〈マッチだけではなかった〉度重なるオトコたちの裏切り、家族との不協和音…中森明菜「ライブ映画公開」それでもファンが明菜を待ち続ける“理由”とは…
昨年末、突如として開設された新しいファンクラブ、そしてGWに全国の映画館で上映される、1989年のライブ映像。完全復活が待望されている歌手・中森明菜だが、その歴史を振り返るとまだまだハードルは高そうだともいえる。(サムネイル、トップ画像:「月刊明星」1983年7月号より、映画『愛・旅立ち』〈1985年公開。東宝〉のロケ現場でのオフショット。撮影/篠原伸佳)
突如ヌード写真集を出版した妹・明穂
歌手・中森明菜を語る上で外すことができないのは家族、とりわけ母親の存在だ。
1965年7月、東京・大田区で生まれた明菜はその数カ月後に清瀬市へ転居、そこで2男4女の6人兄弟の5番目として育った。
父親は転居後も大田区内で精肉店を営んだ。仲良しで結束の堅かったという一家だが、幼い明菜は兄妹のなかでも母親・千恵子さんが大好きでいつもべったり側にいたという。
母親の千恵子さんが若い頃は歌手志望だったこともあり、母を喜ばせるため明菜は歌手への夢を抱く。そして3度目の挑戦で1981年『スター誕生!』(日本テレビ)に合格、瞬く間にスターへと駆け上がっていった。
そんな明菜の活躍を千恵子さんは喜んだ。そして明菜も自分の活躍を千恵子さんに報告し、甘えたという。
「母娘二人三脚で歌手になったという感じでした。また1986年に明菜が日本レコード大賞をとった時には、舞台で歌う明菜のそばで涙を流していました」(当時を知るスポーツ紙記者)
1985年の『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』に続き、翌年2年連続で日本レコード大賞を受賞した16枚目のシングル『DESIRE -情熱-』。明菜のシングルでは初となる阿木燿子が作詞提供し、鈴木キサブローが作曲を担当。着物をアレンジしたような和洋折衷の衣装にボブのヘアウィッグといったステージルックもインパクト大で、印象的なリフレインとともに、大ヒットとなった
その後、千恵子さんのために地元清瀬市でカラオケスナックを開業するのだが、数千万円ともいわれた資金も明菜が出したといわれる。
さらに家族のためハワイに別荘を買うなど金銭的にも家族を支えていった。だからこそ、その関係は変わっていったのだろう。ひとつのきっかけは明菜が埼玉県にビルを建てたことだった。
「明菜は家族のためにビルを建てたんです。そこで兄の一人がカレーショップを、姉も夫と一緒にレストランをオープン、そして父親も精肉店をたたんで中華料理店をオープンさせた。ところが2年も経たない1987年秋頃には兄と姉の店は閉店してしまうのです」(前同)
立地条件も悪かったが、家族の結束を願う明菜は大きなショックを受けたといわれる。そして少なくない経済支援を家族にしてきたのに、と不信感を持つようになっていくのだ。さらにハードなスケジュールにもかかわらず手元に残る金が少ないという猜疑心も芽生えていった。
「家族が私のお金を使い込んでいる」
そんな中、1988年には千恵子さんのガンが見つかる。明菜は多忙だったこともあるだろうが、なぜか見舞いは数回のみ。さらに同時期、芸能界デビューした妹・明穂の存在も明菜を悩ませた。
明菜も妹の芸能活動を後押しし、明穂は当初ラジオパーソナリティやドラマに出演していたが、デビュー翌年の1988年にヌード写真集やセクシービデオに出演する。これに明菜は大激怒したという。
この時期、自身もまた近藤真彦との交際に悩んでいた時期であり、1989年の自殺未遂へと時は進んでいく。
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