羽生結弦「聖なる舞い」はいよいよ高次に至る…「あの夏へ」の沈黙でそれぞれの魂の深層まで入り込んできたヌミノーゼ

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

目次

誰もが手に入れたくとも羽生結弦にしか与えられなかった絶対的な「美」

 スターズ・オン・アイス2023(以下、SOI)を通して、羽生結弦は『オペラ座の怪人』『阿修羅ちゃん』とともに『あの夏へ』を舞った。

 あえて「舞った」と書く。あれはまさしく「ハクの舞い」だから。

 そのハクとなった羽生結弦は、ときに「ニギハヤミコハクヌシ」としての力強さをも魅せた。伝説の東京ドーム『GIFT』から引き継がれたその舞いはブラッシュアップされ、SOIの各会場を魅了した。稀代(きだい)の表現力と努力とに裏打ちされた確かなスケーティング、そして悲しいかな、ときに嫉妬さえも受けてしまう、誰もが手に入れたくとも羽生結弦にしか与えられなかった、絶対的な「美」がそこにはあった。

羽生結弦のスケーティングが起こす「ヌーメン的現象」

 さらに特筆すべきは「沈黙」であった。スケートショーは当然ながら、称賛の歓声を上げようと観客も待ち構えている。しかし『あの夏へ』は、終わりとともに一瞬の静寂があった。いや、登場した瞬間からの一瞬の歓声も、また静寂に変わった。会場には羽生結弦のファンばかりではない。すべての鑑賞者が、羽生結弦=ハクの姿に、その舞いに餐(の)まれた。

 私はかつて、こうした羽生結弦のスケーティングが起こす現象を、思想家ルドルフ・オットーの『聖なるもの』から「ヌーメン的現象」と説いた。人間が聖なるもの(大いなる神、あるいは大いなる自然など)を目の当たりにしたとき、原初的な「畏怖」ではなく、それぞれの魂の深層まで、その「聖なるもの」=「ヌミノーゼ」が入り込んでくる、超越した「畏怖」の感情こそ「ヌミノーゼ」であり、それそのままに羽生結弦のハクは「聖なるもの」ということになる。これは羽生結弦という存在とは異なる客体であり、「まったく他なるもの」(絶対他者、あるいは神秘の要素)である。

羽生結弦のエッジにこそ「聖なるもの」がある

 それにしても『あの夏へ』の羽生結弦、美しさにばかり気を取られるのも致し方のない話だが、この流麗な舞いのすべてが「フィギュアスケートである必然」であり「基礎」の塊である。先の言葉になぞらえるなら「絶対基礎」とでも言うべきか。この美しさを支える体幹と、四肢の表現のすべてはスケーティングの基礎、やはり「エッジ」の極みに支えられている。大事なことは何度でも繰り返すべきだ。エッジについて語ることは何度繰り返してもいい。羽生結弦のエッジには「聖なるもの」がある。聖なるエッジに支えられ、羽生結弦の超越的な美と畏怖、そして魅惑は成立している。

 いつもより観念的か――しかし、羽生結弦の『あの夏へ』そのものが観念の世界にあるゆえに、必然と考える。私がこれまで『あの夏へ』について論じることを置いたのは、このプログラムが、羽生結弦のプロ転向後にもっとも「観念的」かつ「問題作」だと思ったからだ。誤ってはいけないのは、ここで言う観念あるいは観念的とは、俗語の「固定観念」などの観念ではなく、哲学としての「観念」(イデア)である。数値化された世界、数字で評価される世界から解き放たれた羽生結弦という美の深淵を、単なる知覚の印象だけで推し量ることはできない。ハクであり、カムパネルラである羽生結弦という「聖なるもの」の心そのままに舞う。「誰かのために生きている私 私のために生きてくれた誰か」が羽生結弦という存在そのものとシンクロしている。私はこれを「聖なる舞い」と呼びたい。

若きイリア・マリニンが羽生結弦に焦がれたのは当然

 言うまでもなく羽生結弦は、2014年ソチ、2018年平昌と2大会連続の金メダルを成し遂げ、男子シングル唯一のスーパースラム(五輪、世界選手権、グランプリファイナル、四大陸、世界ジュニア、ジュニアグランプリファイナル)の達成者だ。すでに競技者として、アスリートとして唯一無二の存在である。しかし羽生結弦の理想は羽生結弦という存在であるがゆえに、その延長線上のままでいることを拒絶する。それが『阿修羅ちゃん』であり『あの夏へ』であった。果てしない氷上の可能性と、羽生結弦という存在の可能性、あの北京五輪の4回転半ジャンプ=クワッドアクセルもまた、そうした絶対的な次元での「芸術の完成」、その先にある「羽生結弦という存在の完成」を試みた「勇者の挑戦」であった。だからこそ、彼の滑りは人の心を打つ。若きイリア・マリニンが羽生結弦に焦がれたのは当然だ。その存在は、フィギュアスケートの枠に収まらない「社会性」と「時代」を帯びる。そうした「歴史の人」と同じ時代にあり、それを目にすることができる僥倖(ぎょうこう)のさなかにまた、私たちも在る。『あの夏へ』にそれを再確認させられた。

「聖なる舞い」はいよいよ高次に至る

 また、すべての舞踏芸術に言えることだが――人は肉体を神に委ねるとき、その本性(ほんじょう)の発露をみる。先にも述べたが、身を削り、人々と共に滑り続ける彼の「真正面」もまた、カムパネルラや、ハクの有りよう同様に私たちの心を打つ。それがスケートに現れる。

 至極のエッジに心が宿る。

 エッジはフィギュアスケートの魂。バレエでもダンスでも体操でもない「フィギュアスケートである必然」はエッジにある。羽生結弦のエッジには心がある。比較をするわけでなく、あくまで一般論としての話だが、間延びした助走とトリッキーな離氷着氷の回転稼ぎをしても、本当の意味で人の心はつかめないと個人的には思う。羽生結弦は「軌道」の美しさまで追求して飛ぶ。目指すのはいつも「羽生結弦という存在」、プロになって、その「聖なる舞い」はいよいよ高次に至りつつある。


 私たちを幻想と美と、そして羽生結弦という真正面な「心」とに誘う聖なる舞い『あの夏へ』――人の世の芸術史に、またしても羽生結弦によってマスターピースの誕生をみた。

日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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