不自然な男の性欲

 

 どうもこんばんは、安田鋲太郎です。

 さて今回は男の三大欲求すなわち性欲、性欲、性欲のうちの一つ、性欲についてお話します。

 僕は性欲はなにかと男女非対称なものだと思っているので、基本的には男側の視点からの話になりますが、スッキリした文章にするために「この部分は男性のみ」とか「ここは男女共通である」といった注釈はほとんど入れていないので、その点については適宜頭のなかで補完してください。

 では書いていくー(・ω・)ノ🌸

 

 *

 

 射精するとプロラクチンという脳内物質が放出され、ドーパミンの働きを阻害するので、一時的に性欲だけでなく何に対しても冷静になり、したがってオスはすみやかに天敵が近付いていないか等をチェックすることが出来る。この仕組みが弱かった先祖は、セックス後に恍惚としているうちに熊や大蛇に食べられたり餓死してしまったのだろう。
 この、いわゆる「賢者タイム」(しかしこの言葉はあまり好きではない)のメカニズムは長いあいだ支持される仮説だったが、近年はそれが本当にプロラクチンの作用であるかどうかは疑問の余地があるとも言われている。

 

www.nature.com

 

 ともあれ、射精後のあの感覚はなかなか不思議なもので、たとえば隣りにいたはずの「女」――先程まで激しく性欲を喚起し、またそれが自明のことであったあの「女」――がいつのまにか消失し、代わりにいるのはただの生物学的女性なのである。

 たしかに時には美しいと思ったりもする。しかしそれは、こういうのを美しいというんだろうなという客観的認識にすぎず、感銘を伴って体験されるような「美」ではない。ましてや再びすぐさま性欲を喚起される、ということにはならないのである。

 逆にいえば元来ただの生物学的女性が、性的興奮しているときのみ「女」として立ち現れるともいえる。そして、どうやら事実はそちら側のようなのである。

 

novelAIによって安田が生成した(以下も同様)

 

 メルロ=ポンティが多くの紙幅を割いて論じている「症例シュナイダー」という患者がいる。もともとはクルト・ゴルドシュタインの論文によって紹介された事例だが、軍人であるシュナイダーは1915年、第一次大戦で地雷の破片を後頭部に受け、皮質後頭葉を損傷した結果、様々な行動障害をきたすようになった。

 たとえば負傷後のシュナイダーは眼を閉じて運動することが出来なかった。また言葉による命令に従って手足を動かすことも出来なかった。ただし普通に運動するのには差し支えなかったという。

 また彼は、鼻を指すように命令されても指すことが出来ないが、その命令の意味自体は理解できた。また彼は鼻に蚊がとまった場合は叩くことができた、等々。

 そしてきわめつけの症状として、彼はいかなる状況に置かれても性的に反応しなくなったのであった。つまり魅力的な女性を見ても、扇情的な絵を見ても、何ら行動を起こさなくなってしまったという。

 このことと、上の目を閉じて運動が云々といった諸々の症状とを併せて考えると、どこがどうおかしくなったのか、なにかしら浮かび上がってくるものがある。

 彼の性的無反応について、メルロ=ポンティは次のように論じている。

 

 もしも性というものが、人間にあって一つの自律した反射装置だったら、大脳の傷はその結果として、こうした自動運動をこそ解放し、かえって強制された性行動によって表現されるはずであろう。
 (中略)
 病人にあって消滅したものは、己れのまえに性的世界を投企して、自分を色情的状況のなかに置く能力であり、換言すれば色情的状況が始まったときにこれを維持するなり、あるいはこれを継続して行なった遂に堪能するにいたるような能力なのである。

 (メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、以下太字は安田による)

 

 おそらくシュナイダーは性欲じたいを失ったわけではなかった。

 彼が損傷した皮質後頭葉は視覚認知を司るとされている。いっぽうヒトの「性欲中枢」は――これも単純な物言いするとガチ勢に怒られそうだが――おおむね視床下部にあるとされる。つまり、シュナイダーは性的機能を保持していたが、見たものを性的なものとして受け取る機能が失われていたのだろう。ちょうど運動機能を保持しているのに、命令を理解できなかったように。それではメルロ=ポンティが言うような「己れのまえに性的世界を投企して、自分を色情的状況のなかに置く」ことなどできない。

 

 このような、身体と表象の関係について現象学的に追求した精神医学者にヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーがいる。ヴァイツゼッカーは、生きものが生存を保持するために知覚と運動の両面を動員して環境世界とのあいだで保っている接触のことを「相即」(コヘレンツ)と呼び、このような生命と環境との相即の維持を当事者側からとらえた事態が「主体」であるとしている(木村敏によるヴァイツゼッカー解釈の概略)。

 ヴァイツゼッカーについては下記のブログで多少の検討を加えたことがあるが、とりわけ第三章c節で「腕を持ち上げることはできないのに、持ち上げた姿勢でとめておくことはできる患者」や「歩行困難な患者がベッドから降りるとき、ふだんは命令しても伸ばせない膝が、伸びたままの姿勢になっている患者」といった事例に触れたのを思い出す。ヴァイツゼッカーもまた、身体の生理的機能と表象機能を分別し、彼の患者たちが後者に問題を起こしていることを見抜いていたのである。このことは「症例シュナイダー」のテーマと相当程度通底するものがあるので、興味のある方は第三章だけでも、なんなら第三章c説だけでも一読されたい。

 

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 なお症例シュナイダーについてのメルロ=ポンティの考察についてもう少し詳しく知りたい方は、次の記事をお勧めする→身体を巡る省察5 病理が教えること | 公共空間 X
 この筆者によるシュナイダー症状の要約は明解であるように思う。いわく
「まず彼は身体システムの中では生きられるのだが、また言語のシステムもそれはそれとして了解して、命令されることの意味は理解できるのだが、両者を結び付けることができない。そう考えてみる。しかしさらに踏み込んで考える必要がある。つまり健常者においても、身体的な動作は必ずしも言語による命令に従ってなされるものではないということである。精神が常に身体を制御している訳でもないということである。そうではなく、身体がすでに象徴作用をする能力を持っていて、他者に対して働き掛けることができる。つまり身体は意味を担った行動をする。シュナイダーはその機能が壊れているのである」

 

 *

 

 さてこのような例を持ち出したのは、性欲は喚起されていないのが通常であり、性的興奮は一種の「状態異常」である、と主張したいからだ。

 性欲が喚起されること。動物はそれを発情期によってコントロールしている。ではヒトは? そのような自然のリズム、のみならず求愛や性行為に対しても何一つ自明の様式を持っていないわれわれは、様々な文明装置をつくりだすことによってその代替とした。
 いわば「ヒト」が「人」であるために、元来が錯乱的なものであるさまざまな衝動――その最大のものとしての性的衝動――を絶えず治水工事し、流れを導き続けなきゃならないのである。

 

 マルセル・モースは、身体技法についての論考のなかで(一九三九年)、自然発生的行動といったものはあり得ないと主張した。食事から選択、休息から運動までのあらゆる種類の行動――なかんずく性行動――は、学習の痕跡をとどめている。性行動はその本質上、なにものにもまして学習という社会的作用によって伝達されるものであり、また、これはいうまでもなく道徳と密接な関係をもっている(同書、三八三頁)。

 (メアリー・ダグラス『象徴としての身体』)

 

 こうしたことについて最も鮮烈なイメージで語っているのはルネ・ネリであろう。文明による性欲の制御を、彼は次のように表現している。

 

 情欲のまま、衝動のままに振る舞ったと思われがちな原始人でさえ、季節ごとの舞踏で愛欲へと集団的に鼓舞されなければならなかったのである。時間の長短は別として、半覚半睡の夢遊状態を経過せずには覚醒から睡眠へ移れないのと同様に、通常の状態ないし現実的な警戒態勢から快楽へ身を委ねきれる心理状態に移るためには、瞬間的か持続的かはともかく、個人的か社会化されているか(より精確に言えば、個人的でしかも社会化されているか、つまり一種族全体に共通な神話観念に満たされているか)はともかく、夢幻と譫妄の助けが不可欠である。

 (ルネ・ネリ『エロティックと文明』)

 

 この記述は、祭りとそれに伴う乱交といった一連の、些か通俗的なイマジネーションを喚起する。人工的な発情期、文明化された発情期。あるいは海辺やクラブでのナンパ、そのような口説きが無作法とは見做されないようなしかるべきエリア、といった時間を空間に置き換えた発情期もある。

 

novelAI生成

 

 これらはいずれも、ネリの言うところの「(社会化された)夢幻と譫妄の助け」であるだろう。

 こうしてみると、AVのシチュエーションには看護婦やキャビンアテンダント、女子高生、OLなどかえって日常的-非祝祭的なものが多いことは何を意味するのだろう。思うに現実におけるオフィスや学校、病院といったシチュエーションは性的衝動の解放から最も遠く、逆に抑圧が強まるため、ポルノグラフィという手段で性欲の生理的解消を求めるさいに、主人公がオフィスを離れて花街だのビーチサイドだのクラブだのといったしかるべき場へ向かう代わりに、どうせ虚構ならそのままその場を性的なものにしてしまったほうが、抑圧と解放のギャップによってより強く興奮するということなのだろう。

 

 いっぽう、個人的なレベルにおける「夢幻と譫妄の助け」とはいかなるものだろうか。

 さきほどメルロ=ポンティの引用のなかに「性的世界」という言葉が出てきた。金塚貞文に依拠してこれを読み解くならば、現象学における「世界」とは、われわれの経験を通してそのつどさまざまに異なる相貌として立ち現れるものであり、客観的世界とはむしろ一つの反省的仮説にすぎない。したがってわれわれの経験する世界とは、その都度の状況によって浸透された、いわば私的な世界にすぎないという。

 このような文脈における「性的世界」とはむろん、性的な状況に浸透された世界メルロ=ポンティのいう「色情的状況」)を指すのであり、それは金塚によれば「他者の身体を通してのみ、私の身体となる――私の生きる――世界となる世界である」という。なんだこれややこしい。

 

 この金塚の言葉を僕なりに解釈すればこうだ。なにか直近の、激しく欲情した出来事を思い浮かべてもらいたい(なければ「少し欲情した出来事」でもいいです)。それが起こっているあいだの束の間の世界とは、「この相手とヤリたい」が想念のほとんどを占める世界になっていたはずである。そんな時に客観的世界という視点――どこにでもいる男がどこにでもいる女に欲情している、人類が始まって以来数限りなく繰り返されてきたことだ――を思い浮かべる人はいない。もっと端的に言えばそんな客観的世界のことなどどうでもいい、とその時のあなたは思うはずだ。

 あるいは失恋による深い喪失感。あれもまた、世界が恋人をめぐる性的世界と化していると言えるだろう。ただしその崩壊に立ち会うというかたちとして。なにが「もっといい女がいっぱいいる」だ、埋めるぞ! ……だが現実は、ロミオがジュリエットと知り合ったとたんに酷薄なロザラインのことを一瞬で忘れたように、「もっといい女」はすぐ見つかるのである。なぜなら「もっといい女」とは常に、新しく好きになった女のことを指す言葉だからである。

 これがメルロ=ポンティ-金塚の文脈でいう性的世界、金塚が上のややこしい言葉で言わんとしたことであろう。つまりその時にかぎって世界とは相手の身体であり、そこで「生きる」ことは相手の身体という経路を経てのみ可能であるような世界のことなのである。

 そのうえで金塚は、「性的他者」という概念を付け加える。

 

 今、この性的世界に住みこむ他者、あるいは、それを体現する他者を「性的他者」と呼ぶことにしよう。とすれば、性的世界に他者は不可欠であるとはいえ、その他者とは、誰であってもよいというわけではなく、自慰しようとする人、性交しようとする人が生きる同じ性的世界に生きる他者、性的他者でなければならないわけだ。

 (金塚貞文『オナニスムの秩序』)

 

 だが、他者が性的他者であることを支えているのは、結局のところは性的世界の主たるわたしの空想にすぎない。

 

 要するに、他者はいきなり、性的であるわけではなく、その身体振舞いを知覚する私が性的他者――性的世界に生きる私――の虚想をこめるかぎりで性的なものとなるのであり、だから、ここでは、他者が性に先行しているわけだ。

 (同書)

 

 かように他者とは虚なる想い、「夢のごときもの」(メルロ=ポンティ)にすぎないという。ルネ・ネリのいうところの「夢幻と譫妄」というのもつまりはこれだ。他者を性的他者たらしめる幻想。

 

 *

 

 娼婦が客を引くときの姿は動物の発情期を模倣している、と生物学者のリン・マーグリスとドリオン・セーガンは類人猿の発情期の特徴について述べたテクストの末尾で指摘している。

 

 筆者は、昔の母親たちは周期的に(安田註:類人猿のように)陰部が色づき膨らんでいたが、何らかの形でそれがなくなったと考えている。普遍的に衣装――常に膨らんでいる乳房という衣装も含めて――が採用されるようになったのとともに、発情期の喪失が体から心へ、定期的に発情する雌の生理から自分が魅力的になりたいと思うときを選ぶ女性の意識へと移されたということである。実際、発情しているサルの膨張し色づいた下半身と街娼の身にまとうぴっちりしたデイグロのピンクのホットパンツ、そのきゅっとあがったお尻との間にはぶきみなほどの類似がある。

 (中略)

 発情期は完全には消えていないのだ。色街と呼ばれる混乱した都会のジャングルの中では、発情期の幽霊がしつこく残っているかのように思えて来る。

 (リン・マーグリス+ドリオン・セーガン『不思議なダンス』)

 

 むろん娼婦が発情していると考えるのはおかどちがいだ。娼婦は、男の欲情を喚起するために発情期の擬態をしているにすぎず、そのさいに自らも発情するかどうかは副次的な問題である。

 こうしたことは、以前書いた「人間は発情期の代替として羞恥心を持つようになった」というマックス=シェーラーの説の実践例といえる。

 

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 というのも、羞恥心という感情は他者の性的世界に参入するつもりがない時に、相手の性的興奮を喚起しない、あるいはすでに興奮していればその対象から除外される機能を持つのだが、実践的には服装や姿勢や態度といったものを通じて自分の性的コンディション、ようはその気があるのかないのかを伝えなければならないからである。

 

novelAI生成

 

 ただしそれは意識的であるとは限らない。カール・グラマーの研究に、声をかけた女性の唾液を採取し、エルトラジオールの含有量をはかることによって排卵期が近付くほど女性は露出度の高い服を着る傾向があることがわかった――という驚くべきものもある。

 したがって「生物学者と人類学者が強調しているように、人類のもっとも注目すべき特徴は、女性の性行動が発情期という、排卵と雌としての受容性を示す時期を受けたものではない点だ。私たちは性行動と生殖能力が完全に切り離された唯一の種なのだ」(カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウエズ『脳と性と能力』)というさいの「完全に」、という部分については留保しなければならないだろう。

 ところでこの文脈を介して言うならば、ネットで以前話題となった「性的まなざし」とは、あなたの性的世界に付き合うつもりはない、「女」として立ち現れるつもりはないのでそういう目で見ないでください、という意味に他ならない。この点について僕は、川久保玲のファッションについてかつて山田登世子先生が言っていたことを思い出す。コム・デ・ギャルソンを着ることは「女」であること、セクシャリティからの解放である。それは私を自由にする。常時「女」であることはキツい。

 はたまたカミール・パーリアの巻き起こした「デート・レイプ論争」。パーリアは性加害自体を擁護するわけではないが、デートにおける危険は女が手に入れた自由の代償であるという。彼女によれば、女は男にその気がないことを、明言ではなく(それでは楽しいデートが台無しだ)それとなく態度でわからせなければならない。すなわち様々なシグナルを用いて今は発情していないことを伝達する、そのような実践的知識が必要だという。

 

 *

 

 以上のことを身も蓋もなく言えば、「男が性交可能になるのは相手が性的ファンタジーに付き合ってくれる場合だけ」となる。

 かつて速水由紀子は「あなたはもう幻想の女しか抱けない」と言った。彼女いわく、援交オヤジが求める「少女」像は、ひとつには山口百恵綾波レイのような薄幸の少女タイプ、もうひとつは小泉今日子広末涼子のような健全無垢なタイプだという。

 そのような無垢な存在であるはずのない(かといってとくべつ擦れっからしとか、淫乱というわけでもない)〝普通の援交少女〟たちが彼らの性の対象となるためには、少なからず男の幻想に合わせてやる必要がある。ゆえに援助交際の本質はイメクラである、というわけだ。

 たとえば速水は、薄幸の少女タイプにたいする援交オヤジの性欲について次のように述べている。

 

 男の性欲というのは、征服欲がかなり大きな要素をしめる。だから、自分より金持ちだったり、経験豊富だったり、輝くほど幸福だったり、タフで強くてど根性があったりすると、性欲は喚起されにくい。「薄幸の美少女」は絶妙なツボにはまるのだ。

 (速水由起子『あなたはもう幻想の女しか抱けない』)

 

 この「征服欲」を「メサイア・コンプレックス」に言い換えると、ジジェクの次のような指摘に見事に当て嵌まる。

 

 つまり、「彼女の夢の中には、このぼろ布のような男のための場所があるのだろうか」という疑問だけではなく、「彼の夢の中にはまだ、いまや健康な普通の少女となり、商売を成功させている彼女のための場所があるのだろうか」と問わねばならない。つまり、浮浪者が少女に同情的な愛情を抱いたのは、彼女が盲目で、貧乏で、まったくよるべなく、彼の保護を必要としていたからではなかったのか。いまでは彼女のほうが彼を養ってやる立場にあるというのに、それでも彼は少女を受け入れることができるのか。
 (スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』)

 

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 『あなたはもう幻想の女しか抱けない』の終末部を僕なりに要約するとこうだ。女たちはもともと現実に親和的であり、いまや幻想を必要としない自分を見出している。だが男たちはなかなか幻想依存症から脱却できない。それでも援交少女たちに虚妄の癒やしを求めるのではなく、自分で自尊心を持ち、自分を癒やせ。「人生が成功か否かを決めるのは、自分自身の心だけである」――

 果たしてそんなことが可能だろうか? なるほど男たちがもっと自信をつければ、とくに男による救いを必要としていない「強い女」たちを愛せるようになるかも知れない。だがそれはようするに「女は金持ちだが自分はもっと金持ちだ」というだけのことである。

 そうではなく、鎧をすべて脱ぎ捨てよ、自尊心の源泉を外部に求めるな、「僕らは薄着で笑っちゃう」(忌野清志郎)――突き詰めればはそういう話にならざるを得ない。まさにチャップリン扮する浮浪者が、「強い女」となった彼女を前に自らの幻想のリミットを試されたように。そうでなければ、速水のいう「幻想」から自由になったとは言えないだろう。

 それはかなり困難なことのように思う。速水は「幻想」という言葉の科学的ないし心理学的根拠を示していないが、おおむねポンティ-金塚のいう「性的世界」と同義であるとすれば、それは脳構造に関わる根深いものであり、数年や数十年単位の意識改革で脱却できる類いのものとは思えないからだ。

 勃起と能動的動作を必要とするオスの性交にはかならず性的世界の支えが必要であり、我々にできることは、せいぜいその幻想の幅を広げてゆくという〝対症療法〟だけなのではないだろうか。

 

 かつて宮台真司のインタビューを受けたギャルが、「茶髪にしたりピアスにしていていいところはさ、すっごいダサくてつまんない男が近寄ってこないことだよね」と言っていた(『終わりなき日常を生きろ』)。今日ではギャル、黒ギャル、メスガキ云々は一大ジャンルとして、最も貧弱な男たちの性的幻想にさえ組み入れられ、日々わからせたりわからせられたりしている――ただし彼らが現実のギャルを愛せるような性的世界を持っているかどうかは未知数ではあるが。「強い女」萌えは果たして来るのだろうか?

 したがって速水の、男の性欲の幻想的性格を悪しきものとして現代社会の不全感に投影し、そこから脱却せよというスローガンは些か楽観的である、と言わざるを得ない。

 ところでSMにおけるマゾ男プレイはもちろん男が女を性的客体化している。誰による「性的世界」なのか、という主-客と、実際にそのなかで演じられるシチュエーションにおける主-客はまったく別物である。したがって、よく見かける「男の性欲は攻撃性や征服欲と同根だというけれど、マゾ男はどうなんだ?」という議論はナンセンスである(ただし「男の性欲は攻撃性や征服欲と同根」であるかどうかは、別個に論証しなければならない)。これを俗に「SMのSはサービス、Mはマスター」などと言ったりする。

 

novelAI生成

 

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 さて女性はア・プリオリに「女」なのではなく、一定の条件下においてのみ、男が生物学的女性の上に見出す幻想のヴェールが「女」である……という話には精神面と肉体面がある。ここまでは主に精神面の話をしてきたので、以降は肉体面について見て行くことにする。

 このような視点を保持しつつ、あらためて生物学的女性を見ると、男の性欲を喚起して当然であるかのように思えた女性特有のフォルムも元来は性欲を喚起するためのものではないことに思い至る。

 たとえば腰部の盛り上がり。男もある程度はウエストに対してヒップが大きいが、女性はその差がはっきりしており、これがいわゆる「くびれ」となって男の性的興奮を喚起することは周知である。だがそうしたフォルムは男性の性的興奮を煽るためにそうなったわけではない。

 順番に見てゆこう。まず四足歩行の動物は大きい腰部を必要としない。なぜなら腰部で内臓を支える必要がないからである。

 

 あらゆる四本足の動物にとって、腹や胸のなかにある臓器は、重力によって、腹筋や肋骨の方へ落ち込んでいこうとするから、内臓が勝手に暴れ出さないように押さえるための装置を使用する。そのもっとも基本的な策は、背中から膜で吊り、地面に近い腹の壁で下から支えるというものだ。あらゆる動物の内臓は、背中から吊って、腹側で受け止めておくという方法で、重力に対抗してきた。

 (遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』)

 

 だが直立二足歩行となるとそうはいかない。体の向きが90度変わってしまうのである。

 

 腰部を作り上げている骨盤は、からだが直立したために、内臓を下から受けて支える鉢か盤のようなもので、盤のふちに相当する腸骨の部分は幅広くなり、前面からみると、左右の腸骨は外側へ開いた金魚鉢のような形になっている。そのため、下肢のつけ根である大腿骨の骨頭が収まる左右の寛骨臼(間接)は、大きく離れた位置に移動した。

 (江原昭善『進化のなかの人体』)

 

 もっとも「腰部の骨盤が大きい」という特徴自体は人類の先祖たるチンパンジーの段階からすでに見られる。チンパンジーは四足歩行と二足歩行を併用するが、とくに資源が限られており競合が激しいときに二足歩行を多用する。そのほうが多くの餌を持ち去れるからである(初期人類への最初の一歩:なぜわれわれの祖先は二足歩行になったのか、チンパンジー研究から解明されたこと)。

 女性については、さらにもう一段の変化が加わる。

 

 それは、女性では産道を広く確保することになったからである。だから女性では男性以上に広い腰幅が要求され、寛骨臼は男性よりも外側に移動して、いうなれば、女性の下肢のつけ根はニワトリのように骨盤の真横に位置している。
 (同書)

 

 そしてこのような出産に適した体型はそのまま、男から見ればプロポーションのいい、いささか下品な言葉を使えば「そそる」体型にもなった。言うまでもなく、出産に適さない体型を好んだわれわれの先祖たちは淘汰されてしまったからである。

 余談だがアニメ「セーラームーン」の変身シーンで、彼女たちのプロポーションが映るとき、股間に逆三角形のスキマが描かれているのを見て僕の母はリアルだと感心していた。これも女性の骨盤の大きさと寛骨臼の位置による特徴で、男にこうしたスキマはない。

 

TVアニメ『美少女戦士セーラームーン

 

 このことは骨格だけでなく脂肪についても同様で、女性特有の乳房や腰部に集積する脂肪をガイノイド脂肪というが、これはいわゆる女性ホルモンであるエストロゲンの働きにより、通常のアンドロイド脂肪(男女共通の、主に腹部などにつくあの脂肪)とは分けてつくられる。

 アンドロイド脂肪に対するガイノイド脂肪の比率は青年期に最大になり、妊娠・出産を助けると同時に男性にとっての性的魅力となる。また女性にとっても、性的魅力があるほうが数多くの求愛者から優れた相手を選べるため、これはこれで生存-繁殖に有利であっただろう(これを生物学用語で「オーナメンテーション(装飾)」という)。 

 

 健康状態が悪く、栄養が不十分な女性は、エストロゲンをあまり作り出さない。そのため、子どもが産めなかったり、健康でない子どもを産んだりする可能性がある。
 女性のエストロゲン値は、食事が足りているか、体内に寄生虫がいないか、どの程度ストレスを抱えているかといったことを判断する指標となる。

 (オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』)

 

 こうして「そそる」女性に求愛すると、自ずとそれが出産に適した女性でもあるというしくみになっている。

 

 *

 

 興味深いことに、こうした性的パートナーに対する選好には「サルからヒトへ」といった時間スパンだけではなく、人種の分化といった比較的短いスパンの出来事も影響している。

 例えば周知のように、モンゴロイドコーカソイドに比べて幼児的な体型や顔立ちを好むとされる。いわゆる「日本人の〝カワイイ〟好み」は精神的な未成熟を表すものとして揶揄されがちだが、これは寒冷地に棲息する期間の長かったモンゴロイドにとって、体積にたいする表面積は少なければ少ないほどよかったことが関係しているという。

 われわれの背が白人に比べて低いことや、目鼻立ちがあまりくっきりしていないのは寒冷地適応の残滓(鼻が長ければそれだけ冷えやすい!)なのである。そしてそれは、幼い体型に対する選好性に結びつく。 

 

 ある程度の期間にわたって個体群の平均よりも幼型的な方向に適応度の極があるのだから、個体群の平均より幼型的な形質を配偶相手として選ぶことにつながる心理形質、つまり美しさより可愛いらしさを重視する心理傾向、ないしは脳内の生得的な美の原型が相当、幼型的な方向へずれているといった性質が選択されて、個体群内に固定するわけである。これがプレモンゴロイドから新モンゴロイドへの変化の過程で生じた可能性を指摘したい。

 (蔵琢也『美しさをめぐる進化論』)

 

比べてみよう!バービーと、ジェニーちゃんと、リカちゃん : Barbie Bomb!!

 

 ということは、我々モンゴロイドの祖先が寒冷地に棲まっていなかったら、八頭身でバタくさい顔を好むか、あるいは黒い肌と縮れっ毛に厚い唇といった特徴を好むか、いずれにせよ今とはまったく違う選好性が定着していたかも知れないということである。

 好みはむろん人それぞれだが、寒冷地に棲んでいたモンゴロイドコーカソイドに比べて「ロリ体型二割増し」みたいなバフがかかっているというのは、言ってみれば我々の先祖の一群が「じゃ俺ら、北のほう行ってみるわwww」という決断をしなければ存在しなかった話なのである。

 

 *

 

 少し話しを戻すと、このような骨格のため、ウエストにフィットするように女性の腕は男と違ってやや外側に反っている(下図参照。なおあなたが女性であれば、両手をまっすぐ正面に伸ばすとよくわかります)。

 このフィットの利便性はなんだろう? 狭い場所でかさばらないとか、少しだけぶつかったり擦り剥いたりしにくくなるといったことしか思い浮かばないが、進化論的時間単位では、このような些細な利便性の違いでもきっちりフォルムの改善が遂行されるというのは驚くべきことのように思う。

 

女性の腕は肘から先がやや外側に反っている。江原昭善『進化のなかの人体』より。

 

 実は、この女性の腕の反りについてが今回いちばん言いたかったことである。

 というのもこの例は一見些細だからこそ、ここまで述べてきた男の欲情のある種のイレギュラーさについての、何かしらの重要な示唆があるように思えてならないのである。

 つまり女性の肘から先の反りが腰のかたちの変化に付随したものであるならば、二足歩行および大腿骨の移動以前は反っていなかったはずである(四足歩行では体重を支えるためにそのほうが合理的だろう)。

 このことは、ヒトの体があらかじめ今あるように設計されたわけではなく、つねに過渡期のものであることを示すと同時に、男がかくも求めてやまない女の身体というものが、環境次第でまったく違ったフォルムになっていたかも知れないことを示唆する。その好例として筆者にはとりわけ興味深かったのである。

 

 もう一つ例を出すならば、ゴリラやチンパンジーに見られるナックル歩行。ヒトが四足歩行から二足歩行に移行する途中でナックル歩行を経由したか? という議論は、どうやらしていないことが判明したらしいのだが(下記参照)――

 

www.kyoto-u.ac.jp

 

 もしナックル歩行に向いた鉤状の(曲がった状態を保持しやすく伸ばした状態を保持しにくい)掌の骨格と、人間より大幅に長い腕、短い足を持つ女性がいたとしたら、どんな絶世の美女であったとしても、彼女にたいし性的に興奮することはおそらく不可能だろう。

 

 

 つまりわれわれ男は、こうした偶然――ここでいう偶然とは無作為抽出的な意味ではなく、つねに必然的である人体の、その必然の拠り所となる環境および適応の手段がいまとは別のものであり得た可能性、という意味において――かつ過渡的な形態にすぎない生物学的女性の形態に対して欲情しつつ、いつしかその形態を非歴史的・普遍的なものであると思い込んでいるのである。

 欲情だけではない。われわれは人体に調和、均整、美といったものを見出すことにふだん疑問を抱かない。耶蘇教徒は今なお、人は神が自らの姿に似せてつくったと信じている。つまり今現在の人体の在り方にヒストリーなどない、一発納品というわけだ。

 

 ここまで読んで納得された方でも、おそらく明日か明後日、どこかで誰かの身体に対して性的欲情するだけでなく、そこに見事な美や調和を見出し感歎するであろう。性的世界にいる時、われわれはサルの子孫であることをやめ、永遠の、祝福された被造物となるのである。

 

 

 

 

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