私も若い頃は国学の影響を受け、仏教を自分から遠ざけて神道一本でやっていたのですが、自分一人の修道はともかく、他者の救済や祈り、また亡くなった方の慰霊、供養を行う時に、仏教でないと救われない人が多いことに気が付き、やはり神仏習合が一番日本に合うと気が付きました
無理がないと言うか
スレッド
新しいツイートを表示
会話
返信先: さん
とはいえ私は中学生で得度して密教僧になろうと思っていたくらいでしたし、種智院大学の密教科の内定まで頂いていたけれど、仏縁よりも神縁の方が強かったのか結局は神職になったのですが、神職になってから、これは仏教が無いとどうにもならないぞと思うことが多く、また仏縁を結び直したのです
改めて仏教を学び、出来る範囲で実践するごとに本来の神道の姿、神仏分離以前の一千年の神仏習合の神道の姿が素直に見れるようになってきました
それと同時に得度しておかないと学べないこと、修行できないこと、教われないことも多いので、違和感なく真言宗のあるお寺で形だけですが得度しました
得度したことで十八道を始めとする密教の専門的な修行も許され、密教を体験的に学ぶことが出来たことで、神道では失伝してしまったものや、秘伝とされているものの源流や元型を知ることができ、結果として古流の神道を実践していく上で非常に役に立ちましたし、神仏が表裏一体である事も悟れました
もちろん古流の神道でも、仏教で出来ること代替で出来ることも多いのですが、先祖代々仏教の家の祭祀や供養に関わることを神道だけで頑張ってやるよりも、素直に神仏両方で行う方が円満にうまくいくことがよくわかりました
神仙道の秘伝を使えばそれらの問題もクリアできますが使うべきでない事も多く
神道の葬儀である神葬祭も、亡くなった方が神となるに相応しい方であれば問題ないですが、そうでない凡人あるいはかなり業の深い人生を歩んできた人が急に神になるのは難しく、通常の神社神道の神葬祭では成仏できない事を多く感じました
幽魂安鎮秘詞を使えば強制的に上に挙げられますが無理が多い
神葬祭はほぼ神社の神職としての仕事なので、幽魂安鎮秘詞を施法するほどこちらが入れ上げるのは僭越でもあり、神葬祭の中で玉串奉奠などの時に光明真言や観音真言などを唱えて仏縁の強い方には成仏してもらうようにしていました
家が神道と言っても、大体明治以降の話なので、先祖が仏を望むのです
幽魂安鎮秘詞は神道や仏教という信念体系を超えた領域からの光なので宗教を問いませんが、先祖と新しく亡くなった方を繋げるときに、先祖がいる以上の世界に送ってしまうのは過剰なので、出来るだけそれはせずに神葬祭で求められる祖霊→祖神の世界に行く為に必要であれば真言か秘詞を選び使いました
猫寺の阿闍梨様にこうした事を相談したところ
「そりゃそうや、誰でも死んだらいきなり神様になると言うのは無理があるわな」と明快なお答えを頂き、自分の実感は間違っていなかったなと思いました
特に深い業が絡むと神様は関わりにくくなり、仏教でないと無理という人も少なくないと実感しました
こう言う話をすると神道と仏教の優劣論になると思うかもしれませんがそうではなく
得意分野があると言うことと、どちらにしても最後は同じところに行き着くこと
それらはその人や家の縁によること
などが確信としてわかってきました
どちらを主に行うかは縁と好みによると言うだけです
要するに、仏教じゃないとダメだと思っている人、先祖には素直に仏教で
特にこだわりのない素直な人や、神道が好きな人は神道で
普通に生きている人には神道と仏教、神社とお寺を自分の好きな割合でどうぞということです
神道じゃないとダメ、仏教じゃないとダメということではないということです
神道でも仏教でも道教でもキリスト教でもイスラム教でもユダヤ教でもヒンドゥー教でも天理教でもマニ教でも、その人の魂が好むものがあれば、それで本当に魂が救われるならばそれで良いという立場です
何故ならば本質はそれらの宗教や信念体系を超えた領域にこそあるし、実は神道はそれに一番近い
私が神道を本門にしている最大の理由は
一番宗教としては教えも形がないことです
宗教や信念体系を超越したものに一番近いのが本来の神道
色がない、ピュアで透明な世界
信仰という言葉さえ必要ない
純粋無垢で限りなく透明
神道は本来はそういうものであり
宗教以前の宇宙そのもののイメージ