慶應義塾機関誌

 三田評論
  明治31年3月創刊(毎月1回1日発行)
   発行:慶應義塾 編集人:慶應義塾広報室長 編集・制作:慶應義塾大学出版会

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  慶應義塾史跡めぐり    
     
  第75回──三田評論 2013年1月号    
 

文学の丘(その三) ── 小山内薫胸像

 
 
 
     
  大澤輝嘉(慶應義塾中等部教諭)  
     
 

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築地小劇場跡

 

 薫は大正元年から二年にかけてのロシア、ヨーロッパ外遊を経て、モスクワ芸術座のスタニスラフスキーとドイツ座のラインハルトの影響を受け、自由劇場の仕事のほかに、市村座の幕内顧問、松竹キネマ研究所長を経て、『劇と評論』を創刊した。

 

 

 大正十三年六月十三日、関東大震災の報を聞いて演劇研究のため留学していたドイツから急遽帰国した土方与志と共に、薫は京橋区築地に日本初の新劇の常設劇場であり、劇場の専属劇団でもある、築地小劇場を開設した。「演劇の実験室」、「演劇の常設館」、「理想的小劇場」をモットーとした劇場は、建坪二百六十四平方メートル、ゴシック・ロマネスク様式の平屋の建築物で、漆喰の租面は鼠色一色に塗られていた。正面の真ん中に三つのアーチがあってそのうちの二つが観客の出入り専用で、右側のアーチは壁になっていた。客席は四六八席。舞台背後の上部がドーム状に湾曲したクッペル・ホリゾントを完備し、可動式の舞台や電気を用いた世界初の照明室を備えていた。旗揚げ公演は、薫演出のチェーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」、そして土方演出のゲーリングの「海戦」の三作品であった。

 

 

 薫や土方らは、歌舞伎の伝統からまったく離れた思想の器としての写実的演劇をめざし、演劇革新の狼煙を上げたのである。築地小劇場はその拠点であり、専らゴーリキーやチェーホフなどの戯曲の翻訳劇や、創作劇を実験的に上演した。小劇場は薫の急死の翌年、新築地劇団と劇団築地小劇場とに分裂し、解散。貸し小屋となった劇場自体は昭和九年の改築を経て、左翼演劇の拠点になったが、戦争体制の深化した昭和十五年十一月に国民新劇場と改称し、同二十年三月十日の東京大空襲で焼失した。現在跡地には、昭和五十二年に日本演劇協会によって建てられた、有島武郎の実弟で作家の里見?の揮毫・碑文による記念碑がある。劇場正面を模ったレリーフの下に「築地小劇場跡」の揮毫、碑文には、「大正末から昭和にかけ、新劇の本據として大いにその發展に寄與した。戦災で焼失」とある(中央区築地2の11の21 NTTデータ築地ビル)。

 

 

海水館跡

 

 海水館は、明治三十八年に坪井半蔵によって、京橋区新佃島に建設された割烹旅館兼下宿である。建坪一三〇坪の二階建てで、部屋数は二十四あった。明治二十九年に新佃島が造成された後、この辺りは東京湾に臨み房総を一望におさめ得る景観に恵まれた、松林の多い閑静な場所であった。海に向かってせり出した部屋からは、釣りを楽しむことができたそうである。

 



海水館跡

 

 この環境を愛して薫をはじめ、島崎藤村、木下杢太郎、市川左団次、三木露風、吉井勇、久保田万太郎、竹久夢二、日夏耿之介らの文人がしばしば集い、滞在した。薫は海水館に止宿し、明治四十二年から四十四年にかけて『大川端』を執筆し読売新聞に連載した。『大川端』に出てくる主人公小川正雄は、眞砂座のあった中洲の「新布袋屋」という料亭で暮らしたことのある若い演劇人で、薫自身がモデルではないかと言われている。建物は大正十二年の関東大震災で全焼した。隣接地に玄関先の石畳が移築され、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部が昭和四十三年に建立した記念碑がある(中央区佃3の11の19)。

 


 

「カフェー・プランタン」

 

 明治四十四年三月、京橋区日吉町(現在の中央区銀座八丁目五番から同六番までの地域)に、洋画家松山省三と平岡権八郎が、日本初のカフェ「カフェー・プランタン」を開店した。パリのカフェのように文化人が集い芸術談義を楽しむサロン的な場所を標榜し、建物は銀座煉瓦街のものを改装したものであった。相談役の薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名し、看板も書いた。森?外、永井荷風、北原白秋、谷崎潤一郎、岡本綺堂、島村抱月、菊池寛ら多くの文化人が会員や常連客となった。

 

 

 関東大震災で煉瓦造りの建物は倒壊し、一時期、牛込区牛込神楽坂(現在の新宿区神楽坂一丁目から同三丁目までの地域)に支店を出した。本店は震災後、日吉町の東側、銀座通り沿いの南金六町(現在の銀座八丁目七番地から同一〇番地までの地域)に移転した。その後も営業を続けていたが、昭和二十年三月の東京大空襲で焼失した。

 

 

 

胸像

 

 薫の胸像は、昭和三十三年歿後三十年を記念して、その友人門弟たちが相寄って薫を偲ぶ縁として、朝倉文夫に依頼して作ったものである。その年の十二月二十五日、薫の三十回目の祥月命日に完成した。問題は胸像をどこに置くかということで、ひとまず歌舞伎座に預けられ、その別館の売店前におかれていた。

 

 だが、本来歌舞伎座の人でない薫の胸像が安置される場所としては相応しくないとのことから、関係者で協議の末、もっとも縁故の深い三田に移されることになった。昭和三十九年八月一日、西校舎と第三研究室棟の間に、谷口吉郎の意匠の台座に乗せられ設置された。この場所は、築地小劇場の旗揚げの発端となる講演会場であった大講堂の跡地に近いということから選定された。大学院棟の建設に伴い、昭和五十九年に現在の場所に移設された。

 

 また、義塾図書館には、六〇〇〇冊もの小山内の旧蔵書や演劇関連の絵葉書七〇〇点の他、築地小劇場創設のポスターなどの遺品六五〇点を含む「小山内文庫」がある。これらは三田文学関係者である水上瀧太郎、水木京太の斡旋で購入したものである。

 



築地小劇場跡記念碑

 

 

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三田通り周辺


2015年8・9月合併号掲載

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2015年7月号掲載

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2015年4月号掲載

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2015年2月号掲載

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2014年10月号掲載

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2013年10月号掲載

第82回
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──空気はよし風俗は朴素なり


2013年8・9月号掲載

第81回
みちのくの史跡を訪ねて
──能代・弘前・木造


2013年7月号掲載

第80回
紀州和歌山と義塾の洋学


2013年6月号掲載

第79回
福澤先生と演劇──三つの劇場と三人の歌舞伎役者


2013年5月号掲載

第78回
ヨネとイサム・ノグチ──二重国籍者の親子


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