃。
結局すべては繋がっているのだと思います。
 
ところで、麻布学園は「中高浪一貫校」といわれています。
現役合格の事を飛び級と呼んでいましたw
御多分に漏れずまっとうに進級したわけですが、ここで仲良くなった奴が今や超有名人になっていたりするから面白い。貴重な1年間だったと思います。
 
ちなみに第一志望の東京大学には 6/550点 ほど足りず、不合格に。
第二志望であった、上智大学 法学部 国際関係法学科に入学しました。
 

 

【ギッチギチに予定を詰め込んで満足していた大学時代】

 
大学時代は、端的にいうと、予定を埋めることに満足していました。
スキーサークルとバンドサークルを兼サーし、本格派の中華料理店でキッチンのアルバイト。
 
大学2年次からは法曹を見据え、ダブルスクールを始めました。
大学3年次に入ったゼミは幅を広げるため、法ではなく「国際政治学」の方へ。
予定が入っているか、入っていないかという軸でいうと、常時ギッチギチに詰まっている、
表面上は充実した大学生活を送っていました。
 
2泊3日のスキーサークルの夏合宿で、運営の重要な業務を兼務でこなし、解散した足で夕方アルバイトに。翌日も1日アルバイトをし、その翌日には2泊3日のゼミの合宿へ。
そして、そのゼミ合宿の最終日の早朝に独り東京に戻り、ライブに参加
 
などという、スケジュールさえ空いていれば詰め込む生活をしていました。
今でも、異常なスケジュールで行動する癖は治っておりませんw
 
ここでも、次の項にも絡んでくることなのですが、最終的に課題として抱えてしまったのは「何も極めていない」こと。多くのジャンルではそこそこの成果は出し、今でも趣味レベルでは十分通用するものが多いですが、手を出したどれも「これだけはだれにも負けない!」がないんですよね。
 

【初の屈辱的挫折 ロー挫折、就職浪人】

 
そんな生活をしておりましたので、本気でローを目指していた人と比べ、法科の成績は到底適うはずもなく。というより、過去あこがれていた「弁護士」が射程圏内に見えてしまったので頑張ってみましたが、本当は法学の世界に足を踏み入れるのが向いていないのは自覚していました。
 
そして、逃げるように就職活動開始。特に軸はありませんでしたが、語れるネタの数だけはたくさんあるし、どこかしら拾ってくれるだろう、と高を括っていましたが、結果は見事に壊滅。あるベンチャー企業から内定をもらっていたのですが、どう考えても自分には合わず辞退しました。(なお、その会社の株価は低迷)
これが僕にとって初めて、本気で挫折を感じた時です。
今まで、目の前のもろもろのことをソツなくこなすか、もしくは逃げていた僕にとって、どこの企業からも必要とされていないという現実を突きつけられる経験でした。
 
思ってみれば、買い手市場の中、軸なし戦略なしで活動して早々通るものでもないよねw 
 

【主体的に動くこと。海外インターンに参加し自身の道を】

 
そんな失意に塗れている時期に、登録していた就活サイトの一つから、「海外ビジネス研修プログラム」の案内を受け取りました。今でも覚えている。浜松町から田町に移動中の山手線で、普段だったら目に留めてもいなかったであろうダイレクトメールがふと目に留まり、ピンと来て、説明会に参加。その場で申し込みを決めました。
それまで、海外といえば、小4の時に家族旅行で行った、グアムのみ。
主体的に動ける年齢になってからも大学4年に至るまで海外未経験でした。そんな中で、伸び盛りの新興国、ベトナムに飛び込み、そこで濃密な経験を積んできました。
英語で飛び込み営業したり・・・w
何人か営業系のインターンに取り組んだ人はいたのですが、その中で期間中に本当に受注を出し、コーディネーターさんの度肝を抜いて差し上げました。
 
そんなプログラムの主催者や、インターン先のピザ屋の社長の生き方に憧れ、高校のころからなーんとなく頭に引っかかっていた「起業」というワードが自分の中で明確に目標の一つとなった瞬間でもあります。
 
ちなみに、ここのピザ屋さんにはプログラム終了後、翌年も自分で頼み込んでインターンをさせてもらっています。
自分のライティング能力を「ビジネスに向けた」という点や、コンテンツを創り上げた(この時はお金を生むものではありませんでしたが)という点においては現在の活動の原点となっているかもしれません。
本当に感謝。
またピザ食べに行きますね。
 
ちょっと時系列が前後しますが、そんな一連の活動の中で、ようやく「本当に頑張った経験」「将来の軸」を得ることが出来、現在働いている会社から内定を騙し取るもらうことが出来ました。
 
ちなみに、この年、30周年のディズニーランドでも働いていました。
この経験は別途綴るかもしれません。
 

【最初の迷走 ネットワークビジネスの罠】

 
そんなこんなで意気揚々と入社した現在の会社ですが、現実のリサーチ不足、
頭の中は夢いっぱいの意識高い系学生の洗礼を受けます。
そんな中、組織のトップによる実験的な新チーム追加に伴い、「営業支援部」に配属。
業務処理や資料作成などの営業の内勤業務をサポートしながら、新規商材について先立って勉強を行い、同行支援や部内勉強会開催といった業務を行っていました。
 
実は、後々業務も充実してくるのですが、当初は仕事が少なく、会社に来るのが苦痛でもありました。パワポやエクセルを業務で多用していた関係で、それらのスキルは上がりましたが・・・
 
ただ、自分がやっている業務が会社にどれほど役に立っているのか今一つ理解できない、という悩みを抱える中で、その現状から逃げるという意味合いでの「起業」を考えるようになっていました。
 引き寄せ、というのは恐ろしいもので、そんな時期に「起業」をテーマにした案件を3ついただきました。当時現実から目をそらすことしか考えていなかった僕にとって入口はすべてが魅力的に見えましたが、結論から言うと2/3はネットワークビジネスでした。そんな中、選んだ最後の選択肢によって、今本当に僕は助けられています。
 
大事な選択ほど、外さない。ここだけは本当に自信があります。
 
といっても、僕が選ばなかったMLMの2つも、意識が高く素敵な方の多い環境でした。
僕はその道は選ばなかったですが、自分の選んだ道を進んでいけば、どこかでまた逢うこともあるかもしれないですね。 
 

【起業塾、投資塾との出会い~パラレルワーカーのキャリア形成へ】

 
今でも本当に大切なご縁から繋がった起業塾で学び始め、ここでも大切な友人を沢山つくることができました。そんな繋がりの一つからいただいたご縁。そこで学び始めた「株式投資」によって、僕の現在の「パラレルキャリアの形成」が加速していきました。
株式投資は大きな初期投資を経て始めたこともあり、本気で学び、初っ端から好調な成績を出し続けていました。
 
投資成績は、半年で+200%
 
そして、そのプラス分を全て溶かすのに要した期間が3日です。 
 
これがビギナーズラックであれば、トラウマを負って退場なんてことにもなりえましたが、学び続けていた僕にとっては初めて自身で経験した「大負け」そして「実力以上の勝負を行ったことによる返り討ち」でした。この負けは、今や「笑い話のネタ」である以上に「商売道具」ですらあります。 
(今だから平然としてますが、当時は半日だけ寝込みました。)
 

【2度目の迷走。発達障害の妄想に駆られ精神病院に通院】

そんな感じで 色々と比較的好調だったように見えましたが、社会人3年目の春、ちょっとしたトラブルが僕を襲います。
同じ課の先輩の突然の退職。伴い、進行中の大型案件が、ロクに引き継ぎもされないまま、降ってきて、僕に経験か、もしくは人並みの自己管理能力があればどうにかなっていたのかもしれないですが、ある案件の処理に失敗したことなどを切っ掛けに、精神的に参ってしまい「朝体が動かせず、出社できない」なんて経験をしました。(いったん1日で落ち着きましたが。)
 
整理整頓、タスク管理という分野、これまでの人生においてずっと放置していた分野でした。自身の地頭や火事場のバカ力(またの名を一夜漬け)にかまけて、色々な壁を無理やり潜り抜けてきた僕にとって、今の会社で求められる、タスク管理能力というものは致命的に欠如していたものでした。
 
そういったこともあり、精神的に参っていた僕は、自分はADHDという発達障害なのではないか、という妄想に駆られ、メンタルクリニックに通院しました。
精密検査も受けましたが、結果は「障害の兆候は一切見られない」というもの。
代わりに、IQが高いという事実が判明。軽い自虐風自慢でした。
 
障害がないからと言って、タスク管理ができないのは歴然たる事実、そして、これを書いている今現在、最大の課題でもあります。

が、障害という、ある種説明のつきやすい解を失った以上、別の方向で向き合う必要があるものです。

 

【ブログとの出会い 自分自身の道の開拓】

その迷走のさ中、FaceBookのウォールから一人のブロガーの存在を知りました。
「あんちゃ」さん。多分、共通の友人のTLから流れてきたのだと思いますが、会社員兼業のブロガーで、下ネタも交じりながら面白いこと書いてるなー、と思っていたら、1か月後には会社辞めてて、度肝を抜かれました。少し年下の女の子が、これだけ人生について真面目に考え、大きな決断ができたのかと、会ったこともないのに、密かにリスペクトしていました。
 なお、存在を知ってからちょうど1年くらいにあたる2017年3月、ブログ関連のイベントであんちゃさんに初めてお会いし、その後、現在は運営されているオンラインサロンでもお世話になっています。
本当に感謝。貧乳とかいじってごめんなさい。
 

【投資スクール開講。念願のブログも開設】

 この間、各方面からお世話になっていたのですが。方向性としては「自分で世の中に価値を提供する」ことを目標に動いており、お世話になっている投資コミュニティの先輩起業家たちのサポートもあり、投資スクールを開講しました。そして、発端はそのブランディングとして、念願のブログも開設。
 
これが反響で反響でw
 
その容赦のなさがウけ、志向が近いと思しき人からは大変ご好評。
の半面、考え方が合わなそうな人からはFacebookで友達から削除されていきました。
ブログの発信を初めて20人くらい切られたと思いますw
残念だけど、仕方のないこと。共感を起こすには「本音の発信」が不可欠。そして、本音の発信は共感しない人から反感を買います。
 
そして、自身の「書く」が良くも悪くも人の感情を動かせることを改めて実感。こちらでももっともっと価値提供ししていこうと、今、エクストリームな企画が進行中です。

【そして九州へ】

 こんな状態で順調に滑り出した2017年。決意していたことではありませんが、シナリオ通りに進めば独立する可能性すらありました。
そんな行動計画を叩き折ってくれたのが九州転勤でした。
色々な憶測が飛びましたが、「今現在、僕は九州にいます。」それで充分です。
一瞬、もう会社を辞めるタイミングなのか、と考えもしましたが、会社のお金で福岡に移住できるチャンスだと思いなおし、この転勤を受ける選択をとりました。
 
福岡には個人的にも可能性を感じていましたし、奇しくも、直前に読んでいたイケハヤさんのブログで、「移住初心者には福岡がオススメ」という記事を目にしていたのです。なんとも面白いもの。
 

 

【これから】

どうしていくかは、正直未定です。会社員続けるのか、辞めるのか。今やってるどの活動を中心に据えるのか。

ただ、現在行動理念として掲げている「世の中に選択の自由を」をまずは自身や、周囲から実現すべく、邁進しております。そのために、投資、ビジネス、ライティング、それぞれの方面に力を入れていきます。なんでも突っ込む癖がありますので、迷走することもあるかもしれませんが、温かい目で見守りながら、やんわりと修正いただけますと幸いです。

 

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