アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-14

2023-03-29 06:46:21 | ダンテス・ダイジの風光

◎一行三昧

【コース選定】

 

三昧発得、すなわち宇宙意識的自己に目覚

めれば、その中に、超越のみではない。この世を生きるものとしての君が、選ぶにふさわしい人生コースについての智恵は、自然に備わっている。

 

しかし、一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。そこで、冥想道の基本過程を一まず完了した修行者諸君のために、コース選定という課目を出しておいてもよかろう。

 

 

コースの根本的選定は、君の霊的な本質個性によってなされる。

したがってコース選定の段階に入る以前に は必ず何らかの形での一行三昧の訓錬がおこなわれている。一行三昧というのは、幅広く冥想道の行法や知識に通じるのではなく、何か一つの「これだ!」というものを発見するということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

いよいよコース選定段階に入ってきた。だが、誤解しやすいのだが、見神も見仏も見性もしていない人は、コース選定の段階に至っていない。まずは見神、見仏、見性の体験が必要となる。

 

三昧発得とは、ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)のこと、宇宙意識とは、ニルヴァーナのことである。三昧発得と宇宙意識的自己が並んでいるのは、冥想十字マップの世界観が念頭にあるものと思う。つまりニルヴァーナ並みの体験とは言えない体験があれば、食べていく方法も自ずと出てくると言っているだけ。

 

またここは、悟りを開いても聖者高僧として生きるわけではなく、自動車修理工やコンビニの店員や職人や非正規サラリーマン(ウーマン)や農家のようなありふれた社会人として生きるようなことが念頭にある。

 

よってコース選定とは、職業選定のことなどではないのだ。

 

一時的な見性・見神はたやすくても、それが完全に全体的なものになるのは、永遠の修行そのものにおいてである。とは、見神見仏を体験した者が、悟後の修行である聖胎長養を行ってさらに完璧を期すこと。

 

聖胎長養の意義と狙いについては、以下に考察したものがある。

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-1

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-2

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-3

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-4

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-5

悟り後の修行・聖胎長養の狙い-6

 

 

コースの根本的選定は、必ず一行三昧を経る。一行三昧によって、見神、見仏、見性を達成するのであって、スピリチュアル哲学やオカルト・テクニックの本を読み漁ることではない、という風に読める。

 

そして一行三昧によって自分の霊的本質的個性を見極めるのだ。西洋占星術やタロットで見極めるのではない。そんな時代ではないだろう。西洋占星術も四柱推命もタロットもオラクルカードも易占もルノルマンも、わが身に備わっている時代となって久しいのだ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-13

2023-03-28 06:47:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎自由な力、定力

 

冥想道手帳の続き。

『どんなに深遠な形而上的認識を

冥想修行の途上で得たとしても自由な力がなければ駄目だ。

 

定力を充実させる一つの方法は

君のなすべきことをなせ

ということだ。

それが、どんな簡単なことだろうと

どんなに困難なことだろうと

君のなすべきことをなせ。

 

もし、なすべきことが何なのかわからなけ れば

時が満つるのを待とう。

 

定力のみにかたよった冥想者は

つらの皮ばかり厚くて

世俗的な成功は手に入るにしても

生老病死の苦を越えることはできない。

絶対無の智慧を知ったとしても

智慧ばかりの冥想者は

心はみだれて使いものにならない

心は本来なしと思ったところで

その思いがみだれているのだから。

 

冥想修行の途上では

実力と智慧とが分裂することがあるものだ。

それは、絶対無を人間心理の側から

見てしまうからだ。

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

 

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

人間的観念に

いつまでもへばりつくことはできない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

自由な力とは、定力であり、胆力のこと。冥想界隈では、臨済禅の師家に定力抜群の人が多いことは知られているが、一般世間でも、押しの強い営業ができる人に定力がある人は多数いるものだ。

 

ただし、悟っていなくて定力だけが強い人は周辺に迷惑をかけたりしていることもままあり、そういう人と一緒にいると「肩がこるような気がする」ということをダンテス・ダイジは言っている。

 

ここでは、定力と智慧二つながら極めることを求めている。定力だけあってもダメで、智慧だけあってもダメ。実のところ、大悟以前の修行段階では、どうしても定力だけ先行しちゃっているとか、智慧だけ先行しちゃっているという風になりがちだが、そのことについて是非を論じてもしかたがない。「君のなすべきことをなせ」なのだ。

 

このパートについては、全体として公案禅が念頭にあるように思う。

公案という不条理の論理に自分がなりきることで、絶対無の智慧を得る。並行して、日がな「ムームームー(無)」や「セキシュー、セキシュー、セキシュー(隻手)」などのマントラを繰り返すことで、肚(はら)を作る。

 

ここは、上位三チャクラ中では智慧のアジナー・チャクラだけ強調している。

 

そうは言っても、現代で社会人として生きていくには、ITや金融経済や法制などの知識と智慧だけではやって行けず、ハラの力、定力もないとやっていけないところもあるのは、現実である。冥想修行にあっては、智慧と定力を極めるのは必須だが、現実を生きるにも智慧と定力が必要なのである。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-12

2023-03-27 06:58:27 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象世界のトリックを見破る

 

冥想道手帳の続き。

『君の本当に好きなものは何か?

君が本当に願っているものは何か?

本当の願望が

宇宙意識である君を

目覚ましめる。

欲望と言ってもいい

君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。

そして君は帰って来る

宇宙意識の素晴らしさの中に。

 

欲望こそ

冥想の至福の母である。

 

素直でなければならない。

悟りとは素直であるということだ。

 

 

もし本当に本当に生きたいのなら

水晶のように透明で

自分に絶対の自信を持っていなければなら ない。

 

絶対の自信には

どのような外的理由も条件もいらない

ただ絶対の自信を持つのだ。

 

信じるものは幸いなり。

 

 

君は必ず死ぬんだよ。

君は現象世界の虚しさを見ているんだよ。

 

欲望と戦っても無駄だ。

欲望を抑圧するのではなく

欲望のはかなさを直視すればいい。

今から一分後に

君と君の見ている宇宙は終わるのだから。

 

代用品としての欲望は

どこにも行き着かない。

宇宙意識は、君の正真正銘の欲望を

求め続けている。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

※宇宙意識:ニルヴァーナ

 

『君の激しい欲望は

君の見ている現象世界のトリックを

見破ることだろう。』

欲望は性欲限定でも出世欲限定でも資産増大限定でもない。欲望が自我の極大化を経て絶望に至り、隙間からニルヴァーナを望見するには、欲望は激しくなければならないが、それだけが宇宙意識への順路というわけでもない。

だが、激しい欲望だけが、『現象世界のトリックを見破る』ところまで連れて行く。そのために、自意識の最深部の『本当に願っているもの』を捜さねばならない。それは、若い時は往々にして魂の伴侶を求めることだったりするのだが、誰もがそううまくもいかないものではある。

 

本当の絶望の先に真の冥想がある。

 

『悟りとは素直である』とは単純明快だが、そう簡単でもないことが、覚者たちの修行記録を読めばすぐにわかる。それでも素直であることは基本中の基本。

 

『水晶のように透明で 自分に絶対の自信を持つ』とは、クリスタル・ピープルあるいは水晶身魂が念頭にある。つまり最低でも神仏を見た人物のことである。仏教なら菩薩のこと。未悟の人が、自分に絶対の自信を持ってもそれだけでは使えない。それが、『外的理由も条件もいらない ただ絶対の自信』を持つということに示されている。

 

欲望により自我が極大化すれば、死が視界に入って来る。若い時は、自分も親も元気だし、死と言われてもピンとこない人が多いのだが、自分の死とは、自分の肉体だけ死ぬのではなく、恋人も愛人も家族も親も子も、人間関係も地位も名誉も財産もすべて失うのだとは思い至らぬことが多いのかもしれない。

 

2023 World Baseball Classic 決勝の最終回大谷翔平選手VSマイク・トラウト選手の対決時は絶体絶命だった。たまたま大谷翔平選手が勝ったからあまりそのことには皆触れない。

2011年は、先に東日本大震災があって、後に相当に奇跡がかった FIFA女子ワールドカップのなでしこジャパン優勝があった。

 

このような強烈な欲望成就のための試行錯誤を経てあるいは経ずして、欲望のはかなさを直視するという『冥想』が起こることを期待されている。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-11

2023-03-06 06:12:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎君の欲望は決して満足することはないが

 

冥想道手帳の続き

『読書からでも映画からでも知人からでも

この世の虚しさや不安からでも

失恋や最愛の者の死からでも

マリファナやロック・ミュージックからでも

どんなキッカケであってもかまわない。

君が絶対に確かなものを求めようとする時

冥想が始まる。

 

サイケデリック・トリップによって

君が悟りらしきものを開いたとしても

それは、冥想という果てなき戯れの

出発点であるにすぎない。

 

ベナレスの風景を眺めているうちに

喜びでも悲しみでもない遙かなものに

ふれて君が深い静寂を味わったとしても

それは、冥想しかない冥想への

旅のはじまりを示すだけだ。

 

森の中に迷っている

三才の童子のように

完全なやすらぎを

心底から君が求めること

それが、宇宙創成以前からの

君の冥想との因縁である。

 

君の欲望は

決して満足することはないが

君自身は幸福そのものだ

 

自分自身の

本当の

願いが

何であるかを知れば

君にはどんな問題もない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

ここは、発心と究極の両方が描かれている。

 

何のために冥想を始めるか。それは、『絶対に確かなもの』や『悟りらしきもの』、『遙かなもの』、『深い静寂』、そして『完全なやすらぎ』に触発されたり、求めたりすることで始まる。

 

冥想の極みは、君自身は幸福そのものであることに気づくこと、あるいは、自分自身の本当の願いを知ること。この表現は、最終ステップ直前において見ている自分、気づいている自分、知っている自分を残しながらも、その先も展望している。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-10

2023-02-26 07:00:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎安楽な心得

 

冥想道手帳の続き

『【安楽な心得】

 

冥想の具体的技法は、単純なものであってもかまわない。君にどうしょうもないほどの情熱と素直さとがあれば、ナムアミダブツと唱え続けるだけでも、君は神界の住人になる。

 

冥想を続けているうちに、どんな素晴しい経験をしたとしても、君の中に、自分は特別だという気持ちがあったら、素晴しい冥想経験なぞクソくらえ。

 

君は間違いなく死ぬ。この世のあらゆるものと同じように。

 

君は、今まったく新しい旅へ出発する。それは人間自我のみを人間と妄信している人間性にとって夢にも知らぬ新しい旅である。

 

君の自我にとって冥想の旅は、幾多の脅威やショックや孤独感や異次元の風光に満ちたものとなろう。

 

時には、冥想へと出発する前よりも一層、倦怠や不安や不満や動ようを経験するかもしれない。それは、君のこりかたまった自我にとって決して気持ちのいいものではない。

 

しかし、君は束縛に満ちたこりかたまりの自我世界にキッパリと別れを告げねばならない。

 

古い自我が崩れるショックを恐れる必要はない。冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてあるからだ。

 

冥想に方法はない。

金を手に入れたり、地位や名声を得たり、

体力を強化したり、健康を維持したり、

素適な異性をものにしたり、

セックスの悦びを増大したりする

技術方法はある。

だが、冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう

 

君が熱心に医学を勉強すれば

きっと一人前の医者になれるだろう

しかし、一流の医者になれる保証はない

この世の事柄は

運命とやらや才能とやらによるらしい。

 

冥想には、

医術や剣道や料理を修得する場合と同様

技術があり方法がある。

ただ外的な何かの修得と

内的な冥想の修得には

決定的な違いがある。

外的な事柄の成就には

優劣があり、じょうづへたがある。

冥想には一流も二流も三流もありはしない。

 

どんな人でも努力すれば

ハイジャンプのオリンピック選手に

なれるとは言えはしない。

けれども、どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できることだけは言える。

冥想とは

君がもともと完全に幸福だということだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

このパートは、誰もが自分なりにわかる部分だけを解釈することができるので、かえって読みやすいという怪しい部分ではある。

 

その中で、感じた部分は、次のとおり。

1.『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』

坐法、ポスチャーは絶対的であると言いながら、その坐法、ポスチャーは気にしなくても『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』が自分を神・仏に連れていくことがある。

 

2.『冥想は、君の自我防衛を強化するためにあるのではなく、自我そのものがない、本来の愛の広がりを楽しませようとしてある』

この自分のことを優先に考える人ばかり多い地獄的時代に、自分のことをさておいて他人のことを優先する人物は尊い。そんな時代に自我をなくそうとして努力する生き方は厳しい。

自我がないのは、本来の愛の広がりだが、自我をなくしたバーナデット・ロバ-ツは、苦闘した。厳密に言えば、ノンデュアリティ、自我がないことそれ自体が解とは言えないところがある。それでもselfish、エゴイズム全盛の時代に、自我がないこと志向して生きるのは厳しいが、それでもそこを目指すのが冥想修行者の王道。

 

3.『冥想に方法はない。

君自身が君自身になる方法など

どうしてあり得よう』

冥想初心者のうちは、まま『君自身が君自身になる』ことの重要性など理解しないものだ。

君自身が、世界全体にして宇宙全体であって、なにもかもないなどということを、論理的に考えたり、そのまま感じ取ってみようとするトライアルを繰り返すうちに見えることもある。

 

4.『どんな人でも

その人々の本性に応じて

完全な幸福を

実現できる』

『冥想とは

君がもともと完全に幸福だということ』

この一節では、完全な幸福が問題となる。健康、金、セックス、しなやかな肉体、名誉、権力、パートナー、家族、ブランド品、ゲーム・クリアなど外的に幸福になる品ぞろえは無限にある。そしてそれを手に入れてもいつまでも保持できはない。それらは、完全な幸福ではないからだ。

そこで今はまったく信じられないかもしれないが、『君がもともと完全に幸福だ』ということをどこからか聞いて冥想修行に乗り出す。

あきらめなければ、『君がもともと完全に幸福だ』ということを体現している人物に出会えるかもしれない。それは縁によって起こる。そして、いつか必ずや『君がもともと完全に幸福だ』ということを知る。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-9

2023-02-16 06:45:47 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の感情的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の感情的表現】

 

つぎに述べる情感が、君の中に響いていなければ、君の冥想修行が中途半端な状態であるか袋小路に迷いこんでいるといってよい。

 

安らかさ・喜び・さわやかさ・力強さ・解放感・清らかさ・充実感・深い悲しみ・なつかしさ・すべてを美しくいとしく感じる・やさしさ・楽しさ・ありがたさ・落着いた静けさ・その他あらゆる肯定的感情。

 

君が宇宙意識とふれ合う時、君は自己れんびんやセンチメンタルとは無縁の透明な涙を知るだろう。また、嘲笑や自虐性やこっけいさからのそれでない大いなる笑いやおおらかな微笑があふれ出すだろう。

そして君は知る、完全な沈黙や深くやすらかな静寂が何であったのかを。

 

形而上学や哲学や神学や教義イデオロギーの論義は、もういらない。君が、どんなに整然とそれらの論理的構造を理解したとしても、君がハッピーそのものでなければしかたがないんだから』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識(ニルヴァーナ)を神学的に究極の属性から説明した次には、感情的表現として肯定的な情感を並べ上げる。肯定的感情からも宇宙意識に入ることがある。それはクリシュナムルティの瞑想録などにも肯定的感情からニルヴァーナを兆すシーンがよくあるが、そういうものが例の一つでもある。

 

禅語録を読めば、大悟覚醒した際に、全身全霊がその感動で我慢できず、思わず師家にまで失礼千万な態度をとることがよく描かれているものである。ダンテス・ダイジの沖縄万松寺の隻手の公案シーンでもぶち抜けたシーンが描かれている。OSHOバグワンも爆発した。

 

またマントラ念唱から肯定的情感経由で入る道もある。

一休は、最初禅で極めたが、蓮如の弥陀の本願に抱き参らせるというふんわり優しい情感にころりと参り、念仏の信徒にもなった。

「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」 一休

と、親鸞を賛した。

 

また、

「極楽は十万億土と説くならば足腰立たぬ婆は行けまじ」 一休

と、極楽は遠すぎると皮肉ったところ、

「極楽は十万億土と説くなれど近道すれば南無のひと声」 蓮如

と返歌したという。もっとも禅は極楽を目指す宗教ではないが、極楽的な生き方となる宗教ではある(諸悪莫作衆善奉行=悪いことをしない、善いことをする)。

 

最初の大悟覚醒シーンには、感動的爆発が大体あるものだ。その一方でしみじみというのもある。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-8

2023-02-11 06:46:39 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の神学的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の神学的表現】

 

宇宙意識は限りない愛であり、自由それ自体である。愛と自由とかいう言葉を抽象的観念的なものと誤解しないでほしい。愛は絶対の実在それ自身であり、自由は、実在のあらゆる具象化している姿に他ならない。

 

そして、本当に冥想された絶対愛は、その中に、あらゆるものについての一切智を内包している。また、絶対自由は、それが具体化する時、ただちに無限のエネルギー、力を実感せしめる。それらは、あくまで全身全霊なる実感そのものなのである。

 

 愛・自由

愛・智恵・力・自由

 

つぎに宇宙的愛の内容をさらに情的に確認すれば、絶対なる愛の中には、安心があり 歓喜がある。言語を絶する静かな安心と限りない歓びなのだ。

愛・安心・歓喜・智恵・力・自由

 

君が愛や自由に合一した時、君は、生まれて始めて、とめどもなく清らかな涙、ぶち抜けた解放的な笑い、言いようのない悲しさと喜び、深い深い静寂、本当に生きているんだという実感を疑いようもなく体験することだろう。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識とは、ニルヴァーナのこと。西洋の翻訳もので、宇宙意識をニルヴァーナという意味で使っているケースはあるが、一般には顕在意識、潜在意識、集合的無意識などあって、その先の宇宙意識のことかと想像されがちなところはあるのではないだろうか。

 

ここで、ダンテス・ダイジは、7チャクラの関係性を説く。

 

愛・自由

愛・智恵・力・自由

愛(アナハタ)・安心・歓喜・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

 

さて、安心・歓喜はチャクラに配当されていない。

この冥想道手帳の後の部分にメンタル体の各チャクラの配当を論じているところがある。それが、曰く、メンタル体チャクラにおいては、その一つ一つが神界の現れ。また愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)は、完全なる神の四つの現れ云々。

 

さらにダンテス・ダイジは、六神通力のチャクラをも次のように論じている。

漏尽通:サハスラーラ

宿命通:アジナー

天眼通:ヴィシュダ

他心通:アナハタ

天耳通:マニピュラ

神作通:スワジスターナ

六神通力は、超能力だが、人間のパワーの作用し得るカテゴリー区分としては傾聴に値する。そしてこれを見ると、力(ムラダーラ)が含まれていない。六神通力を見るといつも思うのだが、漏尽通は煩悩が尽きて生まれ変わることがないステータスなのだから、どう見ても超能力ではない。その辺が力(ムラダーラ)が含まれていない理由であって、気がつく人は気がつくのだろう。

またそれは、クンダリーニのエネルギーコードの謎にも連動してくる。

 

また、ここで愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

は、悟り直結の上方3チャクラでもない。これは彼がこれを書いた当時、必ずしも冥想修行者は悟り(ニルヴァーナ)を目指すべきであるという方針ではなかったためかもしれない。

 

というのは、ダンテス・ダイジは説法の初期には、ライフスタイルの悟り、すなわちその人が最も自分らしい生き方を生きることを『ライフスタイルの悟り』と称して認めていたが、ある時期から人類滅亡の危機をより深刻に感じたせいか、これを認めず、ニルヴァーナのみを標榜すべきだというより厳しい方針に転換したという経緯がある。

 

また、最初に愛・自由を置いているが、行法としては、念仏などのマントラ禅(マントラ・ヨーガ)が愛狙いで、臨済禅(公案、定力など)が自由狙いであったということもある。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-7

2023-02-10 03:09:22 | ダンテス・ダイジの風光

◎もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない

 

冥想道手帳の続き

 

『【冥想意識の人間的表現】

 

もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない。だが、超人間界を人間的世界の相似対応の立場に立てば、それはまた人間的な言語によって形容し表現し得るものでもある。

 

これらの超人間的世界の人間的な表現は、 冥想修行者の修行過程を確認、反省、チェックすることにも役立つだろう。そして、冥想修行者の自己チェックに役立つのは、冥想意識の哲学的あるいは存在論的な言語表現であるよりは、形容詞や感情的な言語表現によるもののほうが、よりストレートなものになりやすいであろう。

 

詩は哲学よりも観念的ではないのである。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

冥想意識とは、ニルヴァーナのこと。ニルヴァーナは、もともと言葉では表現できないので、絶対無や大日如来や道(タオ)やノンデュアリティなどの哲学的あるいは存在論的な言語表現では、わかりにくい。

 

よって、ダンテス・ダイジ自身も、エクスタシー、あたり前な生命の暖かさ、底知れぬ生命の絶望と悲しみ、すべてのすべてなど、形容詞や感情的な言語表現をとることもある。

 

超人間的世界の人間的な表現というのは、七つのチャクラに象徴される愛、知慧、力、自由などの究極の属性のこととして捉えることもできるし、人間がその社会的通念で共通に組み上げた言語体系の全くの埒外での表現となることもある。そうした一例は、ヤキ・インディアンのイーグルとか、トナールとかナワールという用語に見ることができる。

 

こうしたものを、月を指す指は月そのものではないと軽んじる向きもあるが、その指がいつか月そのものになっていることもあるだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-6

2023-02-09 03:16:53 | ダンテス・ダイジの風光

◎もともと神界であった自分に気づくこと

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[神界]

 

絶対それ自身、完全それ自身。

愛・智慧・力・自由それ自身。

宇宙意識・ニルヴァーナそれ自身。

神界以外に宇宙はない。現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎない。

 

あらゆる生命達が求めて止まぬそのものであるとともに、あらゆる生命達の本来の姿。

 

冥想が冥想を冥想していること。

 

もし冥想道に目的があるとすれば、神界とふれ合い・神界と一つになり、もともと神界であった自分に気づくことただそれのみだ。

 

そしてまた神界のここに

君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところに

神のドラマが始まる。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

神界とはニルヴァーナのことである。よって、ニルヴァーナの展開したものが現象界とか霊界とかである。だから世間で思っているような神界とは天国という意味ではない。

 

『君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところ』とは、天国と地獄の結婚、両性具有のことであり、あらゆる反対の一致が起こり、独存のニルヴァーナが戯れる。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-5

2023-02-08 03:33:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象界即神界の遊戯三昧

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[霊界]

 

ここには、どのような制約もなく、それぞれの仮現したルールにしたがって霊的イメージという現象宇宙の原型を作り出している。

ここには、天使も悪魔も、天国も地獄もある。

 

現象界のすべては、霊界の中にあるイデアが表現されたものであり、ここには、すべての現象宇宙の出来事が貯蔵されている。

心理的に言えば、集合的無意識に相当する。一切の超自然的現象や超能力が発現する場所である。

 

カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。

 

分断された自我意識を形成する原動力になっている霊的境域を地獄と言い、宇宙的愛そのものなる神界からのヴァイヴレーションによって成り立っている霊的境域が天国と呼ばれる。

 

冥想は、冥想者を、最終的には神界の住人にせしめる。神のみが実在だからだ。

 

そして自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現することとなる。

般若心経の色即是空、空即是色ということである。「空」とは神界のことであって、 断じて空々寂の空ではない。

 

「空」あるいは「絶対無」とは、これを情的に表現すれば、「愛」そのもの、「自由」そのものにほかならない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

ここは、結構思い切ったことが書いてある。霊界とは現実を構成していく元となる原型イデアだとか、空とは空々寂の空ではなく、ニルヴァーナの属性の一つである愛あるいは自由である、など。

 

霊界には、天使も悪魔も地獄も天国もあって、やがて現実に実現していく元のイデアの世界が霊界。プラトンのイデアとは、永遠不壊というイメージだが、その点には言及していない。永遠不壊は、七つの身体で言えば、第六身体アートマンだが、宇宙、世界、過去現在未来のすべてを含むアートマンにイデア界ありと見れば矛盾はないか?

ただし個別霊の世界は、コーザル体、メンタル体、アストラル体、エーテル体であり、ダンテス・ダイジの言うところの霊界とは、第六身体アートマン以下を総称しているようにも思う。

 

『カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。』ここは、人間Aが輪廻転生すれば、人間Aとして再誕するのでなく、人間A`として再誕するという彼の見方において、人間の本質的個別性を仮に人間Aと見ているのだろうと思う。また人間の本質的個別性が帰って行く世界はチベット死者の書などによれば、神(原初の光)である。

 

さらにカルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界とは、コーザル体以下なのだろうが、そうであれば、それらに永遠不壊の属性はなく、この点でダンテス・ダイジはどういうつもりで霊界を定義したのかわからないところがある。

 

分断された自我意識はどこから来るかと言えば、えり好み、多様な価値観から来るものであるし、見ている自分が最後まで残るところから来るとも言える。事程左様に、地獄的でなく天国を志向するというのは、現代人の生活と意識からすると簡単なことではない。

 

一方宇宙的愛を実現しようとすれば、天国と地獄の結婚を経て大悟せねばならない。天国を生きるハードルは結構高い。

そして天国と地獄の結婚を経れば、最終的には人は神界の住人として生きる(諸悪莫作衆善奉行)。

 

『自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現する』とは、類似のことを言っている人が他になく、確かめるすべがない。ただ、人は悟りを開いて、悟りに生きるということを言っているようだぐらいのことしかわからない。

 

そして、現象界即神界の遊戯三昧とは、色即是空、空即是色と言ってのけているが、これは自分が悟って追体験せねばその感じはわからないのだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-4

2023-02-07 03:51:12 | ダンテス・ダイジの風光

◎あらゆるものと一体である現象人間

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[現象界]

 

生老病死苦・愛憎・快苦の人間自我が編み出した妄想世界である。顕在意識と潜在意識に相当する。

 

迷える君は、この仮象なる世界を唯一の現実と見て、時に、権力欲に酔い痴れ、時に、疲れ果てて不安におののく。

 

この宇宙では、いつも君は一人ぽっちだ。 君は、一人ぽっちの空虚さから逃げるために有意義な活動と称するようなことをしようとがんばり、そしてまた空虚さにある自分に気づく。

 

冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。

 

君は一人ぽっちであると同時に、あらゆるものと一体である現象人間を生き始める。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

三つある宇宙とは、現象界、霊界、神界。それぞれの説明は、それぞれ独立した世界において悟りがあり得ることを示している。

 

現象界とは、生老病死苦・愛憎・快苦に翻弄される常識的な心理にある人間の生きる世界。

 

自分の願望、社会における自己実現を最優先に考えがちな自分は、うまく行っている時は、金や異性や権力の甘みに溺れ、うまくいかない時は、無駄なあがきを繰り返し疲れ果てて不安におののく。現象界を世界の唯一のものと考えれば、必ずそう思うものだ。

 

現象世界は、少々の天国的なものとほとんどの地獄的なものであると思い込んだ我々に、ここで、突然『冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。』などとハッピーエンドを語る。

 

この冥想体験とは悟りであって、未悟の者の冥想修行で起きるいろいろな状況のことではない。

ただし一般に、禅では、

(a)現象世界の夢幻性の自覚と

(b)現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 への変容

が一度に起きるが、密教などクンダリーニ・ヨーガ系では、(a)(b)が徐々に起こるという違いがある。

 

『修行場兼戯れの場』という表現は、既に神が神を神しているという状況だが、そこに『修行場兼戯れの場』と言える見方もありえるということだろう。

 

ここで、大悟覚醒は成ったが、『君は一人ぽっちである』と透徹した孤独感があることを示し(世界が自分だから、世界には一人しかいないからか?)、『あらゆるものと一体である現象人間を生き始める』

と、世界が自分であるという逆転を語る。ここで現象人間の悟りに至る道筋を説いている。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-3

2023-02-06 03:12:37 | ダンテス・ダイジの風光

◎知的理解の冥想

 

冥想道手帳の続き

『〔知的理解の冥想〕

 

どういうわけか、君は、生きる苦しみ、病気の苦しみ・老衰する苦しみ、死ぬ苦しみを持つ人間であると自分のことを思い込んでいる。

 

夢にも見たことのない素適な宇宙に君は、 今いるのに。

今ここで、君の知性を全身全霊の情熱を こめてフル回転させてみればいい。君は、

人間知性の絶対的限界を知る。そして、その絶対的限界の恐怖の中で、君は、君が、もともとなかったことに気づくだろう。その時、君は、夢にも見たことのない素適な宇宙である自分自身になっている。

 

君自身は、愛そのものだ。始めも終りもありはしない。

 

君は死なねばならない。妄想である君が死んだところに素適極まりない宇宙が悟りを開く。もっとも、その時には開かれるような悟りなぞ、どこにもありはしない。

 

君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。

 

冥想修行は、君を次の三つの宇宙を旅せしめる。宇宙が三つもあるものかといって大笑いする不死身の君には、この先を読む必要はあるまい。火星で酒でも飲んでいたらいい。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

人には、必ず生老病死があるものだと信じ、そのとおりに生きていることが多い。だが、全然そんなことはなく、目くるめく素適な宇宙に君は今いる、とショックを与える。

 

人間知性の絶対的限界の典型は、哲学の極みや禅の公案

代表的な公案に次の無字の公案がある。

『弟子が趙州禅師に「犬に仏性がありますか?」と質問をぶつけた。

趙州「無」。』

なぜそういう回答になるのかを何時間も何日も、知性を全身全霊の情熱をこめてフル回転させてみれば、人間知性の絶対的限界を知る。

その絶対的限界の恐怖の中で、自分が、もともとなかったことに気づく。本来の自己という、夢にも見たことのない素適な宇宙にいたことに気づくのだ。

 

それは、第六身体アートマンかもしれないし、人によってはその先の第七身体ニルヴァーナに届くかもしれない。

 

ここで唐突に『君自身は、愛そのものだ。』~『君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。』と愛について語っている。

ここまでは、悟っていない人が知性によりどのように悟って行くかを実地に具体的に述べてくれているところであり、とても貴重な語りの部分。

ところが、悟りを開くのは宇宙であって自分ではない。自分が悟りを開くわけではない。(自分が宇宙となるという、体験とは言えない体験。)

 

最近非二元、ノンデュアリティを語る人が多いが、自分が死なない非二元、ノンデュアリティはあり得ない。自分の死を語らない非二元、ノンデュアリティは偽物。※自分の死とは自殺のことではない(念のため)。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-2

2023-02-05 03:19:58 | ダンテス・ダイジの風光

◎一宗一派の中に冥想がある時代は終わった

 

冥想道手帳の続き

『【理解】

 

〔猫も杓子も冥想道〕

冥想が特別な何かである時代は終った。冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。

猫もシャクシも冥想を生きている。僕も君も冥想を生きている現在なのだから。

 

一宗一派の中に冥想がある時代は終わった。冥想の中にあらゆる流派があるのだ。

 

だから冥想道である。茶道、華道、武道、

香道などと同様に冥想道があるわけだ。

 

やがては、学校教育の中にも、体育の授業があるように冥想道の授業が行なわれることになろう。

 

宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。冥想道は、神なる人間のあるがままの営為である。

 

ある日、イエス・キリストが救世主の再臨なる使命をになって君達の前に現れる。

それまで馬鹿騒ぎをしていた君は、まったく無雑作にこのキリストに向って言うだろう。

「イエス君、そう深刻そうなかたいことを言うなよ。この世に救世主でないものなんか何一つないんだよ。」

 

それで、イエス・キリストは、君達の馬鹿騒ぎに加わって、ソーマ酒に舌づつみをうつことだろう。至福千年の一つの姿は、こんなものである。

 

釈迦という大嘘つきが世に出て来ては

世の人々を惑わするかな』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

就職して間もない頃の自分にとって、冥想は大切なものだという感覚はほのかにあったが、『冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。』と大上段に振りかぶられてそれを受け止めることができるほど、自分と世界の冥想を取り巻く歴史や経緯と生き方のことを承知していたわけではなく、冥想即人間に取り組めるほどの心理的な余裕も時間的な余裕もなかった。

 

これが、悟り即人間でなく、冥想即人間と言っているところが意味深長。

 

『猫もシャクシも冥想を生きている。』とは、来るべき至福千年においてのことだが、先行する現代において、自分も悟りを開けば、それを実感できるということが言外に隠されている。自分も悟れば、現代においても『猫もシャクシも冥想を生きている。』のだ。

 

とかく宗教と言えば、やや狂気をまとった聖者がリードする宗教団体に加入して信仰活動するイメージを持ちがちだが、冥想道は、そうではない。『宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。』とは、「冥想により悟りを開いて神を生きる人々が生きることがそのまま宗教である」と言っているに過ぎない。

 

要するに万人が最低でも神を見たり、仏を見たり、本来の自己に出会ったりするという体験とはいえない体験を経ている人々の時代の様を、ここで描いている。未来予言風に書いていないのは、現代において一人でも多く悟りを開いた人を出したいからなのだろう。

 

最後のイエス・キリストが友人達と馬鹿騒ぎをするくだりは、救世主は事実友人として出現するだろうということ。イエス・キリストが弟子たちの足を洗った故事の伏線をここで回収するのである。

 

またダンテス・ダイジには、アトランティス末期の言行録の救世主入門という本もあるが、それも連想される。

 

文末の『釈迦という大嘘つきが世に出て来ては 世の人々を惑わするかな』の歌は、一休宗純の『釈迦といういたずら者が世に出でて おほくの人を迷わするかな』を意識したもの。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-1

2023-02-04 03:36:50 | ダンテス・ダイジの風光

◎あくせくするのをやめたほうがいい

 

『冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジ』は、極く初期の弟子たちは持っていることがあるかもしれない、実践的冥想マニュアル。

 

私が最初に読んだときは、内容がぶっ飛び過ぎていて、あまり実際のメルクマールとしては使えないと思った。その後何年かに一度手に取ることはあったが、自分が大悟覚醒にそれほど近いとも思えなかったこともあり、内容についてあまり実際のこととして受け止めることはなかった。

 

冥想道手帳は、前半が理論の説明であって、後半が、呼吸法、マントラ、経文などの実践項目が列挙されていて、まさに冥想修行者が必携すべきメニューになっている。

 

ただし、理論編は、各人が見性、見仏、見神を経たいわゆる覚醒経験者であることを求めており、さらに地球以外での転生も想定内みたいな雰囲気のことも書かれてあって、いわゆる初心者用冥想マニュアルとして軽い気持ちで友人に紹介できるような内容のものではなかった。

 

最近七チャクラの意味についてまとめてみようとダンテス・ダイジ本を眺めていたら、冥想道手帳にその重要なヒントとなる内容があったことを発見した。たまたま冥想道手帳は、ネット未公開と思われるので、これを機会に紹介してみたい。

 

『冥想道手帳

 MEDITATION WAY MEMO

ダンティス・ダイジ

 

君の自分勝手な努力によって

絶対そのものに

到達しようとするなら

永遠の時間も短すぎる

誰れかが

絶対そのものに到達したためしはない

 

君の絶望そのものが

すでに君が

絶対そのものであることをしめしている

 

あくせくするのをやめたほうがいい

人間である君のすることなぞ

みんなガラクタばかりではないか

 

ダンティス・ポセイダン・アメンティー

アトランティス末期の説法より』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

これは、前文にあたる部分。

悟りは、人が到達するようなものではないから、誰も絶対(悟り)に到達したような者はいないと述べる。

人は真剣な絶望により絶対(悟り)に到達する。

 

さて1万2千年前、突如大陸が沈降して滅んだアトランティス文明を受けて、この近代西欧文明が勃興し、興隆し、滅亡して、至福千年の時代を迎えるわけだが、アトランティス文明滅亡前夜に、かの地の伝道チームが世界に散って、アトランティスの神的文明の精華を伝えると同時に、現代に起こる近代西欧文明の終焉と新たな苦しみも悲しみも叫びもない時代の到来を神話や古伝承などの形で予言した。それを意図したアトランティスである。

ダンテス・ダイジは、アトランティス末期の中心的覚者の一人だった。

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ダンテス・ダイジの七転生を探る

2022-10-13 18:12:59 | ダンテス・ダイジの風光

◎レムリアの愛人ナツノからスタート

 

それが他の人にとって意味のあることとも思えないが、ダンテス・ダイジは、地球では七転生と見られる。

 

最初はアトランティス以前のレムリア時代の4万8千年前のムー大陸。肉体はケンタウロスの外形であって、ナツノという名の高級娼婦として生きた。彼女は、聖王トースの何人かいる愛人の一人であって、トースはなかなか戻って来てはくれなかったし、ナツノ自身も覚醒してはいなかった。

 

アトランティスは3期あるそうだが、最初のアトランティスでは、悟りを求める求道者として一回。

アトランティス末期では、アトランティス密教の奥殿アメンティの13番目の超人として一回。ダンテスはこの当時の名前。

この時最後はアトランティス沈没直前にエジプトに脱出する。ギリシアも訪問する。

 

インドでクリシュナとして一転生。クリシュナはインド神話やバガバッド・ギータなどに広く登場。

 

中国唐代に一転生かも。

 

そして20世紀日本に一転生。布教期間は10年程度。彼を知っている人もまだ存命。

 

最後は21世紀にフロリダのビミニ沖に再浮上するネオ・アトランティスに出現予告(没後20年以上たっているから予告なのかどうか)。

 

これで合計7回。

 

中国での転生については、彼は中国では如意という名を用いているから私がそう思っているだけかもしれない。

 

日本の古神道では野立彦と彼は呼ばれているが、20世紀以前に彼の日本での転生があったわけではない。野立彦は、霊界物語の三神系の重要な役回りで登場してくるものの20世紀以前に日本での転生はなかった。

野立彦とはNODATEであり言霊返しするとこれはDANTEに返るのでダンテスに連なる。

 

聖者には2系統あり、まじめで組織引き締めタイプと遊び戯れるタイプ。彼は後者であり、後者に属するのは、荘子、一休、空海(あれだけ超能力使いまくるのは戯れの極み)、OSHOバグワン(コミューンを作ったが、信者ファーストで指導したという感じでもなかったような印象を受ける)、そしてダンテス・ダイジなどがいる。

 

ダンテス・ダイジは、自らの立ち位置を、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものと位置づけ、自分は神と悪魔とを止揚した「人間」だとする。

 

こういうことを言うと一般にはおどろおどろしい印象を与えるばかりでメリットは少ないし、かつまたこれが何を意味しているかを理解できる人間は、極めて少ない。

 

そしてダンテス・ダイジは、『すべてのものが、「愛」の流れの中で調和している世界こそ黄金文明である』と愛を中心に据えるが、あまりにも現代の諸相は愛から遠ざかってしまった。

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