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「あのとき、遺伝子にスイッチが入った」
岡田武史を変えた“人生の転機”

SPORT LIGHT クロストーク

ゲスト

岡田 武史(おかだ たけし)さん

株式会社今治.夢スポーツ代表取締役会長

ナビゲーター

加地 亮(かじ あきら)さん

元プロサッカー選手

スポーツ業界で活躍する「人」を通じて、“スポーツ業界の今とこれから”を考える対談企画『SPORT LIGHTクロストーク』。サッカー元日本代表・加地亮さんがナビゲーターとなる今回のゲストは、サッカー元日本代表監督で、現在はFC今治の代表取締役会長兼オーナーを務める岡田武史さん。前後編2回の前編では、岡田さんの選手時代から日本代表監督就任に至るまでのヒストリーを中心に、加地さんがそのターニングポイントや裏側にある思いに迫ります。(文=高村美砂 撮影=中野賢太)

指導者のいないサッカー部

加地 お忙しい中、お時間をいただいてありがとうございます。岡田さんとは最近でこそイベントでごいっしょさせていただくこともありますが現役時代はほとんど話す機会がなかったので、今日は丸裸にしようと気合を入れてきました! よろしくお願いします。

解説やイベントなどの仕事も多い加地さんだが、意外にも「岡田さんとじっくり話すのは今回が初めて」だという[写真]中野賢太

岡田 何度かいっしょになったときに「加地ってこんなにしゃべるやつだったのか」と驚いたんだけど、現役時代からそんな性格だった? もっと寡黙な男だと思っていたよ。

加地 今も寡黙な男で通ってます。

岡田 どこが(笑)! でも加地以上にぼくのほうが、外に向かって発信しているイメージと本当の自分が大きく違うかもな。世間はぼくのことをしゃべらない頭の硬い人、みたいに見ているだろうけど、実はめちゃめちゃいい加減な人間だし。

加地 では、そんな“本当の”岡田さんの原点を探っていこうと思いますが、子どものころからサッカー一筋だったんですか?

岡田 いやいや、ぼくが子どものころは大阪でサッカーなんてほとんどやっていなかったし、子どもはみんな「巨人・大鵬・卵焼き」にしか興味がないといわれた時代だったから。ぼくも小学生の当時は、大阪が本拠地だった「南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)子供の会」に入って野球をしていたよ。南海ホークスの4番打者でファーストを守っていたケント・ハドリ選手にあこがれて、ピッチャー兼ファーストだったけど、球は速いのにコントロールがめちゃめちゃ悪かったからピッチャーは向いてなかった。

加地 それは致命的! いつサッカーに出会ったんですか?

岡田 中学でも野球をやるつもりが、進学した住吉中学は当時、大阪でも結構荒れている学校で、野球部もかなりヤンチャだったので野球はやめて、姉の勧めで卓球部の練習を見学に行ったんだ。でも、なんか自分の性に合いそうにない。で、何げに体育館の窓から外を見たらちょうど運動場でサッカー部が練習をしていてさ。大して真剣でもなく、ぶつかって倒れたらそこからプロレスごっこが始まるような感じだったんだけど「めちゃ面白そうやん!」と。それで入部してみたら実際に、面白かったんだよ。
サッカーって足でやるスポーツだから最初こそなかなかうまくいかないんだけど、今日は2回しかできなかったリフティングが翌日には3回できたというように、やればやるほどうまくなっていく。といっても、サッカー部には指導者がいなかったからすべて我流だったけどね。本屋で立ち読みして、リフティングのやり方を学び、練習でやってみる、という繰り返し。朝、昼、晩と練習して、晩飯の後も家の前の裸電球の下で電信柱に向かってボールを蹴り続けていたよ。

大阪で生まれ育ち、南海ホークスファンの野球少年だったという岡田さん。中学進学を機にサッカーに夢中になっていった[写真]中野賢太

加地 もともと一つのことにのめり込むタイプだったんですか?

岡田 だと思う。それもあって、高校進学にあたっても世の中のことなんて全然分かっていないのに「ドイツに行ってプロサッカー選手になりたいから高校は受験しない」って言い出してさ。困り果てたおやじが、いろんなツテを使って話を聞いた結果、当時からサッカー界では名の知れた存在だったサンケイスポーツ大阪の運動部長の賀川浩さんを紹介されて、会いに行ったんだよ。結果的にはそこで「高校を卒業してからにしなさい」と説得されて天王寺高校に進学したんだけど、後から賀川さんに聞いた話だと「この時代に、そんな勇気のある子がいるならなんとしても行かせてやりたいと思っていたけど、会ってみたら眼鏡をかけたひょろっとした子で、これはアカンと思って止めた」らしい(笑)。

加地 天王寺高校は進学校ですが、サッカー部も強かったんですか?

岡田 ぜんぜん。ここでも常駐の指導者がいなかったから強豪校の初芝高校の練習をこっそり見に行って「こんなシステムでやっていたぞ」って仲間に伝えて、まねをしたりしてた。おかげで自分で考える習慣がついたのかもしれない。

加地 資料によれば、岡田さんは高校3年時にユース代表に抜擢され、アジアユース選手権に出場されています。その常時指導者のいない環境からどうやってユース代表に選ばれるんですか?!

岡田 天王寺高校が浦和高校と監督同士が知人だった関係で、高校2年生のときにうちの学校で定期戦をすることになったんだ。そしたら、当時の浦和高はすごく強かったから、初芝高が「天王寺高の後に浦和高と試合をさせてくれ」と言ってきて。それに伴っていろんな関係者が見に来た中で、ぼくが浦和高戦で2点、決めたんだよ。それが目に留まって2年生のときに初めて大阪選抜に選ばれ、3年生になったらまた呼んでもらってキャプテンとして国体にも出場した。
それもあって上田亮三郎先生(現大阪商業大学サッカー部総監督)が推薦してくれてユース代表候補に選ばれたんだけど、そこには西野朗さんや楚輪博ら、雑誌で見るような有名な人ばかりが集まってきていて……全国大会に出たことがないのはぼくだけだったのに、なぜだか選考の2日前くらいになると決まって調子が良くなって点を決めるんだよ。結果、高校生から3人、ユース代表に選出されたうちの1人になった。

「50円のカップコーヒーも買えなかった」

加地 早稲田大学への進学はサッカーで選んだんですか?

岡田 違う。当時、はやっていた五木寛之さんの『青春の門』って小説で、主人公・伊吹信介という青年が田舎から出てきて早稲田大学に進学して苦労する話に影響を受けて行きたいな、と。でも当時の早稲田大には体育専攻はあったけど推薦がなくてさ。なぜか「体育専攻=サッカーだけをする」と勘違いしていたぼくは、体育専攻では入りたくないと法学部、商学部、政経学部を受けたんだ。結果、全滅だったんだけど、のちにぼくの恩師になる早稲田大学政治経済学部の教授で、サッカー部の部長もされていた堀江忠男先生から手紙が届いたんだよ。そこには、「君の点数は、政治経済学部の合格最低点の半分にも満たなかった。浪人して1年間勉強しても受からないだろうから来年は体育専攻で受けなさい」と書かれていて。その言葉で負けず嫌いに火がつき、1浪して翌年も同じ3つの学部を受けたら、政経学部だけ合格した。

加地 じゃあ早稲田大のサッカー部には入らなかったんですか?

岡田 浪人中に10キロ以上太ったからもうサッカーは無理だと思って、最初は稲穂キッカーズという同好会でプレーしながら学生生活をエンジョイしていたら、サッカー部の試合を応援に行ったときに日本サッカー協会の関係者にバッタリ会っちゃってさ。同好会でサッカーをしていると話したら、翌日協会に呼び出され、岡野俊一郎さん、長沼健さんらに「何のためにユース代表に選んだと思っているんだ? 明日からすぐに早稲田のサッカー部に行け! 今から電話を入れておく」と言われてね。翌日から素直にサッカー部に行ったんだけど、10キロ太っているからぜんぜん動けないし、走れない。そんな状態だからすぐに辞めようと思ったんだけど、逃げたと思われるのはしゃくだし、「必要とされる選手になって辞めてやる」と思ってめちゃめちゃ頑張ったんだ。で、試合に出始めたら、居心地良くなっちゃって辞めなかった。

大学入学時は「サッカーのことはまったく考えなかった」と話す岡田さん。日本サッカー協会から説得を受けサッカー部に入部したという[写真]中野賢太

加地 辞めへんのかい(笑)! でも、そこでようやくサッカーで生きていくことを決めたんですね?

岡田 いや、実は卒業後はマスコミ業界に進もうと思っていたんだよ。当時はマスコミが世の中を正す、正義を語る、みたいな時代で人気が高く、ぼくもその世界にあこがれた。で、結婚もしていたから給料が高いところがいいなと思ってTBSを受けたんだ。そしたら面接で「TBSは何の略か知っていますか?」と聞かれ、「BROADCASTING」が出てこなくて(笑)。面接官に「あなたのキャリアならサッカーをやられたほうがいいんじゃないですか?」と言われて面接が終わり、当然、落ちたと。それで、以前から声を掛けてくださっていた古河電工に入社を決めた。

加地 ようやくサッカーをしようと腹を決めたわけですね。

岡田 そうなるかな。でも、当時は本当にお金がなくてさ。サッカーをしていて残業ができないから生活もカツカツでね。三角のキッチンがついた六畳一間のアパートに住んでいたんだけど、カミさんがアルバイトをしても、とてもじゃないけど食っていけない。日本代表に選ばれようものなら、サラ金から金を借りていくしかない、という貧乏暮らしで、会社の50円のカップコーヒーも買えなかった。毎日、カミさんと二人でちゃぶ台でご飯を食べ、アパートに風呂がないから風呂屋に行って……まさにかぐや姫の名曲『神田川』の世界で生きていたよ(笑)。

加地 そういう状況でもサッカーへのモチベーションは維持できたんですか? 当時はプロとか、Jリーグも想像できない時代だったと思いますが、サッカーで成功すれば今の生活から抜け出せると思えていたのでしょうか。

岡田さんが古河電工に入社した1980年に生まれた加地さん。日本サッカープロ化以前のエピソードに興味津々[写真]中野賢太

岡田 正直、古河に入社したときからずっと、サッカーで生きていくつもりはなく、将来は絶対に社長になってやると思っていた。ただ、Jリーグ発足の動きが生まれ、古河電工サッカー部もJR東日本と合併してJR東日本古河サッカークラブになり、クラブから「指導者をしてほしい」と言われて、プロができそうな流れの中でやるしかないと。選手時代もミーティングは常にぼくが主導していて、戦術を含めてこのチームは自分が動かしているというぐらい自負もあったし、指導者としてうまくいくだろうと高をくくっていたから引退後すぐにコーチになった。でもまったくうまくいかなくて。チームも選手も伸びないし、自分自身も行き詰まってしまい、このままだとダメになると思って会社にお願いして、1年間ドイツに留学させてもらったんだ。それが指導者としての転機になった。

加地 いわゆる、ターニングポイントですね。

岡田 ぼくには指導者としてのターニングポイントが2つあるんだけど、その1つ目がドイツでの1年間だな。といっても、そこまでサッカーに関する情報に目新しさを感じることはなかったんだよ。ただ、指導者としての在り方、考え方が日本とはまったく違って、すごく刺激になったし、指導者は孤独だし選手に好かれるために存在するものではなく、ときに選手が嫌がることもやらせなければチームは強くならないと学んだことは、のちに指揮を執る上でもすごく大きかった。ぼくを拾ってくれた監督がさほど悪くもない成績でシーズン途中に解任になった際に言っていた「これがフットボールだ。ものすごく働くか、何もなくなるか。それがプロの監督だよ」という言葉は今も頭にある。

人生の転機・日本代表監督就任

加地 ドイツでの1年を経て、Jリーグ開幕後の1993年に、古河電工が母体となったジェフ市原に戻ってコーチに就任されました。そこからどんな経緯で日本代表監督になられたんですか。

岡田 ジェフではサテライトの監督を任されたんだけど、いろんなことがめちゃめちゃうまく行き始めて、楽しくてしょうがなかったんだ。チームもどんどん強くなるし、選手もうまくなるし、トップチームにも選手がどんどん引き上げられていったしさ。トップチームのコーチを兼任するようになってからも毎日が充実していて本当に楽しかった。でもその最中に、日本代表監督の加茂周さんから声がかかり……正直、そんな状態だから行きたくなかったけど、クラブにも背中を押されて日本代表コーチになった。そうしたら、カザフスタン戦(1997年10月、フランスワールドカップアジア最終予選)で加茂さんが更迭されてしまって。監督経験のないぼくが日本代表監督になるという……それが2つ目のターニングポイントになった。

加地 監督デビューが日本代表……しかも、日本のワールドカップ初出場がかかっていた状況で、すぐに引き受ける気になったんですか?

現役時代はジーコジャパンの主力として活躍し、2006年ワールドカップドイツ大会に出場した加地さん。アジア予選の厳しい戦いを経験している[写真]中野賢太

岡田 すぐに返事はできなかったよ。日本サッカー協会の長沼健会長に呼ばれて、「加茂の解任を決めた。君に監督をしてほしい」と言われたときも、「ぼくは加茂さんに呼ばれてコーチになりました。加茂さんが解任ならぼくにも責任があります」と断った。そしたらその後、加茂さんに呼ばれて「後任を君に任せたい」と言われ、そこで初めて「加茂さんが言うならやるしかない」と1試合だけ引き受けることにした。

加地 監督就任はウズベキスタン戦の直前でしたよね。

岡田 しかも試合まで1週間しかない状況だった。そしたら、ウズベキスタン戦で0-1とリードを許す展開になった中で、最後の最後でパワープレーから得点を狙いにいったら、井原正巳が蹴ったボールを相手GKが目測を誤り、ポンポンとボールが転がってゴールになりドローに持ち込んだんだ。それを見たときに、「これは運がある。(ワールドカップに)いけるかもしれない」と本気で思ったし、ロッカーでいつも冷静な山口素弘までもが「もうダメだ」と泣いている姿を見て、「苦しいのは選手も同じだ。誰もが本気でワールドカップに行こうと戦っているのに自分だけ1試合で逃げるわけにはいかない」と腹が決まった。で、加茂さんに連絡して「最後までやらせてください」と伝えたら、やれと言ってもらい続投が決まった。

加地 それが日本初のワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」につながった、と。でも毎日、生きた心地はしなかったでしょう?

岡田 想像以上に大変だったよ。当時は自分が有名になるなんて思いもせず電話帳に住所や電話番号を載せていたから、家には脅迫状が届くし、脅迫電話も止まらない。家の前には24時間、パトカーが止まっていたよ。正直、ぼくの精神状態も普通ではなく、家でパニックになったこともあった。そんな状況だから、イラン戦の前日にカミさんに電話したときも「明日、勝てなかったら俺は日本に帰れない。海外に住むことになると思う」と伝えていたしね。
でも、その夜、分析ビデオを見ながらふと思ったんだ。「俺はここまでやった。明日、急に名将にはなれないんだから、自分が持っている力を100%出して戦って、勝てなければ日本国民に謝ろう」と。その一方で「ワールドカップに行けなくても俺のせいじゃない。俺を選んだ会長のせいや」と思っている自分もいて、その瞬間に怖いものがなくなった。
以前、生物学者の村上和雄先生が「氷河期や飢餓期を越えてきた人類は、本来先祖から続く強い遺伝子を持っているのに、便利で安全、快適な世の中に生きるようになって遺伝子にスイッチが入っていない人間が増えた」という話をされていたんだけど、ぼくはあのとき、確かに「遺伝子にスイッチが入った」感覚があった。そして、それは指導者としてのターニングポイントどころか、人生における転機になった。

ワールドカップ出場を懸けたプレッシャーから極限状態に追い込まれたと話す岡田さん。その重圧を乗り越えた経験が人生の転機になったという[写真]Getty Images/Etsuo Hara

加地 それだけ極限まで追い込まれたということでしょうね。

岡田 よく、倒産、投獄、闘病、戦争を知っている経営者は腹が据わった経営をするっていうけど、それって極限まで追い込まれる経験をしたからだと思うんだ。それと同じでぼくもいろんなものを背負って、背負って、極限まで追い込まれて、「命懸けでこの仕事をやって勝てなければ仕方ない」という境地に立って、本当の意味で腹をくくることができた。そのときから人にどう思われようと、マスコミにたたかれようと、どうでもよくなって、こんなに図太い人間になってしまったよ(笑)。

加地 フランス大会を前に本大会のメンバーを23名に絞らなければいけないという……あそこも大変でしたよね?

岡田 メンバーを決めるにあたって、あらゆるシミュレーションをしたんだよ。チームが勝っているときには誰を投入する? 負けているときはどう立て直す? ってね。結果、名前が出てくる回数が一番少なかったのがカズだった。当時の彼は明らかにパフォーマンスが良くなくて、ヴェルディ川崎でも交代させられることがあった。心の中でずっと「カズ、早く上がってこい」と願っていたけど、結局なかなか調子が戻らなくて。そうなると、どのシミュレーションにも彼の名前が出てこない。だから、決断した。そのことにうそはないから今も悪いことをしたとは思っていないし、それをカズも分かってくれているから、いまだに付き合いが続いているんだと思う。

加地 そうした1度目の経験が、2008年の2度目の代表監督就任に活かされた部分もありましたか?

岡田 正直、2回目は、仮に決勝まで進出できたとしても大会中、一度も起用しない選手が出てくるだろうと思っていたから、その「起用しない」選手を誰にするかは結構大きなポイントだと考えていて、そこに川口能活を選んでキャプテンに据えた。あれだけキャリアのある選手が残り組と一生懸命練習をしてくれたり、率先してボールを片付けてくれたら、若い選手は文句を言えなくなるから。そういうことを2回目の監督就任では考えられるようになっていたよ。

脳梗塞で倒れたイビチャ・オシム監督の後継として2008年から再び日本代表監督に就任。ワールドカップ南アフリカ大会に出場し、本大会では決勝トーナメント進出を果たした[写真]中野賢太

加地 とはいえ、ワールドカップ南アフリカ大会出場が決まったあと、チームは思うように結果を出せず、厳しい状況が続きました。前回とは違う緊張感があったんじゃないですか?

岡田 あのときは本当に毎日、寝ずにこのチームが世界で勝つにはどうすればいいのかをひたすら考えていたよ。世界中の誰よりも考えていたと胸を張れるくらい、毎日毎日、策を練っていた。だから、大会前の外野の声はほとんど気にならなかった。ぼくとしてはたたかれまくったことで、選手たちが自分で考えて主体性を持ってプレーし始めたことにも手応えを感じていたしね。日本がベスト16までいけたのも、それが大きかったんじゃないかと思う。

加地 主体性を持ってプレーし始めた、とは?

岡田 基本的に、日本人ってなかなか主体的にならないけど、究極の状況に追いやられたときに「このやろう」とすごいエネルギーを発して主体性を発揮する人種だと思うんだ。でも、残念ながらそれって長続きはしない。それに対して、テニスのロジャー・フェデラーら世界で勝ってきた選手のインタビューを読んでいると、決まって外国人は「勝つのが好きだから、勝ちたい」という。負けるのが嫌ではなく、勝つのが好きだ、と。主体性を持ってプレーするってそういうことで、だからフェデラーは勝ち続けてきた。その点において、あのときの日本の選手は、厳しい状況に立たされたことで、選手自身がどうすればうまくプレーできるのか、状況に応じて何を変化させなきゃいけないかを
考えられるようになっていたし、あらためてぼく自身も、日本が世界で勝つには、普段から主体性を持ってプレーできる選手を育てなければいけないと再認識したんだ。

【後編】経営者・岡田武史が考える「正解がない時代」の生き方