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ガッチャーン!!
STARRY店内にグラスの割れる音が鳴り響いた。
ちょうどライブの転換作業中だったので、思ったより音が響いてしまった。
「す、すいません!」
あたしはすぐにカウンターに並んでいるお客さんに謝った。
横から喜多ちゃんが、新しい飲み物をお客さんに渡してくれた。
「伊地知先輩、ここは私とひとりちゃんで。先輩はモップ持ってきてもらえますか?」
服もちょっと濡れちゃってますから、ね?
そう言うと喜多ちゃんはあたしと入れ替わってお客さんを捌き始めた。
あたしは喜多ちゃんと、ドリンクを作っているぼっちちゃんにごめんというと、カウンターを任せて、掃除道具を取りに行く。
「なんかだめだなあ今日……」
週の半ばにしては珍しく店内は混んでいた。
それなりに人気のあるバンドがいくつか揃ったからみたいなんだけど、それでドリンクが混んでいた。
そんなことライブハウスならいつでも起こりうることなのに、今日はなんだかやる気の割に手元がおぼつかなかった。
別に熱があるとか体調が悪いとかではない。
今日は本当に全てが空回りしている日なのだ。
そもそも朝からちょっとおかしかった。
今日の目覚めはかなりすっきりはっきりしていた。
「なんか今日、何でもできそうな気がする!」
それで、機嫌良く朝の準備をして、学校に向かった。
学校では授業中に積極的に手を上げて答えた。
しかし……。
「ん~。おかしいなあ」
「虹夏珍しいね、間違えまくってんじゃん」
「う~ん」
「しかも時間割まで間違えてた」
「う、う~ん……」
「まあいいや、お昼にしよう。お腹すいた」
朝持っていた万能感も、昼過ぎには雲散霧消していた。
気のせいだったのかな。
まあでもいつまでもクヨクヨしてても仕方がない。
あたしは朝作ったお弁当を取り出すと、1個をリョウに渡した。
『いただきます!』
あたしはおかずの唐揚げを口に運ぶ。
「ん!?」
「んぐぅ!!」
一口食べた瞬間、口の中に広がったのは、スパイシーとかを通り越した、香辛料の暴力。
向かいではいつもポーカーフェイスのリョウが泣きながら口を押さえて嘔吐いていた。
どうやら朝のテンションで作ったときに加減を間違えたようだ。
これは家に置いてきた分も……。
あたしは心の中でお姉ちゃんに謝った。
結局お弁当はとても食べられるおかずが存在せず、かろうじて無事なご飯に塩を掛けて食べた。
リョウは、『味がわからない』とか言ってたけど、多分唐揚げで舌をやられたんだろう。
たいしてお腹いっぱいにならないまま授業に出た結果、注意力が足りず体育の授業中に右腕を打撲してしまった。
そしてそれが、さきほどの忙しい時間帯にじわじわ効いてきてしまった。
グラスを受け取ってお客さんに渡す瞬間に痛みが走ってしまって、おもわず落としてしまった、というわけで。
「はあ~、もうダメダメだわ……」
最終的にモップも倒してバケツをひっくり返し自分もこけてしまった。
お姉ちゃんにも結構怒られたけど、あれはどちらかというとご飯のせいな気がする。
本当についてない1日だった。
お客さんがみんな帰り、バイトもみんな帰ったあと。
あたしは自販機に飲み物を買いに行った。
お金を入れてレモネードのボタンを押す。
出てきた缶を見て、あたしは笑ってしまった。
「なんでレモネード買ったのにコーラ出てくるんだろ」
一応自販機の管理先に連絡すれば交換してくれると思うけど、そういうのもどうでも良くなった。
もう今日は帰って寝よう。
そう思ってSTARRYに戻ろうとする、
顔を上げると、自販機の陰から黒い人影が飛び出してきた。
次の瞬間。
ドン!
と、強い衝撃がお腹に走る。
その何者かがあたしに抱きついてきたのだ。
「え、ち、痴漢!?」
あたしは大声で助けを呼ぼうとする。
すると。
「あ、ち、違います!」
なんとも聞き覚えのある声がお腹からした。
「え、ぼっちちゃん?」
「あ、は、はい。すいません……」
その人影はぼっちちゃんだった。
しかし格好がさっきまでのピンクジャージと全然違う。
どちらかというとちょっとこなれたバンドマンみたいなスタイルになっている。
ちょっと中性的な感じ? これはこれでかっこよく見えるな。少なくともジャージよりは良い。
「どうしたのその格好?」
「あ、こ、これは。さっきリョウ先輩に『いらなくなったから借りてるお金の利子代わりにあげる』って言われて。喜多ちゃんに『どうせなら着て帰りましょう!』って、む、無理矢理……」
「ああ、なるほど……」
喜多ちゃんはともかく、リョウ。明日お話しないと行けないねこれは。
それはとりあえず置いておいて。
「で、ぼっちちゃん、どうしてここに? てっきり帰ったと思ってたんだけど」
「あ、え、えっと。な、なんか虹夏ちゃんがし、心配になって」
「え、あたし?」
「あ、はい……。きょ、今日の虹夏ちゃんはなんかいつもと違うなと思って」
いつもよく人のことを見ているぼっちちゃんには、あたしが単純に失敗しただけではなく、調子がおかしい、という風に映ったようだ。
「と、途中でSTARRYに戻ろうと思ったら、ここで虹夏ちゃんの姿が見えたので、声を掛けようと思ったんですけど。な、なんて声かけようかなと思って自販機の横まで来て考えてたら、虹夏ちゃんが帰ろうとしてたので、い、急いで飛び出しました……」
「なるほど。とりあえず状況はわかったよ」
あたしはお腹に抱きついているぼっちちゃんを引き起こした。
「ぼっちちゃんの言うとおり、あたし今日なんか調子がおかしくてさあ……」
いつもだったら、大丈夫大丈夫! って言って、ぼっちちゃんを帰らせてたと思う。
でもなんだか今日は弱り目に祟り目が重なりまくってしまって、今かなり弱気になっていた。
それでぼっちちゃんに、愚痴じゃないけど、今日遭ったことを全部ぶちまけてしまった。
「いやほんと、あたしが朝からちゃんと注意してればどれも大丈夫だったんだけどねえ~。調子に乗るな! ってことかな、あははっ」
「に、虹夏ちゃん!」
「うお、びっくりした。な、なに?」
「に、虹夏ちゃんは頑張ってるんです! ま、毎日学校に家のことにバイトにバンド。全部ちゃんとこなしてるだけですごいんです! わ、私なんかギター弾くことしかできないし、学校は中退したいし、バイトは辞めたいって今でも思っちゃうし……。ば、バンドは有名になって売れたいですけど」
「う、うん……」
「そんな私のことも虹夏ちゃんはちゃんと見てくれて、わ、私虹夏ちゃんにはとても助けられてて。で、でもだから!」
ぼっちちゃんはそっと両手をあたしの後頭部に回し、優しく自分の胸に引き寄せた。
ぼっちちゃんの豊かな胸にあたしの顔が押し当てられる。
「つ、辛いときとかはいつだって言ってください! わ、私じゃ頼りにならないかもしれないですけど。に、虹夏ちゃんは私のことヒーローだって言ってくれたし、わ、私もいつでも虹夏ちゃんのヒーローでいたいので!」
ぼっちちゃんから伝わる体温と、優しい言葉にあたしは思わず泣きそうになった。
そうか、自分では失敗してだめだとしか思っていなかったつもりだったけど。
もしかしたらあたしは、誰かに失敗したことを慰めて欲しかったのかもしれない。
考えてみれば、大丈夫? とか、珍しいね、みたいな同情めいたことは言われても、面と向かって慰められるなんて最近はなかった。
ぼっちちゃんは家ではお姉ちゃんだから、もしかしたらそういう機微に聡いのかもしれない。
あたしは何も言わずにぼっちちゃんの背中に両手を回した。すると、ぼっちちゃんは優しく頭を撫でてくれた。
ぼっちちゃん、手も温かくて気持ちいいな……。
しばらくそんなことをやっていると、不意にあたしのスマホが鳴った。
「あ、やばい、お姉ちゃんからだ」
なかなか帰ってこないあたしのことを心配して電話を掛けてきたと聞いて、電話したままぼっちちゃんに今何時か聞くと、ぼっちちゃんの帰れる電車がない時間だった。
電話口でそのやりとりを聞いていたお姉ちゃんはなんでぼっちちゃんがそこにいるんだ? と聞いてからあたしの答えを聞かずに、
『とりあえずぼっちちゃん連れて帰ってこい。ぼっちちゃんちには私が電話しとくから』
といって電話を切った。
「ごめんねぼっちちゃん、あたしのせいで。今日は泊まっていってよ」
「あ、い、いいんですか?」
「大丈夫、お姉ちゃんもぼっちちゃんがいるってわかっただけで連れてこいって言ってたし」
「え? て、店長さん私が虹夏ちゃんと外で会ってたから怒ってる……?」
「それは絶対にないから。お姉ちゃんぼっちちゃんが好きなだけだよ」
あたしはさっき出てきたコーラの缶をぼっちちゃんに渡して落ち着かせる。
そして空いてる方の手を引っ張って家まで一緒に戻ることにした。
「はあ~。ぼっちちゃん……」
翌日、ぼっちちゃんを見送ってからあたしはいつものように学校に向かった。
今日は昨日みたいな事にはならず普通に過ごすことができた。
しかし、家に戻ってきてから一人スタジオに行き練習していると、昨日のことを思い出してしまう。
「ぼっちちゃん柔らかかったなあ。いつも防虫剤の匂いがって言ってるけど、抱きしめられるとなんか懐かしい感じになるし」
あたしのことを心配して家に帰らずに戻ってきてくれて、全身で包み込んでくれるぼっちちゃん。
あの体験の記憶が麻薬のようにあたしの思考を蝕んでいた。
「またぼっちちゃんに慰めてもらいたいなあ……」
しかしさすがに昨日とは違って特に何もないのに慰めてくれだの何だの言うのはちょっとなあ。
そもそも何に関して慰めてもらえば。
う~ん。
ドラムを叩く手を止めて腕組みして考えていると、スタジオのドアが開いた。
「あ、に、虹夏ちゃん。は、早いですね」
そこには今朝方分かれたぼっちちゃんが立っていた。
さすがに昨日来ていた服では学校に行けないとのことで、今はピンクジャージを着ている。
それも私服じゃないのかな……。まあいいか。
「あれ、喜多ちゃんは一緒じゃないの?」
「あ、はい。なんか用事があるとかで先に行ってくれって」
「そうなんだ。リョウも先生に捕まっちゃってて遅れてくるみたいなんだ~」
練習に来たぼっちちゃんとそんな話をしてから、とりあえず二人で合わせて見ることにした。
あたしは練習の最中もぼっちちゃんのことをチラチラ見てしまっていた。
そのせいかリズムが安定せず、ぐだぐだな通しになってしまった。
「あ、に、虹夏ちゃん……」
「ご、ごめんね~ぼっちちゃん! なんか全然リズム安定しなくて」
ぼっちちゃんを見てたことばれてないよね? という一種の羞恥もあり、だめだな~あたし、と言いながら頭をかいてごまかそうとした。
しかしぼっちちゃんは心配そうな顔をしてこっちに寄ってきた。
「に、虹夏ちゃんやっぱりまだ何か調子が変だったりするんじゃないですか?」
「へっ?」
「だ、だって今日の音は明らかにいつもと違いますよ……。ちょっと顔も赤いし何か無理してるんじゃないかと思って」
そういうとぼっちちゃんはあたしの額に自分の額を当ててきた。
「あ、ね、熱はないみたいですね、へへっ、良かった」
「ぼ、ぼっちちゃん!!」
そして額を離すと、そのままドラムスローンに座った状態のあたしを、ぼっちちゃんは抱きしめた。
「つ、辛かったらいつでも言ってくださいね? わ、私がいつでも慰めてあげますからね!」
「ぼっちちゃん……」
昨日と同じようにぼっちちゃんの胸に抱かれる感触。
正直かなり、良い。
ぼっちちゃんの匂いとぼっちちゃんのハグ。そして耳元で囁かれるぼっちちゃんの声。
すべてがあたしにとって最高の癒しだった。
「ぼ、ぼっちちゃん、あの……」
「は、はい。なんですか?」
「あ、あたし。みんなが思ってるほど明るい性格でもなくてさ。喜多ちゃんみたいに陽キャ全開でもなし、かといってリョウみたいに一人でも大丈夫なわけでもないし」
「はい」
「だから、ぼっちちゃんにこうやってもらうと、なんだかとっても落ち着くっていうか。すごい癒される感じがして。だから、みんながいないときに――」
またこうやってもらってもいいかな?
そう聞くとぼっちちゃんは嬉しそうに答えた。
「わ、私なんかが虹夏ちゃんのお役に立てるなら、いつでもこれくらいやりますよ。だから虹夏ちゃんも、頼りないかもしれないけど、私に頼ってくださいね? い、いつでも虹夏ちゃんのヒーローでいさせてください!」
「う、うん! ありがとうぼっちちゃん!」
あたしはそのままぼっちちゃんを抱きしめ返した。全力で。
ぼっちちゃんからは、ぐぇ、とか、ぐ、ぐるしい、とか聞こえた気がするけど。
とにかくあたしのヒーローであるぼっちちゃんがあたしのことだけを心配してくれて、いつだって頼ってくれって言ってくれて、とても嬉しかった。
そうか、ぼっちちゃんはあたしからヒーローとして頼られたいんだなあ。
ぼっちちゃんあたしがいないとだめってことか、ふふっ。
あたしもぼっちちゃんがいないとだめだけど、ぼっちちゃんもあたしがいないとだめなんだと思うと、なにかゾクゾクしたものを感じた。
――――――
「あ、ちょ、ちょっとトイレ行ってきますね」
そういうと私はスタジオの廊下に出た。
振り返ってドアの窓から覗くと、虹夏ちゃんは先ほどまでより元気よくドラムを叩いていた。
「ぼっち、お疲れ」
「あ、りょ、リョウ先輩。お、お疲れ様です」
そんな私の後ろから、いつの間にか来ていたリョウ先輩が声を掛けてくる。
私たちは廊下の隅っこに移動して、昨日からの話をしていた。
「き、昨日リョウ先輩に言われたとおり、凹んでた虹夏ちゃんを自分なりに慰めてみたら、なんか喜んでくれたみたいで……。きょ、今日も調子が出てなさそうだったので、さ、さっきまで抱きしめてました」
「うん。それで虹夏なんか言ってた?」
「あ、は、はい。なんか、みんながいないところでまた癒やして欲しいとかなんとか」
「あ~、なるほどね」
虹夏、ぼっちにハマっちゃったねえ。あとはぼっちに任せるけど。というリョウ先輩は、口調は心配してそうだけど、顔は笑っていた。
「あ、あの。リョウ先輩は、昨日虹夏ちゃんが、元気が空回りして失敗したのを引きずって何でも裏目に出てたってわかってたんですよね?」
「まあね。だいたい本人が昨日は何でもできそうっていう気分で登校してきたって言ってたしね」
缶ジュースの件は知らないけど。と付け足す。
「じゃ、じゃあ原因がわかってるんだったら、リョウ先輩が自分で慰めても良かったのでは?」
「わかってないなあぼっち」
先輩は指を横に振った。
「私が虹夏のことを心配するようなそぶりを見せても、多分本気に取らない。郁代に任せると映えスポットに連れてくとかしか思いつかない」
「そ、それはさすがに喜多ちゃんに失礼な気も……」
「でもぼっちなら、真面目に虹夏のことを心配してくれそうじゃん。少なくとも虹夏はそう思うでしょ」
「そ、そうですかね?」
「そうだよ、だってぼっちは虹夏のヒーローなんでしょ?」
ヒーローはいつでもお姫様を助けないとね。
そういうとリョウ先輩はスタジオの部屋に入っていった。
正直、リョウ先輩に言われて半信半疑だったけど、とにかく虹夏ちゃんが元気になってくれたみたいで良かった。
なんか、慣れない格好したのも、明るいところで見るとすごい似合ってるって嬉しそうに言ってくれたし。
私でもギター以外に虹夏ちゃんの役に立てることがあったんだなと思うとちょっと嬉しい。
それに。
「虹夏ちゃん。抱きしめると良い匂いがしたなあ。なんか柔らかかったし。すごい女の子っぽかった……」
正直、さっきの練習で虹夏ちゃんが私のことをチラチラ見てるのはわかってた。
おそらくリズムが狂ってたのもそのせいだろう。
もしかしたら? と思って、昨日と同じ感じで虹夏ちゃんにハグしてみたら、思いのほか受け入れられた上、もっとしても良いというお墨付きを本人にもらった。
虹夏ちゃん。
正直私はいつでも虹夏ちゃんに触れていたいし、触れて欲しかった。
それに虹夏ちゃんからヒーローとして頼られる瞬間。
その瞬間、私のなけなしの自己肯定感が一気に満たされる感じがして。
あれ、これってつまり。
虹夏ちゃんは私がいないとだめで、私も虹夏ちゃんがいないとだめってこと?
それってつまり、りょ、両思――。
「それは共依存ね、ひとりちゃん!」
「ひぃ! き、喜多ちゃんいつからそこに!?」