前回は→その①

 

  皆様も興味あってサンカについて御自分で調べた何て方々も居られる御様子ですが、写真を検索して皆様どう思いましたか?私はネットでも気軽に見られる写真の数々を見た後に、サンカにインタビューしてそのまま書いた取材形式の本を読んだ時にその写真との違いに違和感を感じましたが、その直感は正しかった様です。

 

 サンカの事は映画にもなっていて、その作成に三角氏が協力しました。そしてショーアップ要素が強かったからこそ人々に認識されたのでしょう。要は注目させておいて真実の姿のサンカ達をミスリードさせる方向に行ったかなと感じたのですが、過去の二人の作家の立場を比較するとそれは凄く良くわかりました。事実三角さんが扱ってからというものの、そんな民族は無かったんじゃないか?みたいな説まで出てくる様になったので意図しなくても、ミスリード効果になってしまっているという事です。

 

「サンカ」という語彙の歴史~ウィキペディアより引用~

「サンカ」という言葉が現れたのが、江戸時代末期(幕末)の文書が最初である。北海道の名付け親でもある探検家の松浦武四郎の著書にサンカに命を救われたとの記述がある。彼ら自身がサンカと名乗ったわけではないため「サンカ」はこれ以前に口語として存在したと推察される。この手記では単に「山に住む人」という意味で使われている。広島の庄屋文書(1855年)にも「サンカ」の語は登場し「山に住む犯罪者」の意で記述されている。

明治時代に入ると警察を中心とした多くの行政文書に「山窩」と記述され、ほとんど山賊と同義の言葉として使用される。民俗学者の柳田國男が警察の依頼を受けて「山窩」の現地調査を行ったのもこの時代である。行政文書に「山窩」が登場する頻度は次第に減り、第二次世界大戦中にはほぼ皆無となっている。

 「サンカ」の語が一般に広く知られるようになったのは、戦後にサンカ小説によって流行作家の地位を確立した三角寛が発表した一連の作品群によるところが大きい。これらは実際に山中に住み「サンカ」と呼ばれた実在の「松浦一家」への取材に基づいている。しかし三角は商業小説家であり「サンカ小説」の内容は娯楽性を追求した完全に創作の人間ドラマである。三角の小説が流行したことで、その設定を元に『風の王国』を執筆した五木寛之など、更にファンタジー性が増した大衆小説が大流行した。三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)も制作されている。サンカ文学の流行後にはサンカは被差別民であり、サンカへの偏見を是正しようという誤解に基づいた運動が見られるようになるが、そのころには山間や里部の不定住者はほぼ消滅していた。

1980年代のオカルトブームでは謎多きサンカは格好の題材となり、神代文字を使用する、超能力を使う、古代文明の生き残りであるなど荒唐無稽な本が多数出版され、様々な誤解や俗説を産むようになった。更に一部の懐疑主義者からは「サンカはオカルト好きの創作ではないか」と実在まで疑われる事態となった。

~引用以上~

 

サンカに命を救われたと主張している松浦氏ですが、私は直感で地下家の人間ではないかと思いました。すると・・・・・

松浦家は、肥前国平戸の松浦氏武家・華族だった日本の氏族の一つ。水軍松浦党を形成した肥前松浦氏が有名で、江戸時代には肥前平戸藩主となり、維新後は伯爵家に列す。

との事ですからやっぱり天皇周りの人間だという事。現代でもその周辺からスピ本は出ています。

※この事実が何を意味するか?分かる人にはわかる事でしょう。

話を戻します。

 

確かに、お腹を空かしたサンカの人が食べ物を民家で盗んだという事件が事実あった様子では有りますので、言われる要素がゼロではないかもしれません。しかし、ただ記録だけしたものを眺めると彼らの方針て【人の物を盗んではならない】という事なんです。実際には普通に暮らす一般人が彼らに(自分が出来ない事を)頼んだり、それによる対価で米を上げたり、単純に仲が良いから食料をプレゼントしてあげたり、暮らし方こそ全く異なる物の持ちつ持たれつほとんどが彼らに好感を持っていたようなレポしかありませんでした。

 

老人になって流石洞窟暮らしになってはと思い民生員みたいなのが一生懸命手を尽くし老人ホームに暮らすようになったけど、度々脱走して元の洞窟で発見されるとか(笑)お茶目な一面もあった様子が生き生きと描かれていました。

 

今までの話をまとめると私個人はやはり三角さんの作品はショーアップとして楽しむ役割で真相を知りたい私には不向きであると感じました。そして普通に読んでいて感じるのは、時代と共にサンカというの言葉の意味を段々にすり替えているところです。

①単に「山に住む人」という意味で使われている。

②「山に住む犯罪者」の意で記述されている。

明治時代に入ると警察を中心とした多くの行政文書に「山窩」と記述され、ほとんど山賊と同義の言葉として使用される

~以上~

 

全ての人が犯罪者でもあるまいに、それを口実に大弾圧が行われたという話もあるくらいで、私には何だか「やりすぎではないか?」という感覚と、民族の呼称=泥棒という意味にしちゃうというのが何もやっていない人に非常に失礼だし、彼ら全体を貶めようとしているとしか思えませんでした。

 

その証拠に上の人の様な人が撮影した写真が有ります。写真から得られる印象ってどうでしょう?何か野人の様な?下手すると野蛮?そして全身丸裸の写真ばかりでまるで俗に言う原住民的な様子の写真ばかりです。これらを見てどう思いましたか?男性の方々は正直彼女達と交際したいとか結婚したいとか思ったでしょうか?

 実は別の本に掲載されている本の写真から言える事。色々な他の人の取材から分かることは

「サンカの女性達は美人率が非常に高い」

のです。しかも普通にそこらのちょっぴり可愛いでは無くて見とれるレベルのという描写が随所に見られます。

柳田邦夫のサンカの人を書いた内容から抜粋します

時としては部内の美女を選び23人の妾を持者あり(サンカには美人多し)

一つの団体に23人も美女がって意味になりますよね?サンカには美人多しって明言しています。

他の研究家達も『顔が小さくて美人が多い』

私が購入した本にも

●向こうから歩いてきたとき思わず立ち止まって見とれた。普通には居ないレベル

※この様な内容は多く見られます。

●民間に入るようになったけど、奇麗なので水商売に行き、そこで大人気に

●俺の嫁に欲しいくらい美人

●美貌を買われ医者の嫁にもらわれていった

●良いところのぼっちゃんの嫁になった

●余りにも奇麗なので映画館でバイトしていた時に不良にナンパされて手籠めにされそうになったんだけど、男を殴り飛ばしにげて無事(これは普通の写真からも分かりますけど、彼らって常に動いてるだけあって脚の筋肉とか全身の引き締まり方が凄いです)

~以上~

 

こんな綺麗なら一目写真を見てみたいって思いませんか?ところが気軽に見られるネット上にはそういうパターンの写真が無く、幼女とか、おじさんとかW丸裸にして原住民感を出したものばかり。

実際は服を貰ったり買ったり借りたりで手に入れていて、七五三の時には着物を着せてもらったり、人によってはお洒落な日傘にお洒落な服をして町を歩いていて、余りにも美人で誰かと思ったらサンカの娘だったみたいなレポが書かれているのです。

 

普通写真てアイヌ美人写真もそうだけど美しいものを記録に残したいとカメラマンも思うはずです。なのに、どうしてこうも美人のブロマイド的な写真ないのでしょうか?私はそれも意図的だと思います。かれらは外で暮らしつつも現代の暮らしにもなじんでいたのが現状じゃないかと他の色々な記述を見ていて思うからです。

 私が見た本にはその「目が覚めるような美人」の写真一枚だけ載っていました。しかもアップでなくかなり引きの(笑)でもそれでも背が高かった(背の高さはその人だけかもしれませんが)からかスタイルも随分良い人な気がしましたし、明治当時の様な一般的な人とはスタイルが明らかに違いました。

 そして肝心の顔ですが、確かにうりざね顔で目が切れ長のお肌の綺麗そうな美女という事が遠めですがみてとれました。私は女性ですが、可愛いものや綺麗な物はやはりワクワクしますから、こういう写真沢山みたいですが・・・・・・何とその割に写真が多い本でも一枚でしたね。しかも遠くで撮影みたいな(笑)

 色々見ていて思ったのは、煽られているように住民は彼らを嫌っていないし、寧ろ仲良かったし、後は色々な男性が嫁に貰いたいほどとびぬけた美人だという事。野蛮人みたいな言われていますが(彼らって字も書けない。日本語とも融合性ない言葉も使っていたので)そんな事は関係なく魅力のっほうが勝つ人材だったという事でしょう。という話の集約から思う事は「わざと野人の部分だけど誇張した情報を出回らした」という事です。骨格も何となく違う事から日本の本土に居る人と何となく顔かたちも違ったのでしょうね。寧ろ容貌的には段違い的に優れていたという事が記述から分かります。

 

 他にも、彼らの文化の中で料理や医療的な記録を見ても工夫がとてもされて、とても興味深かったです。

 

次回はそんな彼らの色々な文化について触れて行きたいなと思います。

 

 

 

続きは→その③