バン・トラックの中古取引では世界一の規模…栃木県小山市で「億」を動かすパキスタン人が次々と生まれたワケ
※本稿は、室橋裕和『北関東の異界 エスニック国道354号線』(新潮社)の一部を再編集したものです。
JR小山駅西口(2021年9月17日撮影)(写真=Mod Text.11/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
■北関東の外国人社会を支える一大産業
僕は国道354号線を館林からさらに東に進み、北上して国道50号線に入り、栃木県の小山市に来ていた。カタギの皆さまは小山と聞いたところで名所も特産物もなにも思い浮かばないかもしれないが、僕たち異国文化を愛する者は小山といえばまず外国人の中古車業者が集まる、アライオートオークションを連想する。
というのも北関東では、中古車を生業とする外国人が実に多いからだ。世界的に評判の高い日本車は、中古であっても高値で取引される。それを日本国内で買いつけ、母国あるいはネットワークのある他国に輸出し、販売するというビジネスだ。
北関東の外国人社会を支える一大産業といっていい。出品者はおもに日本のメーカー系ディーラーや中古車買い取り専門店、中古車リース会社などだ。これを買い取るのは日本人の中古車販売店のほか、外国人の業者だ。輸出を手がけるところもあれば、解体してパーツごとに売ったり輸出したりするところもある。
■中心にいるのはパキスタン人
こうした中古車関連ビジネスの外国人が、北関東には実に多い。日本の業者にとっても大事な商売相手となっているのだ。
彼らは埼玉や千葉の北部などオークション会場のある街の近辺に集住してコミュニティをつくっているが、中でも小山にはとりわけ規模が大きな会場がある。
写真=iStock.com/Konstantin Karpov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Konstantin Karpov
そしてこの街で存在感を見せているのは、パキスタン人なのである。栃木・北関東の中古車市場に食い込み、小山では一大勢力となっている。
だから小山会場を歩いているのも、かなりの部分がパキスタン人だ。真っ白な民族服シャルワール・カミース姿も多い。オークション開催の日ともなれば他県からもパキスタン人がやってきて、彼らが運んでくる車で小山市内は混み合う。
当然、腹ごしらえをする場所もたくさんあって、この街では本格的なパキスタン料理が食べられるのである……なんてことを教えてくれるのは、比呂啓さんだ。
友人の映像ディレクターである。ふだんから僕と同様に「日本の中の異国」をテーマに取材をしている、いわば同志といえよう。よく一緒に外国人コミュニティを訪ね歩いているのだが、彼はとりわけパキスタンに強い。
前パキスタン大使とも親しく、ディナーに誘われるくらい在日パキスタン人社会の中に入り込んでいる。だからパキスタン人の集住する小山は、比呂さんにとっていわば「ナワバリ」なのである。彼の仲介があったから、アライオートオークションの見学も許可されたというわけだ。
■日本一の中古車オークション会場
「この会場には、モスクを建設する計画もあるんですよ」
小さな礼拝所ではなく、しっかりしたモスクを建てるのだという。それだけ敷地は広大だ。
アライオートオークションを案内してくれる運営会社・荒井商事の広報の方によれば、面積はなんと東京ドーム8つ分。
扱っているのは乗用車だけではなく、中古のトラック、二輪、建設機械など多岐にわたる。とくに中古トラックでは国内シェア50%以上を誇っているそうだ。小山が全国の中古トラック相場を決める、とも言われている。
入札会場や礼拝所などがある中心的な建物を取り囲むように、ここは乗用車、ここは大型トラック、ここはショベル……と車種ごとに「商品」がまとまって停まっており、そこを業者が見てまわる。出品用のクルマの写真撮影をする専用の建物まである。会場内を行き来する送迎バンも走り回る。
「いまはハイブリッドカーや小型トラックが人気ですね」と広報氏。この日はなんと3800台もの中古車が出品された。まさにひとつの巨大産業といった感じだが、ここは中古車オークション会場としては日本一の広さなのだとか。
■エスニック料理が勢ぞろいの食堂
なんだか圧倒された気分で食堂に向かってみれば、その前には3台のキッチンカーの姿。それぞれトルコのケバブ屋、イランのケバブ屋、それにスリランカ料理なのであった。さらに食堂では、そばやうどんやアジフライ定食を出す庶民的なブースに並んで、パキスタン料理のコーナーまである。
「ここはね、常総にあるシーア派のモスクの人がやってるんですよ」
比呂さんがそう言って、厨房にいるパキスタン人コックと親しげに挨拶を交わす。すでに見知った間柄なのだ。メニューを見ればカレーだけではなく、ニハリ(肉のスパイス煮込みスープ。こちらはビーフだった)まである。
写真=iStock.com/Samira Qadir
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Samira Qadir
それともうひとつ、炊き込みご飯の一種であるマトン・プラオをいただく。こちらもでっかい羊肉のカタマリがどかんと入っている本格的なやつだった。市中のレストラン顔負けなのである。
食堂を見渡してみると、パキスタン料理を食べている日本人の業者もいれば、逆に日本の定食を食べている外国人もいる。商談がまとまったのか、誰もがリラックスした笑顔で話しながら、それぞれのご飯をほおばっている。この食堂の景色だけでも面白い。
■きっかけは研修生のお土産
本日4食目となるのは、アライオートオークションの南、ゴルフ場そばにある「ダルバール」だ。店内に入ると、出迎えてくれたのはいかにもインテリ風のメガネの紳士。在日パキスタン人社会の重鎮、ハフィズ・メハル・シャマスさん(45)だ。
ハフィズさんも中古車業者だが、この日はビジネスというよりもっぱら挨拶まわりに忙しかったようだ。
「今日は一日で300人くらいと会ったよ」
と豪快に笑う。それにアライオートオークション内のモスク建設の中心人物でもあり、その話し合いもあったという。
ハフィズさんに、どうしても聞きたいことがあった。そもそもパキスタン人が中古車ビジネスをはじめたのは、いつのことなのだろう。
「1970年代だと言われてるよね」
ということは、北関東にパキスタン人やバングラデシュ人など南アジアの労働者が流入してくるよりも前だろうか。
「日本に勉強に来た研修生が、パキスタンに戻るときにクルマを持ち帰ったの。それを向こうで売ったら儲かった」
研修生とは、現在の技能実習生ではない。また違う制度のもと、日本の技術を学びに来た留学生のような形だったそうだ。で、研修期間修了後、日本の中古車をお土産としてパキスタンに持ち込んでみたところ、これはいい商売になると気がついた。
「だからその人、また日本に戻ってきて、本格的に中古車やりはじめたんだよ」
それが1975年頃のことだったそうだ。
■時代を先取りしたパキスタン人
その頃は日本でもまだ、中古車市場は成熟していなかった。戦後しばらくの間、車はきわめて高価で貴重な存在であり、廃車になるまで乗り潰したから、中古車というものがほとんど出回らなかったからだ。
変わりはじめたのは1950年代後半だ。経済復興が進み国民生活が少しずつ向上したこと、それに大泉で「スバル360」が生産されたことが大きなきっかけだ。庶民にも車が普及するようになり、日本でもモータリゼーションが本格化する。
スバル・360 K111型(写真=Mytho88/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
そこでようやく中古車も活用しようという流れになり、市場が形成されていく。その頃はブローカーが売り手と買い手を仲介していたが、1970年代に入ってようやく同業者組合がつくられ、組合主導のオークションが行われるようになってきた……そんな時期だ。
だから当時は「中古車を海外で売ってみよう」という発想もなかったのではないだろうか。そこに着目したパキスタン人研修生は、時代を先読みする力と、運を持っていたのだろう。ずいぶんと儲かったようだ。やがてパキスタンだけではなく、バングラデシュやドバイ、南米などにも輸出しはじめた。それを真似する人も出てくる。
■埼玉に生まれた「ヤシオスタン」
留学生の中には、日本に留まり、同じようなビジネスを立ち上げる人も出てくる。彼らが集まるようになったのが、埼玉県の八潮だ。オークション会場のひとつがあったからだ。また、八潮は都心から比較的近いこと、当時は電車も通っておらず土地が安くて、ヤード(中古車の保管をする場所)を確保しやすかったことも理由にあったとか。
こうしてパキスタン人の集住が進む八潮は、やがて「ヤシオスタン」という二ツ名でも知られるようになっていく。
ちなみにこの時代、オークションは電子入札ではなく「手」つまりハンドサインで行っていたのだという。市場のセリで見るアレだ。指先の複雑な動きからなる符牒をパキスタン人も覚え、オークションに参加したそうだ。
彼らの参入が目立つようになった頃は、誰もが当たり前のように新車を買うバブルの夢の中。だから中古車は格安で仕入れられ、利ザヤで大成功したパキスタン人もいる。日本車の評判が世界的に高まった時代でもあった。
とりわけ途上国ではハードな道でもしっかり走る日本車のタフさと耐用性が好まれた。たとえ中古でも、パキスタンやバングラデシュや中南米では“ブランド”だったのだ。
「小さい頃から、クルマだけじゃなくて家電でもなんでも日本製を買ってた。日本のモノは信用があったんだよ」
ハフィズさんは言う。その信用を背景に、日本で中古車ビジネスを営むパキスタン人の親族が他国にも進出、日本からの中古車を輸入・販売する会社をつくるという動きも広がった。パキスタン人が、日本の中古車売買をワールドワイドなビジネスに展開させていったのだ。
■八潮→野田→小山
ハフィズさんが来日したのは1998年(平成10年)だ。パキスタン北部シアルコートから、労働者ではなく留学生としてのビザを取ってやってきた。そして卒業後は中古車ビジネスの世界に参入。
「その頃はやっぱり八潮にいたんだけど、2015年に三郷に引っ越したの。まわりに学校があって子供が通うのに便利だったから」
と、ヤシオスタンの住民の分散化も進んでいく。ビジネスを拡大させた人々が広いヤードを借りるには、さらに郊外へ郊外へ、地価の安いほうへと移っていく必要もあった。
そして八潮から20キロほど北上した千葉県・野田にもパキスタン人の集住地ができた。ここにはやはりオークション会場があるからだ。そして野田から利根川を挟んで北側には、354が走っている。
■億単位で土地を買う猛者も
野田からさらに北に進んだ栃木県の小山もパキスタンタウンとして賑わうようになったのだが、理由はいくつもある。
1987年にオープンした関東中央オートオークション(現在のアライオートオークション)が中古車の集積地として成長して、とくにバンとトラックのオークションでは世界一ともいわれる規模になったこと。野田などほかのオークション会場からも近いこと。それに輸出港のある横浜へも陸送できる距離であること。
加えて、354を走った先には大泉のスバルが、4号線を北上すると日産自動車の栃木工場があり、その中間でもある小山には自動車関連産業が根づいていて、輸出だけでなく国内向けの中古車販売や解体業の需要もあること……。そして地価がまだまだ安いことも大きい。
室橋裕和『北関東の異界 エスニック国道354号線』(新潮社)
「みんな大きいヤード欲しいからね。土地の安い小山で買っちゃう人が増えてる。ヤードだけじゃなくて家も買う」
ハフィズさんはサラリと言うが、ヤードなんて業者によっては何百坪もあるわけで、買うとなると「億」単位の出費となるのだが、そこをクリアできるパキスタン人業者はけっこうたくさんいる。
実にうらやましい話なんである。クルマだけでなく土地の売買にも手を広げ、不動産屋を兼業する人もいる。パキスタン人はもはや小山の地元経済に影響を与える存在になっているのかもしれない。
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室橋 裕和(むろはし・ひろかず)
ライター
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年にわたりタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『日本の異国』(晶文社)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)など。
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(ライター 室橋 裕和)