2023/2月中旬~3月下旬のVリスナーとしての気持ちの変化について

今月はV視聴日記といえるのかどうかは怪しい。前回2/8に書いたっきりなので今日3/30で50日ぐらい経過している。それで、まだ書き始めの1行目である。

ようやく書く気が起きたと言うよりは、多少なりとも形だけでも3月中のエントリを作っておくべきかな、という気持ちである。だから、今回は軽く触りだけになるだろう。

この日記のあと、なるたけ早く整理して、残りはまとめて書きたいとは思っている。

いまは整理できていないことを書くつもりはないのだが、2月後半から3月いっぱいが私にとって混乱していた時期だった、ということは記録にとどめておきたいと思う。

何が起きたのか?

私の身に、なにか大変なことが起きたわけではない。身内で不幸があったとか大病したとか仕事が火を吹いたとか、そうゆうハードさは一切ない。にも関わらず、この3年10ヶ月のV視聴経験の中で、今月ほど、Vを見る気持ちが辛かったことはない。

むしろ、逆だろう。

これまではプライベートがどうであれ、Vを見ることが気晴らしで希望でもあるオアシスのような救いになっていたが、今月はVを見る気持ちが定まらない気持ちの混乱があった。

どんな気持ちでVを見ればよいのか、自分自身が納得できていない混乱したものがあった。

それはV試聴という行為そのものに、どんな意味があるのか問われていたからだ。

この気持ちは、私にとってはV視聴経験上初めての出来事ではあるが、おそらく、かなり多くのVリスナーだった人たちが最後に感じた気持ちに近いものだろう、と予想している。

ここでネガティブな結論に達した人から順にVリスナーを卒業してゆくのだろう、と思う。

もともと、2月前半までは特段、思うこともない平凡な状態だった。

2月後半に差し掛かり、今月は書くこともないな、という印象だった。

この時点では、ホロライブのぺこらさんやマインクラフトまわりでの、ちょっと思うこと

  • ぺこらさんのスケジュール圧に見える懸念点
  • 箱売りの予定された弊害ともいうべきファン間の分断

また、先月の日記にも書いたとおり「自分に関係のないことには触れない」というポリシーで、Vニュース記事なども読まず、Vさんの配信中に話題にされた時事ネタぐらいで、

  • 女性Vによる「彼氏いない」「つくらない」宣言が流行した問題
  • 中南米向けVタレント事務所「Wactor」による元所属タレント自殺未遂と運営自身によるファン間の対立煽り、運営自身によるタレントのプライバシー侵害問題の醜聞
  • YouTuberピアノ実演家の「よみぃ」さんのアイドルマスターとのARどっきりコラボ
  • ホロライブ運営カバーの上場ニュース

ぐらいであった。

ここまでが2月下旬までの予定だった。

しかし、2月下旬にはいり、体調不良、とくに頭痛がひどくて、V視聴に支障が起きた。

ただし、日記を振り返ってみると、とくにプライベートや仕事量も滞っていたわけでもなく、自分が感じていた感覚がひどいだけで、外から見たら、いつもどおりだったかもしれない。

だが、たしかに私自身は2月下旬はひどい頭痛のため、V試聴を楽しめなくなっており、1月中であれば二窓・三窓してでも、いろんな人の声が聞きたいと思っていたものが、2窓すると吐き気がするし、1窓でも集中できないような気分になっていた。

おもえば、頭痛というよりは、少し遅れて発症した「季節性の鬱」だったのかもしれない。

鬱の1つの兆候として、それまで楽しかったことが楽しく感じられなくなることがあるが、それに近いものがあったようにも思う。

これまでの人生を振り返ると、2月~3月が、私にとっては最もメンタルがおかしくなる季節で、北欧あたりでは季節性鬱の対策を兼ねてビタミンDも配布されているとかも聞くから、気をつけていたつもりだが、そうゆう状況になっていたのかもしれない。

(適度な筋トレ、サプリメントとしてはトリプトファンやビタミンD、朝日をあびたりバナナを食べたりはしているつもりだった。)

この時点で、V日記を書ける状態ではなかったので必然的に予定していた3月初旬は通り過ぎて、そのうち

  • みこち誕生日3Dライブと、セルフ分人演出への嫌悪感
  • ホロライブ4thフェスと、アンチスパチャが言いたいこと
  • ミライアカリさん卒業と、初期V動画勢の衰退=有限ネタだったことが原因と思うこと
  • AIVTuberの登場による、むしろVに魂の実在性が問われる時代になった可能性

というイベントも経過して、時間だけ過ぎたというよりは、時間の経過とともに心のゴミが蓄積されていったようなイメージであろうか。

この結果、今日までの3月中は、とても悶々・鬱々とした時間となった感じである。

このメンタル不調の根本原因は、だいたいわかっている。

自分に関係のないことには触れない」というポリシーのせいである。

このポリシーは正しいとは思うが、自分に関わりがない、という線引きを考えたときに、最終的に「所詮すべて他人事」という気持ちは「関係性の切断になりかねない」ということ。

自分に関係のないことに関わりすぎることは心の消耗であり、一歩引く必要は正しい。だが、一方で、自分以外を切り捨てることは、世界から自分を切り離すこと、自分を虚しくする「魂の自殺」に等しく、心が荒れた状態のことでもある。

他者との関係性切断は「鬱の症状」を自ら実行しているに等しい。

この関係性の立ち位置の加減というものは、大変に難しい。

一方で、この「関係性の見直し(関係性の再構築 = リストラクチャリング)」は、すべて悪などではなく、むしろ今だから必要になっていたことも事実であろう。

ちょうど2月中には、V関連の費用を集計したところ、年末年始の1ヶ月ちょいだけで10万円近くの出費をしていて、私の収入からいえば分不相応な出費であり、ただちに引き締めなければならないという反省があった。

それぞれのVライバーさんたちは、自分のファンの負担にならないようにグッズやイベントを調整されているだろうが、それが複数人重なると、だれに、いくらをかけるかを調整するのは私の責任ではある。

漠然と、いろんな好みのVをみつけて、それぞれ応援したいという気持ちをもってしまったがゆえに、漫然と支出してしまっていた。

また、いまは二窓以上で見なければ追えないほど節操なく関心を広げすぎている。

その見直し、絞り込みは、いずれにしろ必要だった。

また、Vだけが原因ではない。

約2年前に婚活をはじめて、いろいろ興味深い経験もできたものの、とはいえ成果はなく、今後も見込みがないことからも、区切りをつけるべき(月額会費等が数万円かかる)時が来たともいえて、活動終了を考えていた。

これもまた、関係性の切断問題にかかるところはある。

むしろ、ここでの私自身の心のありようが、すべてに問題を波及させたともいえる。

  • Vへの応援としての支出/時間を絞る必要がある
  • 婚活終了

こうして改めて列挙してみると、これで鬱々とした気持ちにならないほうがおかしい気はしてきた。

2月~3月中の、これらの課題については、現時点で心の整理ができているわけではなく、Vに関連する話としては、もう少し整理してから4月中にでもまとめられれば良いとは思っている。

予告的に少し現時点の感想をいえば、おそらく、3月中旬ぐらいに世界線が変わったのだろう、という予感はある。地殻変動のようなものが起きたと考えている。

これらについては、今回の日記がまとまり次第、整理したいと思っている。

婚活終了の話

2年ぐらい前の今頃に書いたと思うが、男女比1:1である以上、私と対になる同じような気持ちの女性が「どこかにいる」かもしれない、という希望があって婚活を始めた。

私は、私が見ているVTuberさんたちの父親世代ぐらいの年齢の、未婚の独身男性であり、もし、今年子供を作ったとしても子供が大学卒業するまで安定した収入があるかどうかは極めて怪しい。また、お相手となる女性が妊娠できる期間も過ぎているだろう。

この年齢での婚活では、子供をつくることは期待していない。それは同年代の未婚の婚活女性も同様であろう。

人生の折り返しは過ぎたとはいえ、まだ長い人生において、独り身で過ごすことの寂しさのようなものがあるから、おそらく、女性は頼りがいのある男性をもとめて婚活していているのだろう、という感じはある。

同年代の未婚女性のプロフィールでは私と同等以上の年収も人もすくなくなく、医療事務や看護や教育関係の人の割合が多く見られる印象で、単に忙しくて出会いがなかった人たちであり、実生活は充実していることがうかがえる人が多い。ほとんどの人たちは、日々、楽しくやれていることがうかがえるから、少なくとも不幸な人生などではない。

私が非モテである理由や、私の改善すべき問題点は、ひとまずおいておくとして、私から見た事実でいえば、2年前から活動している殆どの女性が現在も活動中であった。

新潟県で活動中の婚活女性の一覧のうち、何名からいなくなっているのは成婚されたのかどうかはわからないが、ほとんどの女性の顔ぶれは、2年前から変わっていない。(この2年で、新しく入った人もいなそうではあるのだが。すべての人にお断りをいただいた状態になったので婚活終了する諦めがついたともいえる。)

つまるところ、彼女らは、私はともかく、私以外のどんな男性でも、2年間満足できるような人たちが現れなかった、ということなのだと思う。

いったい、どんな男性を待っているのかは、それは実在する人間なのかは定かではない。

結婚することで、いまよりも、もっと楽しい毎日が送れることを当然に期待されているであろうから、すでに充実した日々を送っている人には、愉快で楽しませてあげられるような男性が必要なのだろう、と思う。今の生活に足りないプラスαを求めている感じであろうか。

(そのような、男から見ても素敵だと思うような有望な男性はすでに独身ではないとは思う。ただし、死別等で婚活市場に現れるチャンスはあろう。)

また、私も、婚活当初抱いていた幻想のようなもの、たしかに、「この世の何処かで私と対となる女性がいる」かもしれない、という気持ちは、夢物語だと分かった。

それは例えて言えば、「この世のどこかで地面を掘れば油田にあたる」といっていることと大差ない。全国各地の女性にかたっぱしから声をかける労力も時間も資力なく、このアプローチはコストに見合わないことは明らかとなった。

それは宝くじを買うことの偶然と大差ないのではないか、という結論である。

結局のところ「宝くじは買うときが一番楽しい」という、希望を胸に抱いておくことで安心しておくのが、一番の精神安定なのだろうと思う。

40歳を過ぎた女性にとっては、もう子供を作れる可能性も少ないことは自覚していて、焦る必要はないのだろう。だから、宝くじにあたる気持ちで毎月高額の会費を払って、男性から声をかけられるのを待っているのではないのかな、という想像をしている。

私は結婚歴のない女性を優先条件にしていたが、人生経験が決定的に違うことや、子供や元夫との人間関係を含めて、とても手に余ると思うからだ。

一方で、女性の場合は、離婚や死別といった形の男性であってもさして問題はなさそうだな、という実感はあって、むしろ、経験豊富な成熟した男性が(死別や離婚などで)棚ぼた的に婚活をはじめるケースなどで、こうして未婚女性率は下がってゆくのだろうなぁ、という予想ができるものがあった。たいていの未婚女性は人生経験や女性経験の足りていない「頼りない」未婚男性など求めてはいないように思われる。

それを私に求められても、そのような経験も実績も作ってこなかった私には無理な話ではある。がんばって、どうにかなるものでもない。結局、他の大多数の男性も同じとは思うが。

(30歳前後の女性であれば、これから長期的な計画にもとづいて、ローンを組んで家を立て子供を生んで云々と考えれば、少なくとも一定の収入のある最悪でも40前の男性でないと計画が成り立たない。一般男性にとって家庭をもてる最後のチャンスは30代であろう。)

しかし、これ以上は見込みがなく撤退するのが妥当である、という事実を受け入れるのには、少し時間がかかった。

頭では理解していても、やはり心が納得できていない。

婚活当初は、婚活中の女性の写真をみながら、このなかの誰かとお付き合いできるかもしれない、という希望があった。少なくとも、婚活中であり「男性に好いてほしい」というアピールをしているわけで、このひとを好きになっても良いのかな、という気持ちはあった。

2年たって同じ顔ぶれの写真をみても、もう、そのような気持ちにはならない。

このひとたちは「好きになってほしいという微笑でアピールをしているが、それは私に対して向けられた笑顔ではない」という事実が分かったからだ。

ここの誰もが「私とは無関係な人」だったと分かった。

すでに断られた人だけでなく、新潟県以外の女性を検索したところで、たぶん、同じ結果になるとしか思えない。「人それぞれ違うからワンチャンある」と思うことはできない。

実際、その可能性はないだろう。新潟県の女性だけが特別だとは思わないからだ。

仮にワンチャンぐらいあったとしても交際に至るまでのコストが高すぎて維持できない。私の資力・労力・時間的なリソースとしての制約でご縁がなかったというしかない。

油田を当てるまで掘り続けるような徒労は私には無理な話である。

この「自分には無理・無関係だったと分かったときの気持ちの落ち込み」は、なかなか慣れるものでもなく、むしろ、沈んで当然なのだろうと思う。

似たようなことは人生に何度か思い出すことはできる。

私の幼稚園時代には、近所に、とても仲が良い友人がいて、その子とばかり遊んでいた。それが小学校に入っても続いていたのだが、ある日、遊びにいったら別の友達たちと〇〇さん家に呼ばれていったと聞いて、当時の私は、なんの疑いもなく、私も、その○○さんの家に遊びにいって、呼ばれてもいないのに、当然、仲間にいれてもらえるとおもっていたのに、「お前何しに来たんだ、お前は呼んでないぞ、帰れ」と言われて、呆然とした覚えがある。

この子は私以外とも親しく遊んでいたようだから当然なのだろう。しかし、私は、その○○さんとは親しくはしてなかったから、呼ばれなくて当然ではある。しかし、当時は、仲間はずれにされたような悔しさやイジケた気持ちをもった覚えがある。(仲が良かった子は、その後転校して今となっては消息不明だが、逆に○○さんとは最近でも時々会う同期らしい関係にはなった。)

似たような間違いは大学時代にもあった。

当時、ゲームセンターでアルバイトをしていて、アルバイト仲間の友人とは気心の知れた同士のような関係だと思っていた。そのうちの一人の友人はジョークでよく笑わせてくれる冗談好きの学生だった。ゲームセンターには秋頃から常連となった、ちょっとかわったファッションをする女子高生がいて、最近、よく遊びに来ているな、とは思っていたが、2月になってバレンタインの日、その子がチョコを店員に配っているのをみて、何故か、私の番はいつかな、とソワソワしてしまった。しかし、それを見たのか、そのJKが「えっ、あっ」という表情をしたとき、私の分はないのだと、そのときに分かった。なぜ貰えるのだと思ったのか今となっては私の思考が不思議でならない。そのJKがジョーク好きの店員と親しく話している様子は見ていたし、他のアルバイトたちとも交流はあったが、私とは親しく話したことはない子だった。しかし、なぜか、たいして話したこともないJKからチョコを貰えると思っていた。

それに気がついた瞬間、期待していた自分が恥ずかしいやらショックやら感情がぐちゃぐちゃになって、そうゆう醜態を女の子に見られていると思うと、更に恥ずかしくて悲しくて、文字通り、顔面蒼白になったり真っ赤になったり、血圧が上がったり血の気が引いたりで、顔色が忙しいことになっていたような記憶がある。正直、そのあと、どうなったのか、その後の記憶がない。

とはいえ、いずれの場合も、わかりやすく理由があって、それには合理的に説明がつく正当な理由もある。理不尽なことではない。

要するに「関係を結ぼうとしていなかったのに、関係があるように振る舞うことの恥ずかしさ」というところであろう。

○○さんとも親しく遊んでいれば、私も○○さんの家に呼ばれたかもしれないし、JKと雑談とか楽しくアプローチでもしていれば、私も義理チョコをもらえたかもしれない。

これは私の幼少期から持っている間違いパターンだといえるだろう。

ここまで筋道を立てて、ようやく、「この会には、私は、お呼びではなかったのだ」ということを納得して退会する気持ちを固めることができた。

また、これで私の婚活は終了するが、これは「諦めた」わけではない。

可能性として私が生涯未婚である確率は確定未来で100%である。しかし、だとしても決して出会いが0%だと思ってはならない。(確定未来は変動する。現在の状態であれば将来到達する場所が確定未来であり、現状が変動すれば未来も変わってゆくからだ。)

人は100%死ぬ。しかし死ぬことを目指してはならない。この境地に至るのは難しい。

ロマンチックな言い方をすれば、死ぬ3日前であっても人生で出会うべき人に出会えたのなら、それは意味のある人生だったといえると思える。

この、たかが婚活サービスを退会する決意を固めて、この気持までもってゆくまでに3週間ぐらいかかった。

婚活とV視聴の気持ちが連動していたこと

もともと私が婚活を始めたのは、Vライバーさんの配信をみて、女性と過ごす日常というものは良いものだな、という気持ちが膨らんできたためである。婚活市場で売れ残りである自覚はあるが、それでもチャレンジしてみる価値はあるかな、と思い至ったのは、それだけの魅力があるだろう、と思えたからである。

結局、それは叶わなかったことから、合理的な判断として撤退することに決めたが、それによって同時に、Vライバーさんに対する気持ちも冷えるような自覚があった。

なぜ、気持ちが連動しているのか?

Vライバーに対する好意的な気持ちも、婚活にかける期待のような気持ちも、どちらも同じもの(生理的にはオキシトシンの作用か?)から生まれたもので、例えて言えば、同じバルブにつながっていて、片方をへらすということは、もう片方も減らすことになるのだと感じられるものがある。

このメカニズムは人により違うかもしれないが、かつてマリン船長の配信で「VTuberと付き合える可能性がワンチャンあるかもしれないとジムに通うようになったら彼女ができました」みたいな報告赤スパがあったことからも、だいたい似たようなものではないかと思う。

一方で、私の場合、VTuberは、ほとんど女性Vしかみておらず、男性Vは懲役太郎さんぐらいである。

この女性Vへの気持ちは、愛情に属する「友愛・親愛・敬愛の情」に近い。

しかし、常々言うように、「恋愛感情ではない」と考えるのは、

  • そもそも恋愛売りではなく、現実とのつながりは求めていない
  • 現実とつながれるとしても、父と娘ほどの年齢差がある
  • 穏やかに見守りたい気持ちが強い

これは私の年齢的なものが大きいと思う。

だから、もしかすれば、10~20代の男性であれば「恋愛感情」のように感じている人も多いのかもしれない。

しかし、だとしても、これも以前考察したように、本人が感じている恋愛感情だと思っているものが、本当に恋愛感情であるのかは定かではない。そのように感じているだけで、本当は、そうではないのではないか、という疑念はある。

愛情というものは、同じ源泉につながっているもので、それが友愛となるのか恋愛となるのかは、思春期真っ只中にある場合には、区別がつかない。どのような愛情も恋愛感情に結びつけてしまう性質があるように思われる。

だから、アイドルファンの処女厨「ユニコーン」のようなものも、本当は、恋愛感情ではなくて「自分も独り身であるという状況を共有・共感できる女友達という仲間意識でありたい」という気持ちと、思春期特有の「だれかを愛したい=自分も誰かとつながっていたい」という切実な気持ちが、恋愛感情のように混同されたものではないか、と想像するものがある。

だから、タレントの結婚や交際の報道に「裏切られた」という気持ちになるのではないか?(これは女性でも同じではないかと想像する。)

今月は、V界隈では「彼氏いない宣言」「彼氏つくらない宣言」する女性Vさんがみられたことを、私の見ている何人かの女性Vさんも雑談中に言及する程度には話題になっていたようだが、私はユニコーンなどは恋愛感情でない部分も大きいと見ているから、「恋愛感情を向けられているのだ」という誤解から、反応や対応を誤っているタレント(Vライバー)も少なくないのではないのか、と思っている。

人間関係を金銭の大小で量る卑しさと芸能のビジネスとしての卑しさ

今月、とくに典型的ではないか、と思えるスパチャとしては、ホロライブ4thフェス前日の、兎田ぺこらさんの「スリザリオ」配信中に投げられた低額スパチャだろう。

  • 「高額なスパチャを送る人は何が目的なんやろな。映像の中だけでしか実体が無い女に貢ぐ金があるなら3次元の女に貢げば良いのに。
    メンバー登録もそうだがいくら金を貢ごうが視聴者のことは金としか見ないよ。
    どうせ読まぬだろうが一応言う余、人を思いやる気持ちがあって優しいな。
    可愛くないのに自称アイドルは痛いぞぺこら」
  • 「オフコラボゆうとるがお前実体ねえやろが。二次元の女やアイドルに貢ぎ続ける人は無能な信者なんやろな。」

ここから読み取れるものは非常に多い。

まず、ホロライブ4thフェス前日ということもあり、ホロライバーのほとんど、ホロジュールによると、ぺこらさんの他には、おかゆ先輩が配信していたらしいこと以外、だれも配信していない日だった。

ぺこらさんが配信してくれたことは、これから述べる私企業の姿勢としてネガティブな評価からすれば、私にとっては非常に望ましいタレントとしての矜持だったと思う。

このスパチャ主は、その文面からも、ぺこらさんのファンではないだろう。しかし、Vアンチっぽい文面ながらも、ホロライブを見ていた人であることも予想できる。

文末に「~する余」みたいな特徴的な書き方は、日本語変換の誤変換などで起きるものとは考えにくく、いつも書いていたから学習されていたための変換なのではないか、という予想ができる。あるいは、あえて自分が、あやめ先輩のファンであることをアピールしたかった、という可能性もある。ともかく、「~余」という文末は偶然ではないだろう。

これは先月の日記でも私が予想していたように、このようなリアルライブ、フェスでは、参加できない人たちが反転してしまう、ファンだった人間の「フォールガイズイベント」になる性質がある。これは、過去4年間見てきて断言できる現象である。

ついて行けなくなったときに脱落する人間が反転する。

穏やかに興味がなくなって、いなくなるだけなら、タレントが寂しがるだけかもしれないが、絶望レベルで気持ちが絶たれたときには、一定数が反転してゆく性質がある。

それまでの気持ちの裏返しだからだから、憎しみも苛烈になろう。

自分の気持ちが通じないのだという諦めが生まれたとき、嫌いになりたくないのに、自分の気持ちが受け取ってもらえない現実に打ちのめされて反転してしまう。

どうして反転するのかも、先に示した私の婚活を諦めることがVへの熱が覚めることと連動していた問題と同じなのだろう、と思う。

私自身、今月に体験したことではあるが、(私の可処分所得の問題で)スパチャ額等を減らすだけで関わり合いが薄くなる気持ちになる。あるいは、視聴についてゆけなくなる時間が増えるごとに、つまり、視聴する時間を減らすごとに、その人との関係性が離れてゆく気持ちになる。一度増やしたものを少し減らすだけでも気持ちが冷えるものがある。

これはライバーとリスナーは相互の関係性で成り立っているコミュニティだからだ。

一般的に関与を薄めるということは、気持ちが冷めた証拠とみなされるだろう。

愛情とは量ではなくベクトルなのだ。方向性が下がったときに、愛ではなく嫉みのような悪感情を感じるようになっているのだと考えられる。

その気持ち悪さ、自己矛盾に耐えられないから、それまで高まっていたはずの愛情に未来が感じられず、下降線に冷えはじめた矛盾に耐えられずに、一足飛びに反転することで心のバランスをとろうとしているのだろう。

また、この方が、フェス前日に、ライバーに大金を払うことの無意味さを説くのは、自分が払えないことの自己正当化であろう。本当は参加したかったのだと思う。

(また、2番目のスパチャも特徴的だろう。自分がお金を払わない理由を、あえて「アバターを着た人間」ではなく、「実在しない二次元絵」だと見立てることで「存在しないものに金を払うのは馬鹿だ」というように自分を納得させたかった。だが、ぺこらさんが配信中でオフコラボの話をしたことで、二次元絵ではない実在するタレントであることをつきつけられ、自分を納得させようとした論理、空想が破綻してしまい、それに発狂した感じであろう。この自己矛盾から、どうしても否定せずにはいられない気持ちになったのだろう。)

これこそが恋愛感情とは違うところであろう。

「一緒にいたい、仲間でありたい」という気持ちだから、ついてゆけないことに仲間外れにされたような気持ちになる。

(私も経験した)「王女様のお誕生日会に行けなかった13番目の魔女」の気持ちになる。

ライバーはコミュニティであり、共感性で成り立っている。

今月、AnyColorがプライム市場にクラスチェンジするニュースで、今期の収益性が前期2倍に達したらしい高収益性について、12月の「にじさんじ歌謡祭」しかリアルイベントがないはずなのに、これが相当儲かったということだ、と分析されていた方がいた。

おそらく事実であり、このリアルイベントが今期のAnyColorの莫大な収益源だった。

しかし、このアナリストはVTuberファンの前述の性質を知っているわけではない。

むしろ、芸能界に詳しいはずのテレビ局の人間でさえわかっていなかった。

かつて、テレビ朝日の人間が、ガリベンガーVとシロ生誕祭の抱き合わせ1.6万円チケットが馬鹿売れしたことで「オタクの購買力はすごい」「この売り方は正しかったのだ」とご満悦で、会社からも「金一封もらった」とはしゃいで記事にしていた愚かさが思い出される。

イベント企画した当事者が、オタクが喜んで金を払っているのだと思っていたのだ。

本当は、なけなしの生活費を削ってまでして、忠誠心のような、共同体を維持したいがためにお金を払っているのだということを理解していない。もやし生活してでも推し活にお金を捧げることで自分のつながりを守りたいという切実な気持ちだ。

アーティストのライブや展覧会を見にゆくような観光や趣味・娯楽の延長としての対価として支払ったのではなく、「ファン会費」として支払った、みかじめ料みたいなものだろう。

動画勢が衰退期にはいったとはいえ、この生誕祭を堺にして、それまで伸び続けていた電脳少女シロの登録者数が、文字通り「ピタリ」と止まったのは偶然ではないだろう。

アップランドはテレ朝にそそのかされ、一時的な、わずかなお金をテレビ局に入れるために、ファンの小さな芽を摘んで、それを換金してしまったのだ。

その後残ったのは、狂信的な、引くに引けないコストをつぎ込んでしまった人たちだけになってしまった。それまで「グループ」につぎ込んだサンクコストが高すぎて、もはや冷静な気持ちでいられない人たちが、その後の事件で相次いで爆発してしまった。

つまり、「コミュニティに対して重税を掛けているに等しいイベントの連発」は、ただただ内在するフラストレーションを高めているだけにすぎない。

収益性が高いなどと喜んでいるのは、全く浅薄で愚かな分析だとしか思えない。

(これがグッズなどの物販であれば、この問題は起きにくい。商品という目に見えるものの代価であって、参加する体験型、経験型、つまり気持ちを商品にしているからではないからだ。しかし、「信者なら買わなければならない」という物品以上の価値、メンバーの証のような「プレミアム(付加価値)」が与えられているのであれば、やはり同様な問題は起きる。)

このスパチャでは「視聴者のことは金としか見てないよ」というセリフは、にじさんじも、ホロライブも、上場している営利企業であって、お金を稼ぐためにタレントを使っている以上、視聴者を金として計算していることは間違いない。それはタレントさんがどう思っているかは関係なく、現実として、視聴者は金づるであって、どれだけお金を払わせるか思案するのがビジネスである。そうゆう商売を行っている企業である。

ただし、それは2次元美少女のVに限った話でなく、「現実の女」でも同じであり、水商売の人、キャバクラであっても同様である。「人間関係をお金の大小で量るビジネス」は、すべからく、卑しいものだといって良い。

私は常々言うように、タレントを推す気持ちは、正しく神社仏閣と同じようなものであるべきだ、と考えている。

人数を数えられる程度のネームドな太客/篤志家が神社仏閣を支えているが、10円、100円しか払わない無名の大勢の参拝客を無視してよいものではない。むしろ、逆である。本来、正月の初詣客を安全に警備誘導するための人件費を考えれば、10円、100円しか投げない参拝客のお賽銭を全部集めても、赤字かトントン程度になるところが多いと言われている。儲かるところは一部である。それでも、その参拝客は大切である。神社仏閣を支える篤志家は、大勢の人たちに崇敬される公共財としてみているからこそ、その大勢の人たちのために大金を払って維持費を負担してくれているからだ。

同様に芸能も、人気があるからこそ太客がついてくれるものである。イベントは、太客のためではなく、そうゆう大多数のお金にならない人たちのためのイベントである。

また、神社仏閣は金額で人を測るものではない。貧しい人は出せる気持ちだけでも、富める人も富める人なりに負担するのが粋というものであり、それは、神道であろうがキリスト教であろうがイスラム教であろうが、かわりない。

人の気持ちは金額では測れないからだ。

お金を払った人が優先的になにかご利益があるわけではなく、だれもが等しく、見返りを求めずに、日々の感謝の気持ちでお金を捧げるようなものであるべきだろう。

わかりやすく言えば、自分の可処分所得からの比率で判断されるべきものである。

(だから、葬式仏教のように金額で戒名がかわるなどは本来、もってのほかである。お寺に生前よくしてくれた人の徳を偲んで、せめて良い戒名をつけるのならわかる。しかし、戒名をセールスする、いまの葬式仏教は本来のあるべき姿から逸脱している。もはや商売であって宗教などではない。すべてが、そんな寺ではないが、そうゆう寺がはびこっているのは事実であろう。)

これをタレントに言い換えれば、楽しませてくれてありがとう、パーティー設営代くらいは支払うよ、という感じであろうか。(とはいえ、結婚式のご祝儀のようなもので、それでも連発されれば辛いものがある。)

本来、イベントとは、開催するために掛けた費用を回収するぐらいのものであって、儲けるものではないだろう、とは思う。

営利企業である以上、それを望むのは難しいだろうか?私は、そうは思わない。

それをするかどうかは、その企業のポリシーによるところだろう。

リアルアーティストは現実にチャリティライブのようなものをしばしば開く。ライブ費用を回収したら、余剰金は寄付金に回すようなことは、しばしば行われるではないか。

アーティストは楽曲を聞いてもらうことが本業であり、イベント興行ではないからだろう。

VTuberはネットでの配信が本業であり、リアルイベントのネット視聴に数千円も支払う必要は、本来はない。メインの視聴者が中高生~大学生だとすれば、もっと安くても良い。

その意味で、一昨年までの、にじさんじ歌謡祭は、正しい姿勢だったと思う。

それを昨年からのAnyColorやCoverがしないのは、単に、利益を出すことを優先しているからに他ならない。

中高生は「今は学生だから仕方ない、いずれ自分も存分にアルバイトできるようなれば払えるはず」という期待があるから待っていられるのかもしれないが、実際に大学生になってアルバイトするようになったとき、自分の労働の対価として得られた金額に対する費用対効果を冷静にみて、どう思うのか、私は危うさがあるのではないか、とは思っている。

たとえば、ホロライブは今年、海外でのリアルライブを開くことになるが、それまで日本開催だから行けなくても仕方ない、と割り切っていた人たちが、参加するかしないかを踏み絵を迫られることになるだろう。(とくに個人ではなくグループ大型ライブであれば。)

日本人よりも率直に感情を表す人たちであるから、日本と同じ感覚で「オタクならついてこられるはず」みたいなテレ朝みたいな居丈高なやり方をすれば、私は確実に騒動が起きるだろう、と予想している。反応がわかりやすい分、慎重に開催を選ぶことは可能なはずだ。

(もっとも、AnyColorもCoverもベンチャーとして投資してもらっている分をベンチャーキャピタルに回収してもらう必要があって、株価を高くしておかなければならない義務のようなものはある。4年以上も育ててもらった恩を返すという点では、今は、そのあたりを割り引いて評価する必要はあるとは思っている。)

(とくに、今回のカバーの上場は、AnyColorと違ってロックアップ期間もなくVCが売れるようなものらしいから、その点でいえば、かつてカバーが中国系協力会社に頭があがらずにまったく内容が異なる二枚舌広報を出さざるを得なかった大問題をみれば、一部のVCに社長以上の権限で経営を左右されるよりは、早く手放してもらって広く一般人に経営を左右されたほうが、まだマシという見方もできるから、悪いことではないことは確かだとは思う。また、AnyColorが上場してリスナーやタレントになんの恩恵があったのか、いまのところ、より商業主義になったデメリット以外全く見えてこないのに対して、カバーは上場する目的として、グッズ販売の拡充などを名目としており、収益の方向性として私も納得できるもので、その目的がはっきりしていることも好感がもてる。本当に、そうなるのかは、これからの話ではあるけれど。)

彼氏いない/彼氏つくらない宣言の問題

女性Vには関心の高い話題だったと思われる

この問題は、先月からの私のポリシーで、自分にかかわりないことは探しに行っておらず、どのような状況だったのかは把握できていない。最近はツイッターもめっきり追わなくなった。しかし、今月視聴していた配信でも、女性Vさんの何人かが、これを話題にしていたことから、女性Vにとっては関心の高い問題だったのだろう。

Ksonさんも、日本のアイドルファンのユニコーン化はおかしい、という話をされていたと思うが、いま、界隈の裏側では、この問題が話題になっているのかもしれない。

「V界隈におけるユニコーン問題」については前述のとおり、恋愛感情以外の部分が強く、とくにVライバーにおいては、コミュニティへの忠誠心を高めるような「圧を高める売り方」をしておきながら、裏切ったことに対する怒りの爆発である部分のほうが大きいような印象はある。

だから、恋愛感情が問題の本質ではないだろう。

そこを見誤ると、対応も反応も正しくなく、騒動が収まらないことになるだろう。

そもそも恋愛禁止のルールの本質とは何であるのか?

一方で、日本のアイドルが原則的に恋愛禁止であることは、遅くとも70年代からの公然の了解ではあったとは思われる。それはアイドルだからではなく、未成年の恋愛が、そもそも社会的に許容されていなかったからである。それは海外でも同じ傾向であろう。

海外でも、若い男女が「異性の歓心を引く商売を不道徳」と考える人間は多数あり、日本のAKBのような売り方は「児童ポルノまがい」という強い論調で批判する人たちもいる。敬虔なクリスチャンであれば、そう思う人も少なくないのではないかと想像できる。

(だからAKB売りは欧米では成功しにくく、アジア圏でしか成功しないのだろう。)

恋愛禁止が不文律の鉄の掟だとみなされているAKBがポルノまがいと言われるのは「恋愛禁止がなんのためにされているのか?」という理由が、「ファンに疑似恋愛を抱かせるため」というものであれば、実際は恋愛禁止なのではなく、むしろ、ファンとの恋愛を疑似餌にして売り物にしているといえるからだ。

替えが効かないタレントの個性ではなく、若い人間を入れ替えて、若い性そのものを売り物にしている点で児童ポルノに類するもの、という考え方であろう。

しかし、「恋愛禁止を要求すること」がファンの権利、タレントとの間の暗黙の約束事であるかのように認識されたのは2000年代後半、AKB以降の、わりと最近のことではないかと思われる。たぶん、道徳的な規範が、社会的なルールと同一視されるようになってきたこととも関係があるだろう。

数年前の記事ではあるが、AKBの卒業年齢を調査した記事によれば、だいたい20歳前後が卒業する年齢になるようである。

(ローカルアイドルなどは、卒業による新メンバー入れ替えなどが想定されていない、「他に替えが効かないタレント固有の活動」という性質がある時点で、箱売りをしていないタイプのローカルアイドルは、カテゴリの実態としては、いわゆるアイドルという業態とはいえないのだろうと考えられる。25歳ぐらいをすぎてしまえば、女優、声優、ローカルアイドルが結婚しても許されるのは、その点になるのではないかと思う。一方で、明確にアイドル売りをしている人たちは、25歳を過ぎても30歳を過ぎても結婚することが許されない。若ければ暗黙で疑似恋愛売りとみなされるが、若くなくなっても、疑似恋愛売りをしていると思われるかぎり、そのルールがついてまわる。)

いずれにしろ、「いわゆるアイドル=だいたい未成年」という図式が、ずっと成り立ってきた業界であることはいえるだろう。

そして、70年代はもとより、現在に至っても、未成年が恋愛することは、アイドルであろうがなかろうが、一般人であっても、社会的には公然とは許されていない。

未成年が恋愛することは、本人がどれだけ本気であろうとも、親や周囲の大人が認めていない恋愛は、すべて異性不純交友というカテゴリにくくられる。これは現代でもかわりない。

未成年の恋愛は黙認されるものではあるが、「未成年の恋愛は表では許されていない」のが、伝統的な日本の価値観であろう。(表沙汰にしないかぎりは許されていたともいえる。)

最近のツイッターでも、「学生の間は恋愛などすべきではない、勉強しろ」といわれてきた女性が、大学を卒業して働き出したとたんに「いい人いないの?」「早く結婚しなさい」と親に言われ始めて、いままで恋愛もさせてこなかったのに、いきなり結婚とか、勝手すぎないか、と愚痴っていたツイートも見かけたが、これがリアルの日本であろう。

この価値観でいえば、テレビのタレントであろうとも未成年が恋愛することは望ましくない。すくなくとも表に出てきたらスキャンダルになってしまった。

アイドルに恋愛禁止を求めることが正当化されていたのは、こうゆう年齢からであろう。

だが、もともとの「未成年の恋愛作法としての建前」だったものが、「公然のルール」にかわってしまったのが2010年代の変化なのだろう。

また、アイドル売りでなくとも、平成時代の女優でも25歳までは恋愛禁止の契約が結ばれることが少なくなかったとされ、社会的に見ても、若いタレントが芸能活動することは疑似恋愛売りの側面、つまり、「異性の歓心を引ける状態に、ビジネスとしての経済的な価値があるものと法的にもみなされていた」時代があったということである。

これはタレントと事務所間の契約、売り出し方の都合としての恋愛禁止なのであって、ファンとの約束ごとではない。

しかし、当然に、自分に恋をして良い(と勘違いさせるような)、という売り方をして歓心をひきながら、実際はファンの見えないところで他の人と付き合っていたとすれば、疑似餌を垂らされた釣りであって、ファンが怒るのも当然であろう。

(いまは、もう、そうゆう時代ではない。恋愛禁止契約を破ったとしても、裁判でも事務所の主張が認められることはないだろう。NHKの体操のおにいさん、おねえさんも、従来より「恋愛禁止が『要請』されていた」とのことだが、あくまでも「イメージを維持するための要請であって、個人の私生活には関与しない」というのが現在のNHKの立場とのことである。時代は変わったのだと思われる。)

まとめると、

  • 未成年の恋愛は(表では)許されていない社会道徳がある
  • 疑似恋愛売りを卑しいとみなす人たちは少なくない
  • 若い年齢の芸能人は疑似恋愛売りしているものとみなされていた
  • アイドル売りは上記のルールを守る必要があると一般に認識される状態になった
    • ユニコーンの発生

ということだろう。

VTuberのキャラクター売りは、更に問題を悪化させる

VTuberの場合は、加えて、「自分の理想を重ねる」「自分の幻想を投影しやすい」という性質から、特にキャラクター売りをしている人たちを基準に見ている場合は、自分の理想とする異性像がずれたものを激しく否定する性質が加わるものと考えられる。(男女問わず)

アイドル売りは、Vにかぎらず、偶像売りであって、見ている側も「本当は現実ではない」とは思いながらも、あえて幻想に浸りたいという「本気になれるなら嘘でも良い」という気持ちがあり、その場合、演者はキャラクター(幻想)を守らなければならない、という強い脅迫が生まれることになる。

演者がキャラクター売りを守らなければ、なんで夢の世界まで現実の汚さ・過酷さを見せられなければならないのか、という怒りになろう。

逆にいえば、そうならないようにするためには、実在する演者に対する負担が、はてしなく重いものになる。一度演じたキャラクターを、一時的にはともかく、それをずっと守りきれる演者など存在するはずがない。

ましてや、Vは現実が見えない性質である以上、受け手の都合で空想が膨らむものであり、Vタレント本人(もしくは演者としてであっても)との乖離は、どんどん大きくなるだろう。

だから、キャラクター売り(Vのアイドル売り)は危険だと、私は何度も言ってきている。

むしろ、Vであるほどキャラクター売りに適さない。現実をフィルタするアバターを使う以上、勝手な幻想が生まれないようにリアルを見せる必要がある。生身の人間であるVライバーのキャラクター売りは、最もやってはならない組み合わせなのだといえる。

それでもVライバーがキャラクター売りをしたいのであれば、上記すべての爆弾を抱えることを意味するのであって、それだけのリスクをとる意味があるとは私には到底思えない。

ホグワーツレガシーと、Vライバーのキャラクター売りの問題

一方で、ピカミィさん卒業直前には、ホグワーツレガシーが海外のポリコレ警察のたたきにあって、ピカミィさんがホグワーツレガシーの配信ができなくなったことに関連して、Ksonさんが「VTuberは性別も年齢も容姿も人種も関係ないのに、現実のごたごたをもちこむな、それをわかっていない人が多すぎる」と苦言を呈されていたのは、この点でいえば、一貫性がないようには感じられるものがある。

まず、ホグワーツレガシーは、小説ハリーポッターに登場する学校ホグワーツの、過去を舞台としたゲームである。

しかし、ハリーポッターの原作者であるJ.K.ローリングがLGBTに配慮のない発言をして、その主張を取り下げなかったことで批判があがった。その判断の是非については、ここでは論じない。しかし、これによりゲームの「ホグワーツレガシー」をプレイするのは、J.K.ローリングに賛同することになるからやめろ、という焚書のような過剰なポリコネ警察が騒動を起こしていた。

(個人的感想をいえば、西洋キリスト系文明の人たちは白黒・善悪の二分論に毒されやすいことの典型例であろう。ほんの100~200年前であればLGBTを探し回って火あぶりにしていたような人たちが、いまでは、LGBTに否定的な人間を探し回って火あぶりにしているような、善悪二分に分けたがるキリスト教文明が原理的にもつ狭量さがよく見える。)

私は、VTuberがアバターで架空の設定をしていても、倫理的に許されない演技はしてはならないと考える。少なくともVTuberのガワが架空の設定だったとしても、(誹謗中傷の当事者として法的に認められる程度に)、現実に実在する人として配信で振る舞っているかぎり、現実世界にかかわる言動では現実の倫理規範が守らなければならない。

私の認識では、ピカミィさんはライバー勢であり、劇中の架空人格を演じている人ではない。

だから、ピカミィさんも、現実での言動には、現実の道徳規範には従わなければならないはずである。

もちろん、加工・編集された動画勢Vであれば、創作物であり、想像上の架空人物といえるかもしれず、そのような道徳とは関係ないという主張も正しいとは思われる。

だが、もしVTuberが設定だけでなく、存在そのものも「架空の人物」であると主張するならば、それの主張の上でユニコーンを批判するのもお門違いであろう。

私には、これまでの経緯からみてもライバー勢であるKsonさんが「VTuberとは編集・加工された演劇に基づく架空のキャラクターである」と主張しているとは思えないから、「ポリコレの道徳規範をゲームの世界まで持ち込むな」という主張がしたかったのであってVとはなんの関係もないはずだろう。「空想上のVTuberに道徳規範を当てはめるな」という主張をしたかったわけではないだろう、とは思っている。

都合がよいときだけキャラクター売りを出したり、都合が悪くなったらライバー売りを出したりするのは、普通に反則であろう。決して良いことではない。

(なお、ポリコレは難しいところがあるが、歴史ものともいえるNHKの大河ドラマも、ポリコレの理論に従えば、平安時代の京都でも、白人や黒人のキャストを雇用し、イラスム教寺院やキリスト教会があるような配慮までしなければならず、もはや、それは歴史ドラマではなく、歴史の捏造フィクションであろう。そんな主張は、さすがのポリコレもしないだろうが、「平安時代をモチーフにしたゲーム」となると、黒人・白人も出せとか、宗教やマイノリティに配慮しろ、などという話になるのもどうかと思う。ディズニーのプリンセスが白人でなくなったのは、ディズニーの主要ターゲットが白人でなくなったから、お客さんに合わせただけという説もあり、それは理にかなっている。ホグワーツレガシーも、ハリーポッターの100年前の世界であるが、学生は白人以外にもアジア系や黒人もたくさんいる。原作者の思想がどうであれ、二次創作物である、このゲームの制作そのものはポリコレに十分配慮し、世界中のゲームファンに配慮しているように見える。ここに過失はないだろう。しかし、一方で、原作である100年後のハリーポッターの世界は、白人ばかりであり、過去と辻褄があわない退行現象が起きている。まさに歴史改変らしいポリコレの傲慢さ、他人の作品の世界観、ぁるいは、他人や他国の文化を壊すことも、自分たちの主義主張のためであれば正義になるのだろう。事実として100年前は白人至上主義が跋扈しており、黒人やアジア人が白人から差別され虐待・搾取されていた時代である。なかったことにはできないし、目を背けるべきではないだろう。その意味で、イギリスを舞台としたホグワーツレガシーは、ゲームとはいえ嘘の歴史観を描いている罪がある。どちらが重い罪かは、私は嘘のほうが重い罪と考える。しかし、どちらにしろ、糾弾されボイコットされるような罪でもなかろう。ましてや原作者のLGBTに対する考えがどうであるからは作品には何ら影響するものではない。)

Vに対する恋愛感情は、ガワや架空人格に対するものか、中身の人格に対するものなのか

創作物として架空の人格であるVTuberが「彼氏作らない」「彼氏いない」という宣言をすることは設定上の話であって、そのような架空人格に対して本気で恋をするファンがいたとして、そのメンタリティはどうであるのかを問うところはあるが、それ自身は、ただの創作物の話であり、アニメのキャラクターに恋するアニメファンと変わらないだろう。

ファン自身も、けっして、中の声優さん(CV)や、あるいは脚本家に恋しているわけではなく、架空の存在だとわかって、架空だからこそ神聖不可侵な気持ちで気持ちを預けられているのだと思う。

今月、ピアニスト「よみぃ」さんが、中学時代からの憧れのキャラクター、アイドルマスターの如月千早というキャラクターとARでどっきり共演する動画があった。(架空のキャラクターなので、あえて「千早さん」とは呼ばない。)

このときの気持ちは言葉ではかたられていないが、同じ空間上の位相のズレ、ARの向こう側に、いま同じ時間の同じ場所に、たしかに自分の肉眼では見えないけれどキャラクターがいるという感覚は、たぶん、届かない世界であるけれど触れることのできる幻影としての肌感覚のような経験だったと予想している。

それは、演じているモーションアクターさんや、ボイスアクターさんがいることを理解した上で、それでも「千早」がそこにいる。いわば、恐山のイタコや、西洋の降霊術で、霊媒師を通じて「この世にいない人と触れること」のできるようなオカルティックな感覚だったのではないかと、見ていて想像できるものがある。

(だが、イタコや霊媒師が、ずっと他人の霊を演じつづけるのはできない。作られたものである以上、いつかはネタ切れになる。「その人らしさ」を象徴する一言二言で注目を集めることはできても、長くはつづかない。まさに、これこそが動画勢Vが流行らなくなった根本理由ではないか、と最近は考えている。)

アイドル部ファンで、かつ、12人を今でも好きで、しかし、栞桜さんや花音さんや、そのほか抜けたあとの人たちを見ていない、という人たちは、演者よりも、アイドル部のキャラクターが好きだった人たちである。その人たちでも、もし自分が描いたファンアートが「中の人」に褒めてもらえたのであれば、嬉しい気持ちになるだろう、と語られていた。

アニメキャラクターのファンアートを描いて、その中の人、声優さんに感激された場合と似ているか、もしくは、それ以上のものだろう。Vライバーは本人性が色濃く出る生配信である以上、アニメキャラクターよりも、より演者とシンクロ率が高い存在になるだろうから、同一ではないとしても、演じているだけの声優よりは、その本人らしさの比率は大きい。

アイドル部は多かれ少なかれキャラクターとしてのボックボーンがあり、純粋なアバター勢ではなく、あくまでも少女兵器大戦の登場人物のプロモーションを、ほぼ素人なライバーさんたちをオーディションで募集して業務委託したようなものであっただろうと考えている。(アイドル部のオーディションの話が知られている時点で、そもそも、である。)

夜桜たまさんが麻雀が得意で天鳳の段位も高く、アクリルパネルも描ける画才もある才女という生徒会長役であったことが、中の人「cvよん」さんの意向によるものなのか、そうゆうキャラクターとして運営が決めたものを本人が(ノリノリで?)演じたものであるのかは定かではないが、結局、大変まずいことになったことは、その後の展開から明らかであろう。

(この件については、2018年のVであれば、そうゆう売り方をすることがまずい結果になるとは考えられていなかった頃であり、運営、演者とも批判するつもりはない。某V箱のライバーさんにも、信じられないような豪華な経歴の持ち主のVさんもいて、もしかすれば、キャラクター売りの設定であって、なんら経歴詐称にはならないと思って「夜桜たま方式」を採用してしまったのではないか、という懸念もあるVもある。)

しかし、あくまでもキャラクターとしての才能という設定であって、演者本人と明確に分離できるのであれば、自分が、キャラクターデザインや設定や立ち振舞といった演技に惚れていたのか、中の人のパーソナリティに惹かれていたの、区別はしやすいだろう。

しかし、そういった架空の物語というバックボーンがなかった、キャラ付程度のロールプレイである、ホロライブ3期生の「潤羽るしあ」さんについては、私は、るしあさんの、ほとんどの部分は「みけねこ本人」そのものであったと思っている。

が、現在では、いまでも「るしあ」さんを好きでいるが、「みけねこ」さんを見ていない、という人はあり、こうゆう人たちは、アイドル部亡霊ファンとも少し違うだろうと思う。

るしあさんにはVライバーとして架空キャラとしての性格が、どの程度あったのかは微妙に思うところはあり、たしかに、今の「みけねこ」さんと、1年前の「るしあ」さんは同じではない。しかし、それは環境や、そもそも多くの人生経験を得たことにより、(本人が望んだかはともかく)、成熟したという部分が大きいだろうと思う。

間違いなく、1年前には、るしあさんと、みけねこさんは、途切れることなく一本に続いていた連続していたものだったと思う。

しかし、「るしあ」は好きだけど「みけねこ」さんには興味がない、ということは「自分が思っている人と違った」という気持ちがあるから、中身である「みけねこ」さんには続かなかった人なのであろうし、それでも、「るしあ」には強い想いを抱いていた思い出があって、だから「るしあ」というアバターを今でも愛している、ということなのだと思う。

アニメキャラなら、物語が終わったあとでも何年も好きでいる気持ちに近いのかな、という感じもあるが、るしあさんを今でも好きな人は、もともとは中の人が好きだったけれど、自分の思う人ではなかったから、「るしあ」という架空人物を愛するように変わったのか、はじめからアニメキャラを愛するように愛していたのか、どちらなのか。

私は後者である人たちは2018年代のVファンであれば動画勢Vの作られたアニメキャラクターを好きになる気持ちと同じように、るしあさんに接していたのかと考えると「生きている人間を創作物のように応援していた」ということになり、大変、不自然で気持ちが悪い感情のように思える。

実在しないと思いながら、実在する女性にするように楽しそうに会話したり、好意を伝えたり、スパチャを投げていたとすれば、なにかに悪いものに取り憑かれているといって良く、まともな精神状態ではないように見えることだろう。

だから、おそらく、そうではない。いまでも「るしあ」を好きな人は、おそらく、思い出を楽しむための形見として、もしかすればあった未来を楽しんでいる感じなのだろうと思う。

アイドル部亡霊ファンも、キャラクターの側面が好きだったけれど、かつては中の人も好きだったのだとは思う。ただ、ガワと魂が分離したときに、どちらを取るかといったとき、キャラクターの側面を捨てることができない人が残った、という感じなのだろうと思う。

(アイドル部10人説をとっている人の気持ちは、よくわからん。なにか解決しなければならない混濁したカオティックな状態のままでいると予想できるが、それが今の自分ができる一番安定できる気持ちの落とし所であるのかもしれないので、否定はできない。そのうちにキャラクターと魂の関係について整理できたら良いと願うところはある。)

Vライバーが「彼氏つくらない」宣言することの危うさ

「彼氏作らない宣言をするVがでてきた」という話をされているときに、この話をしていた女性Vさん自身は、おそらく否定的に感じておられたようであるから、明言はしていないとはいえ、おそらく、自分を含めて「Vが恋愛禁止であるべき」とは考えていないと思われる。

先に述べたように、これは恋愛ではない感情の問題である可能性が高いと見ている。

しかし、それとは別に、本当に恋愛の話としても、考えるべき問題はあると思う。

「彼氏作らない」と述べた実際のVの発言は確認できていないので、どのようなニュアンスであったのかは定かではない。

可能性としては2つあろう。

  • V活動している間は彼氏を作らない宣言
  • 生涯、彼氏を作らない宣言

【活動中は彼氏を作らない宣言の場合】

単に、一般的に思われている擬似恋愛売りのアイドル業と同様に、「Vとして活動している間は彼氏はつくらない」という意味であれば、私は推したいという気持ちにはならない。

いずれ辞める、卒業する、ということを前提とした発言だから、私が見たいものではない。

以前から述べているように、私は、タレントが職業人としてトレーサビリティがあること、ずっと追跡可能であることを望んでいる。

(事務所に所属中は恋愛しない。恋愛したくなったら事務所をやめる = V名義がなくなる。その上で、別の活動者になるという意味であれば、私は、許容範囲とはいえる。)

あるいは、すでに厄介なファンに囲まれていて、しかし、現在交際中である場合、「バレたときには辞めるつもり」という意味での発言である可能性もあろう。自分の人生を犠牲にしても、Vをやりたい活動だとは思っていないのであれば、そのような言葉選びになるとしても、責められない側面はある。

この配信者という新しい職業を、就職・結婚・出産・転勤など、いろいろな理由で断念することは実際にはあるだろうが、ともかく、おじいちゃん/おばあちゃんになっても活動したい、と思っている人を見ていたい感はある。

その点からも、創作物であり中の人を隠すタイプの演劇系VTuber、あるいはVSingerにも興味はない。中の人が明らかにされておらず、やめれば追跡できなくなるからだ。しかも、創作物であれば、かならず終了する日がくる。人よりも寿命が長い作品はそうそう無い。

ただし、中の人、実演者名の本名または芸名が明らかになっていて、その人が別のVを演じたときにも追跡可能であれば、その人の演技を見る価値はあるとは思う。

(いまのところ、それを許可している事務所兼プロダクションを私は知らない。自身が制作会社でもあるV事務所をやめたVタレントは、自分の活動実績も名前もVアバターも何もかも失うことがまかり通っている、タレントの負担が一方的すぎる不健全な業界であろう。もしアバターが著作物であり、アニメ類似作品として制作しているプロダクションだというならば、アニメ声優やキャスト同様に、演者名を明らかにして、その人の実績として残すべきであろう。そのような最低限のマナーもできていないのが未熟なV業界である。)

だから、期間限定で活動することの宣言にも等しい「彼氏作らない宣言」であれば、そんなものはみたいものではない。

だったら、むしろ「彼氏作るし結婚もするし配信もずっとする」という人のほうがみたい。

【生涯、彼氏を作らない宣言】

そんな宣言をした女性Vがいるのかどうか確認できていないが、切り抜きのコメントなどによると、ホロライブの天音かなたさんが、そんなことを言ったとか言わないとかの説は見た。

私が感じたことは、独身女性はそれぞれ楽しくやっていて、あわよくばプラスαがほしいぐらいの気持ちっぽいとは思うものがあった。(年齢的に急ぐ必要もなくて、条件を下方修正して妥協するような動機もない。じつにのんびり構えている感じはある。)

統計によれば男性は結婚していない男性は不幸だと感ずる率は高いが、女性は、それほど差は開いておらず、結婚していたほうが、より幸せな人が多いくらいのようではある。

私は既婚女性の幸せ率が高いのは、子供ができるからか、と考えていたが、最近読んだ統計では、既婚女性のうち子供の有無でいえば、子供がない女性のほうが幸せ率は高い。(ただし、それは結婚したばかりで子供ができていない人を含むからかもしれず。)

子供がいるかどうかは幸せには関係ない可能性はある。

なので、結婚しないならしない、するならするで、それなりに幸せになれるだろうと思う。

だから、そのような「彼氏作らない」宣言をしたとしても間違いではない。

しかし、結果として彼氏ができなかったとしても、それなりに良いのではないか、という感もあるものの「ファンに対する約束」のように宣言するのは間違いだろう。

そもそも、恋とは落ちるものであって、ある日、突然起きる。

人生において、出会いの機会というものは、そんなに多くはない。その中で、このひとを逃したくないという強い思いが、ある日、突然に起きることもありえる。

そのとき、自分の宣言が足かせになるべきではないし、おそらく、その約束は守れない。

「裏切り」とか「約束を破った」と避難され、面倒なことになることが明らかだ。

だから、わざわざ「彼氏はつくらない宣言」はする必要はない。

また、「当面そんなことを考えている暇はない、忙しい」という意味で、「いまは考えていない」という宣言であれば、問題ないだろう。

しかし、それは現実に、出会いの機会がなくなることでもある。

どんな企業であってもタレント事務所であろうと、その人の人生設計を立ててくれるわけがなく、自分の人生は自分で決めなければならない。いつぐらいに結婚するべきか、どんな人となら生涯をともにできるのか、といった、うんざりするような考え事は、忙しいという理由で先延ばしにすれば、本当に、何年でもあとに回すことができる。

忙しく、仕事にモテている人であるほど、そうなるだろう。

それが本心であるならば構わないとは思うが、本心から、そんなことを思うかどうかは、私はなかなか信じられない。

人間も動物であり、発情期のメス猫さんが狂おしく物欲しそうにしているのは、人間の思春期の女子の行動でも観測できるから、本能があるかぎり、本当に一人でいたいと思う人はいないだろう、と思っている。

仏門に入って修行を何年もつんだとしても、その欲、だれかと生涯をともにしたいという気持ちがなくなることはない。日本の多くの小さな寺は、明治時代に、明治政府の指令で「妻帯や世襲を許可された」ことで教義が骨抜きにされた煩悩寺に成り果てたが、現在でも、わざわざタイやスリランカなどの仏教国にいって得度するような人もいる。そういった本当に素晴らしい僧になられたと思う人でも、人生において生涯をともに守りたい人ができた、といって恩師に報告して還俗する。そうゆう還俗のあり方を仏教は否定していない。

このような「恋人をつくるつもりも予定もないが、もし、必要なときがきたら結婚もします」ぐらいのスタンスが、おそらく、もっとも自然なのではないかと思う。

また、個人Vの桜神くおんさんは「もしかすれば偶然リスナーさんと出会うこともあるかもしれないし」「さすがに海外では出会わないかな。行かないし」という言い方で、わりとざっくばらんに、どのような可能性もあることを否定していない。ライバーと視聴者という関係の延長ではなく、たまたま偶然に出会った人がリスナーである場合もあることは否定していない、というところだろう。

このくらいの自然さで良いのだと思う。

関係を切りたくないという恐怖心が双方にあるのだろう

最初のテーマに戻るが、関与する度合いを減らす方向性は身を裂かれる、心をさかれるような不安に駆られるものになる。それは「想っている側」も「思われている側」も、双方が同じような不安を感じるようになっている。

私が見ているVTuberさんの飼っている猫さんは、VTuberさんが家にずっといることから、一緒にいることがあたりまえになっていて、だから、でかけたりすると分離不安で苦しむような様子が、しばしば見受けられる。

このような分離による不安、苦しみというものは、仲良しの友達を引き離すことでも起きるし、恋愛感情にかぎったものではなく、愛情そのものがもつ本質だろう。一番の苦しみは死別である。いなくなっても一時的なものであることを理解できるようになるまでは、分離不安は収まらないだろう。

実際に会えるわけでも、交際できるわけでもないVTuberに、「だれとも付き合ってほしくない」という気持ちを抱くのは、恋愛感情に似た、もっと原始的な分離不安、愛着の問題なのだろうと思う。

本当にほしいのは愛であって恋でないにもかかわらず、源泉が同じであるために、その違いがわからない。

たとえば、中高生では恋愛や性行為を軽いものとは考えていないにもかかわらず、性行動に至りながら短期間で別れるケースが多いことは、結局のところ、本当は互いの関係性を深めたいと考えているが、互いの心を分かち合うという行為は非常に難しいため、性行為によって関係性を深めることができるのではないか?という誤解によるものではないか、いう考察もある。

少し古い本ではあるが、人間の深層心理は10年程度で大きく変化するものでもないだろう。(10年前よりも未成年の性行動は減少しているとの調査はあったと記憶するが。結局、未成年がお盛んだったピークは00年代だったらしい。)

私は、このことを「愛があれば、性交を容認する」という高校生の調査結果は、性的な欲望よりも、「関係性の欠乏感」から生ずる欲望が、性行動を「記号」として形を変えて表現された結果であると考えている。
第2章で「交際相手との関係性が構築できなかったからこそ、関係性を深める手段であると誤解して、安易に性交へと移行するのではないかとも考えられる。」と述べたことと同じ現象なのである。
そして、そのことは、セルフエスティーム(自己肯定感)の高さとの関係にも注目することが重要である

「性の健康教育と養護教諭の役割」 鹿間久美子 考古堂 p152

これが、おそらく自分の関係性欠乏からの渇愛、独占欲を、性的な感情と混同してしまったものが、ユニコーンの正体ではないか、とは思っている。

だから、おそらく、恋人を作ることが問題なのではなく、恋人をつくることで自分が捨てられることの予期不安のようなものであり、だから、むしろ「恋人はつくりません」「異性はいません」という姿勢をみせておきながら、そうではなかった結果に対する裏切りへの怒りであろう。自分が捨てられる可能性、それは自分が望まれていないという現実を感じる話題には激しく否定するが、それ以上に、裏切られたことへの恨み、(もともと低いから言質を求めていたナイーブな)自尊心を傷つけられたことへの恨みであろう。

恨みが晴れるには、相手の自尊心が回復するまで待つ外無いので、こちらがどうこうできることはない。謝って鎮めることはできるかもしれないが、回復は相手次第であり、だから恨まれるのは怖いのだ。

問題を混同させないことが重要で、不必要に相手に譲歩を見せることは悪手だと思える。

だから、おそらく、「いまは好きな人はいないけど、結婚はしたいな」と明らかにしておくことは、恋人をつくらない or みんな大好き宣言をするよりはマシであり、「好きな人はいません。でも、もしできたときには、一緒に喜んでくれますか?」というような、友人・来賓ポジションを用意していることを説明することも、1つの解ではないかとは想像している。

事前に、「そこに自分がいて良いのだ」と、自分の立ち位置を決めることができたのであれば、交際という強い相手が現れたときにも相手との関係性が失われるという予期不安は起きないのではないか、という予想がある。

また、ぴたさんが以前、自分の恋愛観を話されたとき、

  • 結婚願望はある
  • リスナーと付き合うことは無い、
  • なぜなら、ネットで知り合った人とリアルで合うことはない

というような話をしていて、それに対してリスナーが「幸せになってな…」と言葉を送ると、「どうしてそうゆうこというの」とムッとしたような寸劇を繰り広げていたが、このあたりが、バランス感覚の良い、リアルとの関係を結びたいわけではないが、ネットの関係を絶ちたいわけでもない、という気持ちだろう。

「元気でな」「幸せになれよ」という言葉は、お別れのような言葉だから、そんな言葉を聞きたいわけではないのだろう。

しかし、ぴたさんが彼氏を作ったときには、リスナーは身を引くような気持ちになるのは、わりと自然な反応であるようにも思う。リスナーがガチ恋勢だからではなく、強い結びつきがある人の間に、リスナーという弱い関係が入れる余裕があるのか疑念があり、実際、どうなるのかは、その状況にならないとわからないためであろうか。

このあたりの、ぴたさんのネットとリアルの使い分け論は、良い洞察に富む。

今月も、ネットで知り合ったゲーム仲間の女性がいて、結構、尊敬できるタイプの人だったのだという。しかし、自分語りしたがる人で、その人から自身の恋愛事情のクズ加減をカミングアウトされたことで、「そんなこと知りたくなかった」とショックを受けていて、ずっと引きずっているようであった。

ネットでの関係よりリアルが良いものになるとは限らないのは、まさに、こうゆうケースであろう。

ネットでの一面性で好きになったとしてもリアルでは、それ以外のものも目に入る。

その中には、たまたま見せてしまったものの理不尽な理由で嫌いになられることもある。

(たとえば、靴の履き方がおかしい、とか。そんな程度のことでもありえる。長く付き合うつもりの相手ならば、直してもらうか自分が気にしなくなるかの努力ができるが、そうでもない場合は単にネガティブな材料にしかならない。)

だから、ネットで知り合った人はネットでの関係、リアルで知り合った人はリアルでの関係、という感じに別のチャンネルだと考えるべきであろう。たまたま、両方が重なる場合もあるかもしれないが、2つのチャンネルは別ものであり、つながっているものではない。

人により程度はあるだろうが、先に述べた「桜神くおん」さんの恋愛観や、「ぴた」さんのネットとリアルのチャンネルの分け方などは、かなり理にかなったもののように思える。

誤った思考についてのメモ

Vライバーとリスナーとの関係性、つまり、コミュニティの作られ方については、前述までに基礎となるものは説明できたと思う。

しかし、この答えにいたるまでに迷走してしまった、1つの危ない思考があることに気づいたので、記録しておきたい。

すでに最初のほうでも書いたが、「自分には関係ないことである」という考え方は、ある意味正しいとはいえ、どこまで自分ごとであるのか明確に判断できる人はいない。

「推し事」とは、自分ではないものに対して自分ごとのように応援してもらうことであり、どうすれば、相手の共感を呼び起こして援助してやろう、仲間に入れてやろう、という気持ちにさせるかにかかっていよう。

それに対して、自分には関係ないことである、という方向性は逆のベクトルであり、広げすぎた共感性を閉じることであり、推しの関係性を弱める = 関係性を失う、という苦しいものでもある。

広げすぎた推し活を時間的・金銭的制約から縮退する必要性があったとする。しかし、すべからく、リストラクチャリングというものは、苦しみを伴うもので、やり方や加減を間違えれば、それまで作ってきたものが全て台無しのガタガタになってしまうものであろう。

また、天音かなたさんが「生涯未婚宣言したらしい」という切り抜きの書き込みに、「VTuberも厄介ファン相手に大変だなー」みたいなコメントがつけられていたのを見ながら、頭によぎったことは「天音かなたさんが結婚しようがしまいが、誰と結婚しようがしまいが、厄介ファンの人生には一ミリも関係なくないか?」という考えであろう。

たとえば、「3軒向こう隣のJKが誰と付き合おうが、おじさんの人生には(確定未来ベースで)一ミリも関係ない」ということは一見すれば真実である。

しかし、この考え方は危ないもので間違いだったといえる。

この「厄介ファン」を「ファン」に置き換えた場合には、かなたさんが結婚したことで、自分ごとのように喜んだり、あるいは悔しがったりする人もいるかもしれず、かなたさんが結婚することはファンにとって無関係とはいえない。

厄介ファンというものに私は一ミリも共感できない存在だと仮定できるから、どうでもいい、という気持ちになっているだけで、かなたさんとファンの関係性に対して、どうでもいいと思っているわけではない。

たとえていえば、先月、「にじさんじのグウェルさんがどうなろうが知ったこっちゃない」というのは、突き放した言い方ではあるが、本当にどうでもよい。好きでも嫌いでもない人であり、これからも知ることはなさそうな人であるからだ。これはグウェルさんに限った話ではなくて、にじさんじの昨年デビューした人などは、名前も知らないから、仮に、にじさんじをスルッとやめたとしても、やめたことさえ気が付かないだろう。強いて言えば、私が見ているVさんたちが言及したのであれば、にじさんじ運営が正しい運営ができていたのかという、私の好奇心が動くことはあろうが、その程度であろう。(これは私の強い関心ごとであり、無関係ではないからだ。)

もし、相手の推し心を破壊して苦しめたいのであれば「相手は、お前のことはなんとも思ってないから一人で盛り上がってバカみたいだぞ」という一言で良いだろう。そんなことはないと否定する人には、とくとくと、では相手は、おまえに何をしてくれた、お前の言葉をきいてくれるか、などと問い詰めてゆけば、それを確かめることができず、少しでも不安があるのなら、疑心暗鬼になって勝手に転落するだろう。希望や信頼という淡い糸でつながっていた関係性を一本づつ切らせることができる。たいていは、少しでも疑いの心を芽生えさせれば、勝手に転落するようにできている。その人が好きだったひとを憎むように仕向けることができる。

とくに実体がないネットという不安定なものを基盤としているコミュニティは、Vにかぎらず荒らしやデマ、陰謀論に対して脆弱である。

もちろん、これは真に邪悪な言葉である。

自分に関心あり少しでも心を動かされたことがある人であれば、その関係の深さや長さの度合いによって、すでに無関係ではなくなっている。これを「縁」と呼ぶのだろう。

たった一度、人生で一言もらった言葉が生きる支えになった、という人もいる。そうゆうものは偶然ではなく大切にすべき縁である。

たとえば、ぺこらさんには、人生において苦しいときに、その笑い声に救われたと表明する人は少なくない。仮に現実に出会ったことがないとしても、たしかに縁が生まれている。

私も全人生のかなりの時間を、彼女との関わりに費やした。私の人生の中で、一番、声を聞いた人になっているのではないか、と予想できるものがある。もはや私の人生にとって無関係な人ではない。

そもそも、心を穏やかに過ごすのであれば、世界に愛を向けるべき気持ちを広げるべきことであり、「慈悲の瞑想」が気持ちを明るくする。心穏やかでいたいのであれば、敵対するものを拒絶、断絶する方向が正しいわけではない。(戦うな、という意味ではない。)

しかし、自分のかけた「労力」「時間」「費用」などの目に見えるものと、「気持ち」「関係性」という金銭で比較することができないものを同じ天秤にかけたとき、人は自ら、この邪悪な言葉を自分自身に向けてしまうことになる。

人の好意を金銭にする職業が卑しい所以であり、そこに怒りが向けられる原因である。

今月の推し活のリストラで、自分が、これほどまでに気持ちが落ち込むとは思わなかった。

回復するまで3週間はかかってしまった。

結局、人は「いまある高さ」が重要なのではなく、「いま向いている方向」が重要なのであり、裕福にみえても下降期にある人は暗くなり間違いを犯しやすく、いまは手持ちが少なくても未来が明るく見えている上昇期にある人は輝かしく明るい道を進めるのであろう。

会社でも、まだ保有資産が高いにもかかわらず、社会全体が不景気になり業績も低下しているときには海外へのM&Aなどの投資を控えるメンタリティになり、しかし、不景気で資産価値がなくなったにもかかわらず、景気が良くなると海外M&Aの投資に打って出る、という非常に不合理な行動をすることが、しばしば指摘される。合理的に考えれば、資産価値が高いうちに海外投資するべきだが、どんどん下がる下降期では、その決断ができない。

婚活の話題にもどれば、しばしば可処分所得が減っていることが未婚率の上昇だといわれているが、発展途上国や戦後の日本の貧しい時代では、むしろ子供が増えていた。未来が明るく見えるから貧しくとも自分の人生に投資できた。それだけのことであろう。

このルールは、すべからく、人の心の共通ルールなのだと思う。

結局、推し活のリストラはできたのか?

現時点で、リストラを終えたという感じではないのだが、だいたい整理することはできた。

結局、減らした人はほとんどいない。

ただ、複数のプラットフォームや、複数名義で活動している人のメンバーシップは、代表的なプラットフォームの代表的な名義のチャンネルだけに絞り込むなどした。

また、メンバーシップやファンクラブに入っていたが、ながらく視聴していなかった人、それほど視聴頻度が高くない人は解除した。

そのほか、撤退の可能性を予告している人なども解除した。

高額なプランの人は、安いプランにグレードダウンした。

しばらく、Vのライブ・イベントなどの数千円以上のチケットは不参加になるだろう。

これらは、私が推し活で使える年間予算目標内で収まりそうであれば、また見直したいと思う。

また、いままで惰性的に見ていた人のうち、一人だけ今後は見なくてよいと決めた。

(ホロライブも、にじさんじも、すでに見る人が固定化しており、今後は見る人が増えることもないだろうと思うが、今回は、より選択された感じである。)

また状況が変われば見始めるかもしれない。

一方で、今月は、「宇推くりあ」さんのロケット愛あふれる配信が、私のタイムラインにながれてきて「これは本物だ」という評価がされていたため、見に行った。

次の日記に詳しく書きたいと思う。

現在のところの推しの整理結果は、1減1増という感じである。

結局、出会いというもの、縁というものは必要なときに必要なものが与えられるようにできているのではないか、という感はあり、それが得られるかどうかは、それまでに準備ができているかどうか、の違いなのだろうと思う。

人為的にあれこれこねくり回しても意味はない。大局的にみれば、結局のところ、水木しげるさん曰く「人生をいじくり回してはいけない」という感はある。

以上、終わり。

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