陸自ヘリ墜落事故が問いかける「犠牲になった軍人を日本はどう扱うべきか」

日本に足りない3つの「戦士」要素
地政学・戦略学者/国際地政学研究所上席研究員

【編集部より】沖縄・宮古島海域で6日に起きた陸自ヘリ墜落事故では、第8師団の坂本雄一師団長ら搭乗していた10人が行方不明となり、26日までに坂本師団長を含む6人の死亡が確認されました。戦略学者の奥山真司さんがこの事故が日本社会に投げかけた重大な「問い」について提起します。

事故にあった陸自ヘリ「UH-60JA」(陸自リリースより)

近代国家の根幹をなす問題

たった1ヶ月の間に、日本の安全保障を深刻に考えざるをえないニュースが2つ起こった。

ひとつは和歌山の漁港で4月15日に発生した事件だ。選挙の遊説中だった岸田首相に対する筒状の爆弾と思われるものを使用した暗殺未遂事件であり、この実行犯の動機については様々な憶測が流れており、現時点ではまだ明確な答えが出たわけではない。

もうひとつは、日本にとってはこの暗殺未遂事件よりも、潜在的には国際的かつ国内的に大きなインパクトを与える出来事だ。それは4月6日に沖縄県の宮古島周辺で陸上自衛隊のヘリコプターが消息を絶った事故である。

これがなぜそこまで大きなインパクトを与えることになりかねないのかといえば「国というコミュニティのために犠牲になった人間について、国民と国家はどう向き合うべきなのか」という、近代国家にとって根幹をなす問題を投げかけるものだからだ。

「国は戦死者をどう祀るべきか」

もちろん日本ではこの問題についての議論は以前から多く行われてきた。たとえば靖国神社に関して「国は戦死者をどう祀るべきか」という文脈から、主に党派的な面から議論されてきた面はある。

ところがそのような政治的な性格の強いイシューのおかげで、日本ではたとえば戦争学や戦略研究などのアプローチから客観的に議論されることはほとんどなかったと言ってよい。

だが今後の日本が政治的に直面する可能性の高い問題において、英語圏では学問的にどのような議論が行われているのかは、SAKISIRU読者には知っておいてほしいと私は考えている。

したがって本稿ではこの問題を「戦士」(warrior)という言葉に集約しつつ、以下にその構成要素となる3つのポイントにしぼって話をしてみたい。

コミュニティのために命を懸ける

第一に「戦士」は、ある一定の「行動規範」(code of conduct)を守るべき存在であるとされる。

そもそも「戦士」という言葉は、日本社会では一般的にゲームや小説などのフィクションの世界でしか使われることのないものであり、「ウォーリアー」と言われても、昔のプロレスラーのリングネームのような響きであるため、いま一つ社会的な実体を持つ概念だとは感じられにくい。

ところが実際に戦争を行っている英語圏の国では、この概念を正面から取り上げ、しかも学問的に議論をするケースが多くみられる(たとえば『The Warrior Ethos』という本がある)。

そのような議論において「戦士」とは「社会(コミュニティ)のために命を賭して戦場で暴力を使って戦う存在」ということになる。一般的には「兵士」や「軍人」と呼ばれ、社会の中でも特別な(人殺しを許された)立場にある人間によって構成されてきた戦闘集団のことであり、歴史的にはほぼ青年男子によって占められてきた。

クラシックスタイルでパレードに参加する米陸軍軍人(Army Staff Sgt. Kevin Lynch /米国防省サイト

ところがこの階級の人々が自ら所属する社会に対して暴力を奮うのは困るので、様々な社会ではそれを抑制するために「行動規範」を決めたり、それを守った人間をたたえるような仕組みが歴史的につくられてきた。

西洋ではこれが「騎士道」、日本では侍が信奉する「武士道」などがそれに当たると考えるとわかりやすい。そしてこのような規範は、たとえば何が正しいのかという正邪に関する原則や、守るべき名誉という要素と常に結びついており、これらを守った者が「戦士」として尊敬されることになる。

戦士に用意されるべき独特の価値観

第二に、その行動規範は、自己犠牲や勇気を要求するものだ。とりわけ最前線の戦場で社会の代表として戦う戦士には、肉体的な犠牲、とりわけ究極の犠牲である「死」という、自己犠牲を厭わないという態度や所作が求められるのだ。

ところが数々の研究からも判明している通り、人間というのは、自分の命を投げ出すことや、他の人間を殺すことには本質的に抵抗があるものだ(参考)。

その心理的な抵抗感を克服するために、あらゆる国やコミュニティが抱える軍事組織が「戦士」たちに対して様々な仕掛け(訓練や報奨など)を用意してきたのであり、そのために、彼らに対して独特な価値観が用意されることになった。

戦士への「リスペクト」はあるか

そして第三の構成要素は、その「戦士」を受け入れる「社会」側の態度だ。

「戦士」は古代から社会的につくられてきたものであり、あらゆるコミュニティは、自分たちを守るために積極的に戦って命を投げ出し、敵を殺害(!)する「戦士」に頼らなければならない。

その目的のために社会は「勇気」や「誇り」を尊ぶことを教え込むわけだが、そのような概念は彼らの所属する社会の「文化」や「価値観」と密接な関係を持っている。

たとえばアメリカやイギリスのような日常的に戦争をしている国では、リベラルな先進国であっても、軍人という「戦士」に対しては、一般国民からもリスペクトするような文化や社会的雰囲気が存在する。さらには実際に彼らが犠牲となった場合は、国家的にも顕彰するような制度が(日本よりは)整っている。

死が現実になった時、日本社会は向き合えるか(画像は令和4年度青森陸・海・空自衛隊殉職隊員合同追悼式、陸自サイト)

ところが日本の例を考えてもおわかりのように、いざ台湾有事のような「戦時」となったときに「戦死者」を日本政府としてどのように扱えばいいのか、まだ議論が十分になされているとはいえない。

また、今回のように不幸にも自衛隊員が殉職者となった場合、現在は市ヶ谷の防衛省の敷地内にある「殉職者慰霊碑」に名前が刻まれて顕彰されたり式典が行われたりしているが、基本的に一般の国民はそのような祭典に参加できない。自衛隊が「国民の軍隊」ではない事情がここにもあらわれているのであり、彼らは本来の意味でも「戦士」とはなれないのだ。

ウクライナ戦争が問いかけるもの

ウクライナ戦争が発生して1年がたったが、日本では文化的、もしくは大手マスコミの情報のフィルターがかかっているため、どうしても「誇りをもって戦う兵士」の姿は描かれることは少ない。一般市民へのインタビューも「早く戦争が終わってほしい」というものばかりをピックアップしている。ウクライナ国民の9割が「ロシアとの戦争での勝利を願っている」と答えている実態や、自国のために己を犠牲にして戦っている「戦士」の姿は伝わってこない。

このような状況の中で、いずれ日本に問われることになるのは、台湾有事の際に日本側に戦死者が出た際の、日本の社会全体の価値観が試される「戦士」との向き合い方なのだ。

(関連記事)台湾有事で日本が本当に考えなければならない「戦略的態度」とは?

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