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光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

毒漂う戦場で少女は出会う

 流れている雲の数を数える。
 一見無意味なことをしているそれは、いろいろと考えをまとめるにはちょうど良い方法なのだ。

 だからこそ、飛鷲涼とびわし りょうは今日も教室の窓側最後尾の席で雲の数を数えていた。
 晴天の本日はとても数えやすく、真っ白い雲をどこに書き留めることもなく、ただただ数える。
 ここで好きな男子のことなどを考えるといかにも乙女チックなのかもしれないが、彼女には好きな人はおろか、男女間の恋愛経験は皆無であるため、何がおもしろくて男なんか考えなくちゃいけないのか、という考えの持ち主である。

 ここで涼のことを少し説明すると、年は十六、高校二年生で性別は女、少しだけ青が含まれた黒という少し珍しい髪色で、その髪型はクラウンハーフアップと言われる、三つ編みが花冠に見えるような髪型である。父母共に日本人で、背丈は平均プラス4、5センチで、好きなことは運動で、嫌いなことは勉強。
 本来活発である彼女だが、こうやってぼんやりとするのは嫌いではなく、むしろ好きで、暇さえあれば空を見ている。

 ただ、彼女の見ているのは本物の空ではなかった
 彼女の藍色の目に映る『空』は『雲』は『太陽』は本物ではなく、全て巨大な大画面に映った文字通りの虚空である。頭上三キロメートルほど上にある大規模なビジョンといえば正しいか。プラネタリウムみたいなものだ。

 なぜそんな電力の無駄遣いも甚だしいことをしているのか、それは、ここがそもそも地上ではないことで説明が付く。
 ここは地上から十キロも下にある地下空間なのだ。
 もう百数十年も前、涼のご先祖様たちである人類が核戦争を起こしたせいで、地上は放射能が蔓延し、住めない場所になってしまったため、人類は揃って地下へと移住したのだ。それが、もう百数十年も前の話。

 しかし、地底と言っても不便なことはなく、教科書通りだと地上と比べても変わったこともないらしい。プレートの固定を成功させたため、地震は起きなくなったし、戦争の名残が残っているのか、外国には行けるようになっていないのだが、国内ならばどこへでも簡単に行くことができる。
 雨も雪も降れば、植物も光合成をしているし、食糧難になったことなんてない(まあ、昔はあったみたいだが)。
 ただ、聞くところによると少しだけ昔より住居移転が面倒になったみたいだが、それで困るのは引っ越しの多い家だけだし大した問題ではないだろう。

 昔までは都道府県で分けていた日本も、旧地名は教科書だけでしか出てこない。この地下の大きな空間は日本だけで全部で十二個あり、一から十二までのバーンとして数えられている。
 彼女がいるのは日本地区第9バーンと言う場所で、ここ天井の上は東京、千葉、埼玉辺りになるらしい。
 各バーンの中心には地下から地上へ続く巨大なエレベーターが存在しており、その大きさは直線距離で十五キロはあるというのに、涼の教室からもよく見えるほどには大きい。
 雲を見るのに飽きた涼が大きな欠伸をしていると、教師がジロリと睨んできたが、幸いなことに何か言われる前に授業終了を知らせる音が響いてくれた。



 休み時間になると、教室は中々に賑やかになる。
 友達と談笑している者が多い中で、飛鷲涼は一人で未だに空を見ていた。
 彼女に友達がいない、というわけではないのだが……。

「今日も空を見ているのか、よく飽きないことだ」
「ああ?」

 涼は自分でも女子らしくないと思った返事の仕方だったが、相手は特に気にした様子もなく、涼の前の席に座り身体を向ける。
 何の断りもなく涼の前を陣取った、レッドフレームの眼鏡をかけて、凛とした雰囲気を持っている背の高い茶髪の男の名前は夏目翔馬なつめ しょうま

「今日は何人に告白されたのだ?」

 わくわくした様子で聞いてくる翔馬。彼は涼にとって幼馴染であり、数少ない友達と言ってもよいポジションにいる人物だ。ちなみに髪色は生まれつきらしい。
 涼は、空を眺めたまま、うんざりと言った様子で、「一人よ」と言う。

「それでOKしたのか? もしかして放課後デートとかいくのか?」
「するわけないじゃない」

 わかっているくせに茶化してくる翔馬につい声をとがらせてしまう。しかし翔馬は別に気にしていない様子で、

「まったく、俺はそんな女に育てた覚えはないぞ」

 今まで空を眺めていた涼が、バンッ、と机をたたいて、

「私だってあんたに育てられた覚えはないわよ!」

 そんな涼の声が教室中に響いてしまい、視線が一気に集まる。コホンッ、と咳ばらいをした涼は座り直し、

「大体何で毎日聞いてくるわけよ、私のこと好きなわけ?」
「そっ、そんなわけがないだろう!」

 翔馬は少し動揺したが、澄ました顔が大きく崩れることはなかった。

 そう、このやり取りは毎日のようにある。
 ちなみに、告白される頻度というのは、告白などそう何度もされることはないはずなのだが、見た目が良いせいか、さらに同じ人に何度もされることもあるので、三日に一度は必ずあるといった感じだ。

 それを毎日興味深そうに翔馬は聞いてくるのだ。
 咳払いをした翔馬は、動揺により少しずれた眼鏡を直して、

「毎度言っているように、俺はな、いわゆる百合愛好家、百合男子という人種なのだ。だから、お前のような貴重なリアル百合製造女子のことは陰ながら見守ったりはするが、惚れたはったは、たとえ人類が絶滅の危機に瀕しているとしてもないのだ」
「ごめん、意味わからないわ……」
「つまり、だ。俺はお前の恋を応援こそするが、俺がお前に対して恋愛感情うんぬんはありえないということだ」

 翔馬の言っている言葉の意味がわからないのは自然なことだ。そんなことを理解しようと時間を使うくらいなら、ネコ派イヌ派で討論していた方が何十倍も有意義だ。

 まず、彼の言っていることを説明する前に、飛鷲涼、彼女の今の境遇について、というか体質について、説明しなければならない。
 彼女の悩み、それは人によれば喜ぶかもしれないが、彼女にとっては犬に食わせたいほどにいらぬしろものである。

「あんた、私が告白されないのを知った上で言っているのよね?」

 もう一度眼鏡を直した翔馬は「もちろん、だ」と言う。その表情は『当たり前だろう』と言っていた。

 飛鷲涼にとって人生最大の悩み、それは『異様なまでに女子にモテる』ことである。

 もちろん、告白してくる中には男子もいるが、そのほとんどが彼女持ち。つまり、彼女が涼に惚れたから別れてしまう前に涼と付き合い、あわよくば『両手に花』を狙っている不届きものがほとんどなのである。

 思い返してみれば、昔からそうだった。小学校高学年の時に席が近くなった『かのんちゃん』は涼も気づかぬうちにみるみるうちにフラグが立っていき、小学校卒業式に告白されたことを皮切りに、中学、高校と知り合ったほとんどの女子に告白され、初めは友達として接してくれても結局いつの間にか好きになっていましたというオチが待っているのだ。

 一度、恋愛感情に発展したらもう戻ってきてはくれないのか、中々友達ができないという状況で今に至るというわけだ。

 翔馬曰く『リアル百合製造女子』だとか『ガチ百合メーカー』。ちなみに、『百合』というのは女の子同士の恋愛を指し、それに燃え…いや、萌える夏目翔馬のような男子を『百合愛好家』だとか『百合男子』とかいうらいしい。

「っていうか、私いつの間にかあんたのせいでいつの間にかいらぬ知識を植え付けられてるじゃないのよ!」
「別に良いことではないか、友達を超えるにはまず『自覚すること』からだ。自覚するには情報が必要だからな」
「毎度超えちゃうから私は友達がいないのよ!」

 悩みを爆発させたところで、授業開始の鐘が流れた。休み時間、馬鹿に付き合ってしまったことを多少後悔しながらも、休み時間に純粋な『友達』と話せる機会と言うのはこの時ぐらいしかないため不本意ながら満足した涼であった。



 結局、今日も体育の授業などの移動教室のとき以外はほとんどずっと自身の席にいたままで、全ての授業が終わった。
 雲の数を数えているうちに一日が過ぎてしまったことについて、悔いもない涼は人が少なくなるのを待ってから下校をすべく机に張り付いていた。

 この頃は自身の体質を理解し、男女ともにあまり関わらないようにしてきた涼だが、学校内には彼女とのしこりが残っている人が少なくないため、顔を合わせないように下校するタイミングを意図的にずらしているのだ。

 放課後といっても夏日であった今日は、非常に暑く、机に突っ伏していても眠気よりも不快感の方が勝ってしまい、非常に無意義な時間である。

「……といっても、寮生活だから特に帰ってもやることがあるわけじゃないんだけどね」
「帰らないで何をどうでも良い独り言を言ってんだ」
「そういうあんたこそ、いつもはすぐ帰るのにどうしたのよ」

 涼を見下ろすように立って居たのは、ボブカットの金髪に碧眼、おまけに童顔と言う狭い層に非常に人気の出そうな風貌の少女――ではなく、少年がいた。一見、女にしか見えないが、女子にしては少しばかり高い身長と、微妙な喉の膨らみが男装している美少女だという意見を否定していた。

 この男の娘の名前はアドルフ・リヒター。両親ともにドイツ人なのだが、百年以上も海外に行けていない日本で純潔の外国人は珍しいように思える。彼の両親は共に日本生まれ日本育ち、おまけに国籍も日本なので、もはや見た目以外は完全に日本人なのだが、その家系にはドイツ人以外の血が入っていない。家規則ではなく、恋愛結婚らしいのだが、かなり珍しいケースなので、学校でも有名な人物だ。ドイツ語は話せるらしいのだが、彼に口からは聞いたことがなかった。

「俺は日直なんだ。全員が返った後に戸締りおよび教師への報告する役割があるんだよ。
「もう一人はどうしたのよ?」

 涼が聞くと、アドルフは無言で握った拳から突き出た親指を黒板へと向けた。
 通常、日直の業務と言うのは二人でやるものだ。こんなかわいい女の…男の娘を置いて帰ってしまうのはどこのどいつだと思いながら見ると、

『 日直 飛鷲 涼 
        アドルフ・リヒター 』

「…………ごめん」
「さっさと手伝えよ」

 日直など月に一度あるかないかくらいの頻度のことなので忘却していた。そういえば昨日何か言われていたことを思い出す。
 女子に誤解されやすいアドルフは、口調をわざとぶっきらぼうにするとか男らしい(?)部活である剣道部にはいるとか涙ぐましい努力をしているが、周りは一向に『男ぶっている女子』という認識を改めない。

 ゆえに、涼とは逆、彼は女子よりも遥かに男子にモテている。
 当然、彼にはそっちの気はなく、涼と同じように悩みが多いみたいなのだが。
 しかし、机の整理をしながら、それ以上何も言ってこないアドルフは周りが思っている以上に紳士のような気がしたのであった。



 放課後の日直の仕事といっても、二人でやれば数分で終わるもの。帰り支度と日誌を書いたアドルフと涼は教室を出た。

「そういえば、リヒターっていつも誰よりも早く帰るわよね。どうして?」
「教室に残っていたら他のクラスの色目使う男どもが雪崩れ込んでくるからだ、あと、帰りにいろんなやつと廊下で出会うのも面倒なんだ」
「ああ……あたしと似たような理由ね」

 人気の少ない時に帰ろうとするという点では同じだが、何もしなければ教室まで押しかけてくる、というのは男子と女子の差だろうか。

「でも、今日は残ったのよね? そんなに騒がしい気がしなかったけど」
「休み時間のうちに教室回ったからね、黒板も消さないといけなかったし、毎度毎度日直は本当に大変だ」
「軽く皮肉るのはやめなさい」

 ぐりぐりとアドルフの頭を拳で押し込む。同じクラスながらあまり面識の厚くない彼女……彼とこんなスキンシップができるのはやはり、彼が女子にしか見えないからだと思った。
 やたら夕日が差してくる廊下を歩きながら、アドルフとこうやって二人で歩くのは初めてであることに気づく。

 そもそも男子と一緒に歩くということ自体、(翔馬を除けば)人生で数えるほどの経験しかないため、涼は第三者から見れば今の状況がどういう風に映るのか非常に気になった。

「ねえ、私たちってどういう風に見えているのかしら?」
「本命は女友達二人、対抗に姉妹、穴に親子ってとこだろ」

 姉妹まではいいとして、親子はあまりにもひどいような気がする。

「かっ、カップルには見えないのかしら?」
「なっ……!」

 絶句して、白い肌を紅潮させていくアドルフ。
 男女なのだからその回答があってもよいはずと思いながら、口に出した涼もまた自分の言葉を聞いて意味を段々と理解していくにつれて恥ずかしくなり顔が赤くなっていった。

「ばばば、馬鹿言うな! 外面は仕方ないにしろ内面まで女になる気はない!」
「どういう意味よ!」

 恥ずかしいと思った気持ちが一瞬で吹っ飛ぶような発言である。
 全く失礼な、などと呟いていると、廊下の向こう側から、一人の女子が歩いてくるのが見えた。

 少女を見た瞬間アドルフの表情が、ほんの一瞬だが、すごく怖いものになったような気がした。
 そのせいもあり、珍しく少女に興味を持った涼は、向かってくる少女を注意して見る。

「…………っ!」

 涼は、少女の、その『美』を形にしたような容姿に涼は一瞬立ち止まりそうになりなった。

 藍色の多少地味に映る制服に身を包んでいるのは、色素のない、銀か白髪にも映る長い金髪に、人間とは思えないほどに透き通るような白い肌とブラックホールのように見た者の心を吸い込んでいく魅力的な茶色の瞳。右手人差し指には赤い宝石のついた指輪。きっと、彼女を見た男女は百人中、百二十人は『美少女』だと即答するだろう。
 その身体は小学生だと言われても疑問に思わないほどに小さかったが、雰囲気は年上には思えても年下とは思えないような不思議で、どこまでも魅力的な少女であった。

 一瞬目があったような気がした。いや、その眼は確実に一瞬だが涼を射抜いていた。
 少女とすれ違う、脳を刺激されるような匂いが肩もとに残った。
 少女との距離が空いたところで立ち止まった涼は、ゆっくりと振り返る。そこにはすでに少女の姿はなかった。

「今の、は……」

 止まってしまった涼を気にせずに数歩だけ歩いたアドルフは、やれやれといった様子で涼の隣まで戻ってくる。

「二年四組、琴織ことおりせい。品行方正、成績優秀。それだけで漫画に出てきてもおかしくはないっていうのに、あの小柄な体躯。小さなお友達から大きなお友達まで幅広い層に人気がある生徒だよ」

 琴織…聖、その存在を今まで知らなかったのが不思議なくらいに、体の中にすー、と入ってくる名前であった。
 高校生になってから、積極的に教室の外に出ていたのは最初の三か月ほど、それから今まで一年以上自分の机の上に引きこもり状態だったせいか。

「確かに目立つ子だけど、良く知っていたわね」
 知り合いだったら、挨拶ぐらいしたはずだから、面識はないのだろうが。

「俺はこう見えて美少女が好きなんだ」
「それは、自画自賛と受け取って良いのかしら?」
「俺は男だよ!」

 誰よりも可愛らしい容姿をしているくせに、とか言うとまた怒るので涼は口をつぐんだ。

 この後、涼はアドルフと共に職員室へと行き、教師に日誌の提出をしたのだが、その間中、廊下ですれ違った琴織聖という少女のことが頭から離れなかったのであった。
 まるで自分の遺伝子が何かを伝えてようとしているかのように。



「お帰りなさい、せ・ん・ぱ~い」

 寮の部屋に帰ってきた、飛鷲涼は、部屋の扉を開けた途端に突進してきた少女を回避できずに勢いそのままで抱きつかれていた。

「ちょ、離れなさいよ、葵!」

 涼が引きはがそうと肩に手をかけて引っ張るが、少女は離れる気配がなかった。

 彼女の名前は長峰ながみねあおい。涼とは一つ下の学年のルームメイトである。
 燃える様に赤く長い髪は器用にツインテールにしており、後輩だというのに涼よりも遥かに強大な胸を持っており、その眼は髪と同じ真紅である。入学式の日に、泥を飛ばしたとかで同じ学年の男子相手に喧嘩をおっぱじめるほどには好戦的な少女だ。

 彼女との出会いというのは、物凄くベタな話になってしまうのだが、入学式の放課後、涼の行きつけの店が立ち並ぶアーケード街の路地で不良と言い争っていたところに、偶然出くわしてしまったところから始まる。
 この話、涼が不良たちをブッ飛ばして葵を助けたのなら非常にシンプルなのだが、涼は不良たちに謝り許してもらって退散した。これなら、フラグは立っていないだろうと油断していたのだが、彼女は涼の行動のどこがお気に召したのか、ベタベタとまとわりついてくるようになったというわけだ。

「そろそろ離れてほしいんだけど……」
「ダメです! 葵は大好きな先輩の匂いをチャージしないと動けなくなってしまうのです!」

 葵を引きずりながら涼は室内に入る。この寮はやたら金をかけているため、住人二人につき部屋は、二段のベッドが一つと勉強用の机が置いてある寝室、テレビとソファの置いてあるリビング、バスとトイレまでついている。キッチンはとても小さく電気コンロが1つあるだけという簡素な作りだが、休日以外食事は寮で出してくれるし、大して困りはしない。

「大好きな先輩の汗の匂い~、最高です!」

 一向に離れてくれない葵というおもりを背負いながらもどうにかソファまで来た涼はエアコンのスイッチを入れる。冷たい風に煽られながら火照った体を少し覚ます。
 結構広い部屋だというのに、唯一の同居人とは密着状態、これにもいつの間にか慣れてしまった涼は自身の適応能力の高さを痛感する。

「あっ、先輩、ちょっと待っていてくださいね」

 ベタベタとくっついていた葵が何かを思い出したように離れて寝室へと駆けていく。
 ようやく軽くなった涼は、冷たい飲み物を飲もうと、廊下に出て冷蔵庫から赤い缶の炭酸ジュースを取り出して、その場であけて飲む。

「ぷはぁ……生き返るわ……」

 会社で働いてきたサラリーマンの帰宅後の一杯の意味を勝手に分かった気になってあっという間に飲み干すと、リビングに戻ると、

「お帰りなさいセ・ン・パ・イ! ご飯にする?お風呂にする?それとも…ア・オ・イ?」
「お風呂入ってくるわ」
「なら、葵も入ります」

 そう言ってついてくる葵を締め出して、風呂場のカギを閉める。唯一無二の憩いの時間をストレス果汁百パーセントの時間にしたくはない。

 ここでの入浴の作法、服を脱ぐ前に、まず、脱衣所を見渡さなければならない。

「……案の定か!」

 隠しカメラがすぐわかるところに三台。盗聴器が二つ。それらを取ってタオルにくるんでおく。毎度のことなのだが、よくもまあ、懲りずにやるなと思う。
 遠くから、葵の悲鳴が聞こえた気がした今日の涼の入浴時間であった。



 この世界は偽りに満ちている。
 それは、気温についても例外ではなく、地上でどんなに太陽の光が降ろうとも、地下で住む涼たちには本来ならば関係ない事柄なのだ。

 しかし、余計なお世話と言うのが好きらしい権力者たちは莫大な電力を使ってこの地下空間を地上と同じ温度にいつも調節している。
 そのせいで苦しむのは住人だ。なんで人工的に暖められた空間で夏を感じなければならないのか、地下の大規模な暖房を止めれば済むことなのに。

「とまあ、地上に出たことがない私からしたら、地上の方は本当にここまで暑いのかということよ! そこには絶対人間の大好きな『盛り』の要素があるはず!」
「そんなこと知りませんが、それよりも先輩に見てもらいたいものがあるのですよ!」
「意外に冷たいわね、葵」

 現状を簡単に説明すると、涼が風呂上りの火照った体をリビングの冷房の真下で冷やしながら、世の中の理不尽な部分について空しく演説しているところで、全くスルーを決め込んだ後輩が自身の『見てもらいたいもの』を出そうとしているところだった。

「じゃーん、これ見てくださいよ!」

 体の後ろに隠していたのは一枚の紙であった。賞状ほど良い紙質ではなさそうだが、そこらへんでどこでも買えるような紙ではないということだけ伝わってきた。
 涼の表情が変わったのは、その紙の最初の一文を読んだ時だった。

「それ……もしかして『推薦状』?」
「当たりです!」

 葵の持っている『推薦状』とは、全国から無作為に選ばれた『開拓者』にのみ届けられる書状で、毎年一月、三月、七月、九月、十一月の五日に届けられるものだ。
 核戦争後から百年以上たった今、世界中には放射能の濃度が低い土地が出てきた。それはこの日本にもいえることで、国は少しずつだが、地下から地上へと人間を送っている。
 葵の選ばれた『開拓者』というのは、その地上へ行く人間のことだ。毎年、十七歳以上三十歳以下の人から国が無作為に選ばれ、選ばれた人間は半ば強制的に地上へ出される。

「随分喜んでいるわね、地上がそんなに良いかしら」
「嬉しいに決まっていますよ! これで葵の念願の夢がかなってしまうわけですから!」

 よほど嬉しいのだろう、その場でルンルン、といった様子でステップを踏む葵。

「夢って?」
「それはもちろん、先輩と一緒に本物の星空を見ることです!」

 当然、この地下世界でもプラネタリウムのような星空が見られる、のだが、本物を見たことがない涼たち地下の住人にとっては地上から見える、宇宙へと繋がっていく本物の空は一つの憧れであり、毎年行われる『生涯一度でいいから恋人と見たい景色』の路上調査ではもう十三年連続で一位に輝いている。
 それ故に、葵の言う『夢』は別におかしなことでないとわかっているのだが、涼はすぐに引っ掛かりを覚えた。

「良い夢ね……って、それは私も一緒に行くってこと!?
「もちろんです!」

 満面の笑みを向けてくる葵。
 彼女の持つ『推薦状』には、知り合い二人まで一緒に連れていける効力を持っているが、良く考えてみれば、葵の両親はすでに他界しており、帯同者など少し考えればすぐに分かったはずだ。

 涼にとっても、悪い話ではなかった。地上に興味がないと言えば嘘になるし、涼もまた、『主な親類 名前しか知らないおじ』なので、ここを出ることにも何の問題もない。

「ごめん、二つ返事では答えられないわ」

 ただ、住み慣れたこの土地は思いのほか離れがたいというのも、もちろん、大きな理由の一つになるのだが、それ以上に、飛鷲涼には、この第9バーンでやり残していることがあるのだ。
 長年かけて追い求めているもの。それを得るまでは地上へ行くという選択は考えられなかった。

 涼の答えに、一瞬、失意の目を覗かせた葵だったが、すぐに笑顔を作って、

「そっ、そうですよね。いきなりでしたし……まだ、時間はありますし……」

 どちらかというと、自分に言い聞かせるように言った葵は、えへへ、と笑っていた。
 その様子を見て、少しだけ胸が痛んだが、涼はすぐに考えを変えるつもりはなかった。

「あっ、それなら、明日のお祭りに行きませんか? 七夕祭り」
「ええ、いいわよ」

 葵の沈んだ声がすぐに高くなり、笑顔が戻ったので、安心した。
 でも、葵の笑顔の裏には影がある感じがして、何か自分にできることはないかと涼は無意識のうちに考えた。

「ちょっと待ってなさい」

 葵にそう言った、涼は寝室にある自分の机から、小さな箱を取り出し、すぐに彼女の元へと戻ってくる。

「これを、貴女に預けるわ」

 それは銀の鎖のペンダントであった。青色の、おそらくはサファイアか何かの宝石がついた指輪がつながっている、ペンダント。一応、母の形見だったと思うのだが、渡された記憶が曖昧で、定かではない。

「いっ、いいんですか? こんな高そうなもの……」
「預けるって言ったでしょう? 今はまだ決心がつかないから、すぐに地上へ行くとかはわからないけど、私もいつか必ず地上へ行くわ。その時、向こうで会った時に返して頂戴」

 高そうなものだが、それだけだ。亡き母の形見はこのペンダントだけではない。この身の他にもまだ、もっと思い出深い物を多く持っている。だからというわけではないが、離れ行く可愛い後輩に預けるのも良いのかと思った。

「はい! 命よりも大事にします!」

 葵は膝をついて頭を下げている。そのさまは、まるで王様から爵位をもらった元一般人のような大げさな動作であった。

「まあ、今はとりやえず、明日の祭りの準備でもしましょうか」

 そんなわけで、その後、明日何を着ていくかという話になり、二人で浴衣を選んだのであった。



 この地下世界は一見平和に見えるかもしれないが、当然『悪』も存在する。

 確かに、全人類が地下へ下ったことにより、国家間の経済落差は大分解消され、昔よりははるかに治安が良くなったといえる。一方で、強盗や強姦、殺人なども世界のどこかで必ず行われているのも事実。悪を根絶やしにすることなど人間には不可能なのだ。

 そんな中、地下世界には『絶対悪』とされる一つの組織があった。

 名前は『リベレイターズ』、つまり、自称『解放軍』というわけだが、やっていることはただのテロ活動だ。
 毎年何百と言う人間が拉致され、洗脳されていく。そして、洗脳に失敗した人間はことごとく殺すという。
 百年前に地上を闊歩していたテロリストたちとの差は、逆らうもの以外は必ず『洗脳』し、その数を増やすということと、日本各地に滞在しているということだ。

 そんな『絶対悪』がいるならば、世の中は『絶対的な正義』を求める。
 対して国が作った対テロ特殊部隊、総称は『ジャスティス』は、バーンごとに十人程度の組織である。全身を銀色の服で包み、決して素顔を表に出さないことから、特撮ものの『正義のヒーロー』みたいな雰囲気があり、助けられた人々を筆頭にその人気は爆発していき、今に至る。

「……といっても、流石に毎日新聞で一面はやりすぎよね……」
「男のロマンだからな、正義の味方というのは。憧れを抱く奴が多ければ多いほど、それを商売にしようとたくらむ奴は多くなる」

 葵との約束から一夜明けた本日七月七日。いつもは学校まで葵と共に登校することは多い涼なのだが、葵は今日、日直であったので、涼が一人で登校していたところ、レッドフレームの眼鏡が似合う幼馴染にあったため、彼と一緒に登校することになった。

 夏目翔馬は実家から学校が少しばかり遠いため、一人暮らしをしているのだが、そのため、昼は学食か購買のパンの二択であった。しかし、今日はどちらも月に一度の『定休日』。
 一方、寮住まいの涼もまた、基本昼食は学食。利害の一致……というのも変なことだが、昼に飢えることのないように二人は共にコンビニへと踏み込んだのである。

「コンビニってなんでもあるのね」
「まあ、ただし流行ものに限るっていう条件が付くがな」

 涼と翔馬は入口付近にある新聞のある棚を離れて、店内奥へと入っていく。
 彼女は基本、コンビニを多用することはしない。近所のスーパーの方が安いし、葵が「この程度のことで先輩の手間を取らせるわけにはいきません」とか言って、走って買ってきてしまうため、買い物自体あまりしないからである。

 翔馬はすでに決まっていたらしく、少し高めの弁当を手に取るとすぐにレジへ行ってしまった。

「オススメくらい教えてくれたっていいじゃないのよ……」

 涼はそうぼやきながら弁当を見るが、何を買えばハズレがないのかわからなかったため、代わりにおにぎり一つとから揚げを買った。

 レジ袋を下げながら先に買った翔馬の姿を探すと、彼は雑誌のコーナーで立ち読みしていた。

「何読んで……っ!」

 声をかけようとしたのだが、彼のいる場所を正確に把握した途端に掛けづらくなった。

 翔馬のいるのは雑誌コーナーの一番奥、『十八歳以下は入ってくんなコノヤロー』のゾーンだったからである。

「まったく、これだから男は……」

 呆れる一方で、女子を待っている間の時間潰しにエロ本を読むとは夏目翔馬の超ど級の度胸というかマイペースさに関心もした。

「おっ、買い終わったか。それにしてもこのシーン、攻守を逆転してほしいとは思わないか?」
「見せるな!広げるな!こっち向けるな! あと、何で男が一切いないのよ!」
「なんだ、しっかり見ているではないか」

 彼の読んでいたのは女同士で……ちょめちょめ……している本であった。普段の言動から変なところは満載であったが、朝から堂々と読むこの現場を目撃してしまうと流石に引く。

「百合要素っていうのは、女の子同士がいちゃいちゃしているだけのものじゃなかったの?」

 ふっ、と無駄に格好を付けて眼鏡を直して、本を棚に戻した翔馬は、やれやれと、手を上げた。弁当の袋が手にかかっている時点で随分と格好の悪い姿になっているが。

「もちろん、プラトニックラブは大好物だ。その気のない二人の女子がただ歩いているだけでもでも、妄想はいくらでも膨らむ! 邪推できる! だが、俺たちの百合妄想の行きつく先は一体どこだろうと考えたとき、それは、『愛の最終的な形とはものはどんなものなのか』と同意義の問題になるのだが、そもそも俺の百合概念というのは――」
「もういい、わかったから! 学校行くわよ!」

 どうして数少ない友達兼幼馴染がこんなのなのか、非常に人生のいろいろな選択を間違えたような気がしてならないが、仕様がないと思い、学校まで歩いていく。
 相変わらず何かわからないことを力説してくる翔馬にげんなりしていると、校門前に明らかに変なおじいさんがいることに気づく。

 しわしわの優しそうな顔に胸元まである長いあごひげ、そこまでは普通にどこにでもいそうな老人だが、その服装が黒いスーツなのだ。背筋が伸びており、執事にも見えるが、目の奥に何か深いものがある。あまり関わりたくない雰囲気を醸し出している老人。

「そこのお嬢さん、飛鷲涼様で間違いありませんかな?」

 校門の前、関わりがありませんようにと願っていた矢先に、老人に声をかけられた。
 流石に隣を歩いていた、翔馬も一方的な講義を止めて、老人をみた。

「はいそうですが、何か……」

 無理やりに笑みを作って答えた涼に、老人は優しげな笑みを返してきた。

「ご同行を願いましょう」
「……は?」

 まるで涼の執事のように、老人が頭を垂れて、促してくるので、わけも分からないうちに、言われた通りに行かないといけないような雰囲気になってしまう。周りの生徒の視線が痛い。
 翔馬に助けを求めようと、彼を見ると、目が合う。『早く行ってこい!』と長年一緒にいる幼馴染の予想ではそう言っているようにしかみえないのだが。

「さあ、行きましょう」
「ちょっ、背中を押さないで、わかった、わかったから!」

 押すといっても触れている程度で力は一切なかったのだが、それにしても随分と強引なことである。連れていかれるのが、流石に学外だと身構えてしまうが、老人は校内の方へと促していたため、仕方がなくついていくことにする。
 恨みがましく、翔馬を見ると、腕を組んで頷いていた。この動作は一体何を意味しているのだろうか。
 校内を進んでいく老人の後を続きながら、涼は次第に不安になっていくのであった。



 飛鷲涼の通っている高校、『第九北高等学校』はその名の通り、第9バーンにある高校の一つである。私立を除けば東西南北にある四つの公立の中の一つということになる。
 地上に人間がいた頃と比べてしまうと、学校の数が少ないこともあり、当然、校舎は馬鹿でかく、一年以上この学校にいる涼でさえ、行ったことのない場所は数えきれないほどある。
 10階まである校舎は、その背丈だけではなく、東西南北にも広い。少なくとも、五万人以上の生徒がいても広すぎるくらいには。
 全校生徒が集まることはなく、ほとんどが放送で知らせられる。授業もほとんど移動はせず、生徒が少ない休み時間内に余裕で移動できる範囲に設置されているのだ。ちなみに職員室だけで両手では数えきれないほどにある。
 移動手段はバスだとか電車とかも校舎内を走っているので、ここまでくると、ちょっとした町のような感覚である。

 ここまで広い学校、前にいる老人が向かっている場所を推測しようとしても、すでに涼の知らない場所に踏み込んでしまっているため、推測のしようがない。
 どんどん奥へと歩いていき、着いた場所は、周りに教室がない重苦しい雰囲気の扉の前だった。

 この向こう側が『理事長室だ』と言われてもあまり不自然ではないし、『テロリストのアジト』だとか『拷問部屋』だと言われても飲み込めるような雰囲気である。
 老人が厚い木の扉を開くと、中から日の光が差してきて一瞬目がくらむ。

「お嬢様、飛鷲涼様を連れてまいりました」

 室内は一見、校長室のような雰囲気があった。高級そうな家具に本棚、綺麗な木の書斎机を中心に家具は左右対称に置かれていた。その後ろの窓はカーテンを締めていないので、随分とまぶしい状態になっている。

「ありがとうございます、熊谷くまがいさん」

 老人に『お嬢様』と呼ばれていたのは、中央奥の、漫画で言うと『ボス席』の椅子に座った見覚えのある少女であった。

「引き続き、私たちの出欠席についての根回しお願いします」
「はい、わかりました」

 少女に頭を下げて、部屋を出ていく老人。取り残されてしまった涼は、今更ながら不安になってくる。

「『初めまして』でよろしいでしょうか、飛鷲涼さん」
「貴女は何者なのよ……琴織、聖さん」

 品格のある少女だが、制服を着た一生徒が座るには今彼女のいる場所は、あまりにも不釣合いに思えた。
 今日も、昨日と同じく、聖は右手人差し指に赤い宝石のついた指輪をしていた。これは校則違反にはならないのだろうか。

「今貴女が言った通りですよ、私は琴織聖。それ以上でもそれ以下でもない存在です」

 そういうことを言っているのではない、などとここで突っ込んでは負けだと思った。彼女は明らかに涼をからかっていた。
 涼が無言でいると、聖は立ち上がった。ふわり、と銀と金が入り混じったような綺麗な髪の毛が舞う。

「にしても光栄ですね、貴女が私の名前を知っているとは」
「それほどでも……で、早く帰してほしいのだけれど」
「そう急がないでください」

 涼の感覚が間違えなければ、あと数分で朝のホームルーム開始の予鈴が鳴り、遅刻が確定してしまう。
 席から立った聖は、涼の元へと近づいてくる。その雰囲気からただならぬものを感じた涼は二、三歩あとずさる。

「どうして逃げる必要があるのでしょうか」
「貴女が近づいてくるからよ!」

 涼がそう言うと、聖はふっ、と笑みを作った。
 笑みを作った瞬間、琴織聖という少女の周りから感じる空気は増幅した気がした。

 言葉にできないものに、ぞっとした涼は、第六感が『やばい』と告げたので、身体を聖の方に向けたまま、彼女が歩くだけ後ろに下がった。
 そして、十秒もしないうちに扉に手がかかったので、この部屋から飛び出そうと、涼は身体を反転させてドアノブに手をかけた――のだが、

「無駄ですよ、扉には外からカギをかけて貰いました。出たければこれを使うしかありません」

 琴織聖はいつの間にか、その小さな手に、古めかしいカギを持っていた。

「ならっ、ちょっと貸してもらうわよ」

 カギを取ろうと、一歩分あった聖との距離を、涼は、一歩と、伸ばした手で縮めた。
 涼は、生まれつき運動神経はかなりよかった。特に何もしていないというのに、女子としては平均値を大きく超えており、喧嘩ならば、男子相手で四対一くらいまでならおそらく負けることはないだろう。

 そんな飛鷲涼の天性の能力の前では、たかが同学年の女子(しかも、見た目中学生以下)に後れを取る要素はないはずだった。

「なっ……っ!」

 結論だけを述べるならば、琴織聖は、涼の動きに対応しきれなかった。足、胴体、頭、腕、どれも動かす余裕がない程度には。
 だが、この驚きの声は聖から発せられたものではなかった。

「なによ、これ!」

 カギを取ろうと伸ばした、涼の手は防がれていた。
 聖自身が何かしたわけではない、ただ、一瞬のうちに涼と聖の間に半透明で薄いピンク色の布のような『何か』が出現し、涼の手を止めていたのだ。

 涼はその得体のしれない『何か』を警戒し、すぐに手を引こうとした。
 だが、その手は動かない。

「無駄です」

 動かないのは、手だけではなかった。両手両足、それに胴体までも、つまり、四肢の全てに半透明な薄い布が巻き付いており身動きを封じていたのだ。
 どんなに力を入れようとも、ビクともしなかった。

「薄い布なのに、どうしてこんなに硬いのよ!」
「それは……と、ネタ晴らししてもよいのですが――その前に、先に味見としましょうか」

 動けない涼に、聖は懐から取り出したナイフゆっくりと近づけていく。
 涼の二の腕に向けられたナイフは、聖の素早い手の動きで、スー、とあっという間に皮膚が切れ、腕から血が段々と出てくる。
 まるで紙で切ってしまったような感覚だった。切られた瞬間に痛みはないものの、じわじわと腕から痛みが回ってくる。

「ああっ!」

 流れ出てくる血に恍惚の目を向ける聖。その表情はまるで、片思いの男に女が向けるものに似ていた。

「あんたも私に惚れた口ってわけ」
「何を言っているのですか、私は女で貴女もまた、一人の女性。そこに愛など普通に考えてありえませんよ」

 ちゅっ、と口づけをし、はむっ、と涼の切れた二の腕の傷口をふさぐように、口をつける。
 血液が吸い取られる感覚を味わう。

「ほう……これは……」

 おいしそうに腕に吸い付く聖を見て、『吸血鬼』という言葉が涼の脳裏に浮かんだ。
 体の血が少なくなっていくのがわかる。あとどれくらいしたら貧血で意識を失うことができるだろうか。
 涼の顔は赤かった。内側から沸騰しているように真っ赤である。
 しかし、自然と嫌な気分ではなかった。これが、吸血鬼という生き物の殺し方なのだろうか。血液が無くなっていくのが、快楽になりつつあった。

 遠くでホームルーム開始のチャイムが鳴った気がした。
 けれど、涼にとっては遅刻だとか、出席だとか、もうどうでもよくなっていた。

「貴女は、私の血を吸い尽くすために――私を殺すために、ここによんだってわけね」
「?」

 疑問符を頭に浮かべた聖は、そっと、名残惜しそうに涼の腕から唇を離した「はあ……」という吐息が少し色っぽい。

「何を言っているのですか、貴女はあくまで『客人』です。殺すことなど、万に一つもあるはずがないでしょう――もう少しだけ、動かないでくださいね」

 そう言った聖は、包帯を取り出し、丁寧に涼の腕を巻いていくではないか。

「何よ……意味わからないわ」
「これでよし――です」

 聖に巻いてもらった包帯のせいか、はたまたもともとあまり大きな傷ではなかったのか、涼から腕の痛みは消えていた。
 同時に、今まで縛り付けられていた身体は解放され、手足ともに自由になった。

「ごちそうさまでした、なんとなく予想はしていましたが、やはり貴女は美味しかったです――それと、献血程度の血を抜いたくらいで殺されるなどとは少し大げさすぎです」
「あっ、あんたはドラキュラなの?」

 包帯の巻かれた腕を片手で抑えて、警戒し、涼は我ながら馬鹿なことを聞いていると思った。
 聖はあくまでも冷静。右手を顎の前まで持ってきて、まるで、推理小説に出てくる推理中の探偵のようなしぐさで、

「吸血鬼……とは少し違います。私たちの中でも、血だけを吸うというのはあまり多くありませんし、どちらかというと私の『趣味』ですかね」

 いや、どちらかというと聖が吸血鬼ということよりも、これが『趣味』という方が遥かに危ないような気がするのだが……。

「私は、返してくれるのかしら?」
「もちろんです、さきほど言ったように貴女は『客人』ですから」

 どちらにしろ、命の危険は逃れられたような気がして、ほっ、と安どの息が漏れる。
 気が抜けると、なぜか、ついさっき聖が言っていた言葉が頭の中にリピートされた。

『何を言っているのですか、私は女で貴女もまた、一人の女性。そこに愛など普通に考えてありえませんよ』

 改めて、聖を見る。少し性癖は歪んでいるようだが、変態幼馴染を見ているだけに、この程度ならば許せるような気がしてくるのだから不思議だ。
 彼女に近づくと、今度は急に近寄られるのに慣れていないのか聖が涼の接近に対して下がった。

「なっ、なんでしょうか……もしかして、怒っているのですか?」

 聖の手を握って、涼はおそらくこの人生で今のところ一番だろう真剣な眼差しを向ける。

「私と、友達になってくれない?」

「……はい?」

 彼女ははっきりといった『愛などあり得ない』と。そうはっきり言った女性を、涼はなぜかこの人生で一度もあったことがなかった。
 同性の友達ができる、そんな可能性は生涯ありえないと思っていたことだ。
 少しくらいの変な性癖は許すし、献血程度の血ならばいくらでも差し出してもよかった。

「ちょっと待ってください、一応確認しますが、貴女は縛られて血を飲まれると興奮する『超ど級のM』なのですか?」
「違うわよ!」

 お願いします、と言う風に、聖を見ていると、彼女は戸惑っている様子だった。

「すみません、少し気が動転しているようです。今まで、血を飲んだ人に、それも飲んだ直後にそんなことを言われた経験がありませんので」

 当たり前だ、自分を傷つけた人間と進んで友達になろうという人間は彼女が確認した通り『M』の気質がある人間くらいだろう。

「だっ、だって私は貴女の血を飲んでいたのですよ! 怖いとは思いませんでしたか? 気持ち悪いとは思わなかったのですか?」
「そんなことは、『些細なこと』、よ」

 琴織聖は知らないのだ、世の中には血を飲まれることが『取るに足らないこと』だと考えている人間が、いるということに。
 今まで生きてきた中の人間関係のほとんどを『切った張ったの恋』だけで構築されてき少女の苦しみなど、知るはずもない。

「で、どうなのよ?」

「それは――っ!……『羽衣』!」

 涼の言葉に動揺を見せていた聖だが、一瞬で顔色を変える。
 同時に、涼は簀巻きのようにまたしても半透明な布に縛り上げられてしまう。
 涼の理解が追い付く前に、事が進んでいた。

 天井から姿を現した黒服サングラスの女が、合計八本のクナイを涼と聖に向けて投げてきた。
 向かってきたクナイは聖に刺さった―――ように見えたが、クナイは何も貫くことなく、床にバラバラと落ちたではないか。いつの間にか、聖はその身に半透明でピンク色の、まるでおとぎ話の女神さまが纏っているかのような『羽衣』を着ていた。その『羽衣』がクナイを防いだらしかった。

 その一方で、『羽衣』の近に纏う布に縛られた涼の身体はなんと宙に浮き、少々間抜けな形でクナイの攻撃をよけることとなる。

「何者、ですか?」

 聖の言葉に対して、涼は『あんたこそ何者よ!』というツッコミを心の中でする。
 侵入者は、ははっ、と笑うと、ご丁寧にも挨拶を始めた。

「琴織聖、俺はお前を殺しに来た『殺し屋』だ」
「この声……あんたは」

 それは、つい最近聞いた声であった。ボイスチェンジャーを使っていたらわからなかっただろうが、この殺し屋は身ばれについて考えていないようだった。
 涼の声に反応した殺し屋は口元をゆがめた。

「飛鷲涼、あんたがいるのは想定外だったな」
「……アドルフ・リヒター」
「ははっ、流石女たらし、声だけで分かったのかよ」
「誰がたらしよ!」

 サングラスを堂々と取り外したアドルフは、昨日教室でみた彼とは明らかに違っていた。見た目は確かに、男ながらに可愛さに定評があるドイツ人の『男の娘』であったが、纏っている空気が違った。

 彼から発せられていたのは、そう、殺気である。

 軽口を叩いているが、彼の眼は涼と聖の一挙手一投足を射抜いていた。

「顔を見せ、名前まで言うなんて、随分と間抜けな殺し屋さんですね」
「名乗りは、俺の流儀なんだよ。自分を殺した相手の名前がわかんなきゃ、おちおち眠りにつけねぇだろうが」

 背中には一本の刀、黒い様相に包んだ姿、投げてきたのはクナイ。まるで忍者のようだが、彼が金髪碧眼であるせいで、コスプレした外国人にしか見えない。

 ただ、涼にはそんなことを思っても笑っていられる余裕はなかった。
 涼は聖が動かすことができる変な布により、全身を拘束されているのだから。逃げることさえ許されない状況なのだ。
 ふふっ、と笑ったアドルフは背中の刀をゆっくりと引き抜く。

「――それにな、別に覚えられていてもいいんだよ。俺の姿を見た奴は、死ぬ運命から逃れられないんだからよ!」

 刀を抜いたアドルフは、縛られて動けない涼――ではなく、半透明の不思議な衣を着ている聖へと向かっていく。まるで忍者のように、素早い間の詰め方であった。
 アドルフは聖へと、一瞬の躊躇いもなく、刀を切り付けた。

「『羽衣』!」

 聖は両腕を頭の前に置いただけで、布により妨げられる。驚くべきことに、聖の着ている『羽衣』は刀をもってしても切れなかった。
 しかし、ここでは、アドルフが一枚上手であった。
 アドルフは刀を返し、布を踏み台にして跳躍。そのまま、涼へと切り付けたのだ。

 首へとまっすぐ正確に向かってくる刀に対して、涼は人生で初めて恐怖した。
 首を掻き切られる、そんな覚悟する暇もなく訪れる『死』を何もできずに、待っていると、全身への締め付けがゆるんだ。

 涼の身体は重力のままに落ちていき、刀は彼女の数本の髪を切るだけにとどまった。
 ドンッ、という衝撃で、床に尻餅をつくが、痛さを感じている暇もなかった。
 切るに失敗したアドルフが、床へと刀を下に向けて落ちてきたからだ。
 涼は今度こそ、『死』を覚悟した。
 おそらく、刀が落ちてくるのは、涼の鼻か口辺りだろうか、どちらにしても刃は頭から喉を通って体へと入り、『串刺し』の状態になるのだろう。

 その時、涼は今まで嗅いだことのないような良い匂いに包まれた。

 いろんな花の良いところの匂いだけを抽出して一つにしたような、胸を打つ香り。
 同時に、銀か金色に視界を奪われる。顔を包むのは、くすぐったい感覚であった。

 そして、気づけば、ちっ、という舌打ちがして、アドルフが、数メートルの間を取っていた。

「先ほどから再三言っているように、貴女は『客人』です。その命を失ったとあらば、私の器量が問題になってしまいます」

 琴織聖は良い匂いのする髪をかき上げて言うが、涼には聞こえていなかった。
 嬉しいと怖い感情が渦巻き、それに聖を見ての『綺麗』だとか『格好いい』という感想じみた感情が加わったせいで、自己感情の処理ができなくなっていた。

 前に立っている聖は、涼の方へと振り返ることはなかった。だからこそ、アドルフもすぐには襲ってこない。
 立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまい、ついに自分で立つ事すらできなくなってしまった涼の身体を三度布が包んだ。

「とりあえず、逃げるとしましょう」

 そう言った聖は、いつの間にか開いていた窓(おそらく、あの布を動かして開けたのであろうが…)から出ていく。その後を追うように、涼を巻いた布もまた、外へと出た。

 結局何の部屋だったのかわからないが、今まで涼のいた場所は聖と立ち入り禁止である学校の『最深部』であり、授業も始まっているため、外へ出ても周りには人っ子一人いなかった。
 それどころか、窓の外は、人口的に植えた木々が立ち並ぶ、ここが学校内と言われても疑問符を浮かべざる負えないほどの密林地帯であった。
 理事長が植物マニアで、学校内を私物化して、わけのわからない植物をたくさん植えている、などと言う学園七不思議レベルの噂話を思い出す。

「なんで学校の裏がこんなことになってんのよ!」
「あの部屋は『特殊』なのです。その『特殊』さ故に、例え窓の外からでも第三者に見られないような位置になっているのです」

 走りながらも聖は丁寧な説明をしてくれたが、その『特殊』の内容をそろそろ教えてほしいとも思った。
 彼女が走っている方向は校舎の方ではなく、それとは逆の位置。つまり、密林地帯を奥へと突き進んでいる形になる。

 涼は相変わらず全身を拘束されたまま、ゆらゆらとその後を飛んでいく。
 飛行機など地上にある乗り物は乗ったことがないため、宙に浮くのは生まれて初めてのことであるが、大して高いところを飛んでいるわけではないため、上を見てもいつもの空にしか見えなかった。

 ふと、後ろからアドルフは追ってきているのだろうか、そんなことを思い後ろを向くが、人影は見当たらない。
 振り切ったか、そんなことを涼が考えたとき、前を進む聖の足が止まった。

「ったくよ、お前も馬鹿だよな。偽善者ぶりやがって」

 そこには、似合わない下衆びた笑いを浮かべるアドルフの姿があった。似合わないからこそ、不気味さは普通の男の何倍にもなっているような気がした。

「どこが、偽善だというのですか?」
「人がいる方に逃げりゃ、俺が他を始末しなきゃいけない分、片手で握れるくらいの逃げ切れる可能性が生まれていた、ってのに、てめぇは、一般人を巻き込みたくない、なんて、土壇場で『良い人』を演じちまったんだ。だからこそ、てめぇの寿命は今、完全に決まったんだよ」

 ケケケッ、と人を馬鹿にしたように笑うアドルフ。追ってくるときに重かったのか、背中に合った刀は鞘ごとなくなっていた。
 対して聖は――いや、聖もまた、くくくっ、と笑っていた。だが、その笑い方はアドルフとは真逆の、『上品さ』があった。

「なんで、笑ってやがる」
「貴方は馬鹿ですか、既に私は『何も知らない一般生徒』を巻き込んでいるのです。第一、たとえ私が生徒のいる方へ逃げていたとしても、校内にいる貴方の仲間が加わり、今よりも遥かに分が悪い状況になっていたでしょう?」

 その『一般生徒』というのは、もしかしなくても飛鷲涼ことだろう。『何も知らない』というフレーズがついていたことで、涼は自分の立場がやはりただの『お荷物』であることを認識する。

「それに、貴方ごときならば、私一人で対処できるかと思いましたので」
「ほう……」

 にっこりと微笑む聖には余裕があった。
 そして、聖の言葉が、ただのアドルフへの挑発ではないことを涼は知ることになった。

「展開――『天の羽衣』」

 聖の指にはまっていた赤い指輪がきらりと輝き、その指輪を中心に、一瞬で空間が形成される。
 涼が、空間ができたと認識したのは、一瞬で光が広がったからで、それ以降は特に空間内に変わったことはないと感じた。広がったように見えた空間は半径5メートルくらいか。
 地形の見た目は大きく変わったわけではなく、空間の間に壁ができているわけでも、空気の色が変わったわけでもない。

 ただ、唯一、変わったものがある。

 それは、半透明であった布が、はっきりと姿を現したということだけ。指輪から二メートル以上離れている涼を縛っている布は半透明のままだが、聖の着ている『羽衣』はまるで血のように真っ赤で彼女に似合う上品な布になっていた。

「てめぇらのお得意の『結界』、か……少々遅いご登場だこと」
「先ほどのなまくら程度ならともかく、その懐にあるものは少々厄介ですのっで、『客人』のことを第一に考えた結果ですよ」

 二人は、涼の理解には遠く及ばない世界の話をしているようだ。
 一体この二人はどういう関係なのだろうか、殺し屋とそのターゲット……そんなわかりきっている答え以上のものが欲しいと思った。

 アドルフは懐から、一丁の拳銃を取り出す。
 エアガン、などというものがこの世にあるせいか、涼はあまり現実感のない代物で、そのせいか恐怖はあまりなかった。

 だが、それはほんの一瞬の間のことでしかない。
 アドルフは、躊躇いなく引き金を引く。
 火の拭いた拳銃から鳴り響く轟音。涼にとって身がすくむような、恐ろしい音であった。三日の間は頭の中から離れないだろう程度には。

「やはり、改造されておりますね。火力だけで言えば……四倍ほど、でしょうか」
「そいつをいとも簡単に防ぐてめぇの『力』はやっぱり脅威だぜ」

 横へと移動し、角度を変えながら、アドルフは何度も、何度も、引き金を引いた。その標的は全て聖である。アドルフの視界からは完全に涼の姿は消えているようだった。

 だが、全ての弾丸は聖の元へと届く前に真っ赤な布に、弾き返されている。
 そう、先ほどまでと違うのは、布は聖を守っているだけではなく、攻撃を返している。つまり、透明な布はただの壁だが、真っ赤な布は、運動を反射しているのだ。

 ただ、聖の布もアドルフを捕らえることができない。聖の身体から五メートル以上は離れられないようで、近づいてきた時しか、アドルフを追っていない。
 殺そうと、相手に攻撃をしようとしても、奇妙な布に邪魔されて、当たることがない、アドルフにとって、そんな不利に思えるような状況の中、彼は――笑っていた。

 突如、銃での攻撃を止めたアドルフは、拳銃を放り投げ、手には何も持たず、上げたままで、聖のもとへと歩いていく。それは一見、投降の意思がある行為に思えた。

「ははっ、まったく流石だ、物理的、防御力最強を名乗るだけのことはある。正直、俺の力では『お手上げ』だよ」

 半笑いで、丸腰で歩み寄ってくるアドルフに対して、聖は手荒なことはしなかった。真っ赤な布が、彼女が着ているものを除くと、涼を縛っているものを含めて四枚ほど彼女の周りにあるが、アドルフを襲ったりはしていない。

「戦う意思がないならば、その場で膝を地面につけ、手を頭の後ろに回しなさい」

 聖は、自身を狙った『殺し屋』へと、そう呼びかけた。対してアドルフは、隠そうとせずに笑い顔を見せながら、

「これは、違うんだよ。そう、違う。全然違う。大罪人ほど、細かいことを気にする。結局それが『敗因』となって駆逐されていく。こいつはあんたにもいえることだよ、俺が武器を持っていないから、攻撃をする必要はない? その油断こそが、お前の『敗因』だよ!」

 そう言ったアドルフが懐から取り出したのは、ペットボトルサイズの瓶であった。

 アドルフが、瓶を投擲する。瓶はくるくると回りながら、聖の方へ弧を描いて飛んでくる。
 鉄砲の弾ですら、貫通することはなかった聖の守りにガラスの塊が通用するはずもない。

 しかし、だからこそ、涼は嫌な予感がした。

 彼の、アドルフの言葉には『勝利』の確信があった。彼は『殺し屋』だ。殺し屋の勝利というのは標的の抹殺に他ならない。

「ダメよ、聖! 逃げて!」
「……っ!」

 涼が上げた声に反応した聖は、赤い布で守り、同時に布と瓶の衝突の瞬間に、涼と自信の身体を布で後ろへと投げた。
 あまりに急に、乱暴に投げられた涼は、地面を転がった。数か所に擦り傷ができた。
 いててっ、といいつつ顔を上げると、少し離れたところに苦虫を噛み潰したような顔をしたアドルフの姿があった。聖はまだ、起き上ってきていない。

「てめぇ、やっぱり邪魔すんのかよ、モブの分際で」

 戦いになって以降、アドルフは初めて涼を見て、話しかけてきた。だが、彼が涼へ話しかけてくるというのは、少々、違和感があった。

「誰がモブよ、あたしの人生の中ではあんたの方がよほど『エキストラ』なのよ」
「まあ、『こぼれ者』っていう立場は間違ってねえな」

 そんな軽口を叩きつつも、違和感の正体を考えていると、答えはたった一つしか、涼の頭では考え付くことができなかった。
 しかし、その『答え』はわかったところで、どうすることもできない対策のしようがないもの。涼は、ゆっくりと立ち上がりながら、

「あんた、どうして仕掛けてこないのよ」

 聖を殺しに来たのならば、彼女が倒れている今を狙えばいい。確実簡単に殺せるはずなのだ。

「そんなこと、とっくにわかっているって顔しているやつに話しても面白くねえ」

 彼は、聖を殺しに来ないのではない、来ることができないのだ。
 その理由として考えられるのはただ一つ。先ほど彼が投げた瓶の中身である。

「一体何を……っ!」

 眩暈がして、倒れそうになる。何とかこらえるも、段々と、気分が悪くなってくる。たまらず、地面に嘔吐した。
 その様子を見ていたアドルフは、なんともないようでケケケッ、嫌悪感を与える笑いをあげる。

「本来、俺は組織の中で『仕入れ人』をやってんだ。自分で言うのもあれだが、腕は良いつもりだ。拳銃に地雷、爆弾に人殺し専門に躾けられた犬まで、言ってもらえりゃたいていのものは揃えられる、まあ、殺しは副業って感じだな

 彼が投げたのはおそらく、毒ガスの類だ。
 そう確信した涼は、よろよろと聖の方へと歩いていく。その間も、アドルフの口は止まらない。

「先日、俺は第11バーンで人生初めてのもんに出会った。偶然流れてやがったんだ。いや、運命だったのかもしれねえ。今までいろんな人殺しの兵器を見てきたが、俺でも度肝を抜かれた」

 若かりし時代の話をする老人のように、聞いてもいない話をべらべらと話始めるアドルフ。どうやら涼に話しているわけではないらしい。

「こちらへ来てはいけません」

 聖にそう言われて、涼は足を止めた、驚きを隠せなかった。
 起き上がれない聖の周りに漂っている布。道具の身ながら、彼女を守ってきた布はその姿を変形していた。

 いや、違う、少しずつ、消失しているのだ。

「そいつの名は『ヨルムンガンドトキシン』。第11バーン統治者、『蛇姫』のやろうが持ってやがる、究極の『毒物』だ」

 その毒の名前を聞いた途端、聖の顔色がさらに悪くなった。

「逃げなさい! 貴女だけでも」

 叫ぶ聖を前にして、涼は迷っていた。
 自分だけ逃げてよいのだろうか、だとか、一人で逃げ切れるのか、などそう言う聖を切り捨てる考えで迷っているのではない。

 初めから聖を置いて逃げるつもりはなかった。

「この毒の液体はガラス瓶以外のもんは必ず溶かす。強酸なんて生ぬるい、溶かした部分からは毒が浸食していき、生き物には『死』を、物には『無』を与える」

 つまり、聖の周りを浮いている衣の毒におかされている部分に触れれば、涼も溶かされていくということだ。涼は、聖に伸ばしかけた手をさっと戻した。
 その様子を見て、くくくっ、とおかしげにアドルフは笑っていた。

「だが、それだけなら毒にかからないようにすればいいだけ。こいつの怖いとこは別にあるんだよ。この感染は物だけじゃねえ。空気さえも犯していきやがる。しかも爆発的にな」

 大分布が溶けたせいもあり、涼は聖の元へと行く。彼女は動けずにいた。

「逃げないと本当に死にますよ! 私は置いていってください!」
「い・や・だ」

 無理矢理笑顔を作った涼は、すこぶる気分が悪い中、なんとか衣を引きはがし、聖を抱きかかえる。小柄なだけあって聖は涼一人で背負える程度には軽かった。
 降ろせと、ギャアギャアわめくのかと思ったが、聖は、大人しくしてくれていた。

「……強がったところで貴女には何もできませんよ」
「そうかもしれないわ――でも、」

 全身ひどい汗をかいていた、自分が立っていることさえも定かではない。それでも、歩いた茂みの中へと、一歩、一歩と、歩いた。

「――それでも、友達を置いて逃げるなんて、私にはできないわ」

 アドルフが二人を追うのは容易ではないだろう。地面にはたくさんの『ヨルムンガンドトキシン』の液体がある。だからこそ、彼はすぐに攻撃してこなかった。触れたらアウトの毒物を彼は慎重に避ける必要がある。
 彼が涼たちに追いつく間、わずかなロスタイムができあがる。

「よるが何とか……、この毒のこと教えて頂戴」
「何をするつもりですか?」

 そのロスタイム、逃げるには体調面の不安要素もあって少なすぎる。かといって、全てを諦めて、今までの人生の中の懺悔をするには少し多すぎるのだ。
 不安を持った顔の聖へ向かって、涼は、不敵な笑みを作る。

「決まっているわ、何とかするのよ」
「…………」

 無理、とか言う言葉が返ってくるかと思いきや、聖は何も言ってはこなかった。その表情を見ても、何を考えているのか、よくわからなかった。

「彼の言葉を続けると、『ヨルムンガンドトキシン』に汚染された空気を吸ったものは、肺から血液を通して、神経麻痺を引き起こします。傷口からも入ってくるので、二分も経たないうちに貴女も身体が動かなくなるでしょう」
「その空気が汚染されたところから抜ければいいんじゃないの?」
「残念ですが、空気を汚染するスピードは時速にするとおよそ四十キロ。人間が走る速度よりもはるかに速いです」
「何か方法はないの?」

 息切れをしてきて、足元もおぼつかなくなった。これ以上歩くのは非常に辛かった。流石最強の毒と呼ばれるだけのことはある。打開方法は皆目見当が付かなかったのだが……。

「水、ですよ。毒は水に溶けやすく、水に触れれば分解され、浄化されます」

 聖の言葉に少々拍子抜けをする。
 最強というものほど、実は簡単なもので打ち破れるものだなと思った。

「水なんて、いくらでもあるじゃないの」
「残念ながら、ここから水がある場所までは一番近くて三百メートルはあります。そんな足取りでは無理ですし、生物から出る『血液』や『樹液』では浄化されずに『汚染』されてしまいます」

 普段は蛇口をひねればいくらでも出てくる水。バケツ一杯の水さえあれば、頭からかぶることができれば、体中の毒を洗い流せるというのに。衣の毒も消せるというのに。

「じゃあ、アドルフのやつは、水を使って何かしているから平気だったの?」

 涼の問いに対して、聖が口を開けたとき、それよりも先に、彼女の後ろから、

「ちげぇよ、俺のは解毒剤だ。まあ、利くのは空気汚染に対してだけだが」

 バッ、と振り返ると、そこにはニタニタと笑ったアドルフがいた。
 つまり、これでロスタイムは終わりだということだ。

「ここで、終わり、ですか……」

 そう呟いた聖を、涼は気を背もたれにするようにゆっくりと降ろした。アドルフに追いつかれてしまったというのもあるが、それ以上に毒の進行により、聖を持つ力が入らなかったというのがある。
 彼女の周りを漂っていた布も初めの四分の一程度になっていた。

「ねえ、アドルフ。解毒剤、渡してもらえないかしら。辛くてしようがないわ」

 毒のせいでろくに身体の動かない少女に対して相手は毒の利いていない男である。誰の眼から見てもわかる絶体絶命の状況でも、涼の表情は飄々としたものだった。
 涼の発言に、アドルフはゲラゲラと笑いだす。

「ばっかじゃねえのか。お前、ほんっとうに馬鹿じゃねえのかよ! そもそも、解毒剤は俺の口の中、奥歯に詰めた一人分しかねえんだよ!」

 腹を抱えて笑うアドルフ。その間にも涼の身体は刻一刻と、毒に犯され、動かなくなっていた。

「さあ、絶望しちゃいますか? 漏らしちゃいますか? どちらにしろ俺はお前たちを殺すけどな」

 アドルフの表情には鬼気迫るものがあった。何を彼がここまで突き動かしているのだろうと、ふと、思った。

「それにしても、本当に辛いわ。私の人生ベスト3には軽く入るほどの辛さよ」

 精神的には、そうでもない点が、一位にならない点なのだが。

 それでも、もしも相手が涼の倍はある巨漢とかであったら、絶望もしていた。生きることを諦めていたかもしれない。

 だが、相手がそう体型差のないアドルフ程度ならば、武器なしの純粋な喧嘩なれば負けることはない。しかも、彼は武器を使った後、その場に落としている。
 つまり、この毒さえ抜ければ負けることはそうないというわけ。この場において不要なアドバンテージこそが、彼女の精神にほんの少しの、余裕を持たせていた。

 毒は着々と回っていっているはずなのに、いつの間にか震えは止まっていた。
 笑い終えたアドルフが再び、こちらへ向かって歩いてくる。当然、もうほとんど身体が言うことを聞いてくれない、涼は抵抗することなどできない。

「でも、今日は七夕よ。夜には祭りがある。貴方は誰かとデートでも行くのかしら? かくいう私も後輩と遊びに行く約束をしているの。結構楽しみにしているのよ?」

 涼は、アドルフを視界からはずし、敵意がないことを示しながら、そんなことを言った。
 今、涼にできることと言えば、普段と同じ態度でアドルフと接して、死への時間を引き延ばすことぐらいなのだ。
 突然の変な話題に対して、アドルフは立ち止まり、一瞬、涼と後ろで動けなくなっている聖を見て、口を開く。

「てめぇらを殺せば、俺は今晩、祝勝会だ。金も入ってくる……それにしても、随分と余裕なんだな、もう立ってんのも辛いんだろ?」
「ええ、正直、今すぐにぶっ倒れてしまいたいわ。何もかも諦めて投げ出してしまいたい」
「なら、すぐに楽にしてやるよ」

 懐からナイフを一本取り出したアドルフは、再び涼たちの方へと向かってくる。その距離はもう五メートル程度である。

「一つだけ忠告しておくわ、今、形勢が逆転される。逃げるなら今よ?」

 ふふっ、と可憐に笑って見せた涼の姿は、アドルフからすれば、とても滑稽に映ることだろう。

「けっ、今更強がりか。もういい加減に――」
「後7秒よ」

 7、6……と数えていく涼。カウントダウンが減っていく中、苛立ったアドルフは、声を荒げ、

「ぴいぴいとうるせえんだよ! 寝言は寝て言え!」

 なぜ、涼が少しでも長く、時間稼ぎをしたのか。当然、そこには少しでも長く生きたいという理由はなかったとはいえない。

 ただ、本命は、違った。

 それはひどく簡単な答えに収束される。
 たった一本の、ひどく明瞭な一筋の希望の光を見つけてしまった、それだけだ。

 涼の口から『1』という言葉が出る。
 そして、カウントダウンが終わる。

「『0』――さあ、逆転の時間よ」

 アドルフは、身構え、数歩下がった。
 だが、彼の身には何も起こらない。第三者が介入してくるわけでもない。聖は動かぬままだし、涼に至っては、膝を地面につけ、先ほどよりも辛そうに顔をゆがめていた。
「はっ、はははっ……驚かせやがって、何も起きねぇじゃねえか!」

 涼のカウントダウンが終わり、たった一つの変化、始まりは、言い放ったアドルフの鼻に一滴の滴が落ちたことから始まった。
 たった一滴の水、だが、それを感じたアドルフは、驚いたように目を見開き、空を見上げる。
 彼が空を見るのを計っていたように、次々と、水が落ちてくる。頭上のビジョンもまた、段々と暗くなっていく。

「てめぇ、何をしやがった!」

 すぐにシャワーのような土砂降りになった場で、アドルフの声が雨音と共に響く。

「何もしていないわ」

 雨に打たれた涼は、身体が回復していくのを感じていた。プラシーボ効果かもしれないが、すぐに立てるようにまでなった。

「俺は天気予報を確認した! いや、そもそも雨が降るのは予報している連中と雨を降らせている連中が違うから外れるときもある。だが、どうして、今降ることが分かったんだ!」
「趣味よ。小さいころから暇さえあれば空を眺めていたからね。雲の流れを見れば大体わかるわ」

 それは、地上とは違う、完全に天気を支配されたこの空間だからこそできる完璧な予言である。
 もしも、これを地上で同じことをやれと言われてもできないだろう。

「ふっざけんな! 俺はそいつを――琴織聖を殺さなきゃならねえんだよ!」

 ナイフを持って走ってくるアドルフ。
 しかし、銃や刀など、間合いを取られるものを持っていなければ、彼は、涼の敵ではなかった。

「毒だの、銃だのクナイだの、姑息な手を使う前に」

 涼はナイフをよけると、力いっぱい右こぶしを握り締め、そのまま、アドルフの顔面へと思い切り殴りつけた。

「もうちょっと強くなってから、出直してきなさい」

 一撃で、アドルフの身体は宙に浮いた。

 ただ、ここで涼にとって最後の誤算があった。
 涼の攻撃を受け、意識を失いかけていたアドルフが最後の力を振り絞って、持っていたナイフを投げたことであった。
 まっすぐに、涼の眼球へとナイフは迫った。涼には、対応することができなかった。

「そういう貴女は、詰めが甘すぎます」

 澄んだ声と同時に、涼の目の前に、半透明の布が現れ、ナイフをはじいた。
 ありがとう、と涼が振り返って礼を言うと、聖は空を見ていた。

「それにしても、天気予報を裏切ってのこの雨、あまりにも出来過ぎですね」
「私はそうは思わないわよ、だって今日は七月七日だしね」

 疑問符を浮かべている聖に「催涙雨よ」とだけ言った。

 きっと、空で会うことができた二人が、授けてくれた贈り物。
 まだ意味の分かっていない聖を見ながら、涼はこの心地の良い雨の音をしばらく聞いていた。

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