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「ぼっちちゃんの匂いがする」
真夜中のSTARRY。
ドリンク渡し台カウンターの下。
しゃがみこんで対面で抱き着く店長さんと、抱き着かれている私。
店には私たち以外、誰もいない。
店長さんが私のうなじを嗅いでいる。抱きしめられているから、身動きができない。わたしはされるがまま。
「あ……」
いい匂いなんかしないわたし。恥ずかしい。きっと、押し入れのにおいがするんだ。
「押し入れの匂いがする」
そういって吸い込む店長さん。
やっぱり。そうです。私は押し入れのにおいがします。理由は、押し入れにばっかりいるからです。
「わたしは押し入れ女です。押し入れの臭いを振りまく、歩く防虫剤こと後藤ゴンです。聴いてください、タンスに後藤の歌」
「何言ってんのぼっちちゃん」
「うぅ」
「いい匂いだよ。安心する匂い。とってもいい」
そもそも私はなんで店長さんにこんな匂い嗅がれてるんだろう。今日は練習に熱中していたら長引いて。それならいっそということで虹夏ちゃんの家に泊めてもらう事になっていた。それでSTARRYの上のお家で夕飯の支度をしてくれている虹夏ちゃんを待つ間、泊めてもらうから一宿一飯の恩義は返さなくちゃいけないって店長さんの掃除の手伝いをしていたんだ。それでお店に残っていたもう捨てなくちゃいけないドリンクの破棄とかを二人で手分けしていたら、気が付いたらこうなっていた。
「ほんとにいい匂いだ」
「あ、あの」
「ん?」
店長さんはトロンとした目で私を見る。
「なんで嗅ぐんですか?」
「そこにぼっちちゃんがいるから」
無邪気なお返事。これが本当にあの店長さんなのか?顔は真っ赤だし、なんだか怖いくらい笑顔だし。もしかして店長さんも私と同じで形態が変化するタイプだったのかな。
「ん、なんか違う匂いがする」
ううぅ。もうこれ以上、後藤ひとりの匂いを分析するのは勘弁してほしい。またなんか変な匂いが検出されてしまう。今朝、ジャージに少し零したまま面倒で放置してしまった牛乳の匂いとか!うっかり洗濯し忘れてポケットに入っていたハンカチの生乾きのにおいとか!
「ここだ」
店長さんは、わたしの手の指に頬をつけて嗅いだ。
「金属の匂い。懐かしい、ギターの匂いがする」
すんすんと夢中にかいでいる店長さん。
「そんなの、しないと思います……」
「ううん。するよ。ぼっちちゃん、ギターの匂いがする。ずっとギター触ってて、もう染みついちゃったみたいなギターのにおい」
「そう、なんですか?」
自分の体臭はわからないというけれど。まさかそんな匂いが本当にしているなんてありえるのだろうか。
「うん。ぼっちちゃんだけの、本当にいい匂い」
どう反応したらいいんだろう。でも、うれしいような恥ずかしいようなそんな不思議でぽわぽわした気持ちになる。陽キャなら、ここから嗅ぎ返すのかな。こんなに近くに店長さんがいるから、嗅ごうとしなくて、店長さんの匂いも漂ってくる。薄い大人の香水の匂い。なんなんだろう。スミレみたいな。そこに、お店のお客さんから移った煙草の甘い匂いがする。化粧の匂いもする。やっぱり、私なんかとは全然違う。
「ねぇ、ぼっちちゃん」
店長さんが上目遣いで私を見る。
「ずっと嗅いでていい?」
そんなこと言われても。どう答えたらいいのかわからない。でも、こうして静まり返ったライブハウスの誰にも見つからない場所で、店長さんとこうして二人でいるのは、そんなに嫌ではないような———。
「あー!何やってんのお姉ちゃん!ぼっちちゃん溶けてるよ!」
静寂を破る元気な虹夏ちゃんの声が、カウンターの上から降ってくる。
「溶けてるぼっちちゃんも可愛いなぁ」
「あーこれ、あのお酒呑んだでしょ!廣井さんが間違って買ってきて取り上げた、えげつない度数のやつ!うっかりそこに置いておいたまんまだったやつ!」
「ああ、呑んだ。捨てんの勿体ないなぁってさぁ」
呂律が溶けている店長さんの甘い声が私の耳元から虹夏ちゃんに向けて発せられる。
「ていうか、何してんのお姉ちゃん……」
虹夏ちゃんがカウンター越しに覗き込んで来て、抱き合う私たちと目が合った。
「あの、匂いを、嗅がれてます……」
私がそういうと、STARRYの空気がいきなり変わる。今までの寂しさのある静けさから、この場に居たら殺られるという空気に変わった。
「お・ねえ・ちゃん?」
あ、怖い。虹夏ちゃん、まんがタイムきららMAXじゃ掲載できない顔してる。
「え?」
店長さんは、その虹夏ちゃんのあまりの怖さに、酔いを吹き飛ばされた。
「私、あれ?あ……」
酔いの醒めた店長さんは、私を抱きしめて私の体に顔を埋めている自分に気が付いたらしい。店長さんの顔は、みるみるうちに顔面蒼白になっていった。
「今日はハンバーグだよ~」
笑顔いっぱいの虹夏ちゃんが、テーブルに座る私の前に、可愛らしい丸々としたハンバーグを置いてくれる。趣味のいい優しいホワイトな食器たち。デミグラスソースのいい匂いが漂う笑顔の絶えない伊地知家の食卓。
「あ、ありがとう、ございます。いただきます」
「そんなかしこまらなくていいよ~」
いえ、かしこまっているのではなく、怖いっ。怖いんです!
伊地知家のリビングには、テーブルに座る私、エプロン姿の満面の笑みの虹夏ちゃん。
そして、すこし離れた床の上に正座している店長さんがいた。
「あ、あの、虹夏」
「なに、お姉ちゃん」
いつもの虹夏ちゃんからは想像できないような冷たい声が発せられる。
「いつまでこうして」
「ずっとだよ?」
笑顔が怖い。
「晩御飯は抜きね?」
「あ、はい」
これから店長さんと虹夏ちゃんを見る目が変わりそう。
「あ、スープ忘れてた!ちょっと待ってて」
虹夏ちゃんがパタパタと台所に行ってしまった。
シュンとしている正座姿の店長さんに、私は小声で尋ねる。
「あ、あの、いい匂いだっていうのは、ほんとうですか?」
店長さんは、我ながらすごいヤバい事したなぁっていう顔をしながら、目をそらす。
「やっぱり、臭かったですか……」
「いい匂いだったよ」
店長さんが、上目遣いで恥ずかしそうに私を見る。
「……また嗅ぎたいくらいには」
あ、この人、まったく反省していない。ダメな大人だ。何がダメかって、そう言われて私は少し嬉しくなってしまったから。
私、後藤ひとりは、ダメな大人はそれ以上にズルいということをこの日学んだ。