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これが夢だとすぐ理解できるほど、何度も同じ夢を見ている。
頭から血を被ったように赤い鬼に、しのぶ様が食べられる夢。決まって私の脚は動かない。ただ見ていることしか出来ない。誰よりも近くで見ていた背中が、ひどく遠い。
鬼が笑う。くつくつと楽しそうに、蝶の飾りを弄ぶ。
「君のせいだよ。君が生きて欲しいなんて思ったから、失敗しちゃったんだ」
私を見下ろす。
「君も、この子も、無意味だね」
その声に悲鳴を上げる──そこに、誰かの声が重なる。聞き覚えがある、これは……誰だ……アオイの?
──
ハッと目を覚ますと、見慣れてきた水柱邸の天井が見えた。心音と呼吸は荒く、背中がぐっしょりと汗で濡れている。首筋につたった汗を拭って、顔を手で覆って深呼吸した。
「いや、なんでアオイ?」
演出が雑すぎるのでは?と自分の夢に苦情を出していると、耳が微かな声を捉えた。アオイの声だ。起き上がって雨戸を少し開けた。冷たい空気が流れ込むのを感じながら目を凝らす。遠くの玄関付近に青い蝶飾りと、冨岡様の羽織りが見えた。……見えたのはいいけど。
「なにしてるの?」
思わずボソッと呟く。
門の付近で、二人は立ちすくんでいる。アオイは何かの包みを胸に抱いたまま何やら御立腹のようだし、冨岡様はどこかアオイの気迫に負けている。なんであんな怒ってんだろ?と首をひねる。
「あ」
隊服、受け取り忘れてた。あと外泊の届出も出してない。さあっと血の気が引くのを感じるのと同時に、冨岡様が後退りして何かを言った。大きな犬が子猫にひるんで後退る映像が脳裏に流れた。
アオイが一礼して、進行方向を探るように視線を巡らす。目が合った。キッとまなじりが吊り上げられる。
先週も見た表情を前に、私は大人しく完全降伏の意を示した。
渡された隊服は淡い花の香りがした。アオイが一等大切にしている、舶来の石鹸の匂いだった。さほど怒ってはなかったようだ。
と言ってもあくまで比較対象が先週の晩なので、冨岡様は遠巻きに私達を見ながら任務へ出陣した。柱って何かご存知で?と言いかけたのは内緒だ。
今は金平糖を茶請けにして、縁側に二人で腰掛けている。
「まったく、二度としないと言ったその晩に繰り返したのは、あなたが初めてです」
「本当にスミマセンでした」
アオイは湯呑みで手を温めながら、赤やら黄色の金平糖を避けて白い物ばかりを食べている。はじかれた金平糖を口に入れるとレモンと梅の味が広がった。おいしくない。
「カナヲ元気?」
「元気です。ただ、伊之助さんを座敷から投げ飛ばして手の筋を少し」
「え、なにそれ詳しく」
ゆっくりとくだらない話をする。しばらく近況を知らせ合い、お互い少し話し疲れてお茶に口をつける。庭に来たエナガがひょいひょいと飛び跳ねながら、目の前を通り過ぎ、飛び立った。ハナミズキの枝に止まって白い腹をふくふくと毛羽立たせる。まだ冬毛らしい。
「私さ。まだ、見てて不安になる?」
エナガの忙しない身繕いを眺めたまま口を開く。アオイが勢い良くこちらを見た気配がした。
あの夜、自分ではもう回復しきったつもりでいた。呼吸も問題なく使えたし、キヨ達も「前みたいに元気になってくれたんだ」と喜んでくれてた。
でも、彼女達の視線の中に、怪我人を見てるような、不安と遠慮を混ぜたような、そんな感情がある事に気がついた。前みたいに無条件で頼ってくれる空気ではなかった。
「……いいえ」
「そっか」
返答を聞いて空を仰ぐ。春になりかけている空に、薄く切られたような白い月が浸っている。空気は冷ややかに澄んでいて、温んだ身体から熱を取り除いていく。
「無茶は、しないでください」
心を見透かされたような言葉に驚いて隣を見る。アオイはこちらを見てなかった。快活なその目は伏せられ、長い睫毛の下から淡い水色の光が弱く踊る。
ああ、傷つけてしまったんだなと思った。……でも言うべき言葉はひとつしかなかった。
「ごめんね」
伏せられた目が少し見開かれ、アオイは更に深くうつむいた。
「……あなたは、いつもそうです」
「うん」
「無断外泊はするし、危なっかしいし、ひどい怪我はするし、くだらない悪戯はするし、いつまで経ってもしのぶ様にべったりで、物事を途中で放り出していなくなるし、無茶はするし、肝心な事は言ってくれないし」
「そうだね」
「でも、全部許します」
アオイがこちらを向いた。瞳はしっかり私を射抜き、唇はぎゅっと硬く結ばれている。その視線から逃げずに、私もまっすぐ見つめ返す。
「だから、その顔で笑ってください。不評なんです、あなたの作り笑い」
「わかった」
頷く。アオイは少しだけ泣きそうな顔で笑った。その濡れた瞳の鮮やかさが、ずっと記憶に残っている。
今でも、不思議だと思う。だって私は一言もアオイに伝えなかった。私が請け負った任務の重大さに、しのぶ様さえ気がつかなかった。
私が任務に旅立つ日が刻々と近づいてる事に、アオイだけが気がついていた。
私の鎹鴉がその指令を運んできたのは、アオイが訪ねて来る3日ほど前。冨岡様が緊急の柱会議から帰宅し、一刻ほど経過した黄昏時のことだった。
鍛錬を終えて部屋に帰ったら、橙色と黒だけで彩色された部屋の中、一言も発さずに鴉がうずくまっていたものだから驚いた。
「びっくりした」
部屋の入り口で気がついた私がそう呟いても、鴉は紙をくわえたままぴくりとも動かない。黒い羽が夕日を受けてじりりと光る。縁側に鎮座する鴉の足元から、おどろおどろしい影が畳の上にまで延びている。いつも喧しいくせに何事かと、その影を踏みながら近寄る。
「それ指令でしょ」
手を差し出すと、鴉はぴょんと一歩後ろに跳んで逃げた。その後、少しだけ迷うような仕草をしてから、ゆっくり私の掌へ紙を落とす。
恐ろしいほど達筆で、今にもバラバラに崩れて消えてしまいそうな文字で任務のことが書かれていた。まるで瀕死の病人が書いたような、死の匂いがする手紙だ。
一体誰が……と文字を追って差出人の名前を見た瞬間、総毛立った。
“産屋敷耀哉”
思わず声が出かけて口に手を当てる。
長い間勤めたとは言え、私はただの一般隊士だ。
お館様が柱でない隊士へ直接指令を下すなんて、ただ事ではない。はっとして鎹鴉を見つめる。奴は、一声だけ鳴いた。事態の深刻さは理解しているようだった。
他言厳禁と書かれた文をじっと見つめる。胸の中心から焦燥感と不穏な感覚がこみ上げる。
お館様は何かを隠している。私に黙って毒を飲むしのぶ様のように、色んな人に黙って私を任務に出そうとしている。どうして、優しい人ばかり去っていくのだろう。
紙の内容をもう一度確認してから、立ち上がって廊下を急ぐ。
「冨岡様」
広間で刀の手入れをしていた彼は、振り向いた後に私の手元にある紙を見て、また刀へと視線を戻した。
「……何かあったんですね」
「──が死んだ」
ぽつりと呟かれた名前には覚えがある。私より少し上の先輩だ。担当地域が離れてるので交流はあまりない。
「一ヶ月前、お前に打診していた任務での話だ」
「そう、でしたか」
ぎゅっと紙を握り締めていた。当然だけれど、代役というのは同じような能力がないとつとまらない。私が断れば、必然的に私に近い能力の隊士があてがわれる。
おそらく、この指令も本来はその隊士へ下される予定だったのだろう。……無念だったと思う。鬼殺隊の隊士にとって、これ以上名誉なことはないのだから。
「武運を祈る」
「ありがとうございます」
「受けるのか」とは聞かれなかった。断るという選択肢はない。
冨岡様は少しだけ目を瞬いた。そのまま刀の手入れを再開する。背丈も刀身も何もかも違うのに、その手つきだけはしのぶ様に似ていた。
沈黙が部屋の中を満たす。
「これで、良かったんですかね」
気がついたら、誰にも答えられないような問いを投げかけていた。
死ぬ危険がない任務なんて存在しないと理解してる。ただ、恋をしていたかった。だから頑張った。そして、しのぶ様本人の願いさえ振り払うような結果になった。
心の奥底にしまいこんだ不安が止めどなくあふれる。昔はカナエ様やしのぶ様が聞いてくれた泣き言だ。
「生きる理由になりたかったんです。でも、なれなかった」
「くだらない」
おそろしく冷えた一言だった。全てを否定するような言葉に愕然とする私を、清水の青色が見つめた。
「もっと話し合え。お前は胡蝶の何を見ていたんだ」
「そんな事!!!」
あまりの侮辱に身体中の血が沸騰し吠えるように叫ぶ。それを全く意に介さず、冨岡様は淡々と口を開く。
「お前が泣いていた所で、何一つ状況は好転しない」
「それは、そうですけど」
でも、今更だ。何もかもが後手で手遅れだ。こんな任務を受けて意味なんてあるんだろうか。
「甘えるな」
低い声がして思わず身構える。涙が出ないように睨みつけた。
私の鎹鴉がその指令を運んできたのは、アオイが訪ねて来る3日ほど前。冨岡様が緊急の柱会議から帰宅し、一刻ほど経過した黄昏時のことだった。
鍛錬を終えて部屋に帰ったら、橙色と黒だけで彩色された部屋の中、一言も発さずに鴉がうずくまっていたものだから驚いた。
「びっくりした」
部屋の入り口で気がついた私がそう呟いても、鴉は紙をくわえたままぴくりとも動かない。黒い羽が夕日を受けてじりりと光る。縁側に鎮座する鴉の足元から、おどろおどろしい影が畳の上にまで延びている。いつも喧しいくせに何事かと、その影を踏みながら近寄る。
「それ指令でしょ」
手を差し出すと、鴉はぴょんと一歩後ろに跳んで逃げた。その後、少しだけ迷うような仕草をしてから、ゆっくり私の掌へ紙を落とす。
恐ろしいほど達筆で、今にもバラバラに崩れて消えてしまいそうな文字で任務のことが書かれていた。まるで瀕死の病人が書いたような、死の匂いがする手紙だ。
一体誰が……と文字を追って差出人の名前を見た瞬間、総毛立った。
“産屋敷耀哉”
思わず声が出かけて口に手を当てる。
長い間勤めたとは言え、私はただの一般隊士だ。お館様が柱でない隊士へ直接指令を下すなんて、ただ事ではない。はっとして鎹鴉を見つめる。奴は、一声だけ鳴いた。事態の深刻さは理解しているようだった。
他言厳禁と書かれた文をじっと見つめる。胸の中心から焦燥感と不穏な感覚がこみ上げる。
お館様は何かを隠している。私に黙って毒を飲むしのぶ様のように、色んな人に黙って私を任務に出そうとしている。どうして、優しい人ばかり去っていくのだろう。
紙の内容をもう一度確認してから、立ち上がって廊下を急ぐ。
「冨岡様」
広間で刀の手入れをしていた彼は、振り向いた後に私の手元にある紙を見て、また刀へと視線を戻した。
「……何かあったんですね」
「──が死んだ」
ぽつりと呟かれた名前には覚えがある。私より少し上の先輩だ。担当地域が離れてるので交流はあまりない。
「一ヶ月前、お前に打診していた任務での話だ」
「そう、でしたか」
ぎゅっと紙を握り締めていた。当然だけれど、代役というのは同じような能力がないとつとまらない。私が断れば、必然的に私に近い能力の隊士があてがわれる。
おそらく、この指令も本来はその隊士へ下される予定だったのだろう。……無念だったと思う。鬼殺隊の隊士にとって、これ以上名誉なことはないのだから。
「武運を祈る」
「ありがとうございます」
「受けるのか」とは聞かれなかった。断るという選択肢はない。
冨岡様は少しだけ目を瞬いた。そのまま刀の手入れを再開する。背丈も刀身も何もかも違うのに、その手つきだけはしのぶ様に似ていた。
沈黙が部屋の中を満たす。
「これで、良かったんですかね」
気がついたら、誰にも答えられないような問いを投げかけていた。
死ぬ危険がない任務なんて存在しないと理解してる。ただ、恋をしていたかった。だから頑張った。そして、しのぶ様本人の願いさえ振り払うような結果になった。
心の奥底にしまいこんだ不安が止めどなくあふれる。昔はカナエ様やしのぶ様が聞いてくれた泣き言だ。
「生きる理由になりたかったんです。でも、なれなかった」
「くだらない」
おそろしく冷えた一言だった。全てを否定するような言葉に愕然とする私を、清水の青色が見つめた。
「もっと話し合え。お前は胡蝶の何を見ていたんだ」
「そんな事!!!」
あまりの侮辱に身体中の血が沸騰し吠えるように叫ぶ。それを全く意に介さず、冨岡様は淡々と口を開く。
「お前が泣いていた所で、何一つ状況は好転しない」
「それは、そうですけど」
でも、今更だ。何もかもが後手で手遅れだ。こんな任務を受けて意味なんてあるんだろうか。
「甘えるな」
低い声がして思わず身構える。涙が出ないように睨みつけた。
「希望を語ったなら最後まで貫け」
「希望?」
「……花柱が亡くなっても、胡蝶は継子が下らないものだとはただの一度も言わなかった」
「……?」
「お前と、」
冨岡様は表情を変えず眉だけ少し動かし、「青い蝶飾りの隊士や庇護している者に対しても」と付け加えた。
さっぱり意味がわからない。
口に手を当てて、荒々しい感情を押し殺し情報を整理する。ぐるぐると脳内で思考を巡らしてみても、元から精神が乱れていてまとまらない。今にも叫び出したいほどの激情を動力として、脳内に混乱の渦を加速させる。
私がこのままなら、カナヲやキヨ達はどうなるんだろう。そんな事が、その渦から転げ落ちた。
一瞬で脳裏に思い出が流れる。
軽い足音、冷えた身体に「おかえりなさい」と差し出された手の暖かさ、雷に震えていた小さな背、折り鶴を折る指先、無表情な目の中で降る紅葉、頬に触れた時に感じた夏の熱、泣かれて困ってしまった夜、料理の匂い、背が伸びたと笑うその肩にかかる桜の影。
その全てが色鮮やかで、無性に泣きたくなった。
私はその成長を誰よりも喜んでいた。しのぶ様が私にしてくれたように。復讐のために生き始めたしのぶ様の代わりに、いつか「そんな事もありましたね」と笑いあえるように。
もうそんな未来は来ないけど、でも。
「中身が無くたって最後まで貫け。それが凡人に出来る報いだ」
あの晩のキヨ達の目と、私が泣いた夜のカナヲの目が脳裏によぎって唇をぐっと噛みしめた。
目の前の日常が崩れそうなことを悟ってしまった目をしていた。
私もしっかりしなくちゃ。下の子に気を使わせちゃいけない。本当は性に合わない。だって、私は昔からしのぶ様にべったりな、末っ子気質の甘ったれだ。しのぶ様みたいな良いお姉さんにはなれない。
でも出来なくてもやらなくちゃ、あの子達はずっとあの目をしたままだ。
……しのぶ様もこんな気持ちだったんだろうか。私の何倍も懸命にもがいていたんだろうか。
「あの問いに」
静かな言葉で意識が連れ戻される。
「誰が良いと言おうが、悪いと言おうが、お前はそうするだろう」
だからくだらない。冨岡様はそう言い切った。玲瓏という言葉がよく似合う刃文のように澄んだ声だった。
「そう、ですね」
袖で目元を拭う。深く息を吸う。手紙で任務の日時を確認する。二週間後だった。
「明日、蝶屋敷に帰ります」
今まで本当にありがとうございました。そう頭を下げる私を前に、彼はただ眩しそうに目を細めた。
縁側でうたた寝しをていた胡蝶しのぶが目を覚ますと、真白な羽織が庭先で跳ね回っているのが見えた。
まだ夢を見ているのかと思ったが、そういえば現実だったなと身動ぎする。誰かがかけてくれた綿入りの半てんが肩からずり落ちた。
刀鍛冶の里への襲撃以後、鬼の出没はパタリと止んだ。それに合わせたかのように帰って来た彼女は、まるで昔のままだった。よく笑い、よく喋り、陽気に駆け回り、「足の傷も傷ついた笑顔も全て嘘だったのでは」と疑ってしまうほどだ。
今は庭でおいかっこに興じているらしい。鬼役は彼女のようで、キヨ達のちょこまかとした動きに翻弄されて派手に転んだ。
動かなくなった彼女を見て、心配そうに近寄ったナホの腕がにゅっと掴まれる。きゃあっと高い声が上がる。
彼女は起き上がってナホを小脇に抱え、軽快な足取りでスミを捕まえた。
その側にナホをひょいと置き、振り向きざまに跳躍してすばしっこいキヨの前に躍り出る。面食らって止まったキヨの脇の下に両手を通して、勢いを利用して高い高いの要領で持ち上げた。きゃらきゃらとした笑い声と「次は私!」という声が聞こえる前へ4 / 10 ページ次へ
縁側でうたた寝しをていた胡蝶しのぶが目を覚ますと、真白な羽織が庭先で跳ね回っているのが見えた。
まだ夢を見ているのかと思ったが、そういえば現実だったなと身動ぎする。誰かがかけてくれた綿入りの半てんが肩からずり落ちた。
刀鍛冶の里への襲撃以後、鬼の出没はパタリと止んだ。それに合わせたかのように帰って来た彼女は、まるで昔のままだった。よく笑い、よく喋り、陽気に駆け回り、「足の傷も傷ついた笑顔も全て嘘だったのでは」と疑ってしまうほどだ。
今は庭でおいかっこに興じているらしい。鬼役は彼女のようで、キヨ達のちょこまかとした動きに翻弄されて派手に転んだ。
動かなくなった彼女を見て、心配そうに近寄ったナホの腕がにゅっと掴まれる。きゃあっと高い声が上がる。
彼女は起き上がってナホを小脇に抱え、軽快な足取りでスミを捕まえた。
その側にナホをひょいと置き、振り向きざまに跳躍してすばしっこいキヨの前に躍り出る。面食らって止まったキヨの脇の下に両手を通して、勢いを利用して高い高いの要領で持ち上げた。きゃらきゃらとした笑い声と「次は私!」という声が聞こえる。
ひとしきり遊んでいると、柱稽古を終えたカナヲが帰ってきた。三人は「夕飯の支度をしてきます!」と元気よく厨へ走って行く。
今日は煮付けかしらと胡蝶が思っていると、カナヲにしては珍しい少し慌てた声が聞こえた。
二人の方へ視線を戻す。彼女は「いけるいける」と強引にカナヲを持ち上げようとしていた。ふわりとカナヲの爪先が地面から離れて、すとんと落ちる。呼吸無しでは限界だったらしい。肩で息をしながら彼女は「大きくなったね」と言った。
それを聞いたカナヲが何かを話した。内容は聞こえない。それに少し真面目な顔をした後、いくつか言葉を交わして彼女はまた笑った。二度と見れないと思っていた天真爛漫な笑顔だ。カナヲも強張った顔を少し緩めた。
それを見て、胡蝶は安堵の息を吐いた。そんな顔をさせたのは紛れもない自分なのだけれど、それでも心配だったのだ。身勝手な事に。
「あ、しのぶ様!」
胡蝶が起きていると気がつき、顔を輝かせながら彼女は駆けて来る。胡蝶の顔を覗き込んだ。遅れてカナヲもやって来る。
「おはようございます」
「おはよう。お帰りなさい、カナヲ」
「ただいまかえりました」
胡蝶が乱れた髪を直してやると彼女は幸せそうに目を細めた。走り回ったせいか、その頬はひどく熱い。
彼女は器用だと胡蝶は思う。下の子への姉のような態度も、長年勤め上げた隊士としての厳しさも、甘えん坊な年下らしさも不自然なくその身体に同居している。
えへへと無邪気に笑う表情を見て、カナヲは──少しだけ、顔を曇らせた。
「カナヲさーん」
遠くでナホの声がして、カナヲは胡蝶に一礼して駆け出した。それをしっかり見送った後、彼女は胡蝶の隣に腰を下ろす。あくびをひとつして、瞬きを数回した。
眠いらしい。胡蝶は彼女との距離を詰めた後、右肩の半てんを脱いでその背中にかけてやった。
「起こしてあげますから、眠っても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
胡蝶の肩に頭をのせて「照れくさいですね」なんて言っていたのも束の間、すぐに寝入ってしまった。元気に振る舞ってはいるが、やはり疲れは溜まっていたんだろう。
……すよすよと無防備に眠る横顔を眺めていると、深い眠気が胡蝶を襲ってきた。予想以上に疲れていたのは同じらしい。服用している毒の影響もあるのだけどと思いつつ、寝顔にそっと頬を寄せてみる。昔から変わらない甘さを含んだ匂いに、次から次へと思い出がよみがえってきた。
苦みや痛みを伴う物もあるが、どれも暖かく幸福な思い出ばかりだ。両親や姉との幸福な日々の回想にふけってみても、どうしても幸せが壊れてしまった時の血生臭い記憶が脳裏にチラついてしまう。
思い出は変わってしまう物だ。彼女との優しい思い出が、血塗れになるのが怖い。
胡蝶は自嘲した。なんて身勝手なんだろうか。見合いを勧めたのだって、純粋に彼女の幸せを願ったわけではない。怯えてただけだ。
騙してごめんなさい。生きて欲しいという願いを、裏切ってごめんなさい。もう少し、もう少しだけ、一緒にいさせて欲しい。そして、どうか。
そこまで心で唱えて、最後の言葉だけは無理矢理消した。許してと思うことほど最低な事はないと理解しているのだ。
右肩の温もりに寄りかかって、胡蝶は目を閉じた。
お互い、ひさしぶりに夢を見ない眠りだった。
「雨が上がったら、花を見に行きませんか」
そう言ってしのぶ様は悪戯っぽく微笑んだ。蝶屋敷に帰ってきて十回目に迎えた日のことだった。奇しくも、四角の便箋の隅に『敬具』と書けた朝だった。
「昔みたいに、手を繋いで」
少し驚きつつ「カナヲも呼びますかね」と手を取ったら、あれよあれよと言う間に連れ出されてしまった。
市中を流れる川を遡り少し奥に行けば、梅が咲いている小道に出る。
「こんなところがあったんですね」
「いつぞやの任務の帰りに見つけたんです」
私の半歩先を歩きながら、しのぶ様は梅を見上げた。
冷たい雨を吸った幹は黒々として、梅の白が一際綺麗に見える。時折風が枝を揺らしす。白い花びらが、なにかの足跡のように点々とまばらに落ちていた。
どこを歩いても梅の香りは等しく強く、関係のない木にまで染みついてる。下を向いて歩けば、どれもこれも梅の木に思えてくるほどだ。
「綺麗ですね」
美しい光景にはしゃぐと、しのぶ様はやんわりとまなじりを下げて「そうですね」と笑った。歩幅を合わせてゆっくりと歩く。ついでに懐の手紙の事を考える。
ここらでさっさと渡してしまった方が良いとは理解してる。いつ言い出した物かと悩んでいると、急にしのぶ様が立ち止まった。
「どうかしましたか?」
「あっなんでもないです」
視線を上に逸らす。蕾を蓄えた木の枝が目に入った。
「あれ、これも梅の木なんですね」
ここ一体に咲いているのは白梅だけれど、この木だけ色が違うらしい。淡い紅の蕾が膨らんでいる。
「この種はもう少し後にならないと咲かないんです。南方の品種で、八重の花びらがとても綺麗なんですよ」
「そうなんですか。いつ頃咲きますか?」
「来月頃ですかね」
「じゃあ、また来ましょうね」
完全に無意識で言ってしまって、内心慌てる。
「……そうですね」
しのぶ様は微笑んだ。息が詰まった。あの膠着した日々で何回も見た笑顔だ。どこか距離を感じる顔。
それと同時に、アオイの瞳が思い浮かんだ。
あれは自分を責める顔だ。生きて欲しいという誰かの祈りと自分の夢を天秤に乗せて、それが簡単に傾いてしまった時の顔。あの日のアオイの中の瞳に映る私も、そんな顔をしていた。
ああ、そうか。同じなんだ。しのぶ様もこんな風に悩んでくれたんだろう。命よりも大切なその願いと私を、何度も天秤に乗せてくれたんだろう。
「知ってますよ」
え、としのぶ様が小さな声を上げた。
「全部知ってて、全部許して、全部大好きだから、私は貴女の側に帰って来たんです」
顔を上げると同時に川上から強い風が一陣通り抜ける。
遠くの空気で形成されるそれは氷のように冷たく、微かに沈丁花の香りがして、しのぶ様の髪を激しく乱した。目元は、舞い上がる髪に隠れて見えなかった。
その瞳に私は映っているんだろうか。確かめようと髪に手を伸ばした瞬間。
山下ろしを利用して飛んできた鎹鴉が、私の頭に激突し、思いっきりつんのめった。
最高にわけがわからない。わからないが鬼殺隊にいる輩は、怒り時の状況把握能力と最大瞬間火力が優れている。私ももれなくその一人だ。
馬に蹴られるべき下手人の正体に気がつき、怒りのままに鴉の首根っこを捕まえようと手を伸ばす。噛まれた。
「チコク!チコク!カアアア!!」
「遅刻?」
「ニンム、ニンム!」
「へ、明日だって」
「キョウ!」
事態を理解した途端、情緒は派手に転倒した。ぶわっと嫌な汗が出る。脳内は大騒ぎである。今まで色々問題は起こして来たけれど今回は洒落にならない。なにせお館様直々の──。
なんとか間に合う道を必死に考えつつ「すいません!」と一言あげて来た道へと駆け出す。
「待って!」
背後からの声に振り返る。しのぶ様の口が「さっきの、」と動いたのが見えた。
「帰ったら言います!」
あらんかぎりの声で叫び前を向いて、砂利と梅の花びらを踏みしめた。そしてふと、自分から手を離したのは初めてだったなと思った。
自分はどんな終わり方をするんだろう。そんな事を、蜜璃様と話して以来考えるようになった。
誰かに嫁いで、老衰で死ぬのか。子供を出産する時や流行病に見舞われた時あっけなく命を落とすのか。
そのどれにも「しのぶ様を見送った後」という枕詞がついていた。おいてかれることばかり考えていた。
自分の口から流れてるらしい血が、腹部からの出血でできたどす黒い血溜まりと合流したのを眺めながら「私が先なのか」と思った。
状況は単純だ。しくじった。力不足だった。
斥候として少人数で山中を歩いて、油断していたところを挟み撃ちにあった。この時期、鬼の活動はないはずだった。予測はほぼ不可能だった。なんとか数人は逃がせたから情報は伝わるけれど、損傷はあまりにも大きい。
山の中での戦闘は鬼の方が圧倒的に有利だ。もう下半身の感覚がほとんどない。上半身が無傷で残ってるのが奇跡で、見つかるのも時間の問題だ。
ぎゃあぎゃあと喧しい鳴き声で意識が浮かび上がる。顔に微かな羽ばたきを感じる。私の鴉だ。真夜中の悪状況でよく見つけられたものだなと、呑気に思った。良い鴉だ。当然か、刀も鴉もしのぶ様に選んで貰ったんだから。
刀や鴉は特にこだわらないと公言した私を叱り、丁寧に選び抜いていた。
ただの鋼でしかないそれを、まだ若い鴉を、祈るように見つめていたあの瞳を覚えている。
ぐっと肺の周りの筋肉に力を入れた。身体が上げる悲鳴をやりすごす。こんな姿をあの人に見せるわけにはいかない。
「しのぶ様には、なにも、言わないで、これを」
感覚のない指を無理矢理動かして、手紙を取り出す。伝達役が鴉で良かったなとぼんやり思った。渡せなかった白い恋文を真っ黒な嘴が挟んでいるのが、見えなくなってきた目でも捉えることが出来た。
鬼の足音が聞こえる。
「行って、はやく」
飛び立つ羽音の余韻が鼓膜を微かに揺らした。夢でも見ているかのように思考はくぐもっていく。
最後に、カナエ様の声が聞こえた気がした。
幕間
蝶屋敷の縁側に座る濡れ鼠の冨岡に、カナヲはアオイから預かっていた追加の布と茶を差し出した。
土砂降りの中を冨岡が訪ねて来て、胡蝶に山程の折り鶴が入った屑籠を押し付けたのがつい先程。中身の鶴は一羽たりとも濡れていなかった。冨岡は睫毛まで濡れていたが。
「あの」
「知るな。それがお前に出来る報いだ」
あれは一体なんなのか。やっとの思いで沈黙を破ったカナヲの声を、冨岡はにべもなく遮った。
「師範は、」
「胡蝶はいい」
それっきり冨岡は黙ってしまったので、仕方なくカナヲは立ち上った。
彼女が任務先で行方不明になって数日経つ。多分もう帰ってこないと蝶屋敷の誰もが思っていた。けれど不思議と悲壮感はない。
彼女は平凡で目立つ人間ではなかったし、より魅力的な人間なら鬼殺隊にたくさんいる。
ただ、この人がする仕草や話す言葉なら、きっと良いことを届けてくれる。そう思わせるような佇まいを持った人だった。カナヲが超えられない一線を簡単に飛び越えて、軽やかな足音と共にどこにだって行ける人だ。
一度ばらばらに壊れかけた時でさえ、全て嘘だったかのように帰ってきた人だ。
あの朗らかな気配だけが、屋敷のあちらこちらに漂っている。
◯
冨岡がある程度乾いた鼠になった頃、胡蝶の自室付近から一羽の鴉が飛んできて真横に不時着した。彼女の鴉だ。じっとつぶらな瞳で冨岡を見上げる。
「すまない」
恨みがましげに一声鳴く。
「……お館様もおっしゃっていた。むごい事をしてしまった、と」
鴉は未だに主の所在についてだんまりを決め込んでいた。あの地区で遺体が見つかってないなら生きている可能性が高い。一応、そういう事になっている。
冨岡の言葉を聞いた後、鴉は土砂降りの中へ飛び立って行った。冨岡も立ち上がり、胡蝶の自室へと足を運んだ。そして障子を徐に開く。
部屋は薄暗かった。
無数の折り鶴が解かれて、書き損ないの手紙が復元されている。ちょうど最後の一枚を読み終わったらしい胡蝶の表情は、冨岡からは見えなかった。
冨岡は件の彼女にも何度か「話し合え」と言っていた。しかし伝わってない自覚はあった。
お互いが相手を自分と同じくらい思ってるなんて考えもしてなかったのだろう。この二人の祈りは、独りよがりで、鮮烈で、自分勝手で、一方的な優しい祈りだった。そして届いた頃にはもういないのだ。血の匂いさえ残さず逝ってしまった。
「出来すぎた子です、本当に」
ゆっくりと胡蝶が顔を上げる。淡い闇の中で、藤紫の瞳だけが蛍のように光っていた。
長い間、夢を見ていた心地がする。だから、今も夢を見ているんだと思う。
あれ、私ってあそこで鬼に殺されて死んでしまったんじゃないんだろうか。
しのぶ様の復讐は成功したのかな。カナヲは大丈夫かな。私、しっかりできた? 自信ないな。
しのぶ様、私と一緒で幸せだったかな。聞いておけば良かった。やっぱり生きて欲しかった。
でも、私がそう思ってたせいで、失敗しちゃったらどうしよう。
重い体を動かして、のろのろと顔を上げる。周囲は薄暗いが、遠くに光が見える。
「あ」
光の方に、なぜかカナエ様としのぶ様の姿が見えた。都合の良い夢だなと自嘲する。
何かを伝えるならすぐに言いにいかないといけない。わかってはいても言葉が喉につっかえてしまう。ああ、なんて言おうか。言うべき言葉が見つからない。
焦るまま顔をあげると、ふと、風が吹いた。
そう知覚した次の瞬間、無数の波のように空気が押し寄せる。淡い赤色が視界をかすめた。
桜だ。カナエ様としのぶ様の肩越し、遠くに桜木がある。その下に二つの人影が見えた。
花弁は群をなして風のうねりに舞い上がり、空中ではじけて降ってくる
やけに花弁はちろちろと星のように瞬く。
なんでだろうと目を凝らす。停滞していた時間が、季節が、目まぐるしく一気に流れて行くのだと気がついた。春夏秋冬、ひととせが数秒の間を何回も駆け抜けていく。
風に散らされた桜の花弁が五月雨に湿って、半夏生の淡い木漏れ日がかかり、炎天の陽炎に揺らいだと思えば白露の雨がその熱を冷まし、霜が降り雪をまとったまま春分の嵐にさらわれる。
淡い紅色が四季をまとい、くるくると舞い踊る。
確かにそこにあったのに貴女の瞳に映らなかったものだ。貴女に届かなかった全てが一度に押し寄せ、流れる春夏秋冬は各々の色に輝き混じり合い、徐々に白光を帯びる。
そして白い光はじわりじわりと暗がりを追いやっていく。それは、夜明けの情景に良く似ていた。
四季が巡るのに痛みを伴ったことを覚えている。それさえも極光の中に溶け込んで、ただただ桜吹雪の激流に押し流される。
その黒い髪をたなびかせながら、しのぶ様は振り向いた。目が合った。瞳が、私に駆け寄るか惑うように揺れる。
しのぶ様は、くしゃりと泣きそうな表情で、痛みも悲しみも何もなないまま笑った。紫の瞳が私を映していた。
やっと、終わったんだ。もう痛くも苦しくもないんだ。
「追いかけますから!」
気がついたらそう叫んでいた。
「先に行ってください!」
ぐわんと私の声が響く。花弁が口入って少しむせた後、めいいっぱい手を振る。
しのぶ様はカナエ様と顔を合わせて微笑んだ。そして私に手を振りかえしてから、桜の元へと駆けて行った。
また一陣、風が吹き抜ける。目を瞑った。目の奥がじんと熱かった。
蛇足ではあるし、まっさらな大団円を前に何を話すのかと思うが、話は少しだけ続く。
何を語るのかと言えば、ふと目を開いた白い空間に、その男の欲に塗れた黒い姿はとんでもなく目立った。ただそれだけの話である。
最初に感じたのは悪寒で、奴の存在に気がついたのは二歩目を踏み出した時だった。血鬼術には明るくないが、女の本能で「ロクな事じゃないな」と察したのは覚えている。
何度も繰り返して来た動きは、ほぼ反射的に繰り出される。間に合えと念じる。四歩目で足に力を込めて飛び上がる。浮遊感。落下と共に抜刀。
ついでにその身体に蹴りを入れる。見開かれた虹色の目が合う。私の一太刀は、鮮やかに血鬼術を断ち切った。
そして勢いよく踏み込み過ぎた結果、鬼もろともそのまま下方へと転落した。それが事の次第というやつだ。