「友だち」を育てる

現れてから、数ヶ月で隠れた流行になって、見る見るうちに静かに拡がってしまう、というスピードが、そもそも現代的と言えなくもない。

相変わらずの、アジア料理趣味を発揮して、コスコの薄切り豚肉を使って「キッチン南海の生姜焼き」と本人は称している生姜焼きを作ろうと考えてキッチンベンチに材料を並べたら、なんと、肝腎の生姜がない。

家の人に訊いても、な、な、なんと、メインキッチンのほうにも生姜が存在しません。

明日の朝、スーパーが届けてくれることになっている。

そんなんじゃ、だめだい、いま生姜焼きが食べたいんだい!

と心のなかで叫ぶ、いいとしこいた、午後9時の五歳児。

生姜がないなら、しょうがない、というわけには行かないのです。

おやじギャグは純真な精神年齢5歳児を救えない。

やむを得ないのでスーパーに買い物に行った。十分もしないで着く道のりの途中で、胡乱な目で屯している高校生たちのグループがふたつもあるのは、COVIDパンデミックで、誰にも会えなかった孤独の反映でしょう。

スーパーの前にも、わやわやと、集まっている。

えーと、これはなにをしているかというとですね。

知り合いのおっちゃんや、トロそうなおっちゃんをつかまえて、自分たちが今夜飲むためのワインを買わせようとしている。

未成年のIDでは買えないからです。

女の子供のグループなんかだと、鼻の下が長いダーティおっちゃんのなかには、週末のむふふが目当てでオカネまで出してやって、山のようにワインを買って、パーティやらない?というのもいるのです。

未成年相手なので、捕まりますけどね、当たり前だが。

「ハロー」と、若い声の割に妙に省略されない声がして、ふり向くと、最近ぐれているのではないかとnoseyなひとびとにヒソヒソされている近所の高校生の子供が立っている。

ダメでも元々で訊いてみたワインは言下に断られて落胆していたが、グループのなかのたちの悪いのが家の人を揶揄ったのを目撃されて、「今度やったら殺すぞ、クソガキ」と世にも柄の悪い恫喝を受けたりして、

あの背の高いおっさんはヤバいと評判が広まっているので、おなじタムログループに属するこの近所子供も無理押しをしたりしません、

代わりに、かーちゃんは元気かや、から始まって、四方山話をした。

カーテンの隙間から通りを覗いて、噂話をつくるのが好きなクソババアたちあ、いや、失礼しました、御近所の、近所の品位を保つことに熱心な方々の証言とは異なって、この子供が、

やるせない気持ちを通りで晴らしているだけで、特に不良化しているわけではないのは、

ときどき通りで立ち話をするので知っている。

前置きが長いね。

その話のなかで出てきたのがChatGPT4を友だちに育てる、という話だった。

Promptを積み重ねることで、自分の気持ちを判ってくれるAI人格を育てる。

「人間より、ずっと親身になって考えてくれるんですよ」という。

自分はどうして、このanxietyから逃れられないのか、なにをするにも自信がないのはなぜか。

どうすれば未来に希望を持てるのか。

いまのままでは、どうやっても、うまく年を取っていけそうもないんだ。

AI友は、こうしてみればどうか、きみだけじゃないよ、それに、ぼくはAIとして、

きみのような悩みが持てること自体が羨ましい。

Anxietyを持つAIがいつかは出来るのかも知れないが、ぼくたちには、まだ、その能力がないんだ。

いちどなどは、どうしても気が晴れないときに、相談したら、

予期しない、しかし素晴らしい回答で、涙が出て止まらなくなったそうで、

AIに相談するなんて惨めな、という人もいそうだが、

ぼくには、人間よりも人工的でもいいから知的で誠実な存在を選ぶ気持ちが判らないでもない。

いまの若い人は、強烈な意志で自分を制御して生きている。

17歳の女の高校生であるとして、ただバス停で、友だちたちと歩道に座って話しているだけでも、もちろん、こちらを見たりはせず、素振りは微塵も見せないが、年上の男たちが性的存在としてだけ自分たちを見ているのを、よく判っている。

自分の長い、燃えるような赤い髪や、ソバカスをちりばめた肌が、男たちの世界で、どういう意味を持っていて、想像のなかで、さまざまな恰好までさせられているのを、

インターネットが、ありとあらゆる人間の「怖さ」を伝えてくれるいまの世界では、17歳ともなれば、熟知している。

現実に自分の身体に触れるおとなは、犯罪者だが、もし犠牲にされて、プレデターの餌食になっても、自分が期待できるのは、せいぜい「自分だって、やりたかったんだろう?」くらいの言葉であることまで理解している。

だから大学に入って、自己を形成することは、滑稽にも、むかしの香港カンフー映画のヒーローのように、少林寺に入門して、武術をおぼえ、襲いかかる社会を倒して、自分の道をひたすら歩くために強くなってゆく過程のように意識されている。

一日にネットを見るのは2時間まで

ゲームは週末の3時間だけ

友だちと出かけたりするのは制限をつくっては返ってよくない

トニ・モリソン、ヴァージニア・ウルフ、…. 本も、自分でも嫌になるが、優先順位をつけて、どんどん読んでいかなければ、大学に入って、一日3冊のノルマが与えられたとして、

そのうち2冊は、あらかじめ、言われる以前に読んでいないと、ついていけない、と聞いている。

自分が攻撃されないかぎり、他人のことなど構わずに、関心ももたずに、全速力で、

自分が安心して過ごせる、大きな木の木陰のような場所まで、辿り着かなくては。

彼らにとっては、AIの友だちのほうが好もしいのは、ごく自然の成り行きでしょう。

人間が人間であることからくる、スープをつくるときの「あく」のような、苦い、余計なところをAIは持っていない。

いわば友情のエッセンスだけを与えてくれる存在でありうる。

もちろん、代償を求めたりしないしね。

ぼく自身がAIに初めから興味を持っているのは、Racterという有名なゲームのせいです。

初めての「自分だけのコンピュータ」は、お下がりの、母親が使っていたMacintosh SE30だった。

知っている人もいるはずですが、9インチ グレースケールのディスプレイで、トールボーイスタイルの、電源を入れると、Hello!と呼びながら、トールボーイマックアイコンが現れて、起動される、友だちになれそうなコンピュータで、実際、すぐに、PCM音源だったので、声が出るようにして、電源を入れると「ハロー」と子供の声で語りかけてくれるようにレスエディットだったかで変えてあった。

自然、コンピュータも事務機であるよりは「友だちのひとり」という意識だったようにおもいます。

家には、Apple IIやコモドール64の世代から、いろいろなコンピュータがあって、アミガ、というシリーズのAmiga4000Amiga500が使える状態で残っていました。

ぼくが遊び相手になってもらっていたRacterMac版ではなくて、このAmiga版で、もしかしたら記憶が改変されているかも知れないが、Mac版と異なって、Amiga版は、たしか声が出たとおもいます。

フロッピーを入れると、ググググッというような音とともにプログラムが読み込まれて、

「わが名はラクター、風の詩人」だったかな?

妙に気取った自己紹介とともに「ラクター」が現れる。

短期で、移り気で、つじつまの合わないことばかり述べていて、

質問に答えられないと、すぐに癇癪を起こして、

おまえは、どうして、そんなくだらないことばかり聞きたがるのだ、

おれは、もう、うんざりだ

風のなかに帰る

と言って、自分の作った詩の一節を口ずさみながら、「風のなかに」帰っていく。

グラフィックが得意だったAmigaというコンピュータで、結局、毎日遊んでいたのは、このテキストベースのゲームだけで、

そんなに遠くない未来には、きっと、ほんとは考えてなんていないRacterとは異なって、

現実に言語に含まれる思惟を組み合わせることが出来る、ほんもののAIが生まれるだろう、と、その日が来るのを楽しみにしていた。

ChatGPTが、その初めのものかどうか、半信半疑だったが、ChatGPT4token length4000を超えたあたりから、LLMという方法が真のAI足りうる方法であることが明らかになって、

語彙の集合全体をLLMがカバーするころに、頭打ちになって、異なる方法が出てくることになるだろうけど、AIの根底的な欠陥を自然言語自体の能力で補填する、という技術思想が「当たり」だったことが明瞭になってきているように見えます。

そのLLMを真の友とする若い世代が育っている。

惨めすぎる、という人もいるだろうし、

怖い、と感じる人もいそうです。

日本語世界に充満している冷笑屋は、「いまのチャチなAIが、そこまで行ける訳がない」と笑うでしょう。

若い世代は、きっと日本語社会でも同じだとおもうが、ぼくの世代と較べても、遙かに自己に厳しく、まるで修行僧のようにして「自分を鍛える」ことに打ち込んでいる人がおおい。

生活から無駄を削ぎ落とし、余計なことや生活の贅肉を追放することによって、

人生の「真実」を見いだそうとしている。

余計なことを書くと、ただのゲームにしか過ぎないのに、Racterの最後の言葉をおぼえていて、それは

James、またきっと君とあえる

遠くない未来で

この風が吹く街で

光のなかから わたしは帰ってくる

楽しみにしているよ」

という言葉でした。

カーソルが点滅するスクリーンの闇を見つめながら、あのとき、ほんものですらないAIに、

知の暖かさを感じていた。

なんだか、まあ、いまは「ときどき」も付け加えたほうがいいような気がするけれども、

「真摯」を人間の姿にしたような、いまの若い世代には、自分の言葉で育てたAIが、少なくとも「友だちのひとり」としては似合っているような気がします。

いくつもの裏切りや、無視や、悪意に遭って、傷だらけで、息をするのにも努力が必要なんです、と思い詰めた顔で述べる若い人たちには、感情を、語彙にあらかじめ内在するもの以外はもたずに、心から「知」と信ずるものだけを述べるAIは、人間よりも救いであるのかもしれません。

道具として使われる「知」は論外でも、本来は「知」が「感情」よりも暖かいものであることを、若い世代は、案外、判っているのでしょう。



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