【壱】beginning

第1話 平凡な暮らし

 県立豊富西高校の二階から見えるのは港町だった。小高い丘の上にある、震災の時には避難所になるここからは、南西部に広がる三河の海がよく見える。


 愛知県の東三河地方にある豊富市とよとみしは、一言で言えば古き良き地方都市である。

 人口は十万と二千、面積は豊川市の半分以下だが、市内には温泉街や神社、城塞跡などの史跡もある。自然公園が豊かなエリアには週末になると親子連れやカップルで賑わう動物園と併設された遊園地などのレジャー施設もあり、地方とは思えぬ充実した街並みが特徴だった。


 海と山の幸に囲まれた豊富市の、ごく普通の高校に通う少年——伊織頼人は、土曜日の授業をほどほどの熱量でこなしていた。

 ハイペースで一日過ごせるのであればそれでも構わないが、頼人の場合それでは身が持たない。元気がないね、と言われない範囲の低空飛行で一日をそれとなく静かに、そして落ち着いて過ごすのが一番いいことを、経験則で知っていた。


 高校に入学して一ヶ月と少し。ゴールデンウイークも終わり、生徒が学校に慣れ始めた頃である。

 頼人はスタートダッシュで躓くのが嫌だったのと、悪目立ちしたくないという理由で所謂高校デビューをしなかった組だが、そのおとなしさが仇となりあろうことか地味で陰湿ないじめのターゲットにされていた。


 さっきから背中に丸めたプリントや消しゴムを当てられているが、相手にしてしまえば思うツボだと己に言い聞かせる。

 ああいうのは構って欲しいから手っ取り早い手段で注目を集めたいのだ。自分たちが本来的には誰からも取るに足らぬ存在だと、深層心理では理解しているからこその行動だろう。

 馬鹿げた子供じみた行いに突っかかっていては、こちらまで子供扱いされる。無視するのが賢明だ——ストレスを押し殺すようにそう言い聞かせる。

 そのように考えドツボにハマる時点で相手の手のひらの上で踊らされている気もしなくはないが——そこまで思い至り、頼人は考えるのをやめた。


 タッチペンでブラックボードに筆記していく教師の背中を見て、頼人もエレパッドに情報を書き込んでいく。

 ジャパン・エレクトリック・パレット社が開発したエレパットという多機能タブレット端末が教育の場に用いられるようになって早くも二十年。

 同じようなモデルのタブレットが同業他社から出るようになっても、未だタブレット業界トップの業績をもつ会社だけあり、エレパッドの機能性と互換性には目を瞠るものがあった。


「江戸時代中期から人間と妖怪の共存が始まり、戦後の基本的人権の制定に伴い妖怪にも人権が与えられました。以降も妖怪は人間と共にこの世界で共存の道を選択し、大きな争いもなく平和に過ごすことができているのです」


 歴史の授業ではそのような、妖怪に関する近代史が繰り広げられていた。

 人間と妖怪の共存は江戸時代中期から始まり、明確になったのは明治時代頃。そして、基本的人権の公布の際には妖怪にも人権が与えられ、名実共にこの国の民として認められた。


 西暦二〇五二年現在でも、国によっては妖怪が害獣と見做される地域もあり、そういった場所では大々的に妖怪狩りが行われているという。

 日本では信じられないことだった。

 この国にはとかく妖怪が多く、そもそもの生物種として遥かに人間を優越する存在に対し、人間は争うのではなく共に生きることを選択した。

 妖怪の数が少なければ、もしかしたら駆逐せんと画策したのかも知れない。だが力でも数でも勝る相手に喧嘩を売るほど、昔の日本人は馬鹿ではなかった。


 というわけで妖怪と人間の暮らしが始まったわけだが、結果的にはうまくいっている方だと頼人は思う。

 妖怪が大々的に人間を食うこともなければ、人間が妖怪を狩りまくる危険思想に染まっているわけでもない。

 人間の悪人がいるように妖怪にも悪妖がいるのだが、そのための対抗機関も存在し、かろうじて平和は保たれていた。


 かさ、と音を立ててプリントが落ちた。平成時代には紙媒体は近いうち消え去ると危惧されていたが、電子端末全盛のこの時代にも未だ紙は現役だ。

 遺伝子改良された樹木による安定した植物紙の供給、リサイクル技術の精度向上などが紙媒体を支え、電子的なクラッキングに強い物理媒体というのもあり、問題データが盗まれることのない安全性から学校ではテスト用のプリントなどにも使われていた。


「こらそこ、プリントを投げて遊ぶな」


 情報が投影されているブラックボードをバックに振り返った男性教師の鋭い叱責に、頼人の後ろの席の生徒は「すみませーん」とやる気のない返事を返した。

 下品な笑みを浮かべる三人組——犬妖怪を筆頭とした人間二人組に、化け猫の男性教師は「全く」と吐き捨て、チャイムがなる二分前に授業を切り上げた。


「来週小テストを実施します。各自復習しておくように」


 突然のテスト勧告に周囲は反発気味の声をあげたが、教師はお構いなしだ。

 学級委員長の挨拶と共に彼は教室を出ていき、残された生徒たちは今のが昼最後の授業であることを思い出し、掃除の準備に取り掛かった。


 半ドン授業である今日は午前中の授業だけで帰れる。四限が終わったならさっさと掃除を済ませ、帰るのみだ。最も頼人にはバイトがあるのだが。

 いじめっ子どもとは掃除場所が違うので頼人は余計なちょっかいをかけられずに掃除を終え、帰りのホームルームを迎えた。


 担任の女性妖怪——化け狸からは危険な魍魎や凶獣化した幻獣たちに気をつけるようにという注意を受け、頼人は「そんなこと知ってるよ」と内心突っ込みながら一日を終えた。


 いじめっ子たちは早くも頼人から興味をなくし、今日をどう過ごすかで話し合っている。日がな一日学校の目を盗んで酒でも飲むしかない彼らの一日など、取るに足らないものだろうと頼人は若干見下していた。

 お互いにこういった非はある——頼人も頭では理解しているのだ。

 頭で思うだけとはいえ、それでもひどいことを考えたことに違いはない。仏教歴的に言えばアウトな行いである。いわゆる三毒というやつだ。……別に頼人は仏教徒ではないのだが。


 いずれにしても学校に通うのは学生だから、勉強するのは学生だから、いじめに付き合うのは学生だから——辛いと思うことに対して淡々と、「今はそうしなくてはいけない時期だから」と言い聞かせてこなせば、三年間などあっという間だ。

 頼人はそのように考えていた。

 これらは全部学生ゆえの苦しみであり、ここで屈して変な遊びにハマればろくなことにならないことは周りにいる、いわゆるしょうもない大人が示している。


 なにはともあれバイトだ。

 頼人はこのバイトというのが楽しみだった。というのも——、


「起立、礼、さようなら」


 委員長が淡々と挨拶をして、クラスメイトが三々五々散っていく。頼人もリュックを背負って教室を出た。

 校門前まで来て、ふとそこに見慣れた人影がいることに気づいた。


「や、頼人君」

「稲葉姉さん」


 そこにいたのは稲葉莉央いなばりお。近所に住む幼馴染の妖狐の女性だった。

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