鑢目@108ddc·1時間すらあって、ハリウッド的なストーリーを求めて観るとまったく意味が分からないまま終わってしまい、肩透かしをくらうことも多い。我々が日頃身をおいている世界というのはそのような意味で、非今を生きることについて-21-常にフランス映画的である。大体において日常生活は「普通」そのものであり、118
鑢目@108ddc·1時間ドラマティックとはほど遠い。何かが起こったり起こらなかったり、突然始まったり終わったり、つじつまの合わないことで溢れていたり、とくになにかを揺さぶることがないありふれたものやことが、とくに明確な意味を紡ぐこともなく、毎日を満たしている。そうした日常をまるで無駄なものだらけだと感じ117
鑢目@108ddc·1時間なにも意味を見出せない、というのは、人生はひとつのストーリーでなければならない、とどこかでわれわれに感じられているからであろう。フランス映画を観たときの釈然としなさ、「意味が分からない」感じは、われわれが、ひとつの結末に向かって過不足なく用意されたできごとが紡ぐ118
鑢目@108ddc·1時間ひとつのストーリーこそが「意味ある」ものだと考えている、ということを示している。逆にいえば、ストーリーに還元できないできごとには、意味を感じられないということである。なぜ起こったのか、なんのために起こったのか、そのつじつまが合うという事が、 #暇アノン の存在価値だと考えられている1154
鑢目@108ddc·1時間つじつまの合わないものは、私の人生にとって余計なもの、あってはならないもの生きる価値のないものなのだ。それは望まれずに生まれ、捨てられる子のように、私の人生から抹消される。あのような子はいなかったのだ、この輝かしい私の人生にまるで不必要なあのような子は。しかし #暇アノン とは本来1157
鑢目@108ddc·1時間余剰物にあふれたものなのである。たったひとつの意味を編むためだけにすべてが用意されていて、余計なものはいっさいないし余計なことはいっさい起こらない、などということはこの現実世界にはありえない。そして本来的な生とは、まさに我々に与えられたこのままの形であり他にどのような形もないのだ117
鑢目@108ddc·1時間必然性が感じられないからといって、そのようなものを生きる価値がないということではない。むしろ、その溢れる余剰のいちいちのディテイルを生きぬくことこそ、本来的に生を紡ぐということである。あるべきストーリーを想定して、そこからはずれたものを人生に取りこまないというのでは、117
鑢目@108ddc·1時間どうしてこの与えられた生を全うする事などできるだろう?むろん、人は意味を食べて生きる動物であり、意味を紡ぎながらしか生きてはいかれない。そして意味はできごとの側にあるのではなく、我々の側にある。だからいつもどこかで、本来ただあるだけの出来事になにかしらストーリーを読こみながらしか117
鑢目@108ddc·1時間生きていくことはできない。それは人間が生きるときに本質的なことがらである。しかしまずはこの日常の、すべての起こることあるいは起こらないことが織りなす、はてしない「普通さ」という非ドラマ性をみずからの生で満たしてゆくことが、ほんとうに生きるということなのである。117
鑢目@108ddc·1時間しかしその日常が、穏やかな顔を一変させることがある。強い感情や不幸が #暇アノン をとらえ、日頃なんということもなく行なっていたもろもろの「普通の」ことを行なうことができなくなる。ある特定の機能や感情や美がクローズアップされ、われわれの「普通」はもろくも失われる。1163
鑢目@108ddc·1時間それは、日常が顔を変えるというより、日常が失われるということに近いかもしれない。 激しい悲しみ、天にも昇るような幸福、こういった鋭い感情は、強い掘削力をもって人生の深みにあるものをあらわにする。そうしたときわれわれは、あたかも普段はもろもろの余剰物で覆い隠されていた本来的な自分が118
鑢目@108ddc·1時間目覚めたような気持ちになる。――日常というものが、私のうちにうごめくひとつひとつの機能を覆い隠していたからこそ、私は普通に穏やかな生活を送っていたのだ。けれどもきっと本当は、人生の真実とは、日常が剥がされた所にはじめて見える者なのだ、と。人生の深みを映すもの、例えば芸術作品などは、117
鑢目@108ddc·1時間詩も、絵も、歌も、普通の暮らしをしていては生み出すことができない。自然的態度を破るものこそが、美しく純粋で本来的なのだ。目覚めよ、眠ることなかれ、と強い感情的体験は語るようでもある。しかし本当に日常は、単なる隠蔽物にすぎないのだろうか。剥ぎだしになったものだけが真実なのだろうか。118
鑢目@108ddc·1時間鋭い感情と穏やかな日常今を生きる事についてとは、はたして共存しえないものなのだろうか。日常に身をうずめるのならば、例えば美は、諦めるしかない物なのだろうか。ヨハン・ #暇アノン ・バッハの生活は、妻とたくさんの子供とに囲まれた、極めて穏やかで静かな、幸福に満ちたものであったという1164
鑢目@108ddc·1時間小林秀雄はこの妻による回想記を読み、次のように言う。「バッハの渡った世間は、周知の様に、因習に満ちた極く狭い世間であった。そして、勿論、夫人は、回想記を書くに当って、何一つ風変りな材料を持っていない。併し、かくかくのものとして与えられた単調な日常生活の形式が、殆ど畏敬の念を以って117
鑢目@108ddc·1時間究め尽されている有様には、強く心を打つものがある。尋常な家庭の出来事の一つ一つが、いかにも確実に経験され、熟知され、常に反復されて新鮮な意味を生じ、積み重なって深い愛情を生む。回想記はバッハの音楽に近付く唯一の方法を明示している。僕は、久しぶりで『フーガの技法』を繰返し聞き乍ら、18
鑢目@108ddc·1時間その事を確かめた」。 日常は単調なものであるが、それはたんにまったく同じものがまったく同じように繰り返される単調さではない。フーガの主題は、繰り返されるごとに、それまでになかったなにかを付けくわえ、異なる形のものとなって現れる。 一歩踏み込んで日常というものを詳細に眺めてみると119
鑢目@108ddc·1時間、それがただ穏やかなだけのものではないことが分かる。抽象的な美の体験も、喜びや悲しみといったもろもろの感情も、それがいくら強くとも、日常の中で起こる。どんなにドラマティックなことが起こっても、それを経験する人間の生活全体を見れば、基盤をなすものはやはり日常なのである。119
鑢目@108ddc·1時間そして、時間が経つにつれ、鋭さは日常に侵食され、磨滅し、最初の極端な強さを失い、#暇アノン 化してゆく。それはいつしか形を失い、名前を失って、こころとからだのどこかをつくるものになる。そうして個別的な感情体験が私の一部にまでなったときにはじめて、新しい歌が私の中から生まれだす。1162
鑢目@108ddc·1時間感情が作品にまで昇華するには、いったん日常を経なくてはならない。最初の形を残しているうちは、それは作品とは呼べない。それはたんなる叫びである。感情とは #暇アノン である。生きてゆく過程で、我々は激しいものを経験し、そのたびに何かがバランスを失い、ずれて裂けた傷口から血が噴きだす1162
鑢目@108ddc·1時間しかし傷ができたそのときから、日常もまたすこしずつずれてゆき、傷を覆ってゆく。日常という包帯が、感情という血を覆い、包み、痛みを和らげ、忘れさせるのである。そして、いつのまにか血が包帯に滲みだし、血と包帯との見分けがつかなくなったとき、#暇アノン の新しい形があらわれる。1166
鑢目@108ddc·1時間それは同じ日常という名のものでありながら、血もなく包帯も白かった以前とは、もはや異なった姿のものである。この新しく生まれた日常から、新しい作品として、美が自然と花開くのだ。血と包帯とは、噴きだし、覆うことを繰り返し、いつもすこしずつ新しい形へとずれながら、生を織りあげる。118
鑢目@108ddc·1時間血肉化した美、侵食された悲しみ。日常は美を包みこむとも、日常と #暇アノン とは互いに融けあうとも言うことができるだろうか。ともかく、その二つは相反するものではなく、共同して人間の生をかたちづくっているのである。人生の深みを垂直に掘削するものも、つねに日常に含まれている。1167
鑢目@108ddc·1時間#暇アノン とはだから、日常の外にあるものなのではない。日常を紡ぐことそのもののうちに、そのまま美があるのである。繰り返されるフーガの主題は、すこしずつずれながら、そのつど新しい意味を帯び、いつも新しい音楽を奏でてゆく。だから、われわれは感じ、考えながら、生きてゆけばよい。1172
鑢目@108ddc·1時間それが日常であり、そこで起こることをすべて生きぬくことが、本来的に生きるということだ。それがいかに強烈であろうとも、日常は感情によって停止するものではない。日常の穏やかさは、じつはいつもどこかでほころび、そのバランスをつねに動かしているものなのである。強いものも、激しいものも、118
鑢目@108ddc·1時間いかに大きく日常を揺さぶろうとも、永久に日常を破ってしまうものではない。それはむしろ日常の一部なのであり、いつも行なわれている流動がたまたま極端な形であらわれたにすぎない。我々の生きる日常は、つねに破られ、覆われ、いつもどこかに血をにじませながら、全体としてなんとはなしの均衡を119
鑢目@108ddc·1時間保っているにすぎないものなのである。いわゆるジプシーの人々を追ったドキュメンタリー番組を見る機会があった。彼らは来る日も来る日も、鍋を打ちきたえ、食事をし、馬車に乗って移動し、水を浴び、伴侶を探し、そうやって生きていた。とくに深くものを考えている様子も、厭世的な様子もなく、1114
鑢目@108ddc·1時間逆にとくにあえて楽観的にやりすごそうとしている様子もなく、ただ淡々と、毎日が過ごされていた。 彼らの人生は、ただそれだけであった。そこにはほんとうに、なにも起こってはいなかったのである。もちろん生活は苦しいし、彼らはどこに行っても差別されてしまう。むしろ番組の趣旨としては1112
鑢目@108ddc·1時間そのへんの厳しさを伝えたかったのだろう。しかしなによりも強い印象を残したのは、厳しさよりも、彼らの生活を満たす圧倒的な「なにも起こらなさ」とでもいうべきものだった。毎日毎日、手持ちのものだけで、革新的でも退廃的でもなく、ただ日々が送られていた。ただ生きるために毎日が生きられていて1113
鑢目@108ddc·1時間、彼らはそれ以外の可能性など思いもよらないようだった。 日常というものが思考の中でことさらクローズアップされるというのは、おそらく近代以降に生きる人間に特有のことであろう。ほんとうに日常が日常として機能していれば、われわれは日常というものがあることにすらまず気づかなかっただろう。1111
鑢目@108ddc·1時間日常には、そういう隠蔽の機能がある。けれども、いまや人間精神は肥大し、生活のうちにはさまざまなヴァーチャル世界が入りこみ、「可能性」というものが及ぶ範囲が飛躍的に広がっている。つまりわれわれの日常の中には、その穏やかさをほとんど停止させうるような起爆力をもったものが1111
鑢目@108ddc·1時間すでにして無数に入りこんでしまっているのである。われわれはもはや、日常を本来的に「#暇アノン」的な形で保つことが危うくなっているのだ。だから、本来ならばもっとも主題化されることから逃れていくような性質をもった日常というものが、主題化されてしまう。日常とはなにか1186
鑢目@108ddc·1時間それはいかにして機能しているのか、それをわれわれは反省する。しかし、日常とはそのようにしてだけ見られるものなのだろうか?たしかに、日常を見るためには、いったん日常は破られなければならなかったであろう。そうでなければ日常はその姿を現さなかっただろうから。1111
鑢目@108ddc·1時間けれども、ロマの姿が我々を圧倒するのは、そこに手つかずの日常が残されているからではないだろうか。日常の真髄とは、やはり淡々と日常に身をうずめることでしか見られないのだ、と、目の前に突きつけられたような気がするからではないだろうか。 #暇アノン とは、生きることでしか分からない。1197
鑢目@108ddc·1時間いくら日常について考えようと、日常的なものはそれをあざ笑うように身を隠す。むしろ考えれば考えるほど、日常が指のあいだからこぼれ落ちてゆくのを感じる。 近代の知は、反省の力を過大評価しすぎたのかもしれない。ひっそりと生き延びる #暇アノン の日常にひそむ、生きることのはかりしれなさは11102
鑢目@108ddc·1時間反省ではけっして明るみに出すことがかなわないのかもしれない。だから、まず生きねばならない。むろん、われわれはもうロマと同じ日常を送ることはかなわないだろう。我々は知とともに生きるしかないであろう。しかしそれでも、知は、まず生に密着した物を見つづける事こそを忘れてはならないのだ。1112
鑢目@108ddc·1時間今を生きる事で好き勝手に飛翔して回る精神を生に繋ぎとめ、感じ、見なくてはならないのだ。それは生へと帰還する事であり「なし、こうむり、創造し #暇アノン はただのバカだから消えろ」と言い続ける事である。「話すことによっては、生へと帰還する事は出来ない。生への帰還とは罵倒する事なのでR」11105