◆3Dへの挑戦・黎明編
『スター・ウォーズ』で言えば、企画展で触れられる『スターファイヤー』(Exidy 1978年)も影響を受けたひとつと言えるだろう。
タイ・ファイター状の敵機が画面の奥から手前へと攻撃を放ちながら迫り来る。これに操縦桿とスロットルで照準を合わせ、オートロックしたところで反撃するのだ。ときおりスター・デストロイヤーのような母艦が画面を横切っていく。宇宙空間を自在に飛び回る3Dの表現に拡大・縮小を使っており、ポリゴンの登場まではこうした表現は一般的になっていく。
別の方向から3Dの表現に挑んだのが、1982年の『ザクソン』(セガ)だ。
クォータービューを用いることで、自機はレバー左右で画面手前と奥に移動。そしてレバー上で縦軸方向に移動する自機を操って、飛来する敵を撃ち、障害物を避けて進むのだ。このとき、自機や敵機の影が、立体感をつかむのに大きな役割を果たすことになる。
◆試行錯誤の果てに
1979年の『ギャラガ』は『スペースインベーダー』の大ブームの一隅で、クローンゲームを作らずにいたナムコが放ったスプライト方式のシューティングゲームだ。あらかじめキャラクターを描いたデータを、背景データの上で動かすことによって、『スペースインベーダー』では成しえなかった美しい動きを見せてくれる。
プレイヤーによる入力方法にも、黎明期には試行錯誤がなされている。展示されている『Football』(ATARI 1978年)もそのひとつ。トラックボールを使用した草創期のビデオゲームで、これが布石となりATARIから1980年に大ヒット作『ミサイルコマンド』が発売される。
ゲームは○×で描かれた選手の集団に、パネルの作戦からひとつを選んで指示を出し、ボールを持った点滅する選手を操作して、タッチダウンを狙うというもの。ふたり専用プレイで、オフェンス時、ディフェンス時とも4種類ずつの作戦があり、プレイヤーが互いにアメリカンフットボールのルールがわかっていれば、読み合いも楽しくプレイできる。
入力方法で言えば、『クレイジー・クライマー』(日本物産 1980年)はレバー2本で操作するタイトルだ。
取材日は休日だったこともあり、家族連れやローティーンの集団、自分と同じその道の好事家などさまざまな客層が来訪していた。父親にルールを教えられながら『クレイジークライマー』をプレイする小学校低学年くらいの子をしばらく見ていたが、最初はぎこちなくても、すぐに直感的に理解したようで、落下物を避ける姿に思わず「ガンバレ」と声も出た。
また、入力デバイスの一形態、十字ボタンの先駆として、ゲーム&ウオッチの『ドンキーコング』が(ボールといっしょに)展示されていたのも趣き深かった。
◆ギネスブックを彩ったビデオゲーム
ナムコの『パックマン』がいかに全世界でヒットし、とりわけアメリカで愛されたかは、いろいろな機会に知ることができるのでここでは省くが、“もっとも成功した業務用ビデオゲーム”としてギネスブック入りしていることをお伝えしておこう。「1980年の発売から7年間で29万3822台を販売したという実績が評価され」と資料にあるように、アーケードゲームとしては当時記録的な数を売っている。
◆固定画面とスクロールと
会場にはほかにも、『ドンキーコング』(任天堂 1981年)、『ディグダグ』(ナムコ 1982年)、『ニューラリーX』(ナムコ 1981年)、『スクランブル』(コナミ 1981年)、『ムーンパトロール』(アイレム 1982年)などのビデオゲームが並んでいた。前ふたつは画面固定ながら戦略を駆使してクリアーを目指すタイプのゲーム。後ろふたつはスクロールの概念を如実に表現しているビデオゲームで、とりわけ『ムーンパトロール』は地味ながら世界初の多重スクロール作品だ。残る『ニューラリーX』は、前身の『ラリーX』がビデオゲームにBGMサウンドを持ち込んだ初の作品と言われている。
「ゲームのおもしろさをより伝えるにはどんな表現をすればいい?」
画面の表示方式に始まり、筐体のスタイル、入力方法、そしてサウンドに至るまで、ありとあらゆる開発者が悩み抜いた答えが展覧会に居並らんでいる姿は(地味だが)壮観だ。
◆まとめの代わりに
ひととおり会場を巡ってから、企画者の映像ミュージアムディレクター澤柳英行氏と、広報担当の有城裕一郎氏に話をうかがった。
──今回の企画展を発想した経緯を教えてください。
澤柳英行氏(以下、澤柳) 私ども映像ミュージアムは、いままでもアニメやメディアアートなど、映像にちなんだ企画展を年に何度か開催しています。ところがゲームの展覧会を、じつはいままで一度も開催したことがなかったんですね。ですが、ビデオゲームは映像技術のいろいろな粋が集められている映像コンテンツですので、ビデオゲーム、デジタルゲームについてどこかのタイミングで本格的に扱った展覧会をやりたいとずっと構想を練っていたんです。それがたまたまいろいろな条件が重なり合い、今年実現できました。
有城裕一郎氏(以下、有城) 加えていまは、PDP-1やODYSSEYのころからちょうど半世紀程度が経っているので、ある意味節目の時期ということもありました。
澤柳 ウチでは初のゲームの展覧会なので、いろいろな意味で力を入れ、映像ミュージアムならではの、いままでにない切り口をなんとか出せないかと努めた結果です。
──こだわったのはやはり“触れられる”という部分でしょうか。
澤柳 そうですね。まずは遊べるということが第一でした。ゲームはやはり遊んでみないとなかなかそのよさがわからないものですし、映像コンテンツとして見た場合でも、遊ばれることによって完成形になる作品だと思います。そこを実際に来ていただいた方にもご理解いただきたいな、というところはありましたね。
──触れられるものだらけで興奮しすぎました(笑)。
澤柳 (笑)。いままでもいろいろなゲーム展が日本でも開催されたと思いますが、なかなか遊べるタイプのものがありませんでした。せっかく映像ミュージアムでやるからにはそこはぜひこだわりたいと思い、監修いただくことで最初に馬場先生とお話をしたときに、「そこだけはなんとか実現したいね」となりましたね。
──今回はじつはSTAGE 1と名付いていますが、今後も第2回、第3回と時代を区切って続くわけですね?
有城 今回は5ヵ月の展示ですが、1回ごとに少しインターバルをいだたきながら、来年度につぎができるように進めています。準備など環境を整える必要がありますで、期日は未定ですが、やることは確実です。
──いまの構想だと、STAGE 2はどうなるのでしょう?
澤柳 馬場先生、遠藤先生とご相談しながらになりますが、1983年から1990年代の半ばごろまでかなと思っています。対戦格闘ゲームが出て、いよいよポリゴンが出てくるかどうか……というあたりでしょうか。
──だんだん大型筐体も増えてたいへんそうですね(笑)。
澤柳 体感型なども増えてきますしね(笑)。
今回展示されているビデオゲームはすべて1982年までのもの。その翌年に控えるあの転換点を考えると、次回のSTAGE 2にも期待が高まる。
ここまで長々と書いてきたが、伝えたいのは、こういう歴史に残るゲームが実際に触れて遊べるという企画展のスゴさだ。ビデオゲームは作品でもあるが、それ以前に商品であり、部品の老朽化などいろいろな事情によってやがて消え去っていく。いまはエミュレーターなどによりWeb上で触れられるものも多いが、奇跡や偶然、あるいは誰かの努力の賜物によって保管されていた当時の筐体や基板に触れるのとでは気づくことも変わるだろう。
当時の筐体に向かって当時のインターフェイスで触れることで、当時の熱狂の片鱗が感じ取れるかもしれない。そんな貴重な体験をするときに、今回の記事で書いたような知識を少しでも持って臨めば、触れられる感動は何十倍にも増す。オシロスコープに映った『Tennis for Two』を観てうなり声を上げ、『スペースフューリー』に未来を感じてほしいのだ。
この先も同様の展示がどこかで行われるのかもしれないが、そのときはいま動いていたものが動かなくなっているのかもしれない。それを考えたら、記事を漫然と読んでいる場合じゃない。映像ミュージアム入場料の510円を握り締め、いますぐにでも埼玉へ向かうべきだ。来年2月28日まで、これらのゲームはあなたに触れられるのを待っている。