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光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

廃墟の戦い

 がらがらに空いているバスの中、窓際の席に座って雨が降り出しそうな雲を見上げながら、飛鷲涼は昔のことを考えていた。その手には、一通の手紙が握られている。

 9年前、涼の中にある記憶は、やけに静まり返った、電気のついていない家の中、立ち込めた異臭、その先にあったのはキッチンの中にあった焼死体。
 ほんの数分のことだったはずなのに、今でも鮮明に思い出せる。

 父が母を殺して、証拠隠滅のために燃やした。
 それは警察が教えてくれた情報であり、彼女自身で見たものではなのだ。

 だから、涼はこの事件に関してずっと考えていた。彼女のさらに昔の記憶にある父や母は優しく、多少の喧嘩こそあったものの、あくまで話し合いで少し熱くなってしまう程度のものであり、どちらかが暴力を振るうなんてことは一度たりともなかったはず。

 警察にそのことを言ったが、聞き入ってもらえなかった。彼らは今までずっと溜まっていたものがある日突然爆発するなどということはよくあることなのだと涼に言い聞かせてきた。

 涼は納得していなかった。だから、彼女は失踪した父を探すことにしたのだ。
 だが、今まで父の居場所どころか、目撃情報もなかった。もちろん、詳しいことは話さなかったものの、熊谷さんにも頼んで捜索してもらっていたが、手掛かりすらつかめていない。

 そんな中、涼の手に届いたこの手紙は『9年前』、つまりは事件についての秘密があることを示唆していた。
 当然、罠である確率のほうが高い、手紙には一人で来いとは書かれていなかったものの、しかし、涼は誰かを巻き込みたくはなかった。
 涼が危険を承知で行くのは個人的な要件であり、オルクスとの戦いとは関係ない。これがもし罠で涼が誰かと一緒に行っていたら、疑いもせずに行った涼だけではなく、その人にもリスクを負わせてしまうからだ。

 この差出人不明の手紙はいったい誰が送り付けてきたものだろうか、涼が持っている中の情報では、一人しか該当する者がいないが、彼がいまさらになって涼に会いたがる理由が想像できない。

 バスが止まって、涼は誰もいない停留所に降りる。そこは開発途中で破棄された建物が立ち並ぶ街はずれの入り口で、そのためか、涼がバスから降りるときに運転手が変な顔をしていた。
 それもそのはず、ここは様々なうわさがあるところで、夜になると幽霊が徘徊しているだとか、盗賊の住処になっているだとか、『リベレイターズ』の隠れ家があるだとか、よくないものばかり。

 ただでさえ薄気味悪い場所であるのに、今は深夜に差し掛かっている時間。不気味さは昼間の比じゃない。
 確かここの開発が止まったのは3年か4年前だったか、などと思いながら涼が歩いていく。何を作っていたのかは覚えていないが。

 指定された時間はもっと遅かったが、バスの時間の関係から目的の場所へ着く。かなり早くついてしまった。
 さて、少し時間でもつぶそうかと、スマートフォンを取り出して、聖から短時間に何通も来ているメールを見て、彼女が涼を探していることを知る。

 どうして、聖は呼び出されたことを知っているのだろうと、返信も書かずに、涼が考え始めたとき、どこかで何かが崩れる音が鳴った。
 微かに振動している地面と、聞こえてくる音から察するに、誰かが工事でもしているのだろうか。この夜更けに?

 もしかしたら、自分をここに呼び出した奴かもしれないと思い、涼は音の鳴っている方へと向かう。
 進んでいくにつれて、嫌な予感が膨らんでくる。伝わってくるこの独特の感じは、『戦闘』以外の何物でもなかった。

 誰かが、戦っている?

 右手に指輪があることを確認してから、見つからないようにと慎重に陰に隠れながら涼は音のする方を見る。

 そこには二人の男がいた。

 一人は、星団会のときに一度見た、薔薇を加えた一人の男の姿であった。長い赤髪に、口を閉じたままだと美形に映る顔。まあ、そこまでは問題ないのだが、その先が、問題だらけ、ツッコミどころ満載で、口には真っ赤な薔薇を加えていて、上半身は裸、下半身は網タイツ。
 さらに、両手がなんの植物かはわからないが、かなり太い蔓で縛られており、恍惚の表情を浮かべていた。
 それは間違いなく変態以外の何物でもなく、嫌なものを見てしまったと涼は眉をしかめる。

 もう一人は、見たことのない男でとにかく巨大だ。3メートルほどはあるのではないかと思う。体系は相撲取り。とにかく横にも縦にも大きい。角が生えているように見える帽子をかぶり、腕には龍の刺青をしていて、その手には一人ひとりほどの大きさの巨大な斧を持っている。

 二人が何かを話しているが、うまく聞き取れない……が、どうやら、変態男の方が巨人を煽っているようで、巨人は段々顔を赤くしていき、ついに男へと迫っていった。

 体系的な差では圧倒的のように思われたが、変態は髪をかき上げると、グニャリと身を捻らせて、斧を避ける。
 空振った斧はそのまま近くの建物に突き刺さったが、巨人が振りきると、斧は刃先にあるものを全て切り、いや、砕いてしまった。ビルにはとても生き物がつけたとは思えないような傷跡が残る。物凄いパワーだった。

 しかし、巨人が優勢に映ったのは、そこまで。

 パチンッ、と下半身網タイツの変態が指を鳴らすと、状況は一変する。
 地面からは数え切れないほどの蔓が出現し、あっという間に巨人を囲ってしまう。

 巨人はビルを破壊した斧で蔓を切ろうとするが――切れない。

 一枚ならばすぐに破けてしまう紙であっても、何重にも重なった紙ならば、引き裂くことは難しいように、巨大な蔓の中には細い蔓が複雑に絡んでいて、巨大な斧ですら、切れない代物になっていた。
 巨人を囲っていた蔓は、やがて巨人の手足へと絡んでいき、その動きを封じていく。

 これが、あの変態男の『結界』ということなのだろう。

 そして、男がもう一度指輪のついた指でパチンと鳴らした瞬間――蔓が一気にあらゆる方向から巨人を引っ張った。
 違う、そんな生易しいものではない、『引き裂いた』と表現する方が正しいだろう。

 巨人の悲痛な叫び声が聞こえた瞬間涼は、恐ろしくなって、目をそらす。
 かなり離れているはずの涼の耳まで聞こえてきたのは、肉を割く音。

 涼が再び見たときには、首、手、足、すべて違う方向から力をかけられた巨人の体ははじけ飛び、四肢がバラバラになって、臓器が飛び散っていた。
 それだけで、すでに吐きそうなのだが、編み紐がほどかれるように一気に分散した蔓が男の残骸に群がっている。

「…………っ!」

 その理由がわかってしまった瞬間、思わずその場で涼は嘔吐する。
 人が、それも普通の人間の数倍はあっただろう、男の死体が植物によってみるみるうちに片付けられていく。

 奴らは、食らっているのだ。

 人の残骸を、まるでハイエナのように貪り食って、血の一滴まですすっている。ひどくおぞましい光景だった。
 何よりも恐ろしかったのは、男が、この光景を見て、表情一つ変えていないこと。

「いるんだろう、出てきなよ」

 男が同様の一切がない声で、そういった瞬間、全身が凍る。正直言って、生きている心地がしない。

 どうして、見つかった?

 頭の中ではずっと危険信号が鳴り響いていて、声をあげそうになるが、グッとこらえる。男はこちらを見ているわけではない、涼がこの場にいることを知っているだけだ。
 正確な場所がわかっているはずが――と、考えたところで、足元を見て、ぞっとする。

 そこには、まるで蛇のようにうごめく蔓。
 涼が耐え切れずに吐き出したものを、すすっていた。

「――『フェンリル』!」

 ひっ、と声を上げた涼には考える余裕はなかった。条件反射的に『結界グラス』を解放して、その巨大な右こぶしを蔓めがけて振り下ろす。

 カチッ、ズドンッ、という爆音とともに、蔓は爆発し、粉々になる。
 そして、すぐに涼は一瞬であっても冷静さを失ったことを後悔した。
 もう一度、涼が男に目を向けると、目が合う。彼はこちらを見ながら、薄ら笑いを浮かべていた。

「見つけたよ――『アルタイル』」
「……私をここに呼び出したのはあんたかしら?」
「『あんた』じゃない、第12バーンの『ルード』、『サジタリウス』だ、いや、『射手いての王子様』と呼んでくれてもいいよ」
「誰が呼ぶか、この変態!」

 そんな会話をしながら、サジタリウスと名乗った男の視界に入った涼は左目の『千里眼』を使って、男の一挙手一投足に気を付けながら、間合いを取る。
 このサジタリウスの『結界』はおそらく、彼の周りにまとう植物を操作することができるというものだろう。せめて範囲が分かれば対策の取りようもあるが、『結界』の範囲は力を解放した瞬間を見ていなければわからない。

「変態……ね。僕はそれを訂正しようとは思わないよ、君たちのような常人に美の化身である僕の美しさなんて理解できるはずもないんだ。ああ!なんと!可哀想なんだ! 普通の美的感覚しか持ち合わせていない君たちは!」
「……なんだかしらないけど、常人に認められてこその『美』なんじゃないかしら――」
「凡人が偉そうなことを言っちゃだめだよ」

 価値観なんて人それぞれなんだし、それなら世の中の大半を占めている常人の感覚が基準になるんじゃない、と、この変態に対して文句をつけようとしたところ、サジタリウスは涼の言葉を遮るように言ってウインクしてくる。やばい、背筋が寒くなった。
 しなやかな上半身を見せつけてくるサジタリウスに、呆れた様子で涼がいると、不機嫌そうに眉をひそめたサジタリウスは、

「君の論調通り、一般人が美の基準というならば、話は簡単じゃないか――全部消せばいい、そうすれば僕が基準になる、『パピルサグ』!」
「……自分勝手すぎるわよ!」

 彼の周りにあった無数の蔓が涼に襲い掛かってくる。自分の力を信じていないわけではないが、あのビルをも貫いた斧の攻撃すら防いだ蔓。小さなものならば一撃で倒せてものの、小さな蔓が集まっている巨大な植物相手に、フェンリルの一撃でどうにかなるのかわからない。
 涼は左目の『千里眼』で、瞬時に安全地帯を見つけ、一番近い建物の中へと走っていく。

 一撃で蔓一本を倒せたとしても、向かってくる蔓は一本ではない。先ほどの巨人が一撃でやられてしまったところを見るに、一度でも捕まれば死は免れないだろう。
 走る涼の背後で蔓が壁を破壊して向かってくる。方向転換し、階段を駆け上がると、迫ってくる蔓はほとんど直進し壁にめり込んだ。

 しかし、一本の蔓だけが方向変えて彼女に迫った。
 階段を駆け上がり、足場の良い踊り場まで行った涼は、振り返る。

「フェンリル!」

 カチッ、ズドンと、太い蔓は爆発四散。幸運なことに、小さな蔓に分かれずに消えてくれた。
 壁にぶつかっていた蔓が再び彼女めがけて迫ってきたので、涼はまたすぐに階段を駆け上がる。

 この『パピルサグ』とやらの力、まずは範囲を知らないと、どの程度の間を置けばよいのかわからない。
 いや、仮に範囲内だとしてもどうしてここまで正確に追うことができるのだ。まさか、ホーミング機能がついているわけでもあるまい。

 普通に考えれば、サジタリウスに涼の位置がわかっているということか。だが、彼が追ってきている気配はしない。
 そのとき、どこからか見られているような気がしたが、背後の蔓から逃れるために今は走るので精一杯。『千里眼』を使っても前方こそ確認できるものの、後方は見ている余裕がない。

 どうにか蔓を振り切って、未完成の建物の5階の屋上まで駆け上がった涼は、目の前に広がった光景に息をのむ。

 そこには、一匹の蛾がいた。

 正確に言えば、サジタリウスなのだが、彼の背中には蔓で作られた巨大な羽がついており、まるで目のような形をしている。
 緑の羽ばたく翼を見ながら、涼は彼が、どうやって涼の居場所を見ていたのかを理解した。
 上空から、あるいは、窓の外から見ていたのだ。ということは、彼も涼と共に移動しているということ、つまり、その範囲がそこまで広くはない。

「君の発見は僕にとって棚から牡丹餅みたいなもの、本命が来る前にさっさと終わらせようか」
「へぇ、私はついでってことね――フェンリル!」

 サジタリウスの背中の蔓が一斉に襲い掛かってくる、後ろからも一斉に蔓は接近してきている。
 前後からの攻撃に対して、涼の放った一撃は、自身の足元だった。

 足元が崩れ落ち、涼は落ちていく。一階落ちると、すぐに、もう一度、フェンリルの爆発で、一気に下っていく。
 そして、一階まで来たとき、蔓の動きがほんの少しの間止まった。

 推測するに『パピルサグ』の範囲は約20メートル前後といったところか。強力な能力なだけに、この範囲は正直言ってきつい。
 一階まで来た涼は蔓から逃れるためにまた走り出す。体力の問題もある、いつまでも逃げてはいられないし、早く対処法を見つける必要があった。

 走りながらその方法を考えていると、ビルの入り口が見えてくる。わかりきった正面口から外に出るということはすなわち、無防備になるということを意味する。
 すぐに一番近くの部屋へと曲がって、そのまま部屋の窓から出てしまおうとしたとき、ふと、そこで立ち止まる。

 振り返ると、涼と共に入ってきた蔓は一本だけだった。
 フェンリルでその蔓を即座に撃退した涼は、先ほど階段でも同じことが起こっていたことを思い出す。

(……もしかして)

 涼は窓から部屋の外には出ず、その場に伏せ、隣の部屋の扉を開いた。
 そして、息をひそめていると、あんなに追いかけてきた蔓は彼女の存在が見えていない様子で、近くを通っても、反応しない。

 これなら、と思った涼は息をひそめたまま、階段を上がり、廊下を進み、ポケットからスマートフォンを取り出して、操作してその場に置く。
 サジタリウスは探しているようで、空を飛びながら、窓の前を何度か通ったが、伏せていたため、彼には見つからずに済む。

(これで、あとは……)

 息をひそめた涼は更に上の階へと上がっていき、屋上まで来ると、口に手を当て、息を殺したまま、手すりの前まで歩いていく。
 サジタリウスも流石に涼が最上階にいるとは考えていない様子で、2~4階を飛んでいた。

 そのとき、二階から音が鳴る。

 同時に、涼は屋上から飛び降りる。千里眼を使っているため、降りる場所を間違えるはずがなかった。
 音が鳴っていたのは、涼が仕掛けたタイマー。
 一斉に蔓は音のする方向へと向かい、サジタリウスもまた、二階の廊下前の空を静止している。

 だが、そこには涼はいない。

 無数の蔓が使え、さらに一度捕らえられれば、一撃必殺の攻撃とすることができる、一見隙のないように思える『結界』であったが、大きな力には必ず穴があるものだ。

 このパピルサグには2つの穴がある。

 1つは、敵の存在位置を知っていなければ正確な攻撃ができないということ。
 もう1つは、多くの蔓を一斉に動かしている攻撃中はサジタリウス自身の身動きが取れなくなるということ。

「食いちぎりなさい、フェンリル!」
「……くっ」

 涼の存在に気付いた瞬間にサジタリウスはわずかに反応した。
 しかし、すぐに動くことのできない彼は、完全には避けることはできず、蔓で作られた分厚い羽根に巨大な穴をあけ、さらに、かする程度だが、その身に一撃必殺の一撃を受けることになる。

 屋上から飛び降りた涼であったが、サジタリウスの羽に一度ぶつかったおかげで、勢いは緩和され、更に地面はコンクリではなく土なので、怪我は一つもなかった。
 一方で、片翼をもがれたサジタリウスは、バランスを崩してふらふらと向かい側のビルにぶつかる。

 立ち上がった涼は、電撃殺虫機に触れた蛾がぽとりと地面に落ちるように、ぶつかったビルから落ちたサジタリウスがまだ動けるのかを確認しにゆっくりと近づいていく。
 目の前まで来たが、サジタリウスは、動いていなかった。もしかして殺してしまったのではと怖くなった涼はすぐに彼の脈をとろうとしたとき、

「……君は、戦いに慣れていないみたいだね――パピルサグ!」

 完全に油断していた、殺人者になることが恐ろしかった涼に一瞬の隙が生まれていた。
 すぐにサジタリウスから離れるが、もう遅い。

 無数の蔓が涼を囲っていた。
 フェンリルで一番近くの蔓を破壊するが、瞬く間に、腕が、足が蔓に巻かれていってしまう。
 身動きが、取れない。

 涼は死を覚悟した。

 先ほど見た巨人のように自分の全身がバラバラになるところを想像してしまい、震える。
 フェンリルを爆発させようとも、すでにその他の体すべての自由が利かない。完全に、詰みだ。

 こんなところで、死ぬのだろうか?
 まだ何もやり遂げていないのに?

 脳裏に浮かんだのは、可愛らしい、一人の親友の姿だった。
 髪についている髪留めが無性に愛しく感じる。

(聖……)

 彼女は、自分が死んだとき悲しんでくれるだろうか。
 それとも、自分の死など彼女にとっては夢の代償でしかなく、すぐに忘れてしまうのだろうか。

 彼女が自分のことを忘れてしまうところを想像して、死ぬのがさらに怖くなった。
 まだ生きていたいと、彼女の傍にいたいと、思ってしまう。

 そのとき、静かな低い声が、涼の耳に届いた。

「毎度毎度、自分からトラブルの中に突っ込んでいきやがる」
「……っ!」

 一閃は涼を縛っていたすべての蔓を一瞬で切り裂いた。
 植物から解放された涼は、そのまま地面に打ち付けられる。

 あの巨人ですら切られなかった蔓を、たった一撃で何十本も同時に切った事実に涼は始め驚愕するしかなかった。
 なんとか頭を打つことは回避できたものの背中を強く打ってしまった涼が背中をさすりながら、その人物を見たとき、意外な人物であったため、更に驚きは増す。

「ったく、危なっかしいお姫様だこと」
「普通、そのまま落とすかしら? 受け止めてくれてもいいんじゃない?」
「そうしたら、お前、俺の顔面殴るだろ、右手で」
「当り前じゃない」
「お前な!」

 早乙女真珠は両手に剣を持っており、その剣で切ったのは容易に予想できた。しかし、いくら切れる刀であっても、使用する者が悪ければその剣の能力は引き出せない。
 だから、彼がこの蔓を切ることができるほどの力があることに涼は表情に出さずとも、驚いていた。

 まあいいや、と、涼との会話を、ため息をつきながら切り上げた真珠は、右手の剣を肩にあて、左手の剣をサジタリウスに突きつける。


「うちの大将に、随分な真似してくれんじゃねえか」


「……君は自分の力を分かった上で行動しているのかい?」

 突きつけられた刃先を感情のない目で見たサジタリウスは、静かに、そして、殺気を隠そうとせず、脅すように言う。

「スピカ、君は戦いにおいての経験も少なければ、『結界グラス』の使い方にしてもまるでなっていない。そういった意味ではルードの中で最も弱いといっても過言ではないだろう。そんな君が美しき僕の体に向けて武器を向けている。あまりにも身の程知らずとは思わないかな?」

 そうかもな、と返した真珠は、へらへらと笑っているだけだった。
 弱いけれどプライドだけは人一倍ある男、という印象があった涼は彼が侮辱されても動じずに笑っていることに驚く。

「僕に武器を向けるということは、オルクス様へ向けているのと同義。つまり、立派な反逆行為だということだよ」
「お前こそわかってんのかよ、端から俺はオルクスなんぞに使えてなんかいねえ」
「よろしい、殺す理由としては十分だ――『茨壁』」

 そんなサジタリウスの声とともに地面から一気に突き出たいくつもの蔓たちが彼を中心にして半径20メートルのドームを作っていく。
 自身の周りにできていく闘技場コロシアムを見た早乙女真珠は、大声で涼に指示を出してきた。

「敵は一人じゃねえ、お前は外のやつをどうにかしろ。あいつは苦手だ」
「かよわいお姫様を助けに来た男の言うセリフじゃないような気がするわ」
「誰が『かよわいお姫様』だ! んなやつが、俺をぶっ飛ばしたりなんかできるかよ――いいから、早くここから出ていけ!」
「一人であれに敵うの?」

 辺りを包もうとしている蔓を操作している男を指さしながら涼が言う。一度殺されかけたのだ、変態だけど強いというのは、わかっている。一人で戦えるか怪しいと思える程度には。
 以前、一撃で倒してしまった印象が強いからか、敵だったから信用できないのか、はっきりとはわからないが、とにかく、早乙女真珠の倒せる相手ではないと思う。

 だが、真珠は「当たり前だ」と、意外な返答をしてきたではないか。
 そして、涼のそ異色の二つの眼を、見ながら不敵に笑う。

「第5バーンで、ベガ……琴織聖は俺を『仲間』だって言っただろ――仲間っつうのは、お互い信じ合うもんじゃねえのかよ」

「あんた、ちょっと変わった? かなり不気味なんだけど」
「……うるせえ、さっさといけ」

 ここまで言われては仕方ないと思った、涼は植物で作られていくドームから飛び出る。植物の壁は何重にもなっていたが、なんとか間に合い、最後の一面だけをフェンリルだけで壊すだけで、外に出ることができた。
 涼が外に出て後ろを見ると、すぐに彼女の通ってきた道はふさがれ、すでに誰も出入りさせない空間を作っていた。

 サジタリウスと共に中に残った真珠のことを心配しそうになって、涼はすぐに首を横に振る。
 なんであいつのことを心配しなきゃならないのだ。あいつは葵の仇、恨むべき対象。少しくらい傷ついたところで、可哀想とは思ってはいけない。

「……死んだら、殴るわよ」

 植物でできた壁に向かって静かに涼は呟く。そうだ、あいつには償ってもらわなきゃならないのだ、多くの人を殺したその『罪』を。死んでもらっては困る。
 それに、彼が死んだら相部屋の後輩もきっと、悲しんでしまうから。

「あら、出てきたのは貴女だけなのね?」

 その声は、近くのビルの屋上から聞こえてきていた。どうやら、いろいろと考えている余裕はないらしい。
 涼が見ると、そこには一人の、また『濃い』おっさんがいた。

 まるで鎧のような筋肉に覆われた体に、禿げあがった頭は月の光に照らされて輝いており、その顔には化粧がされている、いろんな意味で恐いおっさんだった。星団会のときも思ったが、『ルード』にはまともなやつがいないのだろうか。
 その手には、鍋蓋のように大きな盃を持っており、その背には酒樽を担いでいる。

「あんたが、私の相手ってことね?」

 右手のこぶしを突き付けて涼がそう言うと、「せっかちな女はモテないわよ」と返してきたおっさんは、なんとビルの最上階から飛び降りた。涼もつい先ほど同じことをしたが、男の飛び降りた下はコンクリートである。普通にぶつかれば生死にかかわる。
 ドスン、という音と共に、降りたおっさんは、なんでもない顔で笑顔を向けてくる。

「まだ時間はあるわ、酒の肴に少しお話でもしましょう」
「残念だけど、私は未成年よ。お酒は飲めないわ」
「そう、ならお話くらいは付き合ってよ」

 そう言った男は、酒樽を割ってから、酌で盃の中に酒を入れてその場に胡坐をかいてしまったではないか。
 ようやく、星団会で彼がなんと呼ばれていたのかを思い出した涼は、

「貴方は確か、『キャンサー』だったかしら。どういうつもりよ?」
「今日は月が綺麗じゃない。こういう日は、いい人と酒を飲みたいのよ」

 そういって、ウインクしてきたキャンサーにぞっとした涼は、一歩下がってから、彼との会話を続ける。

「貴方はその……オカマでしょう? 女には興味がないんじゃない?」
「失礼ね、じゃあ貴女は異性としか話さないの? それと同じ、あたしにとって女は同族、つまりは仲間みたいなもんよ」

 ぐびぐびと垂らしながら酒を飲む姿は、男らしかったが、その口から出てくる裏声は気味が悪い。
 盃に入った酒を一気に飲み干したキャンサーは、立ち上がってもう一杯酒樽から盃に酒を入れてから、また座る。

 その間、ジーと涼の顔を見ていたが、急にポッと顔を赤らめたかと思うと、

「おかしいわね、あたし、可愛い男の子しかときめかないはずなのに……貴女を見てたらドキドキしてきちゃったわ――どう、あたしを嫁にもらう気はないかしら?」
「それいろいろおかしいわよね!?」

 もしかしてこれも、女の子にモテてしまうことと関係あったりするのだろうか。というか、女とオカマにモテてしまう女とか、我ながら天然記念物だと思うのだが。

 あいつは苦手だ、とか、早乙女真珠のやつは言っていたけど、『結界』の相性とかじゃなくて、人間的相性だったのか。というか、これが得意な人は中々いないだろう。あのナルシストも得意ではないが……。
 押し付けやがったな、と涼が心の中で真珠を恨んでいると、

「貴女は確か、『アルタイル』だったわよね?」
「飛鷲涼よ、家名そっちは慣れてないから」
「素敵な名前ね――なら、涼ちゃん」

 なによ、と一応答えてみるが、年上の男の人に、さらに裏声で『涼ちゃん』と言われるのは物凄い違和感があった。そもそも、『ちゃん』付けで呼んでくる人なんて涼の周りには年下で妹みたいな存在である詠くらいだし。

「貴女はこの戦いで何を求めているのかしら?」

 雰囲気も表情も変わっていないというのに、その口から出てきた質問には先ほどまでの軽いものはなく、言葉に重みを感じた。

「人間とプレフュードを共存できる世界を作るためよ」
「……まるで子供の掲げる夢物語ね」
「っ! なんであんたにそんなことを言われなきゃならないのよ!?」

 盃の中の酒をあっという間に飲み干してしまったキャンサーはやはり物足りなさを感じたのか、今度は酒樽から酌ですくい上げた酒をそのまま飲み始める。

「……あたしたちのように地下にいる者とは違って地上のプレフュードは人間を『家畜』としか見ていないわ。それが当たり前のことになっている。この地下にいるプレフュードは人間と触れ合っているからね、これでもかなり人間に対して理解がある方。でも、それを是とするプレフュードはごく少数でしょうね」
「考え方なんて、いくらでも変わるでしょう?」
「『思想』を変えるのは非常に難しいわ。理由なんてない、『人を殺してはいけない』貴女たちが当然に思っているそんな常識と同列にあるのだから。もしも貴女がそれを本気で変えようとするなら極論を用いるしかないわ」
「極論……?」

 そう、といったキャンサーは空になった酌を涼に突きつけると、

「あたしたちプレフュードか人間か、どちらかが滅ぶことよ」
「そんなの……」

 全くの逆ではないか、涼たちの目指している世界と。
 何か反論しなければ、と言葉を探している涼を見ながら、酒樽を自身の横に置いたキャンサーは、こう問いかけてきた。

「そもそも、貴女は世界を変えたいと本気で思っているのかしら?」

「当り前じゃない!」
「……それにしては、少しばかり無知が過ぎるのではない?」

 キャンサーの言葉に、涼は何も返せなかった。
 彼の言っていることは正しい。
 もしも、涼がもっと多くのことを知っていれば、即座に彼に対して一つか二つ、反論できていただろう。無知ゆえに、涼は、口を閉じることしかできなかった。

「あの子がどれだけのものを犠牲にして、苦しんで、あの場に立っているのかさえも知らないで、すべてを否定するなんて、あたしは許せないわ……」

 そういったキャンサーの声は沈んでおり、まるで、父親のようだった。
 あの子、とはいったい誰のことだろうか。

 押し黙ってしまった涼の前で、酒樽を持ち上げて自身の頭の上でひっくり返し、ごくごくとついに樽ごと一気に飲み干してしまったキャンサーは、

「偽りの世界で生きてきた貴女がまだ多くを知らないのは当然のことなのかもしれないわ――‐でも、私たちにも信念があるってことだけは知っておいて頂戴」
「……信念?」

 ええ、と言って立ち上がったキャンサーは涼にやんわりと微笑むと、すぐに顔色を緊張したものへと変える。
 その表情はまるで戦場に立つ兵士のようであった。

「私たちにはお互いに異なる『正義』があるわ。きっとそれはどちらも譲れない」
「だから、戦う……」
「そうよ、でも――」

 言葉を区切ったキャンサーは『結界グラス』を開放する。彼の体を深紅の甲羅が覆い、ただでさえ大きな体をますます巨大化させた。
 しかし、その目線は、涼には向けられていない。

「‐‐今日はそのために来たんじゃないわ」

 そういったキャンサーの目線の先を見た涼はゾッとする。
 見た瞬間に身がすくみ、鳥肌が立ち、体が動けなくなった気がした。

 三日月を背に立っていたのはたった一人の女。

 ぞっとするほどに美しく、それでいて生き物に生命の警報を鳴らす圧倒的な気配。
 細い目つきに、きれいな和服、その手にはキセルが握られている。この女を涼は知っていた。

「なんで……」

 星団会に出席する前に琴織聖が、絶対に手を出してはならないと言っていた人物の一人。
 オルクスに台頭しうる力を持つ、この地下世界のもう一人の絶対的強者。

「こんばんはぁ、みなさぁん」

 ぷふぁ、と煙を吐いたアンタレスは、小さな歩幅で着物を崩さずに歩いてくる。
 その歩き方は、気品と艶っぽさを併せ持ったものであり、場所が場所なら花魁道中を連想させるような姿だった。

「随分と、余裕じゃないの!」

 そう叫んで、アンタレスの前に立ちふさがったのは、オカマのおっさん。体格差は二倍や三倍ではないだろう。
 分厚い赤の甲羅を身にまとっているキャンサーの、アンタレスの半身ほどに巨大な拳が振り下ろされた。

 その様子を、動じることなくアンタレスは見ていた。まるで、身の危険を感じている様子はない。

「……っ!」

 だが、彼女の目を見た瞬間、キャンサーは手を止めて、後退した。その顔は青ざめている。
 彼の後ろで同じくアンタレスの目を見た涼には彼の気持ちが分かった。

 殺される。

 目を見ただけで、体にその言葉が駆け巡っていった。体を流れている血が冷たく感じた。
 その方法なんて、想像もできなかったが、とにかく、それ以上彼女に寄れば殺されるということだけはわかる。

 キャンサーが攻撃を止めなければおそらくは当たっていただろうが、アンタレスは『結界グラス』を開放したわけでもなく、抵抗するそぶりも見せなかった。
 その行動は彼女が自分の目に見えない他者を圧倒する『気迫』のようなものに、絶対的な自信を持っているからできること。

「騒々しいわねぇ、私が呼んだのは一人だけだったはずだけどぉ?」

 立ち止まってあたりを見渡したアンタレスの視線はキャンサーの巨体でも、植物のドームでもなく、涼の姿だけを捉えていた。
 彼女の妖艶な目に、涼はなぜか動揺しながら、

「なっ、なによ、『アンタレス』?」
梅艶ばいえんよぉ、重苦しい家名はやめなさぁい――飛鷲涼さぁん」

 自分の名前を呼ばれたとき、彼女の目の向こう側が光ったような気がしてゾッとする。
 一瞬、怖気づいてしまいそうになるも、負けてはならないと思いなおし、

「そう言うってことは、私を呼びつけたのは貴女なの?」
「他に誰がいるのかしらぁ――『ヨルムンガンド』」

 歩きづらそうな履物で、数歩歩いた『アンタレス』――梅艶は、『結界グラス』を開放した。その半径はかなり広い30メートルほどか。
 梅艶の周りに大蛇が出現し、彼女の体を包むようにとぐろを巻いた。
 その蛇の上に座った梅艶は、パイプを口にくわえて、ぷふぁ、と煙と共に吐き出す。

 彼女の持つ銀色のパイプが月の光に照らされて、キラキラと光っていた。
 敵を目前にしてこれだけの余裕を見せられるのは、自身の力によほどの自信があるのだろうか。

「それで、いったい何が聞きたいのかしらぁ?」
「本当に9年前の、私の両親がいなくなった、あの事件のことを知っているの?」

 そうねぇ、と涼の目を見つめながら言う梅艶にキャンサーが再び迫っていく。

「私たちを無視するとは、いい度胸ね!」

 梅艶の頭へ向けて、キャンサーはくっつけた両拳を振り下ろした。彼の手はまるでハンマーのようだ。

 しかし、媒艶は動かない。

 背が高いとはいえ、女性である梅艶には自分の体を潰してしまうほどに勢いのある彼の攻撃を受け止められるとは思えない。

「……うるさいわねぇ」

 人が自身にまとわりついてくるハエに向けるような視線をキャンサーに向けた梅艶は、キセルを口から外してから、ぷふぁ、と口から煙を、キャンサーの顔に向けて吹いた。

「……ごふっ」

 煙を吸い込んだ途端、キャンサーは吐血し、その場に倒れる。
 いったい何が起こったのか、涼が事態を把握する前に、梅艶の背後にもう一人の刺客が現れる。

「死ね、アンタレス」
「アトラスさん!?」

 特徴のある仮面と服装、それは昨日涼に夕食を作ってくれた人物である。
 アトラスは、両手に持った剣で梅艶の首を掻っ切ろうと、後ろから切りかかっていた。

 対して梅艶は振り返ることもしない。
 だが、どうしてだろうか、直感的に、涼には彼女がそのまま殺されるとは思えなかった。

「私は、この子のために来たの――邪魔しないでくれるかしらぁ?」

 その剣を、梅艶はキセルの先で受け止めているではないか。後ろに目でもあるのだろうか。
 トントン、と彼女がキセルの灰を剣の上に落とすと、その灰はまるで物を食らうように剣をみるみるうちに溶かしていく。
 剣を離したアトラスを梅艶の近くにいた大蛇の尻尾が弾き飛ばした。

「なんだったかしらぁ? もう一度おねがぁい?」

 瞬く間に二人もの刺客を倒したというのに、顔色一つ変えない梅艶にひるみかけるが、それではダメだと自分に言い聞かせてから、自分の中で一番、訪ねたいことを少し考えてから、口を開く。

「父はどこにいるのよ?」

 9年前の事件、父は母を殺して行方をくらました。今、涼の一番知りたいことは、その父親がどこでのうのうと暮らしているかである。

「――よぉ」
「えっ…………」

 よく、聞き取れなかった。
 どうしてだろうか、梅艶の声は別に小さくないし、声自体も通る声のはずである。それでも、内容が耳の中に入ってこなかった。

 そうじゃない、自分の脳が聞こうとしなかったのだ。

 耳をふさぎたい、聞きたくない、そんな思いが湧き出てくるが、梅艶はもう一度、今度は涼の耳に届くように静かながらも迫力のある声で言う。


「だからぁ、あの男ならもう死んだわよぉ」


 反論する気が起きなかった。
 今まで涼は、何としてでも父を探して、どうしては母を殺したのかを問い詰めるつもりでいた。たとえ何十年かかろうとも絶対に、見つけ出すと決めていた。

「うそ……ついてんじゃないわよ!」
「なら聞くわぁ、貴女の父親がまだ生きている証拠はあるのぉ?」
「そんなことを言うなら、死んだっていう証拠だって――」

 あるわぁ、と、梅艶は涼の言葉をさえぎった。
 そんなものあるはずない、9年もの間、何の手がかりもなかったのだ。

 それに第一、涼の父を調べてこの女に利益などないはずだ、地下世界を管理する『ルード』がそんな一般人のために動くとは思えない。

 認めない、絶対に認めてなるものか。
 そう思っていた。

 しかし、梅艶は涼の、父親についての知識を根本から覆すようなことを話し始める。

「貴女の父親はねぇ、普通の人間じゃあ、なかったのよぉ? 一般人からしたら知らないかもしれないけどぉ、こっちの世界ではかなり有名だったのぉ」
「そんなの……嘘よ……聞いてないわよ!」
「飛鷲涼、貴女の父親はねぇ、『リベレイターズ』最高幹部の一人だったのぉ、通称『レッドデビル』……私たち『ルード』と長年敵対していたらしいわぁ」

 子供の頃の記憶にある、優しい顔をした父の顔を思い出す。
 そして次に、母を殺したという事実と目の前の女が言う本当かどうか疑わしい事柄が合わさり、涼の中の父の像が崩れていく。

 頭が痛くなってきた涼は、吹き出す汗をぬぐいながら、

「『らしい』ってどういうことよ?」
「あの男が表舞台……いや、この地下世界で言うならばどちらにせよ、裏の舞台ということになるのかもしれないがねぇ――私たちと争っていたのは、私が『ルード』になる前の話、つまりは聞いた話なのよぉ」

「じゃあ、父は……」
「残念だけどぉ、間違いなく死んでいるわぁ、当時の力を失っていた男は――殺されたのよぉ、『ルード』の中の誰かにねぇ」

 どうやら、梅艶はそれが誰なのかまではいわないようであった。
 沸騰する頭を懸命に冷やそうとするが、無理だ、怒りというガソリンにより爆発的なまでに熱くなってしまった頭はどうすることもできなかった。

 あの男の犯した過ちのおかげで涼の人生は劇的に変わってしまったといってよい、すべてを一度失ったといってよい。

 父は殺された、それも、『ルード』の中の誰かに。
 娘に妻を殺した理由を告げることもなく。

 とうとう、綺麗な言い訳という、せめてもの救いすらも残すこともしなかった。
 この感情をどこにぶつけるべきか、答えはすぐに浮かんできた。

「……そいつは誰か教えなさい『アンタレス』」

 怒りを抑えた、静かな声で涼は言う。
 対して梅艶は、面白そうに涼を眺めながら、ふざけたように答える。

「さぁて、誰かしらねぇ。『レオ』か『キャンサー』か、もしかしたら――――私かもしれないわぁ」
「ふざけないで!」

 自分では抑えきれない負の感情が渦巻いていた。この女が直接的に悪くないことはわかっているつもりであった。

「知りたかったらぁ――私を倒してから聞いてみればぁ?」
「っ!――『フェンリル』!」

 下手な力を持ってしまったが故の行動か、涼は怒りに任せて『結界グラス』を展開させていた。彼女の頬には青い星が浮かび上がり、右手は再び一撃必倒の兵器と化した。
 同時に彼女は左目の『千里眼』を発動させ、視界を広げる。彼女の赤い左目は黒みを帯びていく。

「なら、お望み通りノックアウトさせてあげるわ!」

 そう叫んで、涼はまだ、余裕ぶっている梅艶の方へと、まっすぐに突っ込んで行こうとしたのだが、思わぬ方向からの声により、彼女の足は止まった。

「ダメです、涼!」

 ここにあるはずのない声を聞いた動揺からか、はたまた、声そのものが涼の心を止めたのかはわからない。
 しかし事実、涼は、ピタリと止まっていた。

「聖……」

 少し遠くから歩み寄ってきた少女の名前を呼ぶ。
 彼女の名前を呼んだ途端、急激に脳が冷えていく感覚と、自分がいま、感情任せにやろうとしていた軽率な行動にゾッとした。

「涼、大丈夫ですか?」

 頭に上っていた血液が戻っていくのを感じていると、いつの間にか聖が近くにいた。
 いつもの優しげで、可愛らしく余裕を持った笑みを向けてくる。
 それを見て、なぜか安心した涼は「ええ、もちろんよ」といつものような自然な声が出たのであった。

                  ※

「一人じゃなかったのかしらぁ?」
「私が勝手に来ただけですよ」

 どうやら、涼を一人でここに呼び出したのは彼女、アンタレスーー梅艶となっていたか、らしいが、聖がここにいることに怒っているわけではない様子だ。それが逆に不気味である。
 早乙女真珠の連絡は、この不自然な時間帯に涼がバスに乗っていた、といった内容のものであった。その連絡を受けてからすぐに、バスの行き先を推測し、行動したのだ。

 そこで行われていた会話の内容の全てを聞くことはできなかったものの、どうにか涼の血迷った行動だけは阻止することはできたようだった。

 この蛇姫と呼ばれている、梅艶の『結界』の力、それは『毒』。うかつに近寄れば、空気から毒を吸うことになってしまうし、毒に触れたら最後、死に至る。

 彼女の使うあらゆる毒の中で、最も有名なのは『ヨルムンガンドトキシン』と呼ばれるもので聖たちは一度、少量であるがその毒の力を実際に体験していた。
 通常、彼女の使うほとんどの毒は『結界』の範囲から外れればその効力を失うのだが、ヨルムンガンドトキシンは例外、『結界』の外へ出ても、機能する。そのため、闇取引で『殺戮兵器』として出回っているという。

 触れただけで、死に至り、かといって液を放っておけば、空気さえも汚染させ、近くの人間の体をマヒさせる最強の毒。
 それを使われれば最後、無限に湧き上がってくる毒に対して、聖たちにはなすすべがなくなるだろう。
 あたりを見ると、すでに二人が倒れており、不気味な植物で出来たドームがあるが、幸い、まだその毒は使われてはいないようだ。

 ゆえに、彼女たちの選択はたった一つしかなかった。


「涼、ここは退きましょう」


 逃げる、幸い梅艶の服装と履物では、速く走ることなどできないのだ。それが最善であり、唯一の選択。

 そのはずであったのだが、涼は首を横に振った。

「ごめん聖、私……今すぐあの女をとっ捕まえて、聞き出さないといけないから」
「何をばかなことを言っているのですか! 普通に考えて勝てる相手では――」

 聖の言葉を「なら!」と涼は声を張り上げてさえぎってくる。
 彼女に否定され、怒鳴られたのは初めてであったので身がすくんだ。

「遅かれ早かれあの女とは戦うことになるのよ、それに逃げてちゃ――私たちは初めからこの世界を救うことなんてできなかった、ってことになっちゃうじゃないの」

 確かに涼の言うことは一理ある。
 今逃げ切れたとしても、この先、アンタレスとは刃を交えることになる可能性が高い。できることならば、衝突を避ける道を選びたいが、話し合いでどうにかならないこともある。

「しかし、今はその時ではありません」
「…………」

 最強の毒、ヨルムンガンドトキシンは水に分解されるということは既知のことである。ならば、場所を変え、せめて、最強の毒だけでも封じてから戦うべきなのである。
 一時的な感情で動くなど、愚の骨頂。
 涼との会話を聞いていた梅艶が、ぷふぁ、と口から白い煙を吐き出してから、

「夫婦喧嘩は終わったかぁい?――――でもぉ、もうおしまいなんだけどねぇ」
「……っ!」

 彼女に言われて、聖は初めて、自身の体の異変に気づく。
 しまった、と思った時には、遅かった。

 徐々に体の自由が利かなくなっている。体が重くなっている。少しだが、気分が悪い。
 この症状はまだ軽度であるが、一か月前に受けたものと同じ。

 すでに、彼女はヨルムンガンドトキシンを散布していたのだ。

 だが、幸いなことに、まだ動ける。
 今は戦うべきではない、対抗できる方法を考えてから、出直すべきだ。

「涼、今のうちに逃げましょう」

 呼びかけてみるが、涼の返事はなかった。
 彼女は梅艶を睨み、そして、聖の方を向いて、言う。

「……ごめんなさい」

 涼、と叫び、同時に彼女の体を掴もうとするが、聖の手が届くことはなかった。涼の服に触れただけで、そのまま聖は倒れてしまう。
 すぐに立ち上がろうとするが、ここにきて毒の浸食が早まったのか、立とうとしてもすぐにぐずれてしまう。

 だから、聖は叫ぶことしかできなかった。

「ダメです、涼!やめてください!」

 返事はなかった。
 涼は、梅艶の元へと走り出す。
 体にすでに毒が回っているこの状態で助かる方法は二つ。

 一つはこの場から逃げて自然治癒を待つ、という方法。
 そしてもう一つは、全身に毒が体に回る前に梅艶を倒してしまうという方法。
 涼は、咄嗟の判断で後者を選んだのだ。

「お願いです、私の元から離れないでください」

 梅艶の前へと、涼はたどり着く。聖よりも少し身長が高い彼女はその分、毒が体に回るのが遅いようであった。

 もう、手遅れだ。

 そんなことをわかっていながら、聖は、言葉を止めることができなかった。

「行かないで、ください……」

「フェルリルっ!」

 涼が梅艶へと、一撃必倒の右手を向ける。それが当たれば梅艶であろうとも、倒されるしかないだろう。
 涼の背中を見ることしかできなかった聖は、代わりにその向こう側にいる梅艶と目が合った。

 彼女の細い眼は聖を見て、笑っていた。

「そんな拳、届かないわぁ」

 彼女がそういった途端、涼の体が止まった。
 その様子を見てすぐに彼女の体に毒が回り始めたのがわかった。

「女が人を殺すときはねぇ、拳なんかはいらないのよぉ」

 もう一度、聖を見た梅艶は、ゆがんだ笑みを浮かべて、動かなくなった涼の方へと、向かっていく。
 彼女は横顔が聖に見えるように涼の顔の向きを変える。

 これから彼女がいったい何をするのか、考えたくなかった。

 涼の頭を撫でた梅艶の手は、頬、そして、唇へと向かっていく。
 そして、その怖いくらいに美しい顔を涼の顔へと、まるで聖に見せつけるようにゆっくりと近づけていった。

「やっ……やめて、やめてください!」

 聖は、涙を流しながら、そうつぶやくことしかできない。

 時に言葉は無力である。
 梅艶の行動を止められることなど、できないのだから。

 涼の唇と、梅艶の唇が触れる。

 彼女の舌が、涼の口の中へなまめかしく入っていくのが、見えて、背筋が凍る。
 梅艶との接吻を終えた、涼は、口から魂を吸われてしまったかのようにその場に崩れ落ちる。彼女が動くことはなかった。

 今、自分が見ているこれは、現実のことなのだろうか。
 それとも、悪い夢か。

 夢ならば今すぐに覚めてほしかった、そして、目覚めたら夢を作り出した自分の頭を思い切り壁に打ち付けることだろう。
 倒れた涼を見下ろした梅艶は、次に聖へとその視線を向ける。

 いや、もう夢だろうと現実だろうとどちらでもよかった。

「梅艶……私を、殺しなさい……殺して、ください……」

 聖が、今、切に願ったのは、涼の傍である。そのためならば、この命など、どうなってもよかった。
 まるで、その言葉を待っていたかのように、嗜虐的な笑みを浮かべた梅艶は、

「嫌よぉ、それじゃあ、あの忌々しい女の相手がいなくなるじゃないのよぉ」
「あぁ……ううぅ……」

 ならばと、下をかみ切って死んでしまおうと思ったが、ついに口元さえも動かなくなっていた。
 空気を汚染した毒からくる効果は、命を奪わない。体をしびれさせるだけ。今はそれが憎かった。

「『ベガ』、貴女には面白いものを見せてあげるわぁ――来なさぁい『ヨルムンガンド』」

 梅艶がそう言った瞬間に、彼女の背後から現れたのは、一匹の大蛇。
 二メートルはあるだろう頭に、全身紫色の体についた鱗はまるで金属のようで月の光に照らされキラキラと輝いていた。
 全長はわからない、すべての体が空間にできている穴から出なかったためである。

「覚えておきなさぁい、これが私の切り札よぉ……いや、脳に焼き付いて、離れなくなるかもしれないわねぇ――ヨルム!」

 これ以上、何をしようというのか。
 彼女が指示すると大蛇はゆっくりと動き出す。
 まっすぐ、巨大な口を開けて蛇が向かっていったのはーー動かない涼の体であった。

(もう……止めて、止めてください!)

 その言葉は口から出ない。
 大蛇が涼の体を飲み込む――いや、ひとのみではなかった、彼女の足だけがその口から出ていた。

 それが逆に、聖の絶望を深める。

 動くことのない涼の足を、大蛇は、チュルリと吸い込むように飲み込んだ。

「あっ……あああああああああっ!」

 聖の絶叫があたりに響き渡る。
 もう、何も見たくないと、目を閉じるが、涙は止まらなかった。見た光景は脳に刻み込まれてしまっていた。

 頭上から、あざ笑うかのような声が聞こえる。
 どうして殺してくれないのだろうか、もう、誰でも良い、どんな方法でもいい、死にたかった。

 体のしびれが取れない聖は、思考を止め、同時に感情を放棄し、次に目を開けた時にすべてが夢であることを切に願いながら、失意のまま、意識を投げたのであった。

                ※

 そこは暗い場所だった。いつのことだったか、父に落とされた穴を思い出す。あそこでは一人同然だったが、最悪なことに目の前には変態がいらっしゃる。

 蔓でできたドームの頭上のわずかな隙間から落ちてくる月の光のみがこの中を照らしていた。

 その僅かな光で見える男は、上半身裸で、まだ夏とはいえ、夜だというのに汗がみえ、それを真珠に見せつけるようなポーズをしている。自分のことを彫刻だとか思っているのだろうか。

「『仲間』……ね、裏切りの道を行く君らしくない言葉だ」
「んなことよりも、てめぇらが揃ってここにいるってことはこいつも『ミネルヴァ』の命令か?」

 さあね、と答えるサジタリウスが指をパチンと鳴らすと、地面から多くの蔓が現れる。
 早乙女真珠の目の前にいるナルシスト変態、サジタリウスの『結界』の力は『植物操作』。範囲内の植物の生長を促すというもので、この能力自体はそれほど高いとは言われていない。というのも、範囲内に植物がなければ使えないのだ。だから、一見無限に出てきているように思えるこの蔓も実は無限というわけではない。

 本来、そこに隙が生まれるはずなのだが、この男の場合、そのわずかな隙さえも見せてくれない。

「オルクス様に、君は殺すなと言われている――でも、少しくらいは遊んでもらうよ」

 いったいどうしてあの女は真珠を生かそうとしているのだろうか。
 真珠はオルクスを裏切った『裏切り者』である。以前、裏切り者とされた昴萌詠はオルクスに殺されそうになっていることを考えるに、あまりにもおかしいように感じる。

(俺からすべてを奪っておいて、殺すなだと、生き地獄でも見せようってことか?)

 それとも、早乙女真珠を殺してはならない理由が、オルクスにあるというのだろうか。
 どちらにせよ、これで微かにあった恐怖は消えた。どうせ、相手は殺せないのだ。思い切りできる。

「なんなら、俺は殺す気で行くぜ!」

 目の前に迫ってくる蔓を両手に持つ刀で切っていく。この蔓は一本一本であればちぎれやすいが、束になるとかなりの強度になる。
 真珠の『結界』、『青刀せいとう世界せかい』の作り出す剣は、自身の身から離れるほどに生成される剣はもろく、切れ味も下がってしまうので、この蔓を切ることのできるような剣は彼の手に触れているものしかない。

 そう、この手に持っている剣ならば、大抵のものは切れる。たとえ鉄であろうとも、真っ二つで切れるだろう。だからこそ、この刀を粉砕した飛鷲涼の『結界』のパワーは伊達ではないといえるのだが。

 サジタリウスへと向かって走り出した真珠は、襲い掛かってくる蔓を避け、切りながら、進んでいく。この暗さだ、サジタリウスも、標準が定まっていない。

 これなら、いける。

 そう思ったとき、地面からまっすぐに足元へと絡みついてくる蔓に足を取られ、転びそうになる。
 考えてみれば、辺りが見えにくいこの状況を作り出したのはサジタリウス自身だ。この男が自発的に自分にとって不利な状況を作るはずがなかった。

「……斬雨きりさめっ!」

 すぐに自分の足に絡みついた蔓を切った真珠がそう叫ぶと、ドームの中に無数の剣が出現し、一斉に雨のように降り注ぐ。サジタリウスは降ってきた剣を蔓で防いでいた。剣は真珠から離れるほどに切れ味は悪く、強度ももろくなっていくので、当然、簡単に防がれてしまう。

 だが、それでいい。

 真珠は、地面に砕けた剣の後を駆けていく、この道ならば、植物に足を取られることがない。

「まったく君は、なってないな――だから君は、僕の美しさに絶対届かないんだ」

 ふっ、と笑ったサジタリウスが、パチン、と指を鳴らすと、なんと、真珠の足元から蔓が伸びてきたではないか。

 足を取ったときに、靴に植物の種を入れやがったのか。

 サジタリウスは『結界』の力こそ強大ではないものの、オルクスに重宝されている。その理由は『ルード』の中で能力の使い方が最も優れているからである。
 早乙女真珠の能力にしたって、もっと自身の『結界』の力を理解した上で、使っていれば、楽に戦えていただろう。その点でいえば、確かに父は、優れていたといえる。その矛先は間違っていたとはいえ。

(いや、それをいうなら、うちの大将二人の本来の力は……)

 だが、そんなことを考えている暇はなさそうだ。足を取られてしまった真珠は、剣で蔓を切ってしまおうとするが、蔓はみるみるうちに成長していってしまう。更にその蔓も真珠の服に種をつけるので、成長していく。

 サジタリウスは、その能力の不便性からか、戦う場所を決め、あらかじめその場に植物の種を植えており、その手にいつも、種を持っている。植物を『結界』の外に出してしまうのがこいつの攻略法だが、それよりもこいつを殺してしまう方が何十倍も楽だ。

 全く動けなくなってしまった真珠は、どうにかこの拘束を解かないと思って、体をねじらせるも、動かない。
 真珠の前まできた、サジタリウスは、口に加えたバラを取ってから、

「さて、チェックメイトだよ」

 成長したバラのまるでレイピアのように巨大化した棘を折ったサジタリウスは、一本、また一本と真珠の体に刺していく。

「てめぇ――ぐぁ」
「汚い声を出さないでくれよ」

 サジタリウスは、鼻歌交じりに、真珠の手足に棘を刺していく。言った通り本当に殺す気はないらしく、致命傷になるような臓器には傷つけてこない。

「……お前たちの、目的は何なんだよ」
「それは……っと、キャンサーのやつ、もうやられたのか」

 手を止めたサジタリウスが、チッ、と舌打ちしてから、パチンと指を鳴らすと、あたりを覆っていた植物が一気に地面へと戻っていく。
 手足を縛られたままのうめき声をあげながら、真珠は、そこに広がった景色に顔色を変える。

「なんだよ……こりゃあ」

 そこには、倒れているベガと、アトラス、そして、キャンサーの姿があった。しかし、アルタイル――飛鷲涼の姿はない。
 そんな光景の中、唯一、その場に立っているのは、大蛇を傍に置くアンタレス。その体には傷どころか、汗一つ見えない。

 これは、アンタレス一人でやったことなのか?

 キャンサーの『結界』は鉄壁の防具として機能しており、ちょっとやそっとでは砕けないはずだ。アトラスについては、真珠も一度、剣を交わせているのでその実力は知っている。そして、琴織聖に関しては戦闘経験が乏しいとはいえあの旧王、『大聖女王ベガ』の能力だぞ。

 こいつらを、真珠がサジタリウスに敗北するまでのわずかな時間で、しかも、無傷で、倒したというのか。

 まともじゃない、そんな言葉が思い浮かんだ。

 それよりも飛鷲涼はどこにいる?

 あたりを見た真珠は、聖が目を真っ赤にして涙を流しているのを見つけ、嫌な予感がする。

「おい、ベガ、なにがあったんだよ!」

 彼女からは答えが返ってこない、目には光がなく、戦意どころか、生気をなくしている様子だった。
 聖への言葉を続ける真珠に、サジタリウスが、

「僕たちの本来の目的は、あれの『駆除』さ」

 彼の目線はアンタレスのほうを向いていた。しかし、今までアンタレスとオルクスはいがみ合いながらも、正面からぶつかることはなかったはずだ。
 どうして、今更『ルード』がアンタレスを狙う必要があるのだろうか。

「君はそこで見ていなよ、一瞬で終わらせてあげるから」

 パチンとサジタリウスが指を鳴らすと、地面から蔓が出現し、一斉にアンタレスへと襲い掛かっていく。
 迫りくる蔓を、アンタレスは、つまらなそうに見る。

「オルクスにいっておきなさぁい」

 辺りに向けてそう言ったアンタレスが大蛇に乗った。
 そして、彼女に襲い掛かってきた蔓は、彼女のもとに届く前にことごとく枯れてしまう。

 アンタレスの持つ毒は一つじゃない、植物は彼女に近寄るだけで枯れ、動物は彼女に息を吹きかけられるだけで死に至る。
 聞いてはいたが、その力は圧倒的なもののように感じた。

「私の邪魔するならぁ――次はその首とるわよぉ」
「待ちなよ、アンタレス!」

 そう告げたアンタレスは大蛇に乗ってその場から消えていく。サジタリウスの操作する蔓がその後ろから再び襲い掛かろうとするが、結果は同じ、彼女に近づいた蔓は枯れ、朽ちていた。

 アンタレスが消えると、歯をギリギリとかみながらサジタリウスは近くの廃墟にこぶしをうちつける。顔を赤くしており、怒っている。そんな感情を表す様子は彼らしくないと感じた。

「『ミネルヴァ』のやろう、でたらめ教えやがって! あの女がすぐに逃げるなんて、聞いてないぞ」

 怒り狂うサジタリウスの力が、アンタレスの毒にやられたためか、動けるほどにゆるんでいたので、真珠は蔓を切って何とか体を開放する。近くの壁に手を打ち付けながら、叫んでいるサジタリウスと、まだ空気中に残っている毒を吸わないように気をつけながら真珠は、倒れている琴織聖のもとへ行く。
 彼女は、動けないのか、はたまた動こうとしないのか、地面に這いつくばりながら嗚咽を漏らしていた。その様子からただ事ではないことが起こったのは明らかだ。

「おい、何があったんだよ」
「……」

 彼女を抱き上げて問いかけるが、聖は答えない。本当に生きているのか不安になるほどに、まるで魂が抜けてしまったかのようだ。何の反応も返ってこない聖は彼女の綺麗な容姿も相まって、人形のように見えた。

 ダメだ、壊れてやがる。

 別に体はどこも傷ついてないし、毒が体に回っている痕跡もない。多少空気に舞った毒のせいで体の自由が利かなくなっているだけで、他は至って問題ない。
 だが、彼女は人が生きていくのに最も大切といっていい、『精神』が壊れてしまっていた。

 彼女がこうなる理由は想像に難くなかったが、そんなことはどうでもいい。今は彼女を安全な場所に運ばなければ、サジタリウスが牙を向けてくる前に。

 だが、どうする?

 彼女一人抱えて逃げるのはおそらく無理だ。サジタリウスがそれを許すとは思えない。
 しかし、戦意どころか生きる意義すら失ってしまっている彼女をこのままここに放置しておくなんて……。

 そのとき、彼の頭の中に悪魔が、いや、自分が囁きかけてくる。

 今、彼女をここに置き去りにすれば、自分は確実に生き残れるぞ。
 相手は真珠を殺そうとはしていなかったが、今のサジタリウスの機嫌を考えれば、彼が急に真珠を殺そうと牙を向けてきても驚けない。

 どうせ彼女は、この世界を見ていない。
 大切な人を守れず、失った世界は、色のない、灰色の世界になってしまうのをよく知っている。そのときに、この世界に自身の存在を消してしまいたくなることも。
 ならば、このまま殺してやるのもまた、情の一つじゃないのか。

「何考えてんだよ、俺は……」

 頭を振って、一瞬、出てきた考えを振り払う。
 これじゃあ、まるで変わってないではないか。

 麦を失ったときと。

 真珠はあの瞬間を忘れられなかった。
 どうして、彼女をオルクスに向かわせたのか、彼女に刃を向けてしまったのか、彼女を守れなかったのか。

 目を背けて、後悔して、ようやく、前を向いたはずだろう?

「どいてよ、スピカ――ベガだけでも片づける」

 いつの間にかサジタリウスが真珠たちの前に来ていた。機嫌が悪い様子が口調からわかる。
 ここで逃げれば命は助かる、だが、逃げるわけにはいかない。

「……俺も、馬鹿だわ!」

結界グラス』の力で琴織聖の周りに剣の防壁を即席で作り上げた後、両手に剣を生成した真珠はサジタリウスに切りかかる。

「面倒だ、スピカ――――君から先に死になよ」

 感情に任せたままサジタリウスが、真珠のほうへ、人差し指を向ける。
 すると、真珠の足元から蔓が現れ、彼に巻き付いていく。彼はそれに対してもがこうとはしなかった。

 ようやく、一本。

 体の自由と引き換えにサジタリウスの肩に真珠の剣が刺さる。
 引き抜くと、彼の体からは少量の血がしたたり落ちた。

「……オルクス様の情けでルードになった再弱の分際で!」

 剣で傷つけられた肩を撫で、自身の血を見たサジタリウスはみるみるうちに顔を赤くさせていく。
 さっさと死ね、と叫んだサジタリウスが真珠に向けて手をギュッと握りしめると、体に巻き付いていた蔓が一気に彼の体を潰しにかかってきた。

(こいつ、俺を殺さないんじゃなかったのかよ)

 ボキボキと、体の中で嫌な音が聞こえてくる。何本か骨が逝った。
 このままだと、本当にスクラップにされちまう。

 ゴホッ、とせき込むと、吐血していた。刺された個所からは大量に血が流れていく。
 油断した、オルクスの命令は絶対に聞くやつだと、高を括っていたのが間違いだったか。

 抵抗することができず、目がかすんでいく。

(こりゃ、マジで……)

 声さえ出れば頭を下げてでも命だけは勘弁してくれと命乞いをしていただろうが、ダメだ、肺がつぶされていて声も出てこない……。

 もしも、あの時、オルクスに殺されていたのが、麦じゃなくて、自分だったらこの状況は変わっていただろうか。彼女だったら、サジタリウス相手だろうと負けていなかったし、もっとスマートに事態を収束させていただろうか。

 いない人間のことを思ってもしようがないか。

 そのとき、ドクン、と心臓がうごめいた。

 彼女を望んでいたせいか、彼女の後姿がぼんやりと見えてくる。

(やばっ、幻覚まで見えてきやがった……)

 黒い袴に一つに束ねた長く美しい銀色の髪が月の光にキラキラと光り輝いており、その手には彼女の髪ほどではないにしろ、光を返す剣が握られている。その横顔は美しく、初めて彼女を見た時のことを思い出させた。

 この幻想的な光景は、あまりにも綺麗だと思う。

「久しぶりだな――真珠」

 本当に、本物、か……?

 現実離れしたその光景を前にしていたせいか、聞こえてきた言葉が初め、幻聴かと思った。
 すごく懐かしく、愛おしい声に、思わず涙していると、振り返った麦のクククッ、という笑い声が聞こえてきて、段々と現実と幻覚の区別がついてくる。

 いつの間にか蔓が切られており、真珠の体は地面の上にあった。
 そして、目の前で起こっていることがすべて『現実』ということも把握していく。

「麦……なのか?」
「あんな大切に写真を持ってくれていたのだ、忘れたとは言わせないぞ?」
「なっ、なんでそのことを!?」

 驚きながら顔を真っ赤にさせた真珠は、彼女の格好を見て、どうして彼女がそれを知っているのか理解する。

「お前……アトラスか? だけど、仮面の裏は……」
「頭蓋骨、だっただろう?」

 あっ、ああ……、と自分でもわかるほどの気のない返事をすると、アトラスさん――五月雨麦は凹凸のある懐から真っ赤な果物を一つ取り出した。確かザクロだったか、小さくかじった跡があった。

「こいつを食べるとな、一時間程度だが、元の姿に戻ることができるんだ」
「元の姿って……」

 まあなんでもいいだろう、とはぐらかすように言った麦は、真珠に向けてにこっと、魅力的に微笑んだ後、見るからに機嫌が悪化している様子のサジタリウスのほうへと向き直る。
 その顔は、姿は、昔とこれっぽっちも変わっていない。

 かつて憧れた、早乙女真珠にとって、今まだ変わらない絶対的な『正義』がそこに存在していた。

「アーク、裏切る気かい?」
「裏切るも何も、初めから私の主は早乙女真珠ただ一人だ」

 剣を両手に握りなおして構えた麦は、サジタリウスに剣先を向ける。
 その構えは昔と同じように、いや、かつてオルクスと対峙したあのときよりも遥かに綺麗なものになっていた。

 麦を見ながら、動けず地面に横たわっている真珠は昔のことを思い出す。そういえば、あのときは、毎日のようにこうやって倒れ、彼女を見上げていたな。
 嬉しさと困惑、恐怖と安堵、様々な感情が渦巻いていた真珠は、立ち上がることができずに、ただ彼女を見ていることしかできなかった。

 剣先まで彼女の集中が伝わる彼女の構えに対して、サジタリウスはすぐに動かない。

 違う、動けないのだ。いくら冷静さを失っているとはいえ、元々が慎重なサジタリウスは隙のない構えを見せる麦へ軽率に手を出すことができないでいるのがわかる。
 麦が動かないこともあって、一瞬、膠着状態が続くかのように思われた。

 だが、そのとき、倒れていた巨体がゆっくりと、立ち上がる。

「いきなり意識を取られるんだもの、あたしも驚いたわ」

 ポキポキと首を鳴らしながら起き上がったキャンサーはまずサジタリウスを、次に真珠たちを見てから、

「あら、スピカちゃんじゃない、お久しぶりね。相変わらず可愛くて良いわ」
「…………」

 真珠に向けて不気味なウインクをかましてきて、真珠はゾッとする。麦が変な目で見てくるのが、さらに彼の精神をむしばんだ。

「わかっているわね、サジちゃん?」
「ああ、アークトゥルスは『殺してもいいが、裏切らせるな』。まったく、オルクス様は難しいことを言ってくれる――まあ、それだけ僕の力と美しさを信用してくれているってことだろう?」
「そう、あの子は私たちを信頼してくれているわ――だから、」

 キャンサーが『結界グラス』を開放すると、深紅の甲羅が彼を包んでいく。月の光で頭だけでなく、体全体が光沢を帯び始める。
 それを見て、真珠は体に流れる血が冷えていくのを感じていた。

 真珠は、このオカマ――キャンサーが苦手だった。
 昔、星団会のときにマウストゥマウスでディープなキスを食らってトラウマになっていたり、オカマの集まる変な店に無理やり連れてこられたりして、彼との間では良いとは言えない思い出が絶えないのだが、真珠が彼を苦手としているのは、それだけではない。

「私たちは、あの子のために命を懸けるわ」

 ギラギラと輝くキャンサーの眼は、獲物を狩る猛獣。
 自身の主を、守るものを、そして、力を、信じて疑わない、そんな彼が真珠は苦手だった。

「蟹の甲羅ごときで私の剣が防げると考えているのか?」
「なら、やってみるかしら?」

 挑発する麦に真珠は反射的に「やめろ!」と叫んでいた。この様子だと彼女はキャンサーの恐ろしさを知らない。

 このままでは、確実に殺される。

 真珠の言葉は届かなかった。動いた麦は、キャンサーへと向かって行ってしまう。
 五月雨麦の剣の腕は、はっきり言ってわからない。少なくとも、真珠の知っている彼女よりもその実力は高くなっていると考えていいだろう。

 しかし、それだけでは足りない。

 キャンサーの甲羅の防具、『テグミン』は、ダイヤモンドよりも堅いが、ダイヤモンドのようなもろさがない。つまり、よほどの破壊力、それこそ、衝突する相手によって威力が変わるアルタイルの『フェンリル』くらいでなければ砕くことは難しいのだ。

「どうしたのかしら、全然、効いてないわよ!」
「……ぐっ!」

 麦はキャンサーよりも早く動き、一瞬、圧倒しているかのように映ったが、やはり、彼女の持つ剣では、キャンサーの防具を貫くには足りず、受け止められ、腹を殴られた。
 それでも果敢に、麦は、体をよじらせて、続くキャンサーの攻撃を回避し、何度もキャンサーの脇辺りを切り続けるが、傷一つつくことはない。

 彼女を助けなければと思った真珠は、よろよろと立ち上がるが、力が出ない。ここで、彼女の元へ行ったところで、足手まといにしかならないだろう。

 そもそも、キャンサーと真珠の『結界グラス』の相性は、最悪。
 真珠の生成した剣は所詮まがいものであり、どれほどの名刀を模倣しても形だけ、本物とは程遠い。だからこそ、真珠は同じ力を持つ父の『結界』に勝利することができたわけだが。

「まったく、僕のことを忘れてもらっては困るよ」

 そのとき、サジタリウスの蔓が地面から出現し、麦の足に絡みつく。身動きが取れなくなった彼女をまともにキャンサーの拳を受けることとなった。そんなルード二人による卑怯な攻撃に対して怒りを覚える。

「くっ……」

 地面に血を吐き、一度膝をついた麦の姿を見た真珠は、どうしようもなく、いたたまれない気持ちになり、同時に、何かが違うと感じた。
 言いようのない、形のないモヤモヤとした、でも、とても大切なことのような気がするその感覚は真珠の心に突き刺さってくる。

「くそっ、もう逃げろ、麦!」
「――それはできない」
「なんでだよ!?」

 彼女だけでも逃げてほしい、これ以上彼女が血を流し、苦しむ姿を見たくはない。それは自分自身が傷つくのよりもつらい。

 だが、麦は、言い切った。


「――私が、お前を守ると決めているからだ」


「…………っ!」

 そういった彼女の横顔は、変わらない、あの日の、オルクスに立ち向かっていった時と同じ。
 良く言えば恐れを知らない、悪く言ってしまえば愚直で無鉄砲。
 そんな彼女の背中を見て、いつの間にか真珠の頬から一筋の涙が流れた。

「どうして、そんなになってまで……」

 傷つきながらも、絶対に逃げようとしない彼女が言った言葉に、真珠はなぜか怒りを覚える。
 どうしてだろうか、こんなにも彼女が思ってくれているのに、嬉しさよりも怒りだとか苛立ちだとかの方が強いのは。

 真珠は、麦の死んだ瞬間を思い出しながら、何度も、何度も、自分の震えの止まらない足を殴る。

(なんで、なんで、俺は……)

「守る? オルクス様に生きさせてもらえている分際で、何かを守れる身分だと思わないで頂戴!」
「……がっ」

 麦は吐血し、吹き飛ばされる。キャンサーのこぶしは、鉄よりも遥かに固いのだ。どうしてその攻撃をあの小柄な体で受けられようか。
 蔓に足を取られ、目の前には分厚い装甲を身にまとった男がいるにも関わらず、麦はまだ立ち上がり、絶え絶えの声で、呟く。

「お前に、式を、壊されたからな……責任を取らせる、のだ……」

 きっと、彼女の体は、もう限界だろう。
 いったい、何本の骨が折れているのだろうか。

 臓器がちゃんと機能していないのかもしれない。
 その体からドクドクと溢れ出てくる血はどれほどの量なのか。もしかしたら、致死量に近いのかもしれない。

「そう、貴女も、馬鹿なのね」

 呟いたキャンサーが、麦の顔に、彼女の頭の何倍もあるだろうこぶしをぶつけた。そこに躊躇いはなかった。
 普通に食らえば、死は免れないほどの場所と、力。

 とうに死んでもおかしくはないはずの、キャンサーの攻撃。
 麦に抵抗する力が残されていないことも明らかだ。

「……っ! 違う、だろ……」


 だが、彼女は、倒れない。


 声は出さないし、動きもしない、息をしているのかどうかも定かではないが、彼女は確かに立っている。
 その背は、真珠を守っているではないか。

 ボロボロになった麦の姿を見た瞬間、何が違うのか、自分が何をしなければならないのか、真珠はようやく理解する。

 そう、何もかもが違うのだ。

 真珠の目の前で死に、勝手に姿を消して、生きていたというのに何の連絡もよこさない。
 何年も顔を見せずに、急に現れたかと思ったら、また自分を守って死にかけている。それはもう、自己満足といっていい。
 そんな彼女の思惑は、まったくわからないし、わかりたくもなかった。

 きしむ体を起こして立ち上がった真珠は、歩き出す。サジタリウスに刺された箇所から、血が流れているし、折れた体中の骨が痛むが、それでも、彼は足を動かしていく。

 彼女はいま、目の前にいて、一方的にその身を砕いて真珠を守ろうと立っている。
 そう、いつだって彼女は、いろんなものを押し付けてきた。人が頼んでもいないおせっかいなまでに、愛情をぶつけてきた。そこには悪気など存在しなく、好意しかないこともわかっていた。それを真珠は当たり前のように、もらってしまっていた。

 だからこそ、彼女は何もわかっていない。


 与えられるだけ、それがどれだけ辛いことなのか。


「終わりにしましょ、アークトゥルス」

 キャンサーがとどめと言わんばかりに、麦へ殴り掛かる。対して彼女はもう、立っているだけで一杯のようだった。

「どけ、そこはお前の場所じゃねえ」
「……真珠っ!」

 真珠は五月雨麦を片手で突き飛ばす。
 しかし、キャンサーの攻撃が止まるはずもなく、麦の位置に来た真珠へとその拳が迫ってくる。
 それに対して、真珠がとった行動といえば、一つ、向かってくる拳に向けて左手を向けただけだった。

「――『極刀の世界』」

 真珠がつぶやいた瞬間、彼の腕から無数の刃が、湯水のごとく吹き出てくる。
 刃はキャンサーの腕を包み込み、その勢いを完全に殺した。

 真珠の得体のしれない攻撃に対して、刃の渦から腕を引き抜いたキャンサーは距離をとった。
 サジタリウスとキャンサーを見た真珠は、二人のルードに向け、宣言する。

「悪いけど、俺、最弱辞めるわ」

 五月雨麦の後ろにいたときは止まらなかった震えが、彼女の前に立った今、止まっていた。
 麦ほどではないが、すでに真珠の体もボロボロで、本来であれば、意識が飛んで倒れてもおかしくない傷であったが、体の痛みはあまり気にならなかった。

「ぷっ……くくくっ、最弱を、やめる? 本当に面白い事を言うね、君は」

 真珠の言葉に対して、噴き出して笑い始めるサジタリウス。一方キャンサーは、眉一つ動かさない難しい顔で、真珠の方を見ていた。
 後ろにいる五月雨麦と琴織聖の呼吸が聞こえてくる。そして、目の前にいるルード二人の呼吸も正確にわかる。
 血の付いた自身の手を見て、ぎゅっとこぶしを作ってみると、キラリと指についた指輪が光った。

 不思議な感覚だった。
 大切な人が後ろにいて、それを守る力がある。
 それだけ、たったそれだけのことなのに。


 正直、負ける気がしない。


「かかって来いよ、変態ども」
「まったく、美徳感覚が崩壊しているだけでは飽き足らず、力の差までわからなくなってしまったなんてね、少し痛めすぎたせいで頭がいかれてしまったようだ。本当に、不憫な男だ」
「御託はいいから、さっさと来い」
「――『パピルサグ』!」

 真珠の言葉にキレたサジタリウスが大量の蔓で真珠に襲いかかってくる。蔓に捕まってしまえば今度こそただでは済まない。ここまで彼を怒らせてしまったのだ、命までは取られなくとも、五体満足というわけにはいかないだろう。

 しかし、真珠は動かなかった。
 理由は簡単、彼の後ろには守るべきものがあったから。
 逃げるわけにはいかなかった。

 一方で、逃げる必要もまた、なかった。

 蔓が真珠を包み、覆い隠した。攻撃はまともに当たり、蔓は彼の体を貪り食っているかのように見えた。
 サジタリウスは高らかに笑った、それは当然勝利を確信したからである。

「こうなってしまって残念だけどね、僕の力を知りながら向かってきた君が悪いんだよ。臆病な君らしくない、美しくない選択だったね」

 勝利の宣言をした次の瞬間、サジタリウスの顔から笑みが消えた。

「――せねぇ」

 サジタリウスが見たのは、人型の、化け物だった。
 化け物、そう表現するしかない。全身から刃が突き出て、肌を覆いつくしており、その刃一つ一つが彼そのものであり、彼の『結界』における最強の切れ味を持っていた。
 真珠が少しでも動くと彼の体に触れている蔓がまるで豆腐のように切れていく。自分の作り出した蔓がこうも簡単に切られていくのはサジタリウスにとって生まれて初めてのことだった。

「なっ、なんだというんだい、その姿は!」
「――絶対に、殺させねえ!」

 目の前の刃の化け物が早乙女真珠だとかろうじてわかるのは、声と、その刃から見えている唯一の人の体である目であったが、その目さえも、真っ赤に染まっており、今の彼が今までと同じ、普通の状態ではないというのがわかる。
 その姿に青ざめたサジタリウスは初めて後退した。その顔にはいつもの余裕じみた笑みも、余裕も感じられなかった。

「理解できない、美しくない、僕は認めない!」
「……サジちゃん、ここは退きましょう」

 そう叫んでなお、追撃をやめようとしないサジタリウスの手を取り、撤退の提案をしたのは、キャンサーである。
 彼の判断に対して、真珠は正直意外だった、というのも、真珠のこの姿はあくまで『結界グラス』を使ったものであり、まとう刃も力以上のものは出せない。本来であればキャンサーの甲羅を打ち砕けるような力ではないのだ。

「馬鹿を言うなキャンサー、僕たちはまだ戦える、退く理由がない!」
「だからこそ、よ。アークトゥルスはあの様子だと問題ないでしょうし、ベガなんていつでも殺せる。あたしたちが五体満足で帰還しないと、次にアンタレスが動いたとき、あの子を守り切れないでしょう?」
「だが、僕は――」

「黙っていうことを聞け、サジタリウス」

「…………っ!」

 キャンサーの発した野太い声に気おされたサジタリウスはそれ以上何も言わずに口を閉じた。このおっさん、ただのなよなよしたオカマだと思っていたが、伊達に都市は積み重ねてはいないらしい。
 忌々しそうな顔を向けてきた後、ふん、と言ってサジタリウスは先に背を向ける。
 一方、キャンサーは立ち止まり、真珠のほうを向いて、やけに穏やかな口調で告げる。

「良いことを教えてあげる、スピカちゃん。貴女の可愛い彼女さんは、今、オルクス様と契約しているわ。その命はあの方が握っているといっても過言じゃない」
「おい……どういう意味だよ、それは!」

 相手の攻撃意思がないと考えた真珠が刃を消し、キャンサーに向けて叫んだが、「また会いましょ」とだけいって不気味にウインクしたあと、キャンサーは真珠の言葉を無視するかのようにその場から消えていった。

 キャンサーを追う気力が残されていなかった真珠が、押しかかってきていたプレッシャーと疲労で乱れた息を整えてから、すぐに倒れている二人の少女のほうを向いて、その安否を確認する。

 琴織聖は……どうやら、気絶しているだけのようだ。外傷はないし、息も正常だ。精神的に相当まいっていたようなので、気を失っているのは好都合といえた。放っておけば、自ら死を選びかねない。

 それよりも、だ。

 五月雨麦、彼女は体のいたるところから血を流し、骨もいくつ折れているのかわからない。使っていた剣は刃こぼれを起こしており、それ以上、動ける体じゃない。どうして、今でも立っていられるのか、不思議なほどの傷。

 彼女に近づくのは躊躇われた。彼女にかける言葉が見つからない、あまりにも時間がたちすぎているのだ。
 放っておくわけにはいかないとわかってはいるものの、足が動かない。

 軽く深呼吸した真珠は、一歩、前に出た。すると縛りから解放されたように、両の足が一歩、また一歩と動いてくれる。
 それでも、言うべき言葉が見つからずに、彼女の前までついてしまう。

 自分は彼女に向けてなんといえばいいだろうか。

 ありがとう?
 ごめんなさい?
 それとも、おかえり、か?

 言葉を言いあぐねて真珠が麦の前で頭をかいていると、麦の体が揺れる。
 寄りかかってきた彼女を慌てて受け止めた瞬間、真珠はすべてを悟った。

「お前……」

 命のやり取りをする場にいる以上、医学を学んでいなくとも、わかっていなければならないことがある。どの程度の傷を負っているのか、命に別状はないのか、そして、あとどのくらい持つのか。
 驚くほどに軽い彼女の体を抱きしめた手が震える。瞬時にわかってしまったこの事実を真珠は受け入れることができなかった。

 彼女はもう、手遅れの状態だ。

 外部からの衝撃で、内臓がつぶれている。ほかの臓器だって、機能していないものがある。今まで立っているどころか、生きていること自体が奇跡のような状態だった。
 頭が真っ白になる。何を言えばいいのか、まとまりかけていたものが、再び散文する。

「バカ野郎……」

 だから、彼がこんな言葉を発したのは、無意識だった。

 あれだけ散々に後悔したはずだろう、どうして、またこうなる。
 何も学んでない、成長してない、馬鹿なままだ。
 自分は今まで、何をして生きてきたのだろうか。

 彼の抱く少女は、あの時変わらない姿をしていたが、その体は、あの頃に考えていたよりもずっと、小さくて、ずっと、軽い。
 重いものなど、とてもじゃないが、乗せられない、そんな体に、ずっとこいつは……。

 あふれ出てくる涙は止まらない。
 悲しくて、悔しくて、情けなくて、自分がどうしようもなく思えて、苦しかった真珠の頬を、そっと小さな手が触れる。冷たくて、でも、言い表せないほど愛しく温かい手だった。

「泣くな、真珠」

 なんで、こんな傷でまだ、相手を慰めていられる。そんな顔で笑っていられるのだ。
 彼女は、あまりにも強すぎると思った。

 消えていく命の中、麦は、涙を目にため、悲しそうに、静かに言う。

「ごめんな、また、私は。お前を……守れなかった」
「……なんだ、それ」

 心に言葉が突き刺さる。
 なんで彼女は、すべて自分のせいにしたがる。どうして、一言だって攻めてくれない。

 その瞬間、自分の言いたいこと、言わなきゃいけなかったことが、明瞭になる。

「違うだろ! その言葉だけは、違う!」
「……違わない、私は、お前を、守れなかった、結局、お前は自分自身で、切り抜けた」

 本当に情けない、とつぶやく麦に怒りを覚え、真珠は、彼女に怒鳴っていた。

「お前はバカか―――逆なんだよ!」
「逆……だと?」

 今の戦いのように、早乙女真珠が、五月雨麦の前にいることが、特別なのではない。
 まったくの逆なんだ。

「俺は……俺が、お前を守らなきゃいけなかったんだ。ずっと、そうでなくちゃいけなかったんだよ」

 ずっと、前を歩いていた少女。
 早乙女真珠は自分でも知らないうちに、彼女に守られるのが当たり前だと思っていた。それが、変だと一度たりとも疑ってこなかった。きっと、彼女もそうだろう。

 だが、それこそが間違っていたのだ。


「守れなくて、ごめん!」


「…………っ!」

 真珠の大粒の涙が、彼女の頬に落ちる。それ以上は嗚咽で声が出なくなる。

 あのときも、結局、麦は真珠のために死を選んだ。それも、彼を傷つけない最善の選択で。
 思えばあの時だった、この感覚が芽生えたのは。
 この感情の意味を、彼女の死とともに、消してしまっていた。考えようともしなかった。
 本当に、愚か者だった。

「どうしてだ……」

 真珠のことばに対して、震える声で麦がいう。彼女の目からも、涙が流れていた。
 そして、彼女の声が響く。


「どうして、もっと早く行ってくれなかったの……真珠!」


 その声は、今で麦の喉から聞いたことのないような声だった。真珠の理想像だった一人の剣士のものではない。
 この容姿に見合う、どこにでもいる一人の少女のものだ。

「バカ、真珠がもっと早く言ってくれれば、私はもっと――」

 言葉が全部吐き出せなくなった麦は、真っ赤な顔で、まるで子供のように泣き始めた。その姿は、どこまでも、可愛らしくて、驚いた。
 涙を流す彼女の顔が見られなくて、目を知らした真珠は、麦の体が徐々に消えていっているのにようやく気づく。

「お前、体が……」

 彼女は自分の体の状態がわかっているようで、寂しそうに微笑むだけだった。

「私、ちょっとだけ待ってるから――だから、真珠はやらなきゃならないことを、ちゃんとやって来て」
「おい、お前――っ!」

 真珠の言葉など聞こえているのかわからないくらいに、相変わらず一方的に話を押し付けてきた五月雨麦は、にっこりと笑う。それは、今まで見てきたどんなものよりも美しく、愛おしく、それでいて、切なかった。

「またね……バイバイ」

 麦は消えていく体を動かし、ギュッ、と真珠を抱きしめてきた。すでに下半身はなく、上半身も、少しずつ消えて行ってしまう。
 抱きしめ返そうした真珠の手が空を切った。もう、彼には触れることも、許されていなかった。

 何も言わせてくれない、自分の言いたいことを一方通行に言う。こればかりは、昔からそうだった。
 だから、引き留めないのをこらて、真珠は唇をかみしめ、握ったこぶしをほどき、その時間を彼女に捧げる。

「――大好きだよ」

 耳元でそっと囁かれた言葉に、「俺もだ」と静かに返すと、真珠の体から心地よいぬくもりが完全に消えた。


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