pixivは2022年7月28日付けでプライバシーポリシーを改定しました詳しいお知らせを見る
拝啓、しのぶ様
お元気ですか? 私が家出して五日が経ちましたね。ところで貴女が毒を服用している件についてお伺いしたいのですが。
「いや情報量が多い……」
書きかけの手紙を屑籠に投げようとして、これが最後の紙だと思い出して手を止めた。
鶴でも作ろうかなと手紙のなりそこないを慎重に解体する。四つの正方形が出来た。
冨岡様の屋敷に来て五日が経過した。したけれども、冨岡様に安静にしていろと言いつけられたため、特に進展と呼べるものはない。
冨岡様は優しかった。深夜に訪ねて来てそのまま倒れた私にも、取り繕おうとけたたましく喋る私にも、与えられた布団に濡れた兎みたいに丸まる私にも、戸惑いつつ真摯に向き合ってくれた。
なかなかぶっ飛んだ向き合い方ではあったけれど。ちなみに私が阿呆みたいに書き損じを量産しているのは、三日目の彼の言葉に起因する。
「言いたいことも、言うべきことも、言えなかったんです」
「手紙で済ませろ」
大喜利じゃなくて相談なんですが。勢いで言いかけたが、存外そういうことなのかもしれないと思い直した。
飲み込むばかりで形に出来なかった言葉も、手紙でなら伝えられる。そう筆を取ったは良いものの、御覧の有様である。紙がなくなっても手紙はできない。
八つ時の鐘が鳴る。そろそろ薬を貰いに行こうかと小さな四羽を屑籠に落とした。
街の薬屋の道は苦手だ。鬼殺隊の関係者にばったり会ってしまったら、どんな顔をすれば良いかわからない。
足を怪我して以来、本当は鬼に関係がある場所にはいたくなかった。同僚や後輩の何気ない所作や言葉に気圧されてしまうのだ。無論、相手は変わってない。ただ、自分が弱くなっただけだと、役立たずになったのだと思い知らされてしまうのだ。
それでも蝶屋敷にいれたのは、意地だった前へ3 / 10 ページ次へ
街の薬屋の道は苦手だ。鬼殺隊の関係者にばったり会ってしまったら、どんな顔をすれば良いかわからない。
足を怪我して以来、本当は鬼に関係がある場所にはいたくなかった。同僚や後輩の何気ない所作や言葉に気圧されてしまうのだ。無論、相手は変わってない。ただ、自分が弱くなっただけだと、役立たずになったのだと思い知らされてしまうのだ。
それでも蝶屋敷にいれたのは、意地だった。
私は、いわゆる良い恋人では無いと思う。
私が見つめてばかりで、甘えてばかりで、私では彼女を追いかけるのがやっとで、何もできなくて。
それでも周囲の人々は誰ひとりとて文句は言わなかった。「彼女を頼むよ」と信じてくれた。
それほど、カナエ様を亡くした後のしのぶ様は危うかった。この手だけが依綱で、手を離したら深い奈落の底に落ちて、粉々になってしまう。そんな錯覚に陥ってしまうほど、しのぶ様は追い詰められていた。
だから、何度だって追いかけて、手を繋ぎ直した。必死に引き止めれば、いつか「そんな日もあった」と笑える日が来るはずだと足掻いていた。傷が癒えて、苦しみも悲しみもない未来につながると、全てをかけて信じていた。もう一度、私をその瞳に映してくれるその日を。
それも無駄だったのかもしれないけれど。
渡された釣書、白磁の手と藤色の毒が脳裏をかすめる。
心臓がぎりりとい痛んで思わず薬の包みを抱きしめた。ここは人通りも多い。帰り道の往来で倒れてしまうなんて笑えない。
「──!」
「ん?」
ふと、名前を呼ばれた気がした。
顔を上げても、声の主の姿は見えない。知り合いだったら嫌だなと、鉢合わせないように足を速める。しのぶ様やカナヲなら問答無用で捕獲しにかかってくるだろうし。
そう思った次の瞬間には腕を掴まれていたのだから、柱というのはとんでもない。
「シロちゃん待って!」
「はい!? って、蜜璃様」
振り返ると視界が春の色に覆われ、目が眩んだ。数回瞬きを繰り返して、やっと状況を理解する。
甘露寺蜜璃様。この前の任務でご一緒したりと、何かと交流は多い方だ。
「すいません、気がつけなくて」
おひさしぶりですと頭を下げると彼女は「ひさしぶりね!」と淡いよもぎ色の目を細めた。
たじろいで、思わず一歩後ずさった。足を怪我する前はただ素敵だと思った全てが、あまりにも眩しい。
しまったと思っていつもの癖で笑う。
すると蜜璃様は目を見開いて、動揺したように視線を揺らし、急に深刻な表情を浮かべた前へ3 / 10 ページ次へ
街の薬屋の道は苦手だ。鬼殺隊の関係者にばったり会ってしまったら、どんな顔をすれば良いかわからない。
足を怪我して以来、本当は鬼に関係がある場所にはいたくなかった。同僚や後輩の何気ない所作や言葉に気圧されてしまうのだ。無論、相手は変わってない。ただ、自分が弱くなっただけだと、役立たずになったのだと思い知らされてしまうのだ。
それでも蝶屋敷にいれたのは、意地だった。
私は、いわゆる良い恋人では無いと思う。
私が見つめてばかりで、甘えてばかりで、私では彼女を追いかけるのがやっとで、何もできなくて。
それでも周囲の人々は誰ひとりとて文句は言わなかった。「彼女を頼むよ」と信じてくれた。
それほど、カナエ様を亡くした後のしのぶ様は危うかった。この手だけが依綱で、手を離したら深い奈落の底に落ちて、粉々になってしまう。そんな錯覚に陥ってしまうほど、しのぶ様は追い詰められていた。
だから、何度だって追いかけて、手を繋ぎ直した。必死に引き止めれば、いつか「そんな日もあった」と笑える日が来るはずだと足掻いていた。傷が癒えて、苦しみも悲しみもない未来につながると、全てをかけて信じていた。もう一度、私をその瞳に映してくれるその日を。
それも無駄だったのかもしれないけれど。
渡された釣書、白磁の手と藤色の毒が脳裏をかすめる。
心臓がぎりりとい痛んで思わず薬の包みを抱きしめた。ここは人通りも多い。帰り道の往来で倒れてしまうなんて笑えない。
「──!」
「ん?」
ふと、名前を呼ばれた気がした。
顔を上げても、声の主の姿は見えない。知り合いだったら嫌だなと、鉢合わせないように足を速める。しのぶ様やカナヲなら問答無用で捕獲しにかかってくるだろうし。
そう思った次の瞬間には腕を掴まれていたのだから、柱というのはとんでもない。
「シロちゃん待って!」
「はい!? って、蜜璃様」
振り返ると視界が春の色に覆われ、目が眩んだ。数回瞬きを繰り返して、やっと状況を理解する。
甘露寺蜜璃様。この前の任務でご一緒したりと、何かと交流は多い方だ。
「すいません、気がつけなくて」
おひさしぶりですと頭を下げると彼女は「ひさしぶりね!」と淡いよもぎ色の目を細めた。
たじろいで、思わず一歩後ずさった。足を怪我する前はただ素敵だと思った全てが、あまりにも眩しい。
しまったと思っていつもの癖で笑う。
すると蜜璃様は目を見開いて、動揺したように視線を揺らし、急に深刻な表情を浮かべた。
「ねぇ、この後空いてないかしら」
笑顔の消えた顔に心臓がどくりと嫌な脈打ち方をする。何か良くないことだろうか。
「あのね、」
「はい」
「実は、私のおうちに美味しい桜餅があるの」
「はい……さくらもち?」
一瞬反応が遅れた。惚けた声で鸚鵡返しをする私に、彼女はとっておきの秘密を打ち明けるような声で続けた。
「そう。桜餅。でも、ひとりで食べなくちゃいけないなって思ったら、すっごく寂しくて しょぼんと肩を落とす。
「ひとりで食べるご飯って寂しいですよね」
「でしょう! だから、一緒に食べてくれたらすごい嬉しいんだけれど」
駄目かしらと柴犬のように小首を傾げた。そよりと風が桜色の髪を揺らす。どうやら私は盛大な肩透かしを食らったようだ。なんだか可笑しい。
「そういうことでしたら、ぜひ」
「ありがとう! 折角だから、気になってた洋菓子屋さんによっていきましょ、路地裏の鰻屋さんも絶品だし、あとね」
ぱあっと顔を輝かせ、蜜璃様は私の手を引いて歩きだす。
誰かに手を引いてもらうのはいつ以来だろうなんて思いながら、私は蜜璃様の話す楽しい計画を聴いていた。
拝啓 しのぶ様。
最近、手を繋いでいませんね、私達。
「そういえば、シロちゃんはどうして鬼殺隊に入ったの?」
蜜璃様がお風呂上がりの私に問いかけた時、日はとうに暮れていた。
前へ4 / 10 ページ次へ
拝啓 しのぶ様。
最近、手を繋いでいませんね、私達。
「そういえば、シロちゃんはどうして鬼殺隊に入ったの?」
蜜璃様がお風呂上がりの私に問いかけた時、日はとうに暮れていた。
あれもこれもと買っている内に夕食は豪華な晩餐に変化した。どれほど豪華だったかと言えば、これはもう帰るのは現実的ではないなと悟ったほどだ。そして冨岡様に「外泊します」と鴉を送って泊まる事になった。
夕食はとても楽しかった。怪我をして以来だいぶ食が細くなっていたのに、全盛期と同じくらい食べていたくらいだ。
「ごめんなさい、話しづらい事だったかしら」
「いえ! 私は本当に深刻な理由はないですよ。いつぞやお話しした通り、親も兄弟も健在ですし」
近くの座布団に座る。
「蜜璃様は素敵な殿方を探しに、でしたよね前へ4 / 10 ページ次へ
拝啓 しのぶ様。
最近、手を繋いでいませんね、私達。
「そういえば、シロちゃんはどうして鬼殺隊に入ったの?」
蜜璃様がお風呂上がりの私に問いかけた時、日はとうに暮れていた。
あれもこれもと買っている内に夕食は豪華な晩餐に変化した。どれほど豪華だったかと言えば、これはもう帰るのは現実的ではないなと悟ったほどだ。そして冨岡様に「外泊します」と鴉を送って泊まる事になった。
夕食はとても楽しかった。怪我をして以来だいぶ食が細くなっていたのに、全盛期と同じくらい食べていたくらいだ。
「ごめんなさい、話しづらい事だったかしら」
「いえ! 私は本当に深刻な理由はないですよ。いつぞやお話しした通り、親も兄弟も健在ですし」
近くの座布団に座る。
「蜜璃様は素敵な殿方を探しに、でしたよね」
見付かりました? なんて茶化すように言うと「素敵な方ばっかりで選べないわ!」と返ってきた。
「貴女は、────ったら何かしたいことはあるの?」
「はい?」
その言葉の羅列を一瞬理解できず聞き返してしまった。えっと、オニガイナクナったら……あ、鬼がいなくなったら、だろうか。いなくなる? 鬼が?
「シロちゃん? 具合が良くないの?」
「あ、いえ、大丈夫です。鬼がいなくなったら、なんて考えたことなくて」
すいませんと頭を下げる。
目の前の事に必死で、未来なんて考えた事がなかった。鬼がいなくなったら、そう考えてただ漠然と脳裏に浮かんだのはしのぶ様の顔だ。でも、痛みも苦しみも何もないまっさらな笑顔は、上手く想像できなかった。
幸せになるなら、しのぶ様が生きてなくちゃ意味なんてない。
「幸せになりたいです。しのぶ様にも幸せになって欲しい」
気がついたらほろりと口から言葉がこぼれ落ちていた。
そして、幸せという言葉が出た瞬間、蜜璃様の顔が少しだけ曇った。
「あの、何か気に障ってしまいましたか?」
「へ!? 顔に出ちゃってたかしら」
「いえ、そこまで明確ではないですよ。ただ“幸せ”って私が口にした時、すこしだけ」
「! すごい、よく見てるのね」
「全然ですよ。人間、大切な人のことは蔑ろに出来ませんから」
「……シロちゃん」
「はい?」
「今、すっごいキュンキュンしたわ」
「へ?」
そこで、カナヲやキヨ達と話す時の調子で話していたと気がついた。
そして騒ぎが鎮まるまで少々かかった。
慌てて「すいません、口説いた訳では!」「いえ蜜璃様はとても魅力的ですが!」と弁明する私と、「きゃあ!魅力的だなんてそんな」「だめだめ! わかってるわ、ーーちゃんは、しのぶちゃんのなんですもの!」とはしゃぐ蜜璃様とで大騒ぎだ。
「あのね、」
しばらく盛り上がった後、きゃいきゃいとはしゃいでいた空気をそっとしまって、彼女は身の上話を語り始めた。お見合いが破談したこと、自分を偽ったこと、悲しくて幸せが何かわからなくなったこと
「あのまま私だけが我慢していれば、相手はきっと幸せだったと思うの」
蜜璃様は明るい声で言った。正直な眉は下がりっぱなしだった。
「相手の人も、普通を装っている状態が私にとって1番幸せだって思っていたし」
「そんな……おかしいです。そんなの、自分の事しか見えてないじゃないですか」
心に何か刺さった感覚がした。驚いて胸を押さえる。
「幸せって難しいのよね。ってどうしたの!? やだ、お医者様を呼んだほうがいいかしら!?」
「いえ大丈夫です! 悪いのは足だけなので」
「そうなの……? でもすごい汗よ」
「えっうわ本当だ」
「やっぱりお医者様を呼びましょう!」
「いえいえ本当に大丈夫です!」
今にも飛び出しそうな蜜璃様を必死に引き止める。
医者はまずい。
というのも、ド深夜に突撃と居候をかました時、ちょっと足の傷が開いてしまったのだ。つまり私はド深夜にお医者様を叩き起こさせた、前科一犯なのである。さすがにこれ以上罪は重ねたくない。
やいのやいのと繰り広げた押し問答の末に、蜜璃様が折れる形となって就寝することになった。
前へ5 / 10 ページ次へ
拝啓、しのぶ様
幸せってなんなんでしょうか
「だめだ……」
また増え始めた書き損じと折り鶴を眺める。蜜璃様が起きないようにため息を吐いた。
寝付けなかった。眠ろうとしても胸騒ぎがして落ち着けない。有り難いことに今日は満月で、手紙を書くための灯りには困らなかった。
幸せ、幸せ。何かがひっかる。気がついたら、今まで立っていた場所が薄氷だったと理解してしまうような何かだ。根拠はなくても確信してしまう。
「……」
鬼がいなくなったら、幸せになりたい。そこは間違ってない、じゃあ間違ってるのはどこだろう。
『拝啓、しのぶ様。生きてください』
『拝啓、しのぶ様。どうか幸せになってください』
とりあえず二文を書き起こす。違和感。
幸せ。しのぶ様の幸せってなんだろう。わからない。だって貴女はいつだって影を持っていた。
貴女が浸る苦痛は骨の髄まで染み込んでいた。どんな場面でも滲み出していて、どんなに頑張っても消えてくれなくて、貴女はずっと苦しいままで、見てることしかできなくて、自分の無力さを思い知った。
だから、痛みがなくなることが幸せだと思っていた。生きることが幸せだと思った。
『拝啓、しのぶ様。貴女にとって生きることは、幸せなんでしょうか』
ひゅ、と息が詰まった。
嘘だ。だって生きていれば、何度も四季がめぐれば、いつか傷は癒える。……本当に? カナエ様が亡くなって何年も経つのに、しのぶ様は変わらない。
時間じゃもう大切な人を奪われた痛みは癒えない。
だから、しのぶ様は仇をとろうとしている。
でも命を対価にしないと復讐はできない。
つまり生きることは、しのぶ様の幸せじゃない。一番ひどい結末でしかない。
私の幸せは、しのぶ様の悪夢なんだ。
視界が揺れる。ああ動揺してるなと他人事のように思った。それ以外は知覚できなかった。
ぐちゃぐちゃな感情が荒波のように押し寄せる。
自分の根本が崩れていく。目の前に黒いもやがかかって、心臓の音がうるさい。感情を受容する器官を、おろし金ですりつぶされて行くような心地。意識を飛ばしてしまえば二度と元には戻れないという確信と恐怖、声が押し寄せて息ができない。息が吸えない。どうしよう。苦しい。誰か。
「こっちを見て」
ぐるんと身体が反転して、ふわりと甘やかな匂いに包まれた。わけがわからず見上げると、蜜璃様の顔が目に入る。どうやら抱きしめられているらしかった。
「息を吐いて、ふーって」
静かな声が落ちてくる。背中を撫ぜられる。暖かい。
「そう、上手よ。大丈夫、大丈夫」
頭をゆっくりと撫でられる。暖かくて、鼓動の音が聞こえる。呼吸の方法を思い出す。悲惨な事実を前にこわばった手足がほどかれていく。
意識が落ちかけて、ぐっと体に力を入れた。
「すいません、もう平気です」
「あら、まだ駄目よ」
そう蜜璃様は悪戯っぽく微笑んだあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ねぇ、何があったの? 話してくれないかしら」
「それは……えっと」
いざ言葉にしようと思うと、ぐちゃぐちゃで何もまとまらない。
やっぱり思い浮かぶのはしのぶ様の顔だ。心が無理矢理引きずり出されているように痛い。
もう一度、あの笑顔で笑って欲しかった。くったくなく、溌剌と笑って欲しかった。
もう無理だったんだ。二度と、しのぶ様の瞳に私は映らない。そんな可能性は、全て断たれていた。
「生きて、欲しいんです」
喉がぎしりと痛む。
「どうして、鬼に奪われなくちゃいけないんでしょうか」
絞り出した声は、今にも折れてしまいそうなくらい頼りなかった。
息を飲む音がして、ぎゅっときつく抱きしめられる。
嗚咽は出なかった。涙だけが止まらなかった。
ずっと、幸福な未来を願っていた。何か方法があるはずだと、必死につなぎとめていた。
私の幸せは、絶対しのぶ様の幸せだと思っていた。
沈丁花のそばで微笑むしのぶ様を思い出す。
真夏の木漏れ日がかかる肩、薬品を調合する後ろ姿、不満そうにしていた梅雨時、任務帰りの横顔。
幸せな思い出の全てが、ひどく悲しかった。
少し落ち着いた頃、ふと、疑問が湧いてきた。
私、これからどうすればいいんだろう前へ5 / 10 ページ次へ
拝啓、しのぶ様
幸せってなんなんでしょうか
「だめだ……」
また増え始めた書き損じと折り鶴を眺める。蜜璃様が起きないようにため息を吐いた。
寝付けなかった。眠ろうとしても胸騒ぎがして落ち着けない。有り難いことに今日は満月で、手紙を書くための灯りには困らなかった。
幸せ、幸せ。何かがひっかる。気がついたら、今まで立っていた場所が薄氷だったと理解してしまうような何かだ。根拠はなくても確信してしまう。
「……」
鬼がいなくなったら、幸せになりたい。そこは間違ってない、じゃあ間違ってるのはどこだろう。
『拝啓、しのぶ様。生きてください』
『拝啓、しのぶ様。どうか幸せになってください』
とりあえず二文を書き起こす。違和感。
幸せ。しのぶ様の幸せってなんだろう。わからない。だって貴女はいつだって影を持っていた。
貴女が浸る苦痛は骨の髄まで染み込んでいた。どんな場面でも滲み出していて、どんなに頑張っても消えてくれなくて、貴女はずっと苦しいままで、見てることしかできなくて、自分の無力さを思い知った。
だから、痛みがなくなることが幸せだと思っていた。生きることが幸せだと思った。
『拝啓、しのぶ様。貴女にとって生きることは、幸せなんでしょうか』
ひゅ、と息が詰まった。
嘘だ。だって生きていれば、何度も四季がめぐれば、いつか傷は癒える。……本当に? カナエ様が亡くなって何年も経つのに、しのぶ様は変わらない。
時間じゃもう大切な人を奪われた痛みは癒えない。
だから、しのぶ様は仇をとろうとしている。
でも命を対価にしないと復讐はできない。
つまり生きることは、しのぶ様の幸せじゃない。一番ひどい結末でしかない。
私の幸せは、しのぶ様の悪夢なんだ。
視界が揺れる。ああ動揺してるなと他人事のように思った。それ以外は知覚できなかった。
ぐちゃぐちゃな感情が荒波のように押し寄せる。
自分の根本が崩れていく。目の前に黒いもやがかかって、心臓の音がうるさい。感情を受容する器官を、おろし金ですりつぶされて行くような心地。意識を飛ばしてしまえば二度と元には戻れないという確信と恐怖、声が押し寄せて息ができない。息が吸えない。どうしよう。苦しい。誰か。
「こっちを見て」
ぐるんと身体が反転して、ふわりと甘やかな匂いに包まれた。わけがわからず見上げると、蜜璃様の顔が目に入る。どうやら抱きしめられているらしかった。
「息を吐いて、ふーって」
静かな声が落ちてくる。背中を撫ぜられる。暖かい。
「そう、上手よ。大丈夫、大丈夫」
頭をゆっくりと撫でられる。暖かくて、鼓動の音が聞こえる。呼吸の方法を思い出す。悲惨な事実を前にこわばった手足がほどかれていく。
意識が落ちかけて、ぐっと体に力を入れた。
「すいません、もう平気です」
「あら、まだ駄目よ」
そう蜜璃様は悪戯っぽく微笑んだあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ねぇ、何があったの? 話してくれないかしら」
「それは……えっと」
いざ言葉にしようと思うと、ぐちゃぐちゃで何もまとまらない。
やっぱり思い浮かぶのはしのぶ様の顔だ。心が無理矢理引きずり出されているように痛い。
もう一度、あの笑顔で笑って欲しかった。くったくなく、溌剌と笑って欲しかった。
もう無理だったんだ。二度と、しのぶ様の瞳に私は映らない。そんな可能性は、全て断たれていた。
「生きて、欲しいんです」
喉がぎしりと痛む。
「どうして、鬼に奪われなくちゃいけないんでしょうか」
絞り出した声は、今にも折れてしまいそうなくらい頼りなかった。
息を飲む音がして、ぎゅっときつく抱きしめられる。
嗚咽は出なかった。涙だけが止まらなかった。
ずっと、幸福な未来を願っていた。何か方法があるはずだと、必死につなぎとめていた。
私の幸せは、絶対しのぶ様の幸せだと思っていた。
沈丁花のそばで微笑むしのぶ様を思い出す。
真夏の木漏れ日がかかる肩、薬品を調合する後ろ姿、不満そうにしていた梅雨時、任務帰りの横顔。
幸せな思い出の全てが、ひどく悲しかった。
少し落ち着いた頃、ふと、疑問が湧いてきた。
私、これからどうすればいいんだろう。
鬼殺隊で頑張って来たのも、しのぶ様の隣にいたいがためだった。その瞳に私を映して欲しかった。
でも、やっぱり生きる理由にはなれなかった。……無意味だったんだろうか、全部。目の前が陰り始める。さっきの激情が嵐なら、今の暗鬱は底冷えだ。じわじわと思考が闇に飲まれる。
「しのぶちゃんはね、いつも貴女を自慢していたわ」
沈みかけた意識が、澄んだ声に引き上げられた。
「しのぶちゃんはいつも笑っているけれど、貴女といる時は幸せそうな顔で笑うの。だから貴女がいたかどうかは、すぐわかるのよ。だって、あそこまでしのぶちゃんを御機嫌にできるのは貴女だけだから。あとね、沢山お話ししてくれるの」
「お話?」
「そう。可愛いくてたまらないとか、笑顔が癒されるとか、足音が優しいとか、不満なのは帰る帰る詐欺がすぎるくらいとか」
「帰る帰る詐欺」
ちょっとすごい言葉が出てきたぞ。え、そんなこと思ってたんですかしのぶ様。確かに任務でバタバタして外泊が伸びたりもしたけど。
少し茫然とする私に、蜜璃様は「まって。違うの、そこじゃないのよ」とうーんと唸る。
「それだけじゃないわ。皆、貴女のことを褒めてるのよ
雑務も気持ちよく引き受けてくれるし、素直だし、笑顔が可愛いし、いると雰囲気が明るくなるし、頑張り屋さんだし」
「……なんだか私がすごく素敵な人みたいですね」
「みたいじゃなくて、貴女は素敵な人よ」
力強い断言に目を見張った。
「私が入隊の理由を話した時のこと、覚えているかしら」
「はい」
周りが若干引いてる中で、『あ、割とおそろいですね』なんて呑気な話をしたのを覚えている。
「あの頃の私は、恋って楽しくってふわふわした物だとばかり思ってて。でも貴女の恋は苦くて、泣いてしまうようなこともあって、胸がぎゅぅって痛くなったの」
蜜璃様は「でもね」と、顔を上げた。
「恋をしている貴女は本当に綺麗で、とっても強くて。この人がいるなら、しのぶちゃんは大丈夫だって思ったの」
「……それは」
「買い被りなんかじゃないわ。信じて。貴女はすごく素敵な人。素敵な恋をしている人。しのぶちゃんを苦しめるキュンとしない奴に、貴女の恋を奪わせないで」
繋がれた手が、祈るように握られる。
「しのぶちゃんから、貴女まで奪わせちゃダメよ」
すとんと言葉が心に落ちてくる。バラバラになった心が熱をじわりと帯びて、ふわりと軽くなる。真っ暗な世界の向こうに光の気配を感じる。
この感覚を知っている。希望だ。
「それにね、貴女は強い」
静かに蜜璃様は私に向き直った。
「強いなら、他の人を守らなくちゃ。それが強い者の使命よ」
磨き抜かれた橄欖石のような、柔らかくも力強い黄緑の視線に射止められる。鬼殺隊最強の一角を担う柱の、炎のような空気に圧倒された。
「──なんて、師範の受け売りなんだけどね」
「え」
蜜璃様はえへへと照れ臭そうに笑って、「ちょっとカッコつけすぎたかしら」と頬を染めた。そして、年の離れた妹を相手にしているかのような、慈愛に満ちた表情で、私の目尻を拭った。
「答えになったかしら」
「?」
前へ5 / 10 ページ次へ
拝啓、しのぶ様
幸せってなんなんでしょうか
「だめだ……」
また増え始めた書き損じと折り鶴を眺める。蜜璃様が起きないようにため息を吐いた。
寝付けなかった。眠ろうとしても胸騒ぎがして落ち着けない。有り難いことに今日は満月で、手紙を書くための灯りには困らなかった。
幸せ、幸せ。何かがひっかる。気がついたら、今まで立っていた場所が薄氷だったと理解してしまうような何かだ。根拠はなくても確信してしまう。
「……」
鬼がいなくなったら、幸せになりたい。そこは間違ってない、じゃあ間違ってるのはどこだろう。
『拝啓、しのぶ様。生きてください』
『拝啓、しのぶ様。どうか幸せになってください』
とりあえず二文を書き起こす。違和感。
幸せ。しのぶ様の幸せってなんだろう。わからない。だって貴女はいつだって影を持っていた。
貴女が浸る苦痛は骨の髄まで染み込んでいた。どんな場面でも滲み出していて、どんなに頑張っても消えてくれなくて、貴女はずっと苦しいままで、見てることしかできなくて、自分の無力さを思い知った。
だから、痛みがなくなることが幸せだと思っていた。生きることが幸せだと思った。
『拝啓、しのぶ様。貴女にとって生きることは、幸せなんでしょうか』
ひゅ、と息が詰まった。
嘘だ。だって生きていれば、何度も四季がめぐれば、いつか傷は癒える。……本当に? カナエ様が亡くなって何年も経つのに、しのぶ様は変わらない。
時間じゃもう大切な人を奪われた痛みは癒えない。
だから、しのぶ様は仇をとろうとしている。
でも命を対価にしないと復讐はできない。
つまり生きることは、しのぶ様の幸せじゃない。一番ひどい結末でしかない。
私の幸せは、しのぶ様の悪夢なんだ。
視界が揺れる。ああ動揺してるなと他人事のように思った。それ以外は知覚できなかった。
ぐちゃぐちゃな感情が荒波のように押し寄せる。
自分の根本が崩れていく。目の前に黒いもやがかかって、心臓の音がうるさい。感情を受容する器官を、おろし金ですりつぶされて行くような心地。意識を飛ばしてしまえば二度と元には戻れないという確信と恐怖、声が押し寄せて息ができない。息が吸えない。どうしよう。苦しい。誰か。
「こっちを見て」
ぐるんと身体が反転して、ふわりと甘やかな匂いに包まれた。わけがわからず見上げると、蜜璃様の顔が目に入る。どうやら抱きしめられているらしかった。
「息を吐いて、ふーって」
静かな声が落ちてくる。背中を撫ぜられる。暖かい。
「そう、上手よ。大丈夫、大丈夫」
頭をゆっくりと撫でられる。暖かくて、鼓動の音が聞こえる。呼吸の方法を思い出す。悲惨な事実を前にこわばった手足がほどかれていく。
意識が落ちかけて、ぐっと体に力を入れた。
「すいません、もう平気です」
「あら、まだ駄目よ」
そう蜜璃様は悪戯っぽく微笑んだあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ねぇ、何があったの? 話してくれないかしら」
「それは……えっと」
いざ言葉にしようと思うと、ぐちゃぐちゃで何もまとまらない。
やっぱり思い浮かぶのはしのぶ様の顔だ。心が無理矢理引きずり出されているように痛い。
もう一度、あの笑顔で笑って欲しかった。くったくなく、溌剌と笑って欲しかった。
もう無理だったんだ。二度と、しのぶ様の瞳に私は映らない。そんな可能性は、全て断たれていた。
「生きて、欲しいんです」
喉がぎしりと痛む。
「どうして、鬼に奪われなくちゃいけないんでしょうか」
絞り出した声は、今にも折れてしまいそうなくらい頼りなかった。
息を飲む音がして、ぎゅっときつく抱きしめられる。
嗚咽は出なかった。涙だけが止まらなかった。
ずっと、幸福な未来を願っていた。何か方法があるはずだと、必死につなぎとめていた。
私の幸せは、絶対しのぶ様の幸せだと思っていた。
沈丁花のそばで微笑むしのぶ様を思い出す。
真夏の木漏れ日がかかる肩、薬品を調合する後ろ姿、不満そうにしていた梅雨時、任務帰りの横顔。
幸せな思い出の全てが、ひどく悲しかった。
少し落ち着いた頃、ふと、疑問が湧いてきた。
私、これからどうすればいいんだろう。
鬼殺隊で頑張って来たのも、しのぶ様の隣にいたいがためだった。その瞳に私を映して欲しかった。
でも、やっぱり生きる理由にはなれなかった。……無意味だったんだろうか、全部。目の前が陰り始める。さっきの激情が嵐なら、今の暗鬱は底冷えだ。じわじわと思考が闇に飲まれる。
「しのぶちゃんはね、いつも貴女を自慢していたわ」
沈みかけた意識が、澄んだ声に引き上げられた。
「しのぶちゃんはいつも笑っているけれど、貴女といる時は幸せそうな顔で笑うの。だから貴女がいたかどうかは、すぐわかるのよ。だって、あそこまでしのぶちゃんを御機嫌にできるのは貴女だけだから。あとね、沢山お話ししてくれるの」
「お話?」
「そう。可愛いくてたまらないとか、笑顔が癒されるとか、足音が優しいとか、不満なのは帰る帰る詐欺がすぎるくらいとか」
「帰る帰る詐欺」
ちょっとすごい言葉が出てきたぞ。え、そんなこと思ってたんですかしのぶ様。確かに任務でバタバタして外泊が伸びたりもしたけど。
少し茫然とする私に、蜜璃様は「まって。違うの、そこじゃないのよ」とうーんと唸る。
「それだけじゃないわ。皆、貴女のことを褒めてるのよ
雑務も気持ちよく引き受けてくれるし、素直だし、笑顔が可愛いし、いると雰囲気が明るくなるし、頑張り屋さんだし」
「……なんだか私がすごく素敵な人みたいですね」
「みたいじゃなくて、貴女は素敵な人よ」
力強い断言に目を見張った。
「私が入隊の理由を話した時のこと、覚えているかしら」
「はい」
周りが若干引いてる中で、『あ、割とおそろいですね』なんて呑気な話をしたのを覚えている。
「あの頃の私は、恋って楽しくってふわふわした物だとばかり思ってて。でも貴女の恋は苦くて、泣いてしまうようなこともあって、胸がぎゅぅって痛くなったの」
蜜璃様は「でもね」と、顔を上げた。
「恋をしている貴女は本当に綺麗で、とっても強くて。この人がいるなら、しのぶちゃんは大丈夫だって思ったの」
「……それは」
「買い被りなんかじゃないわ。信じて。貴女はすごく素敵な人。素敵な恋をしている人。しのぶちゃんを苦しめるキュンとしない奴に、貴女の恋を奪わせないで」
繋がれた手が、祈るように握られる。
「しのぶちゃんから、貴女まで奪わせちゃダメよ」
すとんと言葉が心に落ちてくる。バラバラになった心が熱をじわりと帯びて、ふわりと軽くなる。真っ暗な世界の向こうに光の気配を感じる。
この感覚を知っている。希望だ。
「それにね、貴女は強い」
静かに蜜璃様は私に向き直った。
「強いなら、他の人を守らなくちゃ。それが強い者の使命よ」
磨き抜かれた橄欖石のような、柔らかくも力強い黄緑の視線に射止められる。鬼殺隊最強の一角を担う柱の、炎のような空気に圧倒された。
「──なんて、師範の受け売りなんだけどね」
「え」
蜜璃様はえへへと照れ臭そうに笑って、「ちょっとカッコつけすぎたかしら」と頬を染めた。そして、年の離れた妹を相手にしているかのような、慈愛に満ちた表情で、私の目尻を拭った。
「答えになったかしら」
「?」
「『私、どうすれば良いんだろう』って」
「あ……」
声に出ていたらしい。
「そう、ですね……あの、一つだけ聞いても良いですか」
「なにかしら」
「本当にしのぶ様は、私のことを自慢に思っているんでしょうか」
「もちろん」
大きく蜜璃様は頷いた。
「二人ともお似合いよ。私が保証します」
根拠なんて何処にもない。なのに、蜜璃様が言うならそうなんだろうと、不思議と思えてしまう。
「じゃあ、もう少し頑張ってみます」
これが正しいことかわからないけれど、もう一度、しのぶ様を追いかけていた私に戻ろう。少なくとも、今までを無意味だったなんて思いたくない。無力を嘆くよりも、一歩でも前へ歩きたい。
顔を上げた。
蜜璃様はホッとしたような表情を浮かべた。そして花が綻んだように笑って「やっぱりーーちゃんは素敵だわ!」と私を抱きしめた。
骨が一本逝って、前科二犯になった。訓練をさぼっていたツケは大きい。
拝啓、しのぶ様
頑張ってみようと思います。
拝啓、しのぶ様
多分、私と貴女の幸せは、両立しないと知りました。
応援は、まだできません。だって、生きて欲しいです。生きて欲しいから、ずっと頑張れたんです。そりゃ、貴女の努力には劣ってしまいますが。
拝啓、しのぶ様
多分、私と貴女の幸せは、両立しないと知りました。
応援は、まだできません。だって、生きて欲しいです。生きて欲しいから、ずっと頑張れたんです。そりゃ、貴女の努力には劣ってしまいますが。
拝啓、しのぶ様
情けないままで、ごめんなさい。
拝啓
私のせいで、失敗しちゃったらどうしよう
冨岡様のお屋敷にお邪魔して一ヶ月が経ち、見合いの断りのために鴉を飛ばしたりとしているうちに、屑籠は鶴で満たされ、私は前科十犯になっていた。足をさっさと治したいと生き急いだ結果である。
医者には「次やったら今度こそ胡蝶様に言いつけますからね?」と脅され、冨岡様には……なにも言われてないけれど、監視を強められた。
と、言うわけで今日は冨岡様とお買い物である。昼を過ぎた商店通りは、夕飯の材料を求める主婦と威勢の良い店主の声とで活気に満ちている。
安売りの情報に耳を傾けていると、前を歩いていた冨岡様に戦利品を取られてしまった。
二柄の羽織を追いかける。
「あんな無茶はもうしませんよ」
「信用できない」
ばっさり切り捨てられてしまった。
雑踏の音に負けないように声を張る。
「夕飯はどうしますか?」
「なんでもいい」
「本当になんでもいいんですか?」
「ああ。大概うまい」
「まあ、しのぶ様に教えてもらいましたからね」
「そうか」
しのぶ様は教え上手なんですよと顔を見上げる。無表情な顔が、心なしか綻んでいた。珍しい。
あれ、そういえば。
「柱で宴会だっておっしゃってませんでした?」
「……ああ」
「そろそろ行かないと間に合わないのでは?」
「…………そうだな」
忘れてたんですね。そんな私の視線を受けながら、冨岡様の背中は街の方へ向き直る。
「留守番を頼む。何かあったら鴉を飛ばせ」
「はい」
「戸締りはしっかりしろ、火と刃物には触るな」
「? わかりました」
「夜中に人が訪ねて来ても戸をあけるな」
私は子供か何かなんだろうか。そんな釈然としない気分になりつつ、冨岡様を見送った。
足の予後は上々で、完全復帰は出来てないが、任務に参加できる日も近い。平和な昼下がりだと思った。
蝶の髪飾りが私を見ていたと、気が付けるよしもなかった。
とんとんと雨戸を叩く音に起こされた。寝起きでぼんやりした意識のまま起き上がる。まだ夜も最中だ。こんなド深夜に不審者かと警戒すると、カリと爪で雨戸を引っ掻く音がした。開けようとしているらしい。内側からしか開かないつくりなので不可能だけれど。
「もしもし」
聞き慣れた声がした。なんだ、しのぶ様かと肩の力が抜ける。
「シロ、聞こえてますか? 起こしてしまってごめんなさい。締め出されちゃったみたいなんです」
厚い木戸越しにしのぶ様の声が聞こえる。
「顔が見たいです。開けてください」
「……私より冨岡さんの方が好きになっちゃいましたか?」
「ねぇ、おねがいです。入れてくださいな」
いつも以上に優しい、というか甘い声だ。
乞われるままに雨戸に手をかけた時、ふわふわとした頭に疑問が浮かんだ。
私、冨岡様のお屋敷にいなかったっけ。
どうして、こんな甘ったるい声をだしているんだろう。
指が違和感に反応する前に、少し空いた隙間から手が入り込んだ。
「ふふ。いい子ですね」
え、と思う前に肩を押さえられ、顔を覗き込まれる。
獲物をしとめた猫のように、炯々と光る紫の瞳が弧を描いた。するりと頬を撫でられて、そのまま布団に押し倒される。
「……しのぶ様!?」
「はい、貴女のしのぶですよ」
事態が飲み込めない私を見て、しのぶ様は心底楽しそうに笑った。でも目の奥には暗い紫がどろどろと踊っている。何かに怒っているような、憎んでいるような、もっと別の情と欲を孕んでいるような。
知らない表情に身がすくんだ。
「そ、その、家出の件はですね」
「それも怒ってますけど、今回は別件です」
「別件?」
「わかりませんか?」
「……はい」
しのぶ様は目を伏せ、ため息を吐いた。
「鈍いですねぇ」
そう言われても、さっぱり思いつかない。
焦っていると、しのぶ様はそっと私の耳に口元を近づけた。
「夜這いです」
「は」
蜂蜜のようにどろりとした言葉が脳に響く。驚いて飛び起きようとすると、しのぶ様は器用に左手だけで私を押さえつけた。動くと絶妙に関節が痛む箇所を的確に押さえられる。動けない。
夜這い。それは、その、えっと。
「真っ赤になって逃げようとして、とても可愛らしいですよ」
感嘆のため息が聞こえる。そこに混じった艶にまた体温が上がるのを感じた。
「歯止めが効かなくなると困るので手は出さなかったんですけど、まさかトンビに掻っ攫われてしまうなんて」
そんなことを言いながら、しのぶ様はそのまま右手の指を心臓の真上に下した。肋骨の中央から腹の真ん中を、寝巻き越しに細い指がスゥッとなぞり、下腹部の上で止まる。「この辺りかしら」と目を伏せながら呟いた。
「これ、もうあげちゃったんですか」
極めて明るく、しのぶ様は笑った。なんのことか理解できないけれど、ぞくりと悪寒が走る。
「な、なんのことですか」
「とぼけるんですか?」
「いえ本当になにがなんだか」
あたふたする私を、しのぶ様はじっと見下ろす。鋭い目に負けかける。なんとか、そらさずにいると、しのぶ様は安堵の息を吐いた。けれど瞳にはよくわからない光がじりじりと、勢いを増して踊っている。
「疑ってしまってごめんなさい」
右手が頬を撫でる。次の瞬間、ふわりとしのぶ様の匂いに包まれた。
口付けされた。やわい感覚が唇に残り、お酒の味がした……お酒?
“柱で宴会があるって”
宴会、お酒、夜更け。かちりと歯車が噛み合った。
「しのぶ様!」
「っ!?」
「何杯飲まれたんですか!?」
起き上がった私が声を上げたのと、息を切らした冨岡様が部屋の襖を開けたのは同時だった。
しのぶ様は小首を傾げ、きょとんと私を見つめた。そのまま崩れるように私の胸にしなだれかかる。身体に力が入ってない。
「ああぁ溶けはじめてる……!」
「本当だな」
私の悲鳴に、冨岡様は重々しく頷いた。
しのぶ様はあまり酔わない。しかし、ある一定量を飲むと溶け始める。
最初は「お酒でご機嫌だな」程度で済むのだけれど、てろんてろんになってしまえば背負うにも背負えない。無防備な姿を身内以外に晒すのは嫌だろう。私が見せたくないというわけではある。
ともかく、まだ言語が通じる間に蝶屋敷へ運ばねば。
「すいません、灯り貸していただけませんか」
「了解した」
玄関の方へ冨岡様が去っていくのを確認し、外着に着替えようと寝巻きを脱ぐ。
不意に背中を冷たい物が突っついた。振り向くとうつらうつらしていたしのぶ様がふにゃりと笑った。
「どうしました?」
「綺麗な背中だなぁって。ねえ、右手、貸してください」
「どうぞ」
言われるがまま右手を差し出すと、傾げた小首のそばに持っていかれる。するりと猫の仔のように頬を摺り寄せられる。寝惚けたように紫の瞳がうるむ。非常に目に毒だ。
「ふふ」
私の手をつかんで、上機嫌に笑った。
うん、だいぶ酔ってきたな、と着替えの手を早める。
さっくりとしのぶ様を持ち上げ、玄関まで運ぶ。履き物を身につけようと一旦下ろし、奥からやって来た冨岡様から手行灯を受け取った。
「大丈夫か」
「いけます、呼吸も使ってるので」
式台に腰掛け、私の草履はどこだっけと視線を落とす。
「いや、していない」
不意に後ろの冨岡様が呟いた。
「はい?」
「お前じゃない」
「え?」
振り向くと確かに冨岡様の視線は私に向けられていなかった。隣でうとうとしながら溶けているしのぶ様に向けられている。
「あ、もう割と前後不覚なので会話は成り立ちませんよ」
「………………そうか」
返事は謎の間と共に返ってきた。なんです今のと見上げる。目が合う。え、何の感情表現なんですかそれ。
不思議に思いながら草履の鼻緒を確かめ、しのぶ様を背負う。お酒のせいかひどくあったかい。
「……委細承知した」
「何がです?」
さっきから何と会話してるんだ一体。「はやく行け」と言われ、釈然としないまま外へ出る。幽霊でも出る前兆かしら、と思ったが夜の道すがらは穏やかだった。
足を怪我する前と同じ、なんてことない日常だ。
「やっぱり駄目ですね、私」
少し変わった出来事は、しのぶ様がふとこう言ったくらいだ。おや、泣き上戸とは珍しいなと月を見ながら思った。
「何が駄目なんですか?」
「手を、離してあげるべきなのに」
「手?」
「いえ……まぁ、大切な所が、です」
「いいんじゃないですか。駄目なところが無いと寂しいですよ」
ただでさえ、遥か遠くへ行ってしまう貴女だ。駄目な所が無いと私の足では追いつけない。
「そうですか」
「そうですよ。しのぶ様自身が嫌いなところを好きでいます」
「また、年上みたいなことを」
「何ですかそれ」
「んん……私が年上なんですよ……」
「えぇ」
会話未満のやり取りをしながら歩む。夜風が冷たかったのか、首元のしのぶ様の腕がぎゅっと締まった。背中で微笑む気配がした。
「大きくなりましたね」
「そうですね」
「あったかいですね」
私があったかいんじゃなくて、貴女が冷えてしまってるんですよ。そう言いかけて、少し切なくなって止める。
「今日はしのぶ様もあったかいですね」
返事はない。寝てしまったみたいだと、残りの道をゆっくり歩いた。だってあと何回同じことができるか、わからなかったから。
蝶屋敷の庭に侵入し、そう言えば私、絶賛家出中だったなと阿呆の如く突っ立った。
「弱ったな……」
カナヲやキヨ達はどうにでも丸め込める。しかし、どうにもアオイには敵わない。出来れば鉢合わせたくない。困った。
障子を開ける音がした。振り向く。スミが目をまんまるにしていた。
「ただいま、スミ」
「おばけ……?」
「殺さないで?」
エッ私死んだことになってるの……? とこの世の全てに疑念を抱いたが、どうやら寝惚けただけらしい。そうこうしているとキヨとナホも起き出してくる。
「夜遅くごめんね、しのぶ様が酔っ払っちゃったみたい」
それで全てを察してくれたらしい。
「お布団敷いてきます」
「着替えを用意しますね」
「私アオイさん呼んできます」
「ありがとう、スミ、ナホ、キ──ごめんキヨ待って待って」
慌てて引き止めると、不思議そうな顔で見上げられた。
「アオイはね、大丈夫。寝かしといてあげて」
「なんでですか?」
「やっ……ウン、深い事情があってね。飴食べる?」
「ありがとうございます?」
なんとかキヨを買収しようと躍起になっていると、忙しない足音が聞こえて角からアオイが顔を出した。
「あ、こんばんはアオイ」
つとめて友好的に、軽く微笑む。アオイは空色の目を見開いて固まった。状況が飲み込めてないらしい。
しかし数秒後にはカッと猛けるような激昂の色を浮かべる。
「ど」
「……ど?」
「どこをほっつき歩いてたんですかっ!!!」
きいんと耳が痛む。御立腹である。ありし日のしのぶ様を彷彿させる、見事な爆発だ。
「そうかと思えば深夜に帰ってくるし! 連絡もしないで!」
「すいません」
「キヨ達の気持ちを考えて下さい! 一日以上の外出は届け出を出すのが常識です!」
「ごめんなさい」
「自分の部屋と隊服もほっぽり出して!」
「はい……」
「癸なら兎も角、良い大人がやる事ですかっ」
「返す言葉もないです……ご迷惑をおかけしました」
怒涛の説教に降参の意を示すと、アオイは静かに息を吸った。
「心配、したんですよ」
「ごめんなさい」
「もう無断外泊はやめてください」
「善処します」
「なんですって!!?」
「もう二度としません」
完全降伏した私を見て、アオイはもう少し言わないと気が済まないと言いたげな顔をした。必死に「しのぶ様を下ろしたい」と目で訴える。アオイは怒りを鎮めるために瞑目した後、「隊服、後で取りに来て下さいね」と言った。
てろんてろんになっている身体を布団に寝かせる。着替えは諦めた。もう一刻もすれば朝が来る。
枕元に座って夢現になっている顔を見る。あどけない顔だ。カナエ様のように笑う瞳も、眠っている時は昔と同じだ。
無造作に投げられた腕をそっと持ち上げ、手首を押さえた。しばらく待つと、親指がかすかな拍動をとらえ始める。
ぶわりと、胸の中心から何かがこみ上げて、目頭に到達してくる。
生きているのになぁ。どうしても、なんだろうな。
離れたくないと思った。会うのは、現実を直視せざるを得ないのは怖かった。でも、いざ会ってみれば、苦しさよりも愛しさが勝つ。
きっと朝が来てしまえばずるずると居ついてしまう。また膠着した日々に甘えてしまう。
「そろそろお暇しますね」
立ち上がろうとすると、「シロ」と袖を掴まれた。
「駄目です」
焦ったような声音だった。
「行かないでください、そっちは危ないですから」
「大丈夫ですよ。私、弱くないですから」
「泣いてるじゃないですか」
ぎゅっと抱きしめられる。甘い香りと、藤と、懐かしい花の香りがした。舌に走った味に、少しだけ涙が出た。
このまま何もかもさらけ出して泣けたら、どれだけ楽だろう。
頭によぎった誘惑を振り払い、慎重に身体を離した。
「信じてください。ちゃんと帰ってきます」
笑おうとはしなかった。弱い私は笑えないと知っているし、しのぶ様の不安が拭えないのもわかる。
私の言葉を聞いて、しのぶ様は顔を痛みに耐えるように歪め、うつむいた。
「……待ってますから」
短く逡巡した後、ぽつりと呟くように発せられた声に「ありがとうございます」と一礼した。その速さが寂しいと、胸のどこかで思った。
そして私は振り返えらず、夜が開けきらぬうちに蝶屋敷を後にした。
隊服は、後日アオイによって届けられた。もれなく怒られた。
備忘録
夢主
精神が大変なことになっていたけど回復した。
しのぶ様に貰ってばっかりだなぁと思っている。
実はアオイと同い年
しのぶさん
夢主に貰ってばっかりだと思っている。
手を離そうと思ったけど無理だった。
実はザル。溶けてた?演技です。あのシーンでは冨岡さんにガン飛ばしてた。
冨岡さん
すごい弱ってた部下がやっと元気になった。喜んでたら同僚に威嚇された。なぜ。