歴史と言うと英雄が思い浮かぶ方も多いだろう。近年英雄中心の歴史の見方からの脱却が計られているとは言え、歴史とは人が作り上げていくものということに変わりはないように思う。多くの歴史好きの読者同様、筆者は「悲劇の英雄」に心惹かれることが多い。本稿では、フィリピンからスペインに送られたスペイン語の古文書などの中から浮かび上がってきた「悲劇の英雄」の一人を紹介する1。
スペイン植民地時代のフィリピンの都であるマニラ市の近郊には、福建省南部などから華人(中国人)がやってきて居住していた。華人はスペイン人来島以前からフィリピンに来ていたが、1571年にスペイン人によってマニラ市が設立されて以降急激に増加した。それまで厳しい海禁によって民間交易を禁じていた明は、16世紀後半からは東南アジアとの交易を認めていた。そうした背景もあり、17世紀初頭までには、マニラ市近郊は当時の東南アジアで最大規模の華人人口を抱えることになった2。彼らは交易をするだけでなく、フィリピンに居住して独自の共同体を形成し、手工業、商業、農業など様々な産業に従事していた。彼らは華僑3の先駆けとも言える。
さて、そうした状況の中で1603年、マニラ市近郊で、華人とスペイン人のすれ違いをきっかけに始まった華人の暴動は、華人を中心に2万人以上もの人々が亡くなる大惨事となった4。暴動のきっかけを簡潔に説明する。明の皇帝の命令でマニラに明の地方政府の高官たちが来たことを、明によるマニラ征服のための事前調査ではないかと疑ったスペイン人は、フィリピンの現地人やフィリピン在住日本人5の協力を取り付けるなど防衛を固めた。これが華人に、自分たちはスペイン人に殺されるのではないか、という恐怖をあおったことが暴動の始まりだった。この暴動の首謀者と言われるのが、当時華人の頭領をつとめていたエンカン(漢字名不詳)、スペイン語での名をフアン・バウティスタ・デ・ベラだった。スペイン植民地ではプエブロ(町)ごとに現地人の頭領がいた。華人の頭領もこれと類似する存在で、キリスト教徒華人から選ばれ、徴税や簡単な裁判を行ないスペイン人と華人を仲介した6。
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