桜色の別れ
桜色の別れ
「私たち、もう別れましょう」
校舎庭を最後に二人で歩いるときだった。
ヒラヒラと落ちていき色を減らしていく桜を、目を細めながら見ていた私に、黒い筒を抱きかかえるようにして持っていたリンがそう告げてきた。デート先を決めるときと同じ口調だった。
立ち止まった私は溢れ出してしまわないように震える手で胸を押さえて、息を吐く。口から出てきた空気は気が付けば白くなくなっていた。
「…………理由、聞いていい?」
こうなることはわかっていたはずだった。
それでも彼女の口から理由を聞きたくて、震える声で私が聞くと、リンは私のことを見たまま、
「言ったでしょう、付き合うのは三か月……卒業するまでだって。それ以外に理由なんてないわ」
「…………そっか」
続けて開きかけた口を閉じて、その理由を問いただすことも泣きわめくこともせずに、私はただ一度だけコクリと頷く。
決められていたことで、覚悟はしていたはずなのに、何か声を出そうとすると、気持ちがあふれてきてしまいそうで、それが今の私にできる精一杯だった。
「…………ごめんなさい」
リンは一言だけそう言うと、立ち止まってしまった私の前を歩いていく。
見慣れている私よりもちょっとだけ高い背中を見ながら、もう、あの背中を見ることはなくなってしまうのかと思うと、自然と涙があふれ出た。
私がリンと付き合い始めたのは3か月前のこと。
卒業すれば離れ離れになってしまうと思い、この気持ちだけでも伝えようと思って、私はリンに告白した。
中学生の頃から友達だった彼女に恋心を抱いたのは、高校一年生の時にいじめられていたところを助けてもらったのがきっかけ。
恩返しというわけではなかったが、こんな私でも彼女のために何かできることはないかと、考えながら彼女の傍で生活しているうちに、彼女のことを知っていくうちに、自然とひかれていった。
正義感の強いところ、優しいところ、二人だけの時だけやけに甘えるところなど、少なくとも私は彼女の多くのところが好きだった。
私の『好き』だという告白に対して、初め彼女は少し困惑した様子だった。
当然と言えば当然のことで、この世界は私たちの『恋愛』を許していなかったからだ。
だから、私は彼女を困らせたくなかったことと、自分の気持ちだけ伝えられれば良かったこともあって、すぐにお互いに知らないところへ行ってしまうこの時期を私はあえて選んで、思いを吐き出した。
どこが好きなのかと聞かれて、私自身あの時はパニック状態になっていて覚えていないのだけれど、1から30くらいまで好きな所を挙げていたらしい。
そんな私の暴走を真っ赤な顔をして止めたリンはこう言ってくれた。
『卒業までの残り3か月間だけよ、その間だけ私たちは恋人同士になってあげる』
付き合うとかそんなことを考えていなかった私は嬉しさのあまり気絶しかかったのを覚えている。
それから、私たちは三か月間、私たち以外の誰にも気づかれることなく、本当に短い時間だったけど、『恋人』としての時間を過ごした。
楽しい時間、あるいは幸せな時間というのは短く感じるものだが、この三か月は時間を忘れてしまうほどに、どこまでも濃密で短いものだった。
「……ねえ、リン」
みっともないくらいに、か細く切なそうな声が出たが、歩き出していたリンを止めるには十分なものだったらしい。
リンは振り返ることもなく、「なにかしら?」と聞いてくる。
「私のこと、どう思ってるの?」
口に出してしまった瞬間に私は怖くなった。
嫌いよ、というリンの一言はきっと私を殺せる言葉だからだ。
それでも、嫌われていたことが分かれば、私だって諦めがつく。
自分がどうなってしまうのかは見当もつかないけれど、それでも、この気持ちが間違っていたものだって思える。
しばらくの間、リンは沈黙していた。
風が吹き抜けていき、揺れた彼女の黒髪を見つめていると、リンはあくまで冷静な声で、
「…………なんで、そんなことを聞くのかしら?」
「私のことが好きなのか、それとも、嫌いなのか、聞いたことがなかったから……」
リンは好き嫌いがはっきりとしているため、私は彼女が好きな物、嫌いな物をたくさん知っている。
でも、私に対してだけは一度だって、『好き』とも『嫌い』とも言わなかった。
ああ、なんて私は欲張りなんだろうか。
私の気持ちに答えなくていいから、知っておいて卒業してほしい。
それだけでよかったはずなのに、私は今、私の心をくみ取って3か月もの間、付き合ってくれた愛しい人を傷つけてでも、その回答を得ようしている。
「そんなの決まっているじゃない、答えるまでもないわ」
「ちょっと待ってよ」
私の問いに対しそう答えて早足で立ち去ろうとしたリンの手を反射的に取る。
リンはこっちを見てはくれなかったけれど、その足は止めてくれる。それを見て、まだリンに話しかけてもいいのだと思って、私は続けた。
「まだ答え、聞いてない……」
恐怖と不安が入り混じった中でリンは横目で私の方を見ると、
「嫌いよ」
あっさりと、そう言った。
私が手の力を緩めると、リンは振り払うようにまた歩き出した。
そんな彼女の言葉に対して、私は湧き上がってくるものを抑えながら、
「……そっか」
と、呟くしかなかった。
付き合ってから、ううん、付き合うよりもずっと前から、私はリンを見ていた。
だからこそ、彼女が誰よりも優しいのも知っていた。
(優しすぎるから、私が傷つかないように今まで自分の気持ちを言わずに付き合ってくれていたんだよね……)
私は地面を見つめたまま、涙を流す。
悲しかったし、それ以上に情けなかった。
リンのことを誰よりも考えなきゃならないはずなのに、私は今まで気づけなかったのだ。
今までずっと、リンは私のことが好きだから付き合ってくれているのだと盲目していた。
この三か月間、好きでもない人と付き合わなければならなかった彼女はいったいどんな気持ちだっただろうか。
嫌だったに違いない。
面倒だったに違いない。
苦痛だったに違いない。
彼女と一緒にいた時間の中、一人だけ楽しそうに笑っていた自分を思い出して吐き気がした。
そこにいるリンが、どうしようもなく、可哀想に思えた。
「ごめん、なさい……」
つらい思いをさせてしまったことへ謝罪をしても仕方がないことはわかっているはずなのに、自然と言葉が口から出た。
泣いたらまた、彼女を心配させてしまう。迷惑をかけてしまう。
そう思って、こらえようとしても、涙は止まってくれなかった。
「ごめ……んなさい……ごめんなさい……」
もう着ることがないだろう制服の袖で涙を拭いながら、何度も、何度も謝る。
「もう……なんで、いつもわかってくれないのよ……」
リンのそんな声がやけに近く聞こえたかと思った次の瞬間、私は暖かいものに包まれた。
それがリンの胸の中であることに気付いた私は見上げて「なんで……」と聞く。
リンは――笑っていた。
「アユ、ほんと馬鹿ね。泣いている彼女を抱きしめるのに、理由なんて必要かしら?」
「でも、私のこと、嫌いだって……」
本当に、馬鹿……。
そう言ったリンは、きつく抱きしめながら、私の髪にそっと口づけをする。
「嫌いなわけ、ないわ……」
「なら、どうして――」
リンの体温を感じながら、私がそう聞くと、彼女は私の耳元に口を近づけて答える。
「私たちが恋人として一緒に卒業すればずっと一緒にいられる、でも、恋する権利を奪われる――アユも知っているでしょう?」
それはこの世界の絶対的な規則の一つだった。
この学校で恋人となり、二人そろって卒業すればその二人は一生傍にいられる権利を与えられる。
その代わりに、恋をする権利を永遠に失う。
だから、この世界では恋愛という物自体が禁止されているのだった。
「……ずっと、一緒にいてくれないの?」
私がそう問うと、ため息とともに、彼女は言う。
「やっぱり、アユは何もわかってないみたいね……」
「わかっているよ、私のことは嫌いじゃない。でも、ずっと一緒にいたいと思うほどじゃないって――」
「—―違うわよ」
もう、なんでわからないのよ……、と、言ったリンの私を抱きしめる力が強くなる。
「わからないよ……言葉にしてくれなきゃ、わからない!」
彼女の背中に手を回しながらリンに訴えかける。
すると、リンは私の耳元で、ハッキリと聞こえるように言った。
「私にはアユに恋せずに生きるなんて、できないのよ」
「…………っ!」
リンは体を離して私の目を見ながら、続ける。彼女の目には涙があった。
「初めて会った時から……いえ、初めてアユを見た時から、ずっと好きだった。アユが告白してきてくれたとき、死ぬほどうれしかった――この気持ちは、アユと一緒にいる限り、もう、止められないのよ」
「…………」
「アユと一緒にいるのに、好きになってはならないなんて、私には残酷すぎるの」
いつだって余裕たっぷりで名前の通り凛々しかったリンのそんな言葉に、私は驚き、言葉が出てこなかった。
ドキドキ、と心臓の音が聞こえるのは、リンのだろうか、それとも私のだろうか。
ずっと、一方的な片思いだと思っていた。私だけが好きなんだと。
だからリンの言葉が凄く嬉しく感じて、顔が熱くなるのを感じながら、リンの顔を見ていると、彼女は戸惑っている様子だった。
「ごめんなさい……ちょっと、気持ち悪かったわね……」
「なんで、そんなこと――」
「ほら、拭きなさい」
「えっ……」
ハンカチを渡されて、初めてさっき以上に涙があふれていたことに気付く。
「違うんだよ、これは、嬉し涙だから」
「そう……なの?」
渡されたハンカチで目元を拭きながら、うん、と頷くと、リンはホッと安心している様子だった。
そんな彼女の仕草がたまらなく面白く、いとおしくて、私はぷっ、と噴き出してしまう。
「もう今日で別れるのに、気にすること?」
「仕方がないじゃない、アユが泣くなんてよっぽどのことだと思ったんだから」
「でもリン、可愛かったよ」
「…………っ!」
私が正直な感想を述べると、リンは突然両手で顔を隠してしまう。
「どうしたの?」
「ちょっとだけ待っていなさい、ちょっと死にそうなだけだから」
「それって、大丈夫なの?」
死にそうなんて、おかしなことを言うな、なんてことを思いながら首をかしげていると、リンはため息交じりに「…………天然って本当に怖いわ」なんて、よくわからないことを呟いていた。
しばらくの間、私に見えないようにリンは深呼吸をしているみたいだったが、やがて、冷静に戻り、いつもの調子で私を見る。
「—―それで、どうしようかしら?」
「どうするって?」
「二人で学校を出るか、それとも、ここで別れるかよ」
それは……、と、全く考えていなかった私は言い淀んでから、「リンはどうなの?」と聞く。
「アユと話していたらどっちでも良いって思えてきたわ」
「どうして?」
「離れ離れになってもいつか必ず見つけるし、恋する権利なんかなくても、一緒にいるうちにきっと籠絡されるだろうから」
「ふふっ……なんか、リンらしいね」
ここまで好きでいてくれる人に、私が今できることはたった一つ――選択することだった。
「ちょっと待ってね」
数秒間だけ、考えるために目を閉じる。
(私だってリンのことが好きだ、なら、私の取るべきは――)
「ねえ、リン」
「なによ、ア――っ!」
リンの名前を呼んだ私は彼女の唇を奪う。
「あっ、アユ、あなた……」
目をぱちくりとさせているリンに笑顔しながら、
「私はね、できるだけ一緒にいたいんだ。そして、また絶対に、リンに好いてもらえるように頑張る」
「そっ、そっか……」
まだ動揺を隠せないようで口元を隠しながら言うリンに私は手を差し出す。
その手をリンはしばらく見ていたが、やがて恐る恐る手を伸ばしてきたので、私はその手を取る。
本当は、このまま、私たちが否定されることのない、この世界にいたかった。
でも、卒業してしまった今、私たちは目の前の世界を見据えて歩き出さなければならない。
「それじゃ、行こうか。もう時間がないし」
「ええ……わかったわ」
桜舞い散る道を私たちは歩いていく。
それはリンと二人だけで歩ける最後の機会であり、また、私たちにとってのプロローグといえるものなのかもしれない。
こうして、私たちは、一緒に『恋人』として手をつなぎ、校門を出ていったのであった。
「本当に、綺麗な桜ね……」
窓の外で満開の桜が見える病室のベッドの上で女は目を細めながらそう呟いた。
彼女がこの病院に入院してからまだ一夜しかたっていない。
昨晩ここに運び込まれてきてから、いろいろと大変だったが、なんだかんだで、もう体はピンピンしていた。
そもそも、彼女は病気や怪我でこの病院に運び込まれたわけではないのだから、当然と言えば当然と言えるが。
コンコン、と病室の扉がノックされて女が「どうぞ」と言うと、白衣を着た小太りの男が病室に入ってきた。
「おかげんはどうですかな?」
「もうよくなりました」
それはよかった、と医者は言ってから、「名前は決めてあるのですか?」と聞いてきた。
「そうですね、夫と相談していましたし……」
医師は女の隣にある小さなベッドをのぞき込みながら、会話を続ける。
「生む前から決めていたということですか?」
「ええ……かなり妊娠直後から決めていました」
そう言った女は頷いてから「でも――」と、続ける。
「—―まさか、二つも使うなんて思っていませんでしたけれど」
「ちなみにその名前はいったいどのような?」
女は隣に眠っている『二人の娘』を見ながら、やんわりと母の顔で微笑んだ。
「それはですね――」
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