「治世の能臣、乱世の奸雄」と曹操が評されたワケ

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宦官の叔父を打ち殺す

曹操はやがて仕官し、洛陽北部尉らくようほくぶいに就任しました。

これは首都北部の警察長官の仕事でしたが、曹操は着任すると、すぐに四つの門の補修を行わせます。

そして五色の目立つ棒を作らせ、門の左右に十本ずつ吊り下げさせました。

そして禁令に違反するものがいたら、相手の地位に関わらず、すべて棒で打ちのめさせ、処刑しました。

このあたりの措置から、曹操の厳正かつ苛烈な性格をうかがうことができます。

それから数ヶ月がたつと、蹇碩けんせきという宦官かんがんの叔父が、禁止されている夜間通行をしようとしました。

蹇碩は霊帝のお気に入りの宦官でしたので、禁令をやぶっても構わないだろうと、その叔父は驕っていたようです。

しかし曹操はそういったことを斟酌せず、即座に彼を打ち殺しました。

このために洛陽では夜間外出をする者も、禁令を犯す者もいなくなります。

こうして曹操は洛陽の治安を改善しましたが、その結果、宦官たちに憎まれることになりました。

宦官たちの悪行と、排除計画

宦官は本来、去勢された上で、皇帝の身辺の雑用を務める者たちです。

しかし後漢の後期になると、皇帝に取り入って重用され、強大な権力を握るようになりました。

彼らは私腹を肥やすことを第一の目的として行動しており、賄賂次第で人々に高官の地位を与えました。

このために能力が低く、人格に問題のある者たちが朝廷に満ちるようになり、統治能力が衰えていきます。

これを正そうという動きがあり、大将軍の竇武とうぶと、太傅たいふ(皇帝の補佐役)の陳蕃ちんはんが協力して、宦官を除こうとしました。

しかしその企ては失敗し、竇武らは逆に殺されてしまいます。

曹操は当時、議郎ぎろう(軍の統括官)の地位にありましたが、この事態を受け、霊帝に対して次のように上奏しました。

「竇武らは正義を行おうとしましたが、宦官たちの罠にはまって殺されてしまいました。邪悪な人間が朝廷に満ち、善良な者は出世の道を閉ざされています」

曹操はこのように、宦官たちの弊害を厳しく指摘しましたが、霊帝はこれを取り上げることができませんでした。

この時期の曹操は、乱世の到来を望んでいたわけではなく、宦官を取り締まり、後漢を立て直そうという意図をもって行動していたのです。

再び献策をする

それからしばらくすると、「地方官吏の中で、統治をうまく行えず、住民たちから批判されている者がいたら、それを摘発し、罷免するように」との命令が霊帝から下されました。

それ自体はよいことのように思えますが、実際には、問題のある官吏は、賄賂を大臣に贈ることで見逃されました。

そして優秀であっても、賄賂を贈らなかった官吏は罷免される、という事態が発生します。

曹操はこの状況を憎み、政治への意見が広く求められた際に、再び霊帝に上奏しました。

「大臣たちは地方官を摘発していますが、貴族や宦官に媚びることを旨とし、判定が公正に行われていません。道義を守っている者がおとしいれられています」

この時は霊帝が曹操の献言を受け入れ、大臣たちを叱責します。

そして不当に罷免させられていた者たちは、議郎として復帰することになりました。

こうして曹操の献言は一定の効果を生みますが、それでも後漢の腐敗は止まらず、乱暴な者や狡猾な者がはびこり、社会が破壊されていきます。

このために曹操は、もはや後漢を立て直すのは不可能だと悟り、これ以後は霊帝に対し、献言をすることはありませんでした。

このように、若き日の曹操は国の衰退を憂いて行動する人物だったのでした。

しかし、後漢の命運はすでに尽きかけており、立て直しのきく状況ではありませんでした。

それゆえに、曹操の活動は空しく終わり、批判した宦官たちからの憎しみを受ける結果となります。

隠遁する

その後、黄巾こうきんの乱が発生すると、曹操は騎都尉きとい(中級指揮官)に任命され、賊の討伐を行います。

そこで功績を立てると、済南さいなん国のしょう(大臣)に就任し、統治を行いました。

済南国もまた、宦官に迎合し、賄賂を取って汚職を行う役人たちがあふれていましたので、曹操は彼らを取り締まります。

曹操は八割もの役人を罷免して誠実な者たちと入れ替え、犯罪者を徹底的に取り締まりました。

八割という数字から、腐敗が極まっていたことがうかがえます。

この曹操の活動の結果、治安が大きく改善され、住民たちは法を守るようになります。

こうして曹操は済南国の政治を改善しましたが、しばらくすると召喚され、東郡の太守に任じられました。

しかし曹操はそれを受けず、中央にいられるよう、再び議郎の地位を求めます。

これは曹操が、何度も宦官や腐敗した官吏たちと衝突したため、軋轢あつれきが強まっており、やがては一族が災いにあうのを怖れたためでした。

長く地方に出ていると、宦官たちが霊帝に曹操の悪評を吹き込み、曹操が反論できぬまま、処罰されてしまうこともありえます。

それを防ぐために、中央にとどまることを望んだのでしょう。

やがて曹操はその後、病気を理由にして出仕しなくなり、官職を辞任して郷里に帰っています。

曹操は乱れた政治をただそうと活動しましたが、ついに挫折してしまったのでした。

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