『北条九代記』&北条時茂と湧井・涌井氏
いつもご覧くださる皆様、
本当にありがとうございます。
心から感謝致します。
皆様にとって良い事が
たくさんありますように!
今日は当時の日を
新暦に変換すると、
鎌倉幕府滅亡の日になります。
ということで、
私が好きな鎌倉北条氏の話を書いておきます。
1 『北条九代記』
今のサイトにはまだ整理が
できていないのであげていないのですが、
鎌倉北条氏を書いた古典文学作品の中には、
『北条九代記』というものがあります。
フォレストさんでもっている
ガラケー対応サイトには載せてありますので
一部改変の上、引用しておきます。
(作品紹介・扉の部分)
これは、北条一族と幕府の盛衰を描いた物語で、
江戸時代初期に成立し、
作者は浄土真宗の僧侶で
仮名草子作家である浅井了意とされています。
延宝三(1675)年に初版が発行されました。
北条九代記(試行版の説明)
江ノ電の駅名に残る、極楽寺を建てた北条重時と、
その家族に関する話からあげていきます。
極楽寺には、
僧・忍性による医療・福祉施設もありました。
重時は二代執権・北条義時の三男として生まれ、
六波羅探題を務めた人物です。
鎌倉に帰ってからは、
北条家の長老として、
陰から幕府を支え、
最古の武家家訓『極楽寺殿家訓』を残しています。
子どものうち、長時は六代執権に、
時茂は六波羅探題になりました。
娘の葛西殿は、時宗の母と言われています。
北条九代記(延宝三年本)巻第九
※底本:
三浦理編『保元物語 平治物語 北条九代記』(有朋堂書店、1927年)
※この本の底本は延宝三年本
※重時の三男・時茂が六波羅探題に任命され、
時宗が執権になった場面です。
近衛宰子(将軍・宗尊親王御台所)
のお産に際しての祈祷の場面はこれからアップします。
ちなみに大河ドラマ『北条時宗』では、
重時が平幹二朗さん、宗尊親王は吹越満さん、
宰子は川原亜矢子さんが演じていらっしゃいました。
【原文】
時宗執権付御息所御産祈祷
時頼入道の嫡子式部丞時輔は、京都に居ゑられ、
北條重時の二男陸奥左近大夫將監時茂と兩六波羅として、畿内西國の政道を行はる。
時頼入道の二男左馬頭時宗は、天性篤實にして仁徳あり、禮節自ら其宜きに合ひければ、幼稚ながらも其器に當り給へりと、人ごとに見参らせけり。
今年十三歳にして、時頼入道の家督を繼ぎて、相模守に任じ、執権職に補せられ、政村、長時輔翼として、政道を佐けらる。
------------------------------------------
【校訂本文】
時宗[ときむね]執権〔しっけん〕付御息所〔みやすどころ〕御産祈祷
時頼[ときより]入道の嫡子〔ちゃくし〕式部丞〔しきぶのじょう〕時輔[ときすけ]は、京都に居ゑられ、
北条重時[ほうじょうしげとき]の二男陸奥左近大夫将監〔むつさこんのだいぶしょうげん〕時茂[ときしげ]と両六波羅〔ろくはら〕として、畿内〔きない〕西国の政道を行はる。
時頼入道の二男左馬頭〔さまのかみ〕時宗[ときむね]は、天性、篤実〔とくじつ〕にして仁徳〔じんとく〕あり、礼節〔れいせつ〕、自ら其宜き〔よろしき〕に合ひければ、幼稚ながらも其器に当り給へりと、人ごとに見参らせけり。
今年十三歳にして、時頼入道の家督〔かとく〕を継ぎて、相模守〔さがみのかみ〕に任じ、執権〔しっけん〕職に補せられ、政村[まさむら]、長時[ながとき]輔翼〔ほよく〕として、政道を佐け〔たすけ〕らる。
------------------------------------------
【現代語訳】
時宗が執権になること付御息所(近衛宰子)の御産のための祈祷
(北条)時頼入道の嫡子で式部丞である時輔(時宗の異母兄)は、京都に置かれ、
北条重時の次男で、陸奥守であり左近大夫将監である、時茂と南北両方の六波羅
として、畿内西国の取り締まりを行う。
時頼入道の次男で、左馬頭である時宗は、天から授けられた性質が情け深く誠実で、他者を大切に思う心があり、
(時宗の)礼儀と節度は、(他者から指摘されなくても)おのずからふさわしかったので、
(※つまり、礼儀や節度が身についていた)
年齢が幼いながらもその器(人の上に立つ立場になる)にかないなさっていると、どの人もみなご覧になっていた。
今年十三歳にして、時頼入道の家督を継いで、相模守に任命され、(さらに)執権職に任命され、政村と長時が補佐として、(時宗がとる)政治を助けられた。
------------------------------------------
【現代語訳メモ】
1 執権〔しっけん〕
→将軍の補佐役で実際の政治を遂行していた。北条氏〔ほうじょうし〕が地位を独占しており、幕府が滅亡するまで16人を輩出した。初代執権は北条時政[ほうじょうときまさ]。最後の執権である守時[もりとき]は重時[しげとき]の子孫である。
2 御息所〔みやすどころ/みやすんどころ〕
→本来は天皇や親王の妃で皇子・皇女を産んだ人への称。天皇の妃である女御〔にょうご〕や更衣〔こうい〕など女官以外の女性を指すことばとなった。時代が下ると主に皇太子妃や親王妃を指した。
ここでは将軍である宗尊親王[むねたかしんのう]の妃の近衛宰子[このえさいし・かみこ]をさす。
3 時頼[ときより]
→北条時頼[ほうじょうときより]。5代執権。4代執権であった時氏[ときうじ]と松下禅尼[まつしたぜんに]の息子。祖父の3代執権泰時[やすとき]に育てられる。義時の曽孫〔そうそん/ひまご〕にあたり、蒙古襲来〔もうこしゅうらい〕時に執権であった時宗の父にあたる。出家後は、最明寺殿〔さいみょうじどの〕または最明寺入道とも言われ、絶大な権力を誇り、後に続く得宗専制政治のきっかけをつくった。
5代将軍であった藤原頼嗣[ふじわらのよりつぐ]を追放し、京都から後嵯峨天皇[ごさがてんのう]の皇子である宗尊親王[むねたかしんのう]を迎えて、6代将軍とした。
能の『鉢木』は彼が諸国をまわったという廻国伝説〔かいこくでんせつ〕が元になっている。また『徒然草』にも逸話が残る。
4 式部丞〔しきぶのじょう〕
→位は正六位下~従六位以上。朝廷の儀式などを扱った式部省〔しきぶのしょう〕の三等官。
5 時輔[ときすけ]
→北条時輔[ほうじょうときすけ]。時頼の長男で、母は三処氏〔みところし〕の娘である讃岐局[さぬきのつぼね]である。六波羅探題〔ろくはらたんだい〕の南方をつとめたが、北条氏一門の内紛である二月騒動〔にがつそうどう〕で、異母弟の時宗[ときむね]に討たれた。
6 北条重時[ほうじょうしげとき]
→2代執権である北条義時[ほうじょうよしとき]の三男。3代執権泰時[やすとき]の異母弟。母は比企朝宗[ひきともむね]の娘である姫の前[ひめのまえ]。なお、父の義時は時政の次男で政子[まさこ]の弟にあたる。六波羅探題〔ろくはらたんだい〕北方や、執権の補佐役である連署〔れんしょ〕をつとめた。江ノ電の駅名に残る極楽寺〔ごくらくじ〕を建てて、最古の武家家訓『極楽寺殿家訓』〔ごくらくじどのかくん〕を残した。長時[ながとき]・時茂[ときしげ]と時宗の母葛西殿[かさいどの]の父。
7 陸奥守〔むつのかみ〕
→現在の青森県〔あおもりけん〕、岩手県〔いわてけん〕、宮城県〔みやぎげん〕、福島県〔ふくしまけん〕、秋田県〔あきたけん〕北東部が主な範囲である陸奥国〔むつのくに〕の長官。時茂[ときしげ]の頃は、有力な御家人〔ごけにん〕がこの役職に就いた。従五位上相当だが、四位の人もいた。
8 左近大夫将監〔さこんのたいふしょうげん〕
→将監は宮中や行幸での警護を扱った、左右の近衛府〔このえふ〕のうち、四等官のこと。位は従六位上で現場の指揮官。左近大夫は五位で役職についた人をさす。
9 時茂[ときしげ・ときもち]
→北条時茂[ほうじょうときしげ]。重時の三男。母は平基親[たいらのもとちか]の娘である治部卿局[じぶきょうのつぼね]。6代執権である長時[ながとき]の同母弟にあたる。六波羅探題〔ろくはらたんだい〕の北方をつとめたが、早世した。ちなみに娘が足利家時[あしかがいえとき]に嫁いでいるため、室町幕府〔むろまちばくふ〕の初代将軍である尊氏[たかうじ]は曽孫にあたる。
10 六波羅〔ろくはら〕
→六波羅探題〔ろくはらたんだい〕のこと。六波羅探題と言われるのは鎌倉時代末期。南北両方に1人ずつ配属された。時茂は北方、時輔は南方であった。元は平清盛[たいらのきよもり]ら平家の邸宅があったところ。元弘〔げんこう〕三/正慶〔しょうきょう〕二(1333)年に後醍醐天皇[ごだいごてんのう]による元弘の乱が起こり、それに応じた足利尊氏らの攻撃により探題は消滅した。跡地は、現在の京都市立六原小学校。
11 畿内〔きない〕
→山城国〔やましろのくに〕・大和国〔やまとのくに〕・河内国〔かわちのくに〕・和泉国〔いずみのくに〕・摂津国〔せっつのくに〕の五カ国。現在の京都府〔きょうとふ〕・奈良県〔ならけん〕・大阪府〔おおさかふ〕・兵庫県〔ひょうごけん〕が範囲。
12 左馬頭〔さまのかみ〕
→朝廷がもっている馬の飼養や調教を行う、左馬寮〔さまりょう〕の長官。従五位相当。
13 相模守〔さがみのかみ〕
→現在の神奈川県〔かながわけん〕の北東部を除いた大部分である相模国〔さがみのくに〕の長官。従五位下相当。
14 政村[まさむら]
→北条政村[ほうじょうまさむら]。北条義時の息子で重時と3代執権泰時[やすとき]の異母弟。の異母弟。母は伊賀朝光[いがともみつ]の娘である伊賀の方[いがのかた]。父の死後、伯父と母が政村を後継者にしようと政変(伊賀氏の変)を起こすが、厳罰を免れる。その後、連署や7代執権をつとめ、幕府や北条氏の嫡流である得宗家[とくそうけ]を支えた。当時の代表的な武家歌人であり、都の貴族からも敬愛された。彼の系統は「政村流」とも呼ばれた。
15長時[ながとき]
→北条長時[ほうじょうながとき]。重時の息子で時茂の同母兄。父が六波羅探題になった際は同行し、京都で育つ。重時が時宗を補佐するために鎌倉へ下ると、六波羅探題北方になる。その後、5代執権の時頼から息子の時宗へ執権職が譲られるまでの中継ぎとして、6代目の執権になる。鎌倉にある鶴岡八幡宮〔つるがおかはちまんぐう〕の南にあった赤橋の近くに住んでいたことから、彼の系統は「赤橋流」〔あかはしりゅう〕と呼ばれた。赤橋流は、嫡流である得宗家の次に力を持っていたらしく、最後の執権である守時[もりとき]は彼の曽孫にあたる。
2 北条時茂と湧井・涌井氏
私は別件で「涌井氏」(長野・新潟)を調べている時に、
彼らが北条時茂の子孫でないかということを
指摘されているサイトに出会いました。
そこから時茂が気になっています。
時茂は、
大河ドラマの『北条時宗』では
羽賀研二さんがされていた役であり、
六波羅探題の北方になったものの、
過労死をしてしまう
(鎌倉から京都へ戻ってすぐ亡くなったことから暗殺説もある)
人です。
彼の子どもは5人いたのですが、
足利氏とつながったことで
室町時代まで系統がつながり、
大枠では彼の父重時の家系である赤橋家が
最後の執権守時や
足利尊氏の正室登子を出しています。
得宗の次に家格が高かったといわれています。
涌井氏の方は
時茂が新潟に近い長野県に
領地(常磐牧)をもっていて、
そこの女性との間の子孫を
常磐氏(常岩氏)とたとのことです。
幕府滅亡後に後醍醐天皇の命で追われた際は、
豪族高梨氏に滅ぼされたことにして逃げ、
後に豪雪により、
北条・中条・南条など「条」のつく名を名乗って
子孫が分かれたのだという説があります。
「湧井」が本家・分家で「涌井」が新しい分家筋であるそうです。
また湧井寺という寺を建てていたようで、
今でも湧井の碑と寺の跡の碑がたっています。
場所は少しわかりにくいですが、
行ったことがあります。
碑の後ろは
いきなり谷のようになっているので
気をつけてください。
場所:長野県下水内郡豊田村永江字涌井
目印:きたざわというお蕎麦やさん
(長野県中野市大字永江涌井7961)を
右方向へ行くと、
消防団のポンプ小屋があります。
ポンプ小屋の前の道を右折します。
道なりに左方向へ進みます。
道なりに左方向に進みます。
道なりに左方向に進みます。
次のつきあたりも左方向に進みます。
道なりに右方向に進みます。
3 湧井・涌井氏の資料
・書籍
武田光弘編
『涌井・湧井・和久井一族』
(日本家系家紋研究所、1988年7月)によると、
「常岩氏」から「涌井氏」への流れについては
確定できないと慎重な姿勢をとっております。
・サイト
現在は閉鎖されているサイト
「涌井のルーツを探れ!」にある内容が詳しかったです。
わくい友の会の冊子の1989年8月15日に、
僧侶で思想家であった、
湧井雄山氏
(この方は著作があるので名前はヒットします)
の文章がもとだとされています。
http://www2m.biglobe.ne.jp/~wakui/wakui.html
(URLは無効です)
「涌井大輔に一言もの申す」
という掲示板にも、
ちらほら湧井・涌井さんのルーツに関する書き込みがあります。
北海道余市町にいらっしゃる涌井大輔さんという方が
作成された掲示板です。
涌井さんはラグビーチーム
「北海道バーバリアンズ」の選手をされているそうです。
「涌井大輔に一言物申す!」
https://38.teacup.com/wakui/bbs
碑に関しては、下記のサイトにもあります。
これらの情報が、
少しでもどなたかのお役にたてれば
幸いです。
この世に本当の偶然はありません。
全ては必要だから起こっています。
ご縁がなければ出会えないように
なっています。
そういうあなたとご縁があったからこそ、
本日、このブログで出会うことができました。
ここまでご覧くださり、
本当にありがとうございました。
皆様にとって良き日、
良き時間でありますように!
合掌