部隊からそう遠くは離れていない。
しかし二人きりで話すには十分な距離。
「……それで、話とは?」
沈黙の時間が両者の間に積み始めた頃、モモンガは控えめにそう切り出した。対するガゼフは僅かに動揺の色を見せた後に、ゆったりと空を仰ぎ見る。
「……今日は星がよく見えるいい夜だと思ってな」
「はぁ……」
しかしそこには曇天が広がっている。
灯りは地上の篝火ばかりで、空には飲み込まれそうな漆黒が溜まっていた。
モモンガが不思議そうに生返事をすると、自身の失敗に気づいたガゼフはわざとらしい咳払いでその場の微妙な空気を誤魔化した。らしくない彼の姿に小首を傾げるモモンガだが『歴戦の勇者でも戦争の前は落ち着かないものなんだな』と見当違いの発見に頷いていた。
「ガゼフさんでも緊張するものなのですか?」
「え」
「数多の戦場を潜り抜いてこられたのでしょう? でも命を賭した戦いの前には、そうやってソワソワするものなのかな、と」
「あっ……あぁ、いや……情けない姿を見せてしまったな……。そうじゃないんだ」
「……?」
きょとんと目を丸くするモモンガの横髪を、夜風が撫ぜる。漆黒に浸した様な美しい黒髪がさらりと揺れて、甘い香りがその風に乗って溶け消えていった。細指で耳に髪を引っ掛けるモモンガの仕草に、ガゼフの心臓が低く早く蠢いた。
「貴女の言う通り死地に向かうのは初めてじゃない。幾つもの死線を越えてきたつもりだ。しかし、いつどこで死んでも俺に後悔はなかった。だから緊張なんて殆どしたことがなかったんだ」
「……今回は違うと?」
「ああ」
ガゼフはそう返して、モモンガに居直った。
一つ大きな息を吐いた後のその瞳には、既に覚悟の火が灯っている。
「……まず、モモン殿には感謝の意を伝えておきたい。あのカルネ村で出会ったときから、この瞬間まで……俺や王国は幾度となく貴女に助けられてきた」
「……結果的に、ですよ」
「謙遜せずに、俺からの感謝を受け取って頂きたい。貴女は間違いなく俺や王国の大恩人だ」
「……分かりました。その気持ち、しっかりと受け止めさせていただきます」
「ありがとう」
ガゼフは心から頭を下げた。
純度の高い感謝の気持ちは、死地へと向かう前にはっきりと言葉にして伝えたかったのが本心だ。
そして、これから伝えることもまた純真な本心。ガゼフはまた一呼吸置くと、モモンガの美しい翡翠の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「モモン──いや、アルベド殿。俺は貴女に伝えておかねばならないことがある」
「……なんでしょう」
「俺は、貴女に憧れを抱いていた。『困った人がいたら、助けるのは当たり前』……この言葉を真っ直ぐに体現する行動力。そしてそれを実行するだけの美しい心と実力の持っている貴女が、俺には輝いて見えていた」
言葉を一つ一つ、丁寧に選んでいる。
何か大きな告白をしようとしているガゼフを、モモンガはじっと待っていた。その言葉には続きがあると思っているからだ。しかしそれが愛の告白だということは彼には分からない。
「だが、その輝きは次第に色を変え始めていた。貴女が変わったんじゃない。俺自身が変わり始めていたんだ」
独白のような言葉には混じり気がない。
ガゼフは一呼吸置いて、モモンガの瞳を真っすぐに捉えた。
「
「……はい」
「アルベド殿。俺は貴女のことを──」
「モモン。ここにいたのか」
──その時、呑気な調子で彼らのもとへ白金の鎧が歩みよる。
これ以上になく悪いタイミングだ。
白金の鎧……リクはモモンガとガゼフの顔を見比べると、微妙な空気を察知したのか、咳払いをする仕草を見せて言葉をくぐもらせた。
「……お邪魔だったかな?」
申し訳なさそうなその言葉に、ガゼフの眉がぴくりと跳ね上がる。彼からすればこのタイミングでリクが現れたのは、明らかに故意だ。
「いや、こちらこそモモン殿をお借りして申し訳ない。こうして真っ当に顔をお合わせるのは初めてだな。リ・エスティーゼ王国の戦士長、ガゼフ・ストロノーフだ」
お邪魔だったかという質問に対しては敢えて答えない。
差し出された手を、リクは何の疑いもなく取った。
「知っているとおり、先日彼女のパートナーになったアダマンタイト級冒険者のリク・アガネイアだ。王国戦士長の噂はかねがね聞いていたよ。会えて光栄だね」
パートナーというワードに、じくりと胸が痛む。が、ガゼフは平静と笑顔を取り繕った。
「それで、彼女に何か御用だろうか」
「ん? ああ、いや。大した用事でもないさ。君の話が終わった後でいい。モモン、戦士長の話が終わったら後で来てくれるかい?」
「分かりました」
じゃあまた後で。
そう言い残して、リクは踵を返した。
遠ざかっていく彼の姿を、ガゼフは目を細めて追っていた。あの背中こそガゼフが目指すべき姿であり、そして超えなければならない壁でもある。故人ではなかった。実際に生きていた。それは本来喜ぶべきことであるのだが、自分の心が俄かに曇っていく様がガゼフは醜く感じて仕方がない。彼は己を恥じる気持ちで、拳を固く握り込んだ。
「……良かったな」
ガゼフは絞り出す様に呟いた。
そんな彼の言葉に、モモンガは小首を傾げる。
「何がですか?」
「あのリクという騎士……モモン殿の想い人なのだろう」
「ああ……え、……ん!?」
予想だにしないガゼフの言葉に、モモンガはぎょっと目を丸くした。そんなモモンガの反応に、ガゼフは薄く笑う。
「隠す様なことでもないさ。あの御仁が、貴女のことを昔救ってくれた騎士なんだろう?」
「え、え?」
「今あの御仁と握手して確信した。あの方も、アルベド殿の様に俺には追い付けない高みにいる存在なのだと」
掌に残る存在感を確かめる様に、ガゼフは自身の手を見つめていた。ともすれば押し潰されるような……そんな圧迫感を感じ取っていた。あれには勝てないと、本能で理解できてしまう。アルベドの隣に立つ男とは、ああでなくてはならないとも思ってしまった。
「確かにあの御仁であれば、モモン殿が惚れてしまうのも仕方がない。同じ男として──」
「ち、ちょっと待ってください」
「ん……?」
何か別種の戸惑いを感じ取ったガゼフは、静止した。
対するモモンガは大量のクエスチョンマークを頭上に浮かべて彼に問う。
「もしかして……何か勘違いしてませんか?」
「勘違い、というのは?」
「え、あの……リクってガゼフさんにはどう見えているんですか……?」
恐る恐るといった声音に、ガゼフはきょとんとした表情を浮かべて答える。
「いや、言葉の通りだ。あのリクという御仁が昔アルベド殿を救ってくれた聖騎士なのだろう?」
「…………それで、私がその聖騎士のことが好きだと……?」
「違うのか?」
……思い込みというのは実に難しいもので、本人がそうだと一度思ってしまったらそれ以外の選択肢は眼中にすら入らなくなってしまう。たとえそれが虚像を見ていたとしても、だ。
大真面目に見当違いのことを喋っているガゼフにモモンガは目を点にしていたのだが……やがて止まった時間が雪解け水の様に流れていく。
「──……ぷっ」
聞いたことのない声。
いつも淑やかな笑みを湛えているモモンガの唇が、反射的に動いた瞬間だった。彼は次第に頬の筋肉を緩ませると、堪えきれないといった様子で腰を折った。
「──あは! あはははは! あはははははは!」
「え」
突然噴き出したモモンガ。
次に目を丸くしたのはガゼフのほうだ。
腹を抑えながら震えているモモンガは、目端に涙を溜めながら笑っていた。
だって、こんな生真面目を絵に描いたような男が『お前たっち・みーに惚れてるんだろう』と余りにも可笑しいことをいうのだから。当のモモンガからすれば、余りにも的外れすぎて笑うしかない。しかも、リクをたっち・みーと誤解しているおまけ付き。ガゼフのガチな表情もツボだった。
「な、なんで笑う……」
「あーおかしい……私がたっちさん……ぷふ、あの人のことを好きな訳ないじゃないですか」
「そ、そうなのか!?」
「それに、私が言っていた聖騎士とリクは別の人間ですよ……くく」
がーん、という効果音がガゼフの頭上から聞こえてきそうだ。
彼はやがて全てを理解すると、がっくりと膝に手を突いた。
「そうだったのか……俺は、なんて思い違いを……」
勝手に曇って、勝手にリクを意識して、自分はなんて愚かだったのかという反省と、途方もない安堵感がガゼフの胸の内を満たしていく。そんな彼の後頭部を見ながら、モモンガは依然可笑しそうに笑っていた。
「面白い発想をしますねガゼフさんは」
「……言わないでくれ」
「あー笑った……それで、私に何か話があったんでしょ?」
「……あ、ああ」
細指で目の縁の涙を掬いながら問うモモンガに、ガゼフは曖昧に答えた。はっきり言って、胸の曇りが晴れてしまったからだ。想いの丈を吐くような気勢も削がれてしまっている。
ガゼフは疲れた様に柔らかく笑って、モモンガの目を見た。
「そうだな……うん。この戦いが終わったら……一緒に食事でも行かないか。いいところを見つけてな。よかったらそこでご馳走させてくれ」
告白するのは、全てが終わってからでもいい。
ガゼフは腰の『
モモンガの返答は、勿論──……
「もちろん。是非ご一緒させてください」
彼はやはり、女神の様な微笑を浮かべている。
篝火に照らされた顔が、いつにも増して綺麗だと、ガゼフはじんわりと思った。
──日が沈み、月が浮かび、そしてまた日が昇る。
三国連合は数日の時を以て、旧評議国領内へと足を踏み入れた。
逃げのびた僅かな亜人とすれ違うことも多かったが、何よりアンデッドとの接敵が多い。領内には常に死の香りが立ち込めている為、アンデッドが自然発生しやすいというのもあるだろう。首都のドラゴンズブレスに近づくにつれ、接敵の数は増えていく。
しかし低位のアンデッドなど、各国を代表する英雄達が集うこの連合にとっては物の数ではない。千や万の単位で押し寄せられたとしても、撃破は容易だろう。故に道のりは険しくとも、その道の踏破も容易だ。
気づけば一団はドラゴンズブレスの目前までやってきていたのだが──
「これは……酷い」
──そこはまさに地獄と化していた。
蔓延るゾンビ達の呻き声と腐臭は風に乗り、時を錆びつかせ、生命の全てに不吉を齎している。かつての栄華はそこにはない。あるのは腐肉と、瓦礫と、絶望のみ。見渡す限りの不死者達。
元は亜人種の国家だとはいえ、余りにも凄惨な光景にその場にいた誰もが顔を顰めていた。
「……」
モモンガは、兜の中で沈黙を保っていた。何も言わず、ただじっとそこを見つめている。しかし陽の光を浴びているのはいつもの魔法で編み込んだ漆黒の鎧ではなかった。彼の身を包むのは、
英雄が用いるには些か不吉な印象を抱かせるその威容に誰もが目を見開いていたが、兜を脱げば中からは天女の顔が現れる。その美貌と優しげな声音を露わにすれば、誰も彼に怖れを抱くことはない。
ただ……誰もが理解できた。
英雄モモンが本気になっているのだと。理由は分からないが、いつものあの漆黒の鎧とグレートソードはこの英雄にとっては所詮予備のものでしかなかったのだと。
「いかがなさいますか。師よ」
『
モモンガは苦い顔を浮かべるだけで、フールーダには見向きもしなかった。彼は弟子を取った覚えなど一切ない。老人の妄言に取り合う暇など、さらさらなかった。
モモンガはフールーダの陰に隠れる様に浮かんでいた、巨大な帽子を被っているいかにも魔法使いといった見た目の女性──『無限魔力』に語り掛けた。
「これは思っていた以上に酷い有様ですね」
「え、あ、うん……あっ、はい」
『無限魔力』は自分に話を振られると思っていなかったらしい。面食らった様な表情を浮かべながら彼女は額に汗を浮かべていた。
「あのー……やっぱり作戦変更しますか?」
「いえ、作戦は私が言っていた通りに決行します」
モモンガはそれだけ言って、地上にふんわりと降下していく。
下で待っていた『漆黒聖典』の隊長と顔を合わせると、彼は脇に抱えていた兜を被り直して静かにこう告げる。
「開戦は十分後に。貴方達の働きに期待しています」
「……承知しました」
隊長は笑みを浮かべてそう返しながら、モモンガの言う作戦とは言えない作戦を頭の中で反芻していた。
──墳墓には私、リク、『絶死絶命』の三名で赴きます。その間にあなた方は地上のアンデッドの掃討に尽力してください。
全ての反論を拒絶する様なオーラに、誰もが異口を唱えることができなかった。隊長は薄らと目を細めながら、モモンガの背中を見送っている。
全てが未知数に満ちたこの戦争の結果は、彼を以てしても見通すことは不可能。
空には、鉛色の暗雲が重たくのしかかっている。