私が皆に言いたい事は、普通に起きている出来事なのに、以下に認知されないように報道しているかという事実です。
だからこそ・・・・怪情報
「皇族に、朝鮮系をお輿入れした。実は○○さんは在日で乗っ取るつもりだ」
案外この書き方多く見かけます。
違いますよ。古くからは、東北の蝦夷の民を虐殺しながら侵略した韓国方面から渡ってきた家系です(秦氏)
つまり、元から韓流なんですよWつまりもう話の起点がズレているんです。
この話は古いから、そんな昔の事を言われても・・・・
本当かわからないし・・・・とまだ、信じたい人もいるかもしれません。
しかし、以下も確実な事実な訳です。この文章は理解を深めるためにほぼ全文掲載しましたが、青文字で超短縮要約を載せます。
難しい方は青字部分だけ拾い読んで見てください。大雑把にわかるようになると思います。これからはそのように書きますので、是非世情を知るために、読んでみてくださいね。
李玖の死を悼む 極東ブログ様よりの引用です
李玖(イ・ク)が亡くなった。
| 父親昌徳宮 李王 垠
※つまり李玖(イ・ク)とは日本の皇族と、韓国皇族のハーフです |
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享年七十三。哀悼の意を表したい。
亡くなったのは十六日で、死因は急性心不全とされたようだ。看取った者はなかった。場所は赤坂プリンスホテルだった。日本の国法上は変死にあたるので、昨日日本の警察が手続き上司法解剖した。
李玖は日本で暮らし、従姉妹の梨本さんの世話を受けていた。彼女が十八日に李玖を訪問し、その遺体を発見したとのことだ。
李玖は、李氏朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897-1970)李垠(イ・ウン と日本の皇族、李方子(りまさこ/イ・パンジャ)(1901-1989)の次男である。
明治四十三(1910)年、通称日韓併合後、李垠は朝鮮の王世子(皇太子)となった。李王家は王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けた。敬称は殿下であり、実際は皇族と見なされたし、それを日本人に知らしめる必要もあった。
※飛鳥氏の本「裏天皇は天皇に準じている」という事と辻褄が合いますねW
母李方子は、明治三十四(1901)年、梨本宮守正王と伊都子妃の長女として生まれ、当時の皇太子裕仁親王(昭和天皇)のお妃候補として世間を騒がせたこともある。香淳皇后はいとこになる。
李垠と婚約したのは大正五年のこと。当時の読売新聞(1916.8.3)は、「李王世子の御慶事。梨本宮方子女王殿下との御婚約 李王家と竹の園生の御連絡の御栄えめでたく」と記した。年代を見ればわかるように彼女が十四歳のときである。彼女自身、自らの婚約を新聞報道で知って驚いたとも伝えられている。言うまでもな、政略結婚である。「内鮮一体」が当時の日本国の国是であった。王家もそれに従わなくてはならなかった。貞明皇后は「お国のためですから」と慰めたという。
大正十年(1921)、李玖の兄、つまり第一王子、晋が生まれた。翌年、李垠夫妻は嬰児を連れ母国朝鮮に帰るが、再度日本に向かうおり、急逝した。一歳に満たなかった。死因は急性消化不良と診断されているが、毒殺説がある。誰が毒殺したかについてはこのエントリでは考察しない。
李玖が生まれたのは、昭和六(1931)年の東京である。晋亡きあと、王家の世嫡は玖のみとなった。日本国は李玖を朝鮮王家の皇太子と認めた。教育は母と同じく学習院で受けた。
昭和二十年日本の敗戦により日本の朝鮮統治は終止符を打った。当時、李方子は日本の敗戦を夫君のために喜んだと伝えられている。読売新聞”日朝融和の政略結婚の李方子さん逝く”(1989.5.2)より。
李垠と婚約したのは大正五年のこと。当時の読売新聞(1916.8.3)は、「李王世子の御慶事。梨本宮方子女王殿下との御婚約 李王家と竹の園生の御連絡の御栄えめでたく」と記した。年代を見ればわかるように彼女が十四歳のときである。彼女自身、自らの婚約を新聞報道で知って驚いたとも伝えられている。言うまでもな、政略結婚である。「内鮮一体」が当時の日本国の国是であった。王家もそれに従わなくてはならなかった。貞明皇后は「お国のためですから」と慰めたという。
大正十年(1921)、李玖の兄、つまり第一王子、晋が生まれた。翌年、李垠夫妻は嬰児を連れ母国朝鮮に帰るが、再度日本に向かうおり、急逝した。一歳に満たなかった。死因は急性消化不良と診断されているが、毒殺説がある。誰が毒殺したかについてはこのエントリでは考察しない。
李玖が生まれたのは、昭和六(1931)年の東京である。晋亡きあと、王家の世嫡は玖のみとなった。日本国は李玖を朝鮮王家の皇太子と認めた。教育は母と同じく学習院で受けた。
昭和二十年日本の敗戦により日本の朝鮮統治は終止符を打った。当時、李方子は日本の敗戦を夫君のために喜んだと伝えられている。読売新聞”日朝融和の政略結婚の李方子さん逝く”(1989.5.2)より。
※ある意味皇族も韓流で売国奴でだって言われてしもしかたない言動ですね。
島津家においては沖縄の冊封体制において中国に忠誠を誓っていたのですからモロ中国寄りじゃないですか(笑)
二千円札に載せてあるイラスト守礼門は中国の皇帝を礼賛するための門です。
古代に遡ると、韓国は中国が作った国なので、韓国の王様は中国の皇帝の方を向いて、お辞儀をするような風習があったそうです。
日本敗戦の日、東京で玉音放送を聞く。李垠(イ・ウン)殿下との結婚から二十六年目だった。「殿下、おめでとうございます。こう申し上げましたが、殿下は沈痛な面持ちで」。後に本紙記者のインタビューに答えている
夫妻の心は無論、十分に通じ合っていた。日本敗戦は祖国・朝鮮の解放、独立につながる。が、両国のはざまでどう生きるか。祖国喪失の身で、タケノコ生活の苦難も味わうことになる
皇太子李垠の鎮痛な表情はきっと当時十四歳の少年李玖にも生涯忘れ得ぬものであっただろう。李垠は朝鮮の王たるべく自らの国に帰ることはできなかった。米国の傀儡李承晩によってその帰国を妨げられた。李垠が故国に戻り、歴史ある国として朝鮮が王政復古すれば、李承晩の地位が危うくなる。そしてそれを避けることは米国の意図でもあったと思う。
終戦時の朝鮮のようすについては、「極東ブログ: 終戦記念日という神話」(参照)でも書いたので参考にして欲しい。私はこう書いた。
米軍は、朝鮮に主権が発生することを抑制し、朝鮮への支配をそのまま日本から譲渡するという形態を取りたかったようだ。米軍には、38度線で朝鮮半島を分割する、対ソ連の思惑もからんでいたのだろう。
※つまり、韓国は日本が侵略するような悪い国だと騒ぎ立てていますが、実際には、日本は戦後すぐ韓国を手放すと条約にサインし、アメリカが支配を受け継いたという訳です。
つまり韓国人の日本人だけを憎むというやりかたは全く的外れです。
①米国は朝鮮に国民国家の礼節の規範となる王家を復興させる機会を与えなかった。
※なのに何で日本だけが責められているのか?是非皆様も自分の思考において何故か考えてみましょう。
李玖の死を伝える朝鮮日報”朝鮮最後の皇太子が寂しい死 東京のホテルで心臓麻痺で”(参照)は、その後の李玖についてこう記す。
李玖の死を伝える朝鮮日報”朝鮮最後の皇太子が寂しい死 東京のホテルで心臓麻痺で”(参照)は、その後の李玖についてこう記す。
日本で近代教育を受けた李玖氏は14歳で光復(韓国の独立)を迎えたが、帰国することはできなかった。執権者たちは、皇世孫の帰国を喜ばなかったからだ。
②李玖氏に手を差し伸べたのは、日本占領軍司令部のマッカーサー司令部だった1950年、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)建築科に留学し、卒業後ニューヨークの建築設計事務所に勤務した李氏は、5年年上のジュリア女史と出会い、1958年10月、ニューヨークの教会で結婚した。
『上から抽出した文章を見れば、おかしいことに気がつきます』
①米国は朝鮮に国民国家の礼節の規範となる王家を復興させる機会を与えなかった。
日本で近代教育を受けた李玖氏は14歳で光復(韓国の独立)を迎えたが、帰国することはできなかった。執権者たちは、皇世孫の帰国を喜ばなかったからだ。
②李玖氏に手を差し伸べたのは、日本占領軍司令部のマッカーサー司令部だった