渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

敷石

2023年04月07日 | open


友人の安田南と旦那だった友人M
に捧げる私の曲。2002年のステー
ジから。
南のおかげで唯一食えなかった
セロリを俺は食えるようになった。
南は男自堕落からは想像できない
程に料理が上手かった。
亭主のMは俺の二輪の走行理論の
師匠だ。雄造さんを紹介して引き
合わせてくれたのもMだった。映
画『野性の証明』にも出ていた。
二人は「この人たち、心中するの
では」というような仲だった。
名曲「プカプカ」は安田南をうた
ったゾウさんの歌だった。
原田芳雄もうたった。
南はJAZZシンガーだったが、役者
でもあった。新宿のアングラにも
出ていた。
中津川ジャンボリーで南のステージ
を潰したのは大衆を扇動した吉田
たくろうだった。
だが、たくろうは翌年に自分がやっ
たのと同じように「帰れ」コール
を食らった。

南も亭主のMも破天荒とかは美辞
かのような出鱈目な人生を送った。
Mは学生時代は慶應義塾から同志
社に行った。
世界同時革命の為だ。
南は、Mと出会い、共にいる事で
男三昧をピタリとやめた。

安田南は死んだ。
Mの行方は知れない。
意外な事に、豪胆なカップルの
二人は、二人とも全くの下戸だ
った。
もっと意外な事は、Mの兄は自
衛隊の超幹部だった。
ある作戦会議の状況は全て漏れて
おり、席順まで判明していて、
陸自の幹部の兄がMに会いに来て
言った。
「無理だからやめろ」と。
Mは国家権力の恐ろしさを知った。
その頃、その仕組みを知らぬ同
たちは飛行機を乗っ取って悪魔の
国を悪魔の国と知らずに飛んだ。
「我々は明日のジョーである」と
宣言して。
「あした」と正確に言えない程に
識別力が欠落していた。
Mは引退後に二輪乗りとなり、二
門誌の紙面を埋める社会派の
ライターとなっていた。

1960年代。全世界が燃えていた。
それは70年代最末期まで続いた。
残り香は80年代前半まであった。

1978年デビューの甲斐バンドの
『ヒーロー』の歌詞の二番、
 人生ってやつは 
 路上のカクテルパーティー
を真に理解している人はどれだけ
いるのだろうか。浜田省吾がうた
った街頭の陽炎と同じく。
ただ、浜田省吾が歌った赤いヘル
メットについては、彼の神奈川大
は青一色だったと思う。そこに赤
と別離した銀ヘルが150名の青を
向こうに50で突撃して青が振り回
す日本刀も奪取して完全勝利した。
浜省がうたう赤のヘルの彼女に
見透かされて恥ずかしかったなど
というセンチメンタルはあったの
か。あったのかも知れない。いや
あっただろう。あれは実体験だろ
う。
歴史も時代も知らない、知ろうと
はしない者たちは、赤ヘルをカー
プのヘルメットだと思ったりす
る愚かさを発揮する。
歴史を見ないという事は、かつて
の昭和大戦での痛ましさにも目を
背けて知らぬ存ぜぬをする無責任
な事だと、それをやる者は気づか
ない。

高3の時、私は甲斐バンドのヒー
ローの歌詞のそれを聴いて、あ!
と思い、大学入学直後に路上の
カクテルパーティーに参加した。
安田南と亭主Mと出会うのは、
そのほんのすぐ後だった。
人生の中で、衝撃的な事だった。
それは、世界同時革命よりも。




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