ゴヲスト・パレヱド.Re
こゃんぽぽラヰカ
序章 鼓動と決別
ACT1 奪われた鼓動 ★挿絵有
「逃げろッ! 食われるぞ!」
工場内に響き渡った怒号に、手にしていた五〇〇ミリの塩酸ボトルを取り落としそうになった。
逃げろ、食われるぞ。
「どうしたんだ、急に」
澪桜は隣の同僚で、仲のいい二歳上の男性妖怪——犬妖怪の、
「さあ。俺にもわからんが……危ない薬品が溢れたのか? ラボの方だから、ガスも扱ってるし」
「ゾンビウイルスが流出したりしてな。いやだね、逢魔時で世界が崩壊したのにパンデミックまでだなんて」
唐突にそんなことを言われ、周りの同僚も何が起こったのかという顔をしたが、すぐさま奥のラボに通じる渡り廊下から大勢の職員が逃げ出してきた。
白衣、作業員、スーツ——研究職から事務職に至るまで、あらゆる者が人間も妖怪も飛び出しており、澪桜もこれが異常事態だと察した。
まさか本当に、なにか危ない生物兵器が漏れたのだろうか。
「緊急放送、緊急放送。実験用の『
敷地に広がる緊急の放送で、ようやく澪桜も危機感を抱いた。
魍魎——人間、妖怪、それどころかあらゆる生命を脅かす、地球に生ける全ての天敵。その、一等級。
通常兵器が効くと仮定した上では、機甲戦闘車両の動員も必要とすらされるレベルの
澪桜は黒い髪を短く刈り込んだ頭に被った帽子を脱いだ。安全のためにつばのついた帽子をつけているが、逃げている時には邪魔にしかならない。だが、妙な義務感で塩酸だけは手放さなかった。
「澪桜、走れ!」
時也が怒鳴り、辻を曲がる。一階へ降りて、閑散としたホールに出た。
走り出して、すぐに大勢が逃げ散っていることに気づいた。就職して間も無く講習を受け、避難口も教えられていたが咄嗟の事態に思考が慌ててしまい、どこへどう逃げるべきかがわからない。
「どっ、どうしたらいい!?」
「確かシェルターは——」
そのとき、なんとも言えない匂いがした。
腐敗臭とか発酵臭ではないが、しかしそれは生きるものがやがて迎える宿命によって刻み込まれた本能が知っている、死という香りだった。
上層階の床をぶち抜いたのか、天井が崩れてそこから巨体が降ってくる。
どずん、と重い音を立てて、上背が二メートル近く、腕が四本ある四つ目の魍魎が目の前に降り立った。
鈍く煌めく金色の目に射すくめられ、時也が喉をひくつかせて凍りつく。
「逃げろ時也! シェルターに行け!」
「っ、あ……お前は!?」
「別のところから逃げる! いけっ、目をくらませる!」
澪桜は手にしていた塩酸のキャップをかすかに捻ってから、そのボトルを投げつけた。
魍魎の顔面にぶち当たった衝撃で中身がぶちまけられ、強烈な酸が魍魎の顔を焼く。
「ギィィァァァムム!」
うめき、かきむしり、皮膚を剥ぎ取る。筋繊維が剥き出しになる魍魎の恐ろしげな顔に、澪桜も呼吸が止まった。しかし時也を逃すことはできたらしく、彼はシェルターのある床の扉を開け、中に入っている。
あとは澪桜が、魍魎をどうにか食い止めて逃げ——
「が——ぶ」
——る、などという甘い考えが通用するほど、魍魎は甘くない。
もしもそんな甘ったれたことで逃げて勝てるなら、世界は魍魎に負けなかっただろう。
胸を深く抉り取った一撃。鋭いカギ状の爪には、筋肉の塊——心臓がある。魍魎はそれを口にいれ、飲み込んだ。
ややあって銃声。魍魎が逃げ出し、怒号と指示を飛ばす声がして、澪桜の意識は途絶えた。
はたしてどれほどの時間が空いただろうか。
「初めまして。それからもうじきさようなら。時間がないから前戯なしだ。死にたくないなら、命以外の全てを差し出せ」
ハロゲンランプの逆光で顔はわからないが、声からして女。
「し、に——たく、ない」
「いい子だ。実験への生前同意があるとはいえ、医師による意思確認が義務だからね。ははっ、我ながら面白いギャグだ。はははっ、あははははっ」
何がそんなに面白いのか、女は笑いながら「術式を開始する」と言った。
心臓を奪われて、どう生きながらえる——? それに、実験。ああ、そうだ。孤児院への資金援助の見返りに、自分は退魔局へ、意思決定能力が希薄になった際、最終的な確認を経た上で生前実験、死後はラボで過ごすことを契約している。
じゃあ、俺は——。
「最高の体に移してあげよう。動かせない人の身を捨て去ることに、もう後悔はないだろう?」
×
【表紙】
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