pixivは2022年7月28日付けでプライバシーポリシーを改定しました詳しいお知らせを見る

ゆう
ゆう
しのぶ様の瞳は私を映さない・終編 - ゆうの小説 - pixiv
しのぶ様の瞳は私を映さない・終編 - ゆうの小説 - pixiv
18,744文字
しのぶ様の瞳は私を映さない・終編
001
2023年4月7日 10:35


夢主
記憶あり。親は放任主義。

しのぶさん
前世の記憶は一応ある。
その手の話を夢主に仄めかすと、シリアスな顔をされるので黙っている。



地獄編 要約
『鬼を地獄へ送り届けるのは簡単じゃないし足に生傷は出来るしで最悪』
↓読まなくても良い詳細。













状況を説明しよう。窮地に立たされている。

「この暗い世界の先に、轟々と火が燃えさかっている場所がある。そこに置いてくれば、極楽方面へはいけないだろう」

 地獄付近に鬼──名乗られたが忘れたのでこう呼ぶ──諸共墜落した私は、鬼の頭を抱えながらこの間すれ違った2人連れを思い出した。「なんであんたみたいなのが」と驚いた若い男は「知り合いか」と私に訊ね、「赤の他人です」と言った私にそれだけ教えてくれた。

 鬼の首を左手で抱え、右手で襟首を掴んでずるずる引きずる。さっき見えた地獄の炎は、前よりだいぶ大きく見えた。

 訓練を続けてよかったなと、ぼんやり思った。引きずって歩くのは容易ではない。それにこの鬼は何回も逃げ、意地汚く極楽方面へ行こうとするのだ。毒で再起不能な状態とは言え、腐っても上弦。連れ戻すには体力も根気もいる。
 鋭い痛みが右太腿の付け根に走り、思考が連れ戻される。胴体からにゅっと生えた腕が、足の付け根を血が滲むほど強く掴んだのだ。手元の首に視線を落とす。

「人の話はちゃんと聞かなきゃだめじゃないか」

 躾がなってないねと鬼は悪びれもせず子供みたいに笑った。
 基本、私はこの鬼の言葉は聞かないようにしている。
 というか処理落ちした。「しのぶちゃんは僕の運命の相手なんだ」と言われた時点で「これは手に負えませんわ」と脳が理解を拒絶したのだ。短くも長い半生の間で初めてだった。嬉しくない。
 ありがたい事に鬼は相手の反応はに頓着しない性質で、私が明後日の方向を見ながら考え事をしていても好き勝手ベラベラ喋っていた。
 しかし、時折こうやって気を引いてくる。おかげで私の右足の付け根はボロボロだった。

「躾がなってない女の子は嫌いだな。あの蝶羽の子も」
「カナヲはいい子ですよ」

 事実だけを言ってまた歩み始める。鬼は自分の報われなさと周囲の無能さを一通り話し、親や出生について話し始めた。この話題は初めてだなと少しだけ耳を傾ける。ひどい親もいたものだなと思った。

 地獄の炎がすぐそこまで迫った時、ふと気まぐれに、初めて私は鬼に質問を投げた。

「あなたを守って、育ててくれる人はいなかったんですか?」

 子供は守るもの。年下なら甘えるもの。後輩は言う事を聞くもの。部下は命令に従うもの。どんな人だって不器用な愛情を無条件でくれたし、少しでも良い結末を迎えられますようにと祈ってくれた。

「いないけど」
「そうですか」

 地の裂け目から炎が再度噴き出す。
 この鬼が狂っている理由がわかった。周囲にまともな大人がいなかったのだ。相手との関わり合いの正解を知らないまま大人になったんだ。
 鬼は私を見て哀れむように涙を流した。

「君って無意味だね。可哀想に」
「貴方にとってはそうなんでしょう」

 でも、私にとって無意味なのはあなたの方ですよ。鬼の顔から表情が消えて瞳孔が開く。それに私は渾身の笑顔を浮かべた。人生で一番上手く出来た作り笑いだった。

「あなたの恋は叶いませんよ」

 誰もあなたのために祈らないから。そんな呪いを吐いて、炎の中に首と身体を突き落とす。彼は心の底から驚いたように目を見開いて、気がついたら私の足を掴んでいた。一緒に落ちかけ、反射的に地面に爪を立て踏ん張る。
 鬼の爪が、私の足を盛大に切り裂いて外れた。その身体は落ちて見えなくなる。最後に『どういう意味?』と口が動いたのが見えた。


 こうして、私は見事窮地に立たされてしまったのだ。

「痛い……」

 とんでもない深手だ。本当最後までロクなことしなかったな……と多大な倦怠感と徒労感が押し寄せてくる。意識が揺らぐ。この足では帰れそうにない。出かけた涙はすぐ乾いてしまった。

「誰か」

 もう見えないほど遠い光へ手を伸ばす。無論暗闇は返事をしない。やっぱり駄目だよねと笑ってしまう。悔しいな、あんな奴と地獄行きだなんて。

 誰かが全力疾走をしているような足音が聞こえた気がした。都合の良い幻覚だなと自嘲し、もう一度手を伸ばす。

 震える私の手を、がしりと大きな手が掴んだ。

「うむ!相変わらず君は無茶をするな!」

 獅子のような瞳が地獄の炎を反射して爛々と輝く。

「煉獄様……!?」
「いかにも。ひさしいな」

 煉獄様は手際良く私を引き上げ、足を見て「大義だが大惨事だな!胡蝶が怒るぞ!」と言いながら懐から取り出した手ぬぐいを手で盛大にちぎり、それで止血を施してくれた。
 包帯がわりにされた手ぬぐいの模様は、すぐに血で汚れて見えなくなる。

 それに気を取られ「いえそんな」と遠慮をする暇なくおぶわれてしまう。早業である。そのままスタスタと極楽の方へ歩き始めた煉獄様に呆気に取られつつ、彼に話しかけた。

「どうしてここに?」

 意外といえば意外だ。確かに蝶屋敷や任務先で話したことはあったけれど、彼の部下になったりした訳ではない。

「夢枕に立ったらな、甘露寺に泣きつかれた!」
「蜜璃さんが」
「君は恋にかけては信じられないほど強くなれるが、同時に無理もしすぎる、と」

 声や仕草まで思い浮かぶ。心配をかけてしまったらしい。心の中でありがとうございますと呟いた。
 ずきずきとした痛みで意識が朦朧として来た。傷が残らないと良い。というか残ったらどうやって誤魔化そうか。

「胡蝶には伝えないのか」
「ぶっちゃけ重いですからね」

 煉獄様は急に立ち止まって、こちらを向いた。至近距離で目が合う。

「君たちはもう少し話し合うべきだと思うぞ」
「それ、冨岡様にも言われました」

 柱って似るんですねと笑う。そしてそこが限界だったらしく、意識を失ってしまった。












 事の起こりは、あのチョコレートの出没をすっかり失念した点に尽きる。
 冬になると日本各地のスーパーに生息しはじめ、春になる頃にどこぞへ消える。ごく普通の洋酒入りチョコレート。
 ご機嫌なしのぶさんを眺めながら、もう奴の季節だったなと思った。ばたばたしていて忘れてしまい、うっかり胡蝶家の敷居を跨がせてしまったのだ

「しのぶさん、その手の中にあるやつ下さい」
「やです」

 子供のように満面の笑みを浮かべて、しのぶさんは首を横に振った。学校帰りに隣家の胡蝶家を訪ねて彼女の部屋に寄るのは、もはや私の日常だ。

 ローテーブルに広げた小難しい参考書を相手に楽しそうに鼻歌を歌っていたので、不審に思って確かめたらコレである。
 どうしたものかと思案していると、しのぶさんは「座ってください」と自分の隣をぽんぽんと叩いた。
 スカートを整えつつ柔らかなラグに正座をする。しのぶさんは私の顔を覗き込んで「ふふふ」と目尻を下げた後、ポスっと私の膝の上に倒れこんだ。
 ほどけかかっている髪から蝶飾りを外し、手櫛で軽く整えるとフランボワーズのような匂いが漂った。目を細めている隙にチョコレートを没収する。

「シロ」
「あ、これ景品あるみたいです。1等は旅行ギフト券10万円分ですって、応募してみますか」

 気をそらさせようと裏面の応募要項を読みあ上げる。恋愛ドラマの番宣も兼ねたコラボらしく、妙にペアという文字が目立つ。
 3等のエコバック欲しいなと思っていたら、髪を撫でていた左手を人質に取られてしまった。
 しかたないので箱を置いて右手で頭を撫でると、しのぶさんは心底幸せそうに、ふにゃりと笑った。左手離してくださいと言っても「だめでーす」とふわふわした声をあげて、甘えん坊の猫がするように腕を絡められる。

「ちっちゃくて可愛いおててですね」
「いつの話ですかそれ……」

もう身長も数センチくらいしか変わらない。このペースで身長が伸びた場合、しのぶさんを追い抜くのも時間の問題だ。

「嫌です。ずっとちっちゃいままでいて下さい、いじわる言う子に育てた記憶はありません」
「また無茶な」
「そもそも根拠はあるんですか」
「はいはい」

 いや、前世でそうでしたから。そう言いかけて飲み込んだ。
 私が前世を思い出したのは比較的早かった。私の付近で1番遅かったのはカナヲで、しのぶさんは未だ何も思いだしていないようだった。
 特に支障はない。お酒を飲むと甘えたになるのも、私の頬を撫でて小首を傾げる仕草も、薬学を好むところも、庭先で育てている花まで前世と同じだ。

 そういえば柱の宴会が近くであると、必ずしのぶさんの鴉が私を呼びに来た。私がいない時は大丈夫なんだろうかと心配したところ、生温い目で「心配するな、大丈夫だ」と言われたのは未だに謎だ。
 そして転生して体が変わったから体質も改善したのではと思ったら、そんな事はなかった。

「気持ちいいですか」
「んん、そのまま」

 レースのカーテン越しの光の中で、彼女はひとつ欠伸をした。そのまま唇から笑みを消し、目を閉じる。ただ膝が暖かい。ローテーブルに目をむけ、難解な英語で書かれたページをぼんやり見る……参考書ではなくて薬学を記した物だったらしい。

 手触りの良い黒髪を撫でながら、取り留めのない考え事をする。
 このチョコの会社ってどこだっけ、日差しがまだ弱いな、明日の英語を教えてもらおうかな、洗濯しまったっけ、しのぶさん寝ちゃいそうだな、あの本難しそうだしなぁ、留学とかしたいのかな、そこまで踏み込んで聞いていいのかな。諸々がぼやけた輪郭のまま浮かんでは消えて行く。
 ふと。体質が前世と同じなら今世でも呼吸が使えるかもしれない。そんな思いつきが脳裏で像を結んだ。

「ねえ。」

 つんと頬をつっつかれて意識が連れ戻される。少し眉を吊り上げたしのぶさんが私を見上げていた。

「何を考えているんですか」

 なんでもないですよと首を振ると、釈然とはしない顔はしているが許してはくれたらしい。しのぶさんは表情を緩め、私の身体に頬をすりつけた。

「どこにも行かないで下さいね。どこかに行っちゃう貴女なんて嫌いですから、私」
「手厳しいですね」
「……どこかに行けちゃう貴女を許してるだけで甘すぎるくらいです」

 鮮やかな紫の目に困ったように笑う私が映った。そこに睫毛の影が落ち、まぶたが閉じられる。寝てしまうらしい。
 平和だなと思う。もう、私の幸福が彼女の悪夢になったり、私を映さない瞳に絶望する瞬間もない。
 だからこれは些細な事なのだ、と脳内に居座っていた考え事を頭から追い出した。
 呼吸と、いつからか痛み始めた足についてだった。



 前世の話をしよう。大変不本意ながら、私はあの鬼と地獄に落ちた。
 基本、私はこの彼の言葉は聞かないようにしていた。というか処理落ちした。「しのぶちゃんは僕の運命の相手なんだ」と言われた時点で「これは手に負えませんわ」と脳が理解を拒絶したのだ。
 鬼が好き勝手ベラベラ喋り、私は極楽方面に行こうと逃げる鬼を捕まえ奮闘し、彼を地獄へ叩き込んだ時に右足の付け根に結構な深傷を負わされた。

 詳細は、怖い事に覚えてない。なんなら地獄へ行った事実さえすっかり忘れていたくらいだ。
 それくらい今世の日々は穏やかで、前世なんて入り込む隙間はなかった。悲しい事と言えば、女同士への偏見が根強く「今世では恋仲にはなれないなぁ」と思ったくらいだ。
 それだって別に。しのぶさんが生きて、それが幸せな事だと彼女が思っているだけで帳消しにできる。

 異変が出たのは去年の秋。なんだか足の付け根付近が痛いな、変だなと思っていたらみるみる赤く腫れて来た。そして、気がついたのである。あの、ええと……稚児だか禿……按摩?……名前は忘れたけど、奴の悪あがきで負傷した場所だな、と。

 こちらからの所感は「ホラー演出はやめて欲しい」の一言に尽きる。もう一言足すなら「なぜ今?」だ。
 あの野郎。本当に無理。なんでそういう事するんだろうか。
 そもそも血鬼術とかオカルトファンタスティックに走らないで欲しい。いつまでも大正のテンションで仕掛けないで。物理法則に従って生きて頼むから。

 事情を知ってる煉獄先生や冨岡先生に相談したら「鬼の考える事はわからんな」という結論に達した。カナエさんも死因の傷跡とかはないようだし、とりあえず様子見してはいる。

 つまるところ、私はすさまじく呑気だったのだ。

 ちなみにチョコレートのプレゼント抽選に応募したところ、なんと2等が当たった。
 オーダーメイドペアリング?とやららしい。詳しい事は知らないが、胡蝶家はちょっとした喧騒に包まれ、巡り巡ってなぜか私とアオイが大量のパンを買いに行く羽目になったのだが、これは別の話。









 
 変化があったのは初夏の金曜日。よりにもよって連休の前日だった。

 前兆はなかった。しのぶさんと一緒に帰ろうとしたら、少しフェンシング部での後片付けで時間がかかると言われてしまった。
 特に珍しい事ではない。最近、しのぶさんは妙に忙しそうだなのだ。噂では卒業したら留学もさもありなん……と囁かれている。少し不安ではあるけれど、まあ彼女がやりたい事ができるなら、それが1番だ。話してくれないのは少し寂しいけれど。


 そんな感傷にひたりつつ「暇だし中等部のキヨ達に会いに行こう」と部活が休みだったカナヲを誘ったのだ。
 学園祭の準備が大変だ、帰りに100均に寄ろうか、予約した本を受け取らなくちゃ、中等部の薬学研究部の設立が近いらしい。そんな他愛のないことを話しながら歩く。

 渡り廊下を左折しちょうど3色の蝶飾りが見えたのと同時に、音のない悲鳴が喉から飛び出した。

 嫌というほど前世の最後に見た男が、ニコニコと笑いながらキヨ達に話しかけていたのだ。
 駆け出したカナヲがキヨ達を男から引き離すと、男は「あれ」ととぼけた声をあげた。身体を滑り込ませ、キヨ達に伸ばされた手を引っ叩き背後の4人を庇う。逃げ遅れたらしいスミが私のスカートをぎゅっと握っていた。

「やあ、こんにちは」

 鳥肌が立って、ぐらりと三半規管が揺さぶられたような不快感に襲われる。白に血を漬け込んだような髪に虹色の目、上等そうなスーツ。異端としか言いようのない姿が日常の風景の中に紛れ込んでいる。それは予想以上のおぞましさを伴った。
 やけに品の良い男物の香水の匂いが鼻について足がすくんだ。

「シロちゃん、だよね」
「お帰り願いますか」
「つれないなぁ」

 退路を塞がれた。嫌悪感を隠さないで後退りしても男はケラケラと楽しそうに笑うだけだ。ろくでもない予感がして、スミに「耳塞いで」と伝える。それと同時に男は口を開いた。

「なんでしのぶちゃんと会おうとしたのに君に会っちゃうんだろう? 君何かしてる?」
「今、大正じゃなくて令和ですよ」
「ふうん? ねえ──君は───、じゃあ」

 何かをベラベラ話してるみたいだけど、うまく聞き取れない。背後のカナヲがあきらかに怒っているので、ろくでもない話なんだろう。理解すると精神を削り取られそうな単語が所々聞こえてくる。しのぶちゃんという音が聞こえた。臓腑を撫でられるような刺激に吐きそうになる。
 これ以上理解すると公衆の面前で吐くなと察した。
 しかし……そうか……と現実逃避をしつつ、消化器官がひっくり返っていくような嫌悪感に耐える。
 喉の奥が少し熱い。ああ、迫り上がった胃液が粘膜をじんわり溶かしているのだと気がついてに思わず少しむせた。




「……ねえ、聞いてる?」
「…………何ひとつ聞いてませんね」

 しらけた空気がひしひしと肌にのしかかってくる。男は「えー」と子供のような声を上げた。内包する凶悪さと酷くミスマッチで気分が悪い。
 背後のスミに「はやくお逃げ」と目線を送ると、スミはパッと弾かれたように駆け出してキヨとナホに合流する。カナヲが「先生を呼んできて」と言うと、3人はぱたぱたと渡り廊下の方へ走って行った。

「聞いてなかったの?」
「はい」
「だいぶ重要な話だったんだけど」
「シロ。聞いてないなら、それで大丈夫」
「ありがとう、カナヲ」
 
 さてどうやって切り抜けるかと考えを巡らせていると、どこからか声の余韻が聞こえた。
 さあっと血の気が引く。
 前世から何回も聞いた声だ。間違えるはずがない。背筋が冷えきるのと同時に、昇降口の向こうから軽いローファーの靴音と「シロ? シロ、どこにいるんですか?」と私を呼ぶ声近づいて来て、すぐそこの曲がり角まで迫った。
 そして顔を出したしのぶさんと目が合った。

「え」

 ふわりと温かな表情が凍りつき、肩からバックが滑り落ちる。フェンシングの剣か何かがバッグの中で鋭い音を立てた。
 しのぶさんは庇うように私と男の間に立つ。
 予想しうる中で最悪な事態が起こってしまった。バクバクと心臓が耳奥で鳴る。何かやりとりをしているようだが、何も聞き取れない。
 焦っていると、男がちらりとこちらに視線を寄越した。

「君もしのぶちゃんの事が好きなんだろう?」

 息が詰まった。

「しのぶちゃんを好きでいるのは勝手だよ。うんうん、俺は寛大だからね。
でも、女同士じゃしのぶちゃんの家族も納得してくれないし、そんなに世の中甘くない。
俺は顔もいいし、稼ぎもあるし、それに子供だって作れるだろう?好いた人を不幸にするのは良くないぜ?」
「黙って」

 カナヲの一声が廊下に響き渡った。

「あなたが、しのぶ姉さんと、シロについて語らないで──まだ、何もわからないくせに」

 強い侮蔑の籠もった嘲笑う声に、男は笑顔を消した。「本当に躾がなってない子だなぁ」と眉をひそめた後、唐突に何か思い出したように「あれ」首を傾げ、しのぶさんの肩越しに私の方を見た。しのぶさんの背中が殺気立つ。

「そういえば君、どうやって帰ったの?」

 血が沸騰したかと思った。「帰った?」としのぶさんが怪訝そうな顔で呟く。「黙って」と叫ぶと鬼は心底愉快そうに笑った。仕返しのつもりらしい。なんて底意地が悪いんだと奥歯を噛み締める。
 悲惨な話がとうとうと薄い唇から語られる。一緒に地獄へ落ちた事、私の右足に怪我を負わせたこと、一番隠して置きたかった秘密が、何重にも嘘や祈りで包んで隠したものが、無遠慮な手で剥がされ顕になる。

 全てを聞き終え、呆然とした表情で私を見つめるしのぶさんに「違うんです」と泣きそうな声で弁明した。何も違うわけではないけれど、思わず口からこぼれ落ちたのだ。
 乱雑な足音と共に見慣れた青ジャージが駆け込んで来る。キヨ達が呼んできてくれたらしい。

「冨岡先生」

 しのぶさんが私の腕を掴んで、冨岡先生に向き直る。

「なんだ」
「よろしくお願いします」
「心得た」

 





「痛い、痛いです」

 いつもの帰り道、しのぶさんは終始無言のまま私の手を引いていた。
 有無を言わさぬ力に悲鳴と懇願が混じった声を上げてしまう。跡が残るんじゃないかと危惧してしまうような痛みに顔をしかめても、しのぶさんはお構いなしに進んでいく。
 玄関についた時、私はもう半分泣いていた。そのまま屋内へと連れ込まれる。

「まってください、靴をまだ」

 脱いでないです、と続くはずだった言葉は喉の奥でかき消えた。振り向いたしのぶさんは無表情だった。
 温度のない視線だった。静かな怒りだ。しのぶさんは情が熱い性分で、愛情も憎悪もびっくりするくらい苛烈だ。だからこんな氷を連想させるような表情は初めてで、ぞっとした。急いで左足のローファーを脱ぐ。
 4月におろしたローファーは硬く、右が脱げない。焦れば焦るほど指先が狂う悪循環に泣きそうになった時、しのぶさんは私の足元にしゃがんだ。

「足」
「え」
「出して」

 子供のように右足を差し出すと、しのぶさんは白い指をするりとローファーに這わせ器用に脱がせてくれた。そのまま両靴を揃えて置く。かかとが石畳を踏んで小さな音を立てた。
 しのぶさんは所在無さげに停止していた私の左腕をつかんで、廊下を荒い足音を立てながら進み始めた。

 なす術もないまま自室に引きずりこまれ、容赦のない力でベットへ放り投げられる。がちゃりとしのぶさんが後ろ手で鍵を閉める音が、受け身を取りそこなった私の耳に届いた。
 なんとか起き上がろうとしたところを突き倒され、身動きが取れないように固定される。

「しのぶさ、」
「黙って下さい」

 スカートをたくし上げられ、タイツに指をかけられる。驚いて止めようとのばした手を掴まれた。ぎりりと締め上げられる。そこから彼女の激情が伝わって来て「ごめんなさい」と反射的に謝る。震えた声がやけに響いた。
 私が抵抗をやめると、しのぶさんはタイツを引きずり下ろした。素肌がひんやりとした空気に晒されて身震いする。
 光の下に晒された右足の付け根は赤黒く腫れてグロテスクだ。しのぶさんは大きく目を見開いて息を詰まらせた。その動きにさえ思わず身を縮こませる。言い逃れはまったくできない状態だ。

 しのぶさんは一度深くうつむいて肩を震わせた。そして爆発したかのように私を強く押さえつけて叫んだ。

「ねえ、どうして」

 収まりきらない感情が声に滲み出している。剥き出しの悲哀と憤怒と痛みに圧倒される。彼女の傷を、最悪な形でえぐってしまったのだ。

「しのぶさん、前のこと」
「覚えてますよ、全部。家族を殺されたことも、継子を殺されたことも、大切な人を鬼に傷つけられたことも、守れなかったことも」

 貴女だけは……なのに、貴女まで……としのぶさんはうめくように言った。
 悲痛が形になったような、今にもばらばらになってしまいそうな声だった。ああ、ここで正直に話さないと、しのぶさんは壊れてしまう。
 怯えて震える喉に無理やり息を通した。

「最初は、貴女に見て欲しかったんです」

 無力で、意気地は無くなって、足を怪我して、役に立てなくなって。みじめだった。私を映さない瞳に絶望した。生きることが幸せだと盲信していた自分の願いが、しのぶさんの悪夢にしかならなかった事が悲しかった。
 飲み込みかけてしまう言葉を懸命に押し出す。折り鶴にした手紙に書いた感情をあらかた言葉にした。
 最後の言葉を躊躇い、何度か大きく息を吸う。そして私は崩壊の引き金かもしれない言葉を口にした。

「……もし同じ状況になったら」

もし、あなたがあの鬼に目をつけられたように、どうしようもない危機に陥ったら。
きっと私は、反射的に駆け出してしまうだろう。自分を犠牲にしてでも、あなたが私を見てくれなかった日々に逆戻りすることを拒むだろう。

「同じことをします」

 しのぶさんは、ぴくりとも動かないで聞いていた。
 そして酷い頭痛をこらえる時の顔をして、絞り出すように大きなため息をした後、残った息で微かな言葉を吐く。聞き取ろうと耳をすませると、ぽたりと水滴が私の頬に落ちた。
 それが涙だと気がついた瞬間、しのぶさんは強く私を抱きしめた。火傷しそうなほど熱い体温に包まれる。上体を起こし、おずおずとその細い背中に手を回す。震えていた。
 
「しばらく、このままでいさせてください」

 かすれたソプラノでそれだけ言うと、私の肩に顔を押し付けてしのぶさんは何も喋らなくなった。

 息を切らして帰ってきたカナヲがノック無しで駆け込んできても、彼女のスマートフォンの着信履歴が見たことの無い数字になっても、最愛の姉であるカナエさんがベッドの側にしゃがんでも、だんまりである。
 終始おろおろしていたカナヲとは対照的に、カナエさんは「あら」と眉を下げた後テキパキと「ご飯はここで食べるのね」「お風呂は?……そう」と一通り話して退室した。
 胡蝶家の適応力の高さはどうなってるんだろうと思ったし、思ってる間でさえしのぶさんは無言だった。

 私は、ただじっとしていた。何度も、ずっとこのままだったらどうしようと、嫌な想像をした。






 しのぶさんが口を開いたのは、時折話かけ、体勢を変え、食事を取ったり、体の筋を少し痛め、また話かけと過ごした2日後の事だった。

「私だって、シロ。貴女がこんな事になっていたら笑えないですよ」

 しのぶさんはそう言って、2日振りに私の顔をまともに見た。安堵と呆れ、そして惜愛の強く滲んだ眼差しを私に向けた。
 なぜか、涙が流れた。そのままわんわんと泣き出した私の背中を、しのぶさんはずっと夜が明けるまで撫でてくれた。

 そして朝を迎えた私達は、若干ぎこちないながらも以前の日常をなぞり始めた。




 4日目の夕方、私はリビングで適当な鼻歌を歌っていた。割とすぐ身体は解放してもらえたのだが、しのぶさんは私が感知出来なくなるのを嫌ったのだ。
 昨日まではカナヲやカナエさんを相手に雑談をしていたのだが、今日は2人ともいない。学園祭が近いのだ。
 手持ちの歌を出し尽くしてしまい、最寄りのコンビニのメロディを数回繰り返す。 いい加減飽きてしまって困り始めていると、キッチンの方からクスクスと笑い声が聞こえた。見ると、しのぶさんがひょこっと顔を出す。

「そんなに好きなんですか?前へ6 / 8 ページ次へ

 4日目の夕方、私はリビングで適当な鼻歌を歌っていた。割とすぐ身体は解放してもらえたのだが、しのぶさんは私が感知出来なくなるのを嫌ったのだ。
 昨日まではカナヲやカナエさんを相手に雑談をしていたのだが、今日は2人ともいない。学園祭が近いのだ。
 手持ちの歌を出し尽くしてしまい、最寄りのコンビニのメロディを数回繰り返す。 いい加減飽きてしまって困り始めていると、キッチンの方からクスクスと笑い声が聞こえた。見ると、しのぶさんがひょこっと顔を出す。

「そんなに好きなんですか?」
「別にそこまででは……」
「あら、意外と薄情なんですね」

急に侮辱された。しのぶさんは「わからないなら良いです」と目を細めた。

「なんだかアイスが食べたくなってきました」
「……そうですね」
「買いに行きましょうか、アイス」


 5月にしては珍しい夏日だった。17時。夕日のオレンジはとっくに消えてしまったけれど、西の空にはその余韻が残っていて少し明るい。小さなアーケードは薄い群青の中に沈んでいる。繋いでる手が熱い。ぬるい風が通り抜けた。肌が少し汗ばむ。

 雑居ビルの一階に店を構えるコンビニで、かき氷は売り切れていた。私は往生際悪くアイスケース付近でうろうろした。
 そんな私を尻目に、しのぶさんはカナエさんやカナヲのために適当な物を見繕った後、「ゼリー買ってあげますから」と私をアイスケースからひっぺがした。
 見ると緑の籠に大きなぶどうゼリーを入っていた。2人で半分こしないと食べきれそうにない。

「あ」

 コンビニから出てすぐ立ち止まる。そういえば本屋で予約していた本を受け取りそびれていた。

「しのぶさん、寄り道していいですか」
「どこにですか?」
「上の本屋さんです」
「……いいですよ。いってらしゃい」

 なかなか危うい空気を少しだした後、しのぶさんはあっさり許可を出してくれた。
 カンカンと威勢よく鉄版で出来た階段を駆け上がって、知り合いの店主に少し引かれながら本を受け取って外に出る。

 しのぶさんはコンビニの前でアーケードの入り口付近を眺めていた。階段を中腹まで降りた後、何かあるんだろうかとそちらを見る。
 踏切を電車が通り抜けていった。だいぶ暗くなって来た藍色の中で赤いライトが光っている。

「あの電車、どこに行くんでしょうね」

 しのぶさんは遠い目をしながら口元を綻ばせた。その真っ白な肌が、夕涼みの空気にすうっと溶けて消えてしまいそうなくらい彼女は儚く見えた。ここでは無いどこかへ行ってしまいそうだ。
 階段を2段飛ばしで駆け下りて、ぱっとその手を掴む。

「いかないでください」

 何を言おうか少しだけ迷った。しのぶさんはまっすぐこちらを見ている。

「……私と一緒にいて、」

 少し視線を下に向けて、思い切って言葉を吐く。

「幸せになれるかわからないです」

 悔しい事にあの鬼の言う事は正しい。偏見は根強い。大切な家族と、しなくても良い争いをする事になるかもしれない。また私の願いが、しのぶさんの悪夢になる日が来るかもしれない。

「でも、ここにいてください」

 お願いしますと呟いた声に重なって、ファーンと遠くで列車の警笛が鳴った。
 手が握り返される。しのぶさんは唇を噛んで逡巡した後、「シロ」と唇を開いた。藤紫の瞳の中で小さな橙の光が揺れている。

「私なんかで良いんですか?」
「しのぶさん以外ありえないです……帰りましょう、カナヲ帰って来ちゃいますよ」
「そうですね」

 しのぶさんは口元と目元を緩めた。昔のしのぶさんと、カナエさんに似たしのぶさんを合わせたような綺麗な笑みだった。

 カナヲは帰ってきていなかったので、2人で夕食を済ませた後、ゼリーを食べてしまう事にした。
 葉っぱを模した色違いの小皿を二つ取り出し、ゼリーの中央にスプーンを入れて半分ずっこする。
 買ってもらったしなと少ない方の白い皿を自分の席に置いた。容器をすすいでゴミ箱に入れてから食卓に戻る。

 私のスプーンの側に紫色のお皿が置いてあった。






 しのぶさんが完全に元に戻ったのは、5日目のよく晴れたとある昼下がりだった。「少し外出してきます」と出かけた彼女が帰って来た時の事だった。

「もう14時半ですよ」

 しのぶさんのベッドでうつらうつらと午睡に微睡んでいた私を起こして、彼女は窓を開けた。廊下で冷やされた空気が流れ込み、閉め切った部屋の温んでいた空気が排出される。
 ぼんやりと起き上がると、頬を撫でられる。

「許してくれるんですか?」
「どうせやめてと言ったところで、やめやしないでしょう、貴女」
「……そうですね」

 弁解しようとしたけど出来なかった。奇跡だの運命だのを信用できるほど恵まれていないのだ。
 私が「ね」と発音し終わる前に、しのぶさんは私の目の前にずいと紙袋を突きつけた。えっ何と驚いていると紙袋がひっくり返される。

 花束が私の腕へと落下した。
 ハーブ系の匂いがふわりと立ち香る。花々はクラフト紙の中で丁寧に整えられ、淡いパープルのリボンで結ばれている。
 花に見覚えがあった。彼女が庭先で育ててるあの花々だった。

「しのぶさん、これ!」
「全て私が種から育てた物です」

 驚いて目を白黒させていると、彼女は空っぽの紙袋を床に置いて私の隣に腰掛けた。

「こっちは、今の私の力では用意出来なかったので」

 ポケットから小箱を取り出す。ベルベッドでコーテイングされたそれを、そっと私に差し出すように開いた。

 2つの銀の指輪だった。
 ひとつはシンプルではあるけれど、素っ気なさは感じさせない絶妙な比率で作られている。
 もうひとつは、凝られた銀のリング。まるで流体で出来ているかのように、2本のシルバーはやわらかくうねり揺らぎ、美しい環状を描いている。

 とてもペアには見えない2つだけれど、内側だけ同じ意匠が施されている。ヘリオトロープとホワイトのグラデーション。朝焼けの、ほんの一瞬紫と白に輝いた空を閉じ込めて、そのまま内側に流し込んだような色合いだ。
 そして精巧な飾り文字で、2人のイニシャルが寸分違わず同じ位置に彫り込まれている。
 ローテーブルの上に箱を置いて、しのぶさんは私の左手を取った。

「貴女の言う通り、きっとこの道は楽なものではないでしょう」

 憂いるように伏せられたまつ毛を、キッと瞼が持ち上げた。紫の目に射抜かれる。

「だから、誰にも文句は言わせないくらい強くなります」

 鮮やか瞳が勝気な光を宿す。

「外野の文句なんかどうって事ないくらい。いえ、黙らせてみせます。
だいたい、なんで普通じゃない事が不幸みたいに言われなきゃいけないんですか。
いいですか、その普通の幸せとやらを掴めた皆様が、歯噛みして羨ましがるくらい幸せになるんですよ、私達」

 そこまで一気にまくし立ててから、彼女は一旦息を吸った。

「私が貴女の隣で、そして貴女が私の隣で笑って生きられるように。今度は貴女のために、私の人生を捧げます」

 真摯な目だった。ぶわっと体温が上昇するのを感じた。あ、えと、と言葉にならない様子の私を見て、彼女は幼子にするように私と目線を合わせる。

「だからもう一度、貴女の人生を私にください。私を貴女の生きる理由にしてください」

 きゅっと手が握られる。今までの記憶がざあっと脳内によみがえって、何故だか涙が出そうになった前へ7 / 8 ページ次へ


 しのぶさんが完全に元に戻ったのは、5日目のよく晴れたとある昼下がりだった。「少し外出してきます」と出かけた彼女が帰って来た時の事だった。

「もう14時半ですよ」

 しのぶさんのベッドでうつらうつらと午睡に微睡んでいた私を起こして、彼女は窓を開けた。廊下で冷やされた空気が流れ込み、閉め切った部屋の温んでいた空気が排出される。
 ぼんやりと起き上がると、頬を撫でられる。

「許してくれるんですか?」
「どうせやめてと言ったところで、やめやしないでしょう、貴女」
「……そうですね」

 弁解しようとしたけど出来なかった。奇跡だの運命だのを信用できるほど恵まれていないのだ。
 私が「ね」と発音し終わる前に、しのぶさんは私の目の前にずいと紙袋を突きつけた。えっ何と驚いていると紙袋がひっくり返される。

 花束が私の腕へと落下した。
 ハーブ系の匂いがふわりと立ち香る。花々はクラフト紙の中で丁寧に整えられ、淡いパープルのリボンで結ばれている。
 花に見覚えがあった。彼女が庭先で育ててるあの花々だった。

「しのぶさん、これ!」
「全て私が種から育てた物です」

 驚いて目を白黒させていると、彼女は空っぽの紙袋を床に置いて私の隣に腰掛けた。

「こっちは、今の私の力では用意出来なかったので」

 ポケットから小箱を取り出す。ベルベッドでコーテイングされたそれを、そっと私に差し出すように開いた。

 2つの銀の指輪だった。
 ひとつはシンプルではあるけれど、素っ気なさは感じさせない絶妙な比率で作られている。
 もうひとつは、凝られた銀のリング。まるで流体で出来ているかのように、2本のシルバーはやわらかくうねり揺らぎ、美しい環状を描いている。

 とてもペアには見えない2つだけれど、内側だけ同じ意匠が施されている。ヘリオトロープとホワイトのグラデーション。朝焼けの、ほんの一瞬紫と白に輝いた空を閉じ込めて、そのまま内側に流し込んだような色合いだ。
 そして精巧な飾り文字で、2人のイニシャルが寸分違わず同じ位置に彫り込まれている。
 ローテーブルの上に箱を置いて、しのぶさんは私の左手を取った。

「貴女の言う通り、きっとこの道は楽なものではないでしょう」

 憂いるように伏せられたまつ毛を、キッと瞼が持ち上げた。紫の目に射抜かれる。

「だから、誰にも文句は言わせないくらい強くなります」

 鮮やか瞳が勝気な光を宿す。

「外野の文句なんかどうって事ないくらい。いえ、黙らせてみせます。
だいたい、なんで普通じゃない事が不幸みたいに言われなきゃいけないんですか。
いいですか、その普通の幸せとやらを掴めた皆様が、歯噛みして羨ましがるくらい幸せになるんですよ、私達」

 そこまで一気にまくし立ててから、彼女は一旦息を吸った。

「私が貴女の隣で、そして貴女が私の隣で笑って生きられるように。今度は貴女のために、私の人生を捧げます」

 真摯な目だった。ぶわっと体温が上昇するのを感じた。あ、えと、と言葉にならない様子の私を見て、彼女は幼子にするように私と目線を合わせる。

「だからもう一度、貴女の人生を私にください。私を貴女の生きる理由にしてください」

 きゅっと手が握られる。今までの記憶がざあっと脳内によみがえって、何故だか涙が出そうになった。

「──はい」

 私はそれだけしか言えなかった。それだけで十分だった。ぼやけた視界の中で、しのぶさんは花がほころぶように笑う。彼女はローテーブルからシンプルな方の指輪を取って、私の薬指に嵌めた。
 指輪は、5月の光を受けて祝福のようにきらめいた。

「しのぶさん、私も」

 細い彼女の左手を持ち上げて、慎重に銀のリングを嵌めた。指輪は最初からそこにあったかのように薬指に収まった。しのぶさんはまじまじと左手を見た後、私を見て幸せそうにへにゃりと顔を緩めた。
 そしてぽすっと私の肩に寄りかかる。ふうと大きなため息を吐いて、ちいさく私の名前を呼んだ。

「なんですか?」
「……緊張しました」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」

 肩付近にある顔にそっと頬を寄せた。花の匂いがした。

「さすがに少し重すぎたかな、と。でもこれくらい重くないと、貴女を繋ぎ止められそうにないですし」
「それは……否定しませんが。ずっとこの用意をして下さってたんですか?」
「そうですよ」
「私はてっきり、留学でもしたいのかと」
「留学?」
「読んでるじゃないですか、例の英語で書かれてる」

 合点がいったと言いたげにしのぶさんは頷いた。

「国家資格の1種ですよ。別に日本語の参考書を使っても良いんですけど。将来を考えるなら、やっぱり高給取りになりたいですし。まあ読めて困る事はありません」
「……無茶はしないでくださいね」

 人並みの高校生が描くものではない理想図だ。その言葉を聞いた彼女は目を瞬かせた後、ふふんと得意げに私の顔を覗き込んだ。

「ダンスを踊るのは、2人なら簡単なんですよ」

 人差し指をぴんとあげて、得意げに口角を上げる。昔からの癖だ。

「相手がうまく踊れるように、互いに自分を捧げれば良いんです」
「……最近読んでる本の台詞ですか?」
「貴女が楽しみにしていた漫画の台詞ですよ。先行予約のファイルが欲しいって言ってた」
「え」

 ばっと机の方を見ると、確かに本屋のビニールの上に短編集が取り出されて置かれていた。

「私が先に読みたかったのに前へ7 / 8 ページ次へ


 しのぶさんが完全に元に戻ったのは、5日目のよく晴れたとある昼下がりだった。「少し外出してきます」と出かけた彼女が帰って来た時の事だった。

「もう14時半ですよ」

 しのぶさんのベッドでうつらうつらと午睡に微睡んでいた私を起こして、彼女は窓を開けた。廊下で冷やされた空気が流れ込み、閉め切った部屋の温んでいた空気が排出される。
 ぼんやりと起き上がると、頬を撫でられる。

「許してくれるんですか?」
「どうせやめてと言ったところで、やめやしないでしょう、貴女」
「……そうですね」

 弁解しようとしたけど出来なかった。奇跡だの運命だのを信用できるほど恵まれていないのだ。
 私が「ね」と発音し終わる前に、しのぶさんは私の目の前にずいと紙袋を突きつけた。えっ何と驚いていると紙袋がひっくり返される。

 花束が私の腕へと落下した。
 ハーブ系の匂いがふわりと立ち香る。花々はクラフト紙の中で丁寧に整えられ、淡いパープルのリボンで結ばれている。
 花に見覚えがあった。彼女が庭先で育ててるあの花々だった。

「しのぶさん、これ!」
「全て私が種から育てた物です」

 驚いて目を白黒させていると、彼女は空っぽの紙袋を床に置いて私の隣に腰掛けた。

「こっちは、今の私の力では用意出来なかったので」

 ポケットから小箱を取り出す。ベルベッドでコーテイングされたそれを、そっと私に差し出すように開いた。

 2つの銀の指輪だった。
 ひとつはシンプルではあるけれど、素っ気なさは感じさせない絶妙な比率で作られている。
 もうひとつは、凝られた銀のリング。まるで流体で出来ているかのように、2本のシルバーはやわらかくうねり揺らぎ、美しい環状を描いている。

 とてもペアには見えない2つだけれど、内側だけ同じ意匠が施されている。ヘリオトロープとホワイトのグラデーション。朝焼けの、ほんの一瞬紫と白に輝いた空を閉じ込めて、そのまま内側に流し込んだような色合いだ。
 そして精巧な飾り文字で、2人のイニシャルが寸分違わず同じ位置に彫り込まれている。
 ローテーブルの上に箱を置いて、しのぶさんは私の左手を取った。

「貴女の言う通り、きっとこの道は楽なものではないでしょう」

 憂いるように伏せられたまつ毛を、キッと瞼が持ち上げた。紫の目に射抜かれる。

「だから、誰にも文句は言わせないくらい強くなります」

 鮮やか瞳が勝気な光を宿す。

「外野の文句なんかどうって事ないくらい。いえ、黙らせてみせます。
だいたい、なんで普通じゃない事が不幸みたいに言われなきゃいけないんですか。
いいですか、その普通の幸せとやらを掴めた皆様が、歯噛みして羨ましがるくらい幸せになるんですよ、私達」

 そこまで一気にまくし立ててから、彼女は一旦息を吸った。

「私が貴女の隣で、そして貴女が私の隣で笑って生きられるように。今度は貴女のために、私の人生を捧げます」

 真摯な目だった。ぶわっと体温が上昇するのを感じた。あ、えと、と言葉にならない様子の私を見て、彼女は幼子にするように私と目線を合わせる。

「だからもう一度、貴女の人生を私にください。私を貴女の生きる理由にしてください」

 きゅっと手が握られる。今までの記憶がざあっと脳内によみがえって、何故だか涙が出そうになった。

「──はい」

 私はそれだけしか言えなかった。それだけで十分だった。ぼやけた視界の中で、しのぶさんは花がほころぶように笑う。彼女はローテーブルからシンプルな方の指輪を取って、私の薬指に嵌めた。
 指輪は、5月の光を受けて祝福のようにきらめいた。

「しのぶさん、私も」

 細い彼女の左手を持ち上げて、慎重に銀のリングを嵌めた。指輪は最初からそこにあったかのように薬指に収まった。しのぶさんはまじまじと左手を見た後、私を見て幸せそうにへにゃりと顔を緩めた。
 そしてぽすっと私の肩に寄りかかる。ふうと大きなため息を吐いて、ちいさく私の名前を呼んだ。

「なんですか?」
「……緊張しました」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」

 肩付近にある顔にそっと頬を寄せた。花の匂いがした。

「さすがに少し重すぎたかな、と。でもこれくらい重くないと、貴女を繋ぎ止められそうにないですし」
「それは……否定しませんが。ずっとこの用意をして下さってたんですか?」
「そうですよ」
「私はてっきり、留学でもしたいのかと」
「留学?」
「読んでるじゃないですか、例の英語で書かれてる」

 合点がいったと言いたげにしのぶさんは頷いた。

「国家資格の1種ですよ。別に日本語の参考書を使っても良いんですけど。将来を考えるなら、やっぱり高給取りになりたいですし。まあ読めて困る事はありません」
「……無茶はしないでくださいね」

 人並みの高校生が描くものではない理想図だ。その言葉を聞いた彼女は目を瞬かせた後、ふふんと得意げに私の顔を覗き込んだ。

「ダンスを踊るのは、2人なら簡単なんですよ」

 人差し指をぴんとあげて、得意げに口角を上げる。昔からの癖だ。

「相手がうまく踊れるように、互いに自分を捧げれば良いんです」
「……最近読んでる本の台詞ですか?」
「貴女が楽しみにしていた漫画の台詞ですよ。先行予約のファイルが欲しいって言ってた」
「え」

 ばっと机の方を見ると、確かに本屋のビニールの上に短編集が取り出されて置かれていた。

「私が先に読みたかったのに」
「ごめんなさい」
「待っててくださいね、今すぐ読みますから。あと、あの本に書いてある事教えて下さい」
「いくらでも教えますよ」

 今度は小窓の方からさあっと風が入ってきた。互いの髪が少したなびく。手元の短編集のページがぱららとまくられる。夏の匂いがした。

「ねえ、しのぶさん」

 私が声をあげると、彼女は「なんですか」と小首を傾げた。揺れるカーテンも、花々も、私の姿も、全てがその瞳の中に映っている。きっとこれからも映り続ける。



「私、世界で1番幸せですよ」









胡蝶しのぶ
有言実行でかなりの高給取りになる。
数年後、甘露寺さんにちょっかいを出されてキレた伊黒先生と共謀し、壮絶な争いの末に童磨を闇へ葬った。


夢主
地獄へ共倒れした結果、童磨と巡り合いやすい星の下に生まれている。とある日、伊黒先生から「始末した」という電話をもらって「ん?!」となる。しかしすぐ忘れる。


童磨
人外的思考回路を持ってる悪役が結構好きなのですが、書くのはどうにも向いてなかったようです。
途中読み直したら「えっ怖……冒涜的神話生物かな???」となってしまい泣く泣く様々な描写を省きました。ただの雑に扱われる男になってしまい忸怩たる思いです。
省いた部分を、ただひたすら彼に日常を侵食される夢小説というかホラー小説にリサイクルしようかな…需要あんのかな…と思っています

しのぶ様の瞳は私を映さない・終編
001
2023年4月7日 10:35
ゆう

ゆう

コメント
作者に感想を伝えてみよう

関連作品


ディスカバリー

好きな小説と出会える小説総合サイト

pixivノベルの注目小説

  • 悪ノ大罪 master of the heavenly yard
    悪ノ大罪 master of the heavenly yard
    著者:悪ノP(mothy) イラスト:壱加
    『大罪の器』、『エヴィリオス世界』の全てが明らかになり世界は衝撃の展開を迎える!

関連百科事典記事