ヤンキー映画の歴史! くわえタバコの昭和の不良を生んだ”Y-ウイルス”の正体を探れ【KMR-ケムール・ミステリー調査班】シガレット・バーン/映画的喫煙術

二台の映写機を交互に使って映画を上映していた時代。切り替えのタイミングの合図は、フィルムの端に出る黒丸印。
この印のことをアメリカ映画業界では“シガレット・バーン/煙草の焼け焦げ”と呼んでいました。
そう、昔から煙草と映画は切っても切れない関係にあったのです。

どこもやらない・追いつけない「最強のスモーキング・ムービー・ガイド」。今回のテーマは「不良映画」です。不良といえば金属バット・バイク・そしてタバコがトレードマーク。誰しも「悪いヤツ」にあこがれた過去があるのではないでしょうか。
でも不良映画っていつからあるの? その歴史を徹底的に辿ったら、なかなかのミステリーが暴かれてしまいました!!

文・小玉大輔
レンタルビデオ業界を退いた後、『キネマ旬報』等雑誌、WEBでの執筆やTwitter (@eigaoh2)で自分の好きな映画を広めるべく日夜活動している70年代型映画少年。Twitterスペースで映画討論「#コダマ会」を月1開催。第2代WOWOW映画王・フジTV「映画の達人」優勝・映画検定1級・著書『刑事映画クロニクル』(発行:マクラウド Macleod)

ケムール編集部にて

「担当はん。『東京リベンジャーズ』(‘21)って観ました?」
「いえ、観てません」
「面白いのに。今度、続編が公開されるから、それまでにどうぞ」
「ヤンキー映画、苦手なんですよ。そもそもこの歳になって、その手の映画はねぇ…」
「じゃあ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(‘85)とか『バタフライ・エフェクト』(’04)は好き?」
「そっちは大好物です」
「『東京リベンジャーズ』って実は、そっち系の映画ですねん。今流行りのマルチバースで過去改変する話やし」
「これまでのヤンキー映画とは違うんですか」
「そりゃもう、違う、違う! そもそも、映画ン中の暴走族やヤンキーが煙草、喫いまへんのや」
「へぇ~…。それも時代を感じるなぁ」
「『ビー・バップ・ハイスクール』では高校生がハイライトショートホープを喫ってましてんけどなぁ…。ということで今回はヤンキー&不良映画について書かせてもらいます」
「古き良き時代のスモーキング・ヤンキー列伝ってわけですか?」
「そう、エルヴィス・プレスリーのレコードの日本発売、『理由なき反抗』の日本公開、そして石原裕次郎のデビューが重なった1956年不良映画元年として、歴代ヤンキー列伝にしようと最初は思ってましてん。けども…色々調べている内に恐ろしい事実が分かったんです!」
「ど、どういうことです?」
「まずは1955年からお話を始めましょうかーーー。」

【予兆・1955年】突如日本に上陸した”Y-ウイルス”とは?『暴力教室』と少年犯罪

1955年3月。
アメリカの底辺高校の実態を赤裸々に描いた『暴力教室』が全米で公開されました。原作は警察小説『87分署』シリーズで知られるエド・マクベインが自らの教師時代の経験を基にした同名小説。物語は荒れた学校を正そうとする新任教師の苦難という真面目なものでした。


© 1955,Supplementary Material Compilation © 2005 Turner Entertainment Co .

しかし、当時の若者たちは劇中に流れるロックン・ロール『ロック・アラウンド・ザ・クロック』や、ナイフで人を脅し、女性教師をレイプしようとする不良少年たちの行動に衝撃を受けます。そして中には映画館で乱闘騒ぎを起こす少年も現れます。大人たちは『暴力教室』が社会に悪影響を与えるものだと批判し、上映を禁じる州もありました。

同じ年、日本公開日が夏休みど真ん中の8月11日に決まると、日本の教育関係者は戦々恐々となります。検挙補導された少年少女が12.5万人という戦後最悪の数字を出した1951(昭和26)年から徐々に減ってきたのが、この映画をきっかけに再び増加するかもしれないと恐れたのです(但し、1951年の12.5万人は生きるために犯罪行為に走った戦災孤児が大半でした)

■少年少女の犯罪数(=水色の棒グラフ)


※令和3年版 犯罪白書 第3編/第1章/第1節/1 よりケムール編集部作成

 

学校、地域では様々な対策を講じます。生徒に鑑賞禁止令が出され、千葉県下の映画館全館は上映を拒否しました。遂には文部省から
「教育上問題があり、適切な措置を講じるように」
と通達を出すに至ります。
しかし禁じられれば観たくなるのが若者です。『暴力教室』はその年の洋画配給収入トップ10に入る大ヒットを記録。映画を真似て飛び出しナイフでふざけた高校生が同級生を刺してしまう事件や、映画に刺激を受けた少年による強盗未遂事件が発生してしまいます。

大人たちの怖れていたことが現実に起きたのです。


掲載元 毎日新聞


「『暴力教室』はなぜ、そこまで当時の未成年に悪影響を与えたのでしょうか?」
「私は『暴力教室』が少年たちの不良性感度を上げ、問題行動を起こさせるウイルス/病原菌だったのではないかと思てます」
「は?」
「その病原菌をアメリカの俗称“ヤンキー/Yankee”から取ってY-ウイルス/ヤンキー・ウイルスと名付けました」
「ヤンキー・ウイルスって、またフザケたことを…」
「1956年に日本で起こったことを知ったら、そんなこと、言ってられませんで」

【第1波・1956年】Y-ウイルス猛威!ジェームス・ディーン、石原裕次郎に少年たちは憧れ、少女たちは惚れた!

経済白書が「もはや「戦後」ではない」と宣言し、高度経済成長期に突入した1956年、ゴールデンウィーク直前の4月18日。
日本に再びヤンキー・ウイルスがやってきます。第2のY-ウイルス『理由なき反抗』の公開です。


TM & © Warner Bros. Entertainment Inc

『暴力教室』は教師という大人の視点で不良少年を描いていましたが、こちらは“不良少年”のレッテルを張られてしまう少年の視点で物語が展開します。ジェームス・ディーン演じる主人公は家族や社会との軋轢ゆえに心ならずも不良行為に走る17歳の高校生。その愁いを帯びた表情や仕草に魅せられたのは少女たちでした。彼女たちはヤンキー・ウイルスに感染してしまったのです。それまで「怖い」と思っていた不良たちに親近感や憧れを覚えるようになりました。“グレた男子に恋する女子”は、まさにこの時に生まれたと言えるでしょう。
少年たちはディーンのファッションをこぞって真似し始めます。リーゼント・ヘアーと原色のスウィングトップは以後、何十年も受け継がれる不良スタイルになりました。そしてディーンのくわえ煙草です。それまで喫ったことのない真面目な少年までディーンに憧れて煙草に手を出すようになっていきます。


TM & © Warner Bros. Entertainment Inc

同年5月には石原慎太郎が著した芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化が公開されます。
煙草、酒、バクチ、喧嘩とナンパに明け暮れる高校生が主人公。妊娠させた女子高生に中絶手術をさせ、死に至らせるという物語は『暴力教室』以上の批判を浴びます。しかしそれが宣伝となって映画は大ヒット。

© 日活

この勢いに乗って、石原慎太郎の小説は次々と映画化。6月には『処刑の部屋』、7月には『狂った果実』が公開されます。これらは“太陽族映画”と呼ばれ、その象徴は慎太郎の弟で、『太陽の季節』でデビューし、『狂った果実』で主役を務めた石原裕次郎でした。裕次郎のスポーティなヘアスタイル、サングラスとアロハシャツで極める“太陽族”ファッションは若者の間で大流行。


掲載元 GB(ジービー)

一方で映画に影響を受けた太陽族の少年たちによる喧嘩や婦女暴行などの不純異性交遊事件が頻発します。これを受けて“太陽族映画”の未成年の鑑賞を禁じるという自主規制が日本各地で行われ、遂には国会で問題にされる事態にまで発展したのです。“太陽族”はヤンキー・ウイルスの影響で生まれたと言っても過言ではないでしょう。

プレスリーが紅白で歌われた時代ーーロックンロールと「踊る不良」

©2022 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

『理由なき反抗』と“太陽族映画”に共通しているのは、どちらも主人公の不良少年が中流より上の家庭育ちだということです。第二のヤンキー・ウイルスはいいとこのお坊ちゃんの不良性感度を高めるという過去に例のない症状を生み出したのです。
時機は前後しますが、6月にはエルヴィス・プレスリーの全米№1ヒット曲「ハートブレイク・ホテル」に日本語の歌詞をつけ、小坂一也が歌ったカバーソングが発売されました。
これが本国アメリカで“不良の音楽”と呼ばれたロックン・ロールの本格的日本上陸です。
ヤンキー・ウイルスが日本国内で増殖した結果とも言えるレコードはヒットチャートを賑わし、年末のNHK紅白歌合戦に小坂一也が出場するほどの大ヒット曲に。


掲載元 ラジオ歌謡選抜公式blog

ますます猛威を奮うヤンキー・ウイルスに侵されていく日本の少年少女たち。“不良”への抵抗感を失っていった彼らの不良化は進み、1954年に底を打った触法補導少年・少女は、この年から毎年、前年を更新しながら上昇していくのでした。
かくて享楽や好奇心で不良行為を行う新たな世代が誕生しました。

そして1961年12月23日、究極のヤンキー・ウイルスが日本に上陸します。
『ウエストサイド物語』
です。


掲載元 Indian Television

ニューヨーク・ウエストサイドでふたつの不良少年団の対立を背景にした悲恋を描くブロードウェイ・ミュージカルの映画化です。

映画が始まると観客の目に信じられない光景が映し出されます。不良がオラオラ歩きながら踊り出したのです。そして敵対するグループに出くわすと、指を鳴らしながら追い回し、ダンスの如き喧嘩を始めます。これまで見たことのないカッコいい不良たちに少年少女が熱狂しました。中でも映画の象徴とも言える足上げポーズを決めるジョージ・チャキリスは少女たちの憧れになりました。そして映画は1963年5月17日までの511日間、東京で上映され続けるロングヒットを記録します。
踊らせることで不良をファンタジー化させた最強のヤンキー・ウイルス『ウエストサイド物語』になすすべもなく感染してしまった少年少女たち。彼らはますます不良への恐れや不良化への躊躇いをなくしていきました。

そして『ウエストサイド物語』が公開終了した翌年の1964(昭和39)年。補導された少年少女は23.5万人という過去最悪の数になってしまいました。


※令和3年版 犯罪白書 第3編/第1章/第1節/1 よりケムール編集部作成


「…う~ん…」
「担当はん、これでもヤンキー・ウイルスを笑いますか?」
「…64年から不良少年は増え続けたんですか?」
「減っていったんです」
「どうして?」
ベトナム戦争ですわ。アメリカの不良少年たちが戦争に行ったため、Y-ウイルス流行が止まり、日本にも入って来なくなったんです。一方で中流以上の家庭に生まれ、不良化しなかった少年少女は政治意識に目覚めて学生運動を始めたり、ヒッピーに憧れを持つようになりました。そんな時代の変化は『ウエストサイド物語』と同時代の不良少年を描いた『ワンダラーズ』(’79)で象徴的に描かれています」
「ヤンキー・ウイルスは日本からも消滅したんですね!良かった!」
「いえ、この時期、突然、日本古来のウイルスが蘇ったんです」
「ーーえ?」
バンカラ・ウイルスです

【第2波・1960~70年代前期】B-ウイルス、深く静かに侵食す

©日活

明治時代、ハイカラと呼ばれた西洋文化に影響されたお洒落な人や風俗に対抗して日本古来の精神を荒々しさで表現しようとする若者たちが現れました。着崩した学生服を着て、女性と親しくすることを忌避し、硬派を自称する彼らは“バンカラ”と呼ばれました。
高橋英樹主演『けんかえれじい』(‘66)に登場する昭和初期の旧制中学に通う学生たち。
女性と親しくなることを“軟派”として忌避し、喧嘩の強さで男らしさを競う彼らが“バンカラ”の究極型です。
その喧嘩法は殺人の一歩手前。剃刀を仕込んだ学生帽、木刀、鎌、鍬、剣山付の紐たわしを使って大乱闘を繰り広げます。『理由なき反抗』『ウエストサイド物語』で描かれた決闘とは比べ物にならない野蛮さでした。明治から昭和初期に流行したバンカラ・ウイルスは少年たちを「喧嘩上等!」にしていきます。

©日活

そんなウイルスが、1960年代後半に蘇ったのです。
ウイルスに感染する可能性が高かったのは大学に進学する学力のない少年たちでした。かくて多くの硬派不良グループが生まれ、グループの中で喧嘩が一番強い者がリーダーになり、“番長”と呼ばれるようになります。
こうしてバンカラ・ウイルスは番長ウイルスに変異したのでした。そして番長ウイルスに感染した者の中には本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』に影響され、他地域の不良を従える“総番”を夢みる者も存在しました。


掲載元 eBookJapan – Yahoo! JAPAN

バンカラ学生が街を闊歩していたのと同じ頃には不良少女も存在していました。彼女たちは繁華街にたむろし、逆ナンパをした男性から金品を巻き上げていたと言います。番長ウイルスはそんな不良少女“女番長”をも蘇らせました。
世間の耳目を集めた彼女たちは、1970年前後に映画の素材になります。和田アキ子主演『女番長 野良猫ロック』(‘70)、大信田礼子主演『ずべ公番長』(‘70)、夏純子主演の『女子学園』(‘70)といった映画が製作され、いずれもシリーズ化される程の人気を集めました。その後、 “女番長”に“スケバン”と読み仮名がふられ、その呼び名が一般的になりました。

©日活

“スケバン”映画にはいくつか特色があります。
ひとつは映画の中の不良少女たちに過去や背景がないことです。彼女たちの家庭環境や、どうして不良になったのかは殆ど描かれません。
もうひとつは衣装。現実の不良女子はセーラー服に長いスカートで、マスクをしていたのですが、映画で描かれる不良少女はデニムの上下やカラフルなパンタロンに身を包んでとってもファッショナブル。
みっつめはスモーキング・スタイル。『野良猫ロック』の和田アキ子、『女番長』(’73)の杉本美樹のくわえ煙草姿は堂に入っていて、下手な男よりクールでした。男顔負けの彼女たちの振る舞いは同じ時期に始まった女性解放運動(ウーマン・リブ)の影響があるのかもしれません。


© 東映

しかし番長ウイルスが広がったのは一瞬でした。
1970年を境に補導逮捕される少年少女が減っていったのです。そして1972(昭和47)~1977(昭和48)年の間は20万人を割り込みました。これは1962年以来の少なさでした。

※令和3年版 犯罪白書 第3編/第1章/第1節/1 よりケムール編集部作成


「日本は少年少女を不良化させるウイルスとの戦いに勝ったってことですね!」
「ところが、そう思ったのも束の間、人知れずウイルスは変異増殖を続けていたのです」
「…え?」
「木刀やヌンチャクといった凶器で武装した、少年グループが多数現れたんです」
「バンカラ…」
「彼らは抗争を繰り広げ、勝ったグループは負けたグループを傘下に収めていきます」
「番長…」
「そしてバイクで暴走行為を繰り返したのです」
「暴走族! バンカラもB・・・番長もB・・・暴走族もBじゃないですか!B-ウイルスは進化していたんですね!」
「それだけではありません。彼らの好む音楽はバンドのメンバーがリーゼントのキャロルやクールスが演奏する・・・」
「ロックン・ロール!!」
「そうです。ベトナム戦争が終わって、ヤンキー・ウイルスも日本に帰ってきたのです。かくて不良性感度を上げるすべてのウイルスが魔合体を果たしました!」
「!!」
「1970年代後半、大阪では不良をこう呼ぶようになりました・・・ヤンキー・・・と」
な・・・なんだってーーー!!」

【第3波・1980年代】”魔合体Y-ウイルス”パンデミック!!


掲載元 @卑弥呼 – エキサイトブログ

魔合体したヤンキー・ウイルスの猛威は日本中を覆います。ウイルスに感染した少年少女は一見してそれと分かるファッションになりました。男子は長ラン、短ランと呼ばれる学生服、ズボンはボンタンにサンダル。女子は長いスカートに丈の短いブレザーやセーラー服。ヘアスタイルは茶髪にパーマ、リーゼント、ペチャンコに潰した鞄を持つのが標準スタイルでした。

1978年、検挙補導された少年少女が前年より約2万人も急増すると、その数は毎年右肩上がりになっていきます。そして1980年、警察庁の調査によると暴走族は全国に754グループ、その数約4万人に拡大したのです。
1980年、ロックン・ロール・バンド“横浜銀蠅”『ツッパリHigh School Rock& Roll(登校編)』“なめ猫”グッズの大ヒットによって、関西以外では “ツッパリ”と呼ばれたヤンキー・ウイルス感染者が急増。検挙補導された少年少女は1980(昭和55)年に戦後初めて25万人を突破します。


掲載元 Re:minder – リマインダー

この頃、筆者が通っていた学校の様子はどうだったかと言うと、男子の更衣室は排煙システムのない喫煙所状態、リノリウムの床は煙草をもみ消した後の黒い焼け焦げがそこかしこにある有様。こんな生徒ばかりの学校でしたから、進級する毎に退学・留年でクラス数が減っていったのが今も記憶に残っています。またこの頃、「荒れる教室」としてマスコミに取り上げられる中学校も全国に多数ありました。ヤンキー・ウイルスのパンデミックが起きていたのです。

遂に1983(昭和58)年、約31.7万人という戦後、いや日本史上最悪の検挙補導された少年少女数を記録してしまいます。


※令和3年版 犯罪白書 第3編/第1章/第1節/1 よりケムール編集部作成

こんな状況ゆえに80年代は“ヤンキー/ツッパリ/スケバン”が大流行します。それも1970年代以上に広く一般化し、もはやブームでした。歌番組では不良少年少女風のアイドルが歌って踊り、スケバンが刑事になって悪を討ち、マンガ誌では暴走族がギャグをかましていました。そして映画では1985~1988年、『ビー・バップ・ハイスクール』が人気シリーズとして映画界に君臨し、多くの類似映画が制作されたのです。


© 東映

© 東映

そんな時代の不良映画の変わり種は『積木くずし』(’83)。娘が不良少女になってしまった俳優の手記を映画化した作品です。これを観ると当時の親にとって我が子の不良化は“悪魔憑き”と変わらないホラーだったということがよく分かります。

© 1983 東宝

その後もヤンキー・ウイルスの感染力は衰えず、毎年多くの少年少女が餌食になりました。結局、検挙補導少年少女が1961年の第一次ピークと同等の12.5万人に下がるまでには20年の月日がかかったのでした。

日本はY-ウイルスに勝てるのか?

掲載元 令和3年版 犯罪白書 第3編/第1章/第1節/1

「令和の現在、検挙補導された少年少女は何人なんですか?」
「約3.7万人です」
「1983年の10分の1…!日本は遂にヤンキー・ウイルスを駆除したんですね!」
「いや…喜んでられませんねん」
「どうしてですか!」
「…今、キレる老人とかよくニュースになりますやろ?」
「ええ」
「あの老人たちが10代の頃は、非行少年が第2のピークだった1960年代なんですわ。歳を取ると子どもに戻るって言いますやん。もしかしてお年寄りたちは…」
「不良少年・少女返りを起こしていると言うんですか!」
「その可能性はあると思いますねん。そいで83年の31.7万人ですわ。この世代が老人になった時のことを考えると…」
「今の老人の比ではない…」
「あの時代、二十歳前後やった私は発症せんかっただけでヤンキー・ウイルスが潜伏してるかもしれまへん」
「考えすぎですよ…」
「そんなん、分からしませんやん…だから歳を取るのが怖くて、怖くて…」
「あっ、そうだ!あの映画を観てください。そうしたら不良老人になるのも怖くない。いや、かえってなりたいって思いますよ」
「どの映画ですの?」
「これです!」


© Matten Productions GmbH & Co. KG

私「クリント・イーストウッドやないかぁ!」


▶いままでの「シガレット・バーン/映画的喫煙術」

著:小玉大輔(https://twitter.com/eigaoh2
扉絵:Tony Stella(https://twitter.com/studiotstella

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