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2018年3月19日 (月)

イニシェーション

■はじめに
 
今年の二月、私はインドのダラムサーラーを訪れました。ここは、チベット亡命政府(ダライ・ラマ政庁)が置かれていることで有名です。昨今の日本でも、ちょっとしたチベット・ブームが起こっているので、ご存知の方も多いことでしょう。
さて、私はこの地で幸運にもダライ・ラマ法王にお会いすることができました。ダライ・ラマ法王は、言わずと知れたチベットの政治・宗教の最高指導者です。また、観音様の生まれ変わりとも言われ、人々に崇められていらっしゃいます。
その法王は私にこうおっしゃいました。
「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を 見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。だからね、君が日本に本当の宗教を広めなさい。君 ならそれができるからね。そうしてくれると私もとても嬉しいし、それが私の役割を助けてくれることにもなるんだよ。」
そして更に、
「君はボーディ・チッタを持っているのだから……。」
と、つけ加えられました。ボーディ・チッタとは、仏陀の心という意味です。私はかねがね、大乗の仏陀として救済の道を歩いて行こうと決心していましたので、法王のような方に、
――ボーディ・チッタを持っている――
と理解していただけたのは、大変嬉しいことでした。
ところで確かに、法王は日本の仏教の現状を手に取るようにわかっていらっしゃるようです。日本の仏教が儀式化してしまっている――この言葉は日本の仏教のことを的確に表現しているとは言えないでしょうか。
皆さんは、仏教と言ったら何が思い浮かびますか。読経、お葬式、お墓……実生活の中で縁 があることは、こんなことではないでしょうか。もちろん、仏教が釈迦牟尼仏の教えであるということはご存知でしょう。しかし、本当にその教えを知っている という人は、残念ながら日本にはほとんどいないのです。
実は、釈迦牟尼仏は、瞑想方法、解脱、悟りのプロセスを後世に残してくださっていました。これらが、私たちの魂を絶対幸福、絶対自由へと導いてくれるものなのです。しかし、どういうわけか日本には言葉だけしか伝わっていません。つまり、実を伴っていないのです。
もっとも、この日本の現状は仕方のないことでもあります。なぜなら、日本には今まで悟りを開いた人、解脱者が存在していなかったからです。どうして中途半端な、つまり、悟っていない人、解脱していない人が他に悟りや解脱の内容を教えることができましょう。
しかし、今の私には真の宗教を日本に広めることができる――と法王はおっしゃったので す。観音様の化身と言われるほどのステージに立つ方がおっしゃったのです。いや、そういう方だからこそ、私の修行レベルを見抜いたのかもしれません。私が 悟りを開き解脱しているということを――。
私の他の著書をお読みになった方だったらご存知でしょう。私は前年にヒマラヤで修行に入り、悟りと解脱を得たのです。その時、釈迦牟尼仏の教えを完全に理解することができました。これからは、法王がおっしゃるように、日本に真理を広めることが私の使命だと思うのです。
使命を全うする一つの手掛かりとして、私のセミナーにおける講話を本書にまとめました。 これをお読みいただけたなら、必ずやあなたの前に“真理”の道が現われるだろうと信じています。また、全くの初心者だった人たちの修行体験談も載っており ます。彼らは着実に高いステージに上りつつあります。こちらも合わせてお読みいただけたなら、大いに参考となることでしょう。
八七年初夏
麻原彰晃
 
■第一話 修行の目的とプロセスそして成就
 
◎苦へのプロセス
 今日は修行の目的、修行のプロセス、そして成就――この三つについて語りたいと思う。
 はっきり言ってね、この世が楽だと考える人、そういう人は修行者向きではない。なぜなら、まだ行きつくところまで行っていないんだよね、そういう人は。苦を感じるようになって修行を始める途中の段階とも言っていいね。
 これを理解してもらう為には、私達の真我が自分の真の姿を見失っていくプロセスを知らなければならない。真我とはね、本当の私って言ったらいいかな、私 達の根本となるものだ。真我に意志とかイメージとかが加わったのが魂なんだよ。こう言った方がわかりやすいかもしれないね。
 その真我はね、功徳・悪徳・行動というね、三つのグナに影響されているんだ。三つのグナに影響されることによってね、どんどん自分本来の姿を見失って錯 覚に陥っていってしまう。その錯覚に陥っていく、まだ途中の段階の人は、さっき言ったように、この世が楽だと考えているんだよ、ね。また、この世が絶対だ とも考える。ね、いいですか。
 しかしね、そのプロセスの最後まで行ってしまうと、つまり行きつくところまで行ってしまうと、今度は苦を感じるようになるんだよ。この世に生まれ変わっ てくることの苦しさ、無意味さなどをね、痛切に感じるようになるわけだ。真我がたくさんのことを経験した結果、それに気付くんだよ。
 
◎経験こそ修行の第一歩
 例えばね、ここにオレンジがあるとしよう。オレンジ――もしオレンジを食べたことのない人がオレンジを食べて、「ああ、なんておいしんだろう。」って 思ったとするよ。最初においしいと思っても、一日に五個、十個、二十個、三十個とね、食べていってごらん。毎日毎日それを続けてごらん。必ず飽きる。そう じゃないか。
 それと同じように、すべての経験においてね、いずれ飽きるときがやってくる。恋愛だってそうだ。あるいは、地位とか名誉、これも同じだ。お金もそうだね。
 この世での経験が激しければ激しい程、経験が多ければ多い程、この世の中に飽きてしまうんだね。これは潜在意識が満足しきってしまうからなんだよ。そう なると、この世は苦だ、この世は幻影に過ぎないとね、考えるようになってくるんだ。そして、この世から脱け出したい、苦しみの世界から脱け出したい、と望 むようになるんだよ。
 じゃあ、一体この苦しみの世界から脱け出すのにどうしたらいいんだ、とね、このことについて考えるようになってくる。こうして、修行によって魂の解放を願うようになるというわけだ。以上が人間が修行に入っていくプロセスなんだよ。
 
◎迷妄を取り除け!
 さて、こうして魂の解放を願うようになった。次の問題は、その方法を知ることだよね。
 魂が解放される為には、魂と肉体とがね、別個のものだという事実を感じ取らなければならない。次に、夢の世界とアストラル世界が、私達の魂と別個であることを理解しなくてはならない。そして最後にですよ、心と魂が別個であると認識する。いいですか。
 これを認識する為には『理論的に認識する方法』と『経験的に認識する方法』の二通りの方法がある。そして、そのどちらも私達には必要だ。
 経験として認識する方法は解脱だよ。論理的に認識していく方法は悟りだよ。どうしたら、その悟り、あるいは解脱をね、私達は得ることができるんだろうか。今度はこれを考えなくてはならない、ね。
 ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。次の日も二個 三個四個と買って飽きるまで食べる。そして、オレンジに飽きる。もはやおいしくはない。次はリンゴにしようとね、彼はリンゴを食べる。飽きるまで食べる。 次はバナナだ。バナナで同じことを繰り返す。こんなことを、懲りずに繰り返しているような人は、悟りや解脱までとても時間がかかるだろうね。
 ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。その人は、オレンジに飽きたとき、「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。そして、「私 は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っと考え至るだろうね。そして、リンゴに挑戦するとき、 「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、ね、心の変 化を理解していく。
 そうするとねえ、オレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから、次のバナナまでいかない。いく必要がないんだね。
 オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。私は車の名前をあまり知らないけれども、例えばブルーバードね、例えばスカイラインね、例えばシビック ね。初めにブルーバードに乗っていてね、飽きてスカイラインにする。次はシビックにしてみる。これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。
 異性について考えても同じだよ。A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。ね?
 
◎悟り――パラダイス
 私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解したならば、車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。その時、自ずと悟りが訪れます。
 急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな。オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない。しかし、悟りとは心の動 き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、客観的に見て理解できる状態のことなんだよ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。そして悟 りに必要なのは、ジュニアーナ・ヨーガなんだよ。ジュニアーナ・ヨーガとは、分析的ヨーガとか哲学的ヨーガとか言われている。
 悟りを開くとね、今何をなさなければならないか、この人生というものは何であるか、ね、それが理解できるようになってくる。
 そうすると、お金に興味が無くなってくる。まあ、お金は一定量は必要だ。しかし、さして私達のね、人生に影響はない。例えば、ある人が三十万円もする背 広を着ていてね、自分が五千円のジャージであったとしても、トレーニングウェアであったとしても、そういうことは問題でなくなってくる。例えばある人が、 最高車であるプレジデントに乗っていて、自分が七十万のファミリアに乗ってたとしても、大した問題ではなくなってくる。例えば、ある人が美女と歩いてい て、例えば自分がそんなに美人じゃない人と歩いていたとしても、大した問題ではなくなってくる。
 だって、そんなことよりも、ずーっと大切なことに気付くんだから。一日一日をいかに充実して生きるか、ね。いかに、真我が本当に望んでいる絶対自由、絶 対幸福、そして歓喜を求めて生きるか、ね。この点に少しずつ焦点がしぼられてくるんだよ。そして修行に入り、解脱へと向かうんだ。
 
◎覚者こそ解脱する
 ここで、ちょっと触れておきたい。私は悟りを得た後修行に入り、解脱へと向かうと言った。これは、悟りを開いてからが本当の修行であり、本人も修行に没 頭できるということなんだ。悟りを開いた人は、もはや修行に失敗することはない。修行以外のことには見向きもしなくなる。――そして、必ず解脱を果たすこ とができるんだ。
 私がね、ジュニアーナ・ヨーガを重視しているのは、まさにこの理由からなんだ。あなた方に、一日も早くジュニアーナ・ヨーガで悟ってもらいたいと思って いるんだよ。そうしないと、潰【つぶ】れてしまう可能性があるからね。潰れてしまう例――これは、このオウム内でもある。今までにも何人かの弟子が潰れて いったよ。これは事実だ。
 一番ひどい一件があったのは、私がインドに行っていた留守中のことだった。Rという男の弟子がいた。彼は以前、バグワン・シュリ・ラジニーシのところにいてね、私のところにきたとき、彼はすでにクンダリニーが覚醒していた。
 そして、彼はね、師の無観念の、つまり一切の観念は必要ないという教えの影響を受けていた。そして、『一切の観念は必要ない』という“観念”を持っていたんだ。
 オウムではね、奉仕修行と瞑想修行をすることが弟子の条件となっている。厳しい規律も守らなければならない。それまで、男女が同居していても、そのことで男女の性的な問題が持ち上がることなど、一度もなかった。
 ところがRは、「男性と女性が一緒に風呂に入ってはいけないなんて、それは観念じゃないか。」と言い出した。私は、解脱していない男女が一緒になると、そこで苦が生じるということを知っていた。その為に禁止していたのだった。
 Rは無観念という観念を利用した。利用して、自分の性的欲望を満足させたかったのだった。結果的に、彼は自分の他に女性ふたりと男性ふたりを巻き込んだ。そして二組のカップルができ、肉体関係を持ったのだった。
 最終的に立ち直ったのはたったふたり。肉欲に溺れていたRとその相手、そしてもうひとりの男を――彼は別の理由だったが――私は破門した。
 
◎救済の門――それは『信』
 このようにね、悟っていないと、修行者であってもね、あっさり潰れてしまうことがあるんだよ。巻き込まれても立ち直ったふたり、彼らは私に対する信が強かったからね、それができたんだと思うよ。
 皆さんも悟ってはいない。こんな話を聞くと心配になるだろう。でもね、グルや神に対する信を持ち続けなさいよ。私を信じなさいよ。そうすれば、私はいつでもあなた方を見守って、助けてあげられるからね。
 
◎ジュニアーナ・ヨーガは真理のサイン
 また、こういう恐しい話をしなくてはならない。ジュニアーナ・ヨーガで悟りを開く。クンダリニー・ヨーガで解脱する。しかし、解脱する為にもジュニアー ナ・ヨーガが必要なのには、もう一つ理由がある。それは、クンダリニーのプロセスだけだと、成就できなかったら気が狂ってしまうということなんだ。ついこ の間も、他のヨーガ道場のインストラクターが気が狂って自殺したという話を聞いたばかりだ。クンダリニーのエネルギーはそれほどに強い。しかし、ジュニ アーナ・ヨーガで悟りを開いていれば、クンダリニーのエネルギーを正しい方向に使えるようになるので、気違いになってしまうというようなことはない。
 ジュニアーナ・ヨーガの良いところは、「自分の状態を把握して、乗り越えていく。」というところにもあるんだよ。例えば、「病気で苦しんでいるんだ。」 と。また、「私は今経済的な問題で苦しんでいるんだ。」という人がいる。あるいは、「恋愛問題に悩んでいるんだ。」という人がいるかもしれない。私はこう 言うことができるよ。ジュニアーナ・ヨーガで健康を得なさい、経済的に安定しなさい、幸せな恋愛結婚をしなさい、とね。
 直接そういう効果を持つものは、ジュニアーナ・ヨーガではなく、ラージャ・ヨーガあるいはクンダリニー・ヨーガなんだけどね。ジュニアーナ・ヨーガによる精神的基礎がないとね、修行者にあるまじき現世利欲の方向へ行ってしまうんだ。それはカルマとなってしまう。
 
◎オウムの修行
 オウムの修行というのは、非常に効果がある、ね。例えばプラーナーヤーマで二分、三分とクンバカ(保息)ができるようになったならば、相手を自由にコン トロールできるよ。欲しいものはすべて手に入るよ。だからこそ、精神的基礎をジュニアーナ・ヨーガで作っておかないと堕落してしまうわけだね。悪いカルマ を作ってしまうわけだね。
 だったらどうしたらよいか? この世は仮の居場所だからね、必要な分だけを取って還元しなさい。いいですか。それをするなら、今の苦しみを乗り越えることができるだけでなく、来世でも 素晴らしい世界に行けるからね。そして何よりも、安定した平和な気持ちでね、人生を歩むことができるからね。
 
◎解脱のプロセス
 では次に解脱のプロセスに移るよ。解脱というのはね、私達の執着、これを物理的に消してしまうプロセスだ。
 例えば、お腹がすいたときはどこで感じるか? お腹で感じるね。性欲はどこで感じるか? このスヴァディスターナ・チャクラで感じるね。瞋【いか】りはムーラダーラ・チャクラからの熱だ。それらは、ストレスのエネルギーとも言える。ところが、 凡夫はそのエネルギーの行き場を持っていないんだ。いいか? だから、空腹感を感じたら、その空腹感がおさまるまで食べなければならない。性欲があったら我慢して精神的におかしくなるか、あるいは漏らすかしなければ ならない。ね? 瞋りの感情というのは、コントロールすることなど到底できない。これが凡夫だ。
 しかし、これらのストレスのエネルギーの流れ道が開いたならば違ってくる。あなた方のスシュムナー管、これが開いたならばそれがストレスのエネルギーの流れ道となるんだ。
 例えば、性欲が起きたとき、スシュムナー管が開いていたら、性欲はスシュムナー管を通って上昇する。上昇して頭頂に集まる。食欲も同じ。瞋りも同じだよ。いいかな。だから、第一に私達は背中の中心にあるスシュムナーを開かなければならない。いいね?
 そして、上昇したエネルギーがサハスラーラを崩壊させるとだ、ツァンダリーが起こるね。
 そのツァンダリーによって、上昇したエネルギーは、下降する。今度は、同じ道を辿らないで身体の中央を降りてくる。そこで、まあいろんな神通力が起こる わけだけれども、超能力が起こるわけだけれども――私達の食欲、性欲、瞋りというものはね、循環するようになるわけだ。いいですか。そうすると、例えば性 欲は起きた瞬間にツァンダリーのエネルギーに変わるね。したがって、私達は全くストレスを持たない状態になるわけだ。
 それだけじゃないよ。この食欲にしろ性欲にしろ瞋りにしろ、私達の大脳をいろんな形で振動させるんだ。興奮させて、喜ばしてくれるんだ。だから快感状態にひたることができる。何もしないのに、いつも気持ち良い状態でいられる。
 ――これが解脱だ。私達がこの世に生まれているのは、煩悩があるからだったね。欲望や執着があるから輪廻の輪から抜け出せなかったんだね。だから、私達 が煩悩から解放されたならば、私達はこの世という苦界に生まれてくることもない。幸せな高次元の世界へと行くことができるんだよ。それが解脱なんだよ。
 要するに、理論的追究をした場合『悟り』が起きる。物理的追究をした場合、『解脱』が起きる。この『悟り』と『解脱』を合わせてしまえば、最高の状態になるんだよ。
 
◎偉大なグル
 一つつけ加えておこう。解脱のプロセスの途中で、もしサハスラーラ・チャクラが崩壊しなかった場合についてだ。サハスラーラ・チャクラが崩壊しなかった らどうなるか? これは大変なことになるよ。何しろストレスのエネルギーが下から上に移動したにすぎないんだからね。先程述べた、気が狂う危険性があるのがこの時なんだ。
 例えば、性欲のかたまりの人間は、アストラル世界で性欲を満足させるようになるだろう。例えば、瞋りに満ちている人はアストラルの世界で闘争するだろ う。私は、実はこのタイプだった。また、食欲過多、あるいは無智の人は、ね、いつも眠たくなるだろう。寝てばっかしいるだろう。
 しかし、成就したグルがついていれば、必ずサハスラーラ・チャクラを崩壊させることができるだろう。その危険な状態をコントロールすることができるからね。まあ、悟りを開いた後に解脱のプロセスに足を踏み入れるのがベストなんだけれどね。この理由は先程も説明したね。
 では、今日の説法はこれで終わりにします。
 
 
■第二話 悟りの障害と六つの極限
◎苦楽の因は条件だ
 さあ、今日は少し思い込みについて話そうかね。思い込みが、いかに悟りの障害となっているか。どうしたら、その思い込みをね、私達は取り除くことができるか、ということに話をしぼりたいと思う。
 ここに一軒の家があるとしようね。その間取りは十五畳、八畳、八畳、八畳だ。もしその家にだよ、今まで1LDKの家に住んでいる人が引っ越したとしよう。そうしたら、「私達は、なんと広い家に引っ越すことができるんだろう。」とね、感激するかもしれないね。
 ところが、もしその3LDKの家よりも、二倍も三倍も広い家に住んでいる人が、その3LDKの家に引っ越したならばどう考えるだろうかね。「ああ、私は なんて運が悪いんだろう。運が悪いから、こんな狭い家に引っ越さなければならなかったんだ。」と考えるんじゃないかな、ね? でも、ちょっと待ってくれ。ここで問題となっている3LDKは同じ家なんだよ、空間の大きさというものは同じなんだよ。ところが、1LDKから3LDKに 引っ越した人にとっては「広い。」、逆により大きな家から引っ越した人にとっては「狭い。」と感じるわけだ。どうしてかねえ。
 さあ、今家の話をした。車はどうだ? 例えば、お金が無くてね、やっと車の免許を取った人にとってね、三十万、四十万――今、そのくらいじゃないか――六十万でいいだろう。六十万円の中古車を 手に入れたときの感激といったらね、はかり知れないだろう。やっと私もオーナードライバーになることができたと、ね。
 ところがだ。三百万、四百万の車に乗り付けている人にとっては、その中古車なんて車などと呼べない代物ということになる。しかし、対象となっている六十万の中古車は同じ物だ。
 次は異性だ。まあ、オウムの場合、男性会員が多いから、一応は男性サイドに立って考えるよ。
 今まで全くモテなかった男がここにいてね、ごく普通の女性と巡り会ったとしよう。その女性が自分に好意を持ってくれた。自分だって彼女が嫌いじゃない。そしてお付き合いすることになったとしようね。それは感激するだろうね。
 反対に、今度はモテすぎてうんざりしている男がいるとしよう。同じ女性が「好きです。」と表現したら、その男はどう感じるだろうね。想像つくだろう?
 いいですか。条件となっているものは全く同じなんだ。3LDKの家、六十万の中古車、ごく普通の女性――。しかし、それらに対する評価は人によって違っ てくる。そして、それは例えばあなた方が1LDKに住んでいるか、ね、あるいは3LDKの二倍も三倍も大きな家に住んでいたかによってね、反応が同じにな るはずだ。今までお金が無かったか、あるいは高級車に乗り慣れているかによってね、やはり反応が同じになるはずだ。これは異性についてもね、同じだ。
 で、それを「すべての苦楽は条件によって成立するんだよ。」と釈迦牟尼如来は言っていらっしゃるんだよ。だから、私達がそれらの条件に影響されて生き続けている限り幸福は無い。
 おかしいじゃないか、例えば1LDKから3LDKに移ったとき、幸福になるんじゃないか、と言われるかもしれない。例えば1LDKから3LDKに移ったとき、幸福を感じるんじゃないか、と。確かにこのときは幸福を感じるだろう。
 しかし、この世は無常だ。絶え間なく移り変わっていく。そうだろう? 3LDKから再び狭い家に移らなければならないかもしれない。やっと買えた六十万の中古車を手離さなければならなくなるかもしれない。そのときは不幸を感 じるだろう。彼女が、今度は他の男性を好きになってしまった。「さよならしましょう。」なんて言われたら、これも苦を感じるだろうね。
◎『思い込み』をなくせ!
 このように、外的環境・条件によって、私達は喜びを感じたり、苦しみを感じたりしているんだ。無始の過去から、想像もつかないような遠い遠い無始の過去 から、私達は苦しみ続けている。あるいは、一時的な喜びを味わい続けている。これらは、さっきも言ったように、環境や条件に左右されているにすぎないん だ。思い込みがあるからね。しかし、こんなことに惑わされていたら真実は見えないね。だから『思い込み』は悟りの障害でもあるんだよ。
◎悟りのステージ
 では、悟った人はどう感じるか、どう考えるかということになってくるね。あなた方がもし悟りを開くとね、セルフ・リアライゼーションの段階に入るとね、一切の影響を受けなくなるんだよ。
 3LDKは、3LDKにしか見えなくなってくる。それは、大きい空間から狭い空間に移ったとしても、狭い空間から大きな空間に移ったとしても、そのこと からは何の影響も受けない。1LDKは1LDK。それ以外の何物でもない。苦も感じなければ楽も感じない。3LDKについても同じだ。
 六十万の車に乗ろうが、二百万の車に乗ろうが、三百万の車に乗ろうが、これも全く何も感じなくなる。
 あるいは、どんなに外見の美しい人が現われようが、そんなことに一切こだわらなくなる。影響を受けなくなる。相手の心の美しさ、清らかさだけを感じるよ うになってくるね。たかだか、この短い五十年六十年の期間にだよ、都合が悪くなれば「はい、さようなら。」というようなね、人間に対して興味を抱かなくな る。本当に心が清らかで、愛してくれる人たち――それが誰なのか、あなた方のね、直感智によってわかるようになる。そう、これが悟った人の状態だ。
◎あるがままに見なさい
 特に修行中の人、人を見る目を持ちなさいよ。気を付けなさいよ。なぜなら、普通人は自分を良く見せようとするからね。例えば女性の化粧、あれは自分をより美しく見せようとする手段だと思うね。もっとも最近は男性用のメークアップ用化粧品も出まわっているそうだけども。
 私の友人にO君というのがいた。O君は恋愛結婚をした。ところがだ、結婚後、彼女が化粧を落とした段階で、ショックを受けたそうだ。そんな夫婦関係だったら、簡単に崩れてしまうよね。
 オウムの女性達を見てごらん。あまり化粧をしないだろう、ね、皆さん。でも、心の美しさがまわりに輝いている。化粧をするよりも、心を磨き上げて心の透 明さ、心の清らかさを表現した方がずっと素晴らしいんだよ。修行していると、そのことに気付くだろうよ。皆さんも悟りの道を歩くならば、ありのままをあり のままに表現しなさい。今、例として化粧を取り上げただけであって、美しさだけのみならず、すべてをありのままに表現しなさい。そうすることが、あなた方 の最高の運につながるし、死後もいい世界へ行けるんだから。だって、ありのままに表現するというのは、欲望を落とすってことでもあるからね。欲望にこだ わっている人が、自分を美しく見せようとしたり、大きく見せようとしたりするんだ。皆さんはできるだけ早く、こんなレベルから離れなさいよ。そして、もっ と先へ行きなさいよ。
◎あるがままに生きなさい
 悟りを開いた人が、条件や環境に左右されず、ありのままに見ることができるというのも、思い込みが無いだけでなく欲望が無いからだ。いい条件から悪い条 件になったとき、無欲だったら何も感じない。例えば、大きな家から小さな家に移ったときね、「ああ、こんな狭いところはイヤだ。大きい家がいい。」という 気持ちがあるから苦を感じるんだ。望まなければ、欲しがらなければ、どうってことない。そのままを、何も感じることなく受けとることができる。しかも、正 確に対象物を見ることができるよ。
 だからね、仏教やヨーガの教典ではね、「この世をあるがままに見なさい。そして自然に生きなさい。」と言っている。「自然に生きなさい。」とはどういう ことかというとね、与えられた条件以上のものを望んではいけないよ、ということだ。その与えられた条件が、あなた方に与えられたカルマなんだからね。人間 はカルマによって生きているんだよ。
 ただ、このカルマというものは変わるんだ。私達がね、六つの極限的修行に挑戦する限りカルマは変わってくるんだよ。それでは、良いカルマを作り私達を幸せに導くこの修行について説明することにしよう。
◎運命を変える秘密の修行
 この修行は、大乗仏教では六波羅蜜と呼ばれているものである。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六種の修行を極限まですることなんだよ。
◎『布施』は幸運をもたらす
 その修行の根底となるのは布施の極限だ。今日の参加者の七十五パーセントはセミナーを二回、三回、四回と経験している人だからわかると思うが、これには三つの極限的布施がある。一つは財施、次は安らぎを与える布施、そして法施だ。
 財施は、――今私達は食べていければいい、着ていければいい、あとは世の中の為に、あるいは真理の為にすべてを差し出そう――というものだ。
 次の安らぎを与える布施、安心施とはこういうものだ。私達は真理の法に触れている。だから私達の心は安らかである。確かに、あなた方は成就していないの で少しは苦しみが残っているかもしれない。けれどね、それよりもたくさんの苦しみを持っている人達がいる。その人達を安らがせてあげようじゃないか。心を 解放させてあげようじゃないかとね、これを実行するのが安心施だよ。
 では、最後の法施とはどんな布施なのだろうかね。それは、こういうものなんだ。私達は真理の法、宇宙の法則というものを知っている。これをみんなに聞か せてあげよう。教えてあげよう。そして、みんなを真理のもとに集わせるように努力しようじゃないか、というものだ。それが法施だ。
◎『持戒』は魔境を越える
 そして、この布施の極限を通過したときにグルはね、まあ、あなた方の場合たぶん私になると思うんだが、ひとりひとりに戒を与える。あなたはこの修行を一 生懸命やりなさい。現実生活において、これはやってはいけないよ、というね、戒を与えるわけだ。そしてもらった方はそれを極限まで実行する。これが持戒の 極限だ。
 まず、布施功徳によって、あなた方にいいことが返ってくるだろう。あなた方の環境は変わってくるだろう。持戒の功徳によって、あなた方に悪いことが起きなくなるだろう。魔境から抜け出すことができるだろう。
 このように、布施、持戒というものは、一見困難ではあるけれど、やりがいのある修行でもあるんだね。
◎意志力は『忍辱』から
 次に私達は、忍辱の極限、つまり耐えることの極限の修行をしなければならない。自己の限界に絶えず挑戦するということだ。
 例えば瞑想修行は辛いね。私も瞑想修行を始めた頃は、瞑想を三分続けることさえ大変だったものだ。しかし、私は耐えたよ。耐えることで継続時間を少しず つ延ばしていった。今では十五時間でも十六時間でも平気で座れるようになっている。これは忍辱の極限の修行の賜物なんだよね。
 今述べたような忍辱の極限の修行によって、私達は強靭な意志の力と強烈な精神集中力を持つことができるんだよ。これらの力が、心を一点から離さない状態 に到達する為の素地となるんだ。あ、この心を一点から離さないというのはね、ラージャ・ヨーガやジュニアーナ・ヨーガに必要なんだ。
 この修行は現実生活においても効果を発揮するんだよね。だって、普通の人が苦しいと思っている環境に対して平気で耐えられるようになる。苦しみの限界が広がるわけだ。これはすごいことだよね。
◎三つの極限が『精進』を支える
 布施、持戒、忍辱と進んできた。では次は? もうみんなわかっているね。精進、修行に対する精進、真理の道を歩く為の精進ね、これが私達に待っているわけだ。これまでの三種の極限――布施、持戒、忍 辱――を土台として、精進の実践に入っていく。要するに、あなた方が今まで得た一切の功徳がベースとなるわけだね。
 それらをベースに何の精進をするのか? 教典を読むね。例えば、真理の法を流布するね。布施の極限での法施と、この真理の法の流布は違うよ。法施は単にまわりの人に対して法を説くことだが、この 精進の極限ではそれでは足りない。あなた方が出て行って法を説かねばならない。「皆さんは間違っている。真理の法はこうである。」とね。これが精進の極限 の修行だ。瞑想をするにも、何はさておき瞑想するという心構えで没頭しなくては精進にならないよ。
 例えば今台所班でね、あなた方が食事をする陰で、ひとり必死に食器洗いをしている男がいる。ね、彼がやっているのは忍辱の極限的修行であると同時に、精 進の極限的修行だ。そうだと思わないか? 皆さんの食器をきれいに洗ってね、食事の時にはきれいな食器を出してあげて気持ち良く修行してもらおうとね、一生懸命やっている。毎日毎日食器洗いだけを やっている。人間だもの、こんなこと毎日やっていたら途中で投げ出したくなってしまうよね。しかし耐えて続ける。これは忍辱だ。そして、これも自分の修行 だと自覚し、しかも人に修行の手助けの一端となれば、と更に頑張る。これはりっぱな精進だよね。私は素晴らしいことだと思っているよ。
 このように何でもかまわない。「これは修行である。」これを認識して、毎日毎日限界の修行をする。それが必ず法とつながる。これが精進の極限の修行なんだ。ポイントは、だからここではね、真理の法とつながるかどうかだ。
◎『禅定』とは?
 そして、やっとこの段階を終了して初めて、本当の瞑想修行である禅定に入っていけるわけなんだね。
 私は三月のセミナーでこういうことを言っているね。瞑想修行に入ったならば、二つの道があるんだよって。一つは『大乗の仏陀』になるやり方、もう一つはね、『タントラの仏陀』になる為のやり方。この二つがあるんだよってね。
 大乗の仏陀というものは、単に真理を悟り、その法を説く。タントラの仏陀というものは、真理を悟り法を説くだけではなく、スーパー・シッディを見せて信を獲得する。この二つのタイプの仏陀がいるわけだ。
 まず、普通の仏陀である大乗の仏陀からいくと、まず禅定がくる。禅定は漢訳なんだが、あなた方のわかる言葉でいうなら瞑想だ。ここでの瞑想は、ただ単に 座るだけではないよ。瞑想の根本となるものは、つまり課題となるものは「私は誰なんだろう? 私は何なんだろう?」ということだ。
 私は麻原彰晃だよ。しかし、それでは、本質を示していない。麻原彰晃というのはね、単に名前という観念をね、皆さんと私との間でかわしたにすぎない。麻原彰晃が名無しのゴンベエであっても、あるいはゲゲゲの鬼太郎であっても、ね、何でもかまわないわけだろう。
◎『私はだあれ?』
 では、「私はだあれ」の瞑想法について少し話そうね。
 私は誰であるのか? 私は人間である。いや、この人間も観念だから排除だ。人間という言葉は何も表わしてはいない。人間という言葉を使って、実態がわからないままに終わらしてしまってはならない。
 私は生き物である――と、これはどうだ。そのとおり。これは正しいね。私は最低限生きものである。植物人間になってしまったとしても、最低限生きものであるんだ。
 しかし、死んでしまったら生きものとは言えない。そこで簡単に私の定義が変わってしまうじゃないか? じゃあ、私は生きものではないんじゃないか? 断わっておかなくてはならないけれど、死んでも魂は存在し続けると信じる人の瞑想プロセスとして、私は例をあげているよ。成就した人間だと、『死の体験』 などを通して魂の永遠性を実感するものだけどね。
 さて、続けよう。私は感覚器だろうか? 触覚で感じるもの、これが私か? じゃ、もし感覚が無くなったら私は存在しているか、していないか?――私は存在しているよ。だとしたら私は感覚ではないね。目が見えなくなっても私は生き ている。耳が聞こえなくなっても私は生きている。味覚がなくなっても私は生きている。皮膚感覚が無くなっても私は生きている。だから私は感覚ではなかっ た。じゃあ、私は何だろうね。
 もう、みんなわかっているね。今やっているのは四念処の瞑想だね。心でもなければ観念でもない。では一体何か、とシャンバラ新聞にはここまでしか書いていなかった。ね、今日は更に先に行ってみようか。
 私は、何かを決定する意志か? それとも夢の中の自分、あるいはアストラル世界の自分が私なのか? これも違う。じゃあ、そのアストラル世界に投影しているコーザル世界にある意識が私か? これも違う。
 そこで、四つの極限の修行をやってきた菩薩は苦しむ。徹底的に苦しむ。一体私って何なんだ? それを追求している段階で、あるときふと気がつく。
――なんだ、私というものは透明な水だったのか――
 ここらへんは、自分で修行して経験してもらうしかないね。このときの心境は表現不可能だからね。そして、ここまでくると、あなた方は何もかも直感的に知ることができるようになる。その状態の人を目覚めた人、つまり仏陀というんだ。これが大乗の仏様だよ。
 あれ、おかしいな? 私達は奈良の大仏さんを仏様だと言っている。仏陀だと言っている。しかし、あれは仏像であって仏陀ではない。鎌倉の大仏さんも同じだ、これは。真の仏陀と いうものは、今私が話したとおり目覚めた人のことなんだよ。その人は、一切の人達をね、論理的に御することができる。一切の世の中の動きを完全に理解でき る――ね、いいですか? まあ、これくらいでいいだろう。これが大乗の仏陀なんだよ。
◎基礎こそタントラブッダへの道
 ところが、一部の仏教徒たちは考えた。こんなんじゃしょうがない、とね。それでは、ちょっと頭が良ければ仏陀になれるじゃないか、とね。そこで出てきた のがタントラだ。タンとは密儀、トラとはマントラのことだ。つまり秘密の修行をし、マントラを唱えることによって成就を目指す一派が現われたんだよ。この 修行によって成就した仏陀は、スーパー・パワーを持っている。
 そして、私達のオウムはこのタントラの修行を行なっているんだよ。このスーパー・パワーを持ったタントラの仏陀として成就することを目差しているんだ よ。いいですか。この修行は今あなた方がやっているグル・ヨーガ・イニシエーションね、あるいは三月四月にかけて行なったツァンダリーのイニシエーション で詳しく説いているからね、ここではやらないけれども、自覚して修行してくださいよ。あなた方がやっているのは、タントラの仏陀になる為の技法だというこ とをね(タントラの仏陀になる為の修行法は第七話を参照のこと)。
 私は、セミナー中にあなた方に最高の技術的な指導をすることができるよ。しかし、あなた方にもし基礎がなかったら、例えば瞑想の為に座れなかったら、例 えばプラーナーヤーマができなかったら、例えば先程言った四つのね極限の修行ができなかったら、何の意味も持たない。ザルで水を汲むようなもんだ。だか ら、それはあなた方から積極的に私にアプローチし、あるいは私の高弟にアプローチし、吸収しなさいね。「一体私は今、何をやったらいいのか?」それを考え て吸収しなさい。そして、自分の弱いところを補いなさい。ツァンダリーの瞑想を行ない、グル・ヨーガの瞑想を行ないなさい。そうすることによって、あなた 方は必ずやグヤサマジャになることができるだろう。グヤサマジャ、これはタントラでの釈迦牟尼如来だ。変化身だ。
◎疑問をなくそう
 セミナーというのは非常に短いよ。今回もわずかに六泊しかとれないね。だから、私もあなた方にほんのちょっとしか教えることができない。しかし、あなた 方も先を急いでいるだろうから、最高のものを指導している。したがって、もう一度言うよ、あなた方は基礎的なことは自分でマスターするようにしなさい。も し、どこかで引っかかったら、きちんと指導員に聞きなさい。もし、指導員にもわからなかったら、私のところに上がってくるからね、大丈夫だよ。疑問を解決 して、きちんと消化しなさい。そうすることによって今生で必ずやね、あなた方も仏陀になることができるんだ。
 
■第三話 悟りの道程
 
◎迷妄の源泉――『観念』
 今までに私は、こだわり(思い込み)についてね、それから六つの極限についてね、話してきた。今日は、いかに真我というものが迷妄の中に入っているか、錯覚の中に入っているかということをね、話したいと思う。
 実は、数日前の事だがね、ある子とテレパシーの実験をやったんだ。その内容は、彼の恋人の年令を当てるというものだった。その彼女の年令を私は知っていた。しかし、彼女は彼よりも年上だということを気にして、彼には自分の年令を教えていなかった。
 その日、彼は私に「彼女の年令を教えてほしい。」と言った。そこで、私は彼女に確認してから教えることにした。年令を隠して交際するのも不自然なことだ。
 で、その教えた方法なんだがね、私はテレパシーで彼に送ることにしたんだよ。彼はかなり修行が進んでいたのでね、私がテレパシーで送った数字、これが彼女の年令なんだけれども、それを正確に受け取ったよ。
 しかし、彼が持っている彼女のイメージがその枠外にあったものだから、どうしても納得できない。納得できないものだから、自分の受信した数字の方が間違っていると思ってしまった。つまり、その数字を否定してしまった。
 これが何を意味しているかというとね、私達がいかに過去の経験や観念ですべての現象を見ているか――ということなんだよ。
 きのうは、思い込みについて話したね。そして、今言ったのは、観念があるが為に、私が送ったテレパシーを受け取ることができなかったという例だ。
 
◎『悟り』とは透明な鏡
 コーザル世界にね、宇宙神素っていうものがある。この宇宙神素は、いわゆるデータ・バンクだ。私達はここから、いつでもどんな情報でも得ることができるんだよ。悟りを開きさえすればね。
 しかし、悟っていない人は、そこから折角送られてくるデータを読み取ることができない。なぜなら、さっきのテレパシーと同じにね、観念によってねじ曲げ たり、否定してしまってね。それは、片寄った心の働きによってもね、あるいは執着によってもね、正確に受信することができなくなってしまうんだ。透明な水 がすべてを映すことができるだろう。心も水のようにきれいにならないといけないんだね。
 心をきれいにするというのが、真我を本来の姿に戻していくということなんだよ。つまり、真我を迷妄の中から引き出してやるということ、真我の錯覚を取り除いてやるということなんだね。そのプロセスが悟りのプロセスだ。
 
◎両極を捨てなさい
 さて、悟りの障害になるものについてもう少し話そうかね。例えば、プライドが高い人って、よくいるよね。仮に、ここにプライドの高いA子さんがいたとしよう。
 A子さんは、「私はここにこの様にして生きています。」ということをアピールしたい。みんなからの尊敬を集めたい。当然こういう欲求のかたまりだ。
 もし、自分のプライドを傷つける人がいたとしたらね、A子さんは断固として闘うだろう。プライドの高いA子さんはこういう動きをするだろうね。
 しかし、このプライドは悟りにとっては邪魔なんだ。なぜだかわかるかな? 例えば、A子さんは物を上から見つめるようになっているはず。これでは物事をありのままには受け取れない。プライドを満足させることのできる条件に身を委 ねたとき、自分を高めようなどとは考えられなくなってしまうだろう。これでは、悟りへ向かうことすらできないね。
 じゃあ、そのプライドを潰されたならどうなるか。プライドを傷つけられるくらいだったら怒りもするだろうが、完全に潰されてしまったらどうなるんだろうね。ほとんどの場合、卑屈になってしまうよ。そうだろう?
 卑屈になったA子さんは、物を下から見つめるようになる。消極的にもなってしまうだろうね。これでも、物事をありのままに見ることができない。当然悟りからは遠のくということになる。
 ね、私達はプライドを持ってもいけない、卑屈になってもいけないんだ。
 
◎愛着の向こうには
 ところで、愛着も私達が悟る為には取り除かねばならない障害の一つだ。例えば人に対する愛着だ。いいかな。もし愛着を持った人が、ね、組織を動かしたと しよう。そういう人は、組織を動かしていくにあたってね、自分が愛着を持った人を登用してしまうだろう。愛着を感じる相手に才能があってもなくてもね、そ んなことにはおかまいなしだ。逆にね、自分が愛着を感じない人に対してはね、例えその人が組織に必要であったとしても、才能があったとしても、切り捨てて しまうだろうね。
 そうするとどうだ? 発展すべきはずの組織というものがね、発展しなくなるんだ。ねえ、確かにそこで自己満足はするだろうよ。しかし、彼の役割としては良い仕事をしているとは言えないね。
 じゃあ、次はだ、愛着と対照的に、何にも愛することができない人のことを考えてみよう。白け切った人がここにいたとしようね、いいですか。その人は一切 を信じていない。一切を否定している。愛着と対照的だ。その人が組織を動かしたとしよう。その人は確かに条件を見つめる目は持っているかも知れないよ。A は性格はいいが力が無い。Bは性格が悪いが組織にとって必要である。そして、ねえ、A子は美人だがこの際関係ない。B子は美人ではないが、この際登用すべ きだとね。そこまではよろしい。いいかな。
 しかしだ、Aを登用しようとBを登用しようと、ねえ、おそらくこのふたりはついて来ないだろうね。まず、愛がなければ、その言葉の端々に冷たさを感じる だろう。そして、絶えず否定的な意味合いのことを聞かされることによって、心は凍りついていくだろう。AもBも当然その冷たいリーダーからね、離れてしま うだろう。
 今、例をあげたふたり、愛着を持っている人と愛の無い人はね、両者とも成就からは程遠いね。なぜってね、成就するときにはすべての人を愛せるようになる し、正確に見ることができるようになるのだからね。悟りを開く(成就)ということが、来世の保証だけでなくこの世の幸せを意味しているのもこれでわかるだ ろう。すべての人を愛せる、物事を正確に見ることができるということは、速やかにその人に幸せをもたらす条件なんだね。
◎五本の柱
 例をあげて考えてきたわけだけど、悟りを開く為に必要なことを、ここでまとめてみようね。次のことが大きな柱となるんだよ。①観念を崩壊させなさい。②愛着を捨てなさい。③すべての人を愛せるようになりなさい。④プライドを越えなさい。
 この四つについて、今日話したね。これは順序は関係ないよ。みんな同じように大切なんだ。それと今日は触れはしなかったが、あと一つ柱となることがある。つけ加えておこう。それは瞋るなということ。やはり瞋りは正確なものの見かた・判断の妨げとなるからね。
 
◎如来の条件
 菩薩道を歩こうと決心した私達にとってね、スーパー・シッディ(超能力)を身につけること、そして最終的に解脱することは必要だ。しかし、それと同じように、悟らなければならないよ。解脱と悟りがそろった段階で真の救済者ができるんだからね。わかっていただけるかな。
 深い意味で、事象をすべて正確に見つめる為には、スーパー・シッディが必要だ。しかし、スーパー・シッディだけでもだめだ。なぜなら、それだけでは見た ものを正確に理解することができないからね。だから悟りも必要。そして、解脱と悟りが合わさってね、初めて私達は人々を救済することができるんだ。人々を 真の自由・真の幸福・歓喜の世界に導くこと、これが私達の目指す救済だよ。
 
◎幸せをもたらす瞑想
 もう少し時間があるようだね。じゃ、ここで悟りに導くとともに、この世でも幸せになれる瞑想法を教えよう。さっき話した、ね。すべての人を愛せる、物事 を正確に見ることができるということは、速やかに人に幸せをもたらす――とね。これから説明するのは、この状態を得ることのできる瞑想法で、四無量心とい うものだよ。今日特にこれを選んだのはね、皆さんが在家の修行者だからだよ。やはり、日常生活でも幸せを実感したいだろうと思うからね。
 まず、すべての人や事象を平等に見る訓練が必要だ。
 
◎平等心は『四無量心』の礎
 例えば街を歩いていたとしよう。担架で救急車に担ぎ込まれている人がいる。それを見て、「ああ、今運ばれて行っている人は、私の父親ではない。母親でも ない。」と確認したら、知らん顔かな? でも考えてみてごらん。今生では、あなたの親にはならなかったが、前生においては、あなたの父親だったかもしれない。母親だったかもしれないんだよ。い や、私達は無始の過去から、数えきれないほどの輪廻転生を繰り返しているではないか。だから、一切の魂がかってあなたの父母であったと考えられるのではな いか? だったら、現在の父母同様、愛すべきではないか?
 このことに気付くことができれば、いかなる人が苦しんでいるときにも、私達は涙を流すことができるだろう。また、愛している人と、無関係の人がね、論議 していても、あるいは争っていても、どちらが真実を語っているのかを理解できるだろう。これが平等心。平等心の根底となるものは、一切の物を平等に愛する ということだ。いいですか。あるいは平等に哀れむということだ。あるいは平等に喜びを分かち合うということだ。
 四無量心の四つ、愛・哀れみ・喜び・平等心は不離一体だ。ベースに平等心を持ち、平等にすべてのものを愛することができなければ、真の愛を実践することができない。真の哀れみを持つことができない。真に喜びを分かち合えることができないんだよ。
 
◎菩薩の糧『四無量心』
 四無量心をマスターすることによって、現世の幸せがもたらされる。また、大乗のボーディサットヴァ(菩薩)にとって、「すべての魂をマハーヤーナに入れ るぞ。」という大発願をした私達ボーディサットヴァにとっては、四無量心は欠くことができない。いや、欠くことができないのではなくて、四無量心の無い ボーディサットヴァなどあり得ない。
 
◎救済のテクニック
 ボーディサットヴァには、プライドはいらない。卑屈さもいらない。観念もいらない。ね、そして、すべてのものを平等に見、しかも愛し哀れみ、ね、喜びを分かち合う。この実践が必要なんだ。
 四無量心で、ボーディサットヴァの心を持ちなさいよ。そして救済に向かいなさいよ。
 救済の方法としては、まず、人々に自分を信じさせなさい。信じさせることから出発だ。その方法としては、病気から解放してあげる、悩みを解決してあげ る、という二つの道がある。これらのことで人々を救ってあげ、それをきっかけとして人々を素晴らしい世界へと引き上げてあげなさいよ。悟りと解脱、その両 方を合わせたときにそれが可能となるからね。
 オウムではその為に、①六つの極限の修行、②煩悩を消滅させる瞑想、③四無量心の瞑想を行なっている。
 それでは今日の話はこれで終わります。
 
 
■第四話 その1 三毒の浄化こそ成就の鍵
 
◎解脱、悟りは気道の浄化から
 解脱、悟りとイダー管、ピンガラ管、スシュムナー管との関係に触れてみたいと思う。それから、これは話の成り行きによってなんだけど、チャクラの働きについて話せるかもしれないね。
 まずね、私達の身体に三つの大切なエネルギーの通り道がある。これらが、イダー管、ピンガラ管、スシュムナー管と呼ばれる三本の管なんだ。一本は尾てい 骨の右側から各チャクラを通過してね、――通過するとき交差するけれど――最後にアージュニァー・チャクラの右に至っている。これがピンガラ管だ。そし て、尾てい骨の左側から同じように各チャクラを通過してね、アージュニァー・チャクラの左側へと通っているのがイダー管。それから、中央にスシュムナー管 があります。
 初日からセミナーに出席している人はわかっていると思うけど、私達の性的ストレス、瞋りのストレスね、あるいは食欲を含めた無智のストレスのエネルギーを通す管がだ、この三本の管なんだよ。中でもスシュムナー管が最も大切だ。
 では、この管の働きは何か? まず、ピンガラ管がね、私達の瞋りのエネルギーを運ぶ管だ。いいですか。メモする人はメモしなさいよ。こんなのは、どの経典にも載っていないからね。次 に、無智のエネルギー、これは私達の動きを止めたり、愚鈍にしてしまうんだけれど――、これを通すのがイダー管だ。いいですか。そして、私達の執着ね、心 の引っかかりみたいなものを通過させていくのが、スシュムナー管だ。
 ほらほら、これは仏教でいうところの貪、瞋、癡と一致しているだろう。貪は貪り、すなわち執着などだね。したがって、スシュムナー管と関係している。瞋 は、瞋りでピンガラ管。癡、すなわち無智がイダー管というわけだ。これら三本の管をエネルギーが通るときに、それぞれのエネルギーの特質がはっきりと表わ れるよ。
 
◎無智――イダー管
 例えばだね、ピンガラ管のどこかがおかしくて、瞋りのエネルギーが通らない。一方、無智のエネルギーを通すイダー管は通っているとしようね。――このと き、肉体次元の症状としては、右の鼻がつまって左の鼻だけが通っているんだけどね。その人は無智に襲われる。無智だ、ね。いいですか? その無智というのはね、私達の動きを愚鈍にする。「あ~あ、やりたくないな。」とかね、「もう修行だけしておきたい。」とかね、思う。しかし、いざ、その 人に修行をさせてみると、できない。修行もしないで寝ている、なんてことになる。
 ねえ、これがイダー管の性質だよ。無智の性質だよ。「今日、食っていけたからいいや。」と、「明日は明日の風が吹く。」と、これがイダー管の性質だ、ね。
 
◎瞋り――ピンガラ管
では、これとは逆に左の鼻がつまって右の鼻だけが通っていたらどうだろうか。要するに、無智のイダー管に障害があり、瞋りのピンガラ管は通っているという ことだ。このときはね、身体が熱くなる、ね。怒りっぽくなる、ね。いいかな。ピンガラ管の性質が表われるからね。このことから考えても、もしイダー、ピン ガラの両方の管が通っていたら、無智と瞋りの両方が出ることがわかるだろう。
 
◎執着――スシュムナー管
 次は、中央のスシュムナー管のどこかがつまっている場合だ。私は、この管は執着を通過させると言ったよね。性的な執着、食べることに対する執着、こうい うストレスのエネルギーがクンダリニーとなってここを上昇するんだったね。したがって、ここが通っていないと、クンダリニーの上昇は見られない。そして、 経典に書かれているように、執着を招くんだ。逆の言い方をすれば、執着を取り除くには、このスシュムナー管を浄化する以外ないんだ、ね。
 
◎スシュムナーへ導け
 スシュムナー管を浄化すれば、執着が消える。イダー管とピンガラ管に関してはね、無智のエネルギーと瞋りのエネルギーが入っているときに、無智と瞋りが 表われて問題だ。だったら、どちらもつまってエネルギーが通らないのがベストかといったら、決してそうではない。いや、つまっているのは最低だ。なぜな ら、それは低次元の無智、あるいは瞋りを意味しているのだから。例えば、スヴァディスターナ・チャクラで瞋りのエネルギーが止まっていたとしよう。その瞋 りは性欲に関係した瞋りということになる。では一つ上のマニプーラ・チャクラのところで止まっていたら? これは学問や才能に関係した瞋りということになる。つまり、このエネルギーは上へ行けばいくほど、質が高度になるんだよ。したがって、ピンガラ管が完全に 通っているときの瞋りは、――つまり、アージュニァー・チャクラまで到達した瞋りは――個人というよりは社会に対する瞋りということになるのだ。あれ、 じゃあエネルギーがイダー、ピンガラを障害なく通っていてもいけない。つまって通らなくてもいけない。これじゃどうしたらいいかわからなくなるね。
 よく聞いてくださいよ。修行のプロセスとしては、まずイダー、ピンガラの両管を完全に通してね、無智も瞋りも最高の質に高めるんだ。そうした後、そのエ ネルギーをスシュムナー管へ移動して、執着のエネルギーと変えてしまう。これが、イダー、ピンガラ管の浄化だ。そして、この時点で執着というストレスのエ ネルギーが生まれるんだよ。それが、クンダリニーとなって上昇するわけだ。
 だから、無智と瞋りを消滅させるにしたがって、――これはつまり移動させてしまうということだが――執着が生まれる。だから、私は執着が一番最後の引っかかりだと言っているんだよ。
 
◎執着のステージ
 一つ具体的に例をあげてみようね。あなた方の身近にこういう人がいないだろうか。それは、自分のさびしさを紛らしたいが為に、数多くの異性とつき合って いる人だ。ある人はこう言うかもしれない。「観念が無いから解脱に近い。」と。しかし、私に言わせればそれは無智だ。無智に加えて、無智からスシュムナー 管に移動したばかりの、低次元の性的執着があるに過ぎない、ということになる。この人のやっていることは、例えばおなかがすけば、何でも手当たり次第に食 べるのと同じじゃないか?
 また、他の人にはわき目もふらず、たったひとりの人を追いかけるタイプの人もいるね。この人は執着の段階だ。しかも、アナハタ・チャクラのレベルつまり愛に対する執着の段階だね。
 前者と後者を比べてみると、人間の進化のプロセスで、どちらが上でどちらが下かわかることだろう。
 
◎気道の浄化は外せない
 話をもとに戻そう。このイダー、ピンガラ、スシュムナーというね、三つの管が、修行によって浄化することができる。イダー、ピンガラの浄化が終わって、最後がスシュムナーだ。
 これが釈迦牟尼如来のお説きになった、ね、人間観だよ。いいですか。「そんな事はどこにも載っていない。日本のどの経典をさがしても載っていない。」と あなた方は考えるかもしれない。しかし、それは日本にまで伝わっていないだけでね、インド仏教の経典にはちゃんと載っているんだよ。――貪、瞋、癡のすな わち貪り・瞋り・無智の三つの心の働きは、三つの管の障害となる――とね。いいですか。このように解脱のプロセスにおいても悟りのプロセスにおいても、こ の三つの管の浄化が必須条件なんだよ。今日は悟りのプロセスとの関係を話したが、解脱のプロセスとの関係については、『生死を超える』を読んでおいてくだ さい。それと病気と三本の管との関係については、『超能力秘密のカリキュラム|健康編|』に書いてあるので、こちらも読んでみるといいだろう。
 
 
■第四話 その2 十二縁起の法
◎『苦界』へのプロセス
 さあ、次はね、去年も触れたことがあった『縁起の法』について考えてみよう。これはちょっと難しいよ。――私達は何ゆえにこの苦界に生まれたのであろう か――というね、生き物が苦界に生まれ出た理由というか、プロセスを追って解明しているものなんだよ。苦界というのはね、欲界・色界・無色界の三界を指し ているんだ。私達が現在いる人間界はこのうちの欲界に属している。したがって苦界の一つなんだね。
 苦界に入ったプロセスは次のようになる。ざっと流すよ。『無明』ありて『行』あり。『行』ありて『識』あり。『識』ありて『名色』あり。『名色』ありて 『六処』あり。『六処』ありて『触』あり。『触』ありて『受』あり。『受』ありて『愛』あり。『愛』ありて『取著』あり。『取著』ありて『有』あり。 『有』ありて『生』あり。『生』ありて『苦』あり、とね。こうして私達は迷いの生を受けるんだと、釈迦牟尼如来は言っている。ちょっと今日の講義は難しい からね。まだ、わからなくてもいいよ。今から一つずつ正確な意味合いもね、含めて説いていくから。
 じゃあ、まず、無明ありて行ありとは何かね。はい、君、無明ありて行ありとは何ですか?
 会員「無明ありて行ありですか?」
 麻原「はい、そうです。」
 会員「無明とは無智のことです。」
 麻原「それは、言葉の遊びだ。無明が無智になろうとだよ、同じだろう。それは言葉を理解したことになるか。無明とはどういう状態かと私は聞いている。」
 会員「真理に疎いことです。」
 麻原「真理に疎い。おお、いいねえ、なかなか。では真理とは何か。」
 会員「絶対自由。」
 麻原「絶対自由、それと?」
 会員「絶対幸福。」
 麻原「なかなかいいね。」
 真理というものは、私達の真我が独存に入っていることだ。この時、絶対自由であり、絶対幸福であり、絶対歓喜という状態なんだ、ね。そして不滅でもある。いいかい。これが真理なんだよ。私達の真我は、本来この状態であった。
 ところがね、その独存の状態にあった真我にね、三グナが干渉しだしたんだ。その三グナの干渉によって、真我は判断を誤り錯覚を起こしてしまった。それが『無明』なんだ。ここに私達の苦へ至るプロセスが始まってしまった!
 次に、判断を誤り錯覚を起こした真我は、一見美しく楽しい世界、自由な世界へと入ってしまう。そこはコーザル世界と呼ばれている。ここから『行』へと 移ったわけだ。行とは動くという意味だよ。行には身・口・意の三つがある。身は動くことができる、口はしゃべることができる、意は考えることができる、と いう意味だ。つまりね、もともと真我は自由に動くことができ、しゃべることができ、考えることができるということだ。
 『行』の段階で、真我は今述べた身・口・意を使って経験を始める。この経験の舞台となるのはコーザル世界だ。コーザル世界とは、精神と観念だけで成り立っている世界だよ。
 真我は、コーザル世界での経験をし尽くすと、今度はアストラル世界へと入っていく。経験し尽くして飽きてしまったコーザル世界より、未知のアストラル世界の方がステキだと、またもや錯覚してしまうんだね。アストラル世界とはイメージの世界、高次元の微細な世界だよ。
 このようにして、アストラル世界へと入った真我が、ここで経験をしていく段階が『識』なんだよ。
 経典ではこういう表現にはなっていない。しかし、実はそれが六識という言葉で表わされているんだ。この六識が何を指しているかというとね、まず、アストラル世界で見るヴィジョンね、聞く音ね、それから匂い、味覚、触覚、そして思いの六つだ。
 もう一度言うと、『行』はコーザル世界で経験していくプロセス、『識』はアストラル世界で経験していくプロセスなんだよ。
 それでね、アストラル世界での経験が終わってしまうと、真我は前と同様に、この世へと入って行ってしまう。この時、私達は粗雑次元の五大エレメントを使って、この世に生まれ出るというわけだよ。この段階が『名色』と呼ばれている。
 『名色』とは何か? これは五蘊を表わしているんだ。五蘊とは五つの集まりという意味。その五つとは何か? 難しい言葉を使うならば、色・受・想・行・識の五つだ。これを私達が使っている言葉に置き換えるとだ、色は粗雑次元の五大エレメント、受は感覚、想は表層 意識、行は深層意識、識は判断を表わしている。この『名色』の段階では、真我が五蘊に干渉してしまうんだ。つまり、五蘊を思い通りに動かし始める。より良 い生活を求めてね。
 そして『名色』ありて『六処』あり。『六処』は、『名色』が具体化するだけなので、同じものと考えても差し支えないだろう。『六処』とはすなわち、目・耳・鼻・口・触覚・意識だよ。
 そして、これらが外界と接触する。接触するとそこでいろいろな感情の動きがでてくる。これが、『六処』→『触』→『受』→『愛』のプロセスだよ、ね。ま ず、『六処』が外界と接触する。これが『触』。それによって、感覚器官が働き、いろいろな外的情報が入ってくる。これが『受』だ。ここで愛着が生じる。こ れを『愛』と言っているんだね。
 私達はこの愛着、言い換えれば執着から離れられない。修行によって離れるしかない、と私は何回となくあなた方に言ってきた。その愛着は、このように真我 の経験から生まれたものだったのだ。いいですか。なぜ、私達に愛着、執着があるか、その理由はこれでわかったね。真我が経験をし始めた当初である、無始の 過去から、私達は愛着を増加させてきたんだよ。
 例えばここに女性が十人いてね、私達に無数の過去世において積み上げた経験が全く無かったら、特定の人を美人とも思わなければ、ね、醜いとも思わない し、普通とも思わないよ。しかし、実際は受ける印象が違うだろう? しかも、それぞれ、つまりひとりひとりの真我の経験は違うものだ。人は経験を判断基準としている、というわけで、“好み”の女性のタイプもひとりひとり違 うんだね。例えば、A君が「B子さんて美人だねえ。」と言ったら、C君は「何だい、あんなチンクシャ。趣味悪いぜ。」と答えることもあり得る、ね。
 これを『愛』と言っているんだ。愛着、執着だよ。いいですか。釈迦牟尼如来はこう言っている。「六つの入口から愛着のもとが入ってきますよ。」とね。この六つの入口が、先程述べた『六処』、すなわち目・耳・鼻・口・触覚・意識のことなんだよ。
 愛着してしまうと、今度はこれにとらわれてしまう。これが『取著』だ。
 例えば、いいですか。あまりにも宗教的な本ばかし読んでだ、理解はしていない人がいたとしよう。これこれこういうことをすると、天界に行けるなんて思い込んでしまったら、また、悟れるんだと思い込んでしまったら、それにとらわれてしまう。これは意識による『取著』だ。
 ね、あるいは、今迄会った美人がみんな優しかったと。すると、美人イコール優しい人だと思い込んでしまうかもしれない。これがとらわれだ、『取著』だ。
 ね、いいか。たまたまバナナを食ったら、おなかを下してしまったと。それが三回も続いたと。そうするとバナナを食べたら下す、と思う。これもとらわれだよ。ね、いいかな。一切のとらわれが愛着から、あるいはアンチ愛着からね、始まる。ね、これが『取著』だ。
 『取著』があると、欲求する。もっと欲しい。もっと良くしたい。もっと満足したい、とね。すると、真我は自分の欲求に動かされて、物を作り出す。私達の 欲界でもその作業は続けられているんだね。征服欲がいまや核兵器さえ生み出した。楽をしたいという欲求は、電子レンジや洗濯機、ガスや水道を作り出した。 ラジオができた。テレビができた。自動車ができた。飛行機ができた。これらは、みんな真我の欲求が作り出したものなのだ。その作り出して、自分の世界を満 足できるようにしていく段階、これを『有』と言っている。『有』だよ。
 『有』はどんどん深みにはまっていく。欲は欲を生むからね。死んでも原因となっている愛着とこだわりは消滅しない。カルマとなって残ってしまうんだよ。そうなると、カルマによってこの世に再生する。これが『生』だ。
 そうして、私達は生まれ出て『苦』を味わうことになる。これが『生』あるがゆえに『苦』ありなんだ。じゃあ、どうして『苦』を味わうのか、ということに ついても説明しておいた方がいいかね。ちょっとね、もともとのプロセスを思い出してごらん。屈折しているだろう。とらわれから生まれ変わっているわけだか らね。とらわれていたら、正確に物を見ることができない。だったら幸福になれるはずがないんだよ、ね。
 『苦』あるがゆえに凡夫は一層ね、愛着し取著し、楽しみを求め、一層の苦しみに入る、ね。それを私達はもう何生も何生も気が遠くなる程の生をね、繰り返してきたんだよ。
 しかし、私達はこの世に生まれてきたから苦しまねばならない。例えば、病気をしたり年をとったり、ね、あるいは悩みを持ったり、ね。要するに、苦はすべ てのプロセスのまとめなんだよ。で、苦から離れなくてはならない、と気付いたら、今度は『生死を超える』のプロセスだな。これは、私の本に書かれているか らここでは簡単に触れるのみとするよ。
◎『苦』から『六ヨーガ』へ
 ――このように今、あなた方の魂はオウムに集まってきている。あなた方の魂は、そこで苦から抜け出そうと考える。『苦』あるがゆえに『信』あり、あなた 方は麻原の教説を真理だと信じてオウムに集まった。ね、そして一生懸命修行しようとね、いいですか、あなた方は悟りと解脱のプロセスを歩き出すわけだ。
 『信』を基礎とした修行によって、クンダリニーが上昇し『悦』が生じる。『悦』が生じてくると、私達の背骨にあるね、先程言ったスシュムナー管、イダー管、ピンガラ管、この三つの管を浄化する。そして、三つの結節を破るんだ。
 まず、マニプーラ・チャクラの裏側のブラフマン結節、それから、アナハタ・チャクラの裏側のヴィシュヌ結節ね、そして、後頭部にあるルドラ結節を破るわけだ。最後にサハスラーラ・チャクラが崩壊する。すると、ツァンダリーが起きる、ね、いいですか。
 ツァンダリーは、私達の過去世からの汚れを浄化する。これが『喜』だ。そして、ここを通過するとね、『軽安』『楽』と進む。ま、『楽』というのは、長く 座れ瞑想に適している状態だ。この時期に三昧に入ることができるようになる。この時、心臓は若干動いている。しかし、聴診器くらいではわからない。これが 三昧だ、ね。
 三昧に入ると、その人の精神的レベルによって、いずれかのチャクラから魂が抜け出す。ね、そして六ヨーガが生じる。それはわかるね。読んでない人は『生 死を超える』を読んでくださいよ、わかるから。バルドー、夢見、幻身、ね、光ね、そしてポアだ。あれ、これでは五つだ。一つ足りないじゃない、ね。S、何 が足りないか?
S「熱です。」
 よし、なぜ私が六ヨーガの中に熱を入れなかったかというと、すでに上昇させるプロセスで熱のヨーガが入っているんだよ。ベースにあるわけだ。
 さて、この六ヨーガによって、私達は一切を知ることができる。ね、『如実知見』だ。そうすると、私達のね、『無明』から始まってこの世に再生してくるプロセスがだよ、良くわかるようになる、ね。
 そして、「ああ、こんなのは嫌だ。離れなければならない。」と切実に思うようになる。そして『遠離』ね。それから『離貪』ね。それが終わった段階で、私みたいに解脱するんだよ。
 いいかな、これが釈迦牟尼如来のお説きになった縁起の法だ。ねえ、簡単だろう。それから、私が普段言っていることと少しも矛盾しないだろう。だいたいね
真理というものがね、矛盾するのがおかしいんだよ。そうじゃないか。チベット仏教だって、原始仏教だって、ヨーガだって、同じことを目差しているんだよ。真理を追求しているんだ。
◎真理はひとつ
 仏教とヨーガのプロセスが同じことに気付かない人がいるかもしれない。では、パタンジャリのヨーガ・スートラをサッサッサッとみてみよう。ヨーガ・スー トラには――これはラージャ・ヨーガなんだけれどね――こう書かれている。一に悪いことを極力しないようにしなさい。二に良いことを徹底的にやりなさい。 三に座法を安定させなさい。四に調気法によって心を制御しなさい。五に一切の感覚を外界から引き離しなさい、とね。そして、精神集中、それから瞑想、超覚 醒というね、八つのプロセスを歩くわけだ。
 非常に似ているね。普段私が言っている六つの極限の実践と非常に良く似ている、ね。つまり、パタンジャリのヨーガ・スートラも、大乗仏典の六波羅蜜の六つの極限の修行も同じことを言っている。私が先程言った縁起の法ともダブッている。
 だいたい真理を示しているものにね、矛盾があるはずがないんだ。
 
 
■第五話 その1 潜在意識をつかめ!
 
◎潜在意識――指令室
 さあ、今日は五日目。それでは私がね、瞑想中に体験したことを話そう。これはあなた方が今から行なっていかなければならない瞑想の中で、特に悟りと関係のあるプロセスだから良く聞いてほしい。いいですか?
 まず、瞑想の目的を考えてみようかね。それには、私達の意識のことから説明しなくてはならないだろう。
 私達の意識には、潜在意識とそれを覆っている表層意識があるね。表層意識というのは、顕在意識という言い方でも表わされているよ。普通私達は、この顕在モ識でものを考えている、ね。しかも、私達は顕在意識の動きしか知らない。
 しかし、顕在意識でものを考えてはいるがだよ、その原動力となるものは潜在意識なんだ。潜在意識の指令によってね、それを受け取った顕在意識が考えているんだよ。いいですか?
 ――瞑想が始まる、ね。私達は瞑想によって、潜在意識にアプローチするわけだ。修行が進むにつれて、潜在意識を知ることができるようになる。潜在意識と 顕在意識は相反する性格を持っているんだ。潜在意識は、直接的、本能的なんだよ。どう言ったらいいかな――有るか無いかなんだね。
 例えば、人を愛する愛さないのどちらか、中間が無いんだ。少し愛しているとかいうことが無い。少しおなかがすいているとかなんてことも無いんだね。つまり、両極端しか無いんだ。
 ところが、顕在意識は全く違う。確かに潜在意識の指令を受けて、顕在意識は働き出すよ。しかし、潜在意識のように両極端にはならないんだ。今までの経験 から得たデータによってね、「これくらい食べると自分は満足できる。」あるいは「これはおいしそうだから、これくらい食べられる。」などというように、分 析し判断するわけだ。そして食べる。
 
◎精神分裂――解脱直前
 要するに、私達には相反する二つの意識が同時に存在しているわけだ。そのうち、修行が進んでいくとだよ、自分でもどちらが顕在意識か、潜在意識かわからなくなってしまう。区別がつかなくなってしまうんだね。
 ある時は潜在意識の中にいる。ある時は顕在意識が働いている――ここで精神分裂が起きるんだよ。いいですか? だから、修行者は必ず解脱前に分裂する。分裂を通り越さないと成就はあり得ない。わかりますか? あなた方がこの時期を通り越す為にも、オウムが必要になってくるよ。普通の社会生活ができなくなるからね。悪くすると精神病院へ入れられてしまうしね。し かし、オウムではあなた方を保護できる、ね。これは決して忘れてはいけないよ。
 もう一つ、精神的におかしくなってしまう時期があるので、つけ加えておこうね。その時期というのはね、ほとんど潜在意識しか使わない時期――最終的には 潜在意識のみにするのを目差すのだけど――このほとんど潜在意識しか使わなくなり、ほんの少しだけ顕在意識が残っている時だ。この時期は、煩悩の影響をス トレートに受けてしまうんだよ。成就してしまえば、潜在意識だけを使っても何の問題も起きない。成就にあたって煩悩は消滅してしまっているからね。しか し、煩悩があり、それが潜在意識に影響すると、それはそれはひどい状態になる。さっきも言ったように、潜在意識には両極端しかないのだからね。煩悩が顕現 してしまうんだ。
 ただ前生から修行している人、あるいは今生で修行しながら徹底的に功徳を積んでいる人は、この時期、少しおかしくなるという程度で済むようだ。
 
◎潜在意識こそ欲望の根源!
 では、次に潜在意識と顕在意識がどのように働いているかだ。もう一度繰り返すと、潜在意識は顕在意識の原動力だ。潜在意識の指令で顕在意識が動いている。
 例えば、潜在意識からこういう指令が出たとするよ。「私は異性を欲している。このストレスは異性によってしか解消されない。」とね。その指令を受け取っ た顕在意識は、手頃な異性を捜し始める。ね? 手頃な異性を捜すことができなければ、ソープランドかなんかへ行く、ね。そして、男性の場合だったら射精、女性の場合はエクスタシーなんだけれども、これ を得た瞬間、顕在意識は満足し、顕在意識レベルでの欲求は消えてしまうんだ。
 一方、指令を出していた方の潜在意識はどうなるか? 一旦おさまったかのように見えるだけで、実は欲求を持ち続けている。どうしてこうなるのかわかるかな? 例えば、異性を欲する――、これは単純にセックスだけを望んでいるわけじゃないんだ。相手の愛が欲しい、安らぎたい、独占したい、性欲に満足したいなど、 多くの欲求が複雑に混ざり合っているんだ。この欲求の条件というものをすべて満足させることは不可能だよ、ね。つまり満足できないからその欲求は残ってい るんだ。だからまたすぐに指令を出すだろう。これは果てしない繰り返しだ。この経験が行きつくところまで行くと苦を感じるんだったね。これは前回話したか らここでは省くよ。
 
◎潜在意識へのアプローチ
 さて、私達が瞑想に入るとね、初心者はまずその顕在意識のレベルで一生懸命瞑想をやっているわけだ。例えばジュニアーナ・ヨーガだ。「何ゆえに私には性 欲があるのであろうか?」ということを分析していく。昨日ポルノ映画を見たからだと、ね。あるいは強精剤を飲んだからだと、ね。あるいは、この性欲という ものは、本能的なものだと考えるかもしれない。
 しかし、それはすべて本質的なものではないよ。例えば、条件を一つずつ落として行ってごらん。もし、昨日ポルノ映画を見なかったら、今日性欲は起きてい ない。確かに今日は起きなかったかもしれない。しかし、明日起きるかもしれない、ね。もし、女性のヌードを見たから性欲が起きたと考えていたとする。 じゃ、見なかったら起きなかったのか? そうではないね。
 じゃ、次に食欲について考えてみようね。道を歩いていて、おいしそうなカレーのにおいがしたから、おなかがすいて食べたんだと言うかもしれない。じゃあ もし、カレーのにおいがしなかったら、永遠に食べなくて済むのか? もし、いいですか、運動をしたからおなかがすいて食べたんだ、という人がいるかもしれない。本当にそうか? じゃ、運動しなかったら食べずに済むのか?
 いいですか。こういうアプローチをし続けているうちにだ、私達は「待てよ。」と考えるようになる。「これはすべて末端にすぎないんじゃないか。」と。「この元の情報を出している何かがある。」とね。この元の情報を出している何か、これが潜在意識なんだ。
 
◎入れ替えよ――潜在意識
 顕在意識とこの潜在意識の中間は眠りみたいなものだ。ボーッとした状態だ。だから、瞑想で顕在意識を落としていくとね、ある段階までくるとね、ボーッと してものが考えられなくなる。それはそうだよね。今まで顕在意識が考えていたんだからね。それが無くなっていったら、ボーッとなってしまうのは理解できる だろう。そして、ある時は顕在意識に戻ってしまい、ある時には潜在意識に入ってしまう。これが、さっき言った精神の分裂なんだね。
 ところで、前生からの修行者は、すでに過去の修行で表層意識が少なくなっている。だから、生まれながらにして精神分裂を起こしているような人もいる。
 しかし、それは決して恥ずかしいことでも何でもない。その人が前生から一生懸命顕在意識を落としている証拠にすぎないんだよ。
 さて、顕在意識が完全に落ちたら、次は潜在意識の世界に入っていくよ。これは、すでに話したとおり、有るか無いか、だ。両極端しか存在しない。直接的だ。
 例えば、瞑想をすると性的衝動、即セクシュアルなヴィジョンとなる。例えば、食欲的衝動、即食物のヴィジョンが出てくるんだ。眠っている時もこの瞑想と 同じ状態になる。また、例えば、愛する人を求める。愛するというのは性愛じゃないよ。本当の意味で愛する人を求める。即、その人と話ができる。これが私達 の潜在意識だ。
 だからね、潜在意識は非常に理解しやすいんだね。単純なんだ、潜在意識は、ね。したがって、データの入れ替えさえスムーズに行なえれば、きれいに透明にすることができるんだよ。
 
◎『識』から『解脱』へ
 そこで、昨日の話と結びつく。私達の魂は、いいですか、私達の真我は、三グナの干渉によってこの迷いの生に引きずり込まれたわけだったね。その中の 『識』の段階を覚えているかな? ここで真我はアストラル世界の経験をするんだったね。いいですか? ここが大切だよ。潜在意識はアストラル世界と結びついているんだ。したがって、潜在意識をいじることによってそこでの経験を無くしてしまう、つまり、そこ の段階にまで逆のぼってね、以後のプロセスを消滅させることができるわけだ。
 そのやり方としては三つあるよ。一つはそれ以上のカルマを作らないで、カルマが無くなるのをひたすら待つということ。潜在意識を通じてその『識』のプロ セスを完全に理解できるから、それが可能となるんだ、ね。二つ目は、真我に納得させることだ。真我よ、お前はこのようにして暗に深く迷い込んでしまった。 もういいかげんに気付きなさいよ、抜け出しなさいよ、とね。三つ目の方法は、真我が経験したことに対する反対の想念をインプットしてね、今までの記憶を消 してしまうことだ。
 こうして、アストラル世界での経験を消してしまうと、アストラル世界は透明になり、『識』の一つ前の段階『行』が理解できる。この『行』においてする、 コーザル世界での経験は、『三昧』によって消すことができる。当然コーザル世界は透明となり、『無明』を理解できるようになる。真我は三グナの干渉によっ て苦へ至るプロセスを歩み始めたんだ、ということを理解できるようになるんだ、ね。そのことを真我が理解する――理解すると三グナの影響を離れる、ね。こ のことがわかった以上、好き好んで苦のプロセスに入って行くわけがないからね。
 こうして、最後に残された『無明』は消滅する。この瞬間が解脱であり悟りであるんだ。そして、「私は解脱した。」という実感を得ることができる。いいですか?
 このことは今まで誰も解明していなかったんだよ。どの経典を見たって、こんなことを書いていない。今私がこれを明らかにする――これは不遜なことではないか――とさえ思っているんだよ。でもこれは皆さんに対するプレゼントだ。
 
◎『からっぽ』は仏陀の意識
 話が度々飛んでしまって申し分けない。元に戻すよ。瞑想を進めていってね、顕在意識が完全に無くなり、潜在意識だけの世界に入る、ね。潜在意識で瞑想を始めると、初めのうちは眠った状態、あるいは眠りに近い状態だ。思考の力が働かない。いいか?
 ところが功徳、あるいは六つの極限の実践によって、その眠りに近い状態でありながら、思考することができるようになってくるんだよ。そうしたら、更に一つ一つに精神集中をすることが必要となってくる。それによって潜在意識を透明にしていくんだ。
 さっきは、潜在意識と『識』→『行』→『無明』を逆のぼっていくプロセスと結びつけて説明したね。今度は、潜在意識だけにしぼるよ。いいですか?
 潜在意識の働きを、すべてストップしてしまった段階で、その人は仏陀となる――一言で言えばこうだ。仏陀とは目覚めた人なんだ。そこはからっぽです。 じゃあ、何がからっぽなんだ? 一切の情報がね、整理されて完全な状態、観念が無い状態――これを私はからっぽという言葉で表わしたんだ。まあ、これはここまで到達した私の実感から出た 言葉なんだがね。
 
◎最高の修行法はこれだ!
 このことからもわかるように、私達の瞑想のポイントは『いかにして潜在意識にアプローチするか』なんだ。
 オウムでは、その効果的な方法としてね、布施・持戒・忍辱・精進の四つの極限的修行を提唱しているよ。しかし、これはね、なかなか皆さんが実践できるも のじゃない。だから、別の方向でもアプローチできる方法を考えている。まず、アーサナをやって座法を安定させなさい、と。プラーナーヤーマをやって気をコ ントロールしてね、潜在意識に入り易い状態を作りなさい、とね。そしてムドラーを行なうことによって、完全に潜在意識に入りなさい、と。潜在意識に入った 段階で内側のものを落としてしまいなさい――とね、これがオウムの修行だ。
 おそらく地獄から始まって天界まで至る欲六界、色界、無色界を通してだ、オウム以上の修行を考えることはできないだろう。オウムの修行法以外の修行はあり得ないと考えた方がいいだろうね。
 もう少しつっ込んでオウムの修行について説明しておこう。あなた方に大変関係してくるからね。
 ムドラーで潜在意識に入れるようになった、と。そこまで進むことができたら、ね、私はあなた方に秘伝的な瞑想法を伝授するだろう。その秘伝的な瞑想法と は、グル・ヨーガやツァンダリーなどだ。これによって、あなた方は潜在意識を変えていく。どのように変えていくか、というと、大乗の仏陀となる為の心を潜 在意識に植えつけるんだ。
 すると大乗の仏陀となることを潜在意識が欲する。したがって、顕在意識は六つの極限の修行、四無量心、救済などに打ち込むようになる。このことによって、修行の進歩が早まる上に、カルマもどんどん落ちていくんだよ。
 でもね、中にはこれをクリアーできない人もいるんだ。どういう人がクリアーできないのかというと、エゴの強い人だ。例えば、自分の為にこの世があると考えている人、物欲が強い人、生存欲が強い人だ。
 こういうエゴの強い人にとって、大乗の仏陀の心はギャップがありすぎ、異質なものなんだね。だからスムーズに受け入れられない。無理して受け入れようとしても混乱してしまうだけなんだ。反対に、そういう心の基盤のようなものを持っている人は何も問題が起きないんだね。
 
◎一瞬にして苦を滅する解脱者
 ねえ、解脱した人、悟った人には“苦”はあると思うか? 無いと思うか? あなた方はこれについてどう考えるだろうね。たぶん、絶対幸福、絶対自由の状態にあるのだから苦を感じることなど無いと思うだろう。しかし、本当は苦があ るんだよ。この世に肉体を置いている限り、苦から離れられないんだ。苦はあるんだけれども、その処理の仕方を知っている。実際に、速やかに処理して苦を消 滅させてしまうことができる――これが解脱者であり悟った人なんだよ。
 苦の原因はね、私達の感覚器官を通して顕在意識に入ってくる。普通の人間の場合はだね、顕在意識に入った苦の原因となる情報が潜在意識に入って根づいて しまうんだ。これは最悪だよ。一旦潜在意識に根づくと、容易に取り去ることができない。しかも、潜在意識に根づいた情報がだ、その人の行動に対して、ある いは思考に対して悪影響を及ぼしだす。そしてますます苦を感じるようになる。いや、この時から本当の苦が始まると言った方が良いのかもしれない。
 これに対して解脱者は、苦の原因が顕在意識に入った段階で消滅させてしまえるんだ。瞑想によって逆の想念をちょっと入れるだけで消滅してしまう。だから とっても楽だ。だから絶対自由・絶対幸福と言えるんだよ、ね。潜在意識に根づくような、本当の苦の発生はもちろんないしね。
 
■第五話 その2 苦の滅尽を知りなさい
◎苦の根本『無明』を滅せ
 話かわって阿含経のことに移ろう。阿含経は仏典の一つだよ。その中にこう書かれている。
――この人生というものは一切が苦です、とね。何ゆえに苦が生じたのでしょうか? それは、私達の無明が根本的な原因です。無明とは、真実を理解していないということです。
 例えば、愛着。愛着の根というのは大変おいしい。私達を喜ばせてくれます。しかし、これは真実ではありません。瞋りというものは、私達を守ってくれま す。私達のエゴを満足させてくれます。しかし、これは真実ではありません。ウソをついても、その時逃れられればとても楽です。しかし、これは真実ではあり ません。愛欲が生じた時、誰でもいいからセックスしてしまう。その愛欲は一時的におさまることでしょう。しかし、それは真実ではありません。――
 数えあげたらキリがないくらいの真実でないものがある。そして、それを言い換えると無明だと言っているんだよ。この無明あるがゆえに、私達は苦しんでいるんだと釈迦牟尼如来は言っているんだ。真実の程は、あなた方が体験してくださいよ。
 じゃあ、その無明を滅するにはどうしたらよろしいかとね。釈迦牟尼如来はこう言っていらっしゃる。
――まず、この世の苦を知りなさい。一切この世は苦であることを知りなさい。――
――苦というものは、私達が生きている限り、粗雑な肉体、微細な肉体を持つ限り、起き上がってくるものですよ。――
と言っていらっしゃる。いい言葉だねえ、起き上がるというのは、ね。ふだんは眠っているわけだ、苦はね。しかし、私達が歩いていて、つまり生きていて、けつまずくと起き上がるわけだ。それを苦の生起と言っている。そして、
――苦の滅尽を知りなさい。――
と言っていらっしゃる。じゃ、その方法は何か、というと、ここで登場するのが八正道なんだね。
 しかしねえ、これは在家の修行者では無理だ。この日本の環境では無理だ。でも、あなた方の中で挑戦してみたいという人がいるかもしれないから、一応説いておくよ。いいかな?
◎時代錯誤――八正道
 今まで、多くの宗教家が八正道について説いた。そして、これは実践できるものだと言っている。
 しかし、私はこう思うんだ。ある程度実践できるかもしれないけれど、これは正確にやることは不可能だ、とね。それは今から説く八正道の正確な意味合いを考えたらわかるはずだ。
▽正見
 まず、第一に正見だ。正しく見る。メモする人はしてもかまわないよ。この正しく見るというのは何か? これは、すべてのものを縁起の法によって見なさいよ、すべては苦なんですよ、ということだ。
 しかし、私達は日本という一つの社会の中で生きているんだよ。生きる為にはお金も稼がなきゃならない。食べていかなきゃならない。あるいは、家庭生活を 営んでいる人はね、妻や子を慈しまなければならない。そうなると、ここですでに正見は不可能と見なければならないんじゃないかな? だって、そうだろう? 俗世を離れた出家行者だったらいざ知らず、私達は、俗世にどっぷりとつかっているんだから。俗世はすなわち錯覚の世界、誤った世界なんだ。その中にいて、 いくら目を凝らしても無駄だと思うよ。
 まあ、八正道を説くと言ったんだから、一応苦の生起に触れておこう。苦というものは十二縁起の法によって生起しているんだよ、正見によってそのことに気付きなさいよ、と八正道は言っている。十二縁起の法については前にも説明したけどね、ここでざっと復習するよ。
 独存の状態にあった真我は、三グナの干渉によって錯覚を起こし、間違ったプロセスを歩み始めた。そして、コーザル世界、アストラル世界を経験した後、苦 界に生まれ出て苦を味わうと、ね。そして愛着しとらわれて生まれ変わっては一層苦を増大させている、と、これが縁起の法だったね。
▽正思惟
 そして、縁起の法の一つ一つのプロセスを正確に理解する修行、これが正思惟だ。どういう修行かというと、まず、一般的なものや、あなた方のまわりの事情を分析しなさいよ、それが正見につながるかどうか分析しなさいよ、と言っている。
 そして、次はあなた方の行為、物の考え方を分析しなさいよ、と言っている。これが正思惟だ。これはできるかもしれない。しかし、この正思惟へと進む前提条件が正見だから、正見ができなかったらこの正思惟もダメだということになるね。
▽正語
 次は正語。これは以外とやさしい。真実のみを語りなさいよ、とね。やさしい言葉を使いなさいよ、とね。
▽正業
 そして正業。これは日々の生き方についてだ。一日一日を大切にして努め励めよ、と釈迦牟尼は言っていらっしゃる。しかし、これじゃ漠然としすぎているね。実は、これは仏道修行について言っているんだよ。修行以外はやるなというに等しい。しかし、これも不可能だろうね。
 強いてあなた方在家の修行者に当てはめたら、こういうことだろう。仕事は仕方ない。家庭生活の楽しみは最小限に押さえて修行しなさいよ。アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラー、あるいはグル・ヨーガ、ツァンダリーの瞑想、これらを一生懸命やりなさいよ、とね。
 なぜなら、人というものはいつ死ぬかわからないんだからね。明日死ぬかもしれない。あさって死ぬかもしれない、ね。しかも、死んだって来世の保証はないんだよ。来世での幸せを願うんだったら、一日一日を大切にして努め励めよ、と。こうなるだろう。
▽正命
 正業が日々の生活のことを言っているのに対し、こちらはライフ・ワークだ。一生を通じて真の解脱、真の悟りに目覚めるような生き方をしなさいよ、と言っ ていらっしゃる。これは出家を意味している。しかしね、これもなかなか難しいよ。私達は働かなきゃなんないんだよ。家庭生活も営まなければなんないんだ よ。子供をほうっておいたら不良化するだろうよ。親をほうっておいたら悲しませることになるだろうよ。
 しかし、釈迦牟尼は「そういうことはどうでもいい。出家し解脱を目差し励みなさい。一切の執着の根を断って、ただひたすら解脱にまい進しなさい。」と言っていらっしゃる。これが正命だ。
▽正念
 次は正念ね。これは何か? これはね、出家というものは非常に辛かろう。しかし、それにまず耐えて、自分自身に精神集中し、悟りの思いを絶えず持ち続けなさいよ、ということだ。これを正念と言っている。これは心のプロセスだ。
▽正精進
 正精進が実際のアクションだ。例え雨が降ったとしても、このマニプーラ・チャクラの下までしか水が溜まらなければ、瞑想をし続けなさい、とかね。ただひ たすら瞑想修行に打ち込みなさいよ。ただひたすら正法の流布を実践しなさいよ、といろいろな規定、これが正精進だ。正念と正精進は順番が逆でも差し支えは ないよ。
▽正定
 最後に正定だ、ね。正定というのは何かというと、正しい瞑想という意味なんだよ。正しい瞑想というのはね、私が先程言ったように、一切の潜在意識を止滅 させる瞑想だ。『死ね』の『死』じゃないよ。『止める』の『止』ね。止めてその根を焼き払ってしまう。この修行を全力でやりなさい、と。これが正定だ。
 正見・正思惟・正語・正業・正命・正念・正精進・正定、この八つだ。この八つの実践を八正道と言っている。さあ、この日本の社会においてだ、私達が八正道を実践することができるか? できないね、当然。
◎大乗仏教誕生
 さて、釈迦牟尼如来が入滅され、その高弟達が亡くなられたあとね、みんな怠慢になった、ね。仏教の弟子達は怠慢になったんだよ、アホだから。なぜ怠慢になったかわかるか?
 釈迦牟尼と高弟達はね、素晴らしいスーパー・パワーを持っていらっしゃったんだ。そして、ひたすら修行をし、真理を知っていらっしゃった。それほどに高レベルの人達だったから多くの信者を持っていた。
 その為、それ以外の仏教の修行者も、仏教の名に支えられて食べ物に困らなかった。寝泊りに困ることもなかった。信じられていたからね。そして、まだ修行 中で力も無いというのにね、ぬるま湯につかったような生活を味わっちゃったんだ。だから、本格的に修行をしたことのない怠慢な彼らは、釈迦牟尼の入滅後、 ただ教えしか述べることができなくなっちゃったね。「私はかように聞いた。ある時世尊(釈迦牟尼)は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディ カの園にましました……」とね。単に教えしか話すことができなくなっちゃったんだ。
 一方、ヨーガの源流であるバラモン教はだよ、仏教が広まった時、その勢いにおされてすたれてしまった。しかし、バラモン達は「これではいけない。」ということで昔からあった古いタイプのヨーガを改良し、それを武器として仏教に対抗したんだ。
 時代は移り、仏教は今言ったように堕落した。それとは逆に、バラモン教から発達したヨーガは力を持つようになった。だから、「ヨーギ(ヨーガ行者)の方が力がある。私達を高い世界に連れて行ってくれる。」と感じた信者達は、仏教を見捨てだした。僧を見捨てだした、ね。
 今度困ったのは、仏教の僧達だ。これじゃ生きていけないものね。そこで、一部の非常に優秀な僧達は、それこそ一生懸命に修行をしたわけだよ。そして、信者達の要求をどうしたら受け入れることができるか考えたわけだ。そうして、最終的に大乗仏教が誕生する。
◎君には六つの極限しかない
 大乗仏教には、八正道が無い。七科三十七道品も無い。しかし、大乗仏教が劣っているとは言えない。なぜなら、六波羅蜜があるのだから。これが、私がいつ も言っている六つの極限の修行だ。この六つの極限の修行の偉大な点は、在家の人達でも解脱できるプロセスが含まれていることだ。これは、出家できない、特 に日本の社会にあって解脱を望む人達にとって、ぴったりの修行法だと言えるだろうね。
 中には初心者もいらっしゃるようだから、もう一度ここで六つの極限について触れておこうと思う。
▽布施
 まず布施だ。ここで皆こう考えるかもしれない。「どの宗教も布施のことを言うよ。あれは金を集める為の手段じゃないか。」と。まあ、そう思って金を集め ているところもあるかもしれないよ。しかし、布施の本質的な意味は、物質的なものにこだわらない。あるいは心の安らぎにこだわらない。あるいは間違った観 念にこだわらない。これが布施の原理なんだよ、ね。
 凡夫というものは、物に対するこだわり、自己の安定に対するこだわり、あるいは観念に対するこだわりがあるわけだ。だからそこで布施の実践が必要なんだよね、こだわりを消していく為に。
 だから、例えば全財産を布施できる人、自分が苦しいのに他人に安らぎを与えてあげようと手を差し延べられる人、真理の法を理解して他に真理を説ける人は、別に布施の実践をしなくてもこだわりがないので大丈夫だということになる。
▽持戒
 これはグルがね、「これはやってはいけないよ。これを無くしなさいよ。」と言ったことに対して、いつもハイハイと二つ返事ですべてを実行できる人、この 人はもう持戒を守る必要はないよ。しかし凡夫は、それを守ることができないから、この修行があるんだ。また、エゴによって、自分の欲求によって、いろんな ことを求めるから、ね。それを押さえ込む為に持戒があるんだよ。いいですか?
▽忍辱
 そして三番目の忍辱だ。これも、例え身体がちぎれようがね、例え血を吐こうが、たとえ死のうがだ、自己の極限に絶えず挑戦している人、この人はもう忍辱波羅蜜を実践する必要はないんだね。これも当たり前のことだよね。
 しかし、私達の意志の力は大変弱いから、そこで忍辱波羅蜜の実践が、忍辱の実践が必要となった、ね。
▽精進
 最後に精進だ。世事のことと修行とを比較して、絶えず修行の方をとっている人にとってだ、精進波羅蜜というのは必要ではないんだ。しかし、凡夫は修行よりも世事のこと、快楽、こんなものを求める。だから精進波羅蜜が大切なんだよ、ね。極限の修行が必要なんだよ、ね。
 ほら、ここでは在家を否定してないよ。どこに一切を苦しみなさいと言っているか? どこに愛着を捨てなさいと言っているか? 持戒はパタンジャリのヨーガスートラを見てごらん。初めに、やってはいけないこととやらなければならないことが書いてあるじゃないか。
 忍辱波羅蜜は意志の強化だよ。ラージャ・ヨーガのプロセスと同じだ。そして修行に入りなさいよ。これが精進だ。六波羅蜜では精進の次に瞑想の極限、そして最後にすべてを知る極限がくる。これはヨーガでは精神集中・瞑想・三昧のプロセスと一致している。
 このような一致は、仏教とヨーガが歴史上競い合って、互いに良い影響を及ぼしたということだろうね。それだけじゃなく、同じ真理に至る道だから同じになったということもあるだろうね。
◎確信を持て
 八正道、七科三十七道品は素晴らしい修行法である、と私は思っている。しかし、現代では使えない。使えるわけがないんだよ。例えば八正道の正見。それは 私達日本人にとって、正見のマニュアルが無いんだ。真理の見方については、私しか示すことができないだろう。また、この錯覚の世の中にあり、しかも真我が いまだに暗に落ち込んでいっている人にとっては、苦を感じることはできないだろう。楽しいことだって一杯あると思ってしまうだろう。正しく見ることなどと てもおぼつかない。
 マニュアルが無い。正見の実践は自分だけでは不可能だ、となったら、もうすでに八正道の第一プロセスで引っかかってしまったことになる。
 だからこそ、オウムでは私達にぴったりの、独自の修行システムを作っているんだよ。必ず悟る、解脱するというね、それだけのシステムがオウムにはあるんだ。だから皆さんは確信を持って修行してほしい。
 
 
■第六話 予言と救済
 
◎確実に核戦争だ!
 これから先世界がどうなるか、私達は一体どんな生き方をしたらいいか――ということについて話したいと思う。
 まず、これから日本が辿る道に目を向けてみようか。日本は今まで豊かな生活をしてきたね。それは、戦中・戦後しばらくの間の苦しい生活がもたらしたもの だ。苦しい生活がもたらしたというのは、日本人が苦しい生活をすることによって功徳を積んだ。その積んだ功徳によって豊かな生活を得たという意味だよ。
 しかし、功徳によって得た豊かな生活も、ただ単にそれを亨受していたら今度は功徳を磨り減らすという結果を招いてしまう。人間というものは、このことに なかなか気付かないものだ。気付かぬままに、この大切な功徳を失ってしまったら、どんな事態が待ち受けているのだろうか。本当に大変なことになるよ。
 これは私の予言だよ。日本は、アメリカ・ヨーロッパとのね、経済摩擦をきっかけとして、少しずつ少しずつじり貧の生活に入っていくだろう。いいですか。 その本当の口火が切られるのは一九九〇年だ。そしてもしだよ、一九九三年までにオウムがね、世界に、世界各国に少なくとも一つないし二つの支部を持ってい たら……私が今から話す予言は外れることになるだろう。
 しかし、もし一九九三年までに、本当のボーディサットヴァ(大乗の仏陀になる為に修行している人)が集まって、世界各国に二つ以上の支部ができなかった らどうなるか。九三年に再軍備だよ。いいですか。そして、一九九九年から二〇〇三年までに確実に核戦争が起きる。ね、私麻原は初めて核戦争について触れた よ。私達に残されている時代は、あとわずかに十五年くらいしかないんだよ。
 
◎世界へ羽ばたけ
 でもね、その頃にはきっと各国に支部を持っているだろうね。そして支部のリーダーには、きちんとヨーガを成就している、少なくとも仏教の悟りを開いてい る人がなっているだろうね。オウムの会員の皆さんは、非常に真面目で真剣だから、きっとそうなっていると思うよ。そうなることが、私の願いでもあるよ。
 なぜかというとね、もしそれがなされるならば、核戦争を回避することが可能だからだ。じゃあ、なぜ核戦争を回避できるんだとね、皆さんは思われるかも知れない。それはこういう理論なんだ。
 各国の支部のリーダー達がね、成就者であったら、これは仏陀(目覚めた人)だ。釈迦牟尼如来が多くの人々に敬愛されたのと同様に、その国の人々に敬愛されていることは想像するに難くない。
 その国の人々は知りたがるだろう。「仏陀達の根本はどこですか、仏陀達の根元的エネルギーを発しているところはどこですか。」、とね。「それは日本です よ、オウムですよ。」私達は彼らに伝えることができる。「オウムは、戦争を否定します。殺生を否定します。メンバーは真理しか語りません。真実の生活しか しません。」オウムの心は外国の人々にも必ずや伝わるだろう。いいですか。そうなったとき、日本はだ、外国からの攻撃は受けないようになるだろうね。それ はそうだろう。自分達の魂の根源、魂の根源的城がだよ、日本にあるとしたら、それを誰が攻めることができようか。その国の二割でも三割でもオウムの信者が いたら、日本との戦争は避けるだけのパワーがあるだろう。それは確かだよ。
 さて、このような理由から、オウムの教えを世界に広めていかなければならない。支部を各国に作っていかなければならない。アメリカ――、最初にアメリカ 合衆国に支部を持とうよ。アメリカという国は、何でもそうだが、非常に流行するのが速い。それは日本でのスピードとの比ではないよ。もし、成就者が出て、 あるいは成就できなくとも成就に近い人間がね、「オウムの教えとはこういうものだ。」とね、「真理の宗教、その根本となすものはオウムの教えですよ。」 と、それを普及したならば同じように闘争は無くなるだろう。アメリカの次はヨーロッパ。最後に私達は、仏教やあるいはヨーガの発祥の地であるヒマラヤに道 場を持とうよ、ね。――そして、ひととおり私の仕事は終わる――。
 いいですか。もし九三年までにオウムがだよ、シヴァ神の意思を理解し実行し、役割を果たすことができたならだ。確実に戦争回避はできる、ね。そして、逆にだ。シヴァ神の意思をわからないで、理解できないでだ、自分達のことだけを考えていたなら回避は不可能だろう。
 
◎最期の救済メソッド
 ところで、私達は次のようなことも考えていかなければならない。現代はいくら個人に力があったとしても、ね、このシステム的に動いている社会を、どうこ うすることはできないよ。そうでしょ? だから、オウム自体もシステム的に動かなきゃならない。そして、その中でもとりわけ大切なのは、「私は解脱をしたいんだ。私は悟りたいんだ。」と願う人 に、その場所を提供できるようなね、そういう組織にしていくことじゃないかな。これは私ひとりの力じゃどうしようもない。皆さんの力が必要なんだ。皆さん の協力が必要なんだよ。そして、私達が救われる道も、この方法しか残っていないんだよ。私の見ているヴィジョン、直感智、それから私のジュニアーナ・ヨー ガによる推理智を総合するとね。
 
◎真理の道場『地球』を守れ
 もちろん、いくら一九九九年、二〇〇一年、二〇〇三年にだ、第三次世界大戦と言われる大きな戦争が起きたとしてもだ、それまでに成就していればその人に とっては大したことではないよ。「何かピカッと光った。さあ、私はクリアーライトに入ろう」とね。肉体はそのとき捨ててしまえばいいからね。しかしだよ。 自分のまわりの人達が苦しみもがいているときにだ、「あなた方は修行しなかったから仕方ないよ。私は修行し成就しているから、私だけ楽な世界に入ります よ。」と、そういうことができるか? ま、そんなことできないよね。考えられないよね。だったら、そういう事態、第三次世界大戦を回避するようにしなくては!
 私はインドに四回行った。そして、いろんな聖者に会ってきたが、誰ひとりとして回避する道を歩いている人はいなかった。例えばね、あのチベット仏教です らそうだった。精神世界に固執し、自分達の国が滅亡しているということをね、意識しすぎて真実の道を踏みはずしているように私には見えた。
 私達に国は無いんだよ。もともと国は無いんだよ。確かに今、欲六界のうちの人間界に生まれているよ、私達は。でも、これから先いつ虫ケラに生まれ変わる かも知れない。いつ地獄の住人に生まれ変わるかも知れない。ね、それを考えたら私達に国は必要ではない。いいですか。エゴを全うするような国は必要ないん だ。
 じゃ何が必要だ? それは私達がこれから先にね、何度でも再生して真実の道を歩ける、そういうスペースが必要なんだよ。空間が――。
 それは日本でもなければアメリカでもない。ヨーロッパでもないよ。地球全体がそうなんだよ。したがって、地球を守らなければならないんだよ、私達は。
 
◎あなたも救済者
 今、チベットの僧の中には、インドの兵隊に精神的な教育を行なっている人もいる。「もしあなた方が国を守らなければ、あなた方は戦争に負けてしまいます よ。あなた方の身内も苦しめられますよ。」とね。私はこの話を修行中の若い僧から聞いたときにはびっくりしたね。だってそうでしょ。そんなこと釈迦牟尼如 来は言っていないよ。他の成就した聖者達も、誰ひとりとして言っていないよ。
 しかしだ、私達の最後の砦の一つである、チベット仏教の僧達は、軍隊の教育という職業に就いたら、そう言わなければならない。そんな環境、条件下で生活しているんだよ。
 じゃあね、誰が自由に発言できるんだ? 誰が自由に生きることができるんだ? それは私達なんだよ。今の日本こそ、自由に発言し、表現できる国はないよ。
 おそらく、この中の多くの人は過去世において多大な修行をし、その功徳によって日本に生まれてきたのだろう。救済の一端を担う為に生まれてきたのだろう――そう私は考えている。
 私はまだインドと中国しか知らないけど、確かにみんなのんびりしているよ。中国ものんびりしていた。インドものんびりしている。しかしね、彼らは確かに 自由ではあるけれども、私に言わせるとそれは動物的自由に近い。私達日本人もエコノミック・アニマルと言われているけれどね、しかし、精神的に自由になる こともできるよね。そうだろう?
 まあ、その為にはもっともっとシステム化された、大きな組織が必要なんだけれど。例えば、あなた方が心の自由を欲したとき、一カ月でも二カ月でも瞑想修 行をし、悟ることのできる組織がね。この修行をヘルプする組織を作るには、あなた方の協力が必要なんだよ。さっきも言ったようにね。
 
◎真理を広めよ
 私達は今修行をしている。だから、いかなる事態に陥っても最終的にはクリアーライトという逃げ道がある。クリアーライトというのは、要するに意識をアス トラル・ボディーに移し変えてね、アストラル世界に逃げてしまうということだ。そうすれば、いくら核兵器が使われたとしても、私達の肉体は滅びるがアスト ラル・ボディーは滅びない。またこの世に生まれてきたかったら、新しい肉体を持って再生すれば良い。成就者だったらそれができるんだ。その時地球が荒廃 し、手がつけられない状態だったら、他の惑星に生まれればいいよ。
 でもねえ、話を元に戻すよ。他の人々が焼かれ苦しんでいるときに、見て見ぬふりはできないよね。自分達だけが幸福だったらいいなんて、思えはしないよね。
 だから、私はあなた方にこう言いたいんだよ。あなた方が仏陀になりなさいよ。そうして、あなた方がきちんと私の教え――いや言い方を変えよう、宇宙の真 理だ――真理を説いて、もっと多くの仏陀を誕生させなさい。そして、世界的にオウムの修行システムを広めてね、仏陀を点在させなさい、とね。そうなった ら、一切の戦いは無くなるはずだ。
 
◎完壁な修行体系
 じゃあ、なぜ戦いが無くなるはずだと言えるのか。一つは前にも述べたように、各国に信者が存在すれば、日本が攻撃されることは無くなるということ。しか し、それだけじゃない。真の教えを信じる人々が多い国だったら、その国内でも争いは無くなるだろう。そして、対外的にも争いを避けるだろう。このような国 が多くなればなる程、地球は平和で安全だ。したがって、一切の戦いは無くなるはずだ、とね、私は言い切ることができるよ。
 そして、それを可能とすることのできる宗教的な組織と言ったらね、オウムしかない。それはね、オウムには素晴らしい修行体系があるからだよ。あなた方が 悟る為の、解脱する為の修行体系は完璧だ。もし、これが世界に広まったならば、確実に第三次世界大戦を防ぐことができる。これは私が約束しよう。
 これからのオウムの動きはわかったね。いよいよ組織的になっていくだろう。
 しかしだよ。組織的になっていくからと言って、皆さんひとりひとりの意見をね、無視して進めるつもりはない。逆に、今からはより一層、皆さんの意見あるいはアドバイスを聞いていきたいと思っている。それらは、どしどしオウムに寄せていただきたい。
 
◎続出する成就者
 来年の十二月いっぱいをもってね、私のシャクティーパットは終わるだろう。それは、私は他にやらなければならないことがあるからだ。
 じゃあ、会員の皆さんはそれ以降シャクティーパットを受けられないのかと言ったらそうではない。私は必ず皆さんが認めることのできる仏陀というものをね、作っていくよ。そうすれば、会員の皆さんは私以外の仏陀から、シャクティーパットを受けることができるわけだ。
 まず、ケイマを独房修行に入れる。そして、彼女が成就するまで外に出さないつもりだ。次はNという具合にね、やっていくつもりだよ。まあ今年中はせいぜい二人か三人だね。しかし、これはネズミ算的に増えていくはずだから、シャクティーパットについては安心してほしい。
 
◎これからの三年間
 一九八七年、つまり今年から一九九〇年の三年間に起きることを簡単に話しておこう。
 まず、日本における選挙だが、これは非常に波があるだろう。波があるというのは、例えば、自民党が大勝したり、逆に大敗したりということだ。大敗というのは二百議席すれすれを意味する。衆議員は特に波の激しい選挙になるだろう。
 人々は、より一層現実主義にね、移行していくだろう。そして、私達を操っているマスコミはだ、いいですか、私達に食欲、性欲、それからスポーツというね、三つの享楽しか与えなくなるだろう。別の言い方をすれば、精神的な面を徐々に制約していく、ということだよ。
 次に――いいですか、良く聞いておいてくださいよ――、政治的な面だが、国家の力・警察の力が増大していくだろう。日本の国民は徐々に徐々に、同じような物の考え方に統一されていくだろう。
 それからね、冬と夏の区別がつきづらくなってくるだろうね。例えば四月五月になろうとしているのに急に冷えたり、あるいは十二月になってぽかぽか陽気になったりといった現象が起きてくるだろう。
 また、円高は一層進むだろうね。私は百円を切ると考えています。それから、一九九一年から二年くらいの間に、農作物の輸入自由化が行なわれるだろうね。政治的には右傾化してくるはずだ。一九九三年には再軍備だ。
 まあ、小さいこともいろいろあるが、今日はこのくらいにしておこうか。
 
■第七話 タントライニシエーションの全貌
 
◎秘伝の伝授――イニシエーション
 タントラのイニシエーション、それと修行法についてお話ししたいと思う。イニシエーションとは、一言で言えば秘伝の伝授だ。グルが弟子に教え、霊的なエ ネルギー、経験を授ける儀式なんだよ。したがって、イニシエーションが行なわれて初めてそのレベルの修行がスタートするんだ。大変重要な儀式だと言える ね。
 イニシエーションはね、大きく分けて四段階あるんだよ。第一イニシエーションから、第四イニシエーションまでね。では、第一イニシエーションから順に説明していくよ。いいですか。
 
◎第一イニシエーション
 これは、チベット語では『プモワン』と呼ばれているイニシエーションだ。これはタントラの入門の儀式なんだね。言い換えれば、五仏になる為の参入の儀式だよ。
 しかし、タントラでは入門と言ってもね、ここに来るまでには大変な修行が必要なんだ。その大変な修行というのはね、布施の極限、持戒の極限、耐えて意志 を強める極限、精進の極限の四つの修行だ。この四つの修行の基礎ができて初めてタントラという、一層高度な修行へ入っていくというわけなんだよ。
 ただ、皆さんに言っておきたいことはね、――まあ、いつも言っているんだけど――このタントラの基礎となる修行は自分でやってくださいよ、ということ だ。私が皆さんに教えるには、時間的制約がある。しかし、私はその限られた時間の中で、最高の修行法を教えたいと思っている。だから、基礎的なことは自分 でやっておいてほしい。ね、いいですか。わからないことは、指導員に聞いてね。それを前提として話を進めるよ。言い忘れたが、基礎的修行によってタントラ に必要な、長時間精神集中する力を得るんだよ。だから、基礎がしっかりしていないと、次の修行が成り立たない――とこうなるんだね。
 さて、話は『プモワン』、すなわち第一イニシエーションに戻るよ。このイニシエーションの儀式ね、これは各派によって多少の違いがあるんだ。ここでは、ゲールク派のイニシエーションを例に取って説明しようと思う。
 第一イニシエーションの中には六段階あるんだ。一番最初は『水のイニシエーション』だよ。ここでタントラの修行者としての参入が認められるわけだ。このとき、修行者はグルから水と修行法を授かるんだよ。
 その次は『王冠のイニシエーション』だ。ここではね、王冠とラトナサンバヴァ(宝生如来)になる為の修行法が授けられる。
 三番目は『ヴァジラのイニシエーション』。ヴァジラとは、仏陀の心を表わすものだ。日本語では金剛と言っている。このイニシエーションは、グルからこのヴァジラとアミターバ(阿弥陀如来)となる為の修行法を授けられるというわけなんだね。
 さて、四番目へ行くよ。四番目は『ヴァジラベルのイニシエーション』だよ。ここではヴァジラベルとともにアモガシッディ(不空成就如来)となる為の修行法が伝授される。
 次のイニシエーションでは、タントラの修行者としての名前とヴァイローチャナ(大日如来)になる為の修行法。そして最後が、アクショブヤ(阿しゅく【もんがまえに“人”が三つ】如来)になる為の修行法だ。
 今述べてきたのが、チベット仏教でのイニシエーションだよ。私の、つまりオウムのやり方は、若干違っているので、そのことに触れて第一イニシエーションを終わりにしたいと思っている。
 私のやり方っていうのはね、私が過去世で修行を進めてきたそのプロセスをあてはめているんだ。私は過去世でもタントラの修行者だったんだよ。そして、成 就することができた。そういう過去世での経験があるからこそ、今生でも若くして成就することができたんだね。皆さんは、私という指導者がいるから、私の教 える修行に励めば最後まで行くこともできるだろう。つまりね、タントラの仏陀になれるだろうということね。
 しかし、今生での私にはグルがいなかった。過去世の記憶を頼りに修行したんだよ、私の場合は、ね。そして、どうしても行きづまってしまったときは、シヴァ神が示唆を与えて下さったんだけれどもね。
 私は皆さんにはね、自分が辿ったのと同じプロセスにのっとったイニシエーションを与えたいと思っているんだよ。いいですか。すでに、一定のレベルに達し た人にはイニシエーションを与えているよ。だから、これについては知っている人もいるだろう。では、私が授けるイニシエーションとはどういうものか、説明 していくことにしようね。
 まず、第一イニシエーションのその1は『参入の儀式』であって、チベット仏教と同じだから省くことにしよう。そして、その2~その6までが、五仏になる為の修行法だ。ここでは、チベット仏教と順序が違うよ。いいかな。
 
◎第一イニシエーション その2
 この二番目のイニシエーションではね、ヴァジラとともにアクショブヤになる修行法を伝授するんだよ。この修行法をクリアーするとだ、功徳による修行上のゆるぎない基礎ができるんだ。
 
◎第一イニシエーション その3
 次に私は、神秘刀とともにラトナサンバヴァになる為の修行法を伝授する。これによって、一切の雑念を振り払い、強靭な意志の力を作ることができるんだよ。
 
◎第一イニシエーション その4
 次は、アミターバになる為の修行だ。このとき与えるのはヴァジラベル【-だ】。そしてね、正確な識別智というものを得ることができるんだ。これによって だよ、正確な識別智を得て衆生を法によって救済するんだ。ここでのポイントはね、ヴァジラベルの音色をこう観想するんだ。その音が識別智によって発する仏 陀の声、だとね。
 
◎第一イニシエーション その5
 第一イニシエーションのその5ともなると、三次元的に使えるシッディが身につく。シッディとは超能力のことだよ。そして、三次元的というのは、この世で ――という意味なんだ。だって、この段階では、まだアストラル・ボディーを持ってはいないのだからね。ここで伝授されるのは、アモガシッディになる為の修 行法とね、経典だ。この経典は普通の仏教の経典とは全く違うよ。この私が、アストラル世界から持ち帰った教えが書かれている。したがって、私からイニシ エーションを受ける人以外、知ることはできないんだよ。ね、早くこのイニシエーションの段階まできなさいよ。そうしたら、どういう内容かわかるからね。
 
◎第一イニシエーション その6
 いよいよ第一イニシエーションの最終段階にまでやってきた。これはヴァイローチャナになる為の修行法だよ。このときグルは、グルが異性と交接しているア ストラル的なイメージを与えるんだ。そのアストラル次元での精子と卵子との結合によって、あなたは自分のアストラル・ボディーを作ってもらうことができる んだよ。ここらへんまでくると、大分タントリックな様相を呈してくるね。
 
◎第二イニシエーション
 さて、第一イニシエーションはこのくらいにして、第二イニシエーションへと話を移そうかね。これはシークレット・イニシエーションと言われているんだ よ。秘密のイニシエーションという意味だよね。ここでグルが弟子に与えるものは何か――? それは白い精液と赤い血だ。しかし、まあ、ほとんどの場合、白ワインと赤ワイン、ヨーグルトとお茶などの白と赤の象徴で代用されるんだよね。そして、グル と弟子が共に高レベルのときは本物が使われるはずなんだけど、まれなことなんだ。なぜって、グルと弟子が共に高レベルのことなんて、皆無に等しいからね。 私は過去世では、本物でイニシエーションを受けたけれどね。
 血は全血管を働かせるんだよ。脳細胞も含めて、ね。精液は、グルの経験を伝える為に必要だ。人間を構成しているのは、母親から受ける経血と父親から受け る精液だったね。だから、グルの子となるタントリストがこれらを受けるのは当然のことでもあるね。経血と精液の話、まだ知らない人は私が書いた『生死を超 える』の死の瞬間の項を読んでおいてください。
 それから、つけ加えておこう。私が行なうシャクティーパットはね、この第二イニシエーション以上の伝授のときに使うものなんだよ。
 
◎第三イニシエーション
 第三イニシエーションに入ろう。このイニシエーションは、チベット語ではデワチェンボ、サンスクリット語ではマハースカと呼ばれる状態に導くんだよ。私はその状態を大楽という言葉を用いて表現しているけど、みんな同じ状態のことをいっているんだ。
 このイニシエーションではね、絵・像・言葉などによってね、ダキニのイメージを与えるんだよ。ダキニとは天女、修行者を助ける天女だ。
 そのイメージによって性的に刺激する。すると、修行者の性エネルギーは非常に強くなって上昇するんだ、ね。そのエネルギーは頭頂のブラフマランドラを刺 激して、智のエネルギーが下に降りていく。この智のエネルギーの下降は、心を浄化するんだよ。これはトゥモ(クンダリニーの覚醒)からツァンダリーまでの プロセスだ。ツァンダリーによってデワチェンボ、すなわち大楽を得ることができるんだよ。
 ところでね、話は変わるけど、チベット仏教のラマ(高僧)にロブサン・テンジンという人がいるんだ。彼は、二年前に性エネルギーを上昇させるトゥモの科 学テストをした。そのテストは、アメリカのハーバード大学で行なわれたんだけれどね。体温が通常よりも十五度も高くなったんだそうだ。それほど強いエネル ギーが上昇するんだよ。
 私は彼にインドのダラムサーラーで会ったけれど、彼は山の中で瞑想修行をしていたね。彼の天然の岩を利用して作った小さな小屋で、修行について話し合ったものだ。
 余談になるけど、この段階は女性よりも男性の方が成就しやすいんだよ。男性の方が性エネルギーが強いからね。
 また、いろいろな神秘体験をしだすのも、第三イニシエーション以後となる。それは、ツァンダリーが神秘の源だからだよ。
 
◎第四イニシエーション
 これがタントラの最終的イニシエーションとなるね。このイニシエーションでは、グルがね、弟子にプロセスを説明するんだ。神秘体験から解脱に至るまでの ね。これはとても重要なんだよ。なぜなら、間違いが起こりやすいから。例えばね、まだ成就していないのに成就したと思い込んでしまうとかね。とにかく間違 いが多いんだよ。
 よくいるんだよね。私から見たら成就していない人間が、「私は解脱した。」と公言してはばからないとかね。そういう人は、本当はここで修行に失敗したん じゃないかな。私はそう思うよ。皆さんの場合はね、私がちゃんとついているから大丈夫だよ。ちゃんと最後までいけると思うよ。やる気さえあれば、ね。
 それとね、この頃は心がとても複雑になるからね、グルはその点もふまえて説明するんだよ。心が複雑になると、突然恐怖が襲ってきたり、悲しくなってしまったりする。その影響を最小限にくい止める為にもね、グルからの説明は役に立つんだよ。
 ここではもう最後の修行だ。それは、スンジュという状態を作るものであってね、二つのレベルがあるんだよ。一つはロベスンジュ、そして、もう一つはそれより高いレベル、タントラの最高レベルであるミロベスンジュなんだ。
 
◎ロベスンジュ
 さあ、ロベスンジュの状態からお話しようかね。先の第三イニシエーションで、微細体とクリアーライトを得ているんだけれども、このことを言い忘れてし まっていた。悪かったね。とにかく第三イニシエーションの段階を成就すると、微細体とクリアーライトを持てるようになるんだよ。微細体とは、いいですか、 仏陀の体なんだ。そして、クリアーライトはね、仏陀の心と思ってもらえばいいだろう。ここまできた人は、すでにこの二つを持っているということだよ。
 しかしね、持っていると言っても、それらは別々に存在しているんだね。心と体が別々――これじゃあ当然役には立たないんだよ。そうだろう。
 そこでだよ、微細体にクリアーライトを移し変えることが必要なんだね。この移し変えの技法をポアというんだけれどね、この修行には長くかかると言われているんだよ。
 さて、ポアに成功したとしたらどうなるかな。まず、カルマの影響を受けなくなるね。しかし、心が微細体に移った為にカルマの影響を受けないだけであっ て、カルマが消えてしまったわけではない。このカルマを消してしまわないと、再び生まれ変わってしまうんだからね、そうならない為にはカルマを消滅させな ければならないよね。そこで、次のミロベスンジュの修行が必要となってくる。
 ところで、ポアによって心を持った微細体が活動を開始するとね、この微細体によってその人は高度な神秘体験をしだすんだよ。
 
◎ミロベスンジュ
 最後の最後の段階、これがミロベスンジュだ。これは、残っているカルマを消滅させていく段階でね、カルマを落とし切ってしまったら、もうあなたはグヤサマジャなんだよ。グヤサマジャというのが、タントラの仏陀だ。ここに全てが成就――ということになる。
 こうやってね、イニシエーションのこの長い道のりを聞くとね、大変だと思うだろう。でも、それは決して不可能ではないんだよ。いいですか。そもそも、タ ントラというのはね、一つの生で成就する為の修行法をもっているんだよ。特に、私が教える修行法は、不必要なものを一切省いてあるんだ。効果的なんだ。だ から頑張って消化してくださいよ。そして今生でグヤサマジャとなってくださいよ。

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