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ゆう
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しのぶ様の瞳は私を映さない・前編 - ゆうの小説 - pixiv
しのぶ様の瞳は私を映さない・前編 - ゆうの小説 - pixiv
18,702文字
しのぶ様の瞳は私を映さない・前編
すれ違いって美味しいよね(前編)
取り返しのつかない事になって、その後歪んだ甘々になるのも乙だよね(後編)
みたいな話です。
余談ですが、日本にある沈丁花って花は咲かせても実は結ばないそうです
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008
2023年4月6日 17:50


幸せが壊れる時は血の匂いがするらしいが、しのぶ様からお見合いの釣書を渡された時は薬とひなたの匂いしかしなかった。つまりカナエ様が亡くなってから積み重ねて来た日々では、私だけが幸せでしのぶ様は全然幸せじゃなかったって事なんだろうか。

「なんですか、これ」
「お見合いの釣書です」

お見合い。釣書。彼女が異国の言葉を話しているように思えて、動揺して視界が揺れた。
窓から斜陽が射し込む。質素なカーテンが揺れ、飾り気のない寝台に影を落とす。血の滲んだ足の包帯、お日さまの匂い、お見舞いの野花や書き損じで折られた千羽鶴。すべていつも通りなのに、渡された紙の高級さだけが異質だ。商店で見たら綺麗に思えるだろうけど、ここでは良くない何かの前兆にしか思ない。

「少し断りづらいので、会うだけ会ってみて下さい。街の薬屋の跡継ぎの方で、素敵な方ですよ」

台詞をそらんじるように放たれた言葉が、右から左へと通り抜ける。

「……順調に回復してきてるみたいですね」

呆然とする私にそれだけ言って、しのぶ様は足を検分し始めた。
しのぶ様の手はひやっこい。私と同じように傷やけんだこがあっても、ろう石の彫り物のように綺麗だから困る。薬指が軟膏をすくい上げ、ふさがってきた傷口に触れた。藤の花を思わせる瞳が、何よりも痛ましい物を見る時の形をしている。
心配してくれている事はわかる。大切に思われてるから、危険な任務に反対される事も。でも。

「あの、」

やっぱり私じゃ生きる理由になりませんか。あなたが死ぬ理由に勝てませんか。
──喉元まで出かかった言葉は、声にならないまま消えてしまった。

「……少し考えさせて下さい」
「はい。出来るだけ早くお返事くださいね」

震える指を押さえながら、無理矢理返事をした。そうして私達はいつも通りに笑った。
笑うことしか出来なかった。昔の私なら言えたのに、随分と意気地なしになってしまったようだ。



私がしのぶ様のが恋人になれた理由は、実はよくわかってない。そもそもこの関係を恋仲と呼んでいいかすらわからない。
ぬるま湯に浸るような幸福に甘え、曖昧にすごし始めたあの日以来、関係がこじれてしまった自覚はある。

あの日、私が告白をした日。すなわちしのぶ様が私の好きな物を全部捨て終わった頃の話だ。
溌剌とした足音も、凛とした声も、怒っている時だって優しい手も、むすっとした顔がくしゃっと笑顔になる瞬間も、全て消し去ってしまった。
カナエ様の仇を取る夢を映す瞳には、私の姿が入り込む隙間が無かった。
しのぶ様は彼女の夢について何も話してくれなかった。けれど、彼女の夢が叶うことが、彼女の幸せが、彼女を殺してしまうとは悟っていた。
止める権利がないとはわかっていたのだ。その強張る背中にアオイもカナヲも触れなかった。でも、私はそんな寂しい事に耐えられなかった。

“好きです”

無我夢中だったので詳しい事は覚えてない。ただ、沈丁花の匂いがして、あの瞳の中に私がいて、それに泣きたくなるほど安心した事だけは覚えている。
思えば、はっきり私を見てくれたのはあれが最初で最後だ。
恋仲になってもしのぶ様の瞳に私がいる事はなかった。日が沈みきった海のような紫は淡々と凪いで、どんなに日が差しても東雲色は入り込まない。
ただ、それでも。
本当に本当に頑張った時、一瞬揺らぐ瞳に私の姿が見えたような気がするのだ。
根を詰めすぎて見えた幻覚か、お前の願望では無いかと言われれば、何も言い返せないほど朧げだけれど。
だから「運が良かっただけですよ」なんて見栄を張りながら、ふさわしくあろうと努力した。そばに置いて欲しい一心だった。
私の才では一騎当千の柱にはなれない。だから雑務でもなんでも引き受けて、しのぶ様と一緒にいても文句は言われないほど強くなった。
それも、足に傷を負ってしまって無駄になりかけている。
カーテン、寝台、千羽鶴、白磁の手、笑顔、そして上質な紙。
そんなものが脳裏によぎって頭を振る。肩に止まっていた鎹鴉がギャっと鳴いた。

「あごめん」
「ガァ!ガァ!返事ハ次ノ週二提出セヨ!」

鴉はセヨー!と長く鳴きながらバサバサと飛びったった。
病室にいると気が滅入りそうだったので、縁側でうだうだしていると鎹鴉が飛んできて上司からの伝言を吐いたのだ。完治する見込みもないのに任務の打診かとため息を吐く。

「あー私もしのぶ様が上司だったら良かったのに」
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幸せが壊れる時は血の匂いがするらしいが、しのぶ様からお見合いの釣書を渡された時は薬とひなたの匂いしかしなかった。つまりカナエ様が亡くなってから積み重ねて来た日々では、私だけが幸せでしのぶ様は全然幸せじゃなかったって事なんだろうか。

「なんですか、これ」
「お見合いの釣書です」

お見合い。釣書。彼女が異国の言葉を話しているように思えて、動揺して視界が揺れた。
窓から斜陽が射し込む。質素なカーテンが揺れ、飾り気のない寝台に影を落とす。血の滲んだ足の包帯、お日さまの匂い、お見舞いの野花や書き損じで折られた千羽鶴。すべていつも通りなのに、渡された紙の高級さだけが異質だ。商店で見たら綺麗に思えるだろうけど、ここでは良くない何かの前兆にしか思ない。

「少し断りづらいので、会うだけ会ってみて下さい。街の薬屋の跡継ぎの方で、素敵な方ですよ」

台詞をそらんじるように放たれた言葉が、右から左へと通り抜ける。

「……順調に回復してきてるみたいですね」

呆然とする私にそれだけ言って、しのぶ様は足を検分し始めた。
しのぶ様の手はひやっこい。私と同じように傷やけんだこがあっても、ろう石の彫り物のように綺麗だから困る。薬指が軟膏をすくい上げ、ふさがってきた傷口に触れた。藤の花を思わせる瞳が、何よりも痛ましい物を見る時の形をしている。
心配してくれている事はわかる。大切に思われてるから、危険な任務に反対される事も。でも。

「あの、」

やっぱり私じゃ生きる理由になりませんか。あなたが死ぬ理由に勝てませんか。
──喉元まで出かかった言葉は、声にならないまま消えてしまった。

「……少し考えさせて下さい」
「はい。出来るだけ早くお返事くださいね」

震える指を押さえながら、無理矢理返事をした。そうして私達はいつも通りに笑った。
笑うことしか出来なかった。昔の私なら言えたのに、随分と意気地なしになってしまったようだ。



私がしのぶ様のが恋人になれた理由は、実はよくわかってない。そもそもこの関係を恋仲と呼んでいいかすらわからない。
ぬるま湯に浸るような幸福に甘え、曖昧にすごし始めたあの日以来、関係がこじれてしまった自覚はある。

あの日、私が告白をした日。すなわちしのぶ様が私の好きな物を全部捨て終わった頃の話だ。
溌剌とした足音も、凛とした声も、怒っている時だって優しい手も、むすっとした顔がくしゃっと笑顔になる瞬間も、全て消し去ってしまった。
カナエ様の仇を取る夢を映す瞳には、私の姿が入り込む隙間が無かった。
しのぶ様は彼女の夢について何も話してくれなかった。けれど、彼女の夢が叶うことが、彼女の幸せが、彼女を殺してしまうとは悟っていた。
止める権利がないとはわかっていたのだ。その強張る背中にアオイもカナヲも触れなかった。でも、私はそんな寂しい事に耐えられなかった。

“好きです”

無我夢中だったので詳しい事は覚えてない。ただ、沈丁花の匂いがして、あの瞳の中に私がいて、それに泣きたくなるほど安心した事だけは覚えている。
思えば、はっきり私を見てくれたのはあれが最初で最後だ。
恋仲になってもしのぶ様の瞳に私がいる事はなかった。日が沈みきった海のような紫は淡々と凪いで、どんなに日が差しても東雲色は入り込まない。
ただ、それでも。
本当に本当に頑張った時、一瞬揺らぐ瞳に私の姿が見えたような気がするのだ。
根を詰めすぎて見えた幻覚か、お前の願望では無いかと言われれば、何も言い返せないほど朧げだけれど。
だから「運が良かっただけですよ」なんて見栄を張りながら、ふさわしくあろうと努力した。そばに置いて欲しい一心だった。
私の才では一騎当千の柱にはなれない。だから雑務でもなんでも引き受けて、しのぶ様と一緒にいても文句は言われないほど強くなった。
それも、足に傷を負ってしまって無駄になりかけている。
カーテン、寝台、千羽鶴、白磁の手、笑顔、そして上質な紙。
そんなものが脳裏によぎって頭を振る。肩に止まっていた鎹鴉がギャっと鳴いた。

「あごめん」
「ガァ!ガァ!返事ハ次ノ週二提出セヨ!」

鴉はセヨー!と長く鳴きながらバサバサと飛びったった。
病室にいると気が滅入りそうだったので、縁側でうだうだしていると鎹鴉が飛んできて上司からの伝言を吐いたのだ。完治する見込みもないのに任務の打診かとため息を吐く。

「あー私もしのぶ様が上司だったら良かったのに」
「ちょっと、なんでここにいるんですか!」

声に驚いて振り向くと、アオイがまなじりを吊り上げていた。洗濯物をしまった帰りらしい。

「あそこにいると気が滅入るんだってば」
「しのぶ様に怒られても知りませんよ」
「うん、そうなんだけど」

妙な沈黙が落ちる。おや、いつもなら第二声が飛んでくるのにと顔をあげる。目があった。

「何か、あったんですか?」
「え。ううん、何もない。洗濯たたむの手伝うよ」

手を差し出すと、アオイは怪訝そうな顔をしながら私の正面に洗濯物を置いて座った。心配させてしまったらしい。ちらちらと私の方を伺いながらぽすぽすと要領よく畳んで仕分けしていく。相変わらず手際がいい。私が一つ畳んで終えると三つ目を手に取っている。

「そういえば鶴折るのも速いよね」
「鶴?」
「千羽鶴。ちっちゃい娘さんを庇って重傷だった人へ折ったやつ」
「?……ああ、あの寝台の物ですか?」
「そうそれ」

懐かしいですねとアオイはちょっとだけ微笑んだ。

あの患者さんは中々難儀だった。後は本人次第ですとしのぶ様が告げた時の、娘さんのすすり泣きを未だに覚えている。重苦しい憂鬱に耐え切れなくなった私が「千羽鶴を折ろう」と言い出したのだ。
書き損じの紙を定規で小さな正方形にして、暇を見つけては折った。私が一羽作れば、アオイの手元には二羽が寄り添っていたし、カナヲは作りかけを持て余しながらアオイの手元を見ていた。
願掛けが通じたかはわからないが、患者さんは回復して蝶屋敷を後にした。まだまだ完治した訳ではないので、千羽鶴はそのままにしてある。
怪我人が少ない時、しのぶ様と話をしながら折ったこともある。
鮮やかな千代紙をお土産にくれたので、紫紺の一枚で手繋ぎ鶴を作った。一羽は紫でもう一方は裏返して折ったので白。
千代紙には蝶の意匠があしらわれていて、まるでしのぶ様みたいでだった。

「やっぱり綺麗ですね。素敵です」
「あら、あまり紫は好きじゃないって言ってませんでしたか?」
「まぁ、それを抜いても綺麗な物は綺麗ですから」
「……なら、私にはこっちの白い方が魅力的です」
「そうですか? 」
「はい」

しのぶ様は意味ありげに目元を緩ませた。その意味がなんなのか理解できず首をかしげる私を見て声を出し笑い、「あなたの真似をしただけですよ」と目を細めた。
しのぶ様は貼り付けたような笑みをよく浮かべているけれど、その時は本当に上機嫌に見えたので私も釣られて嬉しくなった。
こんな風に微妙にすれ違っている感覚はいつもしていたけれど、「まいっか些細なことだし」と忘れられるくらい良い関係を築けていたはずなのだ。
今は、思い出ばっかりが鮮やかだ。最近はカナヲばっかり任務に連れて行くし。


「シロさん。聞いてますか?」
「……聞いてないです」

反射的に隣を向くと、アオイはむすぅとした顔をしながら私の羽織を差し出した。その真っ白さを見てすぐに何を話されてたか合点がいった。

「その節はご迷惑をおかけしました……」

うやうやしく洗いたての羽織を受け取る。
私の羽織は鬼殺隊の中で一般的な無地のものだ。しかし私は回避が下手なのでよく汚してしまう。
今回はべったり血をつけて帰って来たので、洗うのはかなり大変だったろう。

「いえ、そこは仕事ですから構いません」

じゃあどこに構うの、と聞く必要は無い。足に落ちたアオイの視線から一目瞭然だ。その視線を振り払うように立ち上がって、しのぶ様の分の洗濯物をかすめ取る。

「隙あり」

何か言いたげで落ち着かない顔をしている彼女に、いつものように笑った。ちゃんと笑えた自信は無い。うつむきかけた顔を上げて、踵を返した。

「……その台布巾は調合室の物ですからね!また間違えて厨に持っていかないでくださいよ!」
「はいはい」

不安なんて微塵にも感じてないような、いつものよく通る溌刺とした声が投げかけられた。気を使わせてしまったらしい。少し申し訳ない。適当な返事をしつつ、アオイも強くなったなぁとひとりごちた。




そも、釣書の件が晴天の霹靂だったかと問われると、実はそうでもないのだ。
近頃のしのぶ様は放っておいた事を清算しようとしている。終わり方を探している。そんな風になったのは、彼女が夜遅くの調合室で泣いた日からだ。
調合室。基本的にしのぶ様専用の部屋で、用事のない者は立ち入り禁止だ。私は薬の調合を眺めるのが好きなので、しばしばお茶菓子を持って忍び込んでいる。作っている薬の成分は基本的に聞かない。アオイみたいに色々わかるようになったら、部屋にいれてくれなくなりそうだし。

閑話休題。
その日の日付が変わった頃、お手洗いに行った隣室のカナヲが尋常じゃない様子で帰って来たのだ。見てはいけないものでも見てしまったような表情で、どうしようもなく不安が拭えない時の歩き方をしていた。
「どしたの」と聞いても何も返ってこなかったので、仕方なく様子を見に行ったのだ。そして調合室から灯りが見えたので「新薬の完成が近いって言ってたっけ」と覗き込んだ。

しのぶ様が泣いていた。

驚いた。駆け寄って、顔を覗き込んだ。深い絶望とずたずたの傷、そんな物をない交ぜにした、何も映さない濁った瞳が見えて、心臓をえぐられるような痛みが走った。
私に気がついたその目が無理に笑おうとして、思わず悲鳴のような声で叫んでいた。

「やめて、やめてください。顔、見ないですから、ねぇ、お願いだから笑わないでください、いたい、いやだ」

自分でもびっくりするくらい悲痛な声が出た。突き飛ばされても今回ばかりは譲れない。そう思って握り閉められていた手を強引にとって、祈るように身構えた。
しのぶ様は、がらんどうの目を少しだけ見開いたまま止まった。十秒後か、はたまた半刻後か。震える私の肩口にゆっくりと顔を埋め、静かにまた泣き始めた。
ああ、カナエ様だったらなんて言うんだろう。何か言わなきゃ、言わなきゃと焦っても言葉は出でこなかった。きっと言いたい事を言わなすぎて喉が硬くなってしまったんだ。ちゃんと言っておけば良かったと深く深く後悔した。
結局私ができたのは、彼女が泣き疲れて寝てしまうまで手を握る事だけだった。意識が落ちる直前「ごめん、姉さん」と小さな声で呟いたのが聞こえた。
調合室でひっついても怒られなかったのは、あれが最初で最後だ。

「よいしょっと」

布巾を引き出しにしまって軽くのびをした。あの夜が嘘のように調合室は静謐としている。
なぜしのぶ様が泣いていたかを私は知らない。ただ泣いてる時に机の上にあった新薬の所為だろうと見当はついている。
薬というより毒の気配がするあれを、しのぶ様は隠れて服用している。

それなんですか。よくないものでしょう。なんで手が冷たいんですか。化粧を濃くしたのはなぜですか。急に終わり方を探し始めたのはなんでですか。

言いたい言葉は山ほどあった。でも、気がつかないフリをして、何も問題ないように笑う彼女に甘えてしまった。だから私はあの薬についてよく知らない。知っているのは、何かカナエ様と関係があるということだけ。

「……」

あたりを見回してから普段は触らない本棚へ手を伸ばす。しのぶ様は午後まで帰らないはずだし、あの夜、どの本が机の上にあったかは覚えている。
本の背に指をかけて本を引き出す。本の隙間から何かが落ちてきた。

「わっ……鶴?」

小さな折り鶴が羽を畳んだ状態で挟まれていた。栞代わりに使っていたんだろうか。元に戻そうと本を開く。

“植物の毒は植物が自ら合成するが、背骨のある生物の中にはそれらを蓄積させ毒を持つ種がある”

胸に激痛が走った。赤い線で囲われた一文が目に入り、首を絞められた時の声が出た。薄氷を踏み抜いて、真冬の水の中へ落ちるような感覚。
がたがたと身体が震えて、それでも次の頁をめくる。

次の鶴が挟まっていたのは、植物の効能を示した一覧だった。
藤の毒には関係ないなと一瞬現実逃避をしてしまったが、鬼を殺す毒と言っても藤だけが入っているわけではない。
効果を上げたり、不都合な効果を打ち消したりするために別の植物や鉱物を入れるらしい。

調合室にある乾いた花々を摘んで、私の髪を撫で、図鑑の絵を指差して、しのぶ様はそう私に教えてくれた。
「どうですか?」と言われて「いい匂いですね」なんて呑気な感想を漏らすと、彼女は花弁を千切って「あーん」と差し出した。
むぐむぐと口を動かしながら、「不思議な味だなぁ」と彼女の手元の図鑑を見ようと身を乗り出す。小さな字で書かれた説明を見ようとしたのだ。

「だめですよ」

容赦なく片手で目を塞がれた。
しのぶ様の指は細いから、目を開けていればその隙間から読めた。でも瞼を優しく撫ぜられたので、目を閉じて身を引いた。
そしてふと舌の違和感に気がついたのだ。

「しのぶ様」
「なんですか?」
「舌がぴりぴりするんですけど」
「まぁ、生きてる証拠ですね」
「はい?」
「それ、毒ですから」

毒。目を見開く私を尻目に、彼女は「こんなに綺麗なんですけどね」と手元の花をくるくると弄んだ。
慌ててぐいぐいと袖を引っ張ると「はいはい、解毒剤ですよ」と苦い何かを口に入れられる。しっかり服用したか丁寧に口の中まで検分されたので、あれ本当に毒だったんだなと思った。

「こんな風に見かけは普通でも危ない物が多いんです。ですから、ここでは私や引き出しに触らないように」
「はぁい」

薬の苦さに参った私が返事をすると、しのぶ様は「いいこですね」と私の頬を撫でた。暖かい手だった。

毒や薬を作るための材料が綺麗である必要はないとしのぶ様は言った。
でも私は、あなたの日々が綺麗な花で飾られているのが嬉しかった。花なんかじゃ楽にはなれないけれど、くすんだ日々が少しでも彩られていたら。
いつか「そんな時もあった」と二人で話す時、血の匂いだけじゃなくて綺麗な花を思い浮かべて笑えたら。

そう願っていた。あの花の味が口に広がるのを感じながら、一覧に目を通す。

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幸せが壊れる時は血の匂いがするらしいが、しのぶ様からお見合いの釣書を渡された時は薬とひなたの匂いしかしなかった。つまりカナエ様が亡くなってから積み重ねて来た日々では、私だけが幸せでしのぶ様は全然幸せじゃなかったって事なんだろうか。

「なんですか、これ」
「お見合いの釣書です」

お見合い。釣書。彼女が異国の言葉を話しているように思えて、動揺して視界が揺れた。
窓から斜陽が射し込む。質素なカーテンが揺れ、飾り気のない寝台に影を落とす。血の滲んだ足の包帯、お日さまの匂い、お見舞いの野花や書き損じで折られた千羽鶴。すべていつも通りなのに、渡された紙の高級さだけが異質だ。商店で見たら綺麗に思えるだろうけど、ここでは良くない何かの前兆にしか思ない。

「少し断りづらいので、会うだけ会ってみて下さい。街の薬屋の跡継ぎの方で、素敵な方ですよ」

台詞をそらんじるように放たれた言葉が、右から左へと通り抜ける。

「……順調に回復してきてるみたいですね」

呆然とする私にそれだけ言って、しのぶ様は足を検分し始めた。
しのぶ様の手はひやっこい。私と同じように傷やけんだこがあっても、ろう石の彫り物のように綺麗だから困る。薬指が軟膏をすくい上げ、ふさがってきた傷口に触れた。藤の花を思わせる瞳が、何よりも痛ましい物を見る時の形をしている。
心配してくれている事はわかる。大切に思われてるから、危険な任務に反対される事も。でも。

「あの、」

やっぱり私じゃ生きる理由になりませんか。あなたが死ぬ理由に勝てませんか。
──喉元まで出かかった言葉は、声にならないまま消えてしまった。

「……少し考えさせて下さい」
「はい。出来るだけ早くお返事くださいね」

震える指を押さえながら、無理矢理返事をした。そうして私達はいつも通りに笑った。
笑うことしか出来なかった。昔の私なら言えたのに、随分と意気地なしになってしまったようだ。



私がしのぶ様のが恋人になれた理由は、実はよくわかってない。そもそもこの関係を恋仲と呼んでいいかすらわからない。
ぬるま湯に浸るような幸福に甘え、曖昧にすごし始めたあの日以来、関係がこじれてしまった自覚はある。

あの日、私が告白をした日。すなわちしのぶ様が私の好きな物を全部捨て終わった頃の話だ。
溌剌とした足音も、凛とした声も、怒っている時だって優しい手も、むすっとした顔がくしゃっと笑顔になる瞬間も、全て消し去ってしまった。
カナエ様の仇を取る夢を映す瞳には、私の姿が入り込む隙間が無かった。
しのぶ様は彼女の夢について何も話してくれなかった。けれど、彼女の夢が叶うことが、彼女の幸せが、彼女を殺してしまうとは悟っていた。
止める権利がないとはわかっていたのだ。その強張る背中にアオイもカナヲも触れなかった。でも、私はそんな寂しい事に耐えられなかった。

“好きです”

無我夢中だったので詳しい事は覚えてない。ただ、沈丁花の匂いがして、あの瞳の中に私がいて、それに泣きたくなるほど安心した事だけは覚えている。
思えば、はっきり私を見てくれたのはあれが最初で最後だ。
恋仲になってもしのぶ様の瞳に私がいる事はなかった。日が沈みきった海のような紫は淡々と凪いで、どんなに日が差しても東雲色は入り込まない。
ただ、それでも。
本当に本当に頑張った時、一瞬揺らぐ瞳に私の姿が見えたような気がするのだ。
根を詰めすぎて見えた幻覚か、お前の願望では無いかと言われれば、何も言い返せないほど朧げだけれど。
だから「運が良かっただけですよ」なんて見栄を張りながら、ふさわしくあろうと努力した。そばに置いて欲しい一心だった。
私の才では一騎当千の柱にはなれない。だから雑務でもなんでも引き受けて、しのぶ様と一緒にいても文句は言われないほど強くなった。
それも、足に傷を負ってしまって無駄になりかけている。
カーテン、寝台、千羽鶴、白磁の手、笑顔、そして上質な紙。
そんなものが脳裏によぎって頭を振る。肩に止まっていた鎹鴉がギャっと鳴いた。

「あごめん」
「ガァ!ガァ!返事ハ次ノ週二提出セヨ!」

鴉はセヨー!と長く鳴きながらバサバサと飛びったった。
病室にいると気が滅入りそうだったので、縁側でうだうだしていると鎹鴉が飛んできて上司からの伝言を吐いたのだ。完治する見込みもないのに任務の打診かとため息を吐く。

「あー私もしのぶ様が上司だったら良かったのに」
「ちょっと、なんでここにいるんですか!」

声に驚いて振り向くと、アオイがまなじりを吊り上げていた。洗濯物をしまった帰りらしい。

「あそこにいると気が滅入るんだってば」
「しのぶ様に怒られても知りませんよ」
「うん、そうなんだけど」

妙な沈黙が落ちる。おや、いつもなら第二声が飛んでくるのにと顔をあげる。目があった。

「何か、あったんですか?」
「え。ううん、何もない。洗濯たたむの手伝うよ」

手を差し出すと、アオイは怪訝そうな顔をしながら私の正面に洗濯物を置いて座った。心配させてしまったらしい。ちらちらと私の方を伺いながらぽすぽすと要領よく畳んで仕分けしていく。相変わらず手際がいい。私が一つ畳んで終えると三つ目を手に取っている。

「そういえば鶴折るのも速いよね」
「鶴?」
「千羽鶴。ちっちゃい娘さんを庇って重傷だった人へ折ったやつ」
「?……ああ、あの寝台の物ですか?」
「そうそれ」

懐かしいですねとアオイはちょっとだけ微笑んだ。

あの患者さんは中々難儀だった。後は本人次第ですとしのぶ様が告げた時の、娘さんのすすり泣きを未だに覚えている。重苦しい憂鬱に耐え切れなくなった私が「千羽鶴を折ろう」と言い出したのだ。
書き損じの紙を定規で小さな正方形にして、暇を見つけては折った。私が一羽作れば、アオイの手元には二羽が寄り添っていたし、カナヲは作りかけを持て余しながらアオイの手元を見ていた。
願掛けが通じたかはわからないが、患者さんは回復して蝶屋敷を後にした。まだまだ完治した訳ではないので、千羽鶴はそのままにしてある。
怪我人が少ない時、しのぶ様と話をしながら折ったこともある。
鮮やかな千代紙をお土産にくれたので、紫紺の一枚で手繋ぎ鶴を作った。一羽は紫でもう一方は裏返して折ったので白。
千代紙には蝶の意匠があしらわれていて、まるでしのぶ様みたいでだった。

「やっぱり綺麗ですね。素敵です」
「あら、あまり紫は好きじゃないって言ってませんでしたか?」
「まぁ、それを抜いても綺麗な物は綺麗ですから」
「……なら、私にはこっちの白い方が魅力的です」
「そうですか? 」
「はい」

しのぶ様は意味ありげに目元を緩ませた。その意味がなんなのか理解できず首をかしげる私を見て声を出し笑い、「あなたの真似をしただけですよ」と目を細めた。
しのぶ様は貼り付けたような笑みをよく浮かべているけれど、その時は本当に上機嫌に見えたので私も釣られて嬉しくなった。
こんな風に微妙にすれ違っている感覚はいつもしていたけれど、「まいっか些細なことだし」と忘れられるくらい良い関係を築けていたはずなのだ。
今は、思い出ばっかりが鮮やかだ。最近はカナヲばっかり任務に連れて行くし。


「シロさん。聞いてますか?」
「……聞いてないです」

反射的に隣を向くと、アオイはむすぅとした顔をしながら私の羽織を差し出した。その真っ白さを見てすぐに何を話されてたか合点がいった。

「その節はご迷惑をおかけしました……」

うやうやしく洗いたての羽織を受け取る。
私の羽織は鬼殺隊の中で一般的な無地のものだ。しかし私は回避が下手なのでよく汚してしまう。
今回はべったり血をつけて帰って来たので、洗うのはかなり大変だったろう。

「いえ、そこは仕事ですから構いません」

じゃあどこに構うの、と聞く必要は無い。足に落ちたアオイの視線から一目瞭然だ。その視線を振り払うように立ち上がって、しのぶ様の分の洗濯物をかすめ取る。

「隙あり」

何か言いたげで落ち着かない顔をしている彼女に、いつものように笑った。ちゃんと笑えた自信は無い。うつむきかけた顔を上げて、踵を返した。

「……その台布巾は調合室の物ですからね!また間違えて厨に持っていかないでくださいよ!」
「はいはい」

不安なんて微塵にも感じてないような、いつものよく通る溌刺とした声が投げかけられた。気を使わせてしまったらしい。少し申し訳ない。適当な返事をしつつ、アオイも強くなったなぁとひとりごちた。




そも、釣書の件が晴天の霹靂だったかと問われると、実はそうでもないのだ。
近頃のしのぶ様は放っておいた事を清算しようとしている。終わり方を探している。そんな風になったのは、彼女が夜遅くの調合室で泣いた日からだ。
調合室。基本的にしのぶ様専用の部屋で、用事のない者は立ち入り禁止だ。私は薬の調合を眺めるのが好きなので、しばしばお茶菓子を持って忍び込んでいる。作っている薬の成分は基本的に聞かない。アオイみたいに色々わかるようになったら、部屋にいれてくれなくなりそうだし。

閑話休題。
その日の日付が変わった頃、お手洗いに行った隣室のカナヲが尋常じゃない様子で帰って来たのだ。見てはいけないものでも見てしまったような表情で、どうしようもなく不安が拭えない時の歩き方をしていた。
「どしたの」と聞いても何も返ってこなかったので、仕方なく様子を見に行ったのだ。そして調合室から灯りが見えたので「新薬の完成が近いって言ってたっけ」と覗き込んだ。

しのぶ様が泣いていた。

驚いた。駆け寄って、顔を覗き込んだ。深い絶望とずたずたの傷、そんな物をない交ぜにした、何も映さない濁った瞳が見えて、心臓をえぐられるような痛みが走った。
私に気がついたその目が無理に笑おうとして、思わず悲鳴のような声で叫んでいた。

「やめて、やめてください。顔、見ないですから、ねぇ、お願いだから笑わないでください、いたい、いやだ」

自分でもびっくりするくらい悲痛な声が出た。突き飛ばされても今回ばかりは譲れない。そう思って握り閉められていた手を強引にとって、祈るように身構えた。
しのぶ様は、がらんどうの目を少しだけ見開いたまま止まった。十秒後か、はたまた半刻後か。震える私の肩口にゆっくりと顔を埋め、静かにまた泣き始めた。
ああ、カナエ様だったらなんて言うんだろう。何か言わなきゃ、言わなきゃと焦っても言葉は出でこなかった。きっと言いたい事を言わなすぎて喉が硬くなってしまったんだ。ちゃんと言っておけば良かったと深く深く後悔した。
結局私ができたのは、彼女が泣き疲れて寝てしまうまで手を握る事だけだった。意識が落ちる直前「ごめん、姉さん」と小さな声で呟いたのが聞こえた。
調合室でひっついても怒られなかったのは、あれが最初で最後だ。

「よいしょっと」

布巾を引き出しにしまって軽くのびをした。あの夜が嘘のように調合室は静謐としている。
なぜしのぶ様が泣いていたかを私は知らない。ただ泣いてる時に机の上にあった新薬の所為だろうと見当はついている。
薬というより毒の気配がするあれを、しのぶ様は隠れて服用している。

それなんですか。よくないものでしょう。なんで手が冷たいんですか。化粧を濃くしたのはなぜですか。急に終わり方を探し始めたのはなんでですか。

言いたい言葉は山ほどあった。でも、気がつかないフリをして、何も問題ないように笑う彼女に甘えてしまった。だから私はあの薬についてよく知らない。知っているのは、何かカナエ様と関係があるということだけ。

「……」

あたりを見回してから普段は触らない本棚へ手を伸ばす。しのぶ様は午後まで帰らないはずだし、あの夜、どの本が机の上にあったかは覚えている。
本の背に指をかけて本を引き出す。本の隙間から何かが落ちてきた。

「わっ……鶴?」

小さな折り鶴が羽を畳んだ状態で挟まれていた。栞代わりに使っていたんだろうか。元に戻そうと本を開く。

“植物の毒は植物が自ら合成するが、背骨のある生物の中にはそれらを蓄積させ毒を持つ種がある”

胸に激痛が走った。赤い線で囲われた一文が目に入り、首を絞められた時の声が出た。薄氷を踏み抜いて、真冬の水の中へ落ちるような感覚。
がたがたと身体が震えて、それでも次の頁をめくる。

次の鶴が挟まっていたのは、植物の効能を示した一覧だった。
藤の毒には関係ないなと一瞬現実逃避をしてしまったが、鬼を殺す毒と言っても藤だけが入っているわけではない。
効果を上げたり、不都合な効果を打ち消したりするために別の植物や鉱物を入れるらしい。

調合室にある乾いた花々を摘んで、私の髪を撫で、図鑑の絵を指差して、しのぶ様はそう私に教えてくれた。
「どうですか?」と言われて「いい匂いですね」なんて呑気な感想を漏らすと、彼女は花弁を千切って「あーん」と差し出した。
むぐむぐと口を動かしながら、「不思議な味だなぁ」と彼女の手元の図鑑を見ようと身を乗り出す。小さな字で書かれた説明を見ようとしたのだ。

「だめですよ」

容赦なく片手で目を塞がれた。
しのぶ様の指は細いから、目を開けていればその隙間から読めた。でも瞼を優しく撫ぜられたので、目を閉じて身を引いた。
そしてふと舌の違和感に気がついたのだ。

「しのぶ様」
「なんですか?」
「舌がぴりぴりするんですけど」
「まぁ、生きてる証拠ですね」
「はい?」
「それ、毒ですから」

毒。目を見開く私を尻目に、彼女は「こんなに綺麗なんですけどね」と手元の花をくるくると弄んだ。
慌ててぐいぐいと袖を引っ張ると「はいはい、解毒剤ですよ」と苦い何かを口に入れられる。しっかり服用したか丁寧に口の中まで検分されたので、あれ本当に毒だったんだなと思った。

「こんな風に見かけは普通でも危ない物が多いんです。ですから、ここでは私や引き出しに触らないように」
「はぁい」

薬の苦さに参った私が返事をすると、しのぶ様は「いいこですね」と私の頬を撫でた。暖かい手だった。

毒や薬を作るための材料が綺麗である必要はないとしのぶ様は言った。
でも私は、あなたの日々が綺麗な花で飾られているのが嬉しかった。花なんかじゃ楽にはなれないけれど、くすんだ日々が少しでも彩られていたら。
いつか「そんな時もあった」と二人で話す時、血の匂いだけじゃなくて綺麗な花を思い浮かべて笑えたら。

そう願っていた。あの花の味が口に広がるのを感じながら、一覧に目を通す。

印を付けられた植物の副作用は、軽いものから嘔吐、目眩、低体温、痺れ。
重いもので、喀血、不可逆性の味覚喪失、不妊、内臓不全。
そして、どれも毒素は、蓄積しやすい物。

「こんなの、それじゃ、まるで……」

鬼灯の絵が見えた。それ以上知る前に本を閉じた。
考えたくないと泣き叫ぶ意思とは裏腹に、実戦で鍛えられた思考は「そういう事か」と一番真実に近いであろう事実を弾き出す。
不審な全てのつじつまが合う。合ってしまう。

脳裏にしのぶ様の手が思い浮かぶ。石英色の手が藤の毒に浸され、血に染められて力なく地面に落ち、鬼の口へ消えていく。
上手く息ができない。ぎゅっと目をつぶっても生々しい光景は脳裏から離れてくれない。

息を吸おうと口を開けると、微かな足音が聞こえて意識が現実に引き戻される。
本を開いた時は夕日が差していたのに、部屋はもうとっぷりと暗くなっていた。
しのぶ様とが帰ってきたのだ。
焦って本を元に戻し離れる。同時に障子が開かれる。振り向くと、見知った姿が蝶の羽織りをはためかせながら、「シロ、探しましたよ」と笑った。月を背負った彼女は少しだけ血の匂いを漂わせていた。

「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」

違う。おかえりなさいなんて言っている場合じゃない。
言うべきだ。問い詰めるべきだ。もう遅いとしても、せめてしのぶ様自身の口から聞くべきだ。
わかってる。でも口を開くと嗚咽が漏れてしまいそうで、たまらず下を向いた。
尋常じゃない私の様子を見て驚いたのだろうか。ぱたぱたと忙しなく近づいて、「どうしたの」と頬に手をあてて顔を覗き込んだ。

真近で見るしのぶ様は、あいも変わらず端麗だった。でも、知ってしまった今ならわかる。
ああ、この人は死んでしまうのだ。報せの一つも、骨も残さず。

頬に添えられた手をそっと掴んで顔を上げる。
紫の瞳の中は濃紺が揺らめいて、月の光を反射している。昔と変わらない綺麗な色。やっぱり私の姿は映ってない。
それに、心が折れた。

「なんでもないです」
「また、そんな嘘を……」

それだけ言って口をつぐむと、しのぶ様の眉間にしわが出来る。でも手つきは優しいから怒ってはないのだ。しのぶ様は私に甘い。でも今は優しくしないで欲しい。このまま泣いてしまいそうだ。
いつものように笑わなければ。

「私は、大丈夫です」
「やっぱり何かあったんでしょう、話してください」
「なんでもないですってば、変なしのぶ様」

そう言って笑う。いつも通りなら、これで誤魔化されたフリをしてくれる。

「変なのは、あなたでしょう。意地を張らないで」
「はって無いです。私、ちゃんといつも通りです」
「……全然、笑えてませんけど」

その声は、びしりと何かが軋むような音に聞こえた。
ハッとしてしのぶ様を見つめ返す。

怒っていた。でも、どこまでも悲しそうで、胸が千切られたように痛む。

また、こんな顔をさせてしまった。弱くなった。言うべき事も言えない。役立たず。
自分の情けなさに目眩がして、しのぶ様の手を外そうとする。余計力を込められて、逃げれなくなった。

どうすれば終わるのだろう。逃げ出す事も、問い詰める事も出来ない。笑って終わらせる事も無理だった。
私達の関係みたいだなと思った。前にも進めず、終わり方がわからないままずるずると膠着している。


「あの、師範。アオイが呼んでます」

鈴のような、声がした。部屋の前に駆けて来たカナヲだった。

「…………わかりました」

カナヲの一声で、しのぶ様の手は離れて行った。「私の部屋で待っていてくださいね」と一言を残して病室の方へ踵を返した。
別れ際の一瞬、彼女は悲しそうに目を伏せた。
飛べなくなった鎹鴉を見るような、折れた日輪刀を里へ送り返す時のような。愛着はあるが壊れてしまった物を見るような、そんな眼差しだ。

しのぶ様が見えなくなるまで見送ってから、手の感触が残っている頬に触れた。冷たかった。
堰を切ったように涙がこぼれた。

「え」

驚いたカナヲの声は聞こえたけれど、嗚咽が邪魔をして「大丈夫」とは返せなかった。叫んで暴れ出したいくらい悲しくて、でも声は出なくて。心のどこかで「やっぱり、私が望んだ未来は来てくれない」と悟ってしまって。やりきれなかった。
なんてひどい結末なんだろう。どうして、こんな事になってしまったんだろう。そんな終わり方、いっそ消えてしまえば良いのに。

馬鹿みたいに泣き続ける私の背を、カナヲはずっと撫で続けてくれた。そのやり方がカナエ様そっくりで更に泣けてしまった。





私が泣き止むまで結構な時間がかかってしまった。

「ありがとう、もう大丈夫」
「……あの!」

ごめんねと立ち上がろうとすると羽織りを掴まれる。カナヲらしくない大きな声に驚く。

「どうして。どうして、泣いているの」
「……ちょっと、足の傷が痛んで」
「師範に」
「待って。言わないで」

今度はその手を私が捕まえる。カナヲのヒナギク色の瞳の中で不安定な光が踊っている。本気で心配している時の目だ、と少しびっくりした。カナヲも成長したのだなと喜びと寂しさのような感情が胸に広がる。

「今、怪我した人の手当てで忙しそうだから、私は後で言うよ」
「でも、」
「いいからいいから。ほら、アオイ達を手伝ってあげて」

そう言って背中を押す私を、カナヲは振り返って、少し焦ったような顔で見つめた。

「私なら、大丈夫だから」

ね? と笑うと、不安そうに床に視線を彷徨わせた後、しのぶ様がいる病室の方へ歩いて行った。

一人になった途端、座り込みそうになるので踏ん張る。ここで座ってしまってはいけない。
なぜなら、カナヲは言う。
彼女は優秀で優しい子だ。最近は銅貨なしで物事を判断できるようになった。そして昔から、言えと指示されたことは言う。私の悪戯もバラす。怪我を隠しても見抜いてくる。私が泣いたと知れば、しのぶ様はきっと私を問い詰めるだろう。

ふらつく足を叱責しながら、自室に戻って最低限の荷物を持つ。机の上に書き置きを残して、縁側のつっかけを拝借した。柔らかで少し小さいそれは、しのぶ様の私物だ。昔は大きいくらいだったと思い出す。

あぁ身体は大きくなったのになぁと下らない事を思いながら、私は外へとよろよろ歩いて蝶屋敷を後にした。







溺愛している恋人が一ヶ月も見つからず、胡蝶しのぶの機嫌は大変よろしくない。

どれくらいかというと、薬をもらいに来た冨岡が撤退を考えた程だ。ちなみに同行していた宇髄は考えた時点で実行した。つまり冨岡は逃げ遅れ、単身で胡蝶と向き合っている。
哀れである。
閑話休題。
鬼殺隊にいる以上、一ヶ月帰ってこないなんて別に珍しい話ではない。書き置きもあった。そもそも彼女は真っ白い羽織をひらひらさせながら駆け回り、自分の足で必ず帰ってくる子だ。大人しいカナヲやアオイとはわけが違う。

ちなみに、この性分。昔々彼女が胡蝶の継子候補だった頃、その執着っぷりを聞きかねた産屋敷によって、彼女が他所の柱の元へとやられてしまった事に起因する。
かの御仁にしてみれば、犬の仔の襟首を摘んで隣家へ里子に出したくらいのノリだったが、話がそんなもの済むわけがない。
あの騒動については、ここでは割愛する。
重大なのは、蝶よ花よと可愛がっていた年下の恋人が、「ちょっと呼ばれたので」と蝶屋敷からいなくなって駆け回る半野良になってしまったこと、この騒動の一番の被害者は冨岡だったこと。以上である。

無論、上官としては「好き勝手にするな」と言うべきかもしれないが、胡蝶は総じて許していた。いや、本当はすごく嫌だけれど、惚れた弱みというやつだ。我慢をさせてばかりいる彼女のお願いなら、なんでも聞いてあげたい。

あげたい、けど。

胡蝶はぎゅうっと手を握り締める。冨岡用に調合してあった丸薬が、薬包紙の中で砕けた。

胡蝶の脳裏に思い浮かぶのは、ぎこちなく足を引きずって、しぼんだ羽織りを背負って「ごめんなさい」と困ったように笑う姿だ。そんな姿にさせたのは紛れもなく自分だった。
自分があの日、手を放してあげられなかったから。

「胡蝶」
「なんですか冨岡さん」
「薬を」
「ああ、失礼しました」

冨岡は胡蝶の掌中から丸薬を……いまや粉薬となったそれを救い出した。そしておもむろに口を開く。

「なぜ、あいつに見合いを持ちかけたんだ」

その藪を突くような物言いに、胡蝶は少し眉をひそめた。
しかし冨岡の言い分も最もなのだ。
胡蝶は年下の恋人を溺愛している。その執着にどういうわけか、あの少女は気がついてない。それは胡蝶自身が、ひたむきに、狡猾に、何より一途に根回ししているからだ。

純真な表情で目を合わせあい微笑むくせに、同じ目で愛情と固執を砂糖で煮詰めたような視線を、恋人の細い背中に放つ。
どこか危うさを孕んだ関係だ。まぁ、相手の性格のおかげで「お互いのことになると途端にポンコツになる」と茶化されるほど平和な物になっているが、本質は変わってない。そんな胡蝶の性分からして、相手の幸福を望んでの行いであると冨岡は理解している。理解しているだけで伝える技量はなかったので、色々と削ぎ落とした言葉を投げかけた。

「それは、侮辱する行為だろう」
「……あの子は、カナヲ達とは違いますから」

胡蝶は静かに冨岡を見据えた。

胡蝶の幸せが壊れる時はいつも血の匂いがした。だから壊れる前に手放そうと思ったのだ。
憎しみと苦しみに耐え抜く日々を振り返れば、確かに幸せはあの子の姿でそばにいてくれた。死と隣り合わせの生活には似つかわしくない彼女は、いつだって燻んだ日々に幸せを振りまいていた。

折れたりスレたりしない性格で、きっとどこでも生きていけるし、愛される存在。だからその暖かな愛情が自身に向けられたのは、幸運に恵まれただけだった。少なくとも胡蝶はそう考えている。

未来を願う彼女の愛は、復讐に生きる胡蝶とは相容れない。それは足枷のようなものでもあった。
しかし、胡蝶の日々の中では必要な重さだったのだ。消えてしまいそうな昔の自分を丁寧に縫い止めて、行き過ぎかけた時には引き止めてくれた。
「しのぶ様、好きです」と何度でも手を取ってくれた。嫌われる事にも報われない事にも怯えていたのに。
その痛ましさを前に手を振り払うことは出来なかった。そんな言い訳でそばにいれることに、まぎれもなく安心していたのだ。
しかし、胡蝶の態度は彼女を削っていった。
最初に消えたのは手の柔らかさ、次は天真爛漫な笑顔、次は声。
何度も何度も言いたい事を飲み込ませ、傷つけて、それでも胡蝶は暖かな手を手放せなかった。

「最初の……あの子に告白された日、「わがままですね」なんて笑ったんです。でも、本当にわがままなのは私の方だったんですよ」

胡蝶は微笑む。痛みに耐えながら浮かべる表情と、よく似た笑みだった。

ずっと隣にいて欲しい。他の誰かとなんて結ばれるくらいなら、いっそ。

そんな怪物じみた激情に負けなかったわけではない。それでも手放す決意をしたのは、胡蝶の意地でもあり矜持でもあった。

冨岡はその微笑みをじっと見つめ、こう宣った。

「あいつも隊士だ。過保護はよせ」

白刃の影が瞬いた。


以後の描写は大変面倒なので省略するが、とりあえず冨岡が叩き出されたことを明記しておく。




ちなみに例の発言の真意は
「アイツも隊士だ。(俺の私邸で療養して回復傾向にあるし、自慢の恋人なんだろう。一度腹を割って話すためにも)過保護はよせ」である。

そして後日、胡蝶が冨岡邸を偶然訪ね、恋人を見つけ大惨事となるが、それも別の話である。





しのぶ様の瞳は私を映さない・前編
すれ違いって美味しいよね(前編)
取り返しのつかない事になって、その後歪んだ甘々になるのも乙だよね(後編)
みたいな話です。
余談ですが、日本にある沈丁花って花は咲かせても実は結ばないそうです
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008
2023年4月6日 17:50
ゆう

ゆう

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