「根本的な原因は両親にありました」 50代男性は“20年超のひきこもり生活”をどう抜け出したのか
マネーポストWEB4/23(日)15:15
中高年のひきこもりは全国に60万人超いると推計されている(イメージ)
社会問題として取り上げられることも増えている、中高年のひきこもり。内閣府が2019年に実施した「生活状況に関する調査」によると、40〜64歳のひきこもり出現率は1.45%で、全国に推計61万3000人いるという。
一度ひきこもり生活が始まると、そこから抜け出すのは容易ではない。では、ひきこもりを脱出するには、どんなきっかけが必要なのか。ここでは、20年以上に及ぶひきこもり生活を脱出したケンジさん(仮名、男性/54歳)が、「ひきこもり問題を考える一助になるなら」と、自身の経験と思いを明かしてくれた。
エリート父と、高卒の母「誰が金を出すと思ってるんだ!」
ケンジさんの父親は難関国立大学を卒業し、大手メーカーに勤務していたエリート。母親は高校卒業後に就職し、結婚のタイミングで退職した専業主婦だ。ケンジさんは、衣・食・住という面では何不自由なく育った。
そんなケンジさんがひきこもりになった直接的なきっかけは、就職先の人間関係に悩んだことだった。ただし、ケンジさんは、「根本的な原因は、家庭環境、つまり両親にあった」と主張する。
父親は、息子にも自分と同等クラスの国立大学合格を求めた。ケンジさんが現役時、ひそかに志望していた難関私大に合格しても、父親は「所詮私大」という“国立至上主義者”で、「滑り止めとして受けさせたが、入学は認めない」の一点張りだった。
「父は『俺の子なのに、なんでコイツはできないんだ』というのが口癖でした。進路選択において、僕の意思はすべて無視されました。滑り止めを受けさせたのは、あくまでも練習のためであって、入学させるためではないというのです。
『誰が金を出すと思ってるんだ!』と口酸っぱく言われたうえ、母も母で、父が僕に説教する姿をただ見ているだけでした。自分が高卒なので、何を言う権利もないと思っていたようです。母は常日頃からそんな感じで、すべて父の言いなりでした」(ケンジさん、以下同)
結局、ケンジさんは二浪したものの、国立大にはどこにも合格できなかった。現役時に合格した私大よりも偏差値が何ランクも低い、ケンジさん曰く「Fラン大」に進学することになった。その後、就職活動でも苦戦した。当時は氷河期が始まった頃で、就職状況は厳しかった。やっとのことで内定をつかんで就職することができたが、ケンジさんにとって不幸が襲う。会社の上司が“父親似”だったのだ。
会社に行くのが怖くなりひきこもり生活が始まった
「就職事情については、『現役で進学していたら、まだマシだったのかな』と思ったことは正直何度もあります。大学のランクもですし、時期的にも……。父を恨みましたし、僕の味方をしてくれない母にも不満がありました。
もちろん、僕が自分の意思をきちんと伝えなかったのが悪い、という話でもあるのですが、そんなの言える環境ではまったくなかったんです。家のなかで常時パワハラされているようなものなんですから。“ブラック企業”という言葉がありますが、僕の家は完全に“ブラック家庭”でした。
氷河期でも就職できたのはラッキーでした。ただ、上司が完全に父親みたいな人でした。ちょっとしたミスでキレたり、自分の指示通りにしないと、厳しく叱責するのです。
例えば、エクセルのマスの幅や高さが、0.1違うだけで夜中に電話がかかってきたり、メールの文面も『お前そんなんでやっていけると思ってるの???』みたいな感じ。会社に行くのが怖くなり、上司のことを考えると、心臓がバクバクしました」
メンタルに不調をきたし、退職したケンジさんは自室にこもりがちになった。部屋着は何か月も同じもの、風呂は10日に1回など不衛生な環境で暮らしていたという。生活はどうしていたのか。
「母がなんでも言うことを聞いてくれました。母のクレジットカードが登録されている通販サイトには自由にアクセスさせてもらえましたし、食事は作って部屋の前に置いておいてくれました。
金銭の心配がなく、生活に不自由さがなかったのも、ひきこもっていられる理由だったと思います。3日外に出ない生活を続けると、もう社会についていけない、と考えるようになります。そのまま1か月、半年、1年と過ぎたら、10年、20年もあっという間です。ネットがあれば、余裕で部屋のなかだけで過ごせますから」
ひきこもり初期こそ「働け!」「追い出すぞ!」などと怒鳴りつけてきた父親だったが、次第に「ほっとけ」「あいつはただの金食い虫」などの言葉に変わり、あきらめた様子だったそうだ。母は時折泣いているようだったが、ケンジさんは当時、「ひきこもりの責任は両親にあるのだから、自分の面倒を見て当たり前と思っていた」と述懐する。
母の認知症介護を経て考えたこと
父親は定年退職後も働いていたが、膵臓がんを患い70代でこの世を去った。父親が遺した貯蓄や母親の年金で生計を立てる二人暮らしが続いたが、ケンジさんのひきこもり生活は、意外な形で終焉を迎えることになった。
「母が認知症になったんです。そうなると、生きるために外出する必要が発生しました。食料を買ってきたり、お金をおろしてきたり……。母の認知症がすすむと、頻繁に粗相をするようになり、においが自室にも入ってくることもありました」
戸惑っていたケンジさんのもとへ、近所から『くさい』というクレームが来ていると自治会長がやってきた。自治会長から地域のケアマネージャーを紹介され、ケンジさんはプロのアドバイスを受けながら、なんとか母親の介護を続けた。そのとき、ケンジさんが考えていたのは、「母がいなくなったら、自分はどうするのか」ということだったという。
「母の世話をすることで、自分の存在意義をたしかめているような気持ちでした。当面の金銭的な問題がないとはいっても、父の言葉通り、“ただお金を使って”死ぬまでの時間を消費するのかと思うと、いっそ母と一緒に消えてなくなりたいと考えることもしばしばでした。うつ状態でした」
それから2年も経たずに母親を誤嚥性肺炎で亡くしたケンジさんは現在、親戚が紹介してくれたPCショップで働いている。
「今では両親は両親なりに頑張っていたのかな、とも思いますが、両親が亡くなってすっきりした気持ちの方が強い。僕はもう親の面倒は見なくていいという、ある種の気楽さがありますが、介護状態で何年もあのままだったら、共倒れになっていたと思います。
あと、僕がギリギリ50代だったのも、まだよかったかもしれません。60代、70代で老々介護になっていたら、地獄だったと思いますし、ひきこもりだった人間の働き口なんてそうそうないでしょう。仕事は誰かの役に立てて楽しいです。自分が必要とされているのもうれしい。今思うと、“言われたことに応えられなかったらダメ人間”みたいなレッテルを幼少期に貼られたトラウマは大きかったのかなと思いますね」
ケンジさんは、「自分はかなりラッキーだった」と振り返る。曰く、「もともと金銭的に恵まれた家だった」ことに加え、「自治会長が親身になってくれた」「親戚がいた」「働ける場所があった」などが、その“ラッキー”だという。しかし裏を返せば、ケンジさんのように“ラッキー”でなかったら、どうなっていたのか──。ひきこもり中高年の問題をどう解決するかは、社会全体で考えるべき課題なのかもしれない。(了)