1970年代事件史 球史を騒がせた衝撃のドラマ【パ・リーグ編】
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2023.2.15(水) 11:00
1970年代のパ・リーグはまさに事件の中からスタートした。プロ野球史の汚点「黒い霧事件」だ。グラウンド内外でセ・リーグ以上に波乱万丈の10年間となった。
※野村解任騒動はこちらの記事にあるので、ここでは触れない。
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73年、太平洋クラブ・ライオンズが誕生。前ロッテオーナー、中村長芳がオーナーになり、金田正一新監督に沸く古巣ロッテにかみつくことで話題づくりをし始めた。最初は他愛もないやり取りだったが、金田監督の挑発的発言に加え、両者が優勝争いを演じたことで特に太平洋ファンが本気になり危険水域に入っていく。6月1日からの4連戦(平和台)は暴動寸前でロッテナインが機動隊に守られ、宿舎に帰る騒ぎとなった。火種は翌74年も続き、5月23日、平和台の一戦では再び選手が球場に閉じ込められ、機動隊の装甲車に先導され、宿舎に帰った。このとき太平洋は少し前の乱闘の写真を使ったポスターをつくり、福岡市、福岡県警から「騒ぎをあおる行為」と注意され、一気に騒動は沈静化した。
71年、前年優勝のロッテながら濃人渉監督がシーズン途中で二軍監督に降格する騒ぎになった。1つのきっかけとなったのが、7月13日、西宮での阪急戦だ。ロッテは7回表、1対4の劣勢で江藤慎一が先頭打者として打席に入り、2ストライク1ボールになってからの4球目を見送った。三振を確信した阪急の捕手・岡村浩二だが、審判はボールの判定。その後、スイングがあったと三振のコールに変えた。これにロッテが猛抗議。さらにネット裏で観戦していた中村長芳オーナーから「判定を覆さぬ限り、試合再開に応じなくていい」と指示。結局、放棄試合となった。当初は強気の中村オーナーだったが、その後、各方面から批判を浴び、謝罪。成績低迷もあって23日には濃人監督降格が発表された。
発端は69年10月8日の報知新聞に、永易将之(西鉄)が公式戦での八百長行為をしたという記事が掲載されたことだった。その後、同年のうちに永易が永久失格選手となり、事件はそれで終わったかと思われた。しかし3月になって国会でこの問題が取り上げられ、失踪していた永易自身がマスコミに登場。八百長への関与を認めたうえで、ほかにやっていた選手の名前を次々と挙げた。5月25日には、西鉄の池永正明、与田順欣、益田昭雄の3人の永久追放処分を発表。池永は先輩の田中勉(西鉄から中日)から「渡さないと俺の命が危ない」と泣きつかれ、金を預かったが八百長はしていないと話したが、処分は変わらなかった。実際には、もっと大がかりで根深いものであったと言われている。
日本シリーズ史上に残る猛抗議があったのは、78年、阪急-ヤクルトの第7戦である。4年連続日本一を狙う阪急が3勝3敗で迎えた試合だった(10月22日、後楽園)。0対1とリードされた6回一死、ヤクルトの四番・大杉勝男の打球がレフトポール際に飛び込んだ。これにホームランの判定が出ると、ベンチから阪急・上田利治監督が飛び出し、「ファウルやないか」と抗議した。当時は監督の抗議が長引くことは珍しくなかったが、このときは尋常ではない。途中からコミッショナー、阪急のオーナー代行が上田監督の説得にあたったが、それでも引かず、最終的には1時間19分の中断で試合が再開された。阪急はそのまま試合に敗れ、日本一を逃し、上田監督はその日のうちに辞意を表明した。
「ドローチャーがドロン」の見出しが載ったのは76年だった。前年、山賊球団とも言われ旋風を起こした太平洋だが、シーズン後、中村長芳オーナーは選手兼任だった江藤慎一監督を解任し、メジャーの名将ドローチャーの監督招へいを発表した。当初は単なる話題づくりと言われたが、76年1月9日、ドローチャーが会見を開き、太平洋監督就任を発表。日米球界が騒然となった。しかし、当初はオープン戦に間に合わせて来日のはずが、ずるずると遅れていく。3月15日には中村オーナーが会見を開き、「ドローチャーから体調を崩し、5週間くれと連絡があったが、それではシーズンに入ってしまう。今季の監督は無理と判断しました」と話し、同シーズンは鬼頭政一コーチの監督昇格で戦うと発表した。
79年ヤクルトから移籍1年目のチャーリー・マニエルは、DHで守備の負担が減ったこともあり、開幕からすさまじい勢いで打ちまくる。チームもまた、マニエルのバットに引っ張られ、快進撃。前期優勝を確実視されていた。しかし6月9日のロッテ戦(日生)で事件が起こる。八木沢荘六の球がマニエルのあごにまともに当たる。マニエルは口から鮮血を吹き出し、うなり声を上げながら八木沢に突進したが、西本幸雄監督が抱きつくようにして止めた。チームはそれでも「マニエルの遺産を食いつぶしながら」(西本監督)前期優勝。マニエルは球宴後、アメフト式のヘルメットをつけて復帰した。八木沢は8月11日、マニエルに直接謝罪したが、マニエルは「チームの指示だったのではないか」と納得していなかった。
5月26日、後楽園の日本ハム戦で敗れたあと、ロッテの金田正一監督は記者たちの前で「ロクさんは引退させる。コーチとして投手陣を立て直してもらう」と言った。この日、打ち込まれたベテラン投手の八木沢荘六である。記者たちは「カネやんがカッカして口を滑らせた」と思ったが、そのあと実際に八木沢を呼び、引退勧告。八木沢は涙目で「未練はあるが、引退します」と語った。しかし、これに選手会が「シーズン中におかしい」と抗議。球団フロントからも「現役登録抹消もコーチ専任契約もしない」と発表があり、騒動はひとまず終わった。その後、夏には金田監督の更迭報道。金田監督は「そんなことあるわけないやろ」と否定したが、10月4日、オーナーに直接辞表を渡し、退任した。
※野村解任騒動はこちらの記事にあるので、ここでは触れない。
週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より
【事件1】太平洋×ロッテの壮絶遺恨試合 [1973-74年]
73年、太平洋クラブ・ライオンズが誕生。前ロッテオーナー、中村長芳がオーナーになり、金田正一新監督に沸く古巣ロッテにかみつくことで話題づくりをし始めた。最初は他愛もないやり取りだったが、金田監督の挑発的発言に加え、両者が優勝争いを演じたことで特に太平洋ファンが本気になり危険水域に入っていく。6月1日からの4連戦(平和台)は暴動寸前でロッテナインが機動隊に守られ、宿舎に帰る騒ぎとなった。火種は翌74年も続き、5月23日、平和台の一戦では再び選手が球場に閉じ込められ、機動隊の装甲車に先導され、宿舎に帰った。このとき太平洋は少し前の乱闘の写真を使ったポスターをつくり、福岡市、福岡県警から「騒ぎをあおる行為」と注意され、一気に騒動は沈静化した。
【事件2】ロッテ放棄試合 [1971年]
71年、前年優勝のロッテながら濃人渉監督がシーズン途中で二軍監督に降格する騒ぎになった。1つのきっかけとなったのが、7月13日、西宮での阪急戦だ。ロッテは7回表、1対4の劣勢で江藤慎一が先頭打者として打席に入り、2ストライク1ボールになってからの4球目を見送った。三振を確信した阪急の捕手・岡村浩二だが、審判はボールの判定。その後、スイングがあったと三振のコールに変えた。これにロッテが猛抗議。さらにネット裏で観戦していた中村長芳オーナーから「判定を覆さぬ限り、試合再開に応じなくていい」と指示。結局、放棄試合となった。当初は強気の中村オーナーだったが、その後、各方面から批判を浴び、謝罪。成績低迷もあって23日には濃人監督降格が発表された。
【事件3】黒い霧事件で永久追放! [1970年]
発端は69年10月8日の報知新聞に、永易将之(西鉄)が公式戦での八百長行為をしたという記事が掲載されたことだった。その後、同年のうちに永易が永久失格選手となり、事件はそれで終わったかと思われた。しかし3月になって国会でこの問題が取り上げられ、失踪していた永易自身がマスコミに登場。八百長への関与を認めたうえで、ほかにやっていた選手の名前を次々と挙げた。5月25日には、西鉄の池永正明、与田順欣、益田昭雄の3人の永久追放処分を発表。池永は先輩の田中勉(西鉄から中日)から「渡さないと俺の命が危ない」と泣きつかれ、金を預かったが八百長はしていないと話したが、処分は変わらなかった。実際には、もっと大がかりで根深いものであったと言われている。
【事件4】1時間19分の伝説の抗議 [1978年]
日本シリーズ史上に残る猛抗議があったのは、78年、阪急-ヤクルトの第7戦である。4年連続日本一を狙う阪急が3勝3敗で迎えた試合だった(10月22日、後楽園)。0対1とリードされた6回一死、ヤクルトの四番・大杉勝男の打球がレフトポール際に飛び込んだ。これにホームランの判定が出ると、ベンチから阪急・上田利治監督が飛び出し、「ファウルやないか」と抗議した。当時は監督の抗議が長引くことは珍しくなかったが、このときは尋常ではない。途中からコミッショナー、阪急のオーナー代行が上田監督の説得にあたったが、それでも引かず、最終的には1時間19分の中断で試合が再開された。阪急はそのまま試合に敗れ、日本一を逃し、上田監督はその日のうちに辞意を表明した。
【事件5】ドローチャー監督やっぱり来日せず [1976年]
「ドローチャーがドロン」の見出しが載ったのは76年だった。前年、山賊球団とも言われ旋風を起こした太平洋だが、シーズン後、中村長芳オーナーは選手兼任だった江藤慎一監督を解任し、メジャーの名将ドローチャーの監督招へいを発表した。当初は単なる話題づくりと言われたが、76年1月9日、ドローチャーが会見を開き、太平洋監督就任を発表。日米球界が騒然となった。しかし、当初はオープン戦に間に合わせて来日のはずが、ずるずると遅れていく。3月15日には中村オーナーが会見を開き、「ドローチャーから体調を崩し、5週間くれと連絡があったが、それではシーズンに入ってしまう。今季の監督は無理と判断しました」と話し、同シーズンは鬼頭政一コーチの監督昇格で戦うと発表した。
【事件6】赤鬼マニエルがあごにデッドボール! [1979年]
79年ヤクルトから移籍1年目のチャーリー・マニエルは、DHで守備の負担が減ったこともあり、開幕からすさまじい勢いで打ちまくる。チームもまた、マニエルのバットに引っ張られ、快進撃。前期優勝を確実視されていた。しかし6月9日のロッテ戦(日生)で事件が起こる。八木沢荘六の球がマニエルのあごにまともに当たる。マニエルは口から鮮血を吹き出し、うなり声を上げながら八木沢に突進したが、西本幸雄監督が抱きつくようにして止めた。チームはそれでも「マニエルの遺産を食いつぶしながら」(西本監督)前期優勝。マニエルは球宴後、アメフト式のヘルメットをつけて復帰した。八木沢は8月11日、マニエルに直接謝罪したが、マニエルは「チームの指示だったのではないか」と納得していなかった。
【事件7】八木沢の前代未聞の引退騒動 [1978年]
5月26日、後楽園の日本ハム戦で敗れたあと、ロッテの金田正一監督は記者たちの前で「ロクさんは引退させる。コーチとして投手陣を立て直してもらう」と言った。この日、打ち込まれたベテラン投手の八木沢荘六である。記者たちは「カネやんがカッカして口を滑らせた」と思ったが、そのあと実際に八木沢を呼び、引退勧告。八木沢は涙目で「未練はあるが、引退します」と語った。しかし、これに選手会が「シーズン中におかしい」と抗議。球団フロントからも「現役登録抹消もコーチ専任契約もしない」と発表があり、騒動はひとまず終わった。その後、夏には金田監督の更迭報道。金田監督は「そんなことあるわけないやろ」と否定したが、10月4日、オーナーに直接辞表を渡し、退任した。