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最高裁、所沢ダイオキシン差し戻す 10.18.2003 |
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10月16日、最高裁は、テレビ朝日ニュースステーションの1999年2月1日の所沢ダイオキシン報道によって野菜価格が暴落したとして、所沢市内の農家29名が2600万円の損害賠償と謝罪放送を求めた訴訟の上告審判決を行なった。一審に引き続き、農家側敗訴とした二審判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した。判決は五人の裁判官一致の結論である。
本HPでも当然のことながら、この問題は取り上げている。二審のときには、「農家側が勝てる」と思ったのだが、残念ながら、そうならなかったのだ。なぜか、それは、以下の議論で。 C先生:今回の最高裁判決は、色々な状況を推測すると、極めて当然の判決だと思う。しかし、その色々な状況というものが、未だにはっきりしないので、完全にそう言い切れる訳ではない。 A君:それはそれとして、これまでこの判決について、3部作を本HPでは出しています。 http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/DioxKume2.htm B君:この所沢の判決について我々が考えいる問題点は、以下のようにまとめることができるだろう。 A君:それ以外に、今回最高裁が問題だとしたものとして、 C先生:この(4)番目の問題は、むしろメディア論などを専門とする学者に任せるべきかもしれないのだが、多少言いたいことも無い訳ではない。いずれにしても、最後に回そう。 A君:まず、判決文に書かれていることを追ってみましょうか。 1.放送の後半、環境総合研究所長は対談部分で、フリップにある「野菜」が「ホウレンソウをメーンとする所沢産の葉っぱもの」だと説明した。だが、その際、最高値は煎茶についての測定値であることを明らかにせず、また測定の対象となった具体的品目、個数及びその採取場所も明らかにしなかった。 3.前半の録画映像部分は、所沢市には畑の近くに廃棄物の焼却炉が多数存在し、その焼却灰が畑に降り注いでいること、所沢産の農作物、とりわけ野菜のダイオキシン類の深刻さやその危険性に関する情報を提供した。 4.放送された事実の重要な部分について、真実の証明があったか否かをみると、放送をみた一般視聴者はは測定値が明らかにされた「ホウレンソウをメーンとする所沢産の葉っぱもの」に煎茶が含まれると考えないのが通常であること、煎茶を除外した測定値は低いことからすると、摘示事実の重要な部分について、真実との証明があるといえないことは明らかだ。 5.また、放送が引用していない別の調査結果は、「所沢産」のラベルが付いた白菜から高濃度のダイオキシン類が検出されたというものだ。採取の具体的な場所も不明確な、しかもわずか1体の白菜の測定結果が摘示事実のダイオキシン類汚染濃度の最高値に比較的似ているという調査結果をもって、摘示事実の重要な部分について、真実であるとの証明があるとは言えない。 6.そうすると、この別の調査結果をもって真実の証明があるとして、名誉棄損の違法性が阻却されるとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反があり、上告人らの請求に関する部分は破棄を免れない。 B君:この判決文だけでは良く分からないことがある。それを補足しながら、解説をするか。 A君:通常の野菜は、80%ぐらい水でしょうか。お茶の葉だとそうでもないでしょうが、兎に角、乾燥させて減量化している訳ですから、ダイオキシンの濃度が高くなるのは当然。それを煎茶といってしまうと、ばれてしまうので、葉っぱものと表現した。 B君:読売新聞には、もっとリアルにその会話が再現されている。 久米:所沢の野菜の調査をしました。そのダイオキシンの数字を今夜はあえて発表しようと思います。(「野菜のダイオキシン濃度」という題した説明板を示しながら)これが、一番上が全国の(野菜の)厚生省調べ。グラム中のピコ・グラムのダイオキシンの量を示しているんですが、所沢1グラム当り0.64から3.80.この野菜というのは、これはホウレン草と思っていいんですか。 青山:ホウレン草がメーンですけど、葉っぱものですね。 久米:葉物野菜? 青山:大根の、あの、根っこの方はありません。みんな葉っぱものですね。 A君:そのフリップに書かれていた数字が不明なのですが、もしも分析対象がホウレンソウならば、恐らく、0.3~0.4pg/gという数字だったのではないかと思われます。所沢産のホウレンソウは、やはりダイオキシン濃度がやや高く、全国平均の2倍ぐらいの値だったような記憶ですので。 B君:そして、環境総合研究所が後日明らかにしたデータでは、ホウレンソウは0.75pg/gだった。 C先生:このような番組が放映された訳だが、実は、その後、青山氏は「この葉っぱもののデータが何か」を明らかにしたがらなかった。出所を明らかにすると、誰かに迷惑が掛かるといった表現だったような気がするが。 A君:本HPの記録を読み返すと、青山氏はその後、「検査対象の農作物とは、野菜の他に木や植物なども含む。テレビ朝日の報道は農作物を野菜と解釈したことによる間違いだ」、といった発言をしているようですね。 B君:これって、どういうこと? C先生:テレビの番組での発言は、実際かなり制限される。生番組だったのだから、しゃべってしまえば、「それっきり」になったのだが。 A君:テレビ放送での発言と、その後の発言を考えると、(i)は有りますね。もっとも確率としては高そう。(ii)も有りそうですが、ちょっと可能性が低いか。(ⅲ)は、やはり無理筋でしょうか。(iv)の確率も相当に高いように思います。大体スタッフは、3.80という数値について、ほとんど知識はないから、数値の説明をしていない可能性もありますね。 B君:青山氏が信念を持っていれば、(i)のケースであっても、きちんと対処することができたと思われる。だから、(i)のケースであっても、青山氏の道義的な責任は免れない。 C先生:確かにその通りだ。ただ、ニュースステーションのような番組に対抗して正義を通すには、相当なテレビ慣れが必要かもしれない。 A君:しかし、青山氏の無罪が確定しているということは、裁判所は、テレビ局という個人を圧倒するようなパワーと青山氏のテレビ局との関係の不慣れを勘案して、理屈を曲げて救済したのでしょうか。 C先生:有り得るような気がする。 B君:以上が判決文の1.~3.の部分 A君:そして、5.が今回の判決で重要な部分なのです。「所沢産」のラベルが付いた白菜から高濃度のダイオキシン類が検出された、ということが語られていますが、この分析をやったのが、宮田秀明先生。当時のダイオキシン・ヒーローです。宮田氏は、どうも分析だけしかしないようで、ダイオキシン騒ぎの当初、栗東の競走馬の訓練所だかの池の水の分析値を発表していますが、どうも、誰かが持ち込んだものの分析だった、要するにダイオキシン反対派に利用された、という噂が流れていました。 B君:その値が4pg/gという値で、当時から識者には、白菜のような水分の多い野菜では、この値が平均値だということは無いだろう、という人が多かった。 C先生:今回、最高裁がどのような情報を収集しなおしたか分からないのだか、ひょっとすると、誰か宮田さん以外の専門家の意見を聴いている可能性がある。二審の判決が出るとき、すでに、この所沢産白菜4pg/gの分析値の信憑性はどうも怪しいというのが定評だったから、当然高裁はそれを知っているものだと思って、農家勝訴の判決が出ると判断したのだ。しかし、残念ながら、高裁の情報収集能力には限界があったようだ。 A君:そして、問題の(3)に行きます。テレビ朝日は、一体何を報道したかったのか。 B君:まあ、これまでの解析では、やはり、誰かスタッフが、3.80pg/gの数値の中身を知りながら、青山氏の口封じをして、センセーショナルな番組作りをした。青山氏は、それが自分の主張にも近いと同意した。しかし、久米さんにはそれは知らされていなかった。というのがもっとも有りそうなシナリオではないか。 A君:もしもこれが真実なら、テレビ朝日は相当犯罪的。やはり地裁・高裁の判決はおかしい、ということになりますね。 B君:今回そのテレビ朝日のコメントは、以下のようなものだった。 中井靖治報道情報局長談、「主張が認められず残念。判決は国民の知る権利や報道の自由を制約する可能性を含んでいると考える。本件放送後、新報が制定されるなど、放送は一定の成果があったと考える。差し戻し審で当社の考えを主張していく」。 A君:なんとなく古めかしいメディアの主張、としか言いようが無いですね。報道の自由は、情報が正しい限り今回も自由は保障されている訳だし、故意に歪曲した情報を流すのであれば、もともとそれは犯罪なのだから、自由とは無関係。 B君:国民の知る権利は、今回のような制約があったところで、十分に保障できる時代になった。それは、インターネットの存在だ。もともと、メディアはすべての真実を報道している訳ではなく、メディアの価値観というフィルターを通して報道をしている訳だから、国民の知る権利は、実際上、かなり歪曲されていたとも言える。しかし、インターネットの存在が、この状況に決定的とも言える変化を与えた。インターネットには、ありとあらゆる情報がある。したがって、正しいとは限らないが、自分で選択する能力さえ有れば、メディアのフィルターを通った情報に頼らずに、真実に到達できる。 C先生:メディアが欺瞞的なのは、やはり、自らは真実を報道している、という立場を崩せないことだろう。ところが、テレビで真実を報道しようとしたら、いくら時間があっても足らない。テレビの番組作成に関与すると、いかに時間というものが番組全体の構成を支配する最大の要素であって、真実の報道ということは二の次、三の次になってしまうということが良く分かる。 A君:もう一つ、メディアは正義の味方であるというスタンスも崩せない欺瞞の一つでしょう。最近は、何が正しく、何が正しくないのか、その判断に困るようなケースが非常に多いのですがね。 B君:実際その通り。例えば、遺伝子組み換え食品というものを取り上げても、これが正しくない、という主張もできれば、正しいという主張も可能。 A君:古くからある問題では、原子力でしょうか。 B君:このような問題は、正義の問題ではなく、有る意味で哲学の問題とも、思考する範囲の問題だとも言える部分がある。 A君:今だけを考えるか、100年後まで考えるか。もっと長く500年を考えるかで、正しいかどうかが影響を受けますね。 C先生:メディアが正義の味方であった時代とは、世の中の構造がもっと単純な場合であって、例えば、企業とか行政の明らかな不正がなかなか外部に漏れなかったものが、メディアの追求で暴かれるといったケースなどだろう。しかし、最近では、内部告発の方が、メディアの追及よりも有効になってきているとも言える。先ほど出た、インターネットの普及や、内部告発をする人間が増加したといった倫理観の進化によって、メディアだけが正義の味方では無くなってきた。 A君:テレビ朝日の報道情報局長の談話は、そんな時代の変化を意図的に無視しているのでしょうか。 B君:なにか報道関係者共通の感覚のような気がする。インターネットごときに、テレビ、新聞が影響を受ける訳は無いと確信したい、のではないか。実際には、その怖さを十分に感じているのだが。 A君:朝日新聞の社説では、テレビ朝日の問題点を指摘しつつも、最後には、「報道の意義を評価する見方は、今回の最高裁判決では全般的に乏しいのではないか。最高裁の判断が一、二審と全く異なったのは、報道の社会的な役割をどこまで重視するかの違いもあったろう。それが気がかりだ」、と締めくくっています。 C先生:その社説を書いた筆者は、恐らく所沢産白菜の分析値に意味について、良く知らないのだろう。かなりピントがずれた論旨だと思う。まあ、未だに報道だけが意義を持つといった固定観念が透けて見えることは事実。これはネット情報だが、どうやら東京新聞は、もっと過激なテレ朝擁護の論調だったようだ。 A君:それに対して、読売の社説は、どうも所沢産白菜のデータがもともと怪しいという情報を掴んでいるのか、かなり的確です。 C先生:こんなところで次に行こう。大学のメディア学の学者もいくつか見解を出しているが。 A君:朝日が採用しているのは、二名のコメント。まず、岡村黎明・大東文化大学教授(ジャーナリズム論):「生中継やキャスターなどのアドリブが命のテレビジャーナリズムの現場に悪い影響を与えることを心配する」。途中省略。「この判決が前例にならないことを願う」。 B君:待った待った。これは酷いコメントだ。恐らく、今回の状況を全く理解していない状況でコメントをしたとしか思えない。それに、もしもキャスターのアドリブが命のテレビジャーナリズムだとしたら、それはテレビ報道というものが、真実の報道とは全く違う特性を持っているということで、テレビのジャーナリズムはエンターテインメントでしかないということになりはしないか。 C先生:その意味で、正しい見識とも言えそうだ。テレビのジャーナリズムは、やはりある種のバラエティー番組に近いから。 A君:朝日のもう1人のコメントが、服部考章・立教大学教授(メディア法):「ダイオキシン報道の公共性や公益性を重視せず、煎茶とホウレンソウを混同したという限定的な問題だけに着目した視野の狭い判決だ」。 B君:またまた待った。恐らく、この教授も事実関係を理解していない。 A君:服部教授の続きです。「視聴者が受けた印象という曖昧漠然としたものを基準に報道における事実やその真実性を判断すること事態に無理がある。テレビメディアの特性をもっと理解すべきだ」。 C先生:テレビの特性を考慮すると、テレビでは真実の報道は難しいという解釈のように思えるが、そうなのだろうか。それなら同意する。 B君:テレビからの情報は、淡々とした事実を述べるニュースのみに価値を見出すべきで、誰かがコメントを述べたら、もうある価値観が入ったと解釈すべきだ、ということなら、これまた同意できる。 A君:一方、読売は田島泰彦・上智大学教授(メディア法、憲法)のコメントです。「厳格さを求めすぎると、映像と音声によってナマで伝えるテレビの特性が損なわれるのではないか」。 B君:ナマはナマなのだから、事実であり真実の情報だ。厳格さも何も問題が無い。ただ、画像を編集をすれば、そこには意図が入る。だから、ナマに徹することで、テレビは生き残れる。余り問題は無いのではないか。 C先生:CNN流か。CNNにも「やらせ」など色々と批判が無い訳ではないが。 A君:やはり、ニュースステーションのように、中途半端な意図をもった番組作りであるにも関わらず、それを事実を伝えるニュース番組だと思わせるということにもはや限界があるのでは。 C先生:久米さんが降りるというもの、そんなところに限界を感じているのかもしれない。番組が役割を終えたと思っているのだろう。 |
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